Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回は、茶木谷吉信先生
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
を通して勉強していきます。
…いつもと違う、ブログ書き出し…(笑)
実は、前回ブログの「冒頭」で、次のように述べました。
最近、
他者様の「YouTube文字起こし」ばかり公開しております。
前回記事の【冒頭】で、
このブログが、完全に
自己学習➡自己満足の場(=自己満足ブログ)
化してしまったことを、
やや自虐的に振り返りました。その後、あれこれ考えましたが、
どうやら、私には、
「読者ファースト」
の記事を作成する能力には恵まれてなさそうだ、
という思いが強くなりました。しかし、
読者ファーストでない記事を
公開してはいけないという法はない。いつ閉鎖するかわからない当ブログですが、
今のところは、もう少し続けてみよう…
と思っております。当ブログPV(ページビュー)はごくわずか。
という姿から分かる通り
(それでも、初期に比べると増えました、ご訪問下さった皆さま、ありがとうございます)
現時点で当ブログ、
世のニーズに応えられる情報発信ができていない…
それを踏まえて、
当ブログの主旨を変更することにしました。これまでは、一応、
「何かしら世の皆様に役立つと思われる情報があれば少しずつ発信していきたい」
という『建て前』を掲げて、当ブログを運営してきました。
しかし、今後は、
「実際の状況」に合わせる形で、
このブログを、私(さまよい人)の
「自己学習➡自己満足の場」=自己学習の足跡を公開する場所、
と位置付けたいと思います。その理由は、
最近、特に、
‶自己満足で申し訳ない”
的な 「無用な罪悪感」をあちこちに漂わせて、
まわりくどい表現が多くなってしまっていた、
という反省に基づくものです。当ブログのサブタイトルは
前回記事(脱「苦労依存症」~「勝間和代の、我慢・苦労・努力依存症に注意しよう」)より
「彷徨う新米教会長のブログ」ですが、
(実際にサブタイトル変更するところまではしませんが)
今後は、
「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」
という感じでやっていきたいと思っております。
というわけで、
ちょっと冒頭の「書き出し定型文」を変更した、という次第。
これからしばらくは、
今回記事で使用した冒頭の定型文を使ってみようかなぁ、
と思っております(笑)
今回は、茶木谷吉信先生【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズの続き。
今回、紹介【文字起こし】するYouTube動画は、
茶木谷吉信先生【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズの続きで、
養徳社運営「陽気チャンネル」の中の
「【逸話篇の世界を旅する10】茶木谷吉信・正代分教会長「月のものはな、花やで」」
という動画です。
「天理教教祖伝逸話篇158『月のものはな、花やで』~これってフェミニズム?」
というタイトルがつけられた茶木谷先生講話の動画を【文字起こし】します。
今回の動画で、私は、
「おやさまのご逸話を、
現代の尺度を物差しにして考える危険性」
について学びました。
今回記事においては、
「道と世界の隔たりを乗り越えるような
先進的な活動においては、
無意識のうちに、
ご教理を我田引水的に活用してしまう
潜在的な危険性がある」
という「さまよい人」の学びを綴ります。
今回紹介する動画について
今回、紹介【文字起こし】するYouTube動画は、
陽気チャンネル>
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
>【【逸話篇の世界を旅する10】茶木谷吉信・正代分教会長「月のものはな、花やで」
という動画です。
動画公開日: 2021年5月15日
動画概要欄:「『月のものはな、花やで』こう優しくお説きになった教祖。当時の女性たちにとっては救済の言葉であったはずだが、講師の胸にはある疑問が浮かんでいた。その疑問とは?」
この動画を新しいタブで視聴したい方はこちらからどうぞ↓
https://www.youtube.com/watch?v=MncDsODVw0M
それでは、茶木谷吉信先生のYouTube講義を
【文字】で勉強していきます。
茶木谷吉信先生講話「天理教教祖伝逸話篇158『月のものはな、花やで』~これってフェミニズム?」【YouTube文字起こし】
皆さん、こんにちは。
今日も楽しく、おやさまのご逸話を、
一緒にいろいろ考えながら、
お勉強したいと思います。今日取り上げるご逸話は、
158番「月のものはな、花やで」っていう、
こういうご逸話を、
今日は取り上げたいと思います。
『天理教稿本教祖伝逸話篇』158「月のものはな、花やで」のご逸話紹介
まぁ、いつものように、
まずは、このご逸話を味わってみてください。
どうぞ。***************************
158 月のものはな、花やで
ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、
「利八さん、外の方を見ておいで。」
と仰せになった。その頃は、警察の取り締まりの厳しい時であったから、
それについての仰せと思い、
気を付けて、辺りを見回ったが、誰もいない。それで、もどって来て、
「神さん、何んにも変わりはありゃしません。
向こうのあの畑には、南瓜がなっています。
この畑には、茄子が沢山出けました。」と申し上げると、教祖は、膝を打って、
「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。
大きい実がなっているが、
あれは、花が咲くで実が出来るのやで。
花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。
そこで、よう思案してみいや。
女は不浄やと世上で言うけれども、
何も、不浄なことありゃせんで。
男も女も、寸分違わぬ神の子や。
女というものは、子を宿さにゃならん、
一つの骨折りがあるで。
女の月のものはな、花やで。
花がのうて、実がのろうか。よう、悟ってみいや。
南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。
むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、
花なしに実のるという事はないで。
よう思案してみいや。
何も不浄やないで。」と、お教え下された。
***************************
ハイ。いかがでしたか?
このご逸話は、すごく、何と言いましょうかね、
女性に対するね、お話なんです。
このご逸話が「男女平等・人権啓発」の話とされることに対しての問題提起
女性のことについてのお話で、
寸分違わぬ神の子や、
というふうなお言葉が出てくるんですけど、
まぁ、これ、まぁその、今で言うところの、
男女平等とかね、人権啓発とか、
そういうことをおっしゃっているのかな、
というふうに受けとめられがちというか、
受けとめられているんですけれども…、
今日、実は、私は、
皆さんの方にちょっと問題提起したいのは、
本当にそうなのか? ということを、
ちょっと、問題提起してみたいな、
と思っているんです。で、女性に特有の、ことですから…ねぇ、
中には、ひょっとしたら、
男のくせに何が分かる、と…(笑)、
おっしゃる方がおいでになってですね、
私、今日、ひょっとしたら、
全ようぼく、全天理教信者の、
女性の方を敵に回してしまうかもしれない(笑)
と…いうふうにも、ちょっとね、
不安におびえながら…(笑)
何よ、男のくせに何がわかるんだよ、
って思われる方もおられるかもしれません…。
でもね、今、そう思われた方。
あなた。ね。あなたは、逆に言えば、
「女のくせに何がわかる」って言われても、
怒っちゃダメですよ。そうですよね。ハイ。だから、お互い、やっぱり違うもんですから。
これは、もぅ、
お互いがお互いのことを思いやってですね、
やっぱり、こぅ…、
こう じゃないかな、あぁじゃないかな、
と思って、やっぱり想像を働かせていく。
そこから思いやりっていうのは、
やっぱり生まれてくるんじゃないか、
って僕は思っているので…。やっぱり…、例えば、うちの娘なんかでもね、
生理痛がやっぱり…、こぅ、
きつい子がいるんですね。
だから、やっぱり、大変やなぁ
って…思うんです。
女性、大変やなぁ、っていうふうに…
想像するんですけどね。そうやって、こぅ、
お互いのことを想像し合いながら、
やっぱり、このご逸話は、
読んでいかなければならない、
というふうに思っているんです。
日本女性がどのような扱いを受けてきたか
まぁ、ここでですね、少し、
女性に対する、 日本の、今までの、
まぁ、伝統文化と言いますか…、
そこで、女性に対して、
どういうふうな扱いをされてきたのか、
っていうことを、
ちょっと振り返ってみたいと思うんですけど…やっぱり、女性っていうのは、
虐げられてきましたね、やっぱり…。
大事にはされていた部分もあるんです、実は。
…日本の文化の中にはですね。でも、やっぱり、全体的に言えば、
やっぱり、どちらかといえば、
不浄である、
っていうふうに言われてきたんですね。
なぜ、不浄である
っていうふうに言われてるのか、
っていうと、やっぱり、その、
血が不浄だという、
やっぱり思想があるんです。で、そこからですね、やっぱり…
月に一度、やはり、その、
生理があるということに対しての、
やっぱりその…、 女性が不浄である、
ということを言われてて、それが故にですね、
女性が、今でも立てない場所ってあるんですよ。ハイ。
女性であるが故に立てない場所。身近な所では、大相撲の土俵の上です。
あそこは、今でも、女性は立つことができません。
それから、これ…
2017年世界文化遺産に指定された
福岡県の隠岐の島っていう島があるんです。
ここ…、これはですね、
宗像大社の沖津宮(おきつのみや)=「おきつぐう」
っていうふうに言われてます。
ここも、実は、女性は入れません。
だから、そういう文化、
未だに、やっぱり残っているんですね。やっぱそれぐらい、やっぱり、こぅ、その、
女人禁制っていうのがね、
今でも残っているっていうぐらい…。だから、当時のこととて、やはり、この、
血は不浄であるっていう(思想は昔からある)…。
だから、当時は、座産って言いましてね、
こぅ…、お産をね、今みたいに、こぅ…、
寝てお産をするんじゃなくて、
座ってお産をしていて、
後ろに、俵みたいな、こういう…、
もたれものって言うんですけどね、
後ろにもたれながら、
上から、「力綱」っていうのにぶら下がって、
お産をしていたっていう…これ、実はですね、面白いことに、
現代の産婦人科の医学の知識では、
実は、こっちの方が安全なんじゃないかっていう、
説もあるぐらい…(見直されてきてはいますが)、
実は、すごく…
(現代から見ると、日常から遠ざけようとする思想に基づいた姿だと言えますよね)それがいけないってことじゃないんです。
いけないってことじゃないんだけれども、
やっぱり、その、一つの骨折りがあるって、
おやさまが、さっきおっしゃいましたよね。
一つの骨折りがあるが故に、
それが不浄であるって言われるのは、
ちょっと私は、納得できない、ね。
(私は)男性ですけど…。
骨折りがあるのに、それを…
それが故に不浄であるって言われている、言われていた、
っていうのは、私は、もう本当に、
それは納得いかない…、
と思っているんですね。だから、お産が終わってね、
ある一定の期間は、お宮参りもできないし、
場合によっては、座敷にも上がれない。
で、座産っていうのも、
これも、座敷で座産できる女性は限られていて…。で、まぁ、それほど裕福でないお宅の女性は、
やはり、座敷じゃない、土間みたいな所にね、
筵を敷いて、そこでお産をしていた。
非常に衛生状態、悪いですよね。ハイ。
だから、衛生状態悪いから、そこで、バイ菌が入って、
産褥熱っていうのに苦しんで、
やはり、母子共々ですね、命の危険にさらされる、
というのが、当時のお産であったわけです。だから、当時、もぅ異常なぐらい、やっぱり…、
子どもの平均寿命って…、平均余命ですね、
もぅ、子供さんが、やっぱり、こぅ…、
ちっちゃい頃にやっぱり亡くなってるんですね。
生まれてすぐに亡くなるとか。
あるいは、女性も、それがために命を落とすとか。まぁ…そういうことも、やっぱり、よくあった話で、
やっぱりお産はね、女性の、女の大役である、
っていうふうに、こぅ、
言われていた時代のお話なんですね。
このご逸話を「男女平等+人権啓発」の話だとすることの引っ掛かり
で、このお話…、まぁその、一番最初に言いました、
男女平等、人権啓発のご逸話だっていうふうに
言われているんだけれども…。
なぜ、私がここで引っ掛かったかっていうと…、私は、逸話篇…、これ、
この本 (『世界たすけに活かすおやさまご逸話』=自著)
読んで下さい(聴衆から拍手)。
これね、ぜひ買ってください(笑)。
これ面白い(ですよ)、自分で言うのも変だけど…(笑)これにね、私、いつも書いてるのは…。
私、いつもね、疑問に思うんです。
疑問に思うっていうことは、
すごく大事に、僕、したいんです。逸話篇を読んでいて、
やっぱり疑問に思う事っていうのは、
それは、無理やり納得させるとか、
そういうのじゃなくて、
疑問は疑問として、大事にとっておくことが、
僕は、すごく大事だと思っていて…。
それが、ある時、
ふっと疑問が解ける時があるんです。
その瞬間が楽しいんです。で、まぁ、今回、この逸話で疑問に思ったのは、
おやさまはですね、なんで…
これね、おやさまが、後の、これ、
『おさしづ』の中にあるんですね。「ほん、何でもない百姓屋の者、何にも知らん女一人」
…中略します。
「女のところ、入り込んで、理を広めるところ、
よう聞き分けてくれ」
っていう、こういう、
明治21年1月8日の『おさしづ』があるんですけれども…この『おさしづ』っていうのは、まぁ、
「おやさまの魂の特殊性」といいますかね、
それを、まぁ、現わすための、
「ほん何でもない」この「女一人」
っていうのところに力点があるんじゃなくて、
「おやさまの魂が違うんだよ」っていうことを、
お示し頂いたた『おさしづ』なんですけれども…でも、この中に、やっぱり、
「何にも知らん女一人」と、
「女のところへ入り込んで、理を広める」
っていうふうに書いてありますんで、
やはり、これやっぱり、私は、その…、
こぅ、そういう、女性が、非常に、何と言いますかね、
地位が低かった時代に、やっぱり、こぅ…
こういうふうに、
女性が言ってるんだっていうところもね、
やっぱり、これ、
これから読み取っても、悪くないんじゃないかって、
私、個人的には思っているんですね。
おやさまが、この話を高齢男性に説かれたのはなぜか
で、このご逸話。
私、何に疑問を持ったかって言うと…、だって、これ女性に対するお話ですよね。
普通は、女性にしますよね、こんな話って。一番、悩み苦しんでるのは女性なんだから。ね。
「お前ら、ね、月のもの、骨折りがあるやろ?」って。ね。
「でも、月のものは、花やで」っていうふうに、
「だから、何も、不浄じゃないよ」って言うのは、
普通、女性 に言う、と思うんですね。ところが、これ、誰に説かれているかって言うと、
山本利八先生に説かれています、このご逸話は。ここに、私、引っ掛かったんです。
エッ、 なんで? って思ったんです。なんで?
この、山本利八先生は、
山本利三郎先生のお父様です。
当時、まぁ、
生まれた年から逆算していきますとですね、
65歳から66歳ぐらいのお年であった、
というふうに想像できます。なんで、この人でしょう?
女性に対して、おっしゃったご逸話は、
他にもあるんです。
例えば、112番「一に愛想」とかですね。
これは、「よっしゃんへ」っていう…、
「女はな、一に愛想」 という(話を)、
女性に対して語っている。だから、これも、女性にお話いただいても、
全然、不自然ではないんだけど…。
なんで、これを、わざわざ山本利八先生…、
しかも当時の、その常識が染み付いた年代である、
65、66歳の…、まぁ、いわば…、
もぅ、当時で言えば、もぅ老人ですよね。
この方に、なぜわざわざ、この話をなさったのか。
ここに引っ掛かったんです。で、私、いろんなことを考えたんですね。
ひょっとしたら、それこそ、
本当、人権啓発のね、思いで、
「お前な、そういうふうに思ってるかもしれないけれども、違うよ」
って、
「男も女も寸分違わぬ神の子だよ」
っていうふうに、この…、
そういう常識が染み付いた年代に、
わざわざお取次ぎになったのかなぁ、
と思いました。でも、私ね、どうしても、
それ、違和感があるんです。
その違和感、なぜ、どこに…、
なぜ、そういうことを考えるかっていうと…、
分かりやすいかどうか分かり ませんけど、
ちょっと例え話をね(します)…。月のものはな、って言うぐらいだからね、
ちょっと、月をね、ちょっとモチーフに、
ちょっといろいろ、たとえ話を考えてみた(んです)…。月にウサギはいるか? って話なんです。
何かとんでもない話を尋ねしますけど(笑)。
月でウサギが餅つきをしているように見える「たとえ話」を用いての考察
月って、ホラ、
うさぎの模様があるわけでしょ、あそこに。
ありますよね?あれ、うさぎに見えるのは、人間なんです。
あれ、わざわざ、
うさぎに見えようと思って作ったわけじゃないんです。
あれは、自然なんです。
自然に、何か隕石か何かがぶつかって、模様ができて、
それがたまたま、地球から見た時に、
ウサギが餅ついているような図柄に見えた、
っていうことで、
月にウサギはいるっていうふうな、
おとぎ話ができちゃったんですけどね。これに、僕、似てると思うんです。
おやさまは、果たして、その、この…
男女平等、人権啓発のために、
この話をなさったのか?私は、そうではないと思うんです。
こぅ…、実は見えているのは、
人間が、あたかも、月を見てウサギに見える、
っていうふうに言っているだけに過ぎないんじゃないか、
と思ってるんです。そこにあるのは、ごく自然の、
おやさまのお考え、
おやさまの親心しかないんじゃないか、
と、僕は実は思っていて…だから、その、なぜ、じゃあ男性にしたのか、
って話なんですけど…。
私は、実は、男性にだけされたのではない、
と思っているんです。
これは、もう、寄り来る子どもたちみんなに…、
「あのな」って、
「 女のな、月のものはな、花やで」っていうふうに、
誰彼となく、私は、お話をされていたと思うんです。
これは、ごく自然な、おやさまの親心です。あと、我々が、あたかも、月を見て、
ああ綺麗やなぁ、お月さんに見えるなぁ、
と思っても…、やっぱり、 こぅ…、
月は月、そのままの自然の形ですからね。
おやさまの親心も、自然の親心なんです。それを、例えば、女性が聞いたとします。その話を。
女性にとってみたらね、
もう、こんな嬉しい話はない、と思うんです。世間から、もう、ほんと…、もぅ、
女や女やって言われて、もぅ、こぅ…、
それにジ~っと耐えながら暮らしている当時の女性たちが、
「あんたらなぁ」って、
「女の月のものはな、花やで」って、
「不浄なんかやあらへんで」って、ね。もう、そういうふうに言われた時に、
女であることの喜びを噛みしめて、
「そや! 」「そや! 」って、
当時の女性はね、心に、やっぱり、
それを思ったと思うんですね。でも、当時の女性が、
「今、おやさまから、ね、女性は不浄じゃないと聞かされました」って、
「私は、寸分違わぬ神の子です」って、
吹聴して回ったかって(いうと)、
それも、私は違うと思うんですね。当時の女性のたしなみとしては、
やはり、それは、じっと自分の心の中に、
喜びをグ~っと噛みしめたまんま、
あぁ~っ…(と)、
女性であることの喜び、幸せを、その、
グ~っと、こぅ…「嗚呼、おやさま! 」っていう思いで、
感じていたと思うんです。ところが、同じ話を、男性が聞いたとします。
これ、びっくりしたと思うんですね。
「女は不浄じゃないって、初めて聞いた。そうやなぁ! 」って。すごくやっぱり、山本利八先生はそれに驚かれて、
すごく、何かこぅ、啓発されたと思うんですね、
やっぱりこぅ…。
ウゥ~ッと、もう目から鱗が落ちたと思うんですね。「おやさまからなぁ、今、こんな話、聞かしてもうたでぇ! 」って。
「我々が思てるのは違うよ! 」って。いうふうに、
この先生が、誰彼となく、これを言うたら、
そのお話は、当然、逸話として残る時は、
山本利八先生のお話として、我々に伝わってくる。
私は、そういうことじゃなかったのかな、と。これはもう、完全にすいませんね、
もう、私…、私の、完全な想像の世界ですけど。そういうふうに考えることで、
私は、やっぱり…、あーなるほど、
っていうふうに、得心がいったんです。
なぜ、山本利八先生にお話をなさったのか
っていう (ことについて)。だから、私は、これは、一つの、
なんて言いますかね、一つの、まぁ、さっき(の)、
月にウサギがいるかっていう話
(につながる話)なんですけども、
「月にうさぎがいるかどうか」って…(笑)、
月にウサギに見えたからといって、
それは「あれはウサギやで」って
(主張するのは論理の飛躍がある)。それから発展してですよ、
月にウサギがいるとかね、
そういうおとぎ話が生まれてきたら、
それはもう、全然、
事実と違う話になってくるわけですね。
おやさまのご逸話を、現代の尺度を物差しにして考える危険性
だから、時々ね、
天理教の中でね、その辺をね…、
微妙なとこなんですけど、
誤解なさっている方がおいでになるんです。おやさまは人権啓発家であったとかね、
おやさまが説かれたのは民主主義である、とかね。そういうことをね、やっぱり、
言う方おいでになるんだけど、
これ、非常に微妙な問題なんだけど、
実は、そうではないんじゃないかと、
僕は思ってるんです。実に、おやさまというのは、
本当に、親心いっぱいに溢れたお方で、
それが、たまたま、我々の目から見たら、
人権啓発、男女平等に見えるけれども、ね、
お月様を見たら、それはウサギに見えるけれども…。
それはそれとして、人間の受けとめ方として、
それはオッケーですよ。確かに、おやさまは、そういう、
男女平等の話、人権啓発の話、
と受けとめられる話を、
たっくさん残しておられますから…。それを見て、あ、やっぱりそうなんだな、
と思うのは、全然問題ないんだけど、
それが独り歩きをして、
月にウサギがいる、っちゅう話になった時に、
あ、それはちょっと違うんじゃない?
って、僕、思うんですね。この辺、非常に大事なところだから、
私は、おやさまのご逸話、あるいは、
おやさまの親心っていうのを考える時には、
やっぱり、その、
現代の尺度を物差しにして考えるということの、
ちょっと危なさっていうかな、
そういうことをちょっと、私は感じていて、
おやさまの親心は、もっとダイナミックに、
もっと大きく、私たちを包み込むような、
そういう親心という視点を、
絶対、忘れてはいけないんじゃないか、
っていうふうに、実は、私は思っています。『おさしづ』をね、もしも(気になったならば)…
(陽気チャンネル>【逸話篇の世界を旅する10】茶木谷吉信・正代分教会長「月のものはな、花やで」より)
紐解いてみてください。
「男女言わん」「男女(おとこおんな)言わん」
「男女(おとこおんな)隔てない」
「男女(おとこおんな)によらん」
っていう、お言葉が出てくる『おさしづ』は、
たっくさん残っています。
ぜひ『世界たすけに活かすおやさまご逸話』の本を読んで下さい
ぜひ、この…、
そういうことも、お勉強なさって、こぅ…、
逸話を味わってみたら、
また違う、逸話の味わい方ができるんじゃないか、
と思っていて…、
まぁ、そういう話が満載の本です… これ
(と言って『世界たすけに活かすおやさまご逸話』の本を掲げる)(笑)ぜひ、私と一緒にね、これを読んで頂いたら、
私と一緒にお勉強しているような、何か感じがして、
私は、何か、お友達が増えたような気がして…、
とっても嬉しいので、
ぜひ、まだお読みになってない方は、
Amazon に売ってまーす (笑)。ハイ。
Amazon で買えます。ハイ。
ぜひお買い求め頂いて、私と一緒にお勉強していって、
また気づいたことがあったら、
私にどんどん言って下さい。
また、私、それを一緒に考えていきたい、
っていうふうに思っています。ハイ。今日は、このご逸話 、
「月のものはな、花やで」 っていうお話から、
いろんなお話、ちょっとしてみました。また、次回も、お会いしたいと思います。
楽しみにお待ち下さい。今日はこれで終わります。
(陽気チャンネル>【逸話篇の世界を旅する10】茶木谷吉信・正代分教会長「月のものはな、花やで」より)
ありがとうございました。
「おやさまのご逸話を、
現代の尺度を物差しにして考えるのは危険だよ」
というお話でしたね
茶木谷先生の【逸話篇の世界を旅する】シリーズでは、
毎回、
『天理教教祖伝逸話篇』の中のお話を一つ取り上げて、
それを元に講義して下さいます。
そしてそれは、
取り上げる「ご逸話」の内容そのものだけでなく、
というよりむしろ、
そのご逸話に関連した登場人物の歴史や当時の社会情勢等々の、
ご逸話『周辺』が中心のテーマであることが多く、
ご逸話に別角度からの光を当てて語るものとなっています。
茶木谷先生の【逸話篇の世界を旅する】シリーズを視るたびに、
そういう切り口で考えるのかぁ、
その切り口から見てみるとそういう意味があることに気づけるのかぁ…
と、本当に、勉強になることだらけです。
動画を視聴しての感想
今回、
【逸話篇の世界を旅する10】茶木谷吉信・正代分教会長「月のものはな、花やで」
という動画の中で、茶木谷先生は、
このご逸話を、
単なる「男女平等+人権啓発」の話だとすることには
「引っ掛かりを覚える」、
ということを述べられました。
私などは単純に、このご逸話は、
おやさまの教えが
普遍的価値観に基づいたものであることを示す、
まさしく、時代を先取りしたエピソードの一つ、
ぐらいにしか受けとめていませんでした。
素晴らしい話だと感嘆するのにとどまって、
茶木谷先生がこのご逸話に
「引っ掛かりを覚えた」
という事実をお聴きして、
このお話からそこへ発想が飛ぶのか…
と、逆に驚きを感じたほどでした。
そして、茶木谷先生は、
このご逸話は「普遍的価値観」に基づいた
先進的なエピソードであることは間違いない。
しかし、おやさまが、
その「普遍的な価値観」を広めることを主たる目的として
「意図的に」語られた、
というふうに考えるのは、
ちょっと我田引水に思える、
と話して下さいました。
‟確かに”
と、私は大いに共感いたしました。
この道は、おやさまが、
世界の人々の「真のたすかり」を説かれたもので、
それは「親心」から発せられた御教えである、
と私達は聞かされています。
とするならば、
積極的に男女平等や人権啓発の活動に
携わっておられる方々からすると、
(それこそが真のたすかりのための重要な条件だと考えるわけですから)
男女同権、人権啓発の活動こそが「親心」の中心だ、
と考えたくなるのも無理からぬ話だという気がします。
しかし、おやさまのお話は、
そのように限定的な範囲の中で語られたものではなくて
(決してそれが間違っているというわけではないけれど)、
とにかく純粋に、
ただただ子どもが可愛いという思いから湧き出た、
大きな「親心」に基づくものだ、
というふうに、
大きな視点を持って受けとめましょう、
という茶木谷先生のご指摘。
茶木谷先生のご指摘を聴いて、
それを元に、私なりの言葉でまとめるならば、
以下のようになるでしょうか。
自分が現在地にとどまって、
その現在地の条件に合致する「神様の教え」を
【取り込もう】とする姿勢では、
「真のたすかり」には至れない。
大きな親心に基づく
絶対的な「神様の教え」の地点は
(自分の現在地とは異なる場所に)あるのだから、
自分の方が(現在地から)移動して、
そちらの方へ歩み寄っていこうと努めることで、
「真のたすかり」に近づける。
私は、今回の茶木谷先生のご講話から、以上のような学びを得ました。
まとめ(今回の動画からの学び)
【茶木谷吉信先生
「『月のものはな、花やで』ご逸話をめぐって」
ご講話からの学び】
- 「月のものはな、花やで」という、
おやさまのご逸話は、
時代を先取りして、
男女平等・人権啓発について語られた、
当時としては画期的なお話である。
- しかし、時代を先取りして、
おやさまがそうした
普遍的な価値観を広めようとされた、
と主張することは、
(間違いとは言えないが)
慎重であるべき。
- 道と世界の隔たりを乗り越えるような
先進的な活動においては、
無意識のうちに、
ご教理を我田引水的に活用してしまう
潜在的な危険性がある
ということに留意すべし。
- おやさまのお話は、
そのような限定的な範囲の中で
語られたものというよりも、
とにかく純粋に、
ただただ子どもが可愛い
という思いから湧き出た
大きな「親心」に基づくもの、
というふうに、
大きな視点を持って受けとめたい。
- なぜなら、
限定的な範囲の中で
おやさまの教えを考えると、
自分が現在地にとどまって、
その現在地の条件に合致する「神様の教え」を
【取り込もう】とする姿勢
につながる危険性があるから。
- それよりも、
大きな「親心」に基づく
絶対的な「神様の教え」の境地は、
自分の現在地とは異なる場所にあるのだから、
自分の方が(現在地から)移動して、
そちらの方へ歩み寄っていこう、
という姿勢でいる方が、
「真のたすかり」に近づける、
と思われる。
- 自分の今の立ち位置のまま
『自分の都合に合わせて』
神様の教えを【取り込む】ことのないよう、
自分の方が
絶対的な神様の世界の方へ向かっていこう
とする姿勢を忘れないようにしよう。
以上、私が視て勉強になった、茶木谷吉信先生による
陽気チャンネル
>【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
>【逸話篇の世界を旅する10】茶木谷吉信・正代分教会長「月のものはな、花やで」
のYouTube動画を【文字起こし】して、
そこから自分が学んだことをまとめました。
最後にもう一度、対象のご逸話、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』
158番「月のものはな、花やで」
を掲載しておきます。
158 「月のものはな、花やで」
ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、
「利八さん、外の方を見ておいで。」
と仰せになった。
その頃は、警察の取り締まりの厳しい時であったから、
それについての仰せと思い、
気を付けて、辺りを見回ったが、誰もいない。
それで、もどって来て、
「神さん、何んにも変わりはありゃしません。
向こうのあの畑には、南瓜がなっています。
この畑には、茄子が沢山出けました。」
と申し上げると、教祖は、膝を打って、
「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。
大きい実がなっているが、
あれは、花が咲くで実が出来るのやで。
花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。
そこで、よう思案してみいや。
女は不浄やと世上で言うけれども、
何も、不浄なことありゃせんで。
男も女も、寸分違わぬ神の子や。
女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。
女の月のものはな、花やで。
花がのうて、実がのろうか。よう、悟ってみいや。
南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。
むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、
花なしに実のるという事はないで。
よう思案してみいや。
何も不浄やないで。」
と、お教え下された。
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
自分が現在地にとどまって、
そこから、
その現在地の条件に合致する「神様の教え」
を取り込もうとしていないか。
大きな「親心」に基づく
絶対的な「神様の教え」の境地は、
自分の現在地とは異なる場所にあるのだから、
自分の方が(現在地から)移動して、
そちらの方へ歩み寄っていこう
とする姿勢を忘れてはいけない。
という学びの記録でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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