茶木谷吉信先生「天理教教祖伝逸話篇『どんな花でもな』をめぐって」ご講話からの学び【YouTube文字起こし】

「ご逸話『どんな花でもな』をめぐって」アイキャッチ画像 天理教・茶木谷先生

Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回は、
【YouTube文字起こし】紹介シリーズの中の、
天理教養徳社運営「陽気チャンネル
茶木谷吉信先生による
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
の続きです。

【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ第12回目、
【逸話篇の世界を旅する12】茶木谷吉信・正代分教会長「どんな花でもな」
という動画を【文字起こし】して勉強します。

今回の動画は、
カウンセリングという現代的な相談援助技術にもつながる、
何でも言える雰囲気をつくって
その中で本心を「聴く」ことが大切である、
ということについて学ぶことができます。

ということで、
今回のさまよい人【自己学習ノート】は、
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ第12回目、
【逸話篇の世界を旅する12】茶木谷吉信・正代分教会長「どんな花でもな」
という動画を通しての学びを綴ります。

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今回紹介する動画について

今回、紹介【文字起こし】するYouTube動画は、
陽気チャンネル
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
【逸話篇の世界を旅する12】茶木谷吉信・正代分教会長「どんな花でもな」
という動画です。

陽気チャンネル【逸話篇の世界を旅する12】茶木谷吉信・正代分教会長「どんな花でもな」より

動画公開日: 2021年7月17日
動画概要欄: 「何気ないお屋敷の一風景を描写したご逸話。そこに見過ごしてしまってはいけない現代のおたすけに通じるカギがある。秘められたおたすけの極意とは?」

この動画を新しいタブで視聴したい方はこちらからどうぞ↓
https://www.youtube.com/watch?v=ckGnUxDsmes

茶木谷吉信講師「どんな花でもな」講話【YouTube文字起こし】

tulips flowers field tulip

ハイ、みなさん、こんにちは。
えーっとですね、私ね、今回、
実は、12回目の配信になります。
(おー、凄い、1ダース、1ダース…。
と、聴衆からの声)

ありがとうございます。1ダースです(笑)
でね、12回ということは、
これ、例えば、婦人会の委員部長さんとかね、
あるいは、青年会、学生会、少年会、
いろんな月例会ありますよね。

その、「何やろうかなぁ」って迷っておられる方。
この私の(動画)、12回ありますから、
ひと月に1本ずつ見て、
その後、ねりあいをやったらですね、
1年間のプログラムが全部できちゃう、
そういうことになりますね(笑)

もちろん、私以外の先生の素晴らしいお話が、
もう何十本も、もう既に上がってますので、
それを考えたら、
もう10年分ぐらいプログラムができちゃう。
そういう感じでですね、
どうぞ、いろんな所の、
いろんな場面でご活用いただけたらありがたい、
と思います。
(利用します! と聴衆から声がかかる)
ありがとうございます。

だいたい平均、私の配信、
20分ぐらいだと思うんですね。
ということはですね、12回ですから、
もうすでに4時間ぐらい…、
全部、合計したら
4時間ぐらいしゃべっているという…。
まぁ、よく、こぅ…ネタが尽きない、
と自分でも思うんですけど…(笑)

まぁ、今日もね、
楽しく『逸話篇』の勉強をしてみたいと思います。

今日はですね、取り上げる御逸話は、
198番「どんな花でもな」っていう、
こういう御逸話を
今日は取り上げたいと思います。

まぁ、いつものように、
それでは、何はともあれ、
この「どんな花でもな」という御逸話を
味わってみて下さい。
どうぞ。

198 どんな花でもな

ある時、
清水与之助、梅谷四郎兵衛、平野トラの3名が、
教祖の御前に集まって、
各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、
教祖は、
「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。

一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」
と、お聞かせ下されて、お慰め下された、

という。

ハイ、いかがでしたか? 短いですよね。
もぅ、あれ、これね、
『逸話篇』の本文にしたら、
たった6行しかないんです。

本当に短い…、
もぅ、あっという間に終わってしまう…
しかも、内容はですね、
「へー」って、そんなことがあったんや…
っていう、内容なんで、
案外これね、スーッと、
こぅ…通り過ぎてしまってる人、
大変多いんです。

なんとなく
「あぁ、そんなこともあったんやなぁ」
っていうことで終わってしまっている
という方も多いんですけど。

実はですね、
この御逸話をちょっとだけ調べてみると、
ものすごく興味深いことが浮かんでまいります。

今日はね、私と一緒に、
このたった6行の短い御逸話の裏に、
やっぱり…どんなストーリーが、
こぅ、隠れているのか、ということを、
ちょっと御案内したい、というふうに思います。
まずは、
この御逸話の登場人物を見ていきたいと思います。

登場人物を深堀りすると、新たな景色が見えてくる

清水与之助先生。
この先生は、兵神大教会の初代会長さんです。ね。
それから、梅谷四郎兵衞先生。
この方は、船場大教会の初代会長さんです。
で、平野トラ先生。
この方は、郡山大教会の初代会長の奥さんです。

で、私たちね、
例えば、こういう先生方を見てみると、
なんか「昔の先生方」っていう…
なんかひとくくりで括っちゃってる
ところがあると思うんですよ。
あると思うんです。

例えばですよ、
「昔の先生方」って括り方をしてしまう。

例えば、
西田伊三郎先生だとか村田幸右衞門先生であるとか
仲田儀三郎先生、辻忠作先生、山中忠七先生、
あるいは、
山本利三郎先生、増井りん先生、泉田籐吉先生、
という、こういう…、いろんな先生方と、
「昔の先生方」っていう
ひと括りの仕方をしてしまう。
でもね、そういう読み方をすると、
この御逸話は、全然面白くないです。

で、例えばですね、
この「どんな花でもな」っていうのも、
これ、実は、逸話に収録された年を見てみますと、
だいたい、明治19年のお話だ
というふうに推察されるんです。
はっきりとは書いてないんですけど…。
明治19年なんです。
じゃあ、明治19年に
この3人の先生方がどういうお立場で、
どういう年だったのか、ということを、
ちょっと、こぅ、紐解いてみる…

あのですね、
『逸話篇』を読むときは、
手元に「年齢早見表」っていうの
置いていた方がいいです。
私、自分で作って置いてます。
でね、その明治19年に、
この先生は何歳だった、入信何年目だったというのが、
一目で分かる表があります。
で、それを、私、自分で作っています。
必要な方、どうぞ私に言ってください(笑)
(いくらですか? と聴衆から質問の声)

いや、お金とりません(笑)。
差し上げますから、どうぞ、ハイ…。
養徳社にね、茶木谷先生が言ってた
「早見表」が欲しいって言って頂いたら、
「親心」ってサインをつけて…(笑)
…それは嘘ですけど(笑)
「早見表」がありますので、ぜひ、それをね、
見ながら、『逸話篇』を読んでみると、
また違った気づきが生まれる、
今日は(その)典型のような『逸話篇』です。

で、清水与之助先生。
この明治19年に、おいくつだったのか。
これ、44歳なんです。44歳。
そして、入信して、 実は、3年目なんです。

それから、梅谷四郎兵衞先生。
この先生は、39歳です。入信して5年目です。

平野トラ先生。
この方は、32歳です。そして入信…、
実は、この平野トラさんの入信は明治19年、
この年なんです。まだ1年目なんです。

ホラ、こうやって見ると、違うでしょ?

例えば、
西田伊三郎先生とか村田幸右衞門先生とか
仲田儀三郎三郎先生って…、
文久年間の信仰…入信です。

だから、すでに明治19年っていうのは、
この…、文久年間というのは1861年なんですね。
で、この明治19年が1886年ですから、
もぅ、「25年」経ってるんです。

だから、もぅ、この先生方
(西田伊三郎先生・村田幸右衞門先生・仲田儀三郎三郎先生等)
と、この先生方
(清水与之助先生・梅谷四郎兵衞先生・平野トラ先生)
は、明治19年の段階で、
「25年」のキャリアの差がある。

これ、やっぱりね、
ちゃんと読まないとわからない…。 

で、例えば、ここ(ホワイトボード)に
山本利三郎先生、増井りん先生、泉田藤吉先生
って書いてます。
この先生方は、だいたい明治…
そうですね、6年から7年ぐらいの入信の方ですから、
この先生方は、
明治19年の時には、もぅ10年以上経ってる、と。ね。
この先生方でも、
(と言いながら、ホワイトボードに書かれた、西田伊三郎・村田幸右衞門・仲田儀三郎・辻忠作・山中忠七、という名前を指さす)
明治10 年以上経ってる …。

今回のご逸話の主人公は、入信歴が浅い若者ばかりであるということ

で、このご逸話は、実は、比較的若い…
でしょ? だって、39歳32歳…って、
もぅ青年会員の年齢ですもん。
比較的若くて、入信5年以内の方々に
なさったご逸話なんです。
ここがね、ポイントなんです。

これね、気付かないでね、
「へ~、そら、ええ話やなぁ」って、
ただ、のんべんだらり…というか、
漠然と聞いてたらですね、
5歳の女の子
(NHK『チコちゃんに叱られる』のチコちゃんのこと)
に叱られますから(笑)
ボーッとなんとかしてんじゃねーよっ、
て話です(笑)

で、どんな話ですか? 
さっき、お聞き頂いた、あのお話を見てみると、
「自分の講社が思うようにいかない」
って仰しゃってるんですよ。
しかも、おやさまの御前で…。

言えます?(笑)
おやさまがそこにおられる時に…。

たぶんね、これね、
「思うようにいかぬ」っていうのは…
これ、たぶんね、やっぱり…
たまには不足めいた話も出たと思うんですよ。
「思うようにいかないんですよ」って。ね。
「一所懸命やってるのに…」(って)。

平野トラさんという方。
この方、同じくね、入信直後の明治19年に、
平野楢蔵先生と一緒に、
「夫婦の心」って逸話を残しておられますけども、ね。
平野楢蔵先生は、単衣に浴衣一枚、ね。
平野トラさんは浴衣一枚、っていう、それしかない、
あと全部、質に入れて、伏せ込んで、
布教の道中、真っ最中の方ですね。ね。

おやさまの前では、何でも話せる雰囲気があった

だから…こういう方がですね、
おやさまの御前で、
しかも、比較的若くて、信仰年限が浅い人たちが、
「思うようにいかないのよ…」って、ね。
こぅ…不足めいたことを仰る。
(その時)おやさまは、
「お前、何不足しとんのや」
って、そんなこと仰いましたか?(笑)
仰らないのよ(笑)

おやさまは…
「どんな花でもな…」って、
「咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで」って、
「1年咲かんでも、また年が変われば咲くで」
と仰ったんです。

ここが、僕は…(おやさまのすごさを感じる)。
おやさまだったら、言えるはずなんですよ。
「あんたな、何不足しとんねん」と。
「今が一番大事な時やないか。しっかり伏せ込みや」
とかですね。
言えなくはない。
いや、たぶん、言われたら、みな聞いたでしょ、
この人たちも。
他ならぬ、おやさまがそういうふうに仰るんだったら…。

でも、おやさまは、こういう答え
(「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」というお言葉)
を出された。
この答えを、今日は、ちょっと…
ずっと、詳しく見ていきたいと思うんですね。

皆様方の回りで、
「思うようにいかないんだ」って(いう)
不足に対して、
否定から入る人って、多くないですか?
「おい…、何言うとんねんや。
あかんやないか、そんなことでは…」
(というふうに)ね。
不足から入る人の、いかに多いことか。 ね。

で、こういう、
(信仰)年限の浅い人たちが、
おやさまの前で、こういうこと、
こぅ「思うようにいかぬ」ってことが
言えるような雰囲気が、
その当時、(おやしきに)あったってことです。

だから、おやさまは、ね、
何でも言える雰囲気を、お持ちだったんですよ。
…そう思いません?
…すごいでしょ?

だって、ふつう、言えませんよ。
そんな、もぅ…。
おやさまって、ねぇ、もぅ、神様ですから。
その前で、不足めいたことなんか、
ふつう言えないんだけど…。
もぅ、平気で、こういう方々が、
「うまくいかないよ…」って、
こぅ、言ってるのを、
こぅ、おやさまが聞いておられる、と。

この状況、このシチュエーションっていうのは、
なかなかね…(すごいものがある)。
こぅ、そこまで考えると…
あぁ、やっぱ、おやさまってすごいなぁ…(って感じる)。
しかも、この答えのすごさ。ね。
とがめておられないでしょ? 
悪者がいなんですよ。 この答えの中には。
「あんたが悪い」 じゃないです。ね。
で、あんたの言うことを聞かん信者が悪い、
でもないんです。だーれも悪くない。

「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かん年もあるで」
って。
1年咲かんでも、また、年が変われば咲くで、って、
こういう、天然自然の木にたとえて、
花にたとえて、励ましておられる。

おやさまから厳しいお言葉を頂く場面について

おやさまをですね、いろいろ、こぅ、
『教祖伝』とか『逸話篇』とかを見てみると、
やっぱり、厳しくお仕込みになってる面はあります。
場面があります。

例えば、
「神が切り払うた」っていう、
おやさまが、厳しいお言葉を出された
逸話がございますね。

148番「清らかな所へ」っていう…、
これは明誠社と斯道会の…、お話なんですけどね。
この時に、
その「神が切り払うた」っていう、
厳しいお言葉を仰った。

『教祖伝逸話篇』148.清らかな所へ

斯道会が発足して、
明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、
斯道会へ入る人が続出して来たので、
明誠社では、深谷源次郎さえ引き戻せば、
後の者はついて来ると考えて、
人を派して説得しようとした。

が、その者が、これから出掛けようとして、
二階から下りようとしてぶっ倒れ、
七転八倒の苦しみをはじめた。

直ちに、医者を呼んで診断してもらうと、
コレラという診立てであった。

そこで、早速医院へ運んだが、
行き着く前に出直してしもうた。

それで、講中の藤田某が、
おぢばへ帰って、教祖に伺うと、

「前生のさんげもせず、
泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、
又、泥水の中へ引き入れようとするから、
神が切り払うた。」

と、お言葉があった。

あるいは…、
「不足をするのやない。後々の話の台であるほどに」
って、これは、大和神社の、ね、例の一件の時に、
こかん様が、ふと、不足めいたことを仰った時に、
厳しく、それをお仕込みになりました。

でも、そういうふうに、ね、
のちのちの「話の台」だから不足しちゃダメだよ、
っていうことを仰る。
あるいは、
神様の仰せに背いて、
神様の思惑じゃないことを強行しよう
としている人に対して、厳しいお言葉を出すのと、
こういう方々が、
フッと、こういう、不足を仰ることって、
やっぱ違うんです、状況が。

おやさまの御態度は「カウンセリング」そのもの

だから、おやさまは、
こういうことに対して、
本当に不足しているのか、
本当にこの人の心が腐ってるのか…。
それとも、(話を)聞いてほしいのか…。

で、ここの…、私は、おやさまの、その…
なんていうのかな…
本当にこれ、現代の言葉で言うとね、
「カウンセリング」なんですよ。
「カウンセリング」なんです。
で、カウンセリングの技術をね、
もぅ、おやさまは、実は、もぅ持っておられる…。
もちろん、神様だから当然なんだけど…。
おやさまが、ここでなさったことは
「カウンセリング」なんです。

「きく」っていう言葉は、2つあります。
これ「聞く」って(漢字には)耳が入ってる…。
これ、まぁ英語で言えば、
「hear=ヒア―」って…。
要するに、聞こえてくるっていうことですね。

で、カウンセリングで使うのは、
この「聞く」ではなくて、
こっちの「聴く」を使います。
つまり、「listen=リッスン」ですね。
よく注意をして「聴く」っていうことです。
こっちの方(聴く)の「きく」を用いるんですけども…。

つまり、
「言葉」を「言葉」として「聴く」ことの大切さです。

ところが、私たち、ホラ、
ついつい「まぁ、また何か言うてるわ」
って言って…。
その、言葉がね、ただの声に聞こえて…ね。

これはね、よく宮崎伸一郎さんが言ってましたけど…、
声に聞こえちゃう…。

「また、もぅ~、嫌やなぁ、はよ終わらんかなぁ…」
とか思いながら聞いてると、
もぅ、既に「音」になってしまってる…。

「言葉」を「言葉」として「聴く」ことの大切さを、
私は、宮崎先生から
いろいろ教えてもらったんですけど、
ま、こういうことなんですね。

まずは、しっかりと聴くってことですね。
「気づくまで待つ」って事は、
もぅ、とっても大切だと思います。

「聴く」ことの大切さを実感した体験談

私の体験のお話をします。

昔ね、「後継者講習会」っていう講習会が、
おぢばであったんですね。
で、私もそれに参加をしました。

参加対象は、20歳から40歳までの、
比較的に、こういう方々
(清水与之助先生、梅谷四郎兵衞先生、平野トラ先生のような年齢層の方々)
です。若い方々。

(そういう若年層の人たちが)集まってくる…(講習会があった)。
そこでですね、グループトークがあったんですよ。
グループトークの時間があったんです。

で、そこで、テーマがですね、
「天理教の素晴らしさ」っていうテーマで
談じ合いをしなさい、
っていうテーマが与えられたんです。

司会者は特に置かないから、
班の中から、誰か司会者を立てて、
そして、自由にお話をして下さい、
っていうことを振られたんですね。

すでに、私、その時、教会長でしたので、
じゃあ…(と司会をやった)。
他にもいろいろ居られたんですよ、
外食産業の店長さんだとか、フリーターの方だとか、
あるいは、主婦の方が、とか…。
いろんな方が、ウチの班にいたんですけど、
まぁ、私が立場上…、
じゃあ、私、司会しますわ、
ということで、司会をしたんですね。

でもね、なんかね、
最初から雰囲気違うんですよ。

もぅ、何かね、みんなね、嫌々来てるんですよ。
もう、なんかね、もぅ、ブッスーっと、
こぅ、なんかね、もぅ下向いてね。

で、ここでね、
「天理教の素晴らしさ」を(話し合うのを)
やって下さい、って言われたんですけど…。
僕ね、あ、これはちゃんと出てこないなぁ…(と思った)。
言ったとしても、それなりの形だけのことを言って、
早くこの時間終わらないかなー
っていう感じで、終わっちゃうなぁ、
っていうのが見えたので、
僕、その、テーマを、ガラガラポンしたんです。

今日はね、こういう、
「天理教の素晴らしさ」っていう、
お話し合いのテーマなんですけど、
これ、ちょっと、今日やめません?
って、僕言って。

そしたら、みんなポカーンとしてるから。
…え、じゃあ何話すのって言ったら、
あのね、
天理教のここが苦手「ナンバーワン」
を決めましょうって、僕、言ったんです(笑)
いいんですか? って(皆が)言うから、
いいんですよ(って僕は答えた)。

そこで、
天理教のここが苦手「ナンバーワン」をやろう、
ここは苦手、って思っていること全部挙げて、
って言ったら、
(ここが苦手だっていう話が)
まぁ、出るわ出るわ…ねぇ…(笑)
もぅ…(笑)いろんな意見が出てきたんです。

それ面白い、それあるある、それあるある、
って言いながら、ずーっと書き留めていって、
最終的に、こう挙手でね、決めて…。
「ナンバーワン」を決めたんですけどね。

その第2位を、ちょっとこの場で、
ちょっとね、ご紹介しますけど。
第2位はですね、何だったかっていうと、
「何でも徳がない、因縁が悪い、と責められること」
っていうのが、第2位になったんです。
(そういう話)あるでしょ?

で、第1位。
栄えある第1位は何だったか、というと、
これ、ちょっと意外だったんですけど、
「何でも、神様の思惑よ、ということで、
自分の行く道が決められてしまうこと、勝手に。」
これが第1位だったんです。ハイ。
あるでしょ? あるでしょ? 
「天理教あるある」

実はね、ベスト3を決めた、
第3位があるんですけど…、
すいません、
第3位はこの場では内緒にしておきます(笑)
私の本(『世界たすけに活かすおやさまご逸話』)を読んで(下さい)
あの中に書いてありますから…(笑)
しまった、今日、本を忘れてきた(笑)
毎回、宣伝してた、あの本ですね。 買って下さいね(笑)
あそこにね、ナンバースリーがね、
ちゃんと書いてありますからね。ハイ(笑)

…で、そういうことで、
もぅ、盛り上がったんです、ものすごく。
こんなことで盛り上がっちゃ、
ホントはいけないんだけど、
でもね、無茶苦茶盛り上がった。

でも、このまま終わっちゃったら、
あれでしょ? 
史上最低の談じ合いでしょ? 
史上最低のグループワークでしょ? ね。
でも、僕は、
このままで終わらないという確信があったんです。

なぜか、っていうと、
その当時のね「後継者講習会」というのは、
平日に行われていたんです。
もちろん、休日が当たる時もあったけど、
僕が行ってたのは平日だったんです。

で、仕事を持っている人が、
2泊3日だったんですけど、
自分の仕事をほったらかして、
おぢばに集まってくる、平日に。
もぅその段階で、心あるでしょ? 
心がなかったら来ませんて。
皆、心あるんです。だから、来てるんです。

で、もう…ね、
もぅ出てくる当日の朝までお母さんと喧嘩してね、
「もぅ行きたくねぇ」って。
「もぅ、頼むから行って」
って喧嘩しながら来た人もいたんですけどね。

でも、その人だって、
心があるから来てるんですよ。
それを、僕はわかってたから、
絶対、この不平不満の言い合いで終わらない
って確信があったんです。

案の定です。
それから、僕たちの話合いってのは、
深~いことに入っていきました。ね。
「ここが苦手」って言ってたことを
全部さらけ出したことによって、
すごく深い話になっていって…、
最後には、もぅ、みんながもぅ喜んで、
「ハ~、ほんと苦手と思ってたけど、
本当は、とっても大事なことだったんだなぁ…」
っていうことを、みんなが気づいて頂いて、
そして、もぅ晴々とした心で、
実は、帰って頂いたんですね。

何でも言える雰囲気づくり、その中で「聴く」ことの大切さ

だから、その場で、私がですね、
教会長ですから、
「あんた、それは、ちょっとアカンのちゃう?」
「それはダメだよ」とか言ってたら、
「あぁ、また、この人も一緒や」
って思っちゃうでしょ?

何でも言える、おやさまと一緒ですね、
何でも言える雰囲気をつくって、
そして、そういう不足を
全部、聴いて聴いて聴いて、聴く。
しっかり「聴く」ということ。
そうしたらね、自分で気づくんです。ハイ。
大概の場合はね。

ここは、やっぱり言わなアカンな、
って場面は、確かにありますよ。
確かにありますけれども、
私の経験上、まぁ9割以上は、
聴いただけで解決しちゃいます。
自分で気づいて帰ります。
「あ、やっぱり、私のここがいけなかったんだ」
って。

だって、誰が悪いかって、不足…、ね、
あれが悪い、これが悪いって言っても、
本当は誰が悪いのかって、
全部、気づいてますよ、皆さん。
本当は自分が悪いんです。
それに気づいてて…、

でも聞いてほしいんです、人っていうのは。
もぅ、この、なんともやるせない、
この想いを、誰か聞いてくれ、
という思いで、
たぶん、そういう…、
(気持ちで)おられるんだと思うんですね。

ところがね、
ホラ、教会に相談に行くでしょ。
で、もぅ、言いにくいことバーッと言うでしょ 。
そしたらね、お偉い先生からですよ、
なんか傷口にね、塩を塗りこむようなね(笑)
ことをね、言われてしまうというね…。
もぅ、そうなったら、もぅね、二度とね、
教会にね、 なかなか足が 向かなくなるんですよね。
まぁ、二度と、とは言いませんけど、
なかなか足を向けにくくなる。

これ、ウチの信者さんですけどね、
こういうこと言う方がいるんですよ。
「誰に言ってもいいけど、教会にだけは言うな」(笑)

おられるんすよね。 ウチの教会にもね(笑)
せっかく助かる場所なのに、ね、
教会にだけは言うな(とまで言う人もいる)。
もぅこれ以上、傷口に塩をぬられて…ね、
塩だけでおさまったらいいけどね、
ワサビ、コショウ、辛子、ハバネラ…(笑)
ガーっとすりこまれて…(笑)
もぅ、そういうことをね…、
やっぱり、もぅ、みんな、それは嫌ですよね、
やっぱりね。

言わなきゃいけないといって出した言葉に『真実』はない

あとね、多いのがね、
これはね、
おたすけする人にも聴いていてほしいんですけど…
「何でもいいよ、何でも仰って、何でも聞くよ」
って言ってるフリをして、ね、
「フンフン、へ~、フーン」って、
こぅ、穏やかに聞いてるフリをして、
頭の中にね、ミサイルを設置してる人、
いますね。(笑)

「あ、今、ご主人の悪口言ったね、この人は」
っていう(ふうに思って、頭の中でミサイル設置)
1個目、ってね。
「あ、今、この人、親の悪口言ったね」
(っていうふうに思って、頭の中でミサイル設置)
ハイ、2個目、ってね(笑)

何か、いろいろね、
こぅ、そういうこと(悩み)聞くたんびに、
「なんでもいいよ、なんでもいいよ」
って言っておきながら、
頭の中にミサイルを、一つ一つ置いていく。ね。
で、話が終わって、
向こうがね、あぁ、もう話が終わったなぁ、
と思った時に、それに一斉点火をする。ね。
ピシュンピシュンピシュンピシュンピシュン、
ピシュ~ン…って(笑)集中爆撃、集中砲火(笑)

こういう方はね、結構おいでになるんですよ。
でね、もうちょっと待てばね、
ジワジワ…、相談者の方が気づくのに、自分で…。
それが待てない。
やっぱり何か言わなきゃいけないって、
やっぱり思ってるから…。

言っときますけど、
言わなきゃいけないっていって出した言葉に
『真実』、僕はない、
って思ってるんです。ハイ。
ちゃんと神さん働いたら、
神様が悟らして下さる世界だから。ウン。

だから、
何か、こいつに言ってやらなきゃいけない
って、思わない方が、僕、いいと思います。

僕、いっぱい、すでに失敗してきたから言えるんです。
僕、いっぱい、今までにそういう失敗をしてきました。

おやさまのご逸話は、今も私たちを励して下さっている

おやさまのご逸話にはね、
他にもね、ありますね。
励ますお言葉をかけておられるご逸話が。
例えばですね、 『逸話篇』の142番ですかね、
「狭いのが楽しみ」っていうのがありますね。

『教祖伝逸話篇』 142.狭いのが楽しみ

深谷源次郎が、
なんでもどうでも
この結構な教を弘めさせて頂かねば、
と、ますます勇んで
あちらこちらとにをいがけにおたすけにと
歩かせて頂いていた頃の話。

当時、源次郎は、
もう着物はない、炭はない、
親神様のお働きを見せて頂かねば、
その日食べるものもない、
という中を、
心を倒しもせずに運ばして頂いていると、
教祖はいつも、

「狭いのが楽しみやで。
小さいからというて不足にしてはいかん。
小さいものから理が積もって大きいなるのや。
松の木でも、小さい時があるのやで。
小さいのを楽しんでくれ。
末で大きい芽が吹くで。」

と、仰せ下された。

「狭いのが楽しみやで」って(おやさまが仰った)。
松の木でもね、って、
松の木でも小さい時があるのや、
小さいのを楽しんでくれ、
っていうお言葉。

このお言葉に励まされて、
今、一所懸命、この道を通っている若い人も、
たくさんおられると思いますね。

おやさまは、そういうあなたを、
今、ご存命のおやさまが、
こういう言葉で励まして下さって います。

そういう気持ちで『逸話篇』をお読み頂いたら、
なお、もっと深く、
私は、『逸話篇』の世界っていうのが、
本当に素晴らしい世界に見えてくるんじゃないか、
っていうふうに思っています。

今日は、「どんな花でもな」というお話から、
カウンセリングということまで話を広げて、
お話をさせて頂きました。

いかがだったでしょうか?

では、またお会いいたします。
次回も、楽しみにしていて下さい。

陽気チャンネル【逸話篇の世界を旅する12】茶木谷吉信・正代分教会長「どんな花でもな」より
さまよい人
さまよい人

素晴らしいお話でした。感動しました。

以上、
【逸話篇の世界を旅する12】茶木谷吉信・正代分教会長「どんな花でもな」
というYouTube動画の【文字起こし】でした。

動画を視聴しての感想

黄色いひまわり畑の写真

茶木谷先生のご講話は
どのお話も勉強になるものばかりです。

その中でも、今回の動画は、
私には特に心に刺さるお話でした。

講話の冒頭で、茶木谷先生が、
このご逸話を読んでも
「なんとなく、あぁ、そんなこともあったんやなぁ…
っていうことで終わってしまっている方が多い」
と述べておられました。
まさしく、私がそれです‼

「フ~ン」で終わっていて、
正直なところ、このご逸話を
「いい時もあれば悪い時もある」という、
よくある人生訓の一つぐらいにしか
受けとめていませんでした。

しかし、
茶木谷先生による登場人物の深堀りによると…

なんと、そこに登場していた方々は、
全員、入信して5年未満の、
いわゆる「新参者」だった。

このご逸話の場面は、
新入りメンバーが、
こともあろうに、皆が生き神様として崇める
「おやさま」の面前で、
平然と愚痴をこぼしている、
という場面だった‼

例えるなら、
学校の部活動で、新入部員が、
監督あるいは顧問先生のおられる前で、
「俺、最近、調子わりぃんだよなぁ…」
と平然と愚痴をこぼしている…
みたいな場面だったのですね。

いやぁ…、これは、
茶木谷先生がご指摘して下さらなかったら、
絶対に気付けない視点でした。

茶木谷先生が語って下さっておられる通り、
新入りが「最近調子わりぃんだよ」
と愚痴をこぼしたりしたら、
その共同体の中心的存在の方なら、普通は
「何言ってんの、新入りが甘えんじゃないよ!」
と活を入れたりするもの。

しかし、おやさまは
「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かん年もあるで…」
とやさしいお言葉…。
まさしく、子を慈しむ「親心」そのもの。
どこかの勝利至上主義の部活動顧問
あるいは監督に聞かせたい(笑)

茶木谷先生が動画の中で、
「おやさまはね、みなが何でも言える
雰囲気をお持ちだったんですよ。すごいでしょ?」
と語っておられましたが、
本当に、あらためて、
おやさまの何でも受け入れる器の大きさを
深く味合わせて頂くことが出来ました。
と同時に、何でも言える雰囲気つくりが大切だ
というおやさまの御態度は、
尊いひとつの「ひながた」だと、
私は受けとめました。

今回のお話では、
そのような深い学びと共に、
想像の場面、イメージに浸る時間も与えて頂きました。

それは、茶木谷先生の体験談、
「後継者講習会」での出来事のくだりです。
拝聴しながら、私は、いつの間にか、
まるで自分がその場に居るかのような、
リアルな追体験をさせて頂いたのでした。

お恥ずかしながら、私は、
茶木谷先生の体験談に登場してこられた方々同様、
「〇〇講習会」のような講習会が大嫌いです。
茶木谷先生が、参加者の中には、
それなりの形だけのことを言って
早くこの時間終わらないかなーっ
ていう感じで参加している人もいる、
と仰っていましたが、
まさしく、私はそれです(汗)

茶木谷先生は、そのような雰囲気を察知しながらも、
しかし皆の深いところには、
必ず、通じ合える共通の価値観が存在している
という見通しの元に、
「何を言ってもいい」という安心の場を作り上げ、
皆の「本心」を、
否定することなく静かに受けとめることで引き出し、
めいめいが自分自身の力で気づいていく
ことをサポートされた。

お話を聴きながら、深く感動しました。
こんなグループワークなら、私も参加したい(笑)

それは、まさしく、
何でも言える雰囲気をつくり出すことで
人々の気づきと自発性を育てられた
「おやさまひながた」の実践だったのだ、
と、私は今回のご講話を拝聴して学ぶことができました。

その他にも、
今回の動画では、素晴らしいお言葉がたくさんありました。
私の覚え書きとして、
次項の「まとめ」欄に書きとめておきたいと思います。

まとめ(今回の動画を通しての学び)

昼間のピンクの花の写真

【茶木谷吉信先生「天理教教祖伝逸話篇198『どんな花でもな』をめぐって」
YouTube動画からの学び】

  • 人は、誰が悪いのかも含めて、深いところで、
    本当のことに気づいていながら、
    表層の部分で認められない場合が多い。
    そのような時に、人は、
    その何ともやるせない想いを誰かに聞いてほしい、
    と心のどこかで願っている。

  • であるから、相談を受ける立場を授かった者は、
    何でも言える雰囲気をつくって、
    そして、そういう不足を全部、
    聴いて聴いて聴いて、聴く。
    しっかり「聴く」。
    そうすれば、その人は、自分で気づいていく。

  • 信仰歴が浅い若者たちが愚痴をこぼすのを
    おやさまがあたたかく見守られる
    「どんな花でもな」というご逸話は、
    何でも言える雰囲気をつくって、
    その中で本心を「聴く」ことの大切さ
    を示して下さっている一つのひながたである、
    と受けとめることができる。

  • 悩みを聞く時に、
    「何か言わなければいけない」
    と思いながら聞いてはいけない。

  • 相談者が自分で気づくのを
    「待つ」ことが大切。

  • 「言わなければいけない」
    という感じで出した言葉に
    『真実』はない。
    (頭でひねり出した言葉は
    相手に届かない)

  • この世は、
    神様が働いたら神様が悟らせて下さる世界。
    何かこの人に言ってあげなければ…
    などと思わない方がいい。

  • おやさまのご逸話は、
    今も私たちを励して下さっている。

最後にもう一度、対象のご逸話、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』
198番「どんな花でもな」
を掲載しておきます。

198 どんな花でもな

ある時、
清水与之助、梅谷四郎兵衛、平野トラの3名が、
教祖の御前に集まって、
各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、
教祖は、
「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。

一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」
と、お聞かせ下されて、お慰め下された、

という。

【逸話篇の世界を旅する】「茶木谷先生キラーフレーズ」

私たちの悩みや苦しみ、
必ず、おやさまは、

「ひながた」にその解決法を残してくださっています。
困った時は「ひながた」を勉強しましょう。
そこに必ず、解決策があります。

今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
何でも言える雰囲気づくり、
その中で本心を「聴く」ことの大切さ
ということについての学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思いま。

ではでは、今回はこのへんで。

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