茶木谷吉信先生講話「目に見えん徳」ご逸話をめぐって~【逸話篇の世界を旅する】より

「茶木谷吉信先生講話「目に見えん徳」をめぐって」アイキャッチ画像 天理教・茶木谷先生

皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。
「さまよいブログ」へようこそ。

好評(?)の、YouTube文字起こし紹介シリーズ。
今回は、その中の【お道】の動画編、3回目です。

私は、天理教養徳社運営「陽気チャンネル」の
茶木谷吉信先生による【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズに深い感銘を受けて、
これまでに2回、それを紹介する記事を投稿しました。

自分で書いた記事ながら、文字起こし部分を読み返すと、
「勉強になるなぁ…」と、繰り返し感銘を受けています。
正直なところ自分の「覚え書」的な面が強いのですが(笑)、
今回再び、
新たな【逸話篇の世界を旅する】動画を文字起こし紹介することとしました。

今回は、
【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信
という動画を、文字起こし紹介します。

私のような道と世界をふらつき「さまよう」人間だけでなく、
お道の信仰が長く深い方々にとっても、
とても勉強になるお話です。

そして、今回は、YouTube文字起こし紹介に加えて、
記事の後半部分で、
その主人公(山中こいそ様)について書かれた文章も紹介しますので、
ちょっと長くなります。

しかし、特に後半で紹介する山中こいそ様のお話は、
非常に感動的な内容ですので、
途中離脱せず、ぜひ最後まで読んでいってください。

  1. 今回紹介する動画について
  2. 茶木谷吉信先生の『逸話篇』「目に見えん徳」をめぐるお話紹介
    1. 『天理教稿本教祖伝逸話篇』63番「目に見えん徳」のご逸話
    2. 短いご逸話であればあるほど、その奥に広がっている世界は大きい
    3. 目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、あなたならどう答える?
    4. 神様へ「目に見える徳」ねだる見本市=神社の絵馬
    5. 人間というのは、幸せを求めて生きていくもの
    6. 「目に見えない徳」のことが腹に治まるのは、目に見えない世界に もたれきることのできる人
    7. 「目に見える徳」が身につかない人がいる
    8. 「目に見える徳」は「目に見えない徳」に支えられて身につく
    9. 短いご逸話が醸し出す「俳句の世界」
    10. 山中こいそ様の当時の状況を各自で調べてみてほしい
    11. 教祖ひながたの中に、悩み苦しみの解決策は必ずある
  3. 山中こいそ様について
    1. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚  (れんだいこHPより)
      1. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その一)
      2. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その二)
      3. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その三)
      4. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その四)
      5. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その五)
      6. 山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その六)
    2. 茶木谷先生からの宿題に対する回答
  4. まとめ
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今回紹介する動画について

今回、紹介(文字起こし)するYouTube動画は、
陽気チャンネル
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
>「【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信
という動画です。

【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より

今回の動画は、2020年7月11日に公開された動画です。

「目に見えん徳」というご教理をめぐる
おやさまと山中こいそ様のやり取り。
そこには、俳句の如き静かで無限の世界が広がっているということを、
茶木谷先生のご指摘によって、改めてしみじみと味わうことができます。

それでは、茶木谷吉信先生のYouTube講義、
一緒に【文字】で学んでいきましょう。

茶木谷吉信先生の『逸話篇』「目に見えん徳」をめぐるお話紹介

person covering the eyes of woman on dark room photo

では、茶木谷吉信先生による
『天理教教祖伝 逸話篇』63番「目に見えん徳」
のご逸話をめぐる ご講義を紹介していきます。

『天理教稿本教祖伝逸話篇』63番「目に見えん徳」のご逸話

皆さん、こんにちは。
今日も、『稿本天理教教祖伝逸話篇』の中から、
63番「目に見えん徳」というのがあるんですけど、
これについて少し考えていきたいと思います。

まずは、このご逸話を味わってみましょう。
どうぞ。

*********************************

63「目に見えん徳」

教祖が、ある時、山中こいそに、
「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」
と、仰せになった。

こいそは、
「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」
と、お答え申し上げた。

**********************************

はい、いかがですか? たったこれだけです。
『逸話篇』の原本にして、たった5行のご逸話です。

これ、スーッと読んでしまうと、
❝ヘーッ❞で終わってしまいます。
物や金などの目に見えるお与えよりも、目に見えない魂に頂くお与えの方が大切なんやなぁ、フーン…、
で終わっちゃうんです。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

今回取り上げるご逸話の紹介です 

今回のご逸話は、登場人物の心理描写とかの記述がなく、
淡々と事実関係のみ記されているのが特徴だ、とのご指摘。
フムフムなるほど。

これまでそうした目で
『教祖伝逸話篇』のご逸話に向き合ったことないなぁという、
私には新鮮な気付きでした。

短いご逸話であればあるほど、その奥に広がっている世界は大きい

でも、こんな俳句ご存知ですか?
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
これ、松尾芭蕉の歌なんですよ。
句なんですけど、たった17文字の奥にですね、
なんかこう、無限の世界が広がっているような感じがします。
苔むす岩があって… 
そこに、本当に、こう、日本の風景が限りなく広がっている…

例えば、これをですよ、
「ある夏の日のことだった。世俗を離れやってきた静かな庭。苔むす庭に蝉が鳴いてる…」
なんてやっちゃうと、
どんどんどんどん、説明すればするほど、
なんか世界が狭くなっていくような感じがしませんか?

これと同じで、
私は、短いご逸話であればあるほど、
その奥に広がっている世界は大きいんじゃないか、
というふうに感じています。

さぁ、今回は、
この、たった5行のご逸話の奥に、
無限の世界、どういう無限の世界が広がっているのか、
ということを、皆様と一緒に考えていきたいと思います。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

今回のご逸話の特徴解説です 

くどくどと細かい描写を積み重ねるのではなくて、
事実関係を短く記述することで読み手の想像力をかきたてる、
それは「俳句」のようだ。
茶木谷先生のそのようなご指摘を受け止めた上で
今回のご逸話を改めて読み直してみる。
すると、これまでとは全く異なる味わいが出てきます。

目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、あなたならどう答える?

この「目に見える徳」「目に見えない徳」
っていうのを考えていく時に、
それを考えるためには、一番いいのは、
自分がもし同じ質問を受けたら何と答えるか、
っていうふうに考えるのが一番いいと思います。

教祖から
「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな?」
さあ皆さん、何とお答えになりますか?

優等生のように
「目に見えん徳いただきとうございます」
優等生の方やったら、そう答えるでしょうね。

でも、中にはね、
目に見えるものから目を離さずに、
「目に見えん徳いただきとうございます…」
って言ってる人だっていますよね。

なんかもう、半分泣きながら、泣きながら、
「もう目に見えん徳でいいです」
なんて言ってる人もいますよ。

いいんですよ、別に。
ちっとも悪くないです。
そんなことぐらいね、神様が一番よくご存じです。
だって、私たちは、神様から作られた子供ですから。
そんなことぐらいは、人間の心ぐらい、神様は一番よくご存じです。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
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あなたならどう答える?という講師からの問いかけです 

「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな?」
と聞かれたら、どう答えるか。

茶木谷先生も仰っておられるように、
私のような俗人の場合、
「目に見えない徳いただきとうございます」と答えるのが正解だ
と頭では(理想的には)分かっている、
けれど、腹の底の部分では
「ホントは目に見える徳がほしいんだけどなぁ…」と思ってしまう、
そんな気がします。

今回のご逸話が尊いのは、
山中こいそ様は【腹の底から】
「目に見えない徳いただきとうございます」とお答えになっておられる、
という点ではないでしょうか。

神様へ「目に見える徳」ねだる見本市=神社の絵馬

実は、私たちの周りにですね、
神様から何がほしい?って聞かれて、
あ、これがほしいです、って答えている場面が意外と身近にあります。
それは、神社の絵馬です。
ご覧になったことありますか?

あれ、参拝した人がね、絵馬を買うんです。
そして、あの絵馬に願い事を書いて、神社奉納をしていくんですね。

人間って、価値のないものに10円だってお金払いません。
お金払ってまで、神様に、あれが欲しい、これが欲しい、
って言っているその見本市みたいなのが、あの絵馬なんですよ。

私ね、ちょっと行儀悪かったんですけど、
その絵馬ね、覗いたことありますね。なんて書いてあるんだろうって…。

まぁ、いろんな願い事あるもんですね。
人間っちゅうのは本当に欲深いもんで。
彼と結婚できますように、とか、病気が治りように… 
それから、○○大学合格…、あ、これが一番多いんですけど、
それとか、いろんな願い事。
中にはですね、
宝くじを当てて借金返済できますように、
なんちゅう、そういう厚かましいお願いも書いてあったりします。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
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人間というものは…というお話です 

人間というものは、
「目に見える徳」がほしいのがデフォルト(初期設定)だ、
というお話ですよね。
そこから、「目に見えない徳」の大切さを知り、
それを「心底」腹に治めていく、
というのが【求道】ということなのでしょう。

人間というのは、幸せを求めて生きていくもの

さて、これらのお願い事の中で、
どこまでが「目に見える徳」で、
どこからが「目に見えない徳」でしょうか。
これね、難しいんですよ。

例えば、結婚できますように、とか、大学に合格できますように、とか、
これは「目に見える徳」なのか、「目に見えない徳」なのか…
ただ物がほしい金がほしい、
これは「目に見える徳」だってすぐ分かりますけども、
なかなか、どこからがその、目に見えて、どこからが目に見えないか、
っていうのを考えるの、なかなか難しいですね。

考えようによっては、
絵馬に書いてあること全部、
「目に見える徳」だって言えるかも知れません。
だって、成ってくる姿は見えるわけですから。

あなたの愛が欲しい、なんつったって、
それはやっぱり、具体的にはプレゼントだとか、優しい言葉、行動だったり、
という形にやっぱり表れますからね。

でも、一つだけ言えるのは、
みんなでやっぱり幸せを求めているんですよ。
絵馬に書いてあることは、
幸せを求めている、っていうことです。

彼と結婚できたら幸せです。
○○大学に合格できたら幸せです、って書いてあります。
病気が治ったら幸せです。

みんなそういった幸せを求めて、あの絵馬に書いています。
こうやって、人間は幸せを願う、ということは、
ちっとも悪いことじゃありません。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

人間の本性を深堀りしていきます 

「目に見える徳」とか「目に見えない徳」とか関係なく、
人間というものは、幸せを求めて生きていくもんなんだ、
という話ですね。
確かに。

となると、問題になってくるのは、
人間の幸せに本当に有効なのは、
「目に見える徳」なのか「目に見えない徳」なのか、という点です。
それについて、以下で、
少しずつ 話を広げながらお話下さいます。

「目に見えない徳」のことが腹に治まるのは、目に見えない世界に もたれきることのできる人

じゃあ、こいそさんがおっしゃった、
「目に見えない徳」が欲しいですっていうのは、
何をお望みになったんでしょう。

実は、この山中こいそさんが「目に見えない徳」が欲しいです、
とおっしゃったということ、
これ実は大変勇気のいる答えです。

だって、目には見えないけど何かもらったんだ、
っていう実感がなかったら、
何ももらわないのと一緒だからです。

そりゃ誰だって、「目に見える徳」が欲しいです。
みかぐらうたの「九下り目二ツ」を思い出してみてください。
あの時、どういう手振りを振るか。

ふじゆうなきやうにしてやろう
かみのこゝろにもたれつけ

この時の、❝もたれつけ❞っていう時のお手は、
難儀の手をして、重心を真後ろにもたれます。
神様にもたれるって、こういうことです。

何か、目の前にあったり横にあったりするものに
もたれるのではないのです。
神様にもたれるっていうのは、
真後ろにもたれてこい、っていうことです。
もう、疑ったらダメです。
後ろに何もなかったら大怪我します。

これね、大変な勇気のいることなんです。
でも、神様は、
不自由ないようにしてやるから神の心にもたれてこいって言って、
真後ろにもたれるっていう格好を、
お手ふりを、私たちに教えて下さいました。

世間にこういう人が、たまにいるんですよ。
信仰なんていうのは、そんなもう、神さんにね、
あの、こういう現実から逃避して、
神頼みをして現実逃避だ、
と言う人はいるんですけど、
とんでもない間違いですね、これは。

普通こんなね、
あるのかないのかね、わからないものにもたれなさいなんて、
こんな勇気のいることはね、
普通は、逃避だとか、現実からの逃避だとか、言いません。

むしろ、
たった一つしかない人生を、
神様の定規に合わせることを決心した、
とてつもなく固い信念と勇気を持った人のことです。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

「目に見えない徳」について考えるにあたって、

目に見えない世界との関わり方を考察します 

「目に見えない徳」がほしいです、と腹の底から言えるためには、
見えない世界を(建て前ではなくて)
実感として心底つかんでいなければ不可能だ、
というご指摘ですね。

そして、信仰というのは、
まだ「目に見えない世界」をつかんでいない人が、
神様の定規を信じてそれに合わせようという努力することで「目に見えない世界」をつかもうとする、
非常に「勇気のある行為」だ、というわけです。
信仰=人生の賭け、と言えるのかもしれませんね。

「目に見える徳」が身につかない人がいる

さて、今までね、
こう見える世界、見える徳、見えない徳
ということについて話をしてきました。
そろそろ結論に進んでみたいと思います。

先ほど私は、
人は皆、幸せを求めてるって言いました。
でも、「目に見える徳」、
つまり、目に見える幸せをせっかく手に入れても、
それが身につかない人がいます。

例えば、せっかく新しい家を建てても、
その直後に病気になって入院をして、結局その家に住めない、
という人だっています。
新しい車を買いました。
ところが、直後に保証人倒れで、
その車は借金のカタに取られてしまいました。
あるいは、車を買いました。その車で事故に遭いました。
そういう人だっています。

目に見える幸せっていうのを、ぼたもちに例えてみましょう。
これも世間で言いますね、
神様にね、ン~って、こうお願いして、
それで棚からぼたもち落ちてくるのかい?そんなことねぇよ、
って言う人いますよね、世間にね。

でもね、それはその通りなんです。
神様に拝んだからって、ぼたもちが落ちてくるはずはないです。
これはその通りです。

でも、信仰していると、
そのぼたもちがどこにあるか、
が見えるようになるんです。

拝んだってぼたもち落ちてきませんけど、
ぼたもちがあそこにあるぞ、
そしてその取り方がわかる、
これが信仰の有難さです。

そして、もう一つわかるのは、
神様はそのぼたもちを人間にやりたくてやりたくてしょうがないんです。
その親心っていうのが、信仰していたらわかるようになります。

❝でもね、ぼたもちは、お前さんにやりたいんだけど、
今のお前さんの心、自分のことしか考えない心では、
ちょっとやれんなぁ、と。
まぁ、そのためにね、
今ちょっとアンタ不自由に思うかもしらんけれども、
考えるヒントとして、ちょっと悩み事あんたに渡しておくから、
ちょっと考えてごらん。
人間ってさぁ、困った時しか変わろうとしないだろ?
私はね、お前たち人間同士が、お互いに助け合う姿が大好きなんだよ。
そのために人間作ったんだよ。
どうだい? 助け合ってごらん。
助け合ったかい? 嬉しかっただろう?
人のために祈ってごらん。
祈ったかい? 幸せだっただろう?
そんな時に最高の幸せを味わえるように、お前たちをちゃんと作っておいたよ。
お前たちはね、兄弟なんだよ。助け合ってごらん。❞

って、こういうことなんですね。
この、人を助ける誠真実の積み重ね、
それのご褒美として「目に見えない徳」を 魂に頂けるんです。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

「目に見える徳」についての説明です 

「目に見えない徳」という
今回のご逸話のテーマについて話をするために、
まず、「目に見える徳」について掘り下げて説明して下さっています。

「目に見える徳」は、❝脆い(もろい)❞。
「目に見える徳」すなわち、目に見える幸せを手に入れても、
身につかない人がいる。
本当の幸せ、身につく幸せをつかむにはどうしたら良いか。
そのお話が、この後、展開されていきます。

「目に見える徳」は「目に見えない徳」に支えられて身につく

おふでさきに、
しやハせを よきよふにとて じうぶんに
みについてくる これをたのしめ
(おふでさき 二号42)

って神様はおっしゃって下さっています。
楽しめ、とおっしゃっているんです。

で、その「目に見えない徳」があるから、
幸せが身につくんです。
つまり、「目に見える徳」というのは、
こうやって、目に見える徳、目に見えん徳、
って横に並べるんじゃなくて、
「目に見えない徳」が下にあって、
その上に「目に見える徳」が乗っかっているんです。
で、「目に見える徳」というのは
「目に見えない徳」に支えられているから、身につくんです。

だから、例えば、さっきも言いましたように、
せっかく新しい家に入っても、
そこで幸せになれない人っていうのは、
結局ここの、下の「目に見えん徳」がないから
「目に見える徳」が身につかない、っていうことです。
この、下の「目に見えん徳」というのがなかったら、
「目に見える徳」は根無し草のようなもんですから、
失うたり取られたりするわけです。

だから、「目に見える徳」ほしいか「目に見えん徳」ほしいか、
どちらやな? とお聞きになったのは、
二者択一ではないんです。

これは、
この構造に、あなたは気がついていますか?
っていう、
私は、おやさまの問いかけのように聞こえてきます。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

今回の動画の結論です 

「目に見える徳」と「目に見えない徳」の構造――

「目に見えない徳」があるから幸せが身につく。
つまり、「目に見える徳」というのは、
目に見える徳、目に見えない徳、と並列に並べられるものではなくて、
「目に見えない徳」が下にあって、
その上に「目に見える徳」が乗っかる、
そういう構造になっている。
「目に見える徳」というのは、
「目に見えない徳」にしっかり支えられることで、
初めて身につくものである。

ということなのですね。

短いご逸話が醸し出す「俳句の世界」

山中こいそさんがお答えになった場合を、
もう1回思い出してみて下さい。
もぅ気持ちのいいくらいに、スパッと、
「目に見えん徳」頂きとうございます
ってお答えになっています。
そこに私は、この、
山中こいそさんの信仰の深さを感じるんです。

普通、逸話篇のご逸話には、
一番最後に、
このお言葉を承って○○は心から感銘しただとか、
そういう、こう、後話がついてくるんですけど、
この63番のご逸話には後話がありません。
こいそさんがスパッとお答えになったところで、
スパッと終わっています。

でも、ここからが俳句の世界なんです。
この後に、おそらく繰り広げられたであろう光景が、
私には目に浮かびます。

この、スパっと深い信仰から、潔くお答えになった
山中こいそさんのお答えをお聞きになったおやさまが、
何とも言えない笑顔でうなずきながら、
ニコニコとなさっている光景が、私の心には浮かぶんです。

そうそう、やっぱり気づいていましたか、
目に見えないものの尊さ、有難さに気がついていましたか、
っていう、そういう、こう、何ともいえない笑顔が、
私には浮かんでくるんですね。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

冒頭でこのご逸話の特徴を説明して下さいましたが、

最後に、改めて説明して下さっています

冒頭の「茶木谷先生YouTube文字起こし」紹介の際にも書きましたが、
ここでも それを繰り返したいと思います。

くどくどと 細かい描写を積み重ねるのではなくて、
事実関係を短く記述することで 読み手の想像力をかきたてる このご逸話は
まるで「俳句」のようだ、という 茶木谷先生のご指摘。
それを受け止めた上で 今回のご逸話を 改めて読み直してみると、
このご逸話に、これまでとは全く異なる 味わいが出てきます。

茶木谷先生、ありがとうございます。

山中こいそ様の当時の状況を各自で調べてみてほしい

今までのシリーズでは、私は、
登場人物を 少しだけ紹介をしてきましたけれども、
今回は、意図的に、わざと、
山中こいそさんの 紹介をしていません。

なぜかというと、
実は、このご逸話を、もっと より深く味わうためには、
この ご逸話を残された、明治十一年から十二年頃の、
山中こいそさんの状態を学ぶ、知ることが、
実は、とっても大切になっているんです。

山中こいそさんは、
明治十一年正月から お屋敷に伏せ込まれましたけれども、
そこに至るまでには、やはり、いろんな道中通っておられるんですね。
それを ぜひ、皆さま方に、
私が解説するのではなくて、皆さま方に これを調べて頂きたいんです。
そうすると、この逸話が、
もっと、150%も200%も、味わい深いものになるはずです。
それを期待して、私は、
今回わざと、山中こいそさんの人物紹介は省きました。

どうかこれを、
ぜひ皆さま方、お一人お一人が 調べてみて下さい。
ヒントは、『天理教事典』っていう本に書いてあります。
「山中こいそ」っていうところを、ぜひ 読んでみて下さい。
そうすれば、このご逸話が、
もっと奥深い、もっと豊かな世界に 感じることができるはずです。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

あえて 今回ご逸話の主人公について 説明しない理由を 述べて下さっています 

この動画の1年以上後の、2022年2月12日に投稿された
【逸話篇の世界を旅する14】茶木谷吉信・正代分教会長「人がめどか」
という動画の中で茶木谷先生が話されているのですが、
『天理教事典』の中に「山中こいそ」という項目がある、
というのは、茶木谷先生の勘違いだったようです。

私も『天理教事典』を調べてみましたが、
その中に記述はありませんでした。
ということで、「山中こいそ様」について私なりに調べましたので、
それについては、当記事の後半で紹介します。

教祖ひながたの中に、悩み苦しみの解決策は必ずある

私たちすべての悩みや苦しみの解決策を、
おやさまは、ひながたに残して下さっています。

困ったときは、ひながたをひも解きましょう。
そこに必ず、解決法があります。

(YouTube【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
さまよい人
さまよい人

最後に、茶木谷先生のキラーフレーズ炸裂です‼ 

「困った時はひながたをひも解きましょう。
そこに必ず解決法があります。」

素晴らしい言葉。
道の歩みに行き詰まりを感じたら、
この【茶木谷フレーズ】を思い返すようにしたいと思います。

山中こいそ様について

gray sea below sunrise view photo

『天理教教祖伝 逸話篇』63番「目に見えん徳」というご逸話の主人公、
山中こいそ様について各自で調べてみてください、
との茶木谷吉信先生のお言葉。
それを受けて、私も調べてみました。

動画内で茶木谷先生が言っておられた通りに
『天理教事典』にあたってみたところ、
❝記載がない!(涙)❞
というのは、すでに記述している通りです。

2022年2月12日公開の
【逸話篇の世界を旅する14】茶木谷吉信・正代分教会長「人がめどか」
という動画によると、
敷島大教会発行の『山田こいそ伝』に詳しく記載されているとのこと。
しかし、残念ながら、今の私には敷島関係の方とのご縁がなく、
当面、天理図書館まで出かける時間がとれそうにない。
それで、ネット検索。

その結果、
れんだいこ」さんのホームページの中に、
山中(山田)こいそ様に関する記述を発見することができました。

一読し、非常に強い感銘を受けました。
そして、茶木谷先生が
「明治十一年から十二年頃の山中こいそ様の状況を各自で調べてみて下さい。
そうすれば、このご逸話をもっと奥深く、もっと豊かに感じることができるようになります。」
と仰られた意味が、とてもよくわかりました。

ぜひ皆さまにも、その感動をおすそ分けしたい、
そう思いました。

れんだいこ」様。
貴サイトにおける「山田伊八郎と❝こいそ❞との結婚」の下り、とても勉強になり、感動しました。
一人でも多くの方に読んで頂きたいとの思いから、当記事にてまるまる引用させて頂きます。
どうか、ご了承くださいませ。<m(__)m>

以下はすべて、
れんだいこ」HP>中山みき論別章【お道の高弟及び大教会史考】別章【山田伊八郎&こいそ】【山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚】からの引用です。
(当ブログ主による、改行や若干の字句修正はあります)

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚  (れんだいこHPより)

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その一)

※昭和四十九年八月 天理教敷島大教会 発行の『山田伊八郎伝』より、伊八郎の入信 及び ”こいそ”との結婚 に至るまでのエピソードを、長文のため 分割して紹介させて頂きます。

山田伊八郎は、
明治六年、二十六歳の春、
母”タカ”の里方、醍醐村(現、橿原市醍醐町)の吉井熊吉の親戚で
田中村 川原田中(現、橿原市田中町)の
多田孫次郎(通称彦兵衛)の 長女 ”ハル”(十七歳)と結婚した。
仲睦まじく暮す内に、一年、二年が過ぎた。
だが、何故か、この二人には子供が授からなかった。

伊八郎が 大師信仰に一層心を打ち込んだのも、
どうかして子供を与えてほしい、
との切なる願いがあったからである。

しかし それも実らぬまま、三年、四年と歳月がすぎていくと、
二人の心は次第にあせり、深刻な悩みとなっていった。

この地方では、妊娠する迄は 法律上の結婚手続きはせず、
まして 三年経って 子供の生れない場合は 離婚する、という風習があった。

当然のこととして、何度も 離婚の話は出たし、
里方からも 娘を引き取りたい、との申し出があった。

思い余った二人が こんなことを話しあった夜が 幾度かあった、という。

「こうして 何年も一緒にいても 行燈の影には 二人の姿しか映らん。これでは どうも淋しゅうてならん。いっそのこと別れて、あんたは又、他家へ嫁ぐ、私も他から貰う。そうしたら、互いに 子供が授かるかもしれん。いっそのこと、そうしたらどうやろう」 と。

他には何いうこともない 恵まれた二人であったが、
子供を求める思いは、又 格別である。
まして 伊八郎には、友達が つぎつぎと子供を授けられて、
人の子の親となっていく姿を見聞きするにつけ、
自分たち夫婦の淋しさ、悩みは、いよいよその度を増していくばかりであった。

だが、伊八郎は、どうしても 離婚にふみきれなかった。
そればかりか、信仰にますます力を入れ、子を産めない妻を いつくしみ、
また、村の為にも 人だすけに 心を砕いた。

そして遂には、結婚 四年後の三十歳の秋、
思いきって、”ハル” を正式に妻として 入籍の手続きをとったのである。

ところが 不思議にも、
その後 半年ほど経った 明治十一年四月、
”ハル” は、待望久しく 子供を身ごもったのである。
夫婦は勿論のこと、家族の喜びも 如何ばかりだったろうか。
とりわけ 伊八郎は、
以前にも増して 村の仕事にも、大師信仰にも 熱がこもり、
また 野良へ出ては、鍬持つ手にも、ひときわ力が入る、
明るく 楽しい毎日であった。

父 伊平も、殊の外うれしく、
「伊八郎も ようやく一人前になった」と 村人たちにも その喜びを語り、
この年 七月十三日には、正式に 家督を伊八郎に譲り渡した。

そして、翌 明治十二年一月十八日に、長男「伊太郎」が生まれた。
皆に待ち望まれ、祝福されて 生まれて来た男の子であった。

が しかし――、
この 待ち望まれた「伊太郎」も、
如何なる親神の御計りか、僅か 十日の寿命で出直していったのである。

やっと摑んだ と思った幸せ、喜びの絶頂から、
一夜にして 悲しみの淵へ 突き落とされた伊八郎は、
ただ 茫然自失、生きる気力さえも 失ってしまった。
代々続いた 熱心な大師信仰の徳も、
自分の今日までの 信仰信念も、はかなく消えて、
神仏の存在さえも疑い、深刻に世を厭い、眠れぬ夜が続いた。

一方、”ハル” も、
やっと生まれた 我が いとし子を死なせてしまった 心の傷は深く、
嘆き 悲しみの日々を過ごす内に、
遂には、今でいう ノイローゼのようになってしまった。

どうかして子供を与えてほしい と祈り苦悶した時以上に、
その時の伊八郎夫妻、また 山田家は、
急転して 悲惨な空気に包まれていったのであった。

こんな日が 約一ヵ月。
互いに 気力を失ってしまった二人は、
かつて「いっそ別れようか」と 幾度か語り合った話が本当になって、
明治十二年二月二十七日、遂に 離婚(※)にふみきったのである。
※子供が授からずに離婚した二人。その後、伊八郎は、山中”こいそ”と結婚して七人。”ハル”は、伊八郎の母の里、醍醐村の吉井熊吉(通称捨吉)と結婚して六人。それぞれに子供を授けられたのだが、それは後の話である。

思えば 結婚以来、二人 仲睦まじく暮しながら、一人の子供も育て得ずして、
六年間の結婚生活に 終止符をうったのである。

これが伊八郎をして、
道のよふぼくに引き出す為の、親神様の遠大なる御計らいだったとは、
当時、伊八郎自身はもとより、誰も知るよしもない。

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その二)

伊八郎は、”ハル” との離婚によって 心が晴れるものでもなく、
むしろ 以前にも増して 心はふさぎ、
村の惣代としてつとめてはいるものの、積極的に 村へ顔を出すことも少なくなり、
次第に 無口に 家に閉じこもりがちになっていった。

父 伊平はじめ 親戚知人らにとって、これがまた 新たな大きな心配の種となり、
殊に父 伊平は、日夜 神仏に祈願をこめるかたわら、
逢う人毎に「何とかならないものか」と尋ね歩いた。

そうする内に、日も過ぎ、村の春祭りの日がやってきた。
毎年 陰暦の四月十二日は「連座(れんぞ)」といって、
村中のどの家も、親戚を大勢招いて、村を挙げての 賑やかな春祭りの日である。

丁度この日、山田家に招かれて来た人の中に、
伊平の従兄弟で 西井上村に住む 美野田 新次郎 という人がいた。
この人が 伊八郎に、
「早いとこ再婚したらどうや」と一つの縁談をもって来た。

それは、
「大豆越村の大地主で 山中忠七さんの一人娘 ”こいそ” さんというのが、一度嫁入っていたのが 不縁(※)となり、今は 庄屋敷村の中山家で、神様の信仰一条に お仕えしているという。人柄も 大変評判が良いし、この人を貰わんか」
というのであった。
(※当時、美野田 新次郎は、山中”こいそ”の婚家の近くに住んでいたので、彼女の婚家での生活ぶりをよく知っていた。)

父 伊平はじめ 居合わせた親戚の者も 皆
「是非 その話をすすめてくれ」と 大賛成であった。

日頃、伊八郎の 沈みこんだ姿を見るにつけ、
「これで立ち直ってくれたら‥‥」と、
一同 祈るような気持ちで この話にのったのである。

伊八郎自身は、
まだまだ 長男死去、妻と離婚という 大きな痛手の中にあり、
再婚など 考え及ばなかったこととて、再三断った。
が しかし、父をはじめ 周囲の者のたっての勧めもあり、
ともかく、見合いをすることにした。

一方、山中家の方は、美野田氏からの この話に、
忠七先生も 非常に 心を動かされたようである。

やがて、両家の話合いで 見合いの日取りも決め、
いよいよ 庄屋敷の 教祖のもとから ”こいそ” を呼び戻し、
山中家で見合いすることとなった。
明治十二年五月のことである。

この見合いが 又、実に変わっていた。
丁度 その日は、焼けつくような炎天であったが、
山中家の中庭の 干し場一杯に筵が敷きつめられて、
そこには、麦の穂のよく干し乾かされたのが 一面に拡げられてあった。
そして、その中で ”こいそ”に、「麦かち(※)」をさせ、
それを 伊八郎に見せる という見合いであった。
(※唐竿という 長さ二メートルぐらいの 棒状の道具で 麦の穂を叩いて脱穀すること。麦の穂の粉が 汗ばんだ身体にひっついて、とてもかゆく、楽な仕事ではない。)

やっと生まれた 只一人の子供を亡くし、
妻とは別れて 悲しみの底にあった伊八郎は、
初めから この見合いには あまり乗り気ではなかった。

しかし、この日、
炎天下で、男でも楽ではない「麦かち」の仕事を甲斐々々しくやっている ”こいそ” が、
実は、女児二人を縁家に残して離縁となって帰って来た者である、
という話を伊八郎は聞かされた。

自分も今日まで苦しかったが、
なお それ以上に 悲惨な運命をたどった という彼女が、
親のいうまま 素直に、庄屋敷の生神様のもとで、
信仰一途に 明るく生きているという。

今日までの自分と ひき比べて、全く違った、
陽気三昧で 明るくほのぼのとした彼女。
伊八郎は、その人間味に すっかり魅せられてしまったのであった。

この日 ”こいそ” に逢ってからの伊八郎は、
全く、百八十度の 心の転換を遂げた。
以前の伊八郎に、見事に 立ち直ったのである。

あの人こそ 天からの授けだ。あの人を しあわせにしてあげたい。
伊八郎は、心底から そう思った。
再婚するならこの人、と 心に堅く決めたのである。

この一日の見合いで、
本人たちはもとより、双方の親たちも、大変良い縁だ、ということになり、
早速に 山中忠七先生から 教祖にその由を申し上げて、
娘 ”こいそ” の結婚お許しを 願い出られたのである。

ところが――。
意外にも、
『”こいそ”は決して何処へもゆくのやない。いつまでも此処にいるのや。』
との教祖のお言葉であった。
結局、この縁談には 神様のお許しがなく、
折角の話も 立ち消えとなってしまった。

それから半年、伊八郎は いろいろ考えたが、
やはり「再婚するならこの人」と 堅く決めた心は変わらず、
他に嫁を探す という考えも 毛頭なかった。

そこで、翌 明治十三年一月、
山田家から 再び美野田氏を通じて 山中家へ申し込んだ。
忠七先生もまた、教祖にお伺いされた。

しかし――、
やはり 教祖から結婚のお許しは 出なかったのである。

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その三)

これが教祖の、
伊八郎に対するおためしであったのだろうか。

この人こそ と思い、
この縁談に執心した伊八郎は 容易にあきらめきれず、
「本人も両親もみんな喜んでいるのに、山中さんは、神様のお許しがなければ嫁にはやれん というし、その神さんは 二度も断る。一体 どんな神さんなのだろう」
と、逆に 庄屋敷の神様に興味を持ちはじめた。

そして、
”こいそ”が住み込んで仕える、庄屋敷の神様のところへお詣りしてみよう
と思ったのである。
しかし、一人では行きにくかったのだろう。
村の友人 数名をさそって、この年 はじめておぢばに参拝したのである。

勿論、この時の参拝は、本当の信仰を求めてのものではない。
しかし、日頃 信仰心の深い伊八郎は、
やはり いい加減な気持ちでは参拝出来ず、
一寸 お詣り程度のものだったはいえ、
大師信仰の「願かけ」と同様、
伊八郎なりに精進して、真心込めて参拝したのである。

とにかく、この時の伊八郎のおぢば参拝や、
あるいは、その後の心の成人を見澄まされたものか、
翌 明治十四年早々、山田家より三たびこの縁談を願ったところ、
教祖から、
『嫁入りさすのやない。南はとんと道がついてないで、南半国道弘めに出す。』
とのお言葉をもって、鮮やかに お許しをいただいたのであった。

思えば、二度も破談になりながら、
なおも 熱心に懇願する 伊八郎と ”こいそ” の真実があったればこそ とはいえ、
この間、満二年間、教祖は、
二人の 心の成人ぶりを じっと ご覧下されていたのである。

”こいそ” には、三年間、ご自身のお側において 住み込みづとめをさせられ、
伊八郎には 伊八郎なりに、この道の信仰心を 植えつけられたのである。

教祖は、
これで いよいよ「南半国道弘め」の大任を 十分この二人の心に托し得る、
と お認めになり、
前述のようなお言葉とともに、二人の結婚を お許し下さったのである。

伊八郎と ”こいそ” の結婚式は、
同年春、即ち 明治十四年五月三十日(陰暦五月三日)に行われた。
伊八郎 三十四歳、”こいそ” 三十一歳であった。

鯉のぼりを立て、ちまきをつくって祝う 男の節句の 二日前、
当時の農家にとっては 実に忙しい時期の結婚だった。
殊に、それぞれ 大きな農家に育った二人には、
さぞ 一面の思い出も 深かったことであろう。

また、この年のおぢばでは、
教祖は、四月から おふでさき第十六号のご執筆、
四月八日(陰暦三月十日)秀司先生のお出直し。
(この為に、二人の結婚式が五月まで延期になった、ともいわれる)
五月五日(陰暦四月八日)には、滝本村の山で かんろだいの石見が行われ、
引続いて その石が、ひのきしんの手によって 賑やかに お屋敷まで運び出され、
九月初旬(陰暦八月初旬)までかかって、
かんろだいの石ぶしんが、二段まで出来あがった頃である。

二人にとっては、
農繁期はもとより、
こうした かんろだいの石ぶしんの始まりと 立て合っての
「南半国道弘め」の結婚は、
深く 心に刻まれるものが あったことであろう。

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その四)

さて、次に、
敷島の元「南半国道弘め」の土台となった、
”こいそ” の生い立ちについても、簡単に触れてみよう。

”こいそ”は、嘉永四年(西暦一八五一年)十一月十七日に、
父 山中忠七、母 ”おその” の次女として生れた。
(※戸籍は、安政元甲寅年(西暦一八五四年)二月三日生となっている。明治三十五年から「いゑ」と改めたが、改名、改籍の時期は 正確には分らない。明治四十年頃でも 婦人会の辞令に「こいそ」と署名したものもある。教祖は勿論のこと、夫 伊八郎も 終生「こいそ」と呼んでいた。なお、”こいそ” の山田家への入籍は、明治十四年九月十五日附である。) 

山中家は、
大和国 式上郡 大豆越村(現 桜井市 大字大豆越)で代々農業を営み、
近隣では「忠七さん地持ち」と唄われた程、
かなり知られた 田地持ちの富農であった。

しかし、文久二年、”こいそ” 十二歳の時、
祖父、姉、妹と三人続いて死亡。
しかも、母と兄が 重病で床に臥すという、
全く予期せぬ 悲惨な状態となった。

かくする内に、文久四年正月中頃から、
母 ”おその” がいよいよ重態となった時に、
不思議な親神様のおたすけをいただいて、
この道の人となったのである。

以来、忠七先生は、益々 信仰熱心になり、
入信一ヵ月後には「扇のさづけ」を頂いたのをはじめ、
教祖は 二度までも山中家へお入り込みになり、
秀司先生や小寒様は しばしばお越しになった。

この間、忠七先生は「肥のさづけ」「永代物種のさづけ」をいただき、
更には「神の出張り所」の理をいただくなど、
入信後僅かの間に、結講な理を 次々といただいた。

誠に、大豆越の山中家といえば、
親神様にいんねん深い家族であり、屋敷であった。

そんな中で、”こいそ”は、
自然と 信仰の世界に導かれていったのである。

正直で情け深く、特に ”こいそ”は、
姉妹亡きあと一人娘という立場になって、
病身勝ちな母の手助けをしていたのであるが、
この間には「秀司先生の嫁に」と、
たびたび懇望された事もあったようである。

しかし、明治五年二十二歳の時、
教祖にお伺いもしないまま、いとこの竜見栄造(※)と結婚した。
(※芝村へ嫁している 母の妹 ”なお” の長男で、学校の教員をしていた。)

この話には 父 忠七先生は、あまり気がすすまなかったのか、
あるいは又、たった一人残った愛娘を嫁に出す父親のいい知れぬ淋しさからか、
結婚当日は、夜具をすっぽりかぶって寝たまま、
遂に 起きて来られなかったという。

さて、この結婚は、
ごく近村であり、しかも いとこ同志の間柄でもあり、
なおまた、竜見栄造氏は、小学校が数少なかった明治五年の当時、
その教員をしているというので、よく釣り合った良縁だと誰もが考え、
親戚知人から祝福されて、”こいそ” は芝村へ嫁いだ。

だが結果は、人にうらやまれるような結婚生活では 決してなかった。
嫁いで間もなく、”こいそ”が大病を患い、ようやく全快した頃、
今度は、夫の女道楽がはじまった。

それでも、”こいそ”は、何一つ不足を口には出さず、
教祖のお姿を胸にえがいては 自らを励まし、こんな時こそ と精一杯つとめた。
しかし、夫の道楽は止まらず、
遂には 妾を家へ入れ込んで、”こいそ” を女中扱いするようになっていった。

たんのうの心を治めながらも、煩悶の日々を送る”こいそ”の姿を見て、
近所の人たちからも、「”こいそ”はんが可哀想や」と
夫を非難する声が出たのも当然である。

しかし、”こいそ” には既に二人の女の子が生まれ、
帰るに帰られぬ、全く暗い、
今にも心を倒してしまいそうな生活が続いたのであった。

教祖から、『早くお帰り。早く帰らせよ』とのお言葉までいただいて、
とうとう見るに見かねた山中家の両親や
山沢良治郎先生(母”その”の弟)らの相談で、
”こいそ” は、二人の女児を残して 無理に実家へ引き取られることとなり、
六年間にわたる 悲惨な茨の生活に終りをつげたのである。

実家に帰った”こいそ”は、
静かに、改めて 我が身、我が家のいんねんを悟り、
教祖のお言葉の一つ一つをしみじみと心に味わい、
真実の親神様の道へ 素直にお導きいただく機会を与えられたのであった。

やがて 教祖から、『早くおいで、おいで』との思召しのままに、
翌 明治十一年正月(二十八歳)から十三年暮まで満三ヵ年、
伊八郎のもとへ嫁ぐまで、教祖のお膝元にお引き寄せいただき、
勿体なくも、日夜お側にお仕えさせていただくことになったのである。

「六年間の苦しみの暮らしを通り越えて来た私は、教祖にもたれきって 信心一条に通らせてもろうたので、本当に夢のようやった。陽気ぐらしやった。」
と、後年よく語っていたように、
教祖のご慈愛を一身にうけて、
勿体なくも、御手づから常々髪を結っていただくなどして明け暮れしたという。
そうして、このお屋敷三ヵ年のつとめの内に、
はかり知れない結構な理のお仕込みをいただいた。

敷島の道の台になるにふさわしく、
おぢばでの伏せ込みを通して、教祖が 直々に”こいそ”をお育て下さったのである。

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その五)

(中略)こうして三ヵ年間、
教祖のお膝元で、教祖の思召し通りつとめさせていただき、
信仰的にも厳しくお育ていただいた ”こいそ” は、
『嫁入りさすのやない、南はとんと道がついてないで、南半国道弘めに出す』
とのお言葉をもって伊八郎との結婚のお許しをいただいて、
大豆越の実家へ帰ったのである。

そして、結婚直前の五月二十八日には「さんじゃのさづけ(※)」を拝戴し、
立派なよふぼくとして、勇躍、山田家の人となったのである。
(※「さんじゃのさづけ」…どのような”おさづけ”であるのか本書には説明が無い。不明である。)

思えば、既に、月日のやしろとしての教祖には、
「”こいそ”を三年間直々育て上げた暁には、南半国道弘めの土台として使い、その芯には山田伊八郎を立てる」
との、世界たすけのご構想が描かれていたのであろう。

こうして ”こいそ” は、三年間のつとめを終えた時、
教祖から
『先になると、この屋敷で暮すようになるのやで』
と仰せいただいたお言葉の通り、
後年、ご本部勤めの理をいただき、
老齢になって、雪が降り積もって歩き難い日には、
素足に草履をはいて竹の杖をついてまで、
喜び勇んで、
生涯、夫 伊八郎とともに、お屋敷へ勤めきったのである。

さて、伊八郎。
伊八郎は、”こいそ”との結婚三ヵ月経った 明治十四年の八月二十二日、
義父の山中忠七先生に連れられて、
生まれてはじめて、教祖の御前に出させていただいた。
勿論、生涯の信仰を 堅く心に誓ってのおぢばがえりである。

”こいそ”との縁談が出て以来、殊に結婚後は、
妻 ”こいそ” の口から、また、義父 山中忠七先生から、
おぢばのこと、教祖のこと、お道のお話をいろいろに聞かしてもらう内に、
山田家のいんねん、また、自分自身の今日までの道をふり返りつつ、
伊八郎なりに自分のおかれたいんねん、立場の自覚がついてきたのである。
これは、それまでの大師信仰では、到底、摑み得なかったものであった。

伊八郎は嬉しかった。これこそ 本当にたすかる道だと思った。
この教えを、毎日毎夜 熱心に聞かせてくれた”こいそ”が愛しく、
これからは 夫婦でもっともっと熱心に、
真剣に道を通る決心がついたのである。
早く おぢばの生神様のところへ参拝したい、という衝動にかられた。

この日 伊八郎は、途中、大豆越の山中宅へ立ち寄り、
忠七先生に伴われておぢばへ帰ったのである。
教祖は、『よう来た、よう来た』と、誰にでもそうであるように、
伊八郎にも お言葉をかけられ、
我が子か孫が帰って来たように 非常にお喜びになり、
いろいろと心を尽して お話をおきかせ下さった。
伊八郎には、その一言一言が、腹の底にしみわたるように、全くの感激であった。
この日以来 伊八郎は、少しの暇を見つけては、絶えず おぢばへ帰るようになり、
その都度 教祖は、諄々と、やさしく お話をお聞かせ下さったのである。

その時々のお話を、伊八郎の当時の手記から、いくつか書き写してみよう。

『世界中に 土地所の村名は 差し合うのが沢山ある。此の 庄屋敷という村名は、世界中どこたずねてもないで。この屋敷は 人間一列元の親里、人間創めた 元の屋敷や。世界中に もう一つ所とないで』、
『この世に長命をしたくば、真実の心を長く持ちて、しんの心は おとしつけて 心せき込め。長くは 長いご守護』、
『これから先になったら、石の長持ちの中で 隠れて居ろうと思うても、隠れておれん時がありますのやで』、
『子供の成人を楽しんでいよ。子供大きくなったら、みな 此の屋敷へ帰ってくるのやで』
などと、時々にお聞かせ下さったのである。

こうしたお話をだんだん聞かせていただくうちに、
「弘法大師を深く信仰していた時代から、いろいろ心に抱いていた疑問の一つ一つが解けていった」
と 伊八郎自身 書き遺している。

山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚について(その六)

この 明治十四年八月二十二日のおぢばがえりが、
伊八郎の本当の入信の日といえよう。

実際には 前述の如く、
その一年前にも おぢばに参拝しているのであるが、
その時は まだ信仰心あってのおぢばがえりとはいい難い。
”こいそ” との結婚を許さない庄屋敷の生神様とはどんな神様か、一寸お参りして見てこようか、
という程度の参拝だった。

このことは、後日、長男 倉之助にも話していたようで、
「父上の明治十四年 初めて本教を信奉せられ‥‥中略‥‥明治十三年、父上 庄屋敷へ参拝せられし事ありし由なれど、当時は いまだ信仰の域に達し居らざりしやに聞く」と倉之助は その日誌(※)にも書き誌している。(※明治四十四年九月二十六日附の日誌の一部。)

ともあれ伊八郎は、この日以来 たびたびおぢばがえりするようになり、
教祖からいろいろとお諭しをいただき、
同時に又、義父 山中忠七先生、妻 ”こいそ”の信仰に導かれて、
急速に信仰的に成人していった。
そして、”こいそ”と共に、村人への布教を開始したのである。

やがて、その年(明治十四年)十二月十七日(陰暦十月二十六日)、
出屋鋪村で八戸
――即ち、山田伊八郎、山本与平、田中徳平、上田音松、辻善十郎、谷田喜平、阪口勘平、北浦喜市郎の八戸(※)――
をまとめて講社を結成することとなり、教祖から『心勇組』の講名をいただき(※※)、
伊八郎は その講元としてお許しをいただいたのである。
(※ この内 山本、辻、阪口の三軒は 山田家の親戚である)
(※※ 明治十五年三月改の お屋敷の講社名簿に「倉橋村出屋鋪方講中 心勇組」と銘記されている)

思えば、『南半国道弘めに出す』との教祖のお言葉のまにまに
”こいそ”と結婚以来 半年余り、
また 生涯の信仰を心に誓っておぢばがえりしてから、
僅か三ヵ月余しか経過していない。

しかも、布教に歩いたとはいえ、
前記 八戸の人たちを含めて
不思議なご守護をいただいて入信する という人も居なかった。
(むしろ、講社結成後に 不思議なたすけを 次々とお見せいただいている)
ただ 教祖が、伊八郎夫妻の魂、いんねんを見澄まされての
南半国道弘めであることを痛切に感じるのである。

『南はとんと道がついてないで』との教祖の思し召しから、
おぢばの南、倉橋村出屋鋪におろされた一粒の種が、
ここに 伊八郎によって、立派に その芽をふき出したのである。

教祖のお喜び、お勇みは 如何ばかりか。
「心勇」と名付けて下さった講名に、
こうした教祖の御心が、大きくにじみあふれ出ているのを見る。

こうして心勇組――敷島が誕生した。

 以上、昭和四十九年八月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会史料集成部編)8~31ページより
(「れんだいこ」HP>中山みき論別章【お道の高弟及び大教会史考】別章【山田伊八郎&こいそ】【山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚】より)

以上、「れんだいこ」HP>中山みき論別章【お道の高弟及び大教会史考】別章【山田伊八郎&こいそ】【山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚】における文章を紹介させて頂きました。

さまよい人
さまよい人

感動しました

いかがでしたか?
私は、特に前半部分を読みながら涙が出ました。

茶木谷先生が、
明治十一年から十二年頃の山中こいそ様の状況を調べてみれば、
このご逸話をもっと奥深く、もっと豊かに感じることができるようになる、
と仰られた意味。

皆さまも、とてもよく分かられたのではないでしょうか。

茶木谷先生からの宿題に対する回答

れんだいこ様のHPを通して、
今回のご逸話当時の山中こいそ様の状態を知ることができました。
れんだいこ様ありがとうございました)
よくわかるように、改めてまとめておきます。

【茶木谷先生からの宿題】

このご逸話をもっとより深く味わうために、
このご逸話を残された明治11年~12年頃の「山中こいそさんの状態」を調べてみて下さい。

【答え】

《明治11年~12年頃の山中こいそさんの状態》

このご逸話を残された明治11年~12年頃の山中こいそ様は、
夫の女道楽に苦しみ、2人の子供を婚家に残して離縁した後、
おやしきに伏せ込まれていた時期であった。

《そこに至る経歴》

山中家は、文久2年、こいそ様12歳の時に、祖父、姉、妹、三人続いて出直し。
加えて、母と兄までもが重病で床に臥すという大節に見舞われた。
その2年後 こいそ様14歳の時に、
母親(おその)が親神様から不思議なたすけをいただき入信。
父・山中忠七先生が信仰を深めるに伴い、
山中家はお屋敷とのつながりも深まり、
こいそ様は、秀司先生の嫁に、と懇望されることもあった。

しかし、明治5年、こいそ様22歳の時に、
学校の教員をしていた、いとこの竜見栄造と結婚し、竜見家へ嫁いだ。
明治初期の当時、小学校の数は非常に少なく、
学校教員は社会的地位の高い職業であったので、
その結婚は、両家がよく釣り合った良縁だと誰もが考え、
親戚知人から大いに祝福されたのだった。

しかし――、
嫁いで間もなく、こいそ様は大病を患い、それがようやく全快した頃、
今度は、夫・栄造の女道楽が始まった。

こいそ様は、何一つ不足を口には出さず、
教祖のお姿を胸にえがいては 自らを励まし、こんな時こそ、
と精一杯つとめた。
しかし、夫の道楽は止まらず、遂には 妾を家へ入れ込んで、
こいそ様 を女中扱いするようになっていった。

煩悶の日々を送るこいそ様の姿を見て、
近所の人たちからも「こいそ”はんが可哀想や」と
夫を非難する声が出るほどであったが、
こいそ様には既に二人の女の子が生まれており、実家に帰るに帰られず、
今にも心を倒してしまいそうな生活が続いたのであった。

ついには、教祖から『早く帰らせよ』とのお言葉をいただくまでに至り、
とうとう 見るに見かねた山中家の両親や
山沢良治郎先生(母”その”の弟)らの相談で、
こいそ様は、二人の女児を残して、
明治10年、無理に 実家へ引き取られることとなった。
そして、6年間にわたる 悲惨な 茨の生活が終わりを告げた。

やがて 教祖から、『早くおいで』との思召しのままに、
翌 明治11年正月(28歳)から13年暮まで
満3ヵ年(=伊八郎のもとへ嫁ぐまで)、
教祖のお膝元にお引き寄せいただき、
日夜お側にお仕えさせていただくことになったのだった。

まとめ

clouds sky cumulus

【「目に見える徳」と「目に見えない徳」の構造】

  • 「目に見えない徳」があるから 幸せが身につく。

  • つまり、「目に見える徳」というのは、
    目に見える徳、目に見えない徳、と 並列に並べられるものではなくて、
    「目に見えない徳」が下にあって、その上に「目に見える徳」が乗っかる、
    そういう構造になっている。

  • 「目に見える徳」というのは、
    「目に見えない徳」にしっかり支えられることで、初めて 身につくものである。

以上、私が視て勉強になった、
茶木谷吉信先生による
陽気チャンネル【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」講師 正代分教会長 茶木谷吉信)のYouTube文字起こし紹介記事、
そして、そのご逸話主人公の 山中こいそ様を紹介する文章を お届けしました。

最後にもう一度、対象のご逸話、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』63番「目に見えん徳」
を掲載しておきます。

63 「目に見えん徳」

教祖が、ある時、山中こいそに、
「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」
と、仰せになった。

こいそは、
「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」
と、お答え申し上げた。

当ブログ、最近の記事では、
サラッと読めるようなものを 短めに、
ということを意識したい、と心がけておりました。

しかし、今回は、
意に反し、随分長くなってしまいました。
けれども、記事後半の「山中こいそ様」に関する文章は、
ぜひ 皆さまにも紹介したかったので、
長くなるのを覚悟の上で、そのまま 引用させて頂きました。

長文になってしまったので、最後まで読んで下さる人 いるかなぁ…、
とちょっと不安。

でも、きっと、必要な人に、必要な時に、神様が届けて下さるに違いない。
そう信じて、このままアップすることにします。

ではでは、今回はこのへんで。

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