Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
2024年新春から、新たに、
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】を開始しました。
これは、
天理教教祖年祭に向かう旬に 多少なりとも基本的教理に対する学びを深めたい、
との思いから、
上田嘉太郎先生が書かれた『基本教理を身につけよう』という本の「基本教理解説文」をひたすら書き写し、じっくり味わう、
という企画ものであります。
「八つのほこり」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。
この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。
2023年末に
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本の【前半】部分である
「十全の御守護」解説文を書き写し(=「十全の御守護」学習シリーズ)、
味わいました。
すなわち、
このシリーズは「十全の御守護」学習シリーズの続編でして、
「八つのほこり」という天理教の教えの基本、
それを 多少なりとも腹におさめることを目指し、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本の後半に書かれた
「八つのほこり」解説を書き写し それをじっくり味わう
という、【自己学習】の足跡であります。
初回である前回は、
【はじめに】として、「八つのほこり」の総論的な解説を味わいました。
2回目の今回から、
「八つのほこり」一つずつの解説文、
「八つのほこり」各論に入ります。
各論初回の今回は、
「八つのほこり」の中の【をしい】という心遣い
それについて解説して下さった部分の書写になります。
それでは、次節から、
じっくり味わっていくことと致しましょう。
上田嘉太郎先生「八つのほこり」解説 No,2
八つのほこり
上田嘉太郎先生の解説文を書写する前に、
まずは、「八つのほこり」全文を掲げておきます。
- 一に をしい とは、
心の働き、身の働きを惜しみ、
租税や納め物を出し惜しみ、
世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、
借りたる物を返すを惜しみ、
嫌なことは人にさせて 自分は楽をしたいという心。
すべて 天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いは
ほこりであります。 - 二に ほしい とは、
心も尽くさず、身も働かずして 金銭を欲しがり、
分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり、
また、何によらず、
あるが上にも欲しがる心は ほこり。
何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります。 - 三に にくい とは、
自分のためを思うて言うてくれる人を、
かえって悪く思うて その人を憎み、
また、嫁姑など 身内同士の憎み合い、
さらには 人の陰口を言うて 譏り、笑い、
その場で出来た罪を憎まず、
人を憎むなどは ほこりであります。 - 四に かわい とは、
わが身さえよければ 人はどうでもよい、
わが子の愛に引かされ、
食べ物、着物の好き嫌いを言わし、
仕込むべきことも仕込まず、
悪しきことも意見せずして、
気ままにさせておくのは よろしくありません。
また、わが身を思うて 人を悪く言うのも ほこりであります。
わが身 わが子が 可愛いければ、
人の身、人の子も 可愛いがらねばなりません。 - 五に うらみ とは、
わが顔つぶれたとて 人を恨み、
わが望みを妨げたとて 人を恨み、
誰がどう言うたとて 人を恨み、意趣にもち、
銘々 知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして
人を恨むのは ほこりであります。
みかぐらうたに
「なんぎするのも こゝろから わがみうらみで あるほどに」
とありますから、
人を恨まず 自分の身を恨むがよろしい。 - 六に はらだち とは、
腹の立つのは 気ままからであります。
心が澄まぬからであります。
人が悪いことを言うたとて 腹を立て、
誰がどうしたとて 腹を立て、
おのが理を立て、
人の理が入らんから 腹が立つのであります。
これからは 腹を立てず、
理を立てるようにするがよろしい。
短気、癇癪は わが身の徳を落とし、
わが身の命を損なうことがあります。 - 七に よく とは、
人より多く身につけたい、
何が何でも 取れるだけ取りたい、
また、
一獲千金や 不当な儲けを得よう とする心。
人の目を盗んで 数量をごまかし、
人を欺して 利をかすめ、人の物を盗み、取り込み、
何によらず 人の物をただ わが身につけるのは 強欲。
また 色情に溺れるのは 色欲であります。 - 八に こうまん とは、
力も無いのに 自惚れ、高ぶり、
富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、
己れは偉い、己れは賢いと思うて人を侮り、
人の欠点を探す、
また、知らぬことを知りた顔して通す、
これが こうまんのほこりであります。
「八つのほこり」~【をしい】上田嘉太郎先生 解説
それでは、
以下、上田嘉太郎先生の解説文を書写していきます。
「をしい」とは
をしい とは、
心の働き、身の働きを惜しみ、
租税や納め物を出し惜しみ、
世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、
借りたる物を返すを惜しみ、
嫌なことを人にさせて 自分は楽をしたい
という心。すべて 天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いは
ほこりであります。
「をしい」という心遣いの特徴
八つのほこりは、
程度の軽いものから順に並んでいる
と言われたりします。そういう点では、
をしい というのは、
次の ほしい が、自分の持っていない物を求める心遣いであるのに対して、
自分が持っている物を出そうとしない、
あるいは、できることをしようとしない
という心遣いですから、
軽いと言えば軽いように思えます。しかし、それだけに
誰もが 積みやすいほこりであります。
心の働き、身の働きを惜しみ
心の働き、と申しますと、
例えば、
ちょっとした心遣い、気配りも そうです。そうした心遣いを惜しむことが
案外 多いのではないでしょうか。もう 二十年余り前になりますが、
一年足らずのアメリカ留学中に、
これはいいマナーだな
と思ったことが いくつかあります。例えば、
デパートなどの入り口で、
前の人の開けたドアが 勢いよく閉まってきて、
ぶつかりそうになった経験が おありでしょう。
そんな時、
ほとんどの人が 必ず
次の人のために ドアを支える心遣いに 感心しました。以来、私は 今も 心がけていますが、
こんな 何でもない心配りにも、心和むものを覚えました。
かの地の人の 心のゆとりを 感じさせられた思い出です。エチケットと言えば、
人込みなどを通っていく時、
「エクスキューズ ミー(失礼します)」
と声を掛けて通っていく姿にも
好感を持ちました。国柄の違いでしょうが、
日本人の場合、あまり 言葉に出しません。恥ずかしがり屋の国民性も あるのでしょうか。
一般に、積極的に 声を掛けることをしません。
特に 最近は、
挨拶もしない人が増えてきたように思います。知り合い、特に 年下の人などと出くわした時、
当然「こんにちは」とか「おはよう」とか言ってくるだろうと、
こちらも 挨拶を返す心づもりでいるのに、
目を合わさずに 通り過ぎられたりして、
拍子抜けすることがあります。また、最初に 挨拶をしそびれて
何か居心地の悪い、気まずい思いをすることはないでしょうか。これなども
言葉を惜しんでいる姿だな
と思います。たとえ 年下であろうと 部下であろうと、
こちらから 声を掛けていくことだ と思います。
それは 家族同士でも 言えることです。また、
「ありがとう」とか「ごめんなさい」が、
なかなか言えない人も 少なくありません。このように 数え上げていくと、
毎日の生活の中で、
をしい というほこりを積んでいることが いかに多いか
に気づかざるを得ません。身の働きを 惜しみ とは、
骨惜しみ、なまくら です。ゴミのポイ捨ても その一例です。
ゴミ箱まで持っていくことを 骨惜しみする。
持ち帰ることを 骨惜しみする。
それが 町を汚しています。また、
タバコ一つ買うにも 車を使う、
というのも 骨惜しみの例でしょう。家庭などで、
自分の使った食器を そのままにしておくのも
骨惜しみの一つ と言えるでしょう。
洗い場まで運ぶ、さらには 自分で洗えば もっといいでしょう。勤め先などで、他人の湯呑みまで 進んで洗えるようになれば、
ほこりを脱して、徳積みの域です。
租税や納め物を出し惜しみ
租税、すなわち税金です。
納税は 国民の義務ですが、
それを 出し惜しむ。
甚だしいのは 脱税をする。また、
節税は違法ではない と言いますが、
これも 程度問題だと思います。やはり 納めるべきものは納める
という姿勢が 大切です。納め物というのは、
会費であるとか 分担金、また、相応の寄付 といったものです。
こうしたものを なかなか納めない、出し渋るのも
見よいものではありません。
相応の務めを欠き
子供ならいざ知らず、
一人前の大人になれば、
それ相応に 果たさねばならない役割、責任があります。ちょっとした 町内の世話役であったり、
PTAの役員、グループの幹事といった具合に、
みんなのために 一役買わねばならないことがあります。ところが、人によっては
そうした役から とことん逃げ回る人があります。自分から買って出るほどでなくとも、
誰かがしなければならない役回りなら、
せめて 逃げたりせずに、
すべき時には 引き受ける気持ちが 大切だと思います。
借りたる物を返すを惜しみ
世間では、
借りる時の エビス顔、返す時の エンマ顔
と言ったりもしますが、
『早く返済、礼を言うなり』とありますように、
なるべく早く、
感謝の気持ちを添えて 返すことを 心掛けたいものです。また、立場は逆になりますが、
有り余っている物でも、
人にやるのが惜しい というだけでなく、貸すのも惜しい
という心だって 使いかねません。無い中からでもお与えになった 教祖のひながたに照らして言えば、
余力があれば
少しは 人さまに分けてあげる、力を貸そう
という心を持ちたい と思います。
嫌なことを人にさせて 自分は楽を
別席のお話では、
汚きことを人にさせて、
となっていますが、
誰でも
そういう嫌なこと、汚いこと、しんどいことは なるべくしたくない、人にしてもらいたい
と思いがちなものです。バブルの頃からでしょうか、
三K という言葉を聞くようになりました。
キツイ仕事、汚い仕事、危険な仕事はやりたくない
というわけです。ですから、
そうした業種は どこも人手不足で、
外国からの出稼ぎの人に頼ってきた
という現実があります。若い人たちが
汗を流したり、泥にまみれたりして働くことを厭う風潮は、
国運が衰微していく兆候のように
思えてなりません。
天理に適わぬ 出し惜しみ、骨惜しみ
この
「天理に適わぬ」
というところに 深い意味があります。ですから、
無駄遣いをしたり、まだ使える物を捨てたりすることを
「勿体ない」と思うことは、
をしい のほこりでは ありません。教祖が 物を大切にされた様子は
『稿本天理教教祖伝逸話篇』の随所に 見ることができます。それは、例えば、
「人の反故を、作らんようにしておくれ」
「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」
「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」
(『逸話篇』112)、また
「物を大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで」(同138)
などのご逸話に よく窺えます。さらに、
物を大切にすることが 人を大切にすることにも続いている
ことをお教え下さっていることが、
先のご逸話や、また、皺紙に託しての
「人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで」(同45)
のお話から よく分かります。勿体ない と をしい の違いは、
初めに述べた、
かき寄せる手振り に照らして思案すれば 明らかです。即ち、
自己中心的であるか、ないか
が 基準になります。自分が飲んだり食べたり、遊んだりする金は 惜しまないのに、
困っている人を援助するための 出費や手間、時間を惜しむのも
よくあることです。しかし、力を出してこそ 体力がつくのです。
骨惜しみをして 身体を働かせなければ 体力も落ちるように、
そんなことでは、次第に徳を失い、魂がやせていく、
したがって 運命も下がっていくことに ならざるを得ないでしょう。また、理に外れた 骨惜しみ、出し惜しみは、
(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,126~132)
結局 その分を 他の人に負担させることになりますから、
決して 軽いほこりではありません。
「八つのほこり」【をしい】上田先生解説の自己覚書き
「をしい」という心遣いの特徴
- 八つのほこりは、程度の軽いものから順に並んでいる と説く人もいる。
- それは、をしい というのは、
次の ほしい が、自分の持っていない物を求める心遣いであるのに対して、
自分が持っている物を出そうとしない、
あるいは、できることをしようとしないという心遣いであるから、
その分 軽い、
という解釈に基づくもの と考えられる。 - しかし、現代社会的価値観の中でも罪悪感を伴うことが少ないだけに、
その分、をしい という心遣いは、
誰もが 積みやすいほこりであるとも言える。
心の働き、身の働きを惜しみ
- 人間は、ちょっとした心遣い、気配りを「惜しむ」ことが、案外多い。
挨拶をしない人の増加は、言葉を「惜しんでいる」姿だと考えられる。 - 「身の働きを 惜しみ」=骨惜しみ、なまくら のこと。
- 人は、知らず知らずの内に、
ゴミのポイ捨て、タバコ一つ買うのに を使う、家庭で自分の使った食器をそのままにしておく…等の小さな「骨惜しみ」を山のように積み重ねている。 - 毎日の生活の中で 知らぬ間に をしい というほこりを積んでいることがいかに多いか、気付く必要がある。
租税や納め物を出し惜しみ
- 租税=税金を 出し惜しむのも、をしい のほこり。
- 会費や分担金、また、相応の寄付 といった、
納め物を なかなか納めない、出し渋るのも、
をしい のほこり。 - 納めるべきものは納める という姿勢が 大切。
相応の務めを欠き
- 大人になれば、それ相応に 果たさねばならない役割、責任があるが、
人によっては そうした役から逃げ回る人がある。 - 自分から買って出るほどでなくとも、
誰かがしなければならない役回りなら、
逃げたりせず、すべき時には 引き受ける気持ちが 大切。
借りたる物を返すを惜しみ
- 『早く返済、礼を言うなり』とのお言葉があるように、
物を借りたならば、なるべく早く、
感謝の気持ちを添えて 返すことが望ましい。 - 逆に、物が余っている場合には、人にやるのが惜しいにとどまらず、
貸すのが をしい という心が湧き上がる恐れあり。 - 無い中からでもお与えになった 教祖のひながたに照らして、
余力があれば 少しは人さまに分けてあげる、力を貸そう
という心を持つことが望まれる。
嫌なことを人にさせて自分は楽を
- 誰でも、
嫌なこと、汚いこと、しんどいことは なるべくしたくない、人にしてもらいたい
と思いがち。 - しかし、それは をしい のほこりである。
天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみ
- 「天理に適わぬ」出し惜しみ
…無駄遣いをしたり、まだ使える物を捨てたりすることを「勿体ない」と思うこと
➡ をしい のほこりではない。 - 『稿本天理教教祖伝逸話篇』の随所に、教祖が 物を大切にされた様子が見てとれる。
同時に、ご逸話からは、
物を大切にすることが 人を大切にすることにも続いている
ことをお教え下さっていることも、よく分かる。 - 勿体ないと をしい の違い
……てをどりの、かき寄せる手振りに照らして思案すれば 明らか。
➡自己中心的であるかないか、が 基準になる。 - 骨惜しみをして 身体を働かせなければ 体力も落ちる如く、
天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみをしていると、
次第に徳を失い、魂がやせていく。
運命も下がっていく。 - をしい のほこり
……理に外れた骨惜しみ、出し惜しみ
=結局 その分を他の人に負担させることになる
➡決して 軽いほこりではない。
おわりに
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】2回目の今回は、
「八つのほこり」の中の
【をしい】というほこりの心遣いについての解説文、
それを書き写しました。
今回の上田先生の解説文書写を通して、
まず、「へぇ~」と思ったのは、
「八つのほこりは、程度の軽いものから順に並んでいる と言われたりします。」
という上田先生の記述でした。
以前、
茶木谷先生の「八つのほこりを科学する」
というYouTube動画を文字起こしした際に、
今の「八つのほこり」は
「をしい・ほしい・にくい…」の順番で教えられるが、
昔の文献では、
「ほしい・をしい・にくい……」の順番で教えられていた…
と解説して下さっていたのを思い出しました。
【逸話篇の世界を旅する5】番外編「八つのほこりを科学する」講師 正代分教会長 茶木谷吉信👇
茶木谷先生は、上記 動画の中で 次のように話しておられます。
(八つのほこりの)順番、現在 教えられているのは
「①をしい、②ほしい、③にくい、④かわい…」
の順番で教えられてるんですけど、(明治30年代に書かれて)残っている文書、ほとんどの文書は、
(YouTube【逸話篇の世界を旅する5】番外編「八つのほこりを科学する」正代分教会長 茶木谷吉信)より
「①ほしい、②をしい、③かわい、④にくい…」
の順番なんです。
つまり、
道の初期は、
ほしい がまず最初で、その次が をしい だった。
また、
にくい と かわい の順番も、今と逆だった。
それが、いつからか、
をしい が最初になって ほしい はその次になり、
また、にくい と かわい の順番も逆となり、
(昔)「①ほしい、②をしい、③かわい、④にくい…」
↓
(今)「①をしい、②ほしい、③にくい、④かわい…」
となった、
というわけですね。
茶木谷先生は、動画の中でその理由を
「昔の『八つのほこり』の順番は、
外に向かう心の働きと
内に向かう心の働きで
統一されていたのではないか」
(= 昔は、
内向きエネルギーの心遣いと
外向きエネルギーの心遣いを
【交互に】配置して 説いていた)
と推察しておられます。
文章だと分かりにくいので、
ぜひ 茶木谷先生の解説動画を視聴して頂きたい と思いますが、
改めて文字で表現してみるならば、
以下のように記述できるかと思います。
昔の順番=
「①ほしい、②をしい、③かわい、④にくい ⑤うらみ ⑥はらだち ⑦よく ⑧こうまん」
★【エネルギーの方向が内向きの心の働き】
……①ほしい ③かわい ⑤うらみ ⑦よく
★【エネルギーの方向が外向きの心の働き】
……②をしい ④にくい ⑥はらだち ⑧こうまん
内向きエネルギーの心遣いの「ほこり」=①③⑤⑦
外向きエネルギーの心遣いの「ほこり」=②④⑥⑧
昔は、
「内⇔外」交互に
説明して下さっていたのではないか?
そのように茶木谷先生は推察して下さっているわけです。
なるほど
「八つのほこり」の順番にも
そのような意味があったのか‼
と 茶木谷先生の動画を視聴して 驚かされたのでありましたが…
では、
それが何故、今のような順番になったのか?
大いに 気になるところであります。
きっと よく調べれば、
どこかに その経緯が 記述されているのでありましょう。
が、残念ながら、
それは 今の私の能力を超えた 問いでありまして、
現時点では、見つけることが出来ておりません。
そのような疑問に対するアンテナは これからも しっかり立てたままにしておき、
今後、
もし「八つのほこり」の順番が変更された
理由、経緯が分かったならば、
この記事を修正し、書き加えたい と思っています。
また、その際には、上田先生の
「八つのほこりは、程度の軽いものから順に並んでいる と言われたりします。」
という解説との 整合性も含めて 思案したい と思います。
単純に考えるならば…
初期は、
内向きエネルギーの心遣いと
外向きエネルギーの心遣いを
交互に配置して
「八つのほこり」を説いていた(=茶木谷先生解説)が、
後に、
ほこりの程度の 軽いものから順に
並び替えた(上田先生解説)…
という、
茶木谷生解説と 上田先生解説の組み合わせが
頭に浮かびそうなものです。
しかし、
きっと、そんな単純な話ではないのでしょうね。
基礎知識のない者が 軽々しく発言することは 慎まねば…(汗)
いずれにしましても、
どんなことも、掘り下げると なかなか深いものがある、
ということを
改めて 感じさせられるばかりです。
ということで、
今回は、
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】
「ほこり」の各論 解説編。
各論 初回として、
をしい のほこり解説文を、
書写学習 致しました。
これから しばらくの間、
「八つのほこり」学習シリーズを続けたい と思っています。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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