Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
新年あけましておめでとうございます。
今回は、
2024年=天理教立教187年 最初のブログ記事となります。
昨年(2023年)は、
お道的には、天理教教祖百四十年祭に向かう三年千日年祭活動期間に突入。
世界では、コロナ禍は一段落したものの、ウクライナ戦争や中東紛争…等々、あちこちで紛争や対立があったり、その他様々、大きな動きが見られました。
教祖年祭と立て合って起きてくる世界の大きな動き・うねりに、人類全体が翻弄される一年だったように思います。
そのような激動の一年を乗り越えて、気が付けば「新しい年」。
天理教教祖百四十年祭に向かう三年千日年祭活動の2年目となります。
きっと本年も、
教祖年祭が近付くにつれて、昨年以上に大きな出来事が私たちに押し寄せてくることでありましょう。
お道(天理教)に引き寄せられた者として、
身の周りに見せられる様々な出来事の中には成人を促す親心が籠められていることを信じ、
『教祖百四十年祭』という大きな節目に向け、
少しでも親心にお応えできる成人を遂げられるように、
【真実の道】を求めて歩ませて頂きたいもの と思います。
さて、当ブログでは、
前回まで、
お道(天理教)の基本的教理を少しでも身につけたいとの思いから、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた
「十全のご守護」解説を書き写す自己学習を、
「十全の御守護」学習シリーズとして記事にして 公開致しました。
前回までで「十全の御守護」学習シリーズは終了したのですが、
実は、
そのシリーズ教材である上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本において、
『「十全の御守護」を味わう』という解説文はその【前半】部分で、
その後に続けて【後半】部分として、
『「八つのほこり」の説き分け』という解説も記述されています。
「八つのほこり」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。
この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。
そもそもは、
お道(天理教)に引き寄せられた者として、
年祭に向かう旬に、多少なりとも基本的教理に対する学びを深めたい
との思いから「十全の御守護」の書き写しを開始したわけです。
ですから、
上田嘉太郎先生が同書の中で続けて解説して下さっている「八つのほこり」についても、
――それは間違いなくお道の【基本教理】ですし――
引き続きその解説文を書き写して、
お道(天理教)の教えの基本を少しでも身につけたい、
と考えました。
ということで、今回から、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本の【後半】部分である「八つのほこり」解説、
それを書き写す【「八つのほこり」自己学習シリーズ】を開始することと致します。
このシリーズは、「十全の御守護」学習シリーズの続編のような企画でありまして、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた「八つのほこり」解説を書写することで
「八つのほこり」の教えをいささかなりとも腹におさめたい、
という意図のもとに取り組む
【自己学習】の足跡であります。
思いのほか前置きが長くなってしまいました。
急ぎ、本題に入りましょう。
今回は、
「上田嘉太郎先生解説「八つのほこり」【はじめに】」
部分の書写になります。
上田嘉太郎先生「八つのほこり」解説 No,1
「八つのほこり」解説【はじめに(総論)】
覚え、身につけ、活かす
お互い「八つのほこり」については よく承知しているつもりでいますが、
その説き分けまで言える人は あまり いないように思います。別席のお取り次ぎの中で、
この ほこりの説き分けの条になると、
それまでうつ向いていた人が 顔を上げ 聞き耳を立てる
といった姿を 毎回のように見てきました。そんなところにも、
誰もが思い当たる、最も身近な基本教理であることが 窺えるように思います。また、これを わが身に当てはめて思案し、
毎日の生活の上にも生かしてもらいたい
との思いから、
例を挙げながら、さらに 噛み砕いて述べたのが 本稿です。次に掲げますのは、《ようぼくの栞》からの引用です。
これは 別席のお話の説き分けを元に、
『信者の栞』(教義及史料集成部編)などの表現も参考に、
覚えやすく、親しみやすいようにと、
若干縮めたり、表現に手を加えたりしたものです。
八つのほこり
一に をしい とは、
心の働き、身の働きを惜しみ、
租税や納め物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、
借りたる物を返すを惜しみ、
嫌なことは人にさせて 自分は楽をしたいという心。
すべて 天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いは ほこりであります。二に ほしい とは、
心も尽くさず、身も働かずして 金銭を欲しがり、
分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり、
また、何によらず、あるが上にも欲しがる心は ほこり。
何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります。三に にくい とは、
自分のためを思うて言うてくれる人を、かえって悪く思うて その人を憎み、
また、嫁姑など 身内同士の憎み合い、
さらには 人の陰口を言うて 譏り、笑い、
その場で出来た罪を憎まず、人を憎むなどは ほこりであります。四に かわい とは、
わが身さえよければ 人はどうでもよい、
わが子の愛に引かされ、食べ物、着物の好き嫌いを言わし、
仕込むべきことも仕込まず、悪しきことも意見せずして、
気ままにさせておくのは よろしくありません。
また、わが身を思うて 人を悪く言うのも ほこりであります。
わが身 わが子が 可愛いければ、
人の身、人の子も 可愛いがらねばなりません。五に うらみ とは、
わが顔つぶれたとて 人を恨み、
わが望みを妨げたとて 人を恨み、
誰がどう言うたとて 人を恨み、意趣にもち、
銘々 知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして
人を恨むのは ほこりであります。みかぐらうたに
「なんぎするのも こゝろから わがみうらみで あるほどに」
とありますから、
人を恨まず 自分の身を恨むがよろしい。六に はらだち とは、
腹の立つのは 気ままからであります。
心が澄まぬからであります。
人が悪いことを言うたとて 腹を立て、
誰がどうしたとて 腹を立て、
おのが理を立て、人の理が入らんから 腹が立つのであります。
これからは 腹を立てず、理を立てるようにするがよろしい。
短気、癇癪は わが身の徳を落とし、
わが身の命を損なうことがあります。七に よく とは、
人より多く身につけたい、何が何でも 取れるだけ取りたい、
また、一獲千金や 不当な儲けを得よう とする心。
人の目を盗んで 数量をごまかし、人を欺して 利をかすめ、
人の物を盗み、取り込み、
何によらず 人の物をただ わが身につけるのは 強欲。
また 色情に溺れるのは 色欲であります。八に こうまん とは、
力も無いのに 自惚れ、高ぶり、
富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、
己れは偉い、己れは賢いと思うて 人を侮り、人の欠点を探す、
また、知らぬことを知りた顔して通す、
これが こうまんのほこりであります。
心遣いを反省する手掛かり
「八つのほこり」の話をずっと手繰っていきますと、
お道の教理全体に関わってまいります。
天理教の教えというのはどういうものか、
というようなところにまで つながってくるのであります。天理教は 世界一れつを陽気ぐらしに導く教えでありますが、
銘々 一人ひとりにとっては、運命を切り換える教えであります。
また、ひいては 世界の運命をも切り換えていく教えである、
ということができる と思います。地球環境の危機が叫ばれる今日、
このまま うかうかと、人間が 皆 気ままな通り方をしていると、
遠からず 人類全体が滅びてしまうことにも なりかねません。そうであれば なおさら、
一人ひとりの運命を切り換え、
人類全体の運命を切り換えて 救いあげる だめの教えの使命は重大である、
と言えましょう。では、運命を切り換えるには どうすればいいのでしょうか。
この教えは、拝み祈祷の信心ではありません。
願い通りの守護ではなくて、
心通りの守護を下さる神様でありますから、
日々の心遣い、生き方を改め、転換することによって
運命を切り換える教えであります。おさしづに、
人間というものは、身はかりもの、心一つが 我がのもの。
たった一つの心より、どんな理も 日々出る。
(明治22・2・14)
とあります。人間は 身体を親神様からお借りしている、
心だけが 自分のものです。その たった一つの心から
どんな理も、健康も、また、家々の治まりも、仕事の上のことも、
何もかも 一切の御守護が、
この たった一つの 心の使い方から出てくる、
とおっしゃっています。ですから、
心の道を切り換え、親神様の思召に沿うような心に入れ替えていくことによって、
自分を取り巻く一切のものが
より良い方向へと 切り換わっていくのであります。心を入れ替えるためには、
まず これまでの通り方を 反省しなければなりません。この 反省をし、心遣いの間違いを払拭する手掛かりを、
ほこりに託して お教え下さっています。そして、親神様のお受け取り下さるような心に 入れ替える。
さらに、その心をしっかりと定めて 変わらないように 持ち続ける、実行する
ということが肝心です。その 年限の積み重ねの中に、
運命が切り換わっていくのであります。
いんねんが切り換わっていく
と申してもいいでしょう。いんねん という言葉だけを聞きますと、
何か ちょっと暗いような感じがするかもしれません。しかし、いんねんという語は、
元々は 悪い意味では使っておられません。おふでさきの中には いんねんという言葉が 何度も出てまいりますが、
はっきりと悪い意味でお使いになっているのは、
このよふハ あくしまじりで あるからに
いんねんつける 事ハいかんで (一 62)この一首だけです。
それ以外は すべて
元のいんねん
という意味で お使いになっています。元のいんねん というのは
ひとことで言うと、
人間は、親神様によって 元のぢばで、陽気ぐらしをするために創られた
ということです。
これは そういう意味では
明るいいんねんです。ですから、
いんねん という言葉だけを聞くと、ちょっと暗いような気がする
というのは、
これまでの使われ方、お道だけでなくて、
元々は 仏教に由来する言葉でしょうが、
古くから 多分に 暗い説き方がされてきたことによるのでしょう。運命といい、いんねん というようなことを申しましたが、
要は、親神様のお喜び下さるような心を定めて、これを 日々実行する、
そうした通り方の積み重ねが 運命を切り換えていくことになる、
ということです。これは 逆に言うと、
親神様の思召に適わないような心遣い、通り方をずっと積み重ねていくと、
運命が だんだんと下がって来る ということにもなります。それは 埃を払うことなく、ほったらかしにしておくと、
だんだん黒ずみ汚れて、
ついには 一寸やそっとでは きれいにならないようなものであります。毎日 掃除している家であれば、
ハタキをかけたぐらいできれいになるかもしれませんが、
一週間も十日も 放っておくと、ハタキぐらいでは きれいにならない。
もう何年も ということになれば、
雑巾で拭いても きれいにならない。ついには こそぎ落とそうか ということになったり、
あるいは、
もう捨ててしまおう ということにも なってくるのであります。
ほこりの例えの含蓄
ほこりという言葉をお使いになっていることには、
非常に 深い意味合いがあると思います。ほこりは 払えば取れる、簡単に掃除ができる
という意味がまずあります。これを 例えば
罪 というような言葉で聞きますと、
何か 拭い切れない 暗い刻印
という感じになります。おふでさきの中で、
最初に ほこり という語が出てくるお歌は、
一れつに あしきとゆうて ないけれど
一寸のほこりが ついたゆへなり (一 53)であります。
悪というものは ないんだ、
世間で言われているようなことも、一寸 ほこりがついただけなんだ、
と仰せになっています。一寸 と仰せられて、
払えば取れる、払うんだよ
と 励まして下さっています。
非常に有り難い親心を感じます。しかし 反面、
ほこりという例えには 厳しさもあります。ほこりは 払えば簡単に取れるものではありますが、
それだけに うっかりしていると、
知らず知らずのうちに積もる
ということがあります。私も 教服のたもとをひっくり返してみて びっくりしたことがあります。
綿ぼこりが いっぱい溜まっていたのです。誰も そんな所に埃を溜めようとは 思っていないわけです。
また、ひっくり返して見る ということもない。そのように 知らず知らずに積もって、
しかも なかなか気がつかない というのが、
ほこりの恐ろしいところであります。それだけに
心のほこりは 毎日払わせていただくことが 大切であります。おふでさき第三号には、
なにゝても やまいとゆうて さらになし
心ちがいの みちがあるから (三 95)このみちハ をしいほしいと かハいと
よくとこふまん これがほこりや (三 96)ほこりさい すきやか はろた事ならば
あとハめづらし たすけするぞや (三 98)と、病というものは 元来無い、
心遣いの間違いが 身上に現れて、いわゆる 病になるんだ、
その間違いというのは、
をしい・ほしい・かわい・よく・こうまん の心遣いで、
これが 心のほこりだ と仰せになっています。和歌という制約上からか、
にくい・うらみ・はらだち の 三つが抜けていますが、
このように ほこりについて、
おふでさきの中で はっきりとお述べ下さっているのであります。また、ほこりの例えは
胸の掃除という例えと、いわば セットになっています。さらに、澄む、濁る といった例えにも 続いています。
ほこり という例えの 奥行きの深さを 思わずにはおれません。おふでさきに、
このみちハ どんな事やと をもうかな
せかい一れつ むねのそふぢや (十六 57)とありますように、
胸の掃除こそ 本教信仰の 重要な角目であります。
入り込んで働いて頂くために
別席のお話に、
「このほこりが 積もり重なるにより、
親神様が 体内に入り込んで働くことが出来ん、と仰せられます。
人間も同じこと、
ほこりだらけのその中で、きれいな働きは 出来ますまい」
という一節があります。ほこりだらけの心遣いで通っていながら、
親神様に入り込んで働いてもらおう と思っても、
そんな むさくるしい所へは よう入らん、
とおっしゃっている ということです。人間でも 同じだろう、
仕事場が埃だらけ、散らかし放題では いい仕事はできまい
と、非常に分かりやすい例えを用いて おっしゃっています。ですから、
ほこりを払って心を澄ます
ということは、
親神様に入り込んで働いて頂く、
また 親神様の思召を分からせて頂くための 非常に 大切な角目であります。その 心のほこりを払うための手掛かりとして お聞かせ下さっているのが
「八つのほこり」です。きれいな心になりなさいよ、
というようなことは どんな宗教でも言うだろう と思います。しかし、もっと具体的に、
どのように掃除をし、心をきれいにするのか、
ということを教えて頂いているのが「八つのほこり」の話です。例えば
青年さんに、きれいにしておけ と言ったところで、
掃除の道具はどこにあるやら分からない、
どういうふうに掃除していいやら分からない
ということだってあるでしょう。ここにハタキがある。ハタキは こういうふうに使うんだよ。
箒は、雑巾は、と教えてもらったら、
どんな子供でも 掃除の仕方が分かるようなものであります。ただ 心をきれいにしなさい というだけではなく、
ほこりの心遣いを 八つ数え上げて、
しかも、それを 詳しく説き分けて下さっていることによって、
非常に身近で、実行しやすいものになっている と思います。
ほこりは自分中心の心遣い
みかぐらうたでは、「八つのほこり」のうち、
よく だけが 登場します。
手振りは かき寄せる格好をします。これは 物や金銭を求めることは もちろんですが、
人に対して、あれこれと要求する、注文をつける
ことも含んでいるように 思います。即ち、
自分中心の心遣い、利己的な心遣いであります。その意味では、
よく の語は みかぐらうたの中で、
八つのほこり の代表として用いられている
と言ってもよいのではないでしょうか。ちょっと考えてみると お分かりになるように、
八つのほこりの心遣いは、どれも 自分中心の心遣いです。この手振りの味わいは なかなか深いものがあります。
折にふれて 引き合いに出すことになるでしょう。それでは、八つのほこり の説き分けについて、
(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,114~125)
(次回から)順を追って お話ししましょう。
「八つのほこり」【はじめに(総論)】上田先生解説の自己覚書き
覚え、身につけ、活かす
- お互い「八つのほこり」については よく承知しているつもりだが、
その説き分けまで言える人は あまりいない。 - これを わが身に当てはめて思案し、毎日の生活の上に 生かしていくことが 重要。
心遣いを反省する手掛かり
- 天理教は 世界一れつを陽気ぐらしに導く教えであるが、
銘々 一人ひとりにとっては、運命を切り換える教え。
ひいては 世界の運命をも 切り換えていく教え。 - 運命を切り換えるには どうすればいいのか。
- この教えは、拝み祈祷の信心ではない。
願い通りの守護ではなくて、心通りの守護を下さる神様であるから、
日々の心遣い、生き方を改め、転換することによって 運命を切り換える教え。 - 人間は 身体を親神様からお借りしている、
心だけが 自分のもの。 - その たった一つの心から
どんな理も、健康も、また、家々の治まりも、仕事の上のことも、
何もかも 一切の御守護が、
この たった一つの 心の使い方から出てくる。 - だから、
心の道を切り換え、
親神様の思召に沿うような心に 入れ替えていくことによって、
自分を取り巻く一切のものが
より良い方向へと 切り換わっていく。 - 心を入れ替えるためには、
まず これまでの通り方を 反省しなければならない。 - 反省をし、心遣いの間違いを払拭する手掛かりを、
ほこりに託して お教え下さっている。 - 親神様のお受け取り下さるような心に 入れ替える。
さらに、
その心をしっかりと定めて 変わらないように持ち続ける、実行する
ということが肝心。 - その 年限の積み重ねの中に、
運命が切り換わっていく
=いんねんが切り換わっていく。 - いんねん という言葉だけを聞くと、
ちょっと暗いような感じがするかもしれないが、
いんねん という語は、
元々は 悪い意味では使っておられない。 - おふでさきの中には いんねん という言葉が 何度も出てくるが、
ほとんど「元のいんねん」
という意味で お使いになっている。
(元のいんねん というのは、人間は、親神様によって 元のぢばで、陽気ぐらしをするために創られた ということ) - 要は、
親神様のお喜び下さるような心を定めて、これを 日々実行する、
そうした通り方の積み重ねが 運命を切り換えていくことになる、
ということ。 - 逆に言うと、
親神様の思召に適わないような心遣い、通り方をずっと積み重ねていくと、
運命が だんだんと下がって来る ということにもなる。 - それは
埃を払うことなく、ほったらかしにしておくと、
だんだん黒ずみ汚れて、
ついには 一寸やそっとでは きれいにならないものとなる
ようなものである。
ほこりの例えの含蓄
- ほこりという言葉をお使いになっていることには、
非常に 深い意味合いがある。 - ほこりは 払えば取れる、簡単に掃除ができる
という意味がある。
しかし 反面、
ほこり という例えには 厳しさもある。 - ほこりは 払えば簡単に取れるものではあるが、
それだけに
うっかりしていると、知らず知らずのうちに積もる。
知らず知らずに積もって、しかも なかなか気がつかない
というのが、ほこりの恐ろしいところ。 - それだけに
心のほこりは 毎日払わせていただくことが 大切。 - 病というものは 元来無い、
心遣いの間違いが 身上に現れて、いわゆる 病になる。 - その間違いというのは、
をしい・ほしい・かわい・よく・こうまん の心遣いで、
これが 心のほこりだ と仰せになっている。 - ほこり の例えは
胸の掃除 という例えと、セットになっている。
さらに、
澄む、濁る といった例えにも 続いている。
ほこり という例えの 奥行きの深さが窺える。 - 胸の掃除こそ 本教信仰の 重要な角目。
入り込んで働いて頂くために
- 別席のお話に、
「このほこりが 積もり重なるにより、
親神様が 体内に入り込んで働くことが出来ん、
と仰せられます。
人間も同じこと、
ほこりだらけのその中で、きれいな働きは 出来ますまい」
という一節がある。 - ほこりだらけの心遣いで通っていながら、
親神様に入り込んで働いてもらおう と思っても、
そんな むさくるしい所へは よう入らん、
とおっしゃっている。 - ほこりを払って心を澄ます ということは、
親神様に入り込んで働いて頂く、
また 親神様の思召を分からせて頂くための
非常に 大切な角目。 - その 心のほこりを払うための手掛かり
として お聞かせ下さっているのが
「八つのほこり」。 - きれいな心になれ、
というようなことは どんな宗教でも言うが、
もっと具体的に、
どのように掃除をし、心をきれいにするのか、
ということを教えて頂いているのが
「八つのほこり」の話。 - ただ 心をきれいにしなさい というだけではなく、
ほこりの心遣いを 八つ数え上げて、
しかも、
それを 詳しく説き分けて下さっていることによって、
非常に身近で、実行しやすいものになっている。
ほこりは自分中心の心遣い
- みかぐらうたでは、
「八つのほこり」のうち よく だけが登場する。 - 手振りは、かき寄せる格好をする。
これは 物や金銭を求めることは もちろんだが、
人に対して、あれこれと要求する、注文をつけることも含む。
即ち、
自分中心の心遣い、利己的な心遣い。 - その意味では、
よく の語は みかぐらうたの中で、
八つのほこりの代表として用いられている
と言ってよい。 - 八つのほこりの心遣いは、どれも 自分中心の心遣い。
- よく の手振りには、なかなか深い味わいがある。
おわりに
2024年、当ブログ 新年 初っ端の記事は、
新シリーズ【「八つのほこり」自己学習シリーズ】
幕開けをお知らせする記事でした。
そして、
「八つのほこり」学習シリーズ 初回の今回は、
「八つのほこり」ご教理の総論的な解説、
いわゆる「はじめに」に該当するような解説文、
それを書き写しました。
「八つのほこり」のご教理は、
少年会員がまず最初に教えてもらう御教えのようなイメージがあります。
本当に、お道(天理教)の教えの基本中の基本
と言って差し支えないのではないでしょうか。
しかし、このたび、
上田嘉太郎先生の「八つのほこり」解説書写開始にあたって、
上田先生著『基本教理を身につけよう』「八つのほこり」解説をパラパラ読みしましたが、
その浅い接触の中でさえ、
そこには、掘り下げると深い意味合いがあるということが伝わってきました。
自己学習スタート前から、
これまで ちょっと軽んじ過ぎていたなぁ…
そんな反省しきりの気持ちに包まれております(汗)
ですから、
このたびの【「八つのほこり」自己学習シリーズ】を通して、
お道(天理教)の基本の基本である「八つのほこり」という教えを、
少しでも深く腹に納めたい…
そのように思っています。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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