【にくい】「八つのほこり」学習No,4

【にくい】「八つのほこり」学習No,4 八つのほこり

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

2024年年明けから開始した
「八つのほこり」自己学習シリーズ、
今回で4回目になりました。

この「八つのほこり」学習シリーズは、
昨年末の「十全の御守護」学習シリーズの続きとして、
『基本教理を身につけよう』という本の 後半に書かれた 
上田嘉太郎先生による「八つのほこり」解説を 書き写して、
お道 (天理教) の基本教理である「八つのほこり」についての学びを
多少なりとも 深めることを 目指しています。

上田嘉太郎著『基本教理を身につけよう』表紙

「八つのほこり」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。

この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。

すなわち、このシリーズは
「十全の御守護」学習シリーズの 続編でして、
「八つのほこり」という 天理教の教えの基本、
それを 多少なりとも 腹におさめることを目指し、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本の 後半に書かれた
「八つのほこり」解説を書き写し それをじっくり味わう
という、【自己学習】の足跡であります。

前回は「八つのほこり」の中の
ほしい】という心遣い
の解説部分を 書写しました。

今回は、
にくい】というほこりの解説部分を書写します。

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上田嘉太郎先生「八つのほこり」解説 No,4

八つのほこり

上田嘉太郎先生の解説文を書写する前に、
まずは、「八つのほこり」全文を 掲げておきます。

  1. 一に をしい とは、
    心の働き、身の働きを惜しみ、
    租税や納め物を出し惜しみ、
    世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、
    借りたる物を返すを惜しみ、
    いやなことは人にさせて 自分は楽をしたいという心。
    すべて 天理にかなわぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いは
    ほこりであります。

  2. 二に ほしい とは、
    心も尽くさず、身も働かずして 金銭を欲しがり、
    分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり、
    また、何によらず、
    あるが上にも欲しがる心は ほこり。
    何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります。

  3. 三に にくい とは、
    自分のためを思うて言うてくれる人を、
    かえって悪く思うて その人を憎み、
    また、よめしゅうとめなど 身内同士の憎み合い、
    さらには 人の陰口を言うて そしり、笑い、
    その場で出来た罪を憎まず、
    人を憎むなどは ほこりであります。

  4. 四に かわい とは、
    わが身さえよければ 人はどうでもよい、
    わが子の愛に引かされ、
    食べ物、着物の好き嫌いを言わし、
    仕込むべきことも仕込まず、
    悪しきことも意見せずして、
    気ままにさせておくのは よろしくありません。
    また、わが身を思うて 人を悪く言うのも ほこりであります。
    わが身 わが子が 可愛いければ、
    人の身、人の子も 可愛いがらねばなりません。

  5. 五に うらみ とは、
    わが顔つぶれたとて 人をうらみ、
    わが望みを妨げたとて 人を恨み、
    だれがどう言うたとて 人を恨み、意趣いしゅにもち、
    銘々 知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして
    人を恨むのは ほこりであります。
    みかぐらうたに
    なんぎするのも こゝろから わがみうらみで あるほどに
    とありますから、
    人を恨まず 自分の身を恨むがよろしい。

  6. 六に はらだち とは、
    腹の立つのは 気ままからであります。
    心が澄まぬからであります。
    人が悪いことを言うたとて 腹を立て、
    誰がどうしたとて 腹を立て、
    おのが理を立て、
    人の理が入らんから 腹が立つのであります。
    これからは 腹を立てず、
    理を立てるようにするがよろしい。
    短気、癇癪かんしゃくは わが身の徳を落とし、
    わが身の命を損なうことがあります。

  7. 七に よく とは、
    人より多く身につけたい、
    何が何でも 取れるだけ取りたい、
    また、
    一獲千金いっかくせんきんや 不当なもうけを得よう とする心。
    人の目を盗んで 数量をごまかし、
    人をだまして 利をかすめ、人の物を盗み、取り込み、
    何によらず 人の物をただ わが身につけるのは 強欲。
    また 色情におぼれるのは 色欲であります。

  8. 八に こうまん とは、
    力も無いのに 自惚うぬぼれ、高ぶり、
    富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、
    己れは偉い、己れは賢いと思うて人をあなどり、
    人の欠点あなを探す、
    また、知らぬことを知りた顔して通す、
    これが こうまんのほこりであります。

「八つのほこり」~【にくい】上田嘉太郎先生 解説

lightning strikes and small boats

それでは、
以下、上田嘉太郎先生の解説文を書写していきます。

「にくい」とは

にくい とは、
自分のためを思うて言うてくれる人を、かえって 悪く思うて その人を憎み、
また、嫁・姑など 身内同士の 憎み合い、
さらには 人の陰口を言うて そしり、笑い、
その場で出来た罪を憎まず、人を憎むなどは
ほこりであります。

「にくい」「かわい」という心遣いの特徴

をしいほしい というのは、
主として 物に対する 心遣いであります。

自分の持っている物を手放すのは 惜しい、
あるいは、できる働きもしない 骨惜しみ。

また、自分が持っていない物を欲しい ということです。

さらに、
人に「ああして欲しい、こうして欲しい」という場合でも、
求めているのは その人の行為です。
直接、人に向けられた感情では ありません。

これに対して、
にくい とか、かわい というのは 人に対する感情です。

世間でも 愛憎などと申しますが、
人に対する 好悪こうおの念の行き過ぎを ほこりとして戒めておられます。

そういう点から言って、
これらは やはり、
をしいほしい よりも、一寸 重いほこりになるのではないか
という気がします。

自分のためを思うて 言うてくれる人を、かえって 悪く思うて その人を憎み

例えば、
近ごろの新入社員は、叱ると すぐに辞める
というようなことを聞きます。

だから、うっかり 叱れない。
辞めないまでも 叱ったらすねてしまうとか、根に持つとか、
なかなか 難しいようです。

新入社員に限らず、
子供に対してでも 叱らない、叱れない
という親が 増えてきています。

そんなことをして 家出でもされたら大変だとか、グレられたら大変だとか、
余計な心配をして、言うべきことも 言えない。

今は 叱らずにおだてる時代だ、ということも 耳にします。

私なんかも 教会を預かっている関係で、
若い者を たまに 叱ることがあります。

これも 注意しやすい人と、しにくい人があります。

やはり 思いきって 叱れるのは、
こっちが 安心して叱れるだけの 徳分を持ってるんだろうな
という気がします。

ここで厳しく注意したら、ふくれるのと ちがうかなあ、
というような場合には、
やはり 注意しにくいものです。

そういうことを思いますと、
叱ってもらえる、注意してもらえるのは 有り難い、
という気持ちになることが 大切です。

更に、
注意、忠告する側の人間に
信念、自信がないから 言わない、言えない
ということも ありましょう。

双方 共に言えることは、
感情的にならず、
あるいは たとえ 感情的になったとしても、
理のあるところを 尋ねる、思案する、
そして、理に沿っていくことだと思います。

にくい という 言葉の響きは ちょっと きついのですが、
こうして 具体的に 説き分けてもらいますと、
にくい という ほこりの中には、こういう心遣いもあるんだなあ、
自分も ついつい そんな心で通っていたなあ、
と 思い当たることがあると思います。

嫁・姑など 身内同士の 憎み合い

別席のお話では「嫁を憎み、養子を憎み……」とありますが、
今日では 嫁いびりの 逆のケースも 少なくありません。

いずれにせよ、
こうしたことは ままある と申しますか、
昔から「嫁・姑」は永遠のテーマである、
などと 言ったりもします。

しかし、お道では、
嫁というのは 元来 自分の娘であるものが 家に帰って来たのだ、
と お教えいただいています。
実に 味わい深い教示だ と思います。

これは、嫁の側から言えば、
しゅうと姑 が 本来の親だ ということです。

これを お互いが
しっかりと 心に治めさせていただくことが 根本です。

だからと言って、すぐさま仲良くなる、
というわけには いかないかもしれませんが、
それを 知っているのと 知らないのとでは
大いに違ってくる と思います。

知らなければ、
互いに 相手を責める、憎むばかりのところを、
反省する手掛かりを 聞かせてもらっているおかげで、
何とか 治まっている
というケースだって あるでしょう。

それはそれで 信心の賜物 と言えましょう。

信仰したら 何でも完璧にやれるんだ、
というものでは ありません。

みんな 出発点も違えば、
成人の度合いも 異なるのですから、
形に現れる姿も さまざまです。

しかし、確かなことは、
信仰せずにいる場合より、
お道の信仰をしているおかげで
必ず結構になっている ということです。

ですから、
本当ならば、こんなことでは済まないところを、
それよりも 一段も二段も 軽く済ましていただいているのだなあ、
と 喜ばねばなりません。

しょっちゅう 喧嘩しているかもしれないけれども、
口喧嘩だけで済んでいるから 有り難い。

殴り合いになったり、刃物を振り回したり、家を飛び出したり、
そんなことにならないだけでも 有り難いなあ、
そんな具合に 喜んでいれば、
また 家の空気も 変わってくるはずです。

人の陰口を言うて 譏そしり、笑い

これも にくい のほこりだよ、
と おっしゃっているのであります。

私は にくい のほこりなんかと関係がない、
と思っている人でも、
このように具体的に聞かせてもらうと、
そうでもないなあ、
と 思い当たることが あるのではないでしょうか。

また、
今日は つまらんうわさ話をしたなあ、
と 反省もできるのではないか と思います。

私の家の入信は
明治九年、上田ナライト という方の身上が 動機であります。

この方は 本席様の後を受けて、
おさづけの理を お渡し下さった方ですが、
伝記を読みますと、
人の悪口を 一切言わない、
また 聞くのも 非常に嫌いだった
ということです。

人が そういううわさ話をしていると、
スッと席を立たれた。
そんな方だった ということを知りまして、
われわれ その血につながる者は なおさら、
こうしたことを いつまでも 忘れないようにさせてもらわなければ
と 感じました。

その場で出来た 罪を憎まず、人を憎むなどは ほこりであります

例えば、車の接触事故など、
ちょっとした過失から 起こったことで、
決して 悪気があったわけではない、
事故を起こした者が 謝っている。

しかし、その人に 憎しみをぶつける、くってかかる
というようなことも 見かけます。

立教以前の御事跡ですが、
米盗っ人を捕らえて、
代官所へ訴え出よう といきまいている人たちに、
「それは 貧に迫ったあまり 盗む気になったのであろう。その心が かわいそうや」
と、許されたばかりでなく、
米を与え、後々を諭された 教祖のお姿こそ、
「罪を憎んで 人を憎まず」
の極み と申せましょう。

(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,139~143)

「八つのほこり」【にくい】上田先生解説の自己覚書き

cityscape covered by a dreary, overcast sky

にくい

  • をしいほしい というのは、
    主として 「物」に対する心遣い。

  • 人に対して「ああして欲しい、こうして欲しい」
    という場合であっても、
    求めているのはその人の「行為」であり、
    直接、人に向けられた感情ではない。

  • これに対して、
    にくい とか、かわい というのは 「人」に対する感情。
    人に対する好悪こうおの念の行き過ぎを ほこりとして戒めておられる。

  • そういう点から言っても、
    にくい とか、かわい の心遣いは、
    をしいほしい よりも、
    やや 重い ほこりになる と考えられる。

自分のためを思うて 言うてくれる人を、かえって 悪く思うて その人を憎み

  • 近ごろは、「叱る」ということが難しい時代。

  • 注意しやすい人と、しにくい人がある。
    思いきって叱れるのは、こちらが安心して叱れるだけの徳分を持ってる人。

  • 叱られる立場になった場合には、
    叱ってもらえる、注意してもらえるのは 有り難い、
    という気持ちになることが大切。

  • 注意、忠告する側の人間に 信念、自信がないから
    言わない、言えない、
    ということもある。

  • 叱る側、叱られる側、双方に言えることは、
    感情的にならず、万が一 感情的になったとしても、
    理のあるところを 尋ねる、思案する、
    そして、理に沿っていくこと。

  • にくい という言葉の響きは ちょっときついが、
    にくい というほこりの中には、
    そのような心遣いもあるのだなあ、
    自分も ついついそんな心で通っていたなあ、
    と、自分を振り返ることが大切。

嫁・姑など 身内同士の憎み合い

  • 昔から「嫁・姑」は永遠のテーマ。

  • お道では、
    嫁というのは 元来 自分の娘であるものが 家に帰って来たのだ、
    とお教えいただいている。
    これは、嫁の側から言えば、しゅうと姑 が 本来の親だ ということ。
    これを お互いがしっかりと 心に治めさせていただくことが 根本。

  • すぐさま仲良くなる というわけにはいかないが、
    それを 知っているのと 知らないのとでは 大いに違ってくる。

  • 知らなければ、互いに相手を責める、憎むばかりのところを、
    反省する手掛かりを聞かせてもらっているおかげで、何とか治まる
    という場合もある。

  • 信仰したら何でも完璧にやれるというものではない。
    みんな 出発点も違えば、成人の度合いも 異なるのだから、
    形に現れる姿も さまざま。

  • 確かなことは、
    信仰せずにいる場合より、お道の信仰をしているおかげで 必ず結構になっている
    ということ。

  • 本当ならば、こんなことでは済まないところを、
    それよりも一段も二段も軽く済ましていただいている、
    と喜ばせていただきたい。

  • そんな具合に喜んでいれば、
    また 家の空気も変わってくる。

人の陰口を言うて そしり、笑い

  • 人の陰口を言って そしったり 笑ったりするのも、
    にくい のほこり。

  • 私は にくい のほこりなんかと関係がない、
    と思っている人でも、
    思い当たることがあるはず。

  • ほこりの心遣いを確認しておくことで、
    また、今日は つまらない うわさ話をしてしまった、
    と 反省もできるのではないか。

その場で出来た 罪を憎まず、人を憎むなどは ほこりであります

  • 米盗っ人を捕らえて 代官所へ訴え出ようといきまいている人たちに、
    「それは 貧に迫ったあまり盗む気にあったのであろう。その心が かわいそうや」
    と、許されたばかりでなく、
    米を与え 後々を諭された 教祖のお姿こそ、
    「罪を憎んで 人を憎まず」
    の極みと言える。

おわりに

quiet sea surrounded by darkness

【「八つのほこり」自己学習シリーズ】4回目の今回は、
「八つのほこり」の中の
にくい】というほこりの心遣いについての解説文、
それを 書き写しました。

をしいほしい というのは「物」に対する心遣いだが、
にくい とか かわい というのは 「人」に対する感情で、
そういう点から言って、
これら( = にくい とか かわい の心遣い)は やはり、
をしいほしい よりも 一寸 重いほこりになるのではないか
という気がします。

(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,139)

という 上田先生の解説、
心に染みます。

岸見一郎・古賀史健著『嫌われる勇気』
という アドラー心理学を紹介した本の中に
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」
と記述されていたことを 思い出しました。

“人間が創造されたのは、親神が その人間が陽気ぐらしをするのを見て 共に楽しみたい と思召されたから”
というのが 天理教の教え。

ですから、
人間が創られた由縁である「陽気ぐらし」を実現するためには、
陽気ぐらしを阻む「人間の悩み」
それの多くを占めるとアドラーが指摘するところの
「対人関係の悩み」
それを解決して 良好な人間関係を保つことが、
絶対的に必要不可欠と言えましょう。

そういった意味でも、
「物」に対する心遣いである をしいほしい という ほこりよりも、
「人」に対する心遣いである にくいかわい という ほこりの方が重い と言えるのではないか、
という上田先生の解説は、すごく腑に落ちます。 

「陽気ぐらし」世界実現のためには
「人」に対する望ましくない ほこり の心遣いを克服することの方が
より優先度が高い、
というのは、論理的にも整合性がとれていますものね。

これまで「八つのほこり」というご教理について、
何となく漠然と、全てを 並列的に考えていました。

しかし、このように掘り下げて頂くことで、
平面的で 二次元的にしか見えていなかった世界に 急に「立体感が」出てきて、
そこに「厚みと奥行き」が感じられるようになってくるから 不思議です。

前々回の記事(【をしい】「八つのほこり」学習No,2)の中で、
「八つのほこりは、程度の軽いものから順に並んでいる と言われたりします。」
という 上田先生の解説を紹介しました。

それを押さえつつ、
改めて「八つのほこり」のご教理を唱えると、
これまで「をしいほしいにくい……」と、
何も考えることなく 呪文の如く唱えていた それぞれの心遣いが、
また 新たな意味を身にまとって 響いてくるように
私には 感じられてきたのでありました。

これも、
どんなことも、深く掘り下げることで 今まで見えていなかった世界が見えてくる、
ということの一例 と言えそうです。

掘り下げる=勉強することの大切を、改めて 教えられる気がします。

ということで、今回は、
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】
「八つのほこり」の中の にくい のほこり 解説文を、
書写学習 致しました。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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