【ほしい】「八つのほこり」学習No,3

【ほしい】「八つのほこり」学習No,3 八つのほこり

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

2024年の年明けから
「八つのほこり」学習シリーズを開始しました。

昨年末の「十全の御守護」学習シリーズの続きとして、
『基本教理を身につけよう』という本の後半に書かれた 
上田嘉太郎先生による「八つのほこり」解説を書き写して、
お道(天理教) の基本教理である「八つのほこり」についての学びを
多少なりとも 深めることを目指しています。

上田嘉太郎著『基本教理を身につけよう』表紙

「八つのほこり」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。

この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。

すなわち、このシリーズは
「十全の御守護」学習シリーズの 続編でして、
「八つのほこり」という 天理教の教えの基本、
それを 多少なりとも 腹におさめることを目指し、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本の後半に書かれた
「八つのほこり」解説を書き写し それをじっくり味わう
という、【自己学習】の足跡であります。

前回は、「八つのほこり」の中の
をしい】という 心遣いの解説部分を書写しましたので、

今回は、
ほしい】という ほこりの解説部分を書写します。

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上田嘉太郎先生「八つのほこり」解説 No,3

八つのほこり

上田嘉太郎先生の解説文を書写する前に、
まずは、「八つのほこり」全文を掲げておきます。

  1. 一に をしい とは、
    心の働き、身の働きを惜しみ、
    租税や納め物を出し惜しみ、
    世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、
    借りたる物を返すを惜しみ、
    いやなことは人にさせて 自分は楽をしたいという心。
    すべて 天理にかなわぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いは
    ほこりであります。

  2. 二に ほしい とは、
    心も尽くさず、身も働かずして 金銭を欲しがり、
    分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり、
    また、何によらず、
    あるが上にも欲しがる心は ほこり。
    何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります。

  3. 三に にくい とは、
    自分のためを思うて言うてくれる人を、
    かえって悪く思うて その人を憎み、
    また、よめしゅうとめなど 身内同士の憎み合い、
    さらには 人の陰口を言うて そしり、笑い、
    その場で出来た罪を憎まず、
    人を憎むなどは ほこりであります。

  4. 四に かわい とは、
    わが身さえよければ 人はどうでもよい、
    わが子の愛に引かされ、
    食べ物、着物の好き嫌いを言わし、
    仕込むべきことも仕込まず、
    悪しきことも意見せずして、
    気ままにさせておくのは よろしくありません。
    また、わが身を思うて 人を悪く言うのも ほこりであります。
    わが身 わが子が 可愛いければ、
    人の身、人の子も 可愛いがらねばなりません。

  5. 五に うらみ とは、
    わが顔つぶれたとて 人をうらみ、
    わが望みを妨げたとて 人を恨み、
    だれがどう言うたとて 人を恨み、意趣いしゅにもち、
    銘々 知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして
    人を恨むのは ほこりであります。
    みかぐらうたに
    なんぎするのも こゝろから わがみうらみで あるほどに
    とありますから、
    人を恨まず 自分の身を恨むがよろしい。

  6. 六に はらだち とは、
    腹の立つのは 気ままからであります。
    心が澄まぬからであります。
    人が悪いことを言うたとて 腹を立て、
    誰がどうしたとて 腹を立て、
    おのが理を立て、
    人の理が入らんから 腹が立つのであります。
    これからは 腹を立てず、
    理を立てるようにするがよろしい。
    短気、癇癪かんしゃくは わが身の徳を落とし、
    わが身の命を損なうことがあります。

  7. 七に よく とは、
    人より多く身につけたい、
    何が何でも 取れるだけ取りたい、
    また、
    一獲千金いっかくせんきんや 不当なもうけを得よう とする心。
    人の目を盗んで 数量をごまかし、
    人をだまして 利をかすめ、人の物を盗み、取り込み、
    何によらず 人の物をただ わが身につけるのは 強欲。
    また 色情におぼれるのは 色欲であります。

  8. 八に こうまん とは、
    力も無いのに 自惚うぬぼれ、高ぶり、
    富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、
    己れは偉い、己れは賢いと思うて人をあなどり、
    人の欠点あなを探す、
    また、知らぬことを知りた顔して通す、
    これが こうまんのほこりであります。

「八つのほこり」~【ほしい】上田嘉太郎先生 解説

brown short coat dog lying on gray carpet

それでは、
以下、上田嘉太郎先生の解説文を書写していきます。

「ほしい」とは

ほしい とは、
心も尽くさず、身も働かずして 金銭を欲しがり、
分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり、
また、何によらず、
あるが上にも欲しがる心は ほこり。

何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります。

心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがり

これも 誰もが使いやすい心遣いです。

自分が働いただけの収入を得たい と思うのは正当ですが、
できることなら 働いた以上に貰いたい と思いがちなものです。

あるいは、
楽をして、人一倍貰いたい
というようなことだって思いかねません。

それは ほしい のほこりだよ
と、はっきり おっしゃっているのであります。

分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり

分を忘れて ということですから、
自分の甲斐性 と申しますか、徳分をわきまえずに、
ご馳走を食べたい、いい物を着たい と思う。

これも よくあることです。

ごく普通の主婦が、サラ金に手を出して 行き詰まった、
という話を 時折 耳にします。

そんな とんでもない奥さん というわけでもないのに、
例えば
着物を買いたい、そのお金が手元に無いから借りた とか、
ちょっと 分不相応に見栄を張るところがあって、
といった具合に です。

いわば 普通の主婦が、
ついつい「分を忘れて……」、
ちゃんと 夫が仕事を持っているにもかかわらず、
そうした事情を 起こすケースがあります。

男の場合は、
賭け事のたぐいや、
若い人では 車がからむことが 多いように感じます。

いずれも
見栄っ張りで 金銭に関してルーズだ
という 共通点があるように思います。

ここに「分を忘れて」とありますが、
これは
お金が有るとか 無いとか ではなくて、
あくまで 徳分を忘れて、ということだと思うのです。

ですから、
お金があれば 贅沢ぜいたくしていい、
ということではない。

俺は 金持ちだから ご馳走を食べるんだ、
いい着物を着るんだ、
いい車に乗るんだ、
ということではない と思います。

よく 大勢で食事をしたりする時、
例えば
グループで旅行に行った時なんかに、
食事の不足を言う人がいます。

こんなもの食えるか、というような……。
そこまで言わずとも、
まずい とか、冷めた とか。

そういう人を見ると 何だか情けない、
いやな気分になります。

自分が どんなに裕福であっても、
粗末な食事をも 感謝して食べられる人が、
本当に 徳分のある人ではないでしょうか。

また、
無いから 我慢している、質素にしている
というのではなくて、
有っても慎む ということが大切だ と思います。

有っても慎む、
自分の徳分をわきまえる と申しますか、
徳分を越えない
という気持ちを 持ちたいものです。

何によらず、あるが上にも欲しがる心は ほこり

これも、
今日のように 物に恵まれた 豊かな時代にあっては、
まま あることです。

まだまだ使える道具でも、
粗大ゴミの所に捨ててある。

新しい物が出た、
より便利な物が出た ということになると、
まだ使える物であっても 捨ててしまう、
というようなことが 近ごろは 珍しくありません。

着る物でも、
ほとんど手を通さないまま 捨ててしまうことだって あるでしょう。

小学校でも、
子供たちが 落とし物を取りに来ない
という話を聞きます。

使い捨てどころか、
使える物も捨てて 顧みない風潮には、
そら恐ろしいものを 感じます。

そのツケは、
すでに ゴミ問題をはじめとする環境問題 という形で
突きつけられています。

大量生産、大量消費 という生活スタイルを
見直すべき時が 来ています。

すべてにわたって 徹底して慎む、全く買わない となると、
これはまた 窮屈になってきますが、
ある先輩の先生の話に、
なるほど と思ったことがあります。

十のものが欲しい、と思う時に、
全くあきらめる というのは
立派ではあっても、なかなか できることではない。

そんな時、
八つぐらいで めて慎む、
ということを 教えてもらったことがあります。

全く駄目 ということではなくて、
十のものなら
八つ あるいは、七つぐらい で我慢する。

あと 二、三分、
あるいは 何がしかでも 慎ましてもらう、
という気持ちが 大切かと思います。

何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります

『広辞苑』(岩波書店)の編者である
新村にいむらいずる 博士の「たんのう考」によりますと、
「たんのう」の原義は
足りている
ということだそうです。

足りぬ、足んぬ
と変化した とのことですが、
このことからも分かりますように、
たんのうとは 満足した という心の状態です。

苦しい境遇に置かれたり、
悲しい出来事に出遭った時などに よく使われる語であるだけに、
我慢や 辛抱と 混同されやすいのですが、
その 受け止め方、気分のベクトルは
反対向き と言っていいでしょう。

困難な状況の中で たんのうするとは、
歯を食いしばって我慢したり、
泣く泣く辛抱することではありません。

これで 結構、有り難い
と 前向きに受け止め、
心を励まして 踏ん張ることです。

また、そこに
運命の切り換わる道が 開けてくるのであります。

従って、
たんのうは、あきらめの心情でも ありません。
無い状態、悪い状態を 無気力に受容することではありません。

「たんのうは 前生いんねんのさんげ」
というお言葉に 窺えるように、
成ってきた事柄を
成るべくして成ったもの として受け止め、
そのってくるところを思案し、
芳しくない運命が切り換わるよう、
理づくり、努力をすることを 決意することです。

ほしい のほこりに 即して言えば、
金銭や物が十分にないことを 不足に思ったり、
いたずらに嘆いたりするのではなく、
それが
現在の自分に相応ふさわしい与え
と納得して受け止める
ということです。

また、
金品ばかりでなく、
人に
「ああして欲しい、こうして欲しい」
と 求める心遣いも、
ほしい のほこりの内でしょう。

無いことや、
意に沿わぬ人に対して 不満を抱いたり、
人のせいにしたりするのではなく、
成ってきた理を思案し、
自らの勤め方によって 必要な物が 与わるよう、
また、
人間関係が改善されるように 努めることが 肝心です。

(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,133~138)

「八つのほこり」【ほしい】上田先生解説の自己覚書き

curly dog on field of green grass

心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがり

  • 「心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがる」
    というのは、誰もが使いやすい心遣い。

  • 自分が働いた以上に貰いたいと思ったり、
    楽をして人一倍貰いたいと思う心遣いは、
    ほしい のほこりだ、
    と はっきり おっしゃっていることを肝に銘じたい。

分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり

  • 分を忘れる
    (=自分の甲斐性、徳分をわきまえずに、ご馳走を食べたい、いい物を着たいと思ったりするような心を遣うこと)
    ➡ 誰にでも よくあること。

  • 「分を忘れて」とあるが、
    これは、
    お金が有るとか 無いとか ではなくて、
    あくまで「徳分を忘れて」ということである
    ことを 忘れないようにしたい。

    ➡ お金があれば 贅沢ぜいたくしていい、
    ということではない。

  • 自分が どんなにお金があり 裕福であっても、
    粗末な食事をも 感謝して食べられる人が、
    本当に「徳分のある人」。

  • 無いから我慢している、質素にしている
    というのではなく、
    「有っても慎む」ということが大切。

  • 「有っても慎む」
    ➡ 自分の徳分をわきまえる・徳分を越えない という気持ちを 持ちたいもの。

何によらず、あるが上にも欲しがる心はほこり

  • 「何によらず、あるが上にも 欲しがる」
    ➡ 今日のように 物に恵まれた 豊かな時代にあっては、まま あること。

  • 使い捨てどころか、
    使える物も捨てて 顧みない現代の風潮には、
    そら恐ろしいものが 感じられる。

  • そのツケは、
    すでに ゴミ問題をはじめとする環境問題
    という形で 突きつけられている。

  • 大量生産、大量消費 という生活スタイルを見直すべき時が来ている。

  • 人間は、
    すべてにわたって 徹底して慎む、全く買わない
    というのは、現実的には困難。

  • よって、
    十のものが欲しい と思う時に、
    八つぐらいでめて慎む、
    十のものなら 八つ、 あるいは 七つぐらいで我慢する、
    あるいは、何がしかでも 慎ましてもらう、
    =「慎み」ということを心掛けたい。

何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります

  • 『広辞苑』編者・新村にいむらいずる 博士によれば、
    「たんのう」の原義は 足りている ということ。
    ➡「たんのう」= 満足した という 心の状態のこと。

  • 我慢や 辛抱と 混同されやすいが、
    その受け止め方、気分のベクトルは 反対向き。

  • 困難な状況の中で たんのうするとは、
    歯を食いしばって 我慢したり、
    泣く泣く辛抱することではない。

  • 「これで結構、有り難い」
    と 前向きに受け止め、心を励まして 踏ん張ること。

    ➡運命の切り換わる道が 開けてくる。

  • たんのうは、あきらめの心情ではない。
    無い状態、悪い状態を 無気力に受容することでもない。

  • 「たんのうは 前生いんねんのさんげ」

    ➡成ってきた事柄を 成るべくして成ったもの として受け止め、
    その ってくるところを思案し、
    芳しくない運命が 切り換わるよう、
    理づくり、努力をすることを 決意すること。

  • ほしい のほこりに 即して言えば、
    金銭や物が十分にないことを 不足に思ったり、
    いたずらに嘆いたりするのではなく、
    それが “現在の自分に相応ふさわしい与え”
    と納得して 受け止めるということ。

  • 金品ばかりでなく、
    人に
    「ああして欲しい、こうして欲しい」
    と 求める心遣いも、
    ほしい のほこり。

  • 無いことや、意に沿わぬ人に対して
    不満を抱いたり、人のせいにしたりするのではなく、
    成ってきた理を思案し、
    自らの勤め方によって 必要な物が 与わるよう、
    また、
    人間関係が改善されるように 努めることが 肝心。

おわりに

golden retriever holding a drop of water

【「八つのほこり」自己学習シリーズ】3回目の今回は、
「八つのほこり」の中の
ほしい】というほこりの心遣いについての解説文、
それを 書き写しました。

 ほしい の上田先生 解説文を書き写しながら、
「いやぁ…、これ( ほしい )は まさしく『ほこり』の王様だなぁ…」
と、改めて感じました。

 ほしい の心遣い というのは、
いわゆる「『欲』の心」ということでしょう。

仏教などでも、“全ての苦しみの根源は「『欲』の心」” 等と 教えられているのを 耳にしたりしますし、
道徳的にも、
“『欲』の心遣いはよろしくない” という価値観は、
既に、広く万人に共有されているような気がします。

天理教は、
「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後だめの一点、元の親を知らす」
道だと 教えられるわけですが、
ほしい の心遣い=「『欲』の心」は 良くない心遣い、
というのは、
既に、「十のものなら 九つまで教え」られた部分に 含まれているように 思われます。

ですので、
お道(天理教)の教えに 長年 なじんできた人ですら、
ほしい】の心遣いはほこりだ、
という教えを知っていても、
ついつい、よくある 道徳話の一つぐらいに 受けとめがちで、
改めて、きちんと 我が心を振り返り、見つめ直す、
と いうところまで 意識を及ばせることが 少ないかもしれない、
と思いました。

今回、上田先生の ほしい 解説文を書き写しながら、
今さらながら、
いかに我が心が ほこりまみれであるか、
ということを 思い知らされました。

ほしい の心遣いに対する 上田先生の戒めの言葉が、
さまよう 私の心に 深く刺さります。

何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります

困難な状況の中で たんのうするとは、
歯を食いしばって我慢したり、
泣く泣く辛抱することではありません。

これで結構、有り難い
と 前向きに受け止め、
心を励まして 踏ん張ることです。

また、そこに
運命の切り換わる道が 開けてくるのであります。

従って、
たんのうは、あきらめの心情でも ありません。
無い状態、悪い状態を 無気力に受容することではありません。

「たんのうは 前生いんねんのさんげ」
という お言葉に窺えるように、
成ってきた事柄を 成るべくして成ったものとして 受け止め、
その ってくるところを 思案し、
芳しくない運命が 切り換わるよう、
理づくり、努力をすることを 決意することです。

ほしい のほこりに 即して言えば、
金銭や物が十分にないことを不足に 思ったり、
いたずらに 嘆いたりするのではなく、
それが
現在の自分に相応ふさわしい与え
と 納得して受け止める ということです。

(中略)

無いことや、意に沿わぬ人に対して
不満を抱いたり、人のせいにしたりするのではなく、
成ってきた理を思案し、
自らの勤め方によって 必要な物が 与わるよう、
また、
人間関係が改善されるように 努めることが 肝心です。

(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,136~138)

心にしみる お言葉です…(^^)

「成ってくるのが天の理」という言葉は、
お道の土台となる教えのように感じます。

その「天の理」に添うことで真の救済を 目指す道=天理教
に 引き寄せられた魂の者としては、
上田先生が本文で解説して下さっている如く、
金銭や物が十分にないことを 不足に思ったり、
いたずらに嘆いたりするのではなく、
それが
“現在の自分に相応ふさわしい与え”
と 納得して受け止め、
少しでも、ほしい の心遣いを克服する道を求めていかねばならない――

成ってきた理を思案し、
自らの勤め方によって 必要な物が 与わるよう、
また、 人間関係が改善されるよう
努力していく必要がある――

今回の ほしい の上田先生 解説文 書き写しを通して、
今更ながら、
そのような感慨を 抱くに至っている次第でございます (^_^)

ということで、今回は、
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】
「八つのほこり」の中の ほしい のほこり解説文を、書写学習致しました。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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