天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より

「敷島大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年の3月から
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を続けています。

毎回記述の繰り返しになりますが、
当シリーズの意図は、
天理教 教祖百四十年祭へ向かう今の旬に、
これまで自分とはご縁がなかった天理教の各教会の歴史を
多少なりとも知ることを目指す、
というものであります。

そのための教材として、
たまたま自教会にあった『天理教事典』(1977年版)を活用させてもらっています。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

何分 古い教材であるため、当然、記述内容はとても古いです。

そして、とりあえず無条件に「原文」を書写していますので、
もしかすると、たまたまこの記事を目にした関係者の方々の中には、
この記述内容は事実と異なる!(~_~;)
と感じる部分があるかもしれません。

ですが、
当ブログは、自己学習の目的で運営しているもので、
記事作成にあたっては、
何らかの主義主張を行う意図はありません。

すなわち、当シリーズ 全ての記事は、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したものに過ぎない
というわけです。

よって、
記事の記述内容の真偽というか 正確性というところまでは
全く検証できていないということを、
まず冒頭にお断りしておきたい と思います。

…と、以上 これまで同様の書き出しで始めましたが、
今回は、特別に、
当シリーズ恒例記事に追加があります。

いつも通り『天理教事典』(1977年版)に記載された「敷島大教会」の項目を書写した後に、
「敷島大教会」について種々検索する中で発見した、
【れんだいこ】さんによる「敷島大教会考」というページ、
及び、
そこにリンクされた「天理教ORTHDOX」というブログ内の敷島大教会に関連する記事、
それを転記します。

「敷島大教会」についてネット検索する中で
【れんだいこ】さんの記事に出会いました。

私にとって非常に印象深く、とても勉強になりましたので、
また読み返せるように、という覚え書き的な意味合いも込めて、
併せて転記させて頂くものです。

なので、今回は、
とてもとても、長い記事になります (>_<)

今回引用する【れんだいこ】さんの記事は、
かなり攻めた内容のものですので、
本文に出てくる史実に関係される方が たまたま当記事に巡り合って 読んだ時に、
もしかしたら、
記述内容にご不満を感じられる部分があるかもしれません。

しかし、毎回お断りしておりますが、
当シリーズは純粋な自己満足記事でありますので、
どうか、大らかな心で受けとめて頂きますよう
お願い申し上げる次第です。<m(__)m>

前回は、
教会番号7番「東大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号8番「敷島大教会」について勉強します。

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敷島大教会 (しきしま だいきょうかい)

敷島大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

江戸時代末期〜明治14年

こいそ(山中忠七の次女、山田伊八郎 妻、後に改名 いゑが、
文久2年以来の 母 その の重病のところを
同(文久)4年 正月半ば、教祖に救けられ、
当時(山中こいそは)姉も妹も失い 
一人娘(14歲) となってしまって 淋しい立場に追いやられていたせいもあり、
真剣な信仰に入る。

以来(山中こいそは)起伏重畳の人生を歩み続ける中、
深い神様の守護と 
さながら 影の添う如き教祖の深いお仕込み お育てが 18年間続き、
明治14年 5月30日、
教祖より「南半国 道ひろめに出す」との御言葉、神意を体して、
十市郡倉橋村出屋舗の 山田伊八郎に嫁し、
敷島の道は 地上に芽を出した。

この年(明治14年)暮れまでに
(山田夫妻は)村の半数を信仰に導き、
12月17日、8戸をもって 講を結成、
教祖より「心勇組」と命名され、
山田伊八郎は 敷島の道の 初代講元として 許しを得た。

明治15年〜明治17年頃

明治15年 5月10日、
教祖の「をびやだめし」の御守護により
こいそは)不思議な安産を見た。

なお 3日目、5月12日、
雨あがりの ぬかるみ道を (山田)夫婦は 高下駄をはき、
伊八郎が 赤子を抱いて
3里半の道を歩いて「おぢば」に参拝した。

これに端を発し、足の不自由と盲目の救けを見、
これが因で
「以後3年間は 火薬庫に火のついた様に 道がのびた」
と 伝えている。

同年(明治15年) 8月27日より
心勇組 第1回「ておどり」講習会を開催。

この月より、
御休息所 建築用材の一部を 献納することを引受け、
講元が中心となり 献納を果たす。

明治17年頃〜明治28年

明治17年 1月、
足の甲 骨折を 講元夫妻に救けられた 上村吉三郎は、
(明治) 18年に入って 入信を決意。

「入講するから 講元をゆずってほしい」
と 人を通じて講元に申込み、
致し方なく 一時ゆずった様な形となる。

同(明治) 23年 3月17日、
以上の成り行きから、
上村吉三郎を会長として
磯城郡、城島村 外山156番地に
教第19号をもって
城島分教会 設置許しを受けた。

同年(明治23年) 10月、
地所買入れ 並びに 建築許しを受け、
翌24年5月 神殿建築落成、
同10月9日 鎮座祭、10日 開筵式をつとめる。

同年(明治24年) 11月22日 錦生支教会 設置、
翌(明治15年) 25年には、紀陽、南和、赤瀬、水間、横須賀、名草、秋津の 各支教会出張所、事務取扱所を設置、
(明治) 26年には、松阪、東海、紀勇、上市、北山、北海(函館) の 各支教会、出張所、
(明治) 28年には 高見出張所、東和支教会が 設置されている。

明治28年11月24日、
初代会長 上村吉三郎 出直。享年58歳。

明治29年〜明治39年

明治29年には
奥州、宇陀、畝傍、岡、土佐の各出張所、支教会が 設置されている。
翌年(明治30年) 大勢支教会 設置。

同(明治) 29年 10月14日、教祖殿建築の許しを受け、
同(明治) 30年 落成。
(明治) 32年1月4日 教祖鎮座祭、5日 奉告祭をつとめる。

同(明治) 30年12月15日、
増野正兵衛、桝井伊三郎 両名、城島分教会 整理員として 任命され、
以後 世話どりにあたる。
後、桝井は 他教会 整理員に 専念する事となる。

明治32年(1899) 6月18日、
初代講元であった 山田伊八郎は 
城島分教会長(2代)に 任命の許しを受ける。

同(明治) 33年 7月20日、
三輪町金屋886に 移転、
城島を 敷島 と改字等の許しを受ける。

翌(明治) 34年 4月 明和出張所 設置。

同(明治) 34年 7月8日、
神殿等建物 移築完成なり、
親神、教祖の鎮座祭をつとめる。

明治35年 長谷川出張所、(明治) 36年 北宇智布教所、(明治) 37年 北明布教所 設置。

同(明治) 39年 2月23日、
敷島分教会 教祖20年祭をつとめる。

明治42年〜明治44年頃

明治42年 1月6日、
敷島分教会は 敷島大教会と昇格改称を許される (教改第8号)

明治42年 葛上宣教所 設置。

同(明治) 43年 3月26日、
本部神殿建築の 全御柱材 献納を 本部へ願い出る (44年完納)

同(明治) 43年 1月29 日、
天理教婦人会 敷島支部を設立。
支部長・山田いゑ。(従来の 敷島婦人会は 発展解消)

同(明治) 44年 9月26日、
大教会長 山田伊八郎は 天理教 教会本部 役員に任命される。

大正2年〜大正8年頃

大正 2年 2月7日、
山田倉之助が、敷島大教会長 (3代)に 任命の許しを頂く。

大正 3年 11月21日、
敷島 整理員(世話人) 增野正兵衛 出直。65歲。

同(大正) 4年 8月10日、
川原城の 現 敷島信者詰所の 敷地 3,060坪を買収、登記完了。
詰所移転へと踏み出す。

同(大正) 5年 1月25日、教祖30年祭。
この日を記念して、
敷島の 三島にある旧信徒詰所 敷地559坪を 本部へ献納する。

同(大正) 5年 8月21日、
本部員、敷島 初代講元、2代会長を勤めた 山田伊八郎 出直。69歳。

大正 6年 8月21日
『頌徳』(山田伊八郎伝、森井熊吉編)発行。

同(大正) 7年 北光宣教所が 設置される。

同(大正) 8年 1月25日、
天理教青年会 敷島分会(分会長 山田倉之助)設置を許される。

大正10年〜大正15年頃

同(大正) 10年 2月22日、
大教会長 山田倉之助、天理教 教会本部 本部員に登用。
同日 午後10時 出直。39歳。

大正10年 3月23日、
増野道興、敷島大教会長(4代)に任命された。

同じ年(大正10年)の 5月19日、大阪大正会(敷島系 横の会)開催。
続いて 同年(大正10年) 8月8日、東京心勇会(敷島系 横の会)結成 開催。
同(大正) 11年 9月6日、名古屋心勇会 結成開催。

同(大正) 12年12月 明立宣教所が 設置される。

同(大正) 13年 3月25日『敷島大教会 発達史 概要』(森井熊吉編)発行。

同(大正) 13年 4月3日、神戸心勇会 結成、発会式举行。
同年(大正13年) 7月2日、和歌山心勇会 開催。
翌(大正) 14年 1月、京都心勇会 発足す。

大正14年 1月31日、
大教会 神殿建築の許しを受ける(昭和 2年 5月25日 起工式挙行)

また、同年(大正14年) 2月 敷道宣教所、
翌(大正) 15年 4月 敷名宣教所が 設置される。

昭和初期〜終戦

昭和 2年 3月、心祐宣教所が 設置される。

昭和 2年(1927) 9月15日、
山田忠則、敷島大教会長(5代)に就任。

同(昭和) 3年 10月4日、
敷島の道ひろめの台になった 山田いゑ(旧名 こいそ出直。79歳。 

同年(昭和3年) 10月25日、
神殿建築 上棟式を 挙行する。

同年(昭和3年) 11月27日、
增野道興、敷島大教会 前会長(4代)出直。39歲。

同(昭和)  5年 4月22日、
神殿建築 完成(同20日、付属建物等、一切の工事完了) 遷座祭、
同(昭和5年4月) 23日 神殿落成 奉告祭をつとめる。
(松村吉太郎より 本部の意向を伝えられ、教祖殿 祖霊殿 建築は中止、後回しとする)

また、この年(昭和5年) 9月、敷都宣教所が 設置される。

同(昭和)  5年 10月26日、
本部教祖殿 建築用材、御柱材 6本(長さ45尺、中回り直径2尺7寸、末口直径1尺8寸)献納。
なお それに続いて、
神殿、教祖殿、御用場 3殿の化粧棰木、野棰木、合わせて数千本 献納。

昭和11年 4月24日、
敷島大教会 教祖50年祭をつとめる。

同(昭和) 15年 2月10日、明和分教会を 大教会に昇格分離せしめ、
また、同日付、明和部属 明城分教会も 大教会に昇格する。
続いて 同年(昭和15年) 12月1日、岡分教会も 大教会に昇格分離。
なお (昭和)17年 2月24日、東海分教会も 同じく 大教会に陞級分離する。

同(昭和) 20年 8月まで、国家の戦時体制下に置かれる。

戦後〜昭和36年

同(昭和) 23年 1月、敷一分教会が 設置される。

同(昭和) 25年 4月15日、
創立60周年記念祭を 執行する。

同(昭和) 27年 1月より
敷島は 教祖70年祭活動に終始し、懸命の奉仕をする。

同(昭和) 30年10月 敷城分教会が 設置される。

同年(昭和30年) 11月27日、
敷島信者詰所の 移転建築の許しを得て、
70年祭活動の一環としての 中大路建設に協力する。

昭和31年 4月16日、
敷島大教会 教祖70年祭をつとめる。

同(昭和) 32年 3月17日、
敷島5代会長 山田忠則 嗣子 愛子のところへ 
中山為信の媒酌にて
山中忠正 長男 忠一(6代会長)を迎える結婚式を、
本部に於て 挙行。

同(昭和) 35年 4月15日、
敷島 創立70周年記念祭をつとめる。

昭和35年(1960) 12月26日、
大教会 神殿屋根 葺替の許しを得て、
同(昭和) 37年 3月18日完成、2代真柱を迎えて 鎮座祭、
翌19日 神殿修築落成 奉告祭をつとめる。

同(昭和) 36年 6月28日、
敷島大教会の相談役 (20年間指導を得る)中山為信 出直。
7月より 上田嘉成に代わる。

昭和37年〜昭和45年頃

昭和37年 9月26日、
山田忠一、敷島大教会長(6代) に就任。
11月30日 就任奉告祭。

同(昭和) 38年 1月24日『敷島だより』(月刊) 発行する。(休刊中の『敷島』誌を再刊)

同(昭和) 41年 4月15日、
2代真柱 及び 現(※編者註『天理教事典』(1977年版)出版当時=3代)真柱夫妻を迎え
敷島大教会 教祖80年祭をつとめる。

同(昭和) 42年 7月26日
「敷島会館」並びに 教職舎建築の許しを得、
同(昭和) 43年 1月24日起工式、4月14日完成する。

昭和43年 5月26日、
山田愛子、敷島大教会 会長代務者の許しを受ける。
(6代会長が 天理教青年会 創立50周年記念事業である「あらきとうりよう号車」 2台による ユーラシア大陸横断の隊長を勤めるため (昭和43年) 5月29日「おぢば」出発 → 12月29日帰国)

同(昭和) 43年12月27日、
同(昭和) 36年 7月より敷島大教会の世話人をつとめた 上田嘉成に代わって、
中山正信となる。

昭和45年 3月17日、
敷島大教会 創立80周年記念祭をつとめる。

なお、敷島系 分離大教会は、
明和、明城、岡、東海、東神田、紀陽である。(※編者註『天理教事典』(1977年版)出版当時)

かくて、
会長を中心にして 世界だすけへの着実な歩みを進めている。

部属教会の成長と変遷

明治23年 教会数 1
〃   24年 教会数 2 (教祖5年祭)
〃   25年 教会数 9
〃   30年 教会数 52 (教祖10年祭)
大正 5 年 教会数 218 (教祖30年祭)
昭和10年 教会数 763 (教祖50年祭)
〃    14年 教会数 784
〃    30年   教会数 501 (教祖70年祭) 
〃    48年   教会数 482 (教祖90年祭〜現在= ※編者註『天理教事典』1977年版出版当時

教祖に関わる物品

(赤衣)
敷島大教会 1枚
山田忠則宅 2枚
土佐分教会 1枚
東和分教会 1枚
田中徳平 拝戴 (長谷川部属) 1枚 

(月日の盃)
山田忠則宅 1個
山本与平・いさ 拝戴 (山本徳雄宅)  1個

〔現住所〕〒633 奈良県桜井市大字金屋 806番地の1 
〔電話〕0744‐42‐6602 

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,389~391 )

「れんだいこ 敷島大教会考」より

敷島大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

冒頭で触れた通り、
今回、敷島大教会の歴史について勉強しようと思って ネット検索していく中で、
非常に興味深いサイト、ページに出会いました。

【れんだいこ】さんによる「敷島大教会考」というページです。

読み進めると、これまで知らなかった情報ばかりで、
非常に興味深く、時を忘れて読みふけったのでありました。

今回は「敷島大教会」について勉強する回なわけですが、
『天理教事典』(1977年版)の「敷島大教会」欄の書写だけでなく、
【れんだいこ】さんの「敷島大教会考」の記述も、
ぜひ 同時に転記しておきたい と感じました。

そこで、
長くなるを承知の上で
【れんだいこ】さんの解説文も 付け加えさせて頂くこととした次第です。

その際、
敷島大教会の歴史について書かれた【れんだいこ】さんの「敷島大教会考」の記述内容は、
私の個人的な感想を加えながら掲載するよりも、
そのまま引用した方が、
後々 見返したくなった時にすぐ見ることが出来るし、何よりタメになる!
と考えました。

なので、
非常に長くなりますが、
「れんだいこ 敷島大教会考」の内容を、
以下に そのまま 引用掲載させて頂く次第です。

繰り返しになり恐縮ですが、
これは、単純に 自己学習のためのものですので、
【れんだいこ】様、ご了承願います。<m(__)m>

大神大社と天理教敷島大教会との関係

大神大社の鳥居の南に 天理教 敷島大教会がある。

敷島大教会は 何故に この地にあるのだろうか。
これが偶然である訳がなかろう。
これを 推定してみる。

敷島大教会の前身は、心勇組講である。

心勇組は、1886(明治19).2月18(陰暦 正月15)日、
講元 上村吉三郎に引率された 心勇組の講中が
7里の道を 遠しともせず 参詣にやって来て、
「十二下り」をおつとめさせて頂きたい と御願いしたところ、
お屋敷では 警備取り締まりの厳しい折柄、この由を話し聞かせて 断わったのに対し、
一同が 二階が信徒の宿泊所になっていた 門前の豆腐屋こと 村田長平方に引き揚げ、
自然にお手振りが始まり 声高らかに唱和し始め、
これが原因で「教祖最期の御苦労」になったことで 知られている。

本部教理では 心勇組の勇み足を 咎める記述の仕方になっているが、
教祖の受け取り方は違っていた。

教祖は、心勇組のお手振りの声を聞いて、
「心勇組は 一の筆やなぁ」
と 取次ぎの者に仰せられた と伝えられている。

ここで 確認すべきは、
当時の お道の教徒、講中が「応法の理」に従い、
教祖の意向に反して 逼塞していたところ、
心勇組が 唯一、教祖に 一筋心になり
匂いがけ、お助けに東奔西走していた講であったことである。

これより先、1882(明治15)10月20日(9月9日)、
熱心な道人である 泉田藤吉系譜の信者が、
和泉国 豊中村 我孫子(現在の大阪府泉大津市我孫子町)で、
熱心な信者の一人が 病人を救おうとしたあまり、死なせてしまう
という不祥事件が起こして警察沙汰となった事件がある。

これを「我孫子事件」と云う。

事件の責任者であった泉田は、
大阪で警察に拘引された際に 堂々と所信を披瀝した。
これを「泉田藤吉 所信表明事件」と云う。

事件は、
当時の 大坂朝日新聞等に 大々的に取り上げられ、
激しい 非難を浴びせられることになった。

当時のマスコミは 得たりとばかり 口を極めて攻撃し、
これを 大々的に取り上げて 全国的な報道となった。

我孫子事件は 格好の 天理教バッシングの材料になった。
お道内にも 動揺がひろがった。

本部 教理では「信仰の浅い信者達が起した 我孫子事件」として
否定現象事件として 釈明しているが、
この時、教祖は、
さあ 海越え山越え、海越え山越え、あっちもこっちも 天理王命、響き渡るで 響き渡るで
と述べ、揺るぎのない 信仰の義を指示している。

これによれば、
本部 教理釈明と違って 教祖は
泉田籐吉らの跳ね上がりを むしろ激励していた
と 受け取るべきであろう。

この系譜が
敷島大教会 創出へと 向かっていることが 判明する。

その敷島大教会が
他の大教会と違って なぜ 大神大社の入り口に 居を構えたのか
が問われねばならない。
何らかの繋がりがある と読むべきであろう。

敷島大教会の初代は、
山田伊八郎(やまだ いはちろう)である。
山田は、1848(嘉永元)3月14日、
大和国 十市郡 倉橋村 出屋鋪(現・奈良県桜井市 倉橋出屋敷)にて誕生し、
1881(明治14)年、山中忠七の次女 こいそ(いゑに改名)との結婚により
信仰を始めている。

同年末、教祖より名付けられた 心勇組の講元となる。
教祖より 赤衣を授けられる。

明治17年、上村吉三郎が入信し 心勇組の講元を 譲る。

明治20年9月、本席より お授けを戴いている。
別席取次人となる。
1899(明治32)年、城島分教会の 2代会長の許しを受ける。
1900(明治33)年、城島分教会を 三輪町金屋886に移転する。
 城島を 敷島 と改名する等の 許しを受ける。
明治42年、敷島分教会が 大教会に昇格改称する。
明治44年、天理教教会本部役員に任命される。
1916(大正5)8月21日出直している(享年69歳)。

この履歴からは、
敷島大教会が 何故に大神大社の入り口脇に設置したのか
特段のことは判明しない。

しかし、何か 強い因果関係があったものと思われる。
追々 確認して行くことにする。

ネット検索で次の一文に出くわしたので転載しておく。(次節)

「第二節 山田伊八郎」

今日、教内でも 大きな教勢をもつ 敷島大教会は
元々 心勇組と言う 山田伊八郎 を講元とする 講から始まっている。

その 心勇組は 後に 心勇講 と改められ、
出屋敷と宇陀地方の講社を一つにまとめられていったのであるが、
当時 その中でも、
宇陀地方の信者の勢いは 非常に熱烈なものがあり、
「宇陀の白パッチ」と 異名をとるほどのものであった。

その頃の、勢いは
現在も 敷島大教会の部内の
宇陀地方の教会や信者の中で 燃え続けている。

これだけの 宇陀の信者を導き、
また 自ら 宇陀地方へ出向いて布教し、
人々の信頼を一挙に集めた 山田伊八郎について、
宇陀地方の伝道とのかかわりを焦点に合わせながら
研究して行くことにする。

山田伊八郎は
嘉永元年 三月十四日、十市郡倉橋村出屋敷にて
父 伊平、母 タカの長男として 生まれた。

山田家は 元々 豪族の子孫で、
雇用人も多く 裕福であった。

伊八郎も 恵まれた環境の中、勉学に努める機会も多く、
周囲の人々からの 信頼が厚かったようである。

更に、大変 親孝行で 信仰熱心で
両親の信仰もあって 融通念仏宗を 信仰していたのである。

そのような 信心深い伊八郎は
縁あって 明治十四年、
大豆越村の山中忠七の娘 こいそを 嫁に貰うことになった。

彼女は それまで 教祖のそばでお仕えしており、
この結婚について 教祖にお伺いしたところ、
教祖は 講社名簿を眺めながら
南半国は まだ道がついておらん、南半国 道弘めに出す。
と仰せになった と伝えられている。

その後、伊八郎は
義父から お道の話を聞き、天理教を信仰するようになり、
その年には 同村で兼ねてから信仰のあったものが 組を結成することになり、
心勇組と名付け、伊八郎が講元として つとめることになったのである。

また、妻 こいそが をびや許しを頂き、
不思議な御守護を見せて頂いたのをきっかけに、
伊八郎とこいその 布教が始まった。

翌年 明治十五年には
分家の 山本いさが 長男を出産後、
病に悩まされ 足腰が立たないようになった。

しかし、伊八郎らの懸命の布教と、
忠七の 扇の伺いによって 御守護頂き、
この不思議な助けによって、
お道は 一気に広まっていったのである。

特に、宇陀地方では
この 不思議な話がきっかけとなって
入信者が 一気に増加したのである。 

『山田伊八郎傳』によると、
この話は 伊八郎から事情たすけを頂いた 上田音吉から
宇陀郡西山村の 森本治良平へ、
また 心勇組内の布教師から 栗原村、忍阪村等へ、
助けられた 山本いさは 実家の笠間村、神戸村の麻生田、上宮奥、百市へと
次から次へ伝えられ、
心勇組の信仰は 飛躍的に 伸び広まったのである。

この広がりの力は
総てが 伊八郎自身の布教によるものであるとは限らないが、
彼を講元としている以上、
道の広がりと共に
彼の足も その方面に向けられていたことは確かである と考える。

特に、この年に
宇陀地方へ 急速にお道が伸びていることは明確であり、
出屋敷と宇陀を結ぶ街道が 多く利用された と考えられる。

この街道は 松山街道と呼ばれ、
その交通路として 主として 三線あり、
北より 女寄峠、半阪、宮奥の大峠である。

心勇組によって布教された地域を 当時の地図のうえで確認してみると、
麻生田には 女寄峠を、
忍阪村、栗原村には 半阪を、
宮奥には大峠を利用したもの と考えられる。

それぞれは 当時の伊勢街道に匹敵するほど 交通量も多く、
人や物資の交流が 盛んであった。
特に、大峠などは
薪炭を 峠越しに搬出するために 利用されたらしい。

『山田伊八郎傳』によると、
伊八郎も よく この松山街道を利用して
宇陀、吉野、上市、川上、北山方面に布教し、
特に 半阪峠が 常の街道であった とされている。

その布教の過程に 次のような話が 残されている。

伊八郎は 宇陀から吉野にかけての布教のときは、
半阪を越えてから 伊賀街道を南に進み、
宇陀郡 神戸村 関戸を経て行くのであるが、
その時は
いつも その村の有名な講元である 田中徳三郎の家に立ち寄り、
四、五日ほど そこに滞在し、
おたすけや教理の伝承に つとめていた。

ある時、その家に滞在していると、
小角峠に暮らす人が 突然 飛び込んできて、
イロリに落ちた子供を助けて欲しい という。

伊八郎は 早速 その人の家にいき、
ほとんど危ない状態になっている子供に おさづけを取り次いだところ、
不思議な御守護を頂いた ということである。

そして このことがあってから、
彼がこの地に訪れたときには 村人が 皆集まり、
伊八郎の背中を拝んだ ということである。

伊八郎は 宇陀の布教において、
特に 西部の伊賀街道を利用しながら 南の方へ歩き、
何日もの日数をかけて こつこつと布教して行ったもの と考えられる。

そして これは 彼の
教祖から任された「南半国 道弘め」の使命を全うしようとした行動でもある
とも 考えられる。

こうして、心勇組の信仰が 安定して来ると、
おつとめの出来る者を増やそうと、
明治十六年、おぢばより先生を迎えて お手直しを実施するようになった。

一回目、二回目は 出屋敷村の信者がそれを受けたが、
三回目以降は 他村在住の信者も 受講している。

宇陀の信者も 西山村の森本治良平ら 三十五人が
伊八郎より 直接 お手直しを受けている。

明治十八年、心勇組の拡大の話が 持ち上がり、
上村吉三郎、上田音松、加見兵四郎、小西定吉、森本治良平らによって 相談がなされた。

その結果、上村吉三郎を講元とする 心勇講 が結成されたのであるが、
何故か ここには 伊八郎の名前は 挙がっていない。

上村による心得違いの行動があったものだ とされている。
この事情については、ここでは触れない。

いずれにしても
新しく 大きくなった 心勇講 において、
伊八郎の布教に対する思いは 前と変わらず、
以前よりも増して 熱心につとめたのである。

そして、
その翌年 明治十九年 心勇講の一団、三百名程が
ておどり練習の総仕上げとして おぢばに参拝した。

ところが 当時は まだ官憲の迫害が厳しいときで、
本部の先生からも
「教祖に御苦労がかかるので お帰り戴きたい。」
との言葉を頂いた。

しかし、それでは気が済まぬ
と 門前の豆腐屋という旅館で 賑やかにおつとめをはじめ、
その声を聞かれた教祖は
心勇講は いつも熱心やなあ。心勇講は 一の筆や。
という 結構なことばを おかけ下されたのである。

このとき集まっていた信者のほとんどは 宇陀地方の信者であり、
このとき 宇陀の信者がきまって 白のパッチを履いていたことから、
「宇陀の白パッチ」
と呼ばれるようになったのは 有名な話である。

しかし、
この信者たちの 信仰への熱烈な思いは
一転して 教祖に 最後の御苦労をおかけしたのである。

このとき、伊八郎は参加していなかったが、
この事情を聞き、
自分の不徳の為だと 自らを責め、
初代講元として さんげの道を通ろう と誓ったのである。

現在も この さんげの道は続いており、
毎月十五日には 宇陀地方の信者は元より、
敷島大教会につながる信者が 早朝から おぢばに集い、
廻廊ひのきしんをさせて頂いている。

私も ほとんど毎月、
このひのきしんに参加させて頂き、
当時の教祖の御苦労を 忍ばさせて頂いている。

そして、
明治二十年 人々の思いとは逆に 教祖は お身をお隠しになり、
人々に落胆を与えたが、
本席様を頂いたことで、
また 信仰生活に 活気を取り戻して行ったのである。

この年の 三月には
宇陀郡菟田野町古市場から 御杖村菅原に至るまで、
三日間の 道路の改修ひのきしんとして
心勇講から 三十四名が参加している。

このころは、あちらこちらで道路の改修が行われていたが、
伊勢街道でもあるこの道は 利用率も非常に高く、
地域の人々にとっても 有り難く思われていた と考えられる。

こうして 心勇講も だんだんと 信者の心を寄りもどし、
伊八郎にとっても 前以上の 布教への熱意が 高まってきたのである。

そんな中、
心勇講の 教会設置の気運が 高まりつつあった。

この時、宇陀郡神戸村野依の地に
教会設置の計画が 持ち上がったのである。

それは 熱意ある 多くの宇陀の信者の希望でもあり、
伊八郎らによって布教された 宇陀地方の人々が、
かなり熱心であったことの現れである とも考える。

そこで 立木の買い入れや 竹縄などの寄進を募り始め、
準備は 段々と進んで行った。

しかし、他地域の講元達が 反対をし、
宇陀地方への教会設置が 取りやめになり、
かわって 式上郡 城島村に 設置することになった。

これは それぞれの講元が相談した結果、
地域の教勢の中心として、式上郡が良い と判断したからである。

しかし、逆に このことを信者の信仰心から言えば、
宇陀の信者が
心勇講の中でも中心的役割を果たしていた と考えられる。  

明治三十二年、
伊八郎は おさしづより 城島分教会 二代会長に任命され、
新たな真をもって 栄えていったのである。
そして 後に
教会名は「城島」から「敷島」に改正され、
更に 明治四十二年には「敷島大教会」に昇格したのである。

その間に、教祖三十年祭があり、
本部の神殿ふしんの打ち出しがあった。

本部員の増野正兵衛先生より
「敷島は 宇陀、吉野、高見山に近いところに部内教会があるから、ふしんの献木をしっかり頼む。」
とお話し下され、
伊八郎も 献木の心定めをさせて頂いたのである。

この献木については、宇陀地方も 大きなお徳を頂いた。

後に述べる 御杖村の 敷島部属 大勢分教会は
特に この献木活動に対して 中心的役割をつとめている。
こうしたことから
宇陀山地が広がる 室生、曾爾、御杖村の山々が 適地とされたのである。

伊八郎の日誌によれば、
木材の買い入れ先として「宇陀郡 神末、同 菅野」と記している。

また 宇陀地方の献木の 伊八郎宛の書簡によれば
「当所においても 諸方駆け廻り、八本 見付けさせて頂き、…(略)…
之が 運搬に付いては 土持ちに帰らせて頂く可き 人夫を募集して、
途中 御木引きとして 賑々敷く 運搬させて頂く…(略)…
当村 大字 神末に於て 元にて 九尺強廻りの木を 一本見付け、献木させていただかんとして…(略)…。」
と書かれている。

つまり、御杖村の神末、菅野が
宇陀地方からの献木地の中心 とされており、
宇陀山地での信者の出入りが多くあった と考えられる。

このことは 今まで、
宇陀地方の西部の 宇陀盆地地域が 布教師達によって 多く伝道されたのに対し、
山地として 地理的にも 出入りの困難な、
宇陀山地地域への伝道が 一転して高まり、
信者の増加につながったのではないか と考えられる。

更に、前述の書簡に出ているように、
集められた献木の運搬について 途中 御木引きをして運搬されたようで、
このことについて、私の父の話では、
宇陀地方の信者や山仕事をしている人々によって、人力で 運ばれたらしい。

つまり 細い丸太を 何十本と街道に並べ、
大木を滑らすようにして 伊勢街道を 運搬したのである。 

この 献木活動の結果、
宇陀地方からは 柱材四本、長押高梁二十本を 献上したのである。

更に、こうした形のふしんを通して、
伊八郎を真とする 宇陀地方の総ての信者は 勇み立ち、
心のふしんにつながった と思う。

また、同時に、宇陀地方の伝道においても、
信仰が ほぼ全域に行き届いた と考えて良いのではないか。

伊八郎は 初期の伝道において、
宇陀地方単独で布教し、多くの信者をつくった。

そして 晩年は 敷島大教会 二代会長として 大きな功績を残し、
宇陀の信者にとっても、
心置きなく頼れる存在であったと思う。

それは「南半国 道弘め」の 教祖の言葉を いつも心に刻み、
ひた向きな心で通った 伊八郎の 神一条の精神に外ならない
と考えられる。

山中忠七先生について(その一)

敷島大教会ストリートビューより③
Googleストリートビューより

ネット検索で次の一文に出くわしたので転載しておく。
「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」
(作成者 リ・ラックマン、2008年8月21日)

※次に紹介させて頂くお話は、
兵神大教会三代会長である 清水由松さん
(山澤良助さんの実弟 清次郎さんの四男、明治33年、清水家に養子に入る。明治34年より 本席邸詰青年として本席様出直しまで勤める)
の自叙伝「清水由松傳稿本」という書籍より、
山中忠七先生について語られている部分を 引用させて頂いたものです。

山田伊八郎さんについても 触れられておりますが、
歴史上の出来事に対する捉え方が「山田伊八郎伝」とはかなり異なる(誤った解釈では?と思える)箇所もあります。

しかし、私がそう思うからと言って
その部分を削除するのは、良くないと思っております。

敷島の系統の歴史から学ばせて頂いた事(おさしづ隠匿問題など)に対して、
それを生かせていない事になる と思うからです。

そういう事を踏まえた上で お読み下さい。


山中先生は、元治元年1月、
夫人 おそのさんの、産後と 痔のわづらいを お助け頂いて入信した人で、
織田村の 木下清蔵(※1)という人から 匂いをかけてもらった と聞いている。

※1‥「山中忠七傳」(昭和40年10月発行、山中忠正・山中忠昭編)の11頁には、
芝村の清兵衛という人が匂をかけたとある。
高野友治さんの「先人素描」は「清水由松傳稿本」と同じ。

何しろ あざやかに不思議なお助けを頂き、
教祖様から 直き直き お話も聞かしてもらい、
爾来 非常に熱心し、
元治元年、最初のつとめ場所の建築にも
穴師の纒向山のにあった 持山の木をきって献納し、
夫婦ともども「よろづ伺いのさづけ」を頂き、
忠七さんは「扇の伺」と「肥のさづけ」とを 頂いておられる。

家は代々豪農で、身体は頑健、
横に巾の広い 朝は早くから起きて 人の倍も働く人であった。

煙草はのまなかったが 酒は三度の御飯より好きなほうで、
とても質素倹約で 無駄を一切せぬような人であった。

家内の身上をお助け頂いてからは、お屋敷へ日参し、
その度毎に 米一升づつ 袋へ入れて さげて 詣られた。

そして、その 往き帰りの道中では、
古い縄ぎれ、古草履 古わらじを 拾って帰って
何かの用にされた。

私の実父の話では、
木屑棒ぎれ その他 何でもかでも 見のがさずに
拾って帰った人である。

こうして 日参している内に、
教祖様に 段々と 結構な理をきかしてもらい、
親戚の 山沢良助(新泉)、岡本重治郎(永原)、藤本清治郎(坂平)、上田平治(大西)、等に 匂いがけして
皆な 熱心な 道の信仰に入らせた。

それから 教祖様は
娘のこいそさんを 秀司先生の嫁に貰いうける と仰言ったが、
当時のお屋敷は 殆んど食うに事かく 貧乏のどん底時代であった。

それがため、
いくら神様の仰せでも、そんな困難な所へは 親として 娘が可愛想でやれん と、
とうとうお断りして
家内の妹の息子 栄蔵(芝村)が 小学校の先生をしている所へ 嫁がせた。

その頃は 小学校の先生といえば 社会的にもあがめられ、
生活も俸給で 楽にゆけるので、
これなら と思って めあわしたのである。

ところが 栄蔵さんは 酒のみで 品行が悪く、
とうとう不縁になり、
後に 敷島の初代会長(※註・二代会長の誤り)となった
倉橋村の 山田伊八郎さんに 再縁させた。

伊八郎さんは 仏教の熱心者で、
寺の 一番の旦那であった。

熱心に(山中)忠七さんが匂い掛けしても なかなか聞かなかったが、
庄屋敷の神様は結講だからと 無理強いに お屋敷へ連れて詣り、
教祖様に お目にかからせた。

それから始めて 伊八郎さんも 道の信仰に入れて頂いた。

その後、伊八郎さんは身上にかかり、又 家にも事情ができて、
不思議なお助けに浴し、
爾来 信心した仏教もやめて お道の布教に熱心するようになって、
沢山の信徒も 結成された。

これが 心勇講であり、後の 敷島大教会である。

そして 〇〇吉三郎さんが 村の顔役であったので、
この人を講元に立てて 講を組織したのである。
(※註・この辺りの話も「山田伊八郎伝」と異なる見解)

教祖様は、
山田さんが 入信以来 なかなか熱心に運ぶので、
『大和の南半国 道をやろう』
と仰言った と聞いている。

本席様はよく
明治16年、教祖様の御休息所の建築の時、
山田はんが 持山の桧の木を伐って 献納してくれたのや
と 仰言った。

尚 そのお話に続いて、
わし(本席様)が 休息所の建築の時、丹波市警察署へ拘留されて、その材木 どこからあげてもうたか と責められたんや。
それで 山田伊八郎から買いました というとなあ、そんなら 早速調べる というて、山田はんを呼び出された。
山田はんは、お前 飯降伊蔵に材木売ったか ときかれて、はい これこれで売り渡しました と受取を見せたので、警察も 案に相違して どうしようもあらへん。
実は こんなこともあろうか と思うて、山田はんに 受取をわたしといたんや。
それで わしも 無事釈放された

と よくおきかせ下された。(つづく)

作成者 リ・ラックマン : 2008年8月21日(木)

山中忠七先生について(その二)

(つづき)~こんな訳で 心勇講を結成する時も、
前述の通り 土地の顔役であった 〇〇はんに、
山田さんから頼んで 講元の名前をもってもろうたのであって、
実際は 山田さんが講元とならねばならんところを、
おとなしい温厚な人であった為、譲ったのである。
(※註・この辺りも「山田伊八郎伝」と異なる見解)

そして 明治二十三年三月十七日 
〇〇さんを会長として
敷島分教会の設置のお許を得たのである。

その後  〇〇さんは お屋敷へ入れてもらい、
平野さんと特に心易くなり、道の草創時代につくして 本部員にもしてもらい、
教会設置の折に 敷島の初代会長となられたが、
早く 明治28年11月24日 出直してしまい、
息子は 会長を継ぐつもりでいたが、極道のため見込なく、
その整理に 増野正兵衛先生が 入られた。

その後、
会長の候補者が 山田伊八郎さん始め、峯畑為吉、加見兵四郎さんなど沢山あって、
どの人を会長にして良いか 大変迷われた揚句、
正式にお指図を仰ぐのでなく、
人間として 又 先輩としての本席様に 伺われたのである。

すると
教祖様の 休息所建築の折の お話が出た。

そこで 増野先生も
そういう 元つくした理があるなら それで 結講で御座います
と、早速 山田伊八郎さんを後継者と決定して お許しを頂かれた。

この話は 私が 本席様から 直接に聞かして頂いた 間違いのない話である。

その後  〇〇さんの息子は、
いろいろ 山田はんを苦しめ、
時には抜刀して おどかしたりしたが、
後に 自決して果て、
その未亡人は お屋敷で 生涯つとめさしてもらい、
孫養子 福太郎さんが 集成部に入れてもらって
現在に及んでいる。

(※「山田伊八郎伝」によると、
庄作さんは 昭和9年8月 58歳の時から、
さんげの為か、別科53期生に入学、

その後 敷島詰所のひのきしんをつとめ、二年後に詰所において出直した、
とある。)

とにかく 敷島の大きい理は、
山田伊八郎さんによって できたのである。

同家は もと相当な資産家であったが
道の為に その殆んどを果たしてしまい
(親戚の頼母子の援助もうけたが)
どん底に落ちきった。

(=山中こいそ、改名後 いゑの親として 山中忠七先生も
見るに見かねて 取りもどそうとされたこともあった。
けれども 敷島分教会もでき、
夫婦とも 道の為に懸命に働いているし
子供も多いことなので 辛抱された。

おいゑ(旧名 こいそさんは
子供が多いし、その中に盲目の妹もあったし、
夫 伊八郎は 布教に出て
留守ばかりのむつかしい家庭にあって
真黒になって働き

夏は 高い山田の あぜの草刈から肥かつぎまでして、
風呂も焚かず 昔の古家に住んで、
夜暗くなってから 谷川で水浴してすまし、
麦飯に 塩気もないおかゆを啜(すす)って、
その中を
夫をはげまして通りきった。

何しろ 前に 一度 不縁になっていることだし、
最初 教祖様のお言葉通り
秀司先生にもらいうけられて、若い時に苦労しといたら
後々 何ぼう結講であったか知れないものを

親の忠七さんが
娘に苦労させたくない
と 折角のお言葉にそむいて、
これなら と 片付けたところが
前に述べたような始末で 不縁になったのだから、
今度も亦 わが子可愛いにひかされては
と 泣く泣く 辛棒されたのである。

けれども
親神様のお影で 敷島の道の母となって、
末代の古記を残すことになった。

親神様は
たとえ そのお言葉にそむいた者でも お見捨てなさらず、
手を変え 品変えて 結講にお通し下さる。
ほんとに有難い事である。

晩年 忠七さんも、
おいえを秀司先生の嫁に と仰言る以前に、
大豆越は 親類同様にしてやろう と教祖様 おきかせ下さったのに、
娘可愛いばっかりに 惜しいことをした」
と よく述懐して居られた。

教祖様の仰せ通りにしておけば、
中山家の親戚として頂けたのである。

おいえさんは
教祖様から「こいそ」と名前を頂いたが、
嫁入先で名前をかえる当時の習慣に従い、
芝村へ嫁いだ時に「いゑ」とされた。

この人は 姉弟 五人の内でも 一番 お道に熱心 勝気で
根性も 亦 しっかりしていた。

身長 五尺二寸、当時の婦人としては 背が高い方で、
色白の 卵型の顔立ちで きりよう(器量)は 良かった。

昭和二十八年十二月発行「清水由松傳稿本」(編者・橋本正治、芳洋史料集成部発行)90~91ページより

2010.7.23日 れんだいこ拝

(れんだいこ 「敷島大教会考」 より)

「天理教ORTHDOX」ブログの「敷島大教会」解説より

敷島大教会ストリートビューより④
Googleストリートビューより

上記【れんだいこ】さんのサイトからのリンクをあちこち覗く中で、
敷島大教会に関連した、興味深いブログ記事を見つけました。

後学のために、
非常に長くなりますが、これも、
以下に そのまま 引用掲載させて頂きます。

天理教ORTHDOX」というブログ内の、2015年8月の記事です。

前節に続いてこれも、
ただ単純に自己学習のためのものですので、
天理教ORTHDOX」ブログ主様、ご了承願います。<m(__)m>

根のある花 山田伊八郎

山田伊八郎が、現在の敷島大教会の会長になるまでの道、

当時の 心勇講の頃から、
山田伊八郎は 周りから よく思われていなかった という。

明治20年頃より、
人々から 心勇講から追い出そう、逃げ出さそうと
あれこれ 策を以て せまられていたのだ。

また、そんな中で伺う「さしづ」での伊八郎への神のお諭しは、
常に「たんのう」であった。

何事も たんのうが 第一。」(明治20年12月1日)
成るよいくよう 楽しみ一つ 事情ある、先々 たんのう理を見て 暮するよう(明治21年6月24日)

どんな中も「たんのう一すじ」の心を定め、
伊八郎は 不安と不足が起こる中も
その逆境の道を通ったのである。

次の「おさしづ」で、
親神様は こうした伊八郎の苦悶する心を
しっかりと受け取っておられるのが分かる。

・・・長くは 先の楽しみ、短いは 楽しみなし。・・・中略・・・
さあ/\ これ 根のある花は 遅なる。
なれども 年々に咲く。又 枝に枝が栄える。根も 踏ん張る
。」(明治24年11月1日)

この「おさしづ」を頂いた伊八郎は、
その 強く頼もしいお言葉に、感激し 涙したという。

ただ、それでも、
その後 敷島内部から 伊八郎への厭がらせは 起きてくる。

それは、まさに
敷島の暗黒時代
といえる程の問題にまで発展し、
伊八郎は、
これほど といえる様な境地に
否応なく立たされる事となるのだ。

しかし、
それでも 逃げずに通り抜けた伊八郎だからこそ、
神の目に叶ったのであろう。

「・・・さあ/\ これ 根のある花は遅なるなれども 年々に咲く

・次の記事では その詳しい内容を 述べていこうと思う。

天理教ORTHDOX > 「根のある花 山田伊八郎 」より)

敷島の暗黒時代

山田伊八郎に関する「おさしづ」を見ていくと、
実は
敷島の後継者に関する 同じ伺いが 二年に渡って続いている。

これが、山田伊八郎を
さらなる逆境へと立たせる二年となった 証拠なるものである。

以下の「おさしづ」より、それが起き始める。

城島分教会 担任 上村吉三郎出直しに付、後任 山田伊八郎を以て願
・・・一時定める処、心置き無う 定めてやるがよい。さあ 受け取る/\。」(明治30年5月7日)

この「おさしづ」により、伊八郎は神様から敷島後任の許しを得た・・・
はずだったのだが…
何を勝手に決めているんだ
と 周りが これに反対するのである。

また、それから一年経たずに、
今度は 本部より、
未だ 会長が決まらず そのままであった敷島の教会内を整理したい との事から、
「名義を 伊八郎から 本部(増野正兵衛)に移す」のはどうか
の伺いが 立てられる。

しかし、これについても 神様は、

整理どころやない。あちらこちら 理がこす。それ 日が経つ。」(明治31年3月30日)
治まるまで そのまゝ・・・

と、整理より先に 会長を任命しろ
と厳しく急き込まれるのである。

それでも まだ 会長が山田伊八郎に定まらない。
次に伺いが立てられているのは 少し経って 翌年となる。
(この間に関連の「おさしづ」が無いのも不思議である。)

前 増野の おさしづより だんだん 本部役員協議の上 城島分教会の事であろう との事に付願
(今 分教会にては 未だ 会長定まらんに付、後任とすべき人は たゞ今にて 3名あります。 山田伊八郎は古き人なり、また加見兵四郎は 講社 多分あり 余程 道のため 尽力のせる人なり、又 峰畑為吉は 副会長の名もあり 教会に 余程 功ある人なり。目下 取定めに 心配致し居ります。この処 願。)

・・・めん/\ 勝手という理があってはならん。・・・中略・・・ もう一遍 協議をし直せ。 向うにせい とは言わん。ぢばからこう と言えば、そむく者は あろうまい。治まるものやろう。」(明治32年5月31日)

やはり、またも 神様からは、
他の意見には一歩も 引かなかった。

結果的に、
翌月の 6月18日 城島分教会 後担任 山田伊八郎に 願が出され、
ついに「さあ 許そ/\」とのお言葉で
山田伊八郎が 会長に任命されたのであったが・・・

この後継者問題、何故このような事になったのか・・・
以下に、こうした文面が見出せる。

「次期会長を自負する 役員たちの人間心が主力となって
親神が 二代会長に 山田伊八郎としておさしづ お許しになった件は、
おそれ多いことながら 暗黙のうちに 闇に葬ってしまったのである

この おさしづ隠蔽事情が、更に事情を複雑なものへと発展させることとなり、
後担任をめぐって
人間心の醜態ともいえる派閥乱立の暗黒の歴史が、
延々 二年余も 続くのである。」
(敷島大教会 『山田伊八郎伝』 より)

つまりは、後々まで
伊八郎の後任お許しのさしづは、どこかで隠蔽されていた
というのだ。

今 改めて読めば
ぢばからこう言えば、そむく者はあろうまい。治まるものやろう。
と仰せられる親神様のお言葉も、
この 隠蔽事情の事を言っているのでは・・・
とも解せるのかと思う。

親神様にとっては、
敷島の後継者は 伊八郎以外にはありえなかったのだろう。

いくら勝手に 人の力で隠蔽したとて、
神の方には倍の力。
神様の思惑には 到底 及ばないに決まっている。

そして、数々の厭がらせ、そうした逆境・・・
その中を「たんのう」一つで逃げずに通った先人。

他と比べて 咲くのは遅くなったが、
なれども 必ず年々に咲く。
根は踏ん張っている。

これこそ、神が認めた 根のある花。
山田伊八郎 という人物なのである。

天理教ORTHDOX > 「敷島の暗黒時代」より)

おわりに

敷島大教会ストリートビューより⑤
Googleストリートビューより

天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
8回目の今回は、
「敷島大教会」の歴史を勉強しました。

今回は、
今まで通り『天理教事典』【初版=1977年版】の書写から始めましたが、
そこを入り口にして巡り合った【れんだいこ】さんによる「敷島大教会考」というページ、
及び、
そこにリンクされた、「天理教ORTHDOX」というブログ内の敷島大教会に関連した記事、
それを転記させて頂きました。

【れんだいこ】さんが記述して下さっていた内容は、
敷島関係の方々にとっては 周知の事実なのでありましょう。

しかし、私は、敷島大教会の方とのご縁がありませんでした。
なので、【れんだいこ】さんが書いて下さっていた史実は、
(敷島とご縁がなかったから ある意味 当然かもしれませんが)
全く 初めて知ることばかりでした。

特に、【れんだいこ】さんの「敷島の暗黒時代」というブログ記事の内容に関しては、
正直、衝撃を受けました。

南半国の道の先駆けとなった「心勇講」が そのまま敷島大教会になったのではなくて、
「城島」分教会を経由して「敷島」大教会となっていた ということ。

「城島」分教会の初代会長が出直した後、
その2代会長に 山田伊八郎先生がすんなり納まったわけではなくて、
むしろ その内部は反対であった ということ。

城島分教会 内部の人々は 反対であったが、
親神様にとっては、敷島の後継者は 山田伊八郎先生以外にはありえず、
おさしづをもって、そのことを急き込まれていた ということ。

敷島大教会『山田伊八郎伝』にて【おさしづ隠蔽事情】と表現されているところの事情、
すなわち、
城島分教会2代会長として 山田伊八郎先生 お許しの「おさしづ」が出ていたにも関わらず、
2年近くも放置されていた(その『おさしづ』を受け入れ難い内部の人々によって隠蔽されていた)ということ。

そうした 城島(敷島)内部の数々の厭がらせ、逆境を、
山田伊八郎先生は、逃げ出すことなく「たんのう」一筋に乗り越え、
そのような姿こそ 神様が望まれる姿であり、
それが 後の 天理教の屋台骨を支える「敷島大教会」につながっている ということ。

――今回、敷島大教会について勉強するまで、
以上のような史実は、
本当に 全く 何も知りませんでした。

そのような 敷島大教会 初期の歴史を学びながら感じたのは、
山田伊八郎先生の生き様と、
当シリーズ5回目の「河原町大教会」のところで勉強した
河原町大教会 初代の深谷源次郎先生の生き様には 重なるものがある
という点でした。

斯道会(後の河原町大教会)発足時に、
初代の 深谷源次郎先生が、
その母胎ともいえる「明誠社」との間で 大きなトラブルを抱えていたことは、
『稿本天理教教祖伝逸話篇』(148.清らかな所へ)にも記述されている、周知の事実であります。

そのことは、当シリーズ5回目のところでも触れました。

多くの人間が集まれば、
活気も出て 良いことがたくさんある反面、
その分、摩擦も増えて、難しいことも たくさん出てくる。

そのような、人間関係の大いなるもつれからスタートした「斯道会」でしたが、
深谷源次郎先生による「たんのう」一筋の歩みによって、
初期の混乱は 見事に乗り越えられ、そこから 更に発展して、
後には、現在の天理教教会1⁄5近くの教会を生み出すほどまで繁栄する
という姿に至った。

一方、今回勉強した 敷島大教会の礎を築いた 山田伊八郎先生。

心勇講 内部の 一部の人からよく思われず、
神様から頂いた『おさしづ』を隠蔽してでも 会長就任を阻止しよう
とまでされるほど 疎んじられた。

そのような中を 山田伊八郎先生は、
深谷先生同様、「たんのう」一筋の歩みによって、
「敷島暗黒時代」を見事に乗り越えた。

敷島は、そこから更に発展して、
後に、
現在の天理教の屋台骨を支えていると言えるほどの大教会にまで繁栄する
という姿に至った。

以上のような大先生方の姿を知って、私が学んだこと。

それは、
当シリーズ5回目「河原町大教会」のところでも書きましたが、
「たんのう」という信仰的実践には、
人間関係の難しさを乗り越えて 大きな理の栄えを築き上げるだけの力がある
ということを示している
ということでした。

「たんのう」には発展・繁栄をもたらすパワーがある、
という「天の理」を、
改めて 教えて頂いたような気がしています。

敷島大教会に関しては、
山田伊八郎先生の奥様、山田いゑ先生(旧姓:山中こいそ様)に関しても、
以前、茶木谷先生のYouTube動画文字起こしで勉強した際に
いろいろ学んだことがありました。👇

【れんだいこ】さんのサイトを転記して作成した記事

また、
過去記事茶木谷吉信先生講話「目に見えん徳」ご逸話をめぐって~【逸話篇の世界を旅する】よりの中で、
茶木谷先生から出された宿題、
「教祖から『目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか』と問われた山中こいそ様が『形のある物は失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます』とお答え申し上げた当時の状況を調べてみてほしい」
という宿題に答える記事を書いたことがありました。

その際にも、
【れんだいこ】さんの
「【山田伊八郎の入信と”こいそ”との結婚】」
という記事を引用させてもらったのですが、
(残念ながら、その元記事は、現在削除されています)

その中で
「目に見えん徳 頂きとうございます」
とお答えになるに至った 山中こいそ様の経歴を知って、
私は、思わず涙が流れたことを覚えています。
(現在、【れんだいこ】さんの 該当ページは削除されています)

そうした、こいそ様の生き様と重ね合わせると、
山田伊八郎先生の生き様に
より一段と深い味わいを感じることが出来ます。

…しかし、当記事は長くなり過ぎました。
なので、
これ以上、ここに書き加えることは控えたいと思います。

いやあ~、長くなってしまいました (-_-;)

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】8回目の今回は、
「敷島大教会」についての勉強でした。

いたずらに長い記事になってしまい、
記述した自分自身ですら、
「こんな長い文章、誰が読むねん…(>_<)
と感じています(笑)

…が、毎回繰り返す通り、
ここは、あくまで「自己満足ブログ」…

ブログ主自身は、
今まで知らなかった多くのことを知ることが出来た喜びを、
一人 噛みしめているのでありました…!(^^)!

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「敷島大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

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