Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号20番「中和大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号21番「櫻井大教会」について勉強します。
- 櫻井大教会(さくらい だいきょうかい)
- 冨松猶次郎初代会長の入信
- 大和講の設立(明治19年頃~明治21年)
- 大和講の拡大(明治22年~明治24年)
- 大和講から支教会設置へ(明治25年頃~明治26年)
- 五條支教会 分離問題(明治26年頃~明治27年)
- 櫻井支教会~分教会~教会(明治30年~明治41年)
- 本部大正普請への伏込み(明治43年~大正10年頃)
- 冨松直七2代会長就任(大正11年~大正14年)
- 神殿建築中止(昭和2年頃~昭和5年頃)
- 冨松はな3代会長(昭和7年~昭和11年頃)
- 冨松義晴4代会長の就任(昭和15年~昭和21年)
- 冨松義晴4代会長復員後(昭和22年~昭和23年)
- 神殿建築(昭和25年~昭和41年頃)
- 4代会長から冨松幹禎5代会長へ(昭和42年~昭和48年)
- おわりに
櫻井大教会(さくらい だいきょうかい)
冨松猶次郎初代会長の入信
櫻井大教会 初代会長 冨松猶次郎は、
嘉永3年(1850) 9月3日、
現在の奈良県桜井市大字上之庄397番地で、
冨松清治郎、モト の次男として生まれた。明治6年(1873) 米田家の養子となったが、
高丸たみを妻に迎えてから、米田家の生活に合わず、
同家を去って 桜井村に出、
金物商を営んで、南大和に知られる「釜直」を創業した。明治19年(1886) 旧6月
義兄 高丸佐四郎 夫婦が コレラに罹り 相次いで出直した。(冨松猶次郎)初代会長は この厳粛な運命を目の当たりにし、
自分自身もコレラに罹ったら…と思い
大きな衝動を受けた。この時
同村下の石田新治郎から聞いていた 庄屋敷村の神様を思い出して、
同年(明治19年) 旧6月28日
初めて「おぢば」へ帰った。この時 宮森与三郎から神様の話を聞いて、
(冨松猶次郎は) 心に固く 天理教の信仰を誓った。
大和講の設立(明治19年頃~明治21年)
当時(明治19年頃)
庄屋敷村から南10キロの桜井村には、
10数名の 天理教の信者がいた。同年(明治19年) 8月末
(冨松猶次郎)初代会長は
取次ぎの先生より 大和講 の講名を頂き、
旧10月6日 桜井村で講を結成し、
第1号、第2号の号講社を置いた。講元には
前身 僧侶であり 角屋という宿屋を営んでいた
藤林章 が就任した。(冨松猶次郎)初代会長は
翌 旧11月6日 結成された 第3、第4号の内
第4号 講元となった。教祖が御身をお隠しになった明治20年(1887) 旧5月
(冨松猶次郎)初代会長は
大和講 会計の責任を持った。翌年(明治21年) 旧正月、
妻 たみの病気を通して、
大和講で 最初の「おさづけ」を拝戴し
「たすけ一条」の心を定めた。
大和講の拡大(明治22年~明治24年)
明治22年(1889) 旧正月
(冨松猶次郎)初代会長が奈良県五条へ布教に出るに及んで
大和講の教線は大いに伸び、
大和講 第2番組を結成した。(冨松猶次郎)初代会長の 五条布教は
大和講の信者の布教意欲を促した。2号周旋 岩井喜三郎は
同年(明治22年) 旧7月
和歌山県伊都郡笠田村へ布教に出て 大和講 第3番組を結成し、
翌(明治)23年(1890) 吉野郡十津川村へ布教に出て 大和講 第5番組を結成し、
ついで 三重県多気郡佐奈村へ布教に出て 大和講 第6番組を結成した。また3号周旋 松田秀吉が
布教をしていた下市で 大和講 第4番組が結成された。大和講は
明治23年(1890) 旧3月21日
桜井町921番地に 集談所を設置、
翌年(明治24年) 旧正月5日
同町922番地の土地建物を買収して 集談所を移転した。明治24年(1891)末には
75ヵ所の号講社を有する迄になった。同年(明治24年) 3月
講元 藤林章は その任に耐えられず辞任したので、
代わって(冨松猶次郎)初代会長が 講元に就任した。
大和講から支教会設置へ(明治25年頃~明治26年)
当時 大和講にも教会設置の気運はあったが、
先の(藤林章)講元の信仰が煮え切らなかったのと、
桜井町の第1番組には 初代会長より古い信者が蟠踞していたので、
教会設置に踏切ることが出来なかった。そのために
大和講の教会設置は 変わった途を辿ることになった。明治25年(1892) 初め、
城島(敷島)分教会の信者 梅本善七が 南和支教会を設置するに当たり
五条町で設置しようとした。五条町の大和講 第2番組には 26ヵ所の講社があったので、
南和支教会と競願の立場になった。大和講では
桜井町の第1番組が先だ、五条町の第2番組が後だ
と前後を考えているゆとりがなくなり、
取敢えず 奈良県宇陀郡五条町 大字須恵58番地を買収し、
同年(明治25年) 2月26日
教会設置願書を教会本部へ提出、
3月3日許しを得て 五條支教会を設置した。
会長は 富松猶次郎。こうして
五條支教会が大和講を代表する教会として設置されると、
桜井町の第1番組では、
五條支教会の下に属する事を快しとしない空気が出て来て、
やがて それが 櫻井支教会の設置へと進んだ。明治26年(1893) 12月10日「おさしづ」を受け
翌11日許しを得、
奈良県磯城郡桜井町 大字桜井第113番地に
櫻井支教会の設置をみたのである。会長は 同じく富松猶次郎。
大和講は
本部直属で講を代表する 二つの支教会を持つこととなった。
五條支教会 分離問題(明治26年頃~明治27年)
櫻井支教会が 第1番組の桜井町に設置されると、
五條支教会の内で 分離の動きが起きてきた。時を同じくして 初代会長夫人 たみが 病気となった。
五條支教会の分離問題の事情と たみ夫人の病気を通して、
(冨松猶次郎)初代会長は
「釜直」の商売をやめて 布教に専務する心を定め、
櫻井支教会の神殿建築に着手した。そして 明治28年(1895) 11月5日
五條支教会長を
分離問題の芯になっていた前田喜四郎に譲り、
(冨松猶次郎)初代会長に心を添えていた宇恵準治を(五條支教会)副担任とした。一方 櫻井支教会の建築は 次々と進んだ。
明治29年(1896)
五條支教会の内においても、
分離問題に関った役員の出直を通して
(五條支教会の分離独立問題は)「ほこり」であることを悟る様になり、
同年(明治29年) 11月6日
本部直属扱いの五條支教会を
櫻井支教会 部内教会にする許しを受けた。3年に亘った分離問題は終わったが、
五條支教会長 前田喜四郎が出直したので、
後任教会長に 副担任 宇恵準治が就任した。明治27年に 大和講 第3番組に 伊都出張所、
同年(明治27年) 大和講 第4番組に下市布教所、明治28年に 大和講 第1番組内に三輪出張所、
同じく 大和講 第6番組に 佐奈布教所、明治29年に 大和講 第1番組内に
耳成布教所と三山出張所の 直轄教会が設置された。
櫻井支教会~分教会~教会(明治30年~明治41年)
櫻井支教会の神殿は、
桜井町 大字桜井第180番地の地で完成し、
明治30年(1897) 12月21日
鎮座祭を盛大につとめた。(冨松猶次郎)初代会長は
引続いて 分教会昇格を打出した。部内教会18ヵ所の教勢を以て分教会へ昇格を望むことは 無理なことであったが、
親の櫻井も支教会、子の五條も支教会では
櫻井の「順序の道」が立たないからであった。明治33年(1900) 10月3日、
分教会に引直しの許しを受けて 増地増築を行い、
理事 仲谷亀吉、役員 大津清六、高丸栄太良、小西安治郎、柏原登与 等 5家族が入込み、
分教会としての体制を整えた。明治35年(1902)頃から
日露戦争の世界事情と時を同じくして、
櫻井分教会に 財政困窮の難局が生じてきた。一時 活路を世界に求めて 大阪でメリヤス業を営んだが、
教祖20年祭の打出しと共に「たすけ一条」に立ち帰り、
部内教会も 信仰に生気を取戻した。明治41年(1908) 12月19日
天理教一派独立にともなう教規により
櫻井分教会は 櫻井教会と改称した。この年(明治41年)に 大福布教所、
翌 明治42年に 阪栄、桜南、芳野 の各宣教所の
直轄教会が設置された。
本部大正普請への伏込み(明治43年~大正10年頃)
教会本部の大正普請(現在の北礼拝場)は、
本席の出直しに始まったのである。いよいよ具体的に着工の運びとなった 明治43年(1910)、
(冨松猶次郎)初代会長は
建築係 増野正兵衛から ご用材買入の役を受けた。これより 1年9ヵ月に亘り
国有林払下げのため、
大阪営林局、高野山、木曽山中へと出向いて苦労を重ねた結果、
大半は (冨松猶次郎)初代会長の手によって探し出された。櫻井教会からは
10数本を献納することが出来た。大正3年(1914)
政始宣教所が 直轄教会として設置された。教祖30年祭後の頃から 再び 教会の財政は困窮したが、
ご用材 献納の働きにより 無事通り抜けた。そして、大正10年(1921) 1月26日の教祖40年祭(大正15年執行) の提唱を迎えた。
冨松直七2代会長就任(大正11年~大正14年)
大正11年(1922) 4月29日
冨松直七が2代会長に就任した。同年(大正11年) 11月23日の就任奉告祭当日
中山たまへ(初代真柱夫人) から 大教会へ昇格するよう仕込みをうけ、
これより 櫻井教会の目標は
教会倍加から 大教会昇格の目標へと進んだ。また「おちば」の神苑の拡張にともない、
信徒詰所が移転されることになり、
丹波市町大字田部20番地を買収して移転した。大教会昇格の目標に向かって
部内教会が「一手一つ」になって勤めた結果、
教勢は大きく伸び、
大正14年(1925) 7月2日
部内教会101ヵ所となったので、
同年(大正14年) 7月25日
念願の大教会昇格の許しを受けた。この 大正11年に 一ッ家宣教所、
大正13年に 鳥見山宣教所、桜京宣教所、
大正14年に 真洋宣教所 が
直轄教会として設置された。
神殿建築中止(昭和2年頃~昭和5年頃)
教祖40年祭(大正15年)後
ともすれば消極的に流れ易い 櫻井の道に、
成人への目標をつくるため、
親神は 移転新築の事情をお見せ下された。昭和2年(1927) 1月
教会前の奈良街道が産業道路として拡張されることとなって、
境内地を削り取られた上に、
近畿日本鉄道大阪線の敷設によって、
大教会の境内地は大きく削除されることになった。特に大阪線は 桜井町を高架で通るため、
神殿が眼下に見下されることになった。幾度か会議を開いて話し合った結果、
思い切って移転建築することになり、
昭和2年 7月23日 現在地(奈良県桜井市大字桜井470番地) に
移転建築の許しを受けた。同年 (昭和2年) 8月4日 地鎮祭、
同日 地均しに着手し
炊事場の建築に着手した。建物の移転は 昭和4年(1929) 8月に完了し、
引続いて 神殿建築予定地の地均しにかかり、
新築絵図面を部内教会に配布して神殿建築を呼びかけたが、
その反響は実に低調で、
勇みが形に表われなかった。加えて 昭和5年(1930) 9月
教祖50年祭、立教百年祭の両年祭の提唱があった。(櫻井)大教会では、
両年祭と大教会の神殿建築とのつとめに対して、
二兎を追う者は一兎も得ずという考えから、
神殿建築を中止し、
折角与えられた神殿建築の時機を
生かすことが出来なかった。
冨松はな3代会長(昭和7年~昭和11年頃)
昭和7年(1932) 12月14日
病身を押して本部青年として勤めていた (冨松直七)2代会長が出直し、
昭和8年(1933) 3月2日
3代会長として、2代会長夫人 冨松はな が就任した。沈滞した教勢の回復を願う上から、
大教会の教祖殿の建築にかかり、
昭和8年 10月末、完成、
同時に 祖霊殿の移転を完了した。これより教勢は幾分回復したが、
負債に押されて
一方に絞った両年祭活動は 実に低調で、
本部に対して 充分の用が出来なかった。教祖50年祭の年、昭和11年
直轄教会として 五十美宣教所が設置された。
冨松義晴4代会長の就任(昭和15年~昭和21年)
太平洋戦争の前夜、
天理教でも革新の時節で、
昭和15年(1940) 3月30日
4代会長として冨松義晴が就任した。就任して間もない (冨松義晴)4代会長は、
諭達第10号により、
信徒詰所を本部へ献納させて頂くという問題に直面した。当時 信徒詰所の土地建物は
大教会の負債の抵当に入っていた。抵当権のかかった物を献納することは出来ない。
負債を返済し 抵当権を抹消して本部へ献納することになり、
長年に亘って大教会が苦しんで来た
負債整理にとりかかることになった。そして 大教会一手一つの活動によって、
昭和17年(1942) 5月24日
負債が完全に整理された。戦局の様相は一変して
敗戦の色が濃くなった 昭和18年(1943) 12月28日
(冨松義晴)大教会長は、
中部第23部隊に召集されて入隊、
そのため 同年(昭和18年) 5月7日
会長夫人 富松泰子が 教会主管者代務者となった。(冨松義晴)大教会長は
檜第36部隊、至猛部隊に所属し 華中に転戦し
幾度か死線を越えたが、
日本の敗戦により
昭和21年(1946) 5月19日 無事復員した。
冨松義晴4代会長復員後(昭和22年~昭和23年)
翌年(昭和22年) 5月24日
2代真柱の臨席を得て、
中山家ご先祖の合祀祭をつとめたが、
この喜びの節に大教会全体が勇み、
部内教会が競って勤めた。その結果 予想外の大きなご守護を頂き、
櫻井大教会も部内教会も、
なせばなるとの自信を深めた。3代の苦労が実り、
大教会は 一手一つに固く結ばれた。昭和23年 2月10日
(冨松義晴)4代会長は 教議員に選ばれ、
更に 天理語学専門学校の教養科担当教授、教庁庶務部 調査課長、教会本部青年に命ぜられ、
「おぢば」の声は 会長を通して 直ちに大教会の上に反映し、
部内教会は さらに勇んで勤めることができるようになった。
神殿建築(昭和25年~昭和41年頃)
昭和25年(1950) 2月24日
教会創立60周年記念祭を迎えるに当たって、
昭和3年 (冨松直七)2代会長時代、桜井町北口から現在地に移転する時に神殿などの建築が計画され本部の許しも得たものの遂に実現出来なかった神殿の建築をし、
親神、教祖、歴代の会長に信仰の成果を受取ってもらいたいという上から、
神殿建築が打出された。神殿建築は (冨松直七)2代会長の悲願であった。
昭和25年、26年は 神殿建築の成就を願って布教活動に専念し、
今迄以上の真実をもって「おぢば」へつとめた。昭和27年(1952) 3月26日
神殿建築の許しを受け 建築に着手した。設計は 教会本部営繕課 吉田清三郎技師で、
建物は鉄筋鉄骨コンクリート造瓦葺屋根であった。同年(昭和27年) 9月15日 起工式、
昭和28年 4月28日 上棟式、
工事は順調に進んだが、
教祖70年祭を迎えるに当たり、
昭和29年 7月を以て工事を完了することとし、
昭和29年(1954) 10月15日
落成奉告祭を執行した。桜井の街を一望する鳥見山麓に、
部内教会の真実の結晶である神殿が完成した。その後 普譜の負債のため 教勢の発展は多少停滞したが、
昭和34年(1959) 8月、
大教会の負債整理のため
五條分教会の境内地を献納することになり、
他の直轄教会もこれに力を合わせて、
約3,000万円の負債を一挙に返済した。教祖70年祭の年、昭和31年
直轄に桜陽分教会が設置された。教祖80年祭には、
大教会は 存分の勤めをすることが出来た。
4代会長から冨松幹禎5代会長へ(昭和42年~昭和48年)
櫻井が いまだに部内教会を分離陞級していないことが
(冨松義晴)4代会長の心に 絶えずかかっていた。かつて本部直属教会であった五條分教会を分離陞級する事によって、
櫻井大教会も、五條分教会も大きく成人する事が出来る
との信仰の上から、
昭和42年(1967) 10月26日
(五條分教会の)分離陞級の許しを受けた。同年(昭和42年) 2月18日
信者詰所新館の火災が発生した。新館の焼失によって 詰所としての機能を失った。
これが動機となって 第18母屋の建築にかかり、
昭和46年(1971) 4月11日完成した。引続き 教会創立80周年記念祭を
昭和48年(1973) 4月8日につとめるに当たり、
神殿建築の時に許しを受けながら着工出来なかった客殿の建築を、
鉄筋コンクリート瓦葺で完成した。その間 (冨松義晴)4代会長は、
教庁電気課長、渉外課長、表統領室次長として勤め、
昭和47年(1972) 4月18日
教会本部本部員に登用された。(冨松義晴)4代会長は、
教会創立80周年記念祭を期して 辞職した。そして 昭和48年 1月26日に
会長を 冨松幹禎に譲った。現在(『天理教事典』1977年版出版当時)、
部内教会、信者一同 心を一つに合わせ、
陽気ぐらし世界を目指して励んでいる。〔現住所〕〒633-0091 奈良県桜井市大字桜井470番地
〔電話〕0744-42-2256(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,372〜374)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
21回目の今回は、
「櫻井大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】21回目の当記事では
『天理教事典』の中の「櫻井大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回もまた、知らないことばかりでした。
櫻井大教会の母体は「大和講」なのですね。
今回の『天理教事典』「櫻井大教会」解説中の、
明治21年の教会本部設置に続いて明治22年頃から湧き上がった各地の教会設置ムーブメントに呼応して、
「大和講」が、自分たちも『教会』を設立しよう、
となったあたりの歴史が非常に興味深かったです。
理解するのに少し時間がかかりましたが、
印象に残りました。
私の頭を整理するために、
『天理教事典』「櫻井大教会」解説に記述された
「大和講」から櫻井分教会設立あたりまでの動きを
箇条書きにしてみます。
- 明治19年旧6月、冨松猶次郎は、
義兄夫婦がコレラに罹り相次いで出直す姿を通して深く感じるものがあり、
同村下の者から聞いていた庄屋敷村の神様を思い出して「おぢば」へ帰った。
そこで神様の話を聞いて感銘を受け、入信した。 - 明治19年8月末、冨松猶次郎は、
取次ぎの先生より「大和講」の講名を頂き、旧10月6日 桜井村で講を結成した。 - 「大和講」の講元には、元僧侶の 藤林章という方が就任した。
- 明治22年旧正月、冨松猶次郎が奈良県五条へ布教に出るに及んで「大和講」の教線は大いに伸び、
五条で「大和講」第2番組が結成されるに至った。(桜井町が 第1番組) - 冨松猶次郎の五条布教は「大和講」信者の布教意欲を促し、大和講はどんどん拡大していき、
明治22年5月には、五条町に 第2番組が 五條集談所を設置した。 - 明治23年旧3月21日「大和講」第1番組が、桜井町に 櫻井集談所を設置した。
- 明治24年3月、藤林章 講元が その任に耐えられぬと辞任。
代わって、冨松猶次郎が「大和講」講元に就任した。 - その後、明治21年の教会本部設置に続いて明治22年頃から湧き上がった 各地の教会設置ムーブメントに呼応して
「大和講」でも『教会』を設立しようという動きが強まった。 - 五条町の「大和講」第2番組には26ヵ所の講社があったので、五条町での教会設置を考えていたところ、
明治25年初め、城島(敷島)分教会の梅本善七が 五条町で 南和支教会を設置ようとしている との情報が入ってきた。 - 当時は、一町村に一教会しか許さない とされていたため、
大和講と南和支教会が 五条町の教会設置を競うような形になった。 - そのため「大和講」における教会設立は、
桜井町の 第1番組が先だ、五条町の 第2番組が後だ、
と前後を考えているゆとりがなくなった。
五条町の 第2番組の教会設立を急ぐこととした。 - 取りあえず 奈良県宇陀郡五条町 大字須恵58番地を買収し、
明治25年2月26日 教会設置願書を教会本部へ提出。
3月3日許しを得て、富松猶次郎を会長として 五條支教会を設置した。 - 五條支教会の設置によって、「大和講」の中心的存在が、
それまでの 桜井の 第1番組から 五條支教会 (第2番組) に移った。 - 五條支教会が「大和講」を代表する教会として設置されると、
桜井町の 第1番組では、五條支教会の下に属する事を快しとしない空気が出て来た。 - 「大和講」第1番組から、「大和講」全体を統括する教会を桜井に設置するべきだ との意見が強くなってきた。
- 「大和講」第1番組の櫻井集談所に 支教会設置を願い出ることとなった。
明治26年12月10日「おさしづ」を受け、翌11日 許しを得た。
奈良県磯城郡桜井町 大字桜井第113番地に、富松猶次郎を会長(=五條支教会長と兼務)として、櫻井支教会が設置された。 - 櫻井支教会が 第1番組の桜井町に設置されると、
今度は、五條支教会の内で 分離の動きが起きてきた。 - 明治28年 11月5日、富松猶次郎は、
五條支教会長を 前田喜四郎に譲り、宇恵準治を副担任とした。
富松猶次郎は 櫻井支教会長 専任となった。 - その後、五條支教会内において、分離問題に関った役員の出直等の節があり、
それは「ほこり」である と悟る考え方が広まった。
それにより、五條支教会は 本部直属ではなく 櫻井支教会の部内教会にすべし
と意見がまとまり、明治29年 11月6日 本部の許しを受けた。
その結果、本部直属だった五條支教会は、櫻井支教会の部内教会となった。 - 五條支教会長の 前田喜四郎が出直した。
五條支教会の後任教会長に 副担任 宇恵準治が就任した。 - 櫻井支教会と五條支教会は「上級ー部内」の関係となったが、
両者が組織的に同格の支教会では「順序の道」が立たないと考え、
冨松猶次郎会長は 櫻井支教会の分教会昇格を打出した。 - 明治33年 10月3日、櫻井支教会は、分教会に引直しの許しを受けた。
増地増築を行い、理事、役員等が入込んで、櫻井分教会としての体制を整えた。
以上、箇条書きにすることで、
「大和講」から櫻井分教会設立までの流れが 何となく分かりました。
箇条書きにするにあたっては、
実は、『天理教事典』「櫻井大教会」の解説だけではよく分かりませんでした。
「五條大教会」の方が先に支教会になったのに、なぜ「櫻井大教会」の方が上級になったのか、
そのあたりの背景や、櫻井大教会と五條大教会の関係がよく分からなかったのです。
なので、「五條大教会」の解説も参考にしました。
「櫻井大教会」と「五條大教会」両方の解説を読み比べることで、
やっと把握出来たのでした。
(「五條大教会」解説については、当シリーズで該当回が回ってきた時に書写して勉強する予定です。)
どちらも「大和講」の同士だったのですね。
明治21年に教会本部が設立されて、教内全体に教会設置のムーブメントが起きた。
その動きに呼応して 自分たちも『教会』を設立しよう ということになった。
その中で、
「大和講」は 1番組、2番組、3番組…と分かれていたので、
各組ごとに教会を設置する流れになった。
桜井の 1番組は、最初の講元が教会設置に消極的だったこともあり動きが鈍かったのに対して、
五條の 2番組は、競合者が現れたこともあって悠長に構えておられなくなり、
取り急ぎ申請して お許しを頂いた。
そのため、五條の 2番組が「大和講」最初の「支教会」となった。
その後、桜井の 1番組も、申請してお許しを頂き「支教会」となった。
もともと「大和講」の源流は 1番組であるところから、
桜井の 1番組が「大和講」の中心となったが、
先に「支教会」となった 2番組(五條支教会)の中に それを良しとしない人たちが出てきた。
それで、五條支教会は「大和講」から分離しよう、という動きが強まった。
が、分離運動に関わった人が出直したりする姿を見せられて 分離運動は下火となり、
逆に、順序の理に従うことの重要性が意識されるようになった。
五條支教会は 櫻井支教会の部内教会となった。
櫻井支教会と五條支教会が 組織的に同格の支教会では「順序の道」が立たないと考え、
櫻井支教会は 分教会への昇格を志向し、それを果たした。
…と、こんな流れでしょうか。
以上は、あくまでも『天理教事典』の解説のみを参照にした私の個人的な理解ですので、
勘違いがあるかもしれませんが。
それにしても、
櫻井大教会と五條大教会には、こんな歴史があったのですね。
知りませんでした。
今回の勉強を通して、改めて、
教会制度の『人間臭さ』というものを感じさせられたのでありました。
「大和講」のままではダメだったのかなぁ…
どうしても教会にならないといけなかったのかなぁ…
「大和講」としてまとまって一つの教会へ、というのは非現実的な話だったのかなぁ…
などという素朴な疑問が浮かんだりもしました。
しかし、「大和講」自体が非常に大きな集団だったわけですから、
たとえ「講」のまま継続していったとしても、
誰が講元になるかとか、どこが中心になるかとか、
それはそれで問題は起きるでしょうし、
人が大勢集まる以上、難問山積状態になることは、きっと変わりないのでしょう。
人と人がたくさん集まると、
皆、違う人間――
それぞれ考え方が違うのだから、
何かしらの問題が起きてくるのは避けられない、
ということなのでしょうね。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を重ねるにつれて、
その思いをますます強くしています。
その中でも、今回の勉強を通して “心に留めておきたい” と私が感じたこと。
それは、
「大和講」から分離しようとした五條分教会が、
分離運動に関わった人の出直したりする姿を通して神意を悟り、
順序の理に従うこととし、五條支教会が櫻井支教会の部内となることで
事情を治めたという歴史。
おそらく、世間一般的考え方の人達ばかりであったならば、
さらに泥沼化したであろうと思われる事情の節だと思います。
しかしそれが、
お互いがお道の「信仰的思案」に立ち返ることによって、丸く治まった。
人がたくさん集まることで生じる問題も、
この道の教えを土台にして思案することで、
それをお互いの成長の糧にしつつ 乗り越えていける――
櫻井大教会・五條大教会 初期の歴史から、
そのような学びを引き出すことが出来るのではないか、
という気がします。
いずれにしても、
どんな組織にも
長い歴史の間には 本当にいろいろなことがありますね…
今回も、非常に勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「櫻井大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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