Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号95番「中根大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号96番「肥長大教会」について勉強します。
- 肥長大教会(ひなが だいきょうかい)
- 橋本梅太郎の入信(明治28年)
- 橋本梅太郎の結婚 〜 おさづけの理拝戴(明治30年〜明治31年)
- 橋本梅太郎の 長崎 単独布教(明治32年)
- 肥長出張所の開設(明治32年)
- 肥長出張所の家賃問題(明治33年)
- 橋本梅太郎の再起 〜 教会移転(明治33年)
- 肥長支教会へ昇格(明治42年)
- 長崎市 御船蔵町への移転 〜 神殿ふしん(明治43年〜大正4年)
- 肥長分教会へ昇格(大正8年)
- 治道からの分離独立、信者詰所開設(大正14年)
- 多額の負債、返済に追われる試練の時期(昭和初期)
- 肥長中教会へ昇格(昭和11年)
- 橋本梅太郎長男・正治、天理教教会本部の大役歴任(昭和8年頃〜昭和14年頃)
- 肥長大教会へ昇格(昭和16年)
- 太平洋戦争開戦に伴う混乱 〜 橋本梅太郎 初代会長の出直し(昭和16年〜昭和18年)
- 長崎への原爆投下による被災、そして終戦(昭和20年)
- 戦後復興 〜 橋本正治の帰国(昭和20年頃〜昭和22年)
- 橋本正治3代会長の就任(昭和22年)
- 進む戦後復興 〜 創立50周年記念祭(昭和22年頃〜昭和27年頃)
- 橋本利三4代会長の就任、創立60周年記念祭(昭和34年)
- 神殿及び付属建物の増改築、創立70周年記念祭(昭和44年)
- 教祖90年祭活動(昭和49年〜昭和51年)
- おわりに
肥長大教会(ひなが だいきょうかい)

橋本梅太郎の入信(明治28年)
奈良県添上郡 治道村 発志院、橋本庄作の 2男・梅太郎が
眼病を救けられたことから 天理教の信仰に生涯を捧げる決意をしたのは、
明治28年(1895) 。(橋本梅太郎) 19歳の時のことで あった。
橋本梅太郎の結婚 〜 おさづけの理拝戴(明治30年〜明治31年)
(橋本梅太郎は)
その後、
明治30年4月18日、
(奈良県) 磯城郡三宅村・馬場儀平の 3女・トミエ (18歳)と結婚。同(明治)31年12月25日には、おさづけの理を拝戴した。
橋本梅太郎の 長崎 単独布教(明治32年)
(橋本梅太郎の) この間の布教は、家業の傍ら にをいがけに歩くという程度であったが、
明治32年(には)、遂に、単独布教に出発することとなった。その前年(明治31年)頃より 長崎布教に出ていた同村 (奈良県添上郡 治道村) の桝井政治郎が、事情のため (長崎を)引き揚げて来た。
(それを受けて、橋本梅太郎は)
その後始末を兼ね、
(明治32年) 7月20日、
治道支教会長・矢追楢蔵、熊本布教に赴く高橋卯治郎 と共に、
長崎へ向かったのであった。(橋本)梅太郎は、
長崎市銅座町4番地の商家の 2階を借りて、単独布教を開始(した)。
肥長出張所の開設(明治32年)
(橋本梅太郎は、一大決心のもとに、懸命に 長崎布教に取り組んだ。
その結果) 数々の精神的苦悩をなめた中にも 次々と 不思議な神のたすけ (ご守護) が現れた。(そして) 明治32年(1899) 11月30日には、
(長崎市) 船大工町25番地に、
天理教教会本部から、治道支教会部属「肥長出張所」設置の許しを得た。尚、(当初の) 担任名義は、
(橋本)梅太郎が (まだ) 若年 (=24歳) だったため
地方庁公認を顧慮し、
臨時的措置として 高橋卯治郎とした。翌 (明治)33年 1月24日に、
長崎県知事より 肥長出張所設置が認可された。
肥長出張所の家賃問題(明治33年)
(長崎市船大工町に肥長出張所を開設し、長崎県知事の認可も受け、さぁ これから益々布教活動に励んでいこうと 一同の士気も高まった)この頃、
借家の家賃問題が生じた。(橋本梅太郎は、この問題を解決すべく 肥長)出張所の 新築を図ったが、(残念ながら それは)うまくいかなかった。
(それ)以後、(肥長出張所は) 貧のどん底に落ち切り、
周囲の反対・攻撃・嘲笑のうちに明け暮れするようになってしまった。(そのため、さすがの橋本梅太郎も) 一時は、長崎布教を断念しようと考える程に追い詰められた。
橋本梅太郎の再起 〜 教会移転(明治33年)
(それ程に追い詰められた 橋本梅太郎であったが)
しかし、(その後に) 病いを得て、(そこから 深く)悟るところがあった。(病いから回復した 橋本梅太郎は、改めて) 長崎の土となる覚悟を決め、(新たな気持ちで) 単独布教に専念。
そこから半年後の 明治33年11月14日、
(肥長出張所は、長崎市金屋町4番地への移転と (橋本)梅太郎に 担任変更を出願、(天理教教会本部の) 許しを得(るに至っ)た。この(長崎市) 金屋町時代は、後年の「肥長」発展の基礎が定められた時代だと言えるであろう。
肥長支教会へ昇格(明治42年)
(肥前出張所にとって、この長崎市)金屋町時代は 最も多難を極めたどん底時代でもあったが、
(そのような中でも、肥長の) 教勢は 日に日に盛大となっていった。明治38年の暮には、(長崎市) 金屋町の土地建物を買収・増築。
次いで、同(明治)42年 2月3日 (橋本梅太郎34歳) には、(肥長)支教会(へ) 昇格の許しを受けたのであった。
長崎市 御船蔵町への移転 〜 神殿ふしん(明治43年〜大正4年)
(長崎市) 金屋町の教会も、増築したとはいえ (次々と参拝者が増え、教勢は) 益々盛大になるばかりであり、いよいよ手狭となった。
そのため、(長崎市) 御船蔵町の高地を買収し、(教会施設の) 新築を図った。(新たに購入した御船蔵町の) この土地は、(実は) 旧幕時代の刑場跡 (という曰くつきの土地)であった。
(土地購入にあたっては) 周囲の反対が激しかったが、(橋本梅太郎は周囲の反対を押し切って購入した。)(この決断は橋本)梅太郎の慧眼(であったと言えるであろう。
橋本梅太郎)は、
この土地が、将来 長崎市の中心として発展するであろうことを予見し(た上で)、
世人が恐れて顧みない廃地を活かして 市民のつまらぬ迷信や恐怖感を打ち砕き、不浄の地を化して聖域となすことこそ「信仰の道」であると確信。
一切、周囲の反対に屈せず、明治43年9月、断固として この土地を買収(したのであった)。(そして) 同(明治)45年 1月25日には、(天理教教会本部より) 神殿建築の許しを得た。
その後、
大正2年 9月9日、(長崎市) 金屋町よりの移転許しを得、
同(大正)4年 6月5日 遷座祭、6日には 奉告祭を執行した。このふしんを機に、(肥前支教会の) 人々の信仰は 益々深まった。
肥長分教会へ昇格(大正8年)
大正8年(1919) 2月23日、
(上級) 治道分教会の中教会昇格に伴い、
(肥前支教会は) 分教会に昇格(した)。
治道からの分離独立、信者詰所開設(大正14年)
大正14年 3月30日、
(肥長分教会は) 治道(中教会)からの分離願書を 天理教教会本部に提出(した)。(また) 同年(大正14年) 4月1日、(天理教教会本部の) 許しを得て、
即日、奈良県山辺郡丹波市町川原城337番地に 信者詰所を開設(した)。(信者詰所) 初代寮長に(は)、(橋本梅太郎の) 長男・(橋本)正治が就任した。
当時の (肥長分教会) 部内教会は 42ヵ所であった。
多額の負債、返済に追われる試練の時期(昭和初期)
(本部直属として新たな道を歩む事となった肥長分教会であったが)
分離の(際にかかった)費用や 信者詰所 開設(の)費用等は (実に)多額(となった。)(肥長分教会は) その大半を負債によって賄った。
そのため、(治道中教会から) 分離(して)以後(の肥長分教会)は、
(日夜) その返済に追われ(る事となった。)(治道中教会から分離独立早々にして) 肥長(分教会)は、試練期を迎えたのであった。
(そこから、肥長分教会の) 教勢は、しばらくの間、沈滞の一途を辿ることとなった。
信仰の浅いものは離散し(てしまった。
しかし、その反面) この時期に 大教会の柱石となるべき人材も 多数与えられ、
将来の発展に対する 堅い基盤を築いた(のも この時期)であった。
肥長中教会へ昇格(昭和11年)
(肥長分教会は、大正14年 治道中教会からの) 分離後、
教祖50年祭(昭和11年) までの10年間に、11ヵ所の部内教会の新設をみた。(そして) 昭和15年5月3日には、
中教会に昇格した。
橋本梅太郎長男・正治、天理教教会本部の大役歴任(昭和8年頃〜昭和14年頃)
一方、(橋本梅太郎の) 長男・正治は、
満州の「天理村」建設(の上)に、昭和8年より同(昭和)13年秋まで (満州へ) 派遣された。(そして) 同(昭和)11年1月21日、天理教教会本部・準役員となった。
更に、同(昭和)14年2月26日、総務部 書記長に任ぜられた。
5月26日には アメリカ伝道庁長として(任ぜられ)、12月28日(に 米国へ)赴任した。
肥長大教会へ昇格(昭和16年)
(橋本梅太郎の長男・正治が アメリカ伝道庁長として 米国に赴任していた)その留守中(の) 同(昭和)16年(1941) 3月31日、
(肥長中教会は) 大教会昇格の許しを得た。同年(昭和16年) 5月31日、
大教会昇格奉告祭を挙行した。
太平洋戦争開戦に伴う混乱 〜 橋本梅太郎 初代会長の出直し(昭和16年〜昭和18年)
昭和16年12月、太平洋戦争の勃発により、
(橋本梅太郎の長男) 正治は、米国にて 抑留の身となった。同(昭和)18年8月19日、
(肥長大教会) (実質)初代大教会長・(橋本)梅太郎が、
遂に 68歳をもって出直した。
長崎への原爆投下による被災、そして終戦(昭和20年)
昭和20年8月9日、
(米国による 長崎への)原爆(投下)により、
(肥長)大教会 始め 数ヵ所の部内教会は 廃墟と化した。(ただ、その中でも、教会の) お目標は、無事奉遷し (守ることが出来たのだっ)た。
(長崎原爆投下の数日後に終戦となったわけだが)
国内の (肥長)部内教会 大半が 戦災に遭った。
また、部内教会の大半を占める海外教会も、丸裸で引き揚げとなった。(肥長大教会は、太平洋戦争・原爆被害により、教会関連施設) 一切(を失った。
そのため、終戦後は、ゼロからの)再出発を余儀なくされた(わけだ)が、
それと同時に、大正14年以来 満20年にわたる負債も、きれいに返済された。
戦後復興 〜 橋本正治の帰国(昭和20年頃〜昭和22年)
かくて、(肥長大教会は) どん底の中から 復興に着手(した)。
昭和22年 1月7日、元の敷地に 神殿の上棟式を終えた。
(復興の第一歩を踏み出した喜びも束の間)
翌月(の) 2月14日、(橋本)正治夫人・おけい が出直した (52歳)。これに伴い (米国に抑留されていた 橋本)正治(が、やっと) 釈放(される運びとなった。
橋本正治は、6年ぶりに) 帰国することができた。
橋本正治3代会長の就任(昭和22年)
(米国から帰国した橋本正治は、肥長大教会一同から歓喜を持って迎えられた。
そして、早速、肥長大教会長就任の手続きが進められた。)昭和22年6月27日、
(橋本)正治は、肥長大教会3代会長の許しを得た。(そして、同年=昭和22年) 10月21日には、橋本梅太郎 初代会長夫妻の姪・巳代子と再婚(した)。
進む戦後復興 〜 創立50周年記念祭(昭和22年頃〜昭和27年頃)
更に、同年(昭和22年) 11月17日、神殿復興建築 落成奉告祭を挙行した。
昭和24年より、(肥長)大教会 及び 信者詰所のふしんにかかり、
同年(昭和24年) 11月18日には、創立50周年 記念祭を挙行(した)。この間(の) 3月21日に、(橋本)正治は 別席取次人となった。
昭和25年4月17日、(橋本)正治は 本部員に登用された。
更に、(昭和24年) 7月15日には、
(実質) 初代(の) 橋本梅太郎会長夫人・トミエが、天理教最初の 婦人神殿おたすけ掛を拝命。(肥長) 部内教会も、漸次 戦災から立ち上がり、着々と 復興の一途を辿った。
昭和27年、(肥長) 信者詰所 新築、
同年(昭和27年) 10月1日、(橋本)正治(3代会長)は、本部常詰 兼 布教部長(に) 就任(した)。
橋本利三4代会長の就任、創立60周年記念祭(昭和34年)
昭和34年3月26日、
4代会長に 橋本利三が就任した。この年(昭和34年) は 創立60周年にあたり、
11月21日に、会長就任奉告祭とあわせて (創立60周年) 記念祭が 執行された。
神殿及び付属建物の増改築、創立70周年記念祭(昭和44年)
昭和44年、
創立70周年を迎えて 神殿 及び 付属建物を増改築し、
11月19日に (創立70周年) 記念祭を執行した。
教祖90年祭活動(昭和49年〜昭和51年)
昭和49年 1月18日、真柱の巡教があった。
(肥長大教会では) これを契機として、
当時17ヵ所あった無担任教会などを 次々と 整理復興して、
(昭和51年) 教祖90年祭を (無事)つとめ終えた。〔現住所〕〒850-0042 長崎県長崎市御船蔵町1番11号
〔電話〕095-822-1517(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,701〜703)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
96回目の今回は、
「肥長大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中に、結構たくさん肥長大教会に関する記述がありました。
まず、『道〜天理教伝道史を歩く』第一部「道のしるべ石」の中に、
肥長大教会の礎を築いた橋本梅太郎先生の奥様・橋本トミエ先生を主人公にした話が長崎港の写真と共に 見開き2ページで 書いてありました。
肥長大教会の元一日を偲ぶ上で この上ないお話だと感じましたので、そのまま書写します。
【外国語を習うように】
四方山に囲まれた大和しか知らない トミエ (二十二歳) が、
夫・橋本梅太郎 (二十六歳) の住む 長崎に来たのは 明治三十四年の暮れのことだった。
結婚四年にして ようやく 所帯をもつ気分を味わった。この四年間、いつも トミエは おいてきぼりをくった。
奈良の治道で結婚したものの、臨月も間近いころ、突然 梅太郎は 姿を消した。
北海道へ行っていたのだ。
帰って来るなり、今度は 長崎である。梅太郎が「長崎の土」になる決心をし、肥長出張所の二代所長におさまったところで、トミエと 長男・正治は 迎えられた。
しかし、二人は 不思議な夫婦である。
同じ屋根の下で住むようになったのも 束の間。
梅太郎は 長崎の出張所、トミエは 茂木の布教所をそれぞれ拠点とした。茂木は 長崎の東南十二キロの、天草灘に面した村だった。
石畳の坂道が途切れるところから 谷間づたいの細い道が延びる。
昼間でも怖いような所だが、トミエは どんなに夜遅くとも、正治をおぶって駆け抜けた。茂木には 毎日のように 十人、二十人のおさづけを待つ人があった。
「オトト、ドウノ」
(ご主人、具合はどう?)
家々を訪ねては、声をかける。トミエの 茂木弁に、初めのうち、人は 笑いこけていた。
茂木なまりは 長崎弁と違って、また むずかしい。
いかにも 外国語を習うように 努力して覚えた。やがて、遠くに トミエの姿を見つけると 茂木の人たちは、
「キョウカイノ オクサンノ、オタスケニ コラッタバイ」
(教会の奥さんが おたすけに来られたよ)
と 慕いよって来たという。島原方面へも道がつき、好んで 島原弁も使った。
カネや太鼓で ものを言うような、 独特の言い回しがある。「コンコラ チットン、コラレントン、ドガンドガン シトラストナイ」
(このごろちっとも来られんが、どうしておられるかい)
けなげな姿勢は 人の心を開いていった。「マタアシタ、クッケンノ」
(また明日、来ますからね)
明日につなぐ言葉を残して去って行く。のち、昭和二十五年、トミエは 本部神殿おたすけ掛の 婦人第一号となる。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,20〜21 )
上記文を読んで、
肥前大教会の礎を築いた 橋本梅太郎先生は、奈良で結婚したものの、新妻を置いたまま 突然 北海道に行ったり、帰ってきたと思ったら すぐ長崎に行ったりしたのだ、と 知りました。
肥長大教会の歴史からは ちょっと脇道に逸れる話なのかもしれませんが、私は それを読んで、
“橋本梅太郎先生の奥様である トミエ先生も、苦労されたんだなぁ…”
との思いに包まれました。
歴史というのは、往々にして そこのトップの人物を中心とした視点で語られがち。
上記のような、それを支える立場の人に光を当てた物語は あまり多くないように思います。
私自身が 常に 物事の中心から外れた 周辺部をウロウロするタイプの人間ということもあって、
こうしたサイドストーリーは 非常に興味があるし、惹き込まれます(^^)
このような 裏方的立場の方々の物語を知ると、
平面的だった歴史認識が すごく立体的なものになっていくように感じられるからです。
肥長大教会の歴史を学ぼうとすると、
当然、実質的初代である 橋本梅太郎先生の足跡を辿っていく事が 中心になります。
それはそれで 意義深いことだと思いますが、
ここでたまたま巡り会ったような、その「周辺の人々」の物語を知ると、私などは、一気に そちらの方へ 感情移入してしまいます。
私自身が 常に「周辺の人々」であっただけに。
…と、ここまで書いて、
橋本トミエ奥様を「周辺の人々」と表現するのは 失礼極まりない事だ と不快に感じられる方があるかもしれない、との 懸念が浮かんできました。
決して、そこに優劣の意味を込めてはいません。
ただ単純に、ある組織の歴史を学ぶにあたっては 組織の長をその「中心」として考えるから、
その人に関わりのある身近な人々を「周辺の人々」と呼ばせてもらった、という程度の 軽い言葉遣いです…
ご不快に感じられた方があったとしたら、申し訳ございません。お詫び致します m(_ _)m

上記『道〜天理教伝道史を歩く』第一部「道のしるべ石」の中の「外国語を習うように」という見開き 2ページの 項目の中に、もう一つ短い文章がありました。
それも 書写しておきます。
24歳の 橋本梅太郎は、
異国情緒豊かな中に建ち並ぶ 幾多の天主堂や 神社仏閣を見上げながら、
今におれも 長崎随一の宗教建築をしてみせるぞ と、はるかに 夢を描いた。一方、トミエは、
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,21 )
梅太郎同様、 長崎の土となる心をもって
土地の言葉を懸命に覚えて 人々になじんでいった。
『道〜天理教伝道史をあるく』の中の【長崎】という項目にも「肥長大教会」に関する記述がありましたので、書写しておきます。
【長崎】
奈良県治道村の 橋本梅太郎は、稲の葉先で右眼を突いて患った。
二十三年、喜多治郎吉のおたすけで、生涯を道に捧げる決心をした。三十二年、長崎に渡り、船大工町に 肥長出張所 (高橋卯治郎 所長) を設置した。
住民の反対は激しく、幾度か 布教を断念しようとすると、そのたびに 急病にかかった。そこで、断然 この地に骨を埋める決心をしたところ、人々の風向きが 変わった。
金屋町に移り、妻トミエ ともども「長崎の土」になる努力を重ね、教勢は伸びた。御船蔵町 西坂に、二千三百坪余の土地があった。
しかし、移転に対しては 反対が強かった。西坂は 刑場地で、首置石と呼ばれる巨石があり、石工は 祟りを恐れた。
そこで、梅太郎が 迷妄打破の 最初の一撃を加え、ようやく 砕くことができた。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,101 )
また、散乱する遺骨を拾い集め、丁寧に 慰霊祭を執行。
大正二年、移転が かなった。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】96回目の当記事では『天理教事典』の中の「肥長大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
当シリーズにおいて 各大教会の歴史を勉強するにあたって、いつもは『天理教事典』の書写が中心。
で、これまでは、『道〜天理教伝道史をあるく』という本にも 各大教会の 元一日的な話が ちょこっと書いてある場合が多いので、おまけ的な感じで それも書写して「おわりに」の中に書き足す ということをしてきました。
しかし、今回の「肥長大教会」に関しては、
上記に引用した如く『道〜天理教伝道史をあるく』の中にガッツリ書いてあって、元一日に関しては むしろ『天理教事典』より詳しいと感じられる部分もあった。
なので、長くなるのを承知で、『道〜天理教伝道史をあるく』の記述も、省略せずに そのまま全て書写しました。
当シリーズも、回数を重ねるに連れて インフレというか、1回分の分量がますます長くなる傾向にあるので、もっと短くしなければ、と思ってはいるのですが…
要約力が弱いので なかなか難しい。努力します (^^;)

『天理教事典』には、橋本梅太郎先生の元一日は「眼病を救けられたこと」と書いてありました。
漠然としてイメージしづらかったですが、
『道〜天理教伝道史をあるく』の中に
「稲の刃先で右眼を突いて患った。それを【喜多治郎吉】先生のおたすけでご守護頂いて入信した」と 書いてあるのを読んで、
そういうことだったのか…
と、よりリアルに 受け止める事が出来ました。
喜多治郎吉先生は、
確か、治道大教会の母体となった「誠心講」の 講長を勤められた先生でしたね。
喜多治郎吉先生が 本部の方が忙しくなって 矢追楢蔵先生が「誠心講」の講長を引き継がれ、
その誠心講が「治道支教会」となり(なので 治道大教会の初代会長は 矢追楢蔵先生)、
その後、治道支教会が発展して 大教会になった、
そういう流れだったと思います。
そのような流れで、橋本梅太郎先生は 治道支教会の一員となられた。
その 橋本梅太郎先生が、奈良から長崎へ赴いて 布教に励み、それが発展して「肥長大教会」となった。
すなわち、肥長大教会は、治道大教会から分かれた大教会。
「治道大教会」ついては、以前勉強して 記事を投稿しました。

今回の勉強で 特に印象に残ったのは、御船蔵町への移転の話でした。
『道〜天理教伝道史をあるく』には、次のように書いてありました。
御船蔵町 西坂に、二千三百坪余の土地があった。
しかし、移転に対しては 反対が強かった。西坂は刑場地で、首置石と呼ばれる巨石があり、石工は 祟りを恐れた。
そこで、梅太郎が 迷妄打破の 最初の一撃を加え、ようやく 砕くことができた。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,101 )
また、散乱する遺骨を拾い集め、丁寧に 慰霊祭を執行。
大正二年、移転がかなった。
世人が恐れて顧みない廃地を活かして 市民のつまらぬ迷信や恐怖感を打ち砕き、不浄の地を化して聖域となすことこそ「信仰の道」であると確信し、
周囲の反対に屈することなく、断固として この土地を買収し、教会移転を成し遂げた 橋本梅太郎先生。
人々から遠ざけられた土地を活かさんとする、覚悟を決めた誠真実の取り組み。
誰にでも出来る事ではないと思います。
これぞまさしく「信仰の力」、と感じました。
以上のような歴史を踏まえた上で 今の肥長大教会の雄姿を見つめ直すと、
その姿に、より一層の重みが感じられるような気がします。

その他にも、
治道中教会から分離独立する際、多額の借金を抱えてしまい、極度の経済的困窮に陥り長年にわたって苦労した、という話。
また、
橋本正治3代会長は、太平洋戦争真っ最中にアメリカ伝道庁長を勤めていたため、戦中・戦後しばらくの間、アメリカに抑留されていた、という話。
また、
終戦目前で 長崎への原爆投下に被災して教会が灰燼に帰してしまい、その復興の上に並々ならぬ苦労を重ねた、という話。
…どれもこれも知らない事ばかりでした。
当シリーズにおいて、どこの大教会も 並々ならぬ苦労の道中を歩んでこられたことを勉強してきましたが、
今回の勉強を通して 改めて、「肥長大教会」は、本当に 苦労の道中を歩んでこられたのだなぁ…という 感慨深い思いに包まれたのでありました。
これまで知らなかった 多くの尊い話を知ることが出来て、感動すると同時に とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「肥長大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。




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