Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号94番「新潟大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号95番「中根大教会」について勉強します。
- 中根大教会(なかね だいきょうかい)
- 初代会長・石塚庭作の経歴
- 石塚家について
- 石塚家と天理教の出会い(明治25年)
- 石塚かよの奇蹟的なご守護、石塚庭作 初代会長の布教開始(明治25年)
- 斯道講 第930号の結成(明治26年)
- 相次ぐ新講社の結成、教勢の拡大(明治27年頃〜明治28年頃)
- 中根連合所の結成
- 中根出張所の開設(明治29年)
- 中根出張所の驚異的な教勢拡大(明治29年頃〜明治34年頃)
- 激しい困窮時代(明治35年頃)
- 石塚庭作初代会長の辞任、安野喜平2代会長の就任(明治39年)
- 教勢回復の兆し、甲賀大教会部内 中根分教会へ改称(明治39年頃〜明治42年)
- 安野喜平2代会長の辞任、初代 石塚庭作の3代会長再任(明治42年)
- お目標拝戴、神床 及び 上段の増築(明治42年)
- 捲土重来の石塚庭作会長により推進された布教活動
- 石塚庭作 初代会長の出直し、石塚覚次郎の会長代理者 就任(大正6年)
- 教祖40年祭活動(大正11年頃〜大正15年)
- 上級・甲賀大教会普請への伏せ込み(大正15年頃〜昭和3年頃)
- 石塚覚次郎会長代理者の辞任、石塚浜作4代会長の就任(昭和3年)
- 甲賀大教会部内 中根分教会から 日光大教会部内 中根分教会へ改称(昭和9年)
- 日光大教会 部内教会の統合整理、中根分教会は 日光大教会直轄に
- 教会の移転建築(昭和8年頃〜昭和9年)
- 中根大教会へ昇格 〜 奉告祭(昭和16年〜昭和17年)
- 大教会参道の工事、信者詰所の設置(昭和17年)
- 石塚浜作4代会長の出直し、石塚敬三5代会長の就任(昭和24年)
- 教祖殿ふしん、その他 教会施設のふしん(昭和25年頃〜昭和27年)
- 教祖70年祭前の詰所移転建築(昭和27年頃〜昭和31年)
- 教祖80年祭活動(昭和37年頃〜昭和41年)
- 教祖90年祭活動(昭和47年頃〜昭和51年)
- おわりに
中根大教会(なかね だいきょうかい)

初代会長・石塚庭作の経歴
初代会長・石塚庭作は、
安政5年(1858) 4月26日、
栃木県 下都賀郡 部屋村 大字 中根 三軒家に、
田村貞次の弟として 呱呱の声をあげた。(石塚庭作は)
18歳にして、同じ (栃木県) 中根の 台耕地、石塚永次の娘・まんの婿養子となった。(石塚家の婿養子となった庭作は) 祖先伝来の農家を相続したのであるが、
その後、商業を志すに至り、米穀・鶏卵・呉服等を扱う商売を営んだ。
石塚家について
(石塚)永次の本家は 石塚弥右衛門といい (その者は) 永次の実兄である。
その祖先は、石塚 下総守 照吉と称した。
(石塚 下総守 照吉は)
天正18年、皆川城 落城に際し、この中根の土地に落ち延びて(きて)土着した。(以来) 3百数十年、
(石塚家は) 浄土宗に帰依し、後に 御岳教を信じて 農業に従事していた。
石塚家と天理教の出会い(明治25年)
明治25年3月の頃、
本家・(石塚)弥右衛門の分家である 石塚勘次の家族 5名すべてが赤痢にかかっ(てしまっ)た。(石塚家) 親族一同 集合して 八方手段を尽くしたのであるが、その甲斐なく、相次いで 4名が死亡。
(そのような中) 勘次の妻・かよのみが 生命を取り留め、久しく病んでいた。丁度その頃、
東方3里を隔てる (栃木県) 間々田村の 乙女というところから、
頭に異様な帽子を冠り、背にパンを負い 楽隊のような太鼓を抱えた 人目をひくような派手な風態で「アメリカパン・滋養のパン」と呼びかけながら パンを商うお爺さんが (栃木県の中根地方にやって) 来た。(そのパン売りのお爺さんが、石塚家で) 前記の、(石塚)かよの悩みを聞いた。
(そのような悩みを聞いたお爺さんは、石塚家の人々に)
(栃木県) 間々田村に 田中幸次郎という先達があって、(その人は) 天理王命という (霊験) あらたかな神様を信仰し(ていて)、如何なる病も癒してくれる、と(語った。石塚家の人々は)、初めて親神様の御名を聞かされて「左様な神様があるのか」と、大層 驚いた。
(実は) この教えをもたらしたお爺さんこそ、後の 都賀大教会役員・根岸茂四郎の叔父であった。
石塚かよの奇蹟的なご守護、石塚庭作 初代会長の布教開始(明治25年)
分家・勘次宅の全滅を憂いていた (石塚)弥右衛門は、
この (根岸茂四郎の) にをいがけを受けて、
なんとかして (石塚)かよを助けて頂きたいもの…と(思案した。
そこで) 早速、息子の覚次郎を (栃木県) 間々田村の 田中幸次郎のもとへ遣した。(石塚覚次郎の来訪を受けた) 田中(幸次郎)は、
神様の守護や 八つの埃 (等の教理)の話を取次ぎ、(その後には) 親しく (石塚)かよの宅を訪れて 祈願をこめた。
(そうしたところ) (石塚)かよは、(不思議なことに) 日ならずして 全快の御守護を頂き、一同を驚かせた。(石塚家一同は)この奇蹟的な御守護に (心から) 感激すると共に、
「人をたすけて我身たすかる」(という天理教の教えを深く腹に治めた。(そして) それは
(石塚家)一族が (にをいがけ・おたすけ等の)布教が何より大切だという教理(の実践)を深く渇望する動きとなった(のであった)。ここで 親族として共に教話を聞いた 石塚庭作は、
率先して、
「それでは、私が皆様にかわって にをいがけ専一に出させて頂きましょう」
と、これを引受けて 布教を始めたのである。当時、(石塚)庭作は、35歳であった。
斯道講 第930号の結成(明治26年)
かくて、
石塚庭作を中心とする白熱的(な) 布教活動(が始まった。
それ)は、短期間に多くの講社加入者を得て (日ならずして 講社を結ぶ運びとなった。)明治26年(1893) 4月、
当時 (石塚)庭作の居所になっていた「勝連寺」という寺に親神様を奉祀。
講元には、石塚庭作、
講脇に、石塚覚次郎、
そして 周旋には、石塚多左衛門・福富要吉・石塚重内・石塚永次・石塚ヨシ・石塚フサ・福富与八郎・福富戈吉・石塚登名蔵・小島イト、
以上の 連名にて、
河原町・斯道講 第930号を以って 結講したのである。
相次ぐ新講社の結成、教勢の拡大(明治27年頃〜明治28年頃)
(斯道講 第930号の) 結講以来、約1年にして、信徒はいよいよ激増。
明治27年の春、
石塚かよの家に 神様を遷座し、
更に、翌(明治)28年に(は)、
講脇・石塚覚次郎宅へ遷座となった。(斯道講 第930号) 講社の礎は固く、
初代 (石塚)庭作の 愈々 熾烈なる布教意欲と相俟って、
布教専務に奔走するもの相次いでその数を増し、(斯道講 第930号を拠点とした教勢は) 大いに陣容を整えたのである。その年(明治28年)、
早くも、
曲之島・古橋・富張・栃木・蛭沼などに講社が結成され、
次いで、
東赤麻、及び、西赤麻に結講をみたのである。更に、
曲之島講社・富張講社から 栃木に発展し、
東赤麻講社より 赤見・出流原・館林に教えが伝わり、
駒場講社の先に 那美岐の教線が伸び広がるなど、それぞれ 長足の発展を見た。
中根連合所の結成
(この頃) すでに 出張所設置の視察を願う程の発展を見(てい)た「東赤麻講社」は、中根と指呼の間にあった。
(そこで) ここに 連合の協議を調えて、
「東赤麻講社」は、役員一同 土地を引払って (栃木県下都賀郡の) 中根に移転した。また、曲之島・蛭沼・西赤麻講社(の) 各講元なども、共に入込みとなって「中根連合所」と呼称したのである。
中根出張所の開設(明治29年)
こうして (教会設置の動きが、着々と進められていった。
そして、時満ちて、ついに 栃木県下都賀郡部屋村の中根に教会を設置する事となった。)(中根連合所の一同は)「中根出張所」設置の視察を願い、
河原町より 萩原、甲賀より 柏木六左衛門、日光より 速水岩吉、都賀より 老沼孫四郎が出張(してきて) 無事(に) 視察を了えた。(そして) 明治29年5月17日、
石塚庭作を担任として、
河原町分教会ー日光支教会ー中根出張所 の許しを得た。
中根出張所の驚異的な教勢拡大(明治29年頃〜明治34年頃)
この (中根)出張所の設置以来、
(中根の) 教線は 秋田・山形・北海道に(まで)伸びて、
明治32年には、
遠隔地からの参拝者のために「はたご屋」と称する、木造瓦葺2階建 150坪の信徒宿泊所の建築を完成した(ほどであった)。更には、敷地 1町6反6畝を買収し、出張所(の) 移転を計画。
(そして) 青年の授産事業として「精米所」の開設をするなど(して) 多角的陣容を整備した。(教勢は驚異的な拡大を遂げ) 事務・連絡・巡教にたずさわる役員及び在籍者は70余人を数えるに至った。
明治34年の (中根出張所の) 部内講社数は、709ヵ所を記録している。
激しい困窮時代(明治35年頃)
明治35年8月、暴風雨による関東一帯の大水害があった。
それについで (明治)36年・37年と打ち続いて冷害凶作があり、それに伴い 一般社会も 窮乏 殊に甚だしくなった。如何とも致し難い状態の中、
それに加えて 明治37年2月11日、日露宣戦の大詔 渙発となった。
信者は大いに動揺し、多額の御供金によって賄われ(てい)た教会の経済は破綻。
多人数の共同生活は、たちまち 麦の粥すら給食出来ない状態となっ(てしまっ)た。この時、(中根出張所の)多く(の者)は、
天理教の将来を念じつつも 生活のため社会の仕事に就いて、一時のしのぎとして糧を得たのだった。
このような (状況の)中、この(中根)出張所に踏みとどまった者は、
石塚庭作 所長外、数名であった。(一時は、中根)部内 結講の数は 千余ヵ所となり (参詣する者が) 潮の如く打ち寄せ、 (無数の)真実の種が蒔かれたのであるが、
(それも) ここに至っては 潮の引くが如くに去りゆき、(中根出張所内は) 寂莫そのものとなった。(そして ついには、中根出張所において) 上納するのに金はなく、布教するにも衣食がない、といった状態(にまで陥ってしまった。)
親戚知己との交際も途絶えて、債権者は60人を数え、執達吏(執行官) が (頻繁に中根出張所に) 出没し、わびしい限りであった。
石塚庭作初代会長の辞任、安野喜平2代会長の就任(明治39年)
こうした中に(あっても) 石塚(庭作)所長は 倦まず屈せず、相も変わらず 日本中ひとにらみの意気を以って事に当たった。
(石塚庭作は、元来) 上級の会議に列しても、如何なる重荷でも決して躊躇することなく、勇んで用を引き受けるという信仰の人であった。
――しかし、遠大な理想を以って (持続可能な) 教会運営の確立を目指して取り組んだ (精米所等の授産事業という) 壮大な計画が失敗に終わっ(てしまっ)た 石塚(庭作)所長は、このことを深く憂い(て 元来のひたむきさをすっかり失ってしまっ)た。
(事業が挫折してからというもの、石塚庭作初代会長は)
「神様にすまぬ、みんなにすまぬ」と(ひたすら謝罪の言葉を口にし続けた。)
(そして) 自ら、さんげのために辞意を(表明。
周囲の説得にも耳を貸すことなく辞意を)固持し続け、(ついには) 朝夕の おつとめの芯である拍子木も取らなくなってしまった。(そうした事態を受けて) 明治39年3月23日、
やむなく、日光支教会役員(の) 安野喜平が 中根出張所(2代所)長に就任した。
教勢回復の兆し、甲賀大教会部内 中根分教会へ改称(明治39年頃〜明治42年)
この年(明治39年)、(天理教教会)本部では 教祖20年祭が執行され、
(全教的な盛り上がりの波に押されるような形で) 中根(出張所)の信仰の上に(も) 多少の活気を見ることが出来た。
しかし…とは言うものの、それは、まだまだ たどたどしいものであった。明治41年11月27日、天理教一派独立の公許がおり、教えは一陽来復、多年の沈滞は潑刺の信仰へと蘇り、
教会制度も大教会、分教会、支教会、宣教所と呼称されることになった。(それに伴い) 明治42年2月23日、
中根出張所は「甲賀大教会部内 中根分教会」と改称された。(同時に) 中根部内もまた、那美岐・栃木・上久我
… 以上が 分教会に、
片貝・桂城・羽幌・平沢・富張・会陽・谷浅見・月居
… 以上は 支教会に改称され、
他は 宣教所に 改称されたのである。
安野喜平2代会長の辞任、初代 石塚庭作の3代会長再任(明治42年)
(明治42年の教会制度改正に伴い)
この時まで(中根)出張所長として 3ヵ年間勤めた安野喜平が、辞任した。(そして) 改称と同時に、(中根初代の石塚)庭作が、(中根)分教会長として再任した。
お目標拝戴、神床 及び 上段の増築(明治42年)
(石塚庭作3代会長は)
明治42年3月2日の許しにより、(教会の) お目標を拝戴。神床 及び 上段の増築を完成して、明治42年4月15日には、鎮座奉告祭を執行した。
捲土重来の石塚庭作会長により推進された布教活動
捲土重来の石塚庭作会長は、
役員及び部内を督励して、布教に一段の拍車をかけた。(石塚庭作会長は) 殊に 海外布教に心を尽くし、
大貫松四郎の朝鮮布教を助けて、東菜宣教所 の設置をみた。
石塚庭作 初代会長の出直し、石塚覚次郎の会長代理者 就任(大正6年)
このように、初代・石塚庭作会長は、幾多の足跡を遺して、
大正6年(1917) 2月11日、
60歳を一期として 出直した。(石塚)庭作会長 出直しの後を受けて、
協議の結果、理事の 石塚覚次郎が、会長代理者として就任することになった。(そして) 大正6年7月27日付(で)、(石塚覚次郎が) 会長代理者に任命された。
教祖40年祭活動(大正11年頃〜大正15年)
大正11年1月、教祖40年祭の提唱がなされ、
倍加運動のかけ声に呼応して、教校別科入学者の増加と教会設置の増加を目指して活動を推進した。中根(分教会)は、倍加運動の実を挙げつつ、
大正15年1月、教祖40年祭を迎えた。この時、(中根分教会は) 部内教会 170余ヵ所を数えるに至った。
上級・甲賀大教会普請への伏せ込み(大正15年頃〜昭和3年頃)
教祖40年祭が済むと、上級・甲賀大教会の普請が、遠大な計画のもとに進められた。
(上級・甲賀大教会の普請にあたって、中根分教会は) 資金の御供えに、また ひのきしん者の出動に、(中根) 部内挙げて 邁進した。
石塚覚次郎会長代理者の辞任、石塚浜作4代会長の就任(昭和3年)
昭和3年11月3日、
大正6年より13年間、会長代理者として 教勢盛衰の責任を一身に担い 苦労した石塚覚次郎が辞任し、
初代の直系である 石塚浜作が、(中根分教会)4代会長に就任した。
甲賀大教会部内 中根分教会から 日光大教会部内 中根分教会へ改称(昭和9年)
従来の「甲賀大教会 中根分教会」の名称は、
昭和8年1月25日付で、日光分教会が甲賀大教会より分離昇格となったのに伴い、
「日光中教会 中根分教会」となった。更に、翌 昭和9年7月1日、
「日光大教会 中根分教会」と改称された。
日光大教会 部内教会の統合整理、中根分教会は 日光大教会直轄に
(その後)
日光大教会が全部内を統轄指導していくために、
当時の教務支庁長の決断を以って、
中根分教会は、都賀分教会から離れて 日光直轄になった。(そして)
中根(分教会)部内の、栃木分教会 及び 那美岐分教会は、中根(分教会)より離れて日光直轄となり、
(また) 出流原部内、及び、栃木の先の月居部内は、都賀分教会の所属に編入された。その結果、
中根分教会の部属は、支教会 3ヵ所・宣教所 35ヵ所、計 38ヵ所となった。
教会の移転建築(昭和8年頃〜昭和9年)
(中根分教会では)
昭和7年より 現在の小山市に移転すべく 土地の買収にかかっていたものの、
教祖50年祭に向かって おぢばでは神殿・教祖殿の普請が始められていた。
また一方では 日光(大教会) の分離問題(があったりして、教会移転の話は) 容易に渉らなかった。(しかし) その後、
日光部内 系統整理時の協議により、那美岐分教会より資金の御供えを受け(る運びとなっ)て、一挙に (土地の) 買収を完了したので(あった。
そして)、いよいよ、
昭和8年3月4日、移転建築の敷地工作が開始された。従来 不便であった寒村から 四通八達の現・小山市への移転は、
(中根)部内ひとしく希望するところで、皆、勇んで資金の調達に尽力した。
一方、土持ちひのきしん者も、毎日40〜50名を下らず、たちまち 50俵の飯米が消える程であった。3千余坪の敷地整備は (無事) 完了され、
昭和8年12月15日 地鎮祭、同月(12月)25日 早くも神殿の上棟式を行い、
昼夜兼行の作業によって、神殿 及び 神饌場・客室・事務所を含む 100余坪の建物を完成した。昭和9年2月23日夜、御遷座の儀を執り行い、
翌 (2月)24日、永尾 教務支庁長 他、日光・都賀 等。教内来賓の列席の下に 移転遷座奉告祭を執行した。
中根大教会へ昇格 〜 奉告祭(昭和16年〜昭和17年)
昭和16年(1941) 3月31日、
(中根分教会は) 日光大教会より分離昇格の許しを得て、中根大教会と改称した。部属42ヵ所の大教会にて、数においても、力においても微力ながら、部内打って一丸となり、
翌 昭和17年4月9日、
花吹雪の中に、真柱一行を迎えて 厳かに (大教会)昇格奉告祭をつとめた。
大教会参道の工事、信者詰所の設置(昭和17年)
昭和23年、
(中根)大教会参道の工事が起工された。また、(奈良県) 丹波市町 大字 三島43番地(に)、
2階建 60余坪の土地建物を買収し、
同年(昭和17年) 11月6日 許しを得て、信者詰所の設置を見るに至った。
石塚浜作4代会長の出直し、石塚敬三5代会長の就任(昭和24年)
昭和24年9月5日、
4代会長・石塚浜作が、70歳で出直した。(その後を受けて)
石塚敬三が、
同年(昭和24年) 10月28日付で、5代会長に就任した。石塚敬三は、
大正7年3月10日、三重県松坂に生まれ、
昭和18年10月15日、4代会長 (石塚)浜作の 5女・こうと結婚 入籍していた。
教祖殿ふしん、その他 教会施設のふしん(昭和25年頃〜昭和27年)
(石塚敬三) 新会長を迎えて、(中根大教会) 部内一般 心気一転した中に、
甲賀2代会長より「教祖殿を建築せよ」との声を掛けられた。
(その声を受けて、中根大教会一同は) 立ち上がった。昭和25年6月5日 地鎮祭に続いて、6月22日 起工式、翌 7月22日 上棟式…
と、順調に事は運び、内部の造作にかかった。
しかし、奉告祭を控えて、客間の改築が必須の条件となった。(一同で練り合った結果、教会の) 大改造(に取り組むということで) 協議(が) 一決(した)。
(そして)
昭和26年7月22日、客間・事務所の改築上棟式が行われ、
翌 (昭和)27年5月までの間、すなわちこの2年間に、
教祖殿を新築する他、150余坪の客室 及び 事務所・風呂場などの改築を完成したのである。たまたま、昭和26、27年の小山市の都市計画事業により、
従来 参道に苦労した 3千余坪の敷地の周囲が 四面道路となり、
正面は 大道路に直結するなど、
まさに 四通八達 夜明けの感を呈するに至った。かくして、
昭和27年5月14日夜、真柱一行を迎えて鎮座祭を、
翌(5月)15日、(石塚敬三)5代会長就任 並びに 教祖殿落成鎮座奉告祭を執行した。
教祖70年祭前の詰所移転建築(昭和27年頃〜昭和31年)
昭和27年10月 秋季大祭を期して、
教祖70年祭の執行と記念事業の大綱提唱された。この折、おやしき の整備拡張計画に伴い、中根の信者詰所を本部にお供えすることになり、
(天理教教会)本部より その移転地として、現在の 天理市勾田町120番地が与えられた。
昭和29年5月14日、詰所移転建築の許しを得た。更に、
(中根大教会は 天理教教会本部より) 境内既存の、旧 西教庁北の棟・木造瓦葺2階建延149坪の払い下げを受けた。
旧詰所の一部信者室と共に、(それを)ここに解体移築。
炊事場・食堂・浴場の新築を含む 300 坪の建物を竣工した。(それにより、中根大教会は) 70年祭帰参者の受入れに 万全を期することが出来たのであった。
教祖80年祭活動(昭和37年頃〜昭和41年)
昭和37年6月12日、たすけ委員長(3代真柱) を迎え、
「おやさとやかたの御ふしんに伏込むように」
との言葉を得た。(そのお言葉を受けた中根大教会は)
それまで 諸種の問題で沈滞していた教会長信者一同、教祖80年祭への決意を新たにしたのであった。年祭への3年間は 大きな飛躍が見られ、勇みに勇んで 教祖80年祭をつとめた。
教祖90年祭活動(昭和47年頃〜昭和51年)
昭和48年1月、
教祖90年祭 (昭和51年祭典) 執行の提唱と共に『諭達第2号』が発表された。(全教挙げて年祭活動を推進する中、中根大教会においても)
(『諭達第2号』において提唱された) つとめの完成、ぢばへの伏せこみ、3千万軒にをいがけ、という目標に向かって邁進した。その中で、年祭帰参者(の)受入れのために、
現・信者詰所(の)敷地内に、信者室 及び 学生室、併せて 95坪5合の増築を計画。
昭和49年6月27日、許しを得て (見事に) その工事を完成した。無事、教祖90年祭をつとめた今日 (書写者註:『天理教事典』1977年版出版当時)、
(中根大教会は)
世界たすけ(の上)に 部内教会・よふぼく・信者が (より) 一層の働き(を現すこと)を誓って、新たな歩みを進めている。〔現住所〕〒323-0025 栃木県小山市城山町1丁目6番3号
〔電話〕0285-25-0260(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,616〜619)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
95回目の今回は、
「中根大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 中根大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
明治二十五年、部屋村 中根にある 石塚家の分家・石塚勘次一家五人が 赤痢で次々出直し、妻・かよだけが 命をとりとめた。
間々田も 乙女河岸から来た パン売りの爺さんが、間々田の生き神さんみたいな人にお願いしてみなさい、と教えてくれた。
石塚本家の当主・弥右衛門は 倅を走らせた。
幸次郎が来て、かよは 日ならず全快した。
お礼をしたいと申し出ると、
「自分がたすかったことを 人に知らせなさい。それが 神様へのお礼となる」
と幸次郎の答え。その役を 弥右衛門は 姪の婿・庭作に頼んだ。
彼は 鶏卵、呉服などを行商し、世間に明るく如才なかった。
熱心に布教し、二十六年、居所の寺の一室に 神様を祀った。
庭作の言葉には張りがあり、「火と水とは 一の神」と語り始めると、辺りの障子がピリピリと震えるほどであったという。庭作が 中根の初代会長となり、ここから 赤見村の 戸賀崎五郎次に伝わる。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,115〜116 )
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】95回目の当記事では『天理教事典』の中の「中根大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
『天理教教会所在地録』によると、
中根大教会は「日光大教会」から分かれた大教会となっています。

しかし――
組織の系統表としてはそうですが、
実際には「都賀大教会」から分かれた大教会と言える、
ということが 今回の勉強でわかりました。
そして、都賀大教会は 日光大教会から分かれた大教会。
日光大教会は、甲賀大教会から分かれた大教会。
甲賀大教会は、河原町大教会から分かれた大教会。
ということで、中根大教会は「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。

中根大教会の親教会となる各大教会については、これまで 既に勉強して 記事を投稿しました。
また、
組織の系統表としては 中根大教会同様 日光大教会から直接分かれたようになっているけれども、実際には 中根大教会から分かれたと言える「那美岐大教会」についても、
先に 本部直属となり教会番号が早い という事で、既に勉強して 記事を投稿しました。

当シリーズ第73回「那美岐大教会」の〔おわりに〕の所で、私は次のように書きました。
今回(第73回)勉強した「那美岐大教会」は斯道会の流れを汲む大教会ですが、
その中でも、斯道会の流れを汲む大教会は、規模が大きく縦の系列が長いこともあり、
部外者からは、さらにわかりにくい部分が多々あります。…中略…
今回(第73回) 勉強した 那美岐大教会と その親教会にあたる 中根大教会との関係。
親教会である 中根大教会の教会番号は 95番で、
設立は 中根大教会の方が(那美岐大教会よりも) 古いけれども、本部直属になったのは 部内教会だった那美岐大教会の方が早いので 教会番号は 那美岐大教会の方が早い、
という外形。
何となく ややこしい… (~_~;)大教会の歴史を勉強したいなぁと思って『天理教事典』書き写しをしている初学者にとってわかりにくい部分です。
まぁ、どこが親でどこが子供で、教会番号はどこが早くてどこが後で…みたいなことは当事者が把握していればいい話で、
第三者が気にする必要などない、どうでも良いことだ、
と言われれば、確かにその通りですが。大事なのは、
自分が引き寄せられたところこそ 因縁ある教会で、
その教会の元一日をしっかり学んで、今の自分が関わる世界の中でそれをどう生かしていくか、ということなのでありましょう。分かってはいるのですが、
(さまよいブログ > 天理教各教会の歴史探索(第73回)【那美岐大教会】より)
野次馬根性の強い者は、そういう人間模様が入り組んだ社会現象がついつい気になってしまう…
というのも 嘘偽りのない真実なのであります。 (^^ゞ
今回『天理教事典』「中根大教会」解説文を書写するにあたって、
改めて、同じ思いに浸りました (^^)

ただ、今回の「中根大教会」解説文書写学習においては、
以前(第73回)「那美岐大教会」について勉強していたので、
その際の知識の土台があった分、事実関係把握の混乱は 少なかったです。
中根大教会の礎を築いた石塚家に初めて親神様の御名を伝えたのは、当時パン売りをしながら布教していた都賀役員の根岸茂四郎先生で、
その根岸茂四郎先生から にをいがけされて、石塚本家の石塚弥右衛門先生が救済を求めて訪ねていったのが、
都賀大教会の礎を築いた「田中幸次郎」先生だった、との事。
田中幸次郎先生については、都賀大教会の書写学習をした際に学びました。
田中幸次郎先生は、
脚気衝心のために危篤状態となり絶望的な状況だったところを、
日光の 速水久治良先生が 訪問おたすけされて 奇蹟的なご守護を頂き 入信された先生でしたね。
当シリーズ第62回「都賀大教会」の勉強をした際に、
不思議なご守護を頂かれた田中幸次郎先生は、
おたすけ頂いた感激を胸に、そこから全身全霊込めて求道と布教に励まれ、都賀大教会の礎を築かれながらも、
親神様の深き思召により、布教開始4年後 わずか24歳で出直されのだ、と知りました。
その、都賀大教会 基盤創設者である 田中幸次郎先生が おたすけされたのが、
当時、断絶寸前になってしまっていた石塚分家(石塚勘次家)の石塚かよ先生。
そして、その 石塚かよ先生の奇蹟的なご守護に感銘を受けて、
石塚家の いんねん切り替えのため 道一条を決意したのが、中根大教会・初代会長の 石塚庭作先生。
石塚庭作先生の白熱した布教活動によって誕生した 信仰共同体が、後に 大きく成長して「中根大教会」として 結実した。
――そういう流れだったのですね。
知りませんでした。
今回の勉強で、
改めて、川の流れの如く「日光ー都賀ー中根…」と 一本の道が繋がっているのを感じました。
中根初代の石塚家に教えを伝えた 都賀の 田中幸次郎先生、
その 田中幸次郎先生に教えを伝えた 日光の 速水久治良先生…
これまで細々と続けてきた『天理教事典』各大教会 解説文の書き写しの知識が、
回数を積み重ねる事によって いろんな所で繋がってくる感じです。

私は、これまで「斯道会」のやたらと縦に長い系列に対して(部外者ではありますが)正直なところ、やや重く息苦しさを感じる感覚を持っていました。
しかし、当シリーズの中で教会の元一日の歴史を細かく辿っていく経験を通して、
部外者からはただただ煩雑にも見えてしまう「河原町ー甲賀ー日光ー都賀ー中根」といった長い系統の道というのも、
あらゆる物事が単独で存在するのではなく原因(因)と条件(縁)が相互に関連し合って成り立っているという、仏教における「縁起」的な考え方を意識する(忘れないようにする)という意味で、
現在地を知りその由縁を忘れないようにするために 必要で大切な形態なのかもしれない…
と思ったりしたのでありました。
(決して、そうした 縦に長い系列が素晴らしいから これからもその形態を重視し 大切にしていくべきだ と主張している訳ではありませんので、その点、ご了承願います m(_ _)m)

その他、今回の書写学習の中で私が印象に残ったのは、
日露戦争後の激しい困窮時代の話、
そして、そこから抜け出す為に遠大な理想を持って取り組んだ授産事業が挫折し、石塚庭作初代会長が責任を感じて辞職してしまわれた、
という史実でした。
これまで、いろいろな天理教大教会の歴史を勉強してきて、
何度か、このパターンの歴史に出会ってきました。
当シリーズも 95回目と それなりの回数を重ねてきたので 忘れてしまっている事が沢山ありますが、
今、私が振り返って たちまち思い出す事例として、以下のものがあります。
・秦野大教会(第75回) における「煙草製造合資会社」「製糸業」
・繁藤大教会(第85回) における「紙漉=製紙事業」
(他にもあったと思いますが、申し訳ありません、現時点でたちまち思い出せるのが以上の事例 ということになります… (^^ゞ)
『天理教事典』の記述によれば、
上記の大教会による新規事業も、残念ながら上手くいかず、その後に 莫大な借金が残ったとのことでした。
そして、中根大教会の 石塚庭作初代会長が 経済的基盤確立のために取り組んだ「精米所」等の【授産事業】も、残念ながら上手くいかず 挫折してしまったわけですね。
『天理教事典』には、
事業が挫折してから 石塚庭作 初代会長は「神様にすまぬ、みんなにすまぬ」とひたすら謝罪の言葉を口にし続け、
ついには 朝夕のおつとめの芯である拍子木も取らなくなってしまい 会長職を辞してしまった、
と 書いてありました。(その後に復職され、復職後は 大活躍されたわけですが)
(第85回)「繁藤大教会」の「おわりに」で、私は 以下のようなことを書きました。
「繁藤大教会」が その初期に、布教活動費を捻出するために新規事業を立ち上げた取り組みは残念ながら失敗に終わり、その後には莫大な負債が残って、その後長期間にわたって苦労された、という史実、
信仰的に考えると、それは、
そのように推移した結果こそが「神意」である、すなわち 信仰活動と経済活動を両立させようという思案そのものが神様の望むところではないことの証明だ、
と 言われるかもしれません。しかし、今の私は、(これまで天理教大教会の初期歴史を勉強する中で、実に多くの大教会が、その初期に経済的にとてつもない苦難の道中を通り抜けてきた歴史に数多く触れてきたこともあってか)
信仰活動と経済活動を両立させようとしたこのような活動を、人間思案の強い信仰的に未熟な取り組みだったとは思えない、思いたくないという気持ちが強い… というのが正直なところです。(^^)私個人としては、
(さまよいブログ > 天理教各教会の歴史探索(第85回)【繁藤大教会】より)
信仰という 内面に関わる活動に全力で取り組みつつも、
同時に、
社会生活の現実面も疎かにせず、リアルな経済活動にも目を向け、実際に行動された「繁藤大教会」初期のこの史実に、
深い敬意を抱くのであります――
今回の勉強で、中根大教会の初期においても 繁藤大教会 初期と似たような状態になった という史実を知ったわけですが、
それを知った私の感想は、上記「繁藤大教会」〔おわりに〕で書いたものと 変わりありません。
私の頭の中では、
そもそも 信仰活動と経済活動を両立させようとする事はいけないこと?
相容れないもの?
それらは異なる階層の活動だから、同列に扱うということ自体が違うんじゃないのかなぁ…
等と、いろいろな考えがグルグル回って、
また いつものように、着地点を見い出せない思いが 荒野をいたずらに彷徨い続けるのでありました (^^)

いずれにしても、
その他のことも含め、今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。
今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「中根大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。








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