Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号36番「本島大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号37番「牛込大教会」について勉強します。
- 牛込大教会(うしごめ だいきょうかい)
- 初代会長・古田栄五郎
- 初代会長・古田栄五郎の入信(明治19年)
- 東京真明組 小石川講社の設立前後(明治20年頃〜明治22年頃)
- 牛込支教会の設立(明治23年)
- 牛込支教会の移転建築(明治24年頃〜明治27年)
- 上級・東 分教会の教祖殿普請への伏せ込み(明治28年頃〜明治37年頃)
- 古田栄五郎の長男・芳松の出直し前後(明治37年頃~明治40年頃)
- 支教会から牛込分教会へ改称~移転前後(明治42年頃~明治45年)
- 古田栄五郎初代会長の出直し、尾崎松之助2代会長就任(大正11年)
- 教祖40年祭の頃(大正12年~昭和3年頃)
- 教祖50年祭活動~大教会への昇格(昭和6年頃~昭和15年頃)
- 太平洋戦争 戦中~戦後復興(昭和18年頃~昭和23年頃)
- 昭和中期、伸びゆく牛込の道(昭和25年頃~昭和42年頃)
- 尾崎栄治3代会長の就任~昭和後期(昭和44年~昭和51年頃)
- おわりに
牛込大教会(うしごめ だいきょうかい)
初代会長・古田栄五郎
牛込大教会 初代会長・古田栄五郎は、
弘化3年(1846) 6月15日、
播磨国 加東郡 森村 (現 兵庫県加東郡東条森) に、
古田新兵衛、みつ 夫妻の長男として生まれた。生家は 農業の他に 副業として、
釣針の製造を営んでいた。明治15年春、火災のため家屋敷を全焼。
これが契機となり、
明治16年(1883) 5月15日、一家をあげて上京。かねて面倒を見ていた 尾崎庄吉の実家に草鞋をぬぎ、
(明治16年) 9月、
小石川区 音羽8丁目にて 釣針製造卸を再開。翌年(明治17年)
東京府 小石川区 小日向水道町40番地に転居。次第に商売は栄え、
東京一の 釣針製造卸屋 といわれる様になった。
初代会長・古田栄五郎の入信(明治19年)
明治19年(1886) 秋、
職人の一人、片山亀松より 故郷に広まり始めた信仰の話を聞き、
当時 東京で独りで布教中であった上原佐助を、下谷金杉上町に訪ねた。初めて天理教の話を聞き 深く感じ、
(そこから) 3日間、商用の帰途、上原(佐助)宅に通いづめ、話を聞き、
3日目には 仏壇を売り、
過去の一切を断ち、信仰に飛びこんだ。(古田)栄五郎は、
「今まで、仏様やお宮さんにお参りしておったのは
丁度 商いでいうと丁稚や番頭さんを通して、そこの御主人に話を通してもろうていた様なもの。
だがな、お得意として、自由に出入がさせてもらえる様になったら、
御主人と直かに、商談が出来る様になる。
そうなれば 一々 取次ぎはいらん、話は早くまとまる。
今度 わしは 本元の神様に直々お目通りさしてもらった。
本元の親と 直かにお話しが出来る様になった。
仏様や、お宮さんは 丁度 本元の神様の丁稚や番頭さんみたいなものだったんや。
御主人と直かに話が出来る様になったのだから、もう番頭さんは用なしや。
仏様にはな、永い間お世話になったお礼をよく申し上げて、きれいにさせてもらうのや。」
と 家人にいった。
東京真明組 小石川講社の設立前後(明治20年頃〜明治22年頃)
入信以来 (古田)栄五郎は、
毎日 上原(佐助)宅を訪れ、話を素直に実行していった。おさづけ は戴いていないが、
当時 コレラの大流行の中を、布教に励んだ。明治20年(1887) 3月、
教祖が姿をかくされたとの悲報に、
上原(佐助)講元と 同行7人にて おぢば に帰り、
おさづけの理 を戴いた。(古田栄五郎は)
帰京後は 家業をゆずり、
店の裏庭に1戸を建て、神様をお祀りし、布教に専心した。同年(明治20年) 8月、
ここに 東京真明組 小石川講社が設立された。長男・(古田)芳松は、
この年(明治20年) 、東京真明組 周旋を命ぜられた。明治21年(1888)、
下土支田村 小島奥蔵の病気平癒を足がかりとして、埼玉県へ教線がのび、
同年(明治21年) 千葉在住の高橋金次郎の布教により
千葉周辺にも 教線が伸びた。明治22年(1889)、
布教線は
千葉県市原郡五井から養老村を経て、東海岸 小湊近くに及び、
埼玉県でも 土支田村から所沢宿を経て、狭山丘陵の麓三ヵ島村に伸び、
他方 中仙道を熊谷から妻沼まで運ぶ様になった。一方、小石川近傍の布教にも、
(長男の)芳松 共々に当たった。(古田)芳松は、
明治22年7月22日 おさづけの理を戴き、
以後 親子共々に 布教に専心した。
牛込支教会の設立(明治23年)
明治23年(1890)春、
(古田)栄五郎は 教会設立を決意し、
牛込区東五軒町26番地に 100坪の土地を借り、
4月下旬頃から 普請にかかった。
坪数 33坪7合5勺であった。なお、同年(明治23年) 2月2日、
長男・ (古田)芳松は 尾崎きくと結婚した。明治23年 11月13日、「牛込支教会所」設置許可、
12月4日 地方庁認可、
陰暦12月5日、開筵式を執行した。(古田)栄五郎は、数え 44歳であった。
牛込支教会の移転建築(明治24年頃〜明治27年)
明治24年(1891) 4月、
本席が、東 分教会に お入込みの時、
(4月) 6日 牛込に立ち寄った。(明治24年) この春、
埼玉県浮間村 横田勘左ヱ門の入信を機に、
浮間講社が 日ならずして結成された。土支田講社は、
明治25年 (1892) 4月25日、
所長・富沢小左ヱ門にて 白子出張所となった。さて、信者の増加により、
(古田)栄五郎は (支教会の) 移転建築を考えた。牛込区水道町32番地に 380坪の敷地を得、
明治26年(1893) 2月20日
移転建築の許しを受け、準備を進めた。
しかし、費用に事欠き、中止のやむなきに至った。(一同は落胆したが)
(古田)栄五郎は、これも神の試しと受け取り、
いよいよ勇んで、布教に励んだ。(その後も) 神の働きで、奇蹟が続き、
群馬県 太田近辺では 1日に200人からの人が救かった。(長男の)芳松も 筑波山麓に布教し、
半年で 筑波講社を結成した。こうした中でも、教会の内容は 容易ならぬ日が続いた。
しかし、神様の不思議な働きから、
(移転建築の) 最初の計画を縮少し(た上で)、
再度出願(することになった)
(そして)
(明治26年) 11月12日、お許しを受け 普請に着手した。
総建坪 170坪である。この頃(明治26年頃)、
部内講社に(も) 教会設立の気運が起こり、
普請にかかる所も出てきた。明治27年(1894)
2月、滝野川、足立 両出張所、
4月、板橋、千葉、市原 の3出張所が設立された。(明治27年) 同月(4月) 、
牛込支教会の移転建築が 完成した。
(明治27年 4月)25日 鎮座祭、26日に 落成奉告祭、
苦労が大きかっただけに、一層 大きな喜びをもって勤められた。その数日後、
米人:ダニエル・クロスビー・グリーンに 教理を説明し、
外人布教の第一歩をしるした。
上級・東 分教会の教祖殿普請への伏せ込み(明治28年頃〜明治37年頃)
明治28年(1895) (古田)栄五郎は、
(上級) 東分教会 教祖殿の普請に、
毎日 早朝より 腰弁当で出かけた。(そして) 日中は 普請に稲荷町へ、
夜は おたすけ に、と奔走した。親神の不思議なお働きに守られ、
前年に引続き、(明治28年) 6月、
同じく埼玉県美谷本村にて「雨乞」を勤め、大雨の守護を得た。ために 1村こぞって入信 という事もあり、
(明治28年) 7月には 四谷出張所他 3ヵ所、
12月には 北多摩出張所等 5ヵ所が増設された。
明治29年(1896) 3月、幡羅出張所が設立された。(教勢は着々と拡大したが)
(明治29年) 4月6日、内務省訓令が発布され、加えて社会の反対攻擊も激しくなり、
布教は 著しく困難となった。教会の困窮は よりはげしく、生活上だけでなく、月次祭にすら事欠いた。
(そのような中でも)
(古田)栄五郎は、
勇んで布教に、上級(東 分教会) の普請に…と出かけた。(困難を乗り越えて)
(東分教会 教祖殿の) 普請は 無事竣工、
(明治29年) 10月24日 鎮座奉告祭が 勤められた。同年(明治29年) 11月、豊多摩出張所等 3ヵ所、
(明治)30年に 2ヵ所、(明治)31年 6ヵ所、(明治)34年に 1ヵ所…
と 教会は増し、
(また)
(明治)31年 世田谷区松原にての「雨乞」の守護等(もあって)、
(さらに) 教勢は伸び、信者はふえていった。しかし、(その分) 苦労もまた大きく、
(明治)29年より 37年(1896~1904) まで、
牛込支教会は、どん底生活に近かった。地代が数年もたまり、
地所の一部をかわりに納入したのも この頃の事であった。
古田栄五郎の長男・芳松の出直し前後(明治37年頃~明治40年頃)
病気がちであった (古田栄五郎・長男)芳松は、
(明治)37年 春に重態となり、
6月14日 数え38歳にて 出直した。(古田)芳松の重態を機に、
牛込では (明治37年) 5月22日、11年ぶりに春の大祭が執り行われ、
新しい動きが始まった。明治39年(1906)、春季大祭を 3月5日と許しを受けた。
その年(明治39年) 部内1ヵ所設立。(明治)40年 本部の春の大祭には、
54名が帰参、部内1ヵ所が増設された。
支教会から牛込分教会へ改称~移転前後(明治42年頃~明治45年)
(明治)42年、牛込支教会は 分教会に改称し、
部内も (明治42年) 5月までに 支教会12、宣教所15ヵ所となった。しかし、教会内情は 相変らず容易でなく、
事情のため、明治44年(1911) 4月20日、移転の許しを受け、
当時 東京府 豊多摩郡 戸塚村 大字上戸塚 字清水川119番地に移転、
従来の材料を使い、縮少して普請を始めた。上棟式直後 台風で倒壊等の苦難もあったが 無事竣工し、
明治45年(1912) 4月1日 鎮座祭、 2日 落成奉告祭を執行した。
古田栄五郎初代会長の出直し、尾崎松之助2代会長就任(大正11年)
(古田)栄五郎は、
(大正)11年の初め頃より、老衰が目だちはじめ、
同年(大正11年) 7月31日、77歳をもって出直した。同年(大正11年) 9月5日、
尾崎松之助が 牛込分教会2代会長として、任命された。
教祖40年祭の頃(大正12年~昭和3年頃)
大正12年(1923) 1月、
教祖40年祭活動として、教勢倍加が発表された。(大正12年) 9月1日、関東大震災、
その被害ものりこえ、運動は活発にもり上り、
大正11年12月より14年までに、42ヵ所の教会が設置され、名実共に倍加した。
この間 客間を1棟増築した。大正15年(1926) 教祖40年祭には、
牛込分教会は臨時列車1本、1,000名をこえる団体にて参拝した。
(参考:教祖40年祭→ 大正15年【1/15・1/20・1/25】)昭和2年より3年(1927~1928)にかけて、更に3ヵ所の教会が増設され、
部属教会は 88ヵ所となった。同(昭和) 3年、(上級) 東 大教会の神殿建築には、
(尾崎)松之助(2代会長)も 建築委員を勤め、終始努力を重ね、
牛込部内から 工費の半ばを用立てることができた。
教祖50年祭活動~大教会への昇格(昭和6年頃~昭和15年頃)
昭和6年(1931)、教祖50年祭活動に入り、
部内教会一同 勇んで勤め、
昭和8年より12年までに、新たに20ヵ所の部内教会が設けられ、
総数で 108ヵ所を数えるに至った。(参考:教祖50年祭 → 昭和11年【年祭期間=1/26~2/18。1/26・2/7・2/18に祭典】)
昭和11年 6月、海外布教第1号として、
練馬宣教所の 山学、カズ江夫妻が ハワイへ渡った。昭和15年(1940) 1月23日、大教会に昇格、
(昭和15年) 11月11日 (大教会昇格)奉告祭を執行した。(古田栄五郎) 初代(会長) の教会設置より 満50年(のこと)である。
太平洋戦争 戦中~戦後復興(昭和18年頃~昭和23年頃)
戦時体制色が漸次強められた昭和18年、
(尾崎)松之助(2代会長)は 茨城教区長に就任した。昭和20年(1945) 4月、
大空襲により 大教会が焼失した。
部内教会も 30ヵ所近く罹災した。終戦と共に、戦災復興の第一歩は 土地拡張から始まった。
当時は 借地分も合わせて670坪余であったが、
その後 着々と拡張して 現在の850坪に達した。建物は仮建築として、神殿20坪、別棟20坪を復興させた。
狭いながら 正式に出願、客間を増築。
(昭和)21年11月9日、2代真柱を迎えて鎮座祭を、10日に 奉告祭を勤めた。復興は
第1に、30ヵ所の罹災教会が3年以内に狭くても「おつとめ」のできる建物を建て復興する事。
第2に 大教会は3年後 神殿建築にかかる事。
第3に 信者詰所の建築。
第4に 教職舎建築
とし、罹災教会関係者と話し合った。3年後に 殆どの教会は復興した。
(昭和)23年、(1948) 秋、
詰所建築にそなえて、布留の地に 600坪の土地を購入した。
昭和中期、伸びゆく牛込の道(昭和25年頃~昭和42年頃)
(昭和)25年 1月25日、
神殿106坪の建築 及び 付属建物の移動改築の許しを受け 着工、
(昭和)26年秋 落成、
11月5日 鎮座祭、
(11月)6日 奉告祭 および 教会創立60年祭を執行した。この年(昭和26年) 2月22日 、
後継者・尾崎栄治は 岡本静代と結婚した。昭和25年 4月、
ハワイに カリヒ教会設立、(昭和)17年 秋より (昭和)32年(1957) 秋までに
活動の十分にできない教会を立て直し 10ヵ所が再出発した。部内教会は (昭和)23年より31年までに 3ヵ所新設、
その内1ヵ所は 海外第2号教会で、ハワイに設けられ、
(昭和)35年 6月、第3号教会が 同じくハワイに誕生した。教祖70年祭終了後は、
部内教会の神殿建築が進められ、17ヵ所近く完成した。(昭和)39年 7月、教祖80年祭活動の最中、
(尾崎松之助)大教会長夫妻は ハワイの教会を巡回した。同年(昭和39年) 10月14日
尾崎きく が 89歳で出直した。(昭和)41年(1966) 1月、
教祖80年祭には 数回の団体で多くの人々が参拝し、
部内教会も
(昭和)38年10月より(昭和)42年2月迄、新設7ヵ所があり 120ヵ所となり、
布教所は 約100ヵ所近く 開設された。同年(昭和42年) 10月25日のお許しにて 教職舎の建築着工。
鉄筋コンクリート建、地下1階、地42年階、建坪500坪余を
1年半にて完成した。
尾崎栄治3代会長の就任~昭和後期(昭和44年~昭和51年頃)
昭和44年(1969) 1月27日、
尾崎栄治は 牛込大教会3代会長に就任。同時に 創立80年祭執行の許しを受け、
(昭和44年) 5月22日、就任奉告祭 及び 80年祭 が
3,000人をこえる教信者が集まって 勤められた。(昭和44年) 6月には
お礼団参を 900余名にて行った。翌(昭和)45年 1月、
大教会 昇格30年のお礼団参を バス14台にて挙行。(昭和)46年 7月31日、
(古田栄五郎) 初代会長 50年祭を執行。
参拝者は600名を越えた。(昭和)47年(1972) 11月27日、
詰所増築を 第35母屋 牛込詰所としてお許しを受けて着工。
(昭和)49年 1月24日に竣工、真柱を迎えて 開所式を挙行した。建坪は390坪、既設の738坪余りと合計で 1128坪余となった。
土地も この普請に際して304坪余りを購入、
合計1,400坪余 となった。(昭和)48年(1973) 8月18日より23日まで、
(牛込)大教会雅楽部は、
東京教区文化部と合同にて、ハワイ伝道隊を結成、
彼の地の教友を激励し、友好親善の実を挙げた。教祖90年祭に際して、
現会長(尾崎栄治3代会長) 就任5ヵ年となるが、
部内教会 一手一つに 教勢も一段と伸張。(尾崎栄治3代)会長の 数度のハワイ教会巡回、東南アジア視察等を通じて、
布教線は 関東はいうまでもなく、
静岡、愛知、大阪、九州方面に、
他方では 仙台、福井、福島、
更に ハワイ、シンガポール方面に 及んでいる。現在(=天理教事典1977年版発刊当時)、出版物としては、
会長(=3代会長・尾崎栄治) が 多年苦心した大教会発達史『心あつめて』、
前会長(=2代会長)・(尾崎)松之助著『伸びゆく』
がある。また 教内新聞『うしごめ』は、
昭和44年(1969) 3月 第1号を発刊、
現在(=天理教事典1977年版発刊当時) 第55号を数えている。〔現住所〕〒169-0075 東京都新宿区高田馬場4丁目4番32号
〔電話〕03-3364-1571(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,73〜76)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
37回目の今回は、
「牛込大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】37回目の当記事では
『天理教事典』の中の「牛込大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
牛込大教会は、東 大教会から分かれた大教会ですね。
東 大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
当記事では
『天理教事典』の中の「大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
牛込大教会初代会長の・古田栄五郎先生は、
身上・事情をたすけられたわけではなくて、
当時 東京で独りで布教中であった上原佐助先生から聞いた教理の話に深い感銘を受け、入信されたのですね。
驚くべきは、
お話を聞いて、なんと3日目(!)には仏壇を売り、
過去の一切を断ち、信仰に飛びこまれたという点。
『天理教事典』の牛込大教会解説文とほぼ類似した文章ですが、
『道~天理教伝道史をあるく』(道友社編)の中にも、以下のような記述がありました。
(東京方面では)
(明治)19年、
埼玉の高橋庄五郎(立野堀初代)、
小石川音羽町で釣針製造卸を営む 吉田栄五郎(牛込初代) が入信した。栄五郎は三日目に仏壇を売り払った。
長男・芳松が止めようとすると、
『道~天理教伝道史をあるく』P,109
「お店で言えば、小僧さん、番頭さんを通してでなく、今度、本元の旦那さんに直に話ができるようになった。仏様はいらない。」
と、位牌も神田上水に流してしまった。
「天理教」が ある程度 社会的に認知されている現代ならいざしらず(いや、それでも難しい)
当時、全くと言っていいほど誰も知らない教えを聞いて、
その3日目に、
先祖伝来の仏壇を売り払い、そして 位牌までも神田上水に流してしまわれた‼
なんという、決断力、そして行動力! (゚Д゚;)
湖東大教会について勉強した時に、
湖東大教会の佐治登喜治良初代会長も、
身上・事情をたすけられたとわけではなくて、
教祖を拝した時の感銘と「御苦労さん」と声をかけられて受けた感動の気持ちから入信された
ということを学びました。
牛込大教会初代会長・古田栄五郎先生の入信も、
それと似たような感じですね。
今も昔も、
どれほど尊い 真実の話を聞こうと 全く心に響かない人がたくさん居る中で、
たった3日間(!) お話を聞いただけで、
これこそ「本物」だ! と確信し、
躊躇なく先祖から受け継いだものを全て捨て
そこへ飛び込んでいかれる感性――
これは、もう理屈ではなくて、
魂の感受性…のようなものがあって、そこが強く働いた、
とでも考えなければ 理解できない事象のような気がします。
お道的に言えば、魂の「いんねん」がそうさせた…
と言えるのかもしれません。
また、今回、「牛込大教会」について勉強させて頂く中で、
牛込大教会は、本当に東京の都心にあることを知りました。
Google Mapで検索して驚いたのですが、
牛込大教会は 早稲田大学のある JR高田馬場駅の真ん前!にあるのですね。
知りませんでした。
これまで、日本橋大教会等の首都圏にある大教会について勉強した際に、
首都圏の大教会はどこも、
・大正12年9月1日の関東大震災
・昭和20年春の複数回にわたる東京大空襲
その二つの大災害により
壊滅的なダメージを受けたことを知りました。
今回の『天理教事典』牛込大教会の解説文では
史実が時系列に淡々と並べられてあるだけでしたので、
ここの部分を読んだだけだったら、
心に引っ掛かることもなく 素通りしてしまっていたと思います。
しかし、
これまで 首都圏の大教会について 何回か勉強してきましたので、
その蓄積(?) が作用して、
“あぁ、こんな東京のど真ん中にあったら、
関東大震災や東京大空襲の時は、さぞかし御苦労されたのだろうなぁ…”
という感慨が自然と湧いてきたのでありました。
しかし、牛込大教会は、
そのような様々な困難を乗り越えられて、
今も、変わることなく 都心で輝きを放っておられます。
こうして、昔の歴史について勉強することを通して、
あらためて、
今の姿だけ見ていたらわからないけれど、
今の繫栄というのは、
先人先生方の御苦労の上に成り立っているんだなぁ…
ということを再認識させられるのでありました。
そういった意味でも、やはり、
“折に触れ 歴史を振り返る”
ということは大切なこと、というか、必要なことですね。
あらためて、そう思いました。
何もしてないお前が偉そうに言うな…と言われそうです。
(ホントにそう思います)(>_<)
書きながら、自分でも恥ずかしくなってきました…
このぐらいにしておきます (^^ゞ
今回もまた、
書き写しを通して いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「牛込大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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