Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号29番「嶽東大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号30番「島ヶ原大教会」について勉強します。
- 島ヶ原大教会(しまがはら だいきょうかい)
- 伊賀に広がる道(明治19年頃)
- 伊賀地方の講の統合(明治20年~明治21年頃)
- 島ヶ原支教会 設置の動き(明治21年頃)
- 島ヶ原支教会、産みの苦しみ(明治22年~明治25年)
- 島ヶ原支教会の誕生(明治25年~明治26年)
- 島ヶ原の道の広がり(明治25年~明治28年頃)
- 支教会から分教会へ昇格のつまずき(明治28年)
- 郡山分教会詰所ふしんへの伏せ込み(明治28年)
- 島ヶ原支教会の外容整備(明治29年~明治30年)
- 島ヶ原の分離問題(明治31年)
- 支教会から島ヶ原分教会へ昇格(明治31年)
- 万田万吉 初代会長の辞任(明治32年頃~明治35年)
- 平野楢蔵2代会長時代(明治35年頃~明治40年)
- 川 勘五郎3代会長時代(明治40年~大正2年)
- 喜多治郎吉4代会長時代(大正2年~大正6年)
- 喜多秀太郎5代会長時代(大正6年~大正15年)
- 中森駒蔵6代会長時代(大正15年~昭和15年)
- 中森芳一7代会長時代(昭和15年~昭和44年)
- 中森芳次8代会長時代(昭和44年頃)
- おわりに
島ヶ原大教会(しまがはら だいきょうかい)
伊賀に広がる道(明治19年頃)
島ケ原大教会は
伊賀方面で個別的に信仰し 講社を結成していた人々を
統合してできた教会である。まず、
三重県阿山郡 島ヶ原村456番屋敷、中森喜右衛門の妻 かねは、
胃癪で苦しんでいたところ、
当時 大和地方から伊賀地方に行商していた人から にをいを掛けられ、
天理教を知り、たすけられた。明治19年 (1886) 6月に 初めて おぢばに参拝。
その後、近隣への布教を開始し、
次第に 信者を結集した。(三重県)阿山郡 新居村西山147番屋敷の 池本亀次郎は、
同村(新居村) 古岡平四郎から、天理教の話を聞いた。妻 たつの病気から
明治19年 旧8月10日 おぢばに参拝。
帰村後、布教を開始し、
「実信講」を結成した。(三重県)伊賀上野町の 福田一重は、
養子・亀次郎の病気から入信。
布教開始して、
「一心講」と名付けて 信徒を結集した。(三重県)阿山郡 服部村 字羽根の 中村浅右衛門は、
病気を契機として入信。
上野地方に布教し、信徒を結集した。同郡(阿山郡) 新居村 大字波野田の 竹田利右衛門は、
永年の病気から信仰した。
熱心に布教して、多数の信徒を結集した。大和郡山より上野町へ行商に来ていた 万田平次郎と、
その導きによって入信したという
同町(上野町)池町の 青木弥助、出口金之助らは、
いずれも 布教活動によって、多数の信者を結集していた。かくして、
明治19年から 翌(明治)20年初めの頃にかけて
伊賀各地に 教えが伸び広がったのである。
伊賀地方の講の統合(明治20年~明治21年頃)
こうした状況にあって、
この地と縁故の深かった 平野楢蔵(郡山大教会初代会長) は、
初代真柱から この地方の信徒を育てるよう との命を受け、
信者を統合することになったのである。平野楢蔵は、
後の郡山大教会役員・万田万吉に命じて
共に 同地(伊賀各地) の布教を応援し、
明治20年 中頃、
天竜講(郡山大教会の前身) 6・7・8号の講名の下に総轄して
布教伝道を展開することにした。第6号講元は、伊賀上野町の 青木弥助、
第7号講元は、新居村波野田の 竹田利右衛門、
第8号講元は、新居村西山の 池本亀次郎がなった。中でも、
第8号講は、多くの人々の支援を得て、
阿山郡三田村、河合村、鞆田村、山田村、島ヶ原村川南、川家、
さらには、滋賀県 新楽町方面にまで伸びて行った。明治21年 正月26日に執行された教祖1年祭に、
各講の人々 60数名が 参拝している。
郡山初代 平野楢蔵は
(明治)19年、三重県新居村の知り合いを足がかりにやってきた。
一方、
妻の眼病より入信した大和郡山の 万田平次郎が、
肉珪水 販売の傍ら 三重でも布教した。
(平野)楢蔵は
初代真柱より「伊賀地方の信者を育てよ」と 命を受け、
(万田)平次郎の子・万吉が来て 信者を統合。
こうして島ヶ原大教会が設立された。
(『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編)P,78より )
島ヶ原支教会 設置の動き(明治21年頃)
教祖1年祭 参拝の後、
教勢は 阿山郡一円に拡大し、
不思議なたすけが 至る所で現われたが、
当時の天理教への世上の圧迫妨害は 言語を絶するものがあり、
講元 周旋の 努力・苦心は 並々ならぬものであった。この年(明治21年)
教会本部の設置が公認され、
郡山分教会が
同年(明治21年) 12月21日付 本部の許しを得て 設置された。これにならって、
部内講社も 教会設置の計画を進めることとなった。郡山・平野(楢蔵)会長の命により、
当時、各講元を 巡教応援していた 郡山分教会役員・万田万吉は、
6 ・7・8号の 3つの講を統合して 教会を設置しては
との議を、各講元らにはかった。(それを受けて) 各講元が寄り、
設置場所や設立費などについて慎重に協議を重ねた。
しかし、各々が意見を異にしたため 事態は紛糾した。
島ヶ原支教会、産みの苦しみ(明治22年~明治25年)
(そのような状況の中)
島ヶ原川南の 篤信家・川 庄兵衛より
敷地を献納する申し出があった。(その申し出を機に 協議は収束に向かい)
(三重県阿山郡) 島ケ原村に
(教会を) 設置することとなった。(関係者一同 協議の結果)
(本部と行政の) 許しを受けた暁には
第6号の 上野町と、第7号の 新居村 波野田、及び、第8号の 同村(新居村) 西山に
各々 出張所を設立する (という)方針のもとに、
島ヶ原支教会設置の議を決定した。(そして)
明治22年(1889) 11月7日、「万田万吉」支教会長名義を以って、
島ヶ原村32番屋敷の、川 庄兵衛宅を請願事務所として 設置出願の運びとなり、
同(明治)22年 11月11日、
(天理教教会)本部の許しを得た。(本部の許しを得たので、続いて)
地方庁へ願書を提出したところ、なんと却下されてしまった。(一同の落胆は大きかったが、気を取り直し)
改めて (明治)24年8月に
再度地方庁へ出願したが、これも却下となった。却下の理由を探ってみたところ、
どうも、地方庁では “担任教師が不適当である” と考えている ふしがみられた。そこで、
担任教師が (三重)県内人で、相当人望のある者であれば許可を受けることができるのではないか と考え、
明治25年1月5日、
役員・川 勘五郎を 担任教師名義として出願した。その結果、
同年(明治25年) 3月5日付で、
ようやく地方庁の認可を受けることができた。
島ヶ原支教会の誕生(明治25年~明治26年)
教会の建築は
明治25年 3月に着工し、同(明治25年) 6月5日 上棟式を挙行した。
そしてそれは、
付属建物と共に、同年(明治25年) 10月に 全部完成するに至った。(本部より) 移転の認可を受け、地方庁の手続きも終え、
明治25年 10月25日、
平野(楢蔵) 郡山分教会長 祭主で 鎮座祭。
そして、翌(10月)26日、
(島ケ原)支教会長・万田万吉 祭主で、落成奉告祭が執行された。
当日の参拝者は千数百名で、まことに盛大であった。陣容が整ったのを見定めて、
地方庁へ 担任教師・川 勘五郎 退職の手続をとり、
(改めて)
明治26年 7月4日、
万田(万吉)会長を担任教師として、
地方庁へ その手続きをした。
島ヶ原の道の広がり(明治25年~明治28年頃)
(島ヶ原支教会誕生後は)
明治22年の島ケ原支教会設立運動 始動当時の 課題・懸案であった
部内教会設置の案件を、
実行にうつすことになった。(伊賀方面の講を統合して教会にするという計画作成時のメンバーであった) 第6号講元の 青木弥助が 都合により講元を辞したので、
6号は (青木弥助に)代わって 田口駒次が上野出張所、
そして、7号の 竹田利右衛門は 新居出張所、
また、8号の 塚口岩松は 鞆田村に龍山出張所、
以上をそれぞれ起こし、
それらを統合する講元として、池本亀次郎をもって出願。
(明治)25年 5月31日、同時に許しを得た。更には、
上野出張所所属の 城山助三郎は
河合村に 河合布教事務取扱所を、
8号所属の 森島、宮本は
山田村に 山田布教事務取扱所を設置、(明治)25年に
伊賀地方に 5ヵ所の部内教会を設置の上、
いずれも 当時にあっては 相当の教会建物を建築して
(郡山より) 平野(楢蔵)会長、役員・増田甚七の出張を受け、
(各部内教会ごとに)
次々と 盛大な開筵式が行われた。また 翌(明治)26年には
伊賀に
高旗出張所、古山、笠置、 上阿波、柘植の各布教事務取扱所、
滋賀県に
高宮出張所 及び 長野布教事務取扱所、
奈良県に
柳生出張所、
の 8部内教会を新設。(明治)27年には
京都府に 瓶ヶ原出張所、
神奈川県に 高座、御所見、平塚、藤沢、横浜、
静岡県に 君沢、
東京府に多摩、
愛知県に清須、
和歌山県に南部、
以上 11カ所。さらにまた (明治)28年には
伊賀に 阿保、
神奈川県に 鎌倉、
山梨県に 郡内、
東京府に 川口、府中、更に、
日清戦役の軍夫募集中止を機として、
遠国布教に一段と力が加えられた結果、
山形県に 山形、東根、新庄、長井、
岩手県に 岩手、紫波、土沢、稗貫、米里、
茨城県に 水戸、
愛媛県に 南予、
千葉県に 銚子
の 部内教会設置を見た。以上、
明治25年から28年まで 約4年間に
県下 並びに近府県を始め、
遠く 関東、東北、南海、四国方面 1府13県にわたって布教し、
出張所21、布教所20を設置。教勢は 急激に伸展、
なお 続々と教線が伸びて、明治31年には、
支教会8、出張所51、布教所22、
合計81ヵ所の 部属教会を有するにいたった。
島ヶ原は、
(明治)27年の日清戦争のころ、東北で異常な伸展をみせた。
島ヶ原の布教者は、
茶碗などの大きさの紋のついた羽織に袴姿でおぢばを闊歩。
「あれが伊賀衆よ」と、
人々は畏敬の念をもってささやき合ったという。
(『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) P,78より )
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山形県下には、北洋系に次いで島ヶ原系が多い。
なぜか。
島ヶ原の会長・万田万吉が、
ある時、上級・郡山の平野楢蔵に、
「東三十三ヵ国は、私にお任せ下さい」と言った。
島ヶ原の布教師は (万田)万吉の意を受け布教熱に燃え、
関東・東北地方へ出た。
また、それを援助する布教体制が整えられた。
明治27年、日清戦争が勃発した。
軍当局より(天理教)教会本部へ、非公式に従軍人夫を要請してきた。
五百人の募集に、二千七百人余の志願者があった。
しかし 採用見合わせとなった。
そうなれば水杯を交わし故郷に別れを告げてきた者たちにとって、行き場がない。
彼らは「軍夫として戦地で死すは国に忠、布教地で倒れるも道に忠」と 本教未開拓地を求めて、関東および東北の奥地に入っていった。
(『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) P,118より )
支教会から分教会へ昇格のつまずき(明治28年)
島ヶ原支教会の設立以来 このようなめざましい教勢伸展の姿に、
その力は 分教会に劣らぬものあり、と認められ、
また、年来の功績を賞する思いから、
郡山 平野(楢蔵)会長より 分教会昇格準備を促された。そこで、
万田(万吉)会長 及び 役員は、協議の上、
明治28年3月、本部にその旨の願書を提出した。すると、
分教会に昇格は望ましい事であるけれども、
分教会の下に分教会を置く事は 前例もないところであることを
(本部より)指摘された。そのため、郡山と相談の上、
ひとまず取り下げを乞い、
従来通り (島ヶ原) 支教会の名称のままとなった。この 分教会昇格問題以降、
(島ヶ原と) 郡山との間に
感情的に円満を欠く傾きが見られるようになった。
郡山分教会詰所ふしんへの伏せ込み(明治28年)
そこで、万田(万吉)会長は、
島ヶ原として 郡山に対し何等の異心ない事を表明するため、
(明治)28年 10月17日
本部の許しを得て
(奈良県)郡山町に 島ヶ原支教会事務所を建築、
役員を派して事務を取扱う事とし、
努めて 円満協調を計ることとした。(そのような中、郡山分教会では)
教祖10年祭を迎えるに当たり、
(明治)28年
帰参の信者に満足してもらうために、
(本部の) 許しを受けて
信徒詰所を建設する事となり、昼夜工事が進められた。
(この) 広大な建築は、わずか60日を以って完成した。島ヶ原は、
このふしんにあたって、
物資・労力の両面から、力の限り 誠真実を伏せ込んだ。(その結果)
教祖10年祭には 遠近より多数の参拝者があったが、
多くの帰参信者が、初めて 信徒詰所の恵みに浴する事が出来た。
島ヶ原支教会の外容整備(明治29年~明治30年)
明治25年に教堂 及び 付属建物の建築を終えて以来、
前記の通り、教勢は伸展の一途を辿った。(そこで)
部内教会長、役員らが協議の上、
郡山(分教会)にならって、
(島ヶ原でも) 教祖殿の建築、境内地の拡張に着手することとなった。(明治)29年10月、
さらに具体的協議を重ね、
(本部の) 許しを得て、早速 地均し工事に取りかかった。翌(明治)30年 3月17日には 教祖殿の上棟式を挙行、
つづいて 事務所、居宅、炊事場等の増改築を行い、
明治31年の春季大祭には 盛大な落成奉告祭を執行し、
教会の容姿を整えるに至った。
島ヶ原の分離問題(明治31年)
天竜講部内に隆盛を誇った島ヶ原は、
明治25年頃から28年頃にわたって 教勢が急速に伸展したので
(本部よりお許しが出なかったものの)
(明治28年当時) 分教会昇格の願出にまで及んだ程であったわけだが、その後 2、3年経過して、
(明治)31年の中元祭の後、
郡山分教会において開かれた役員会議の席上、
万田(万吉 島ヶ原支教)会長は、平野(楢蔵 郡山分教)会長に
改めて、分離昇格を願い出た。しかし、
双方の意見が相違し、一致を見る事が出来なかった。
万田(万吉 島ヶ原支教)会長は、
(平野楢蔵 郡山分教会長に) 考慮を願って 一旦引き下がった。この時、
万田(万吉)会長の実兄である 中和初代会長・植田平一郎はじめ
郡山・平野(トラ)夫人も
この問題の解決に力を尽くし、
とくに
平野(楢蔵)会長には 容易ならぬ心痛をかけ、
種々 諭されたけれども、
万田(万吉)会長 及び 役員は
その諭しを諒承することが出来なかった。それを受けて、
本部の桝井伊三郎が この問題の解決に力を尽くした。
支教会から島ヶ原分教会へ昇格(明治31年)
その後、
桝井伊三郎、山中彦七が 本部より出張する事態にまで至り、
この問題について折衝を繰り返した。
その結果、
(島ヶ原は) 郡山より分離することとなった。明治31年 11月16日、
島ヶ原支教会は、分教会に昇格。
本部直属となり、
同年(明治31年) 12月11日には、
分教会昇格奉告祭がつとめられた。
万田万吉 初代会長の辞任(明治32年頃~明治35年)
(島ヶ原は)
郡山から分離した頃から
教勢不振の兆候が見受けられるようになっていたが、
(その後)
これに加えて
「万田会長夫人の にわかの出直」という大きな節も見られ、
(郡山から)分離後、1年たらずで
(急速に) 教勢が衰え始めた。(教勢の衰退は、島ヶ原の)部内全体に及び、
事情が続発し 沈滞の気が蔓延。
明治35年頃には 極度の困窮に陥った。万田(万吉)会長は 進退窮まり、
ついに 退職のやむなきに至った。
平野楢蔵2代会長時代(明治35年頃~明治40年)
(万田万吉の)会長辞任にともなって、
(島ヶ原は) 後任会長指命の歎願書を本部に提出。(その結果)
郡山・平野(楢蔵)会長が
島ヶ原分教会会長を兼任することになった。(島ヶ原2代会長)なお、明治37年 9月30日付を以って
平野(楢蔵)会長が 中和分教会長を兼任することとなったので、
島ヶ原に 副会長を置くことになり、
役員・川 勘五郎を (島ヶ原副会長に) 指名、本部の許しを得た。明治40年 6月17日、
平野(楢蔵)会長が出直した。
川 勘五郎3代会長時代(明治40年~大正2年)
その結果、
(島ヶ原) 副会長・川 勘五郎が、
(明治)40年 9月10日、
許されて(3代)会長となった。川( 勘五郎) 会長は、就任後、
疲弊、沈滞した部内教会の教勢挽回に力を尽くした。
しかし、
部内のあちらこちらで事情が続出し、財政も行き詰まった。さらに、
万田(万吉)会長時代の負債等も重くなって、
その任を全うすることが難しくなり、
大正2年(1913) 1月28日、
(川 勘五郎3代会長は) 本部に辞職願を提出した。
喜多治郎吉4代会長時代(大正2年~大正6年)
このため、
本部より、当時の奈良教務支庁長・山沢為造が派遣され、
(その後、様々な折衝が繰り返された後)
結局、本部員・喜多治郎吉が
(島ヶ原の4代) 教会長として任命された。大正2年 2月14日、
喜多治郎吉、(4代)会長に就任。
(喜多治郎吉は)
老体を顧みず、
極度に困憊した部内教会の事情整理など 重なる難問解決のため、
さらには、
教勢挽回のために 私財を拋ち、布教意欲の昂揚に努力をしたが、
大正6年 3月頃より床に臥し、
同年(大正6年) 11月11日、66歳で出直した。
喜多秀太郎5代会長時代(大正6年~大正15年)
(喜多治郎吉4代会長の出直しを受けて)
(島ヶ原は) 後任会長差遣願を本部に提出。(その結果)
大正6年 11月21日、
喜多秀太郎が (5代)会長に就任した。(そして) 翌年(大正7年) 1月23日、
(5代)会長就任奉告祭が執り行われた。こうして教勢挽回に、
役員・部内会長も尽力するとともに、
諸般の機構等の改革刷新を行なった。大正8年 1月20日、
青年会 島ヶ原支会を設置、
同(大正)10年 10月23日
発会式が挙行された。時あたかも 教祖40年祭の提唱と機運を共にして
年祭活動の方針を定めて、
部内全体の足並みも 漸次 整うようになった。大正12年 2月20日 信者詰所の敷地購入、
翌年(大正13年) 2月15日に 詰所移転。同年(大正13年) 10月3日 青年会 島ヶ原分会に昇格、
引き続き 部内に 支会10ヵ所設置、
婦人会支部も 部内に 5カ所を設置、同(大正)14年には 信者詰所落成式が挙行され、
40年祭の準備は 着々と進められた。そして
大正15年 1月25日
教祖40年祭が執り行われた。
ここに 教会新設38ヵ所をみた。また 島ヶ原分教会においても
(大正15年) 4月21日
教祖40年祭が執行され、1,500名の参拝者が集まった。大正15年 6月30日
喜多秀太郎(5代)会長は、
2代真柱教育に専念するために辞任した。
中森駒蔵6代会長時代(大正15年~昭和15年)
これにともない
大正15年 7月22日付をもって
役員・中森駒蔵が (6代)会長に就任、
部内の整備教導に 心を砕いた。(中森駒蔵6代会長) 在任中に、
教祖50年祭、立教百年祭、
あわせて 多年の念願であった 大教会昇格を果たした。中森駒蔵(6代)会長は 大きな功績を残し、
昭和15年 (1940) 2月26日に会長職を譲った。(そして)
翌 (昭和)16年 7月21日、
70歳をもって出直した。
中森芳一7代会長時代(昭和15年~昭和44年)
7代会長に就任した 中森芳一の就任奉告祭は、
2代真柱臨席のもとに、
昭和15年4月、
大教会昇格奉告祭と併せて 執行された。その後、
第2次世界大戦で (島ヶ原大)教会も混乱をきたしたが、
戦後、「復元」の打ち出しとともに立ち直り、
昭和24年 11月22日には
創立60周年記念祭を執行した。昭和31年は 教祖70年祭が執行され、
同(昭和)34年 9月26日、
神殿建築 及び 付属建物増築 及び 正門位置変更の願が出され、
同(昭和)37年10月20日 鎮座祭、
翌10月21日に 奉告祭を執行した。昭和44年 3月26日には
中森芳一(7代)会長が辞職。嗣子・中森芳次が、8代会長に就任した。
中森芳次8代会長時代(昭和44年頃)
(中森芳次は)
同年(昭和44年) 6月21日、
(8代)会長就任奉告祭を執行した。また、同年(昭和44年) 11月、
創立80周年を迎え、創立80周年記念祭を執り行った。なお前(7代)会長・中森芳一は、本部員に登用された。
世界たすけへの 一層の躍進を誓っている。〔現住所〕〒519-1701 三重県伊賀市島ヶ原川南 12199 番地
〔電話〕0595-59-2026(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,404〜407)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
30回目の今回は、
「島ヶ原大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】30回目の当記事では
『天理教事典』の中の「島ヶ原大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
最近、たまたま
本棚の奥に『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本があるのを見つけました。
その中に、初期大教会の歴史に関する記述もありましたので、
今回は、その内容も 少しばかり付け足しました !(^^)!
島ヶ原大教会は、郡山大教会から分かれた大教会ですね。
郡山大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「島ヶ原大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)
【島ヶ原大教会の歴史】
- 明治19年頃、三重県伊賀地方において、
大和地方から伊賀地方に行商していた人たちから にをいが掛かってお道を信仰する人たちが増えてきた。
個別に「講」が結ばれて、それぞれに信仰していた。 - 初代真柱は、
ごく近隣にも関わらず それぞれ個別に信仰している伊賀地方の信徒に対し、丹精の必要性を感じた。
そこで、伊賀地方に縁故の深かった 平野楢蔵(郡山大教会初代会長)に、伊賀地方の信徒の丹精を命じた。 - 平野楢蔵(郡山大教会初代会長)は、
大和郡山より伊賀地方へ行商に通いつつ布教していた万田平次郎の子どもである 万田万吉を、 伊賀地方の布教・丹精の担当者に指名し、共に伊賀布教に励んだ。 - 明治20年、伊賀地方に既にあった講が、
6・7・8号の講名の下、天竜講の部内として統合された。 - 明治21年に天理教教会本部の設置が公認され、
上級・天竜講も、同年(明治21年) 12月21日付 本部の許しを得て 郡山分教会となった。 - 伊賀の各講元を巡教応援していた 万田万吉は、
平野楢蔵郡山会長の指示で、伊賀の 6 ・7・8号の 3つの講を統合し教会設置する旨を 各講元らに提案した。
しかし、各講元の意見まとまらず、紛糾した。 - そんな中、島ヶ原川南の 川 庄兵衛より敷地献納の申し出があり、その申し出を機に 協議は収束。
三重県阿山郡 島ケ原村に教会を設置し、これまでの講社はその出張所として組織を再構築するということで、各講元の合意が形成された。 - 明治22年、島ヶ原村32番屋敷の 川 庄兵衛宅を事務所に定め 万田万吉を支教会長として教会設置を出願。
天理教教会本部の許しは得たものの、地方庁では却下されてしまった。 - 明治24年に再出願するも 再び地方庁で却下された為、担当教師を、奈良県人の万田万吉から、所在地・三重県人の 川 勘五郎に変更して、改めて明治25年1月5日に申請。
その結果、明治25年3月5日、ようやく地方庁の認可を受けることができた。 - 明治25年 3月、神殿ふしんに着工し、
同年(明治25年) 10月、付属建物と共に完成。 - 明治25年 10月25日、平野楢蔵 郡山分教会長祭主で鎮座祭。
翌(10月)26日、島ケ原支教会長・万田万吉 祭主で、神殿落成奉告祭。 - 明治26年 7月4日、地方庁へ申請時に 川 勘五郎を担任教師として届出ていたのを、万田万吉支会長へ変更する手続きを行った。
- 明治27年、日清戦争への従軍人夫の要請が、軍当局より 天理教教会本部に対してあった。
それを受け、島ヶ原からも多数の志願者があったが、募集枠をはるかに超える応募となり、採用見合わせとなった。
故郷に別れを告げてきた者たちは行き場を失い、「軍夫として戦地で死すは国に忠、布教地で倒れるも道に忠」と 関東および東北の地で、文字通り決死の覚悟で布教を展開。
島ヶ原の道が、急激に伸展した。 - 島ヶ原のめざましい教勢伸展を受け、明治28年3月、天理教教会本部に 島ヶ原支教会の分教会昇格を申請。
しかし、当時、上級・郡山もまだ分教会であり、分教会の下に分教会を置く事は前例もないとのことで、本部のお許しが出なかった。 - 分教会昇格が保留となった件で、郡山と島ヶ原との間に微妙な空気が漂うようになった。
万田万吉支教会長は、島ヶ原として 郡山に対し何等異心ない事を表明するため、明治28年 10月17日郡山町に島ヶ原支教会事務所を建築し、円満協調を計ることに努めた。
郡山の信徒詰所ふしんにあたっては、物資・労力の両面から、島ヶ原として 力の限り誠真実を伏せ込んだ。 - 明治29年10月、島ヶ原の教祖殿その他建築物の、地均し工事に取りかかった。
翌(明治)30年 3月17日、教祖殿の上棟式。
明治31年の春季大祭に、事務所・居宅・炊事場等 増改築の落成奉告祭を執行した。 - 明治31年の中元祭の後の郡山分教会役員会議の席上、万田万吉 島ヶ原支教会長から平野楢蔵 郡山分教会長に、かつて頓挫した島ヶ原の分離昇格を、今度こそ実現したい、との願い出が述べられた。
しかし、平野楢蔵 郡山分教会長からの許しは出ず、分離昇格問題は棚上げとなった。 - 平野楢蔵 郡山分教会長と万田万吉 島ヶ原支教会長の意見の不一致に対し、周囲も種々関係修復に努めたがなかなか治まらず、本部から、桝井伊三郎、山中彦七が調整に入ることとなった。
- その結果、島ヶ原は 郡山より分離することとなり、明治31年 11月16日、島ヶ原支教会は分教会に昇格。
同年(明治31年) 12月11日、島ヶ原の分教会昇格奉告祭がつとめられた。 - 島ヶ原分教会は、郡山から分離した頃から教勢不振の兆候が見受けられるようになり、その後、万田会長夫人がにわかに出直すという大きな節も見られた。
徐々に沈滞の気が蔓延するようになり、明治35年頃には極度の困窮に陥った。
万田万吉会長は 進退窮まり、ついに 退職のやむなきに至った。 - 万田万吉会長の辞任に伴い、平野楢蔵 郡山会長が 島ヶ原分教会会長を兼任することになった。
平野楢蔵 郡山会長は、明治37年 9月30日には 中和分教会長をも兼任することとなった為、役員・川 勘五郎が 島ヶ原の「副会長」に指名され、本部の許しも得た。 - 明治40年 6月17日、平野楢蔵会長が出直した為、明治40年 9月10日、川 勘五郎 島ヶ原副会長が3代会長となった。
- 川 勘五郎3代会長は沈滞した部内教会の教勢挽回に力を尽くしたが、あちこちで事情が続出し 財政は行き詰まった。
さらに 万田会長時代の負債等も重くなって、その任を全うすることが難しくなった。
大正2年(1913) 1月28日、川 勘五郎3代会長は 本部に辞職願を提出した。 - 本部より、山沢為造が派遣され、様々な折衝の結果、喜多治郎吉が 島ヶ原4代会長として任命されることとなった。
大正2年 2月14日、喜多治郎吉が4代会長に就任した。 - 大正6年 11月11日、喜多治郎吉が 66歳で出直し。
それを受けて、大正6年 11月21日、喜多秀太郎が5代会長に就任。
翌年(大正7年) 1月23日、5代会長就任奉告祭が執り行われた。 - 大正15年 6月30日、喜多秀太郎5代会長が、 2代真柱の教育に専念するため辞任。
これにともない、大正15年 7月22日付をもって、役員・中森駒蔵が6代会長に就任した。 - 中森駒蔵6代会長は、 昭和15年 2月26日に 中森芳一に会長職を譲った。
昭和15年4月、大教会昇格奉告祭と併せて、中森芳一7代会長就任奉告祭が執行された。 - 昭和34年 9月26日、神殿建築 及び 付属建物増築 及び 正門位置変更の願が出され、
昭和37年10月20日 鎮座祭、翌10月21日に奉告祭が執行された。 - 昭和44年 3月26日、中森芳一7代会長が辞職し、中森芳次が8代会長に就任した。
昭和44年 6月21日、8代会長就任奉告祭執行。
当記事では
『天理教事典』の中の「島ヶ原大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
お恥ずかしい話ですが、昔、私は、
島ヶ原大教会を、九州の大教会だと思っておりました (^^ゞ
「島原の乱」の【島原】と、勝手に混同していたのですね。
長崎の島原とは全く関係ない、三重県伊賀地方の「島ヶ原」!
そのことを知ったのは、割と最近です。
お恥ずかしい… (#^^#)
それはともかく、
今回もまた、本当に全く知らないことだらけでした。
島ヶ原大教会は、
伊賀方面で個別的に信仰し 講社を結成していた人々を
統合するところから出発した教会だったのですね。
島ヶ原大教会初期の歴史を勉強して、
何よりも印象深かったのは、
万田万吉 初代会長の強い個性でした。
郡山から分離独立するにあたってのやり取りは、
万田万吉先生の独立志向の強さが際立っていて、
万田先生のことをよく知らない者にも、
上昇志向旺盛でチャレンジ精神に満ち溢れたお人柄が ヒシヒシと伝わってきます。
伊賀地方に分散していた講社をまとめるにあたっては、
きっと、万田先生の力強さが必要な部分が多々あったことでありましょう。
また、その後の、東北その他全国へのめざましい教勢拡大も、
万田先生の力強さに後押しされた面が大きかったに違いありません。
しかし、
島ヶ原が郡山から分離した後、
万田先生の奥様がにわかに出直され、徐々に沈滞の気が蔓延。
極度の困窮に陥って、万田万吉先生が退職のやむなきに至った、という史実――
「成ってくるのが天の理」という教えに照らして考えるならば、
そこから、様々な教訓を引き出すことができるかもしれません…
ただ、お断りしておかねばならないことは、
私が 島ヶ原が郡山から分離独立するにあたってのやり取りに関して参考にしているのは、
『天理教事典』1977年版の解説文のみだという事です。
当事者、関係者の方々からすると
この記述内容は事実と異なる! と感じる部分があるかもしれないし、
表には現れていない深い事情が潜んでいるかもしれません。
表面だけを眺めて、浅い決めつけをしてしまうことのないように
くれぐれも自戒しなければ…と思います。
あくまでも、当ブログ記事は、
『天理教事典』(1977年版)の記述内容を書き写すことで天理教大教会の初期歴史に触れる、
という自己学習を目的としてまとめたものであり、
厳密な正確性には重きが置かれていない、という点を
改めて、書き添えさせて頂きます。
もしも、その曖昧さがもとで不快な思いをされた方があるならば、
深くお詫びを申し上げます。
いずれにしても、
その他のことも含め、今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「島ヶ原大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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