Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号118番「本愛大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号119番「本芝大教会」について勉強します。
なお、今回は、『天理教事典』記述に史実の隙間が多く『天理教事典』解説文のみでは流れがよくわからなかったので、一連の書写文流れの中に 高橋定嗣著『大いなる慈母』の記述も配置させて頂きました。
ご了承ください。
- 本芝大教会(ほんしば だいきょうかい)
- 白木原家入信のきっかけ
- 白木原明吉の経歴
- 白木原明吉の転落(明治31年)
- 白木原明吉の東京転出、家族呼び寄せ(明治32年)
- 東京でも相場にのめり込む白木原明吉の生き様(明治31年)
- 中川よし東本初代会長と白木原アキヨの出会い(明治34年頃)
- 中川よし東本会長の命を受け、白木原夫妻の布教開始(明治43年頃)
- 布教所から教会へ=家探し、本芝宣教所の開設(明治45年/大正元年)
- ご本部大正ふしんへ神殿丸柱1本のお供え(大正5年頃)
- 白木原明吉 初代会長の身上 ~ 出直し(大正5年~大正6年)
- 白木原明吉 初代会長の出直し後の 教勢発展
- 白木原アキヨ2代会長の就任(大正7年)
- 更なる教勢躍進、付属屋の修繕(大正13年)
- 本芝支教会へ昇格(大正13年)
- 神殿ふしん(昭和5年~昭和7年)
- 本芝分教会へ昇格(昭和9年)
- 白木原アキヨ2代会長の出直し(昭和10年)
- 白木原 保3代会長の就任(昭和10年)
- 本芝大教会へ昇格(昭和18年)
- 大教会昇格後、太平洋戦争 動乱の時代(昭和18年頃~昭和20年頃)
- 白木原明宏4代会長の就任(昭和22年)
- 伸びゆく本芝の道(昭和30年頃~昭和50年頃)
- おわりに
本芝大教会(ほんしば だいきょうかい)

白木原家入信のきっかけ
白木原家は、
明治39年(1906) 11月3日、
明吉・アキヨの次男・肇の病気 (腹膜炎) をきっかけに、
東本支教会の信者・沢野春吉の導きにより 入信した。
白木原明吉の経歴
(白木原)明吉は、
明治2年12月20日、
大分県西国東郡 臼野村山畑で、父・常七、母・ハツ の長男として生まれた。小学校を卒業後、豊後高田の町へ出て 野村呉服店に奉公した。
よく勤めたので、明治27年にのれんを分けてもらい、(大分県西国東郡の) 芝崎というところで「柏屋」という屋号の呉服商を営むようになった。翌(明治)28年、(白木原)明吉は、
同県(大分県) 同郡(西国東郡) 田染村池部(の) 安岡幸平・タン の 2女・アキヨ と結婚した。翌(明治)29年2月15日に (白木原夫婦の間に) 長男・保が生まれ、家業も順調にいっていた。
白木原明吉の転落(明治31年)
(そのように順風満帆に進んでいた白木原明吉の人生に、突然、転落が訪れた。)
(白木原)明吉は、ふとしたことから 米相場に手を出した。
その米相場において、大失敗をし(てしまったのである。
それによって、それまでコツコツと築き上げてきた 明吉の) 店も家財道具も、(すべて) 人手に渡ってしまった(のだった)。(その)被害は (それにとどまらず) アキヨの実家・安岡家にも及び、田地1町歩を売る破目に(まで)なった。
そのため、(白木原)明吉の父親・常七は、福岡県小倉へ借金を頼みに行った。
(そうしたところ、白木原常七は、なんと)そこで、不慮の死を遂げてしまった。(八方ふさがりとなった白木原)明吉は、妻子を (妻の実家である) 安岡家にあずけ、東京に出た。
(ちなみに、白木原明吉が大分を出た)のは (父親が不慮の死を遂げた) その後間もなく(のこと)で、明治31年5月頃であった。
白木原明吉の東京転出、家族呼び寄せ(明治32年)
(東京へ出た白木原)明吉は、(東京都東京市)下谷区松葉町に住み、油行商人として新しい道を踏み出した。
(そして) 多少 東京の暮らしが身についた 翌 明治32年の夏ごろ、九州 (大分) から妻子を呼び寄せ、東京での生活が始まった。
東京でも相場にのめり込む白木原明吉の生き様(明治31年)
(白木原)明吉は、
(大分において米相場に手を出し大失敗したにもかかわらず)
東京へ出てからも、(過去の失敗に懲りることなく) 相場に手を出し(た。そして、東京に出てからも、また)失敗を重ね(た。
白木原明吉は、相場に失敗する) その度ごとに 貧のどん底に落ち(ていっ)た。(明吉の相場による損失が重なった結果、白木原一家は) 住居を変え、職も変えて、(ついには) 社会のどん底の生活を送るまでに落ちぶれていった。
中川よし東本初代会長と白木原アキヨの出会い(明治34年頃)
この間の明治34年8月24日、2男・肇が生まれた。
ある日、家に出入りしていた 沢野春吉夫妻が訪ねてきて、
「お子さんが病気でお困りだと聞いておたずね致しましたが、本当にお気の毒です。おせっかいのようですが、月日親神様におすがりして たすけていただいたら…」と言った。そこで、(白木原)アキヨは、案内されて、厩橋にある 東本支教会を訪れた。
そして そこで、中川よし会長から (教理の)話を聞いた。
(中川よし会長から直々に語られた教理は 白木原アキヨの 心の奥深くまで突き刺さり、アキヨは 強く 魂を揺さぶられた。
自らのいんねんを悟ったアキヨは、これ)以後、(中川よし会長から) 指導丹精を受けることとなった。
高橋定嗣著『大いなる慈母』より
よしが最も厳しく仕込んだ人というと、本芝大教会二代会長・白木原アキヨをあげなければならない。
アキヨが、この道の話を聞いたのは、明治三十九年三月頃のことと思われる。
アキヨは二男・肇の出産後、身体を悪くして、やがて血脚気を病み、養生のため郷里大分県西国東郡田染村へ帰った。
その留守に、夫・明吉 (本芝初代会長) が かつて 口入れ業を営んでいた時 世話をしていた女が、明吉のところに入りこんでしまうのである。
夫婦然とした二人の所に、アキヨは帰ってくる。
アキヨの苦しみが 始まるのである。
当時、本郷春木町で小間物屋を営んでいた白木原明吉と 本所外手町三八番地 (現在・東本大教会境内地) において 紙箱製造をしていて熱心な信者であった 沢野春之助とは 取引関係があった。
沢野春之助は 白木原家の複雑な有様を 既に知っていた。
当時 二十三歳であった沢野春之助は 十六歳の時に 結核性脳脊髄膜炎を助けられ、この道の信仰のありがたさを肝に銘じて、布教を志していた。
見れば 子供の肇も 重病にかかっていた。
沢野春之助は アキヨを気の毒に思った。
何とかたすかってもらいたいと、ある日 アキヨを訪ねる。
沢野は 熱心に話をした。
アキヨは 天理教のことは 知らなかった。
しかし 月日親神様の教えと聞いて、アッ と思うことがあった。
かつて 郷里にいた時、長男の保 (本芝三代会長) が 三歳の時、重病にかかり 死にかけたことがあった。
その時、毎夜 お月様にお水をささげ、その水を飲まして 不思議にたすかったことを思い出した。
月日親神様ならば 二男の 肇の命をたすけて下さるかもしれないと思った。
アキヨは 沢野に案内されて 外手町の 東本支教会の門をくぐり、よしに会った。
よしは 沢野から アキヨの事情をきくと、ポロポロと涙をこぼして、
「あなたの家は いんねんは深いし、神様の思召のある家です。
あなたも随分苦労しましたねえ」と言った。
その言葉には 親が子をいたわるような やさしさがあふれていた。
「あなたは 夫に苦労し、子供に苦労し、親戚縁者に苦労するいんねんがあります。
世の中の人は、みんな そのいんねんに流され、いんねんに泣き、いんねんにもだえて苦しみながら、いんねんを逃れることは出来ません。
これから 神様のお話をしっかり聞いて、深いいんねんを切り、末代まで結構にして頂ける徳を積ましてもらいなさいね」
アキヨは こんな偉大な人に 今まで出会ったことがなかった。
話は 決してうまくなかった。
が、よしの顔を一目見るなり 心の底から懐かしさがこみあげてくるのだった。
よしの目は澄み切っている。吸い込まれるような気持ちがする。
言葉は 東京弁のまじった関西弁だった。
よしの話を聞いている間、アキヨは 現実の苦しさを忘れることができた。
アキヨは 心底思った。
「人間、同じ一生を送るなら、こういうお方にすがって、生き甲斐のある苦労をしてみたい」
ところが 明吉は天理教は反対だった。
肇のおたすけに 東本のおたすけ人が行くと、明吉は 追い返した。
この年の四月四日、前日から大雪が降り、この日も雪の舞う中、幼い肇は 息を引き取った。
長男の保は 九州に行っていて留守である。
アキヨがどんなに悲嘆にくれたか 想像に難くない。
アキヨは 肇の位牌と一緒に 階下の部屋にやすむようになる。
夫は 女とともに 二階にやすむ。
肇が死んでから、白木原家でのアキヨの立場は 実に奇妙なものになった。
アキヨは 深夜、本郷から厩橋に近い東本まで 歩いて参拝した。
今のアキヨには、東本の会長である よしの言葉だけが頼りだった。
(深いいんねんを切らしてもらわねばならぬ。子孫末代までの徳を積まして頂かねばならぬ)
当時は 警察からの達しで、夜十時以降は 教会の門を閉じなければならなかった。
東本の門前にぬかずいて、アキヨは 一人遠い道を帰った。
そのことを 明吉と女に こもごも責められた。
そうしたことが積もり重なって、あまりの辛さに、アキヨは 遂に 死を決心した。
これが最後 という気持ちで 東本に参拝し、神様にお別れを告げて、教会の門を出た。
その時ちょうど、よしが拝殿に出て来て、門を出るアキヨの後ろ姿を チラッと見た。
その瞬間、よしの心に 霊感のようなものがひらめいた。
「春子!」
よしは 側にいた娘に 大声で言った。
「春子! 早く行って、白木原さんを連れておいで! 早く!」
あまりの大声に 春子は驚き、下駄をはく間もなく、はだしで飛び出して、アキヨを連れて来た。
「白木原さん、今日はもう遅いから、教会へ泊まって行きなさい」
よしは やさしく言った。
当時の東本には 池があった。
「この池でも死ねる」と思ったアキヨは 泊まることにした。
よしは、住み込みの 明山と長谷川の二人の男の先生を呼んで ひそかに、
「あんたたちは、今晩は 寝ずの番ですよ。
白木原さんが死のうと思っている。
今日は何を聞かしても駄目です。
死なしてはならんよ」と 命じた。
翌日、幾らか心の落ち着くのを見て、よしは、この道の話を 諄々と 説いて聞かした。
アキヨは この後も、何回も 死のうとしている。
ある時は 鶯谷の踏切にいた所を、明山丑之助 (本阪分教会初代会長) に助けられている。
(高橋定嗣『大いなる慈母』P,151〜P,154)
高橋定嗣著『大いなる慈母』より
その後、十二歳の長男・保が 大分県から帰って来た。
これが アキヨの心の支えとなった。
アキヨは 保を連れて 東本へ参拝に通うのだった。
よしは 夜遅くまで起きていた。
ふとんを着て寝ている姿を見た者がなかった。
夜 どんなに遅くとも起きているし、朝 どんなに早く起きても、既に よしは起きていた。
だから 当時の東本に住み込んでいる子供達は、「うちの会長さんは世界一偉い人だ」と思っていた。
また 夜警番をしていた本平分教会前会長の 金子孔次も、一晩のうち 何回も夜廻りをする時に、会長宅の前を通ると、どんな夜の夜中であっても、必ず「ご苦労さま!」と声がかかるので、会長宅の前を歩く時は 抜き足差し足で行った。
しかし どんな時も「ご苦労さま」と 声のしない時はなかった、と 述懐している。
信者たちが閉ざされた門の外から賽銭をあげ、熱心に参拝して帰って行く。
よしは、その柏手の音を聞いて、今、誰々さんがこれこれのお願いで参拝している、私もこちらから添い願いを致しましょうと、いちいち お願いをした。
「今夜も、白木原さん母子が、お湿りに来られる時間だねえ」
と アキヨを心待ちしていた。
そして 陰から一緒にお願いをした。
しかし、一度も門を開けて「さあ、おはいり」と声をかけなかった。
「苦労は 道の宝。道の種まき。
白木原さんは 今 苦労の最中です。尊い姿です。
それを 側から声をかけて、種まきをやめさせてはなりません。
苦労している時には、苦労をさせてあげなければ…」
そう 側の者に言って、よしは よく涙ぐんだ。
(高橋定嗣『大いなる慈母』P,154〜P,155)
高橋定嗣著『大いなる慈母』より
そうして 遂に、アキヨの夫・明吉に 回心の時が来る。
明治四十年四月のある日、明吉は 脳溢血で倒れた。
よしは、自分の命を 十年 神様にさし上げて、明吉の命をおたすけ下さい と、お願いした。
その通り 白木原明吉は元気になって、十年後の 大正六年に出直すのである。
明吉は、神一条のおたすけ人に生まれ更わった。
そして 東本に住み込む。
アキヨも 小間物商の残務整理をし、女の問題を片付け、東本へ住み込むこととなった。
丁度 小学校を卒業した保を連れて 教会へ入ろうか、どこかへ預けようか と迷って、よしに相談すると、
「白木原さん、あんたも 随分苦労しました。
親子夫婦が離ればなれで苦労して、やっと一緒になれるか というところです。
それだけに 保さんがいとしく 手離したくないと思います。
でも 数会という所は、善人ばかり集まっている所とは違います。
いろいろのいんねん持ちがいます。
そのいんねん持ちが いんねん果たしをさせてもらいたいと思い、神様の教えのままに努力し 実行しているのが 教会です。
腹の立つことも苦しいこともある。
それを通り抜けるのが 成人の道すがらですが、あんたがどんなに気丈夫でも、子供の情にひかされて道が通れんということがあってはなりません。
そこで むごいことのようですが、この際、情を断ち切って、保さんにも苦労してもらって下さい」
よしも 東京布教の時、庫吉と春子を、親子の情愛を断ち切って郷里において来たのである。
保は 日本橋の 星島洋反物店に奉公に出た。
アキヨは 東本に住み込むことになった。
「よろしいか。
教会は掃き掃除、拭き掃除は 行のはじまりです。
それだけでは 当たり前。当たり前は 当たり前のご守護しか頂けません。
あんたには、もっと大きい理を頂いてもらいます。
あんたには 炊事勤めをやってもらいます。
教会の炊事は 難しゅうおまっせ。
教会の勤め人の心を生かすのも殺すのも、炊事の人の心一つです。
人だすけの心の 台造りなのです」
この時、東本支教会 (部内五ヵ所) には 約百人の住み込み人がいた。
当時の東本は 朝日の昇る勢いで、信者たちや布教者の出入りが盛んで 夜が昼やら、昼が夜やら 区別のつかぬ状態であった。
炊事場も 朝早くから夜遅くまで仕事があった。
住み込み人は どんどん増えてくる。
アキヨは、東本に来た 明治四十一年九月から 布教に出る明治四十三年九月までの丸二年間、遂に ふとんを着てねまきをつけて寝ることはなかったといわれる。
いつも帯をしめ、炊事場の火鉢にもたれたまま、うたた寝をした。
よしの仕込みは 厳しかった。
食事は、会長も役員も 住み込み人も みな同じものだった。
一汁一菜を 厳格に守らなければならなかった。
たまに 珍しいものを少し頂いた時、皆に分けるわけにもいかず、会長の子供さんにというのが人情だが、そんなことをすると、よしは 厳しく叱った。
「白木原さん、あんたは 私の子供がそれほど憎いのですか!
ひと様より余分に頂けば、それだけ私の子供の徳がつきて、天恩天借が重なってしまう。
憎いと思うならやりなさい!」
さすがのアキヨも これには 呆然とした。
しかし 後でよく考えてみると、
(ああ、この会長様は 何と偉大なお方なのだろう! 人の子よりわが子が可愛いのが人情なのに。稀に見る偉大なお方だ!)
と、しみじみ 思うのだった。
(このような会長様のもとで、通らせて頂ける私は 何という幸せ者だろう)
ごはんを焦がすと「心の誠が足りない」と仕込まれた。
「一粒のお米の中にも、月日親神様のお心がこもっている。
信者さんが 容易ならぬ中を、真心をこめてお供えして下さったお米です。
それを 一粒なりと粗末にするのは、人の誠の心が 分からないのだ」
アキヨは 大抵 大勢の住み込み人や信者の前で叱られた。
よしは アキヨを台にして 皆を仕込んだ。
「はいっ、申し訳ございません。以後気をつけさせて頂きます」
アキヨは 板の間に額をすりつけてお詫びした。
住み込み人の中に 胸を思う人がいた。
よしは アキヨを呼んで、こう言った。
「あの人は 徳がつきている。
可哀そうだと思ったら徳を積ましてあげなさい。
タクアンならば尻尾、人の残りものをあげるんだよ」
このきつい言葉を、アキヨはそのまま実行できなかった。
そんなむごいことはできなかった。
そっと 人並みのものをあげると、その人の病状は悪化した。
よしはアキヨを呼んで叱った。
「私があれほど頼んでも、私のいうことを聞いてくれないのですか。
あんたは あの人が死んだらいいと思うのですか!」
よしのきつい激しい言動も、人をたすけたい心のきつさと やさしさのあらわれに他ならなかった。
アキヨは叱られながら、よしの親心の大きさ、真実の広さに 感じ入った。
よしの仕込みは いよいよ厳しくなった。
だれかのしたことまで、アキヨ一人がしたように叱った。
アキヨは 決して弁解しなかった。
仕込んでいる よし自身も 決して弁解しない生涯を送ったのだ。
しかし、よしは 無闇に アキヨを叱ったのではなかった。
人のいない時、アキヨを呼んで言った。
「白木原さん、あんたには人のしたことまで、やかましく小言を言うけれど、ほかの入り込み人に毎日眠しく仕込んでごらん。
みな教会を飛び出してしまうでしょう。
あんたは、どんなに仕込んでも教会から逃げ出してしまわん。
それで 他人の分まで遠慮なく仕込むんだよ。
あんには、みんなの仕込みの台や。あんたを台にして、私はみんなに仕込んでいるんだよ。
台は大きい理を頂くことができるんだよ」
やさしくやさしく、よしは話した。
炊事場の戸棚に、カビだらけのスルメがあった。
もったいないと思って、アキヨはカビを水で洗い落とし、水に漬けて柔らかくし、それを細かく切って塩につけ、イカの塩辛として、正月の食膳に出した。
住み込み人は大変喜んだが、よしからは叱られた。
「おたすけ人が食べ物に心を寄せて、人だすけの心が薄くなっては、神様に申し訳ない」
と言われた。
また ある時、鮭の頭が タダ同様の値段で店先に投げ出されているのを見て、アキヨは買って帰り、丹念に切り刻んで、やわらかく煮て、甘露煮にして 皆の前に出した。
よしは アキヨを呼んだ。
皆に聞こえる大声で、
「あんたは、何という きめ込みの強い人だ! あれほど贅沢はしてくれるなというのに、甘露煮などを作って!」
よしは 鮭の頭の甘露煮が金がかかったと思って 叱ったのではなかった。
「お道の者は、わが身わが家のことを思うてはならんのだよ。
人様をたすけ、神様から喜んで 頂くことを考えていればいいのです。
食べ物に心を寄せて人だすけの心がゆるんでは神様に申し訳がないのです。
分かりましたか」
「はい、申し訳ございません」
だが、よしは 後から、「白木原さん、ちょっとおいで」と会長室へ呼んで、
「あの塩辛や甘露煮は みんなが大喜びでした。
あんただからこそ、あの すたるものを生かして下さった。
すたるものを生かして使うことが、おたすけなんだよ。
神様が一番お喜び下さいます。
だから 炊事場で働いていても、ものを生かし、人を喜ばせていれば、何も外に出なくても おたすけと同じなんだよ。
その日々の理によって、布教に出た時、おたすけがあがる理が出て来るんだよ」
叱りながら、よしの言葉は 偉大な教訓となってくるのが 常だった。
(高橋定嗣『大いなる慈母』P,156〜P,161)
中川よし東本会長の命を受け、白木原夫妻の布教開始(明治43年頃)
明治43年8月上旬、
(白木原)明吉とアキヨは、中川よし会長から、突然 (布教に出るように、と)の命を受けた。
(それで、白木原夫妻は、東本支)教会から 電車賃として27銭をもらい、
品川駅近くの小路に 長屋を見つけ、布教を開始した。
高橋定嗣著『大いなる慈母』より
明治四十三年八月上旬のある日、夜も更けた頃、よしの部屋から 急に声がした。
「白木原さん、いやはらんか。アキヨさん、いやはらへんか、いたら呼んで来てんか」
炊事場の隅で釜の裏の炭を落としていたアキヨが伺うと、
「白木原さん、あんた、すまんが布教に出てもらいたい。たった今から教会から出て行ってほしい」
アキヨは呆然とする。
余りにも突然である。
アキヨは東本に住み込む時、この偉大な母のような会長様のもとで生涯ひのきしんをさせて頂きたいと願い、自分が将来布教するなど考えたこともなかった。
「明治四十三年九月三日 (注、八月の誤りか)、
神様ノ御急キ込ミニヨリ、住込人 六人ニ対シ、東本分教会長ヨリ、突然 布教ノ御指図アリ、
余リ 早急ノ事トテ、一同 驚愕セシモ、各々 思ヒ々々ノ箇所ニ 出テ行キヌ。
私ハ 取リ敢ズ、信徒某ノ家ニ 一泊シ、翌日 再ビ 教会ニ赴キ、会長ヨリ改メテ、芝方面ヘ布教ノ御指図ヲ頂キ、高輪南町ヲ 選定スルニ 至ル、
之レ 実ニ 布教宣戦ノ 第一歩ナリ」
(「天理教伝道者に関する調査」――本芝支教会)
こうして 明治四十三年九月二日には 布教所開きが行われ、七軒続きの長屋の一軒、三畳と六畳の借家から、本芝大教会は その歴史を 歩みはじめたのである。
(高橋定嗣『大いなる慈母』P,161)
布教所から教会へ=家探し、本芝宣教所の開設(明治45年/大正元年)
明治45年(1912)、(白木原明吉とアキヨは) 中川よし会長から、
「あんたたちが布教に出てから、もう3年になる。こんど布教所を教会にしてもらいなさい。
いま、御本部では、教祖の30年祭を4年先に控え、神殿・教祖殿のごふしんに丹精を尽くしておいでになる。
あんたたちも、この際、この働きに加えてもらいなさい。
それについて、まず家を探しなさい」
という命を受けた。中川よし会長は、(白木原) 明吉・アキヨ夫妻と共に家を探し、高輪に貸家を見つけ出した。
「白木原さん、さあ この2軒目の家を借りなはれ」
「会長様、ここは殺人のあったところで、街の人さえ逃げようとしている土地ですよ」
「白木原さん、それが結構や。
人のいやがる場所に万人たすけの寄り所を作らしてもらって、いやな場所を楽しい場所にさしてもらう。それがお道やないか」
と諭された。これが大正元年8月30日のことで、この時、信者は すでに 108戸であった。
そして 同年(大正元年) 12月4日、
(天理教教会本部より)「本芝宣教所」の許しを得た。
高橋定嗣著『大いなる慈母』より
白木原明吉、アキヨ夫婦は 久し振りに 共に生活をすることになる。
アキヨは 東本で生涯ひのきしんさせてもらおうと思っていたので、まだ おさづけの理を拝戴していなかった。
明吉とアキヨは 毎日 未明に起きて、東本まで歩いて参拝し、帰りも また歩いて、にをいがけをしながら帰って来るという日常だった。
もちろん、信者は一人もいなかった。
保も 丁稚奉公をやめて布教所へ帰って来た。
ようやく 親子三人の生活が、布教中の 赤貧洗うが如き中でも出来ると思ったのも束の間、よしの命令で 明吉は また 東本勤めとなる。
そして 保も 東本の青年として 住み込むことになる。
本芝布教所は その後 アキヨの活躍により、着々と実績をあげ、信者も 相良こと、その娘のふさ、小間物商の永田和平、渡辺まん、そして 藤井定次郎、豊次郎兄弟が 入信する。
藤井豊次郎は のちに ふさと結婚し、田中豊次郎となり、本荏大教会の初代会長となった。
ある日、よしは白木原夫妻を呼んで、
「あんた達が布教に出てから、もう三年になる。
今度 布教所を教会にしてもらいなさい」
と言い渡した。
そのためには、今の家では狭すぎる、もっと大きな家を探すように、とのことであった。
明吉とアキヨは、連日 家を探し歩いた。
だが、適当な家は 見つからなかった。
よしからは、何をしているのか と矢の催促である。
ある日、よしは、
「いつまでも家を授けてもらえないのなら、私も行って探そう」
ということになり、よしが先に立って、高輪から二本榎あたりに出ると、借家は あちこちにあった。
「白木原さん、家はなんぼでもあるじゃないか。
こんなに借家があるのに、家がないとなぜ言いなさる。
さあ、この二軒目の家を借りなさい」
よしが出て来ると、たちまち決定した。
これが 現在の本芝大教会の所在地である。
しかし、この土地は この辺りの住人にとって、大変な土地であった。
「当時、二本榎ハ 五人殺二 有名ナル地トテ、空屋多ク、住ム二人ナク、雑草 生ヒ繁リ、夜ハ 殆ド 往来絶エ、虫ノ音ノミ 寂莫ナリシモ……」
(「天理教伝道者に関する調査」――本芝支教会)
この家の近所の 汽船・上川丸の 船長の留守宅で、母子四人、女中一人が惨殺されたのである。
しかも 犯人は まだ見つかっておらず、この事件が未解決のままでいるうちに、瀬戸物屋の夫婦が殺され、その上 その近くに また人殺しがあった。
そのため だれも怖がって寄りつく者もなく、この町の人々も ぞくぞく移転をしている という場所だった。
「会長様、ここは 殺人のあった町で、町の人達すら 逃げ出そうとしている土地でございます」
というと、よしは、
「白木原さん、それが 結構じゃないですか。
人のいやがる土地に、万人たすかる寄り所をつくらしてもらって、いやな場所を楽しい場所にさせてもらう。それが お道じゃないの。
それが 神様に受け取って頂き、教祖に喜んで頂ける道なんだよ」
明吉とアキヨは なるほど と思った。
こうして、本芝宣教所は、東本部内で 第二十二番目の教会として 設置された。
(高橋定嗣『大いなる慈母』P,162〜P,164)
ご本部大正ふしんへ神殿丸柱1本のお供え(大正5年頃)
(大正5年) 教祖30年祭を迎え、
(天理教)教会本部では、神殿・教祖殿・祖霊殿、その他のふしんに大わらわであった。全国各地の教会はもちろん、信者の先々まで、この神様の大普請完成のために全力を捧げていた。
中川(よし)会長は、(天理教教会)本部へ参拝し、帰京後 (白木原)アキヨ を呼んで、
「このたびの御本部のご普請につき、東本では神殿の丸柱3本の御用を頂戴してきました。それで白木原さん、あんたとこに1本あげるよ、しっかり働らかしてもらって、しっかり尊いぢばの理をいただくんですよ」と言った。これは、(その頃の) 本芝としては (人間思案では到底実現不可能と思える程の) 大きなご用であった。
何分にも、(本芝が) 宣教所になって、(まだ) 1ヵ年少々しか経っていない。いわばヨチヨチ歩きの子供である。
しかし、 (白木原)アキヨは (中川よし会長の言葉を) ただ「はい」と受けた。
(白木原夫妻にとって) 中川(よし)会長の声は、神の声であった。(白木原)明吉・アキヨは、(御用完遂に向けて) 敢然として進んだ。
時はさし迫っている。
5家族が切り替えて布教専務に進み、教会へ住み込む者は23人になった。
「これでいいのか」と(白木原)アキヨ は自問自答し、情愛の絆の中にさ迷い、親神に教えを乞い祈った。(そのような) 自らを厳しく律し 信仰のために(すべてを)捧げきった (白木原アキヨの) 生活に、信者たちは心から(の)信頼を寄せ、この人の後に従った(のだった)。
高橋定嗣著『大いなる慈母』より
その頃、おちばでは大正普請の最中であり、教祖三十年祭を目前に控えて、神殿 (北礼拝場)、教祖殿、祖霊殿の普請のために、全国の教会、信者が勇みたっていた。
ある時、よしは アキヨを呼んで 言った。
「この度の ご本部のご普請について、東本では、神殿の丸柱三本のご用を頂戴して来ました。
それで、白木原さん、あんたとこに一本あげましょう。しっかり勤めさして頂いて、しっかり尊いおちばの理を頂くんですよ」
アキヨは、「はい」と受けた。
宣教所になって一年経つか経たないかの本芝にとっては、背負いきれるかどうかという大変なご用であった。
丸柱一本は当時で千円なのだ。
当時の 東本分教会の教勢は 部内二十四ヵ所であった。
設立したばかりの 本芝に、東本が 高安から頂いて来たご用、三本の内の一本を与えたのであるから、いかに、よしが「仕込みの台」として育てた アキヨに、本芝に 大きな期待をかけていたかが分かる。
しかも、当時は 東本の 直轄信者が非常に強く、部内からの お供え金は ほとんど当てにしていなかった という時である。
やがて、その素直に受けた理が 吹いて来る。
入江家とその親戚の岡田家が 全財産を納消して 生涯 天理教一筋で通ることを決心するのだ。
総勢十五人が 住み込ませてもらいたい と願い出て来たのである。
アキヨは よしに 相談に行った。
よしは 喜んで、
「神様の思惑は 一夜の間にも と仰せられているように、本芝に そういう結構な理があらわれて来たことは、先々 大きくなる理です。
喜んで引き受けさせてもらいなさい」 と言った。
ところが、本芝宣教所には 畳の部屋は 参拝場を入れても、四畳半と六畳の二つしかなかった。
そこに、その筋の人が 実態調査に来た。
アキヨは 思い悩んだ末、また、よしをたずねて、この問題について 指図を仰いだ。
「白木原さん、何も そんなに心配することいりません。
神様は、死なしゃしません。
子供さんが多くて困るなら、私のところへ連れておいで。
私の手許で 育ててあげましょう」
よしは、いつでも 布教者たちの偉大な母親だった。
布教者たちが困ることは、何でも引き受けてくれるのだった。
アキヨは よしの前で 泣き伏してしまった。
子供達のことは、入江、岡田両家にとっても 心配の種だった。
アキヨから、東本の会長様が育てて下さる という話を聞いて、一同の者は、厩橋の 東本分教会の方を向き、柏手を打って、目に見えぬ会長を拝んだ。
「このご恩は 生涯忘れません。このお慈悲にお応えして、私ら親たちは 命懸けで布教さして頂きます」
と 声をあげて泣いた。
入江家は 八歳の薫 (本理世分教会長) と 六歳の千代子 (本理世部内・本芝庄布教所長) を、岡田家では 十一歳の静子 (本道分教会前会長)と 八歳の省三 (山本家へ養子に入り、本芝耕分教会初代会長) を 預かってもらうこととなった。
東本分教会には、こうした布教者の子供達が 五、六十人ぐらい いた。
これらを 直接 面倒を見たのは 春子だった。
春子は 婚期を過ぎても、自分の結婚を忘れて、子供達を可愛がった。
子供達は 春子のことを「おねえさま」と呼んでなつき、成長して後、「姉想会」というのをつくった。
春子亡きあとも、時折集まって、その思い出を語っている。
よしが、この子供達一人ひとりを いかに大切に育てたかは、「佐治清子の追憶」を読めば分かるが、また 子供達を 真に一己の人間として どんなに尊重したかということが、入江薫の述懐からも うかがえる。
東本に住み込んだ入江薫が 小学校三年生の時であった。
当時、東本からは 大勢の子供が 近くの外手小学校に通っていたが、友達から「お前ら、孤児院の子供だ」と よく言われた。
どうしてだ と聞くと、お前らはカバンがないじゃないか と言う。
その頃の 東本の子供たちは みんな風呂敷に教科書を包んで 通っていた。
入江薫は カバンさえあれば、孤児院の子と言われないで済むと思い、背広をいつもパリっと着こなして参拝する叔父が 東本にやって来た時、岡田省三と二人でせがんで、ズックの肩掛けカバンを 買ってもらったのである。
その日、二人は 大切に枕元にかざって寝た。
ほかの子供たちが大騒ぎをして、
「 いいなあ、いいなあ、ちょっと触らせてよ」と 羨ましがる。
翌朝、嬉しくてたまらない入江と岡田は、少し早目に教会を出ようと、カバンを肩に掛け 門の所まで来た時、会長室にいる よしに見つかった。
当時の 東本の会長室というのは、拝殿も炊事場も玄関も 一度に見渡せるような絶好の場所に作ってあった。
「薫さん、省ちゃん」と、よしが 大声で呼ぶので、側に行くと、
「そのカバンはどうしたんだい」と きかれたので、事情を説明した。
すると、よしは 門の方を指さした。
そこには 次々と登校して行く 東本の子供たちの姿があった。
「ね、二人とも あれを見てごらん。
東本の子供たちは みんなカバンを持ってないんだよ。みんな風呂敷だろ。
薫さんと省ちゃんだけが カバンを持ってごらん。
みんなが どんなに羨ましがるか 分からないよ。
ね、みんなと同じにしてあげてね。
会長さんは、大事なカバンを取るんじゃないよ。預かるんだからね。
ちゃんと返すからね。ね、分かったね」
よしは、九歳の子供に よく分かるように 話してやってから、
「春子! 春子!」と「おねえさま」を呼んで、風呂敷を出させた。
そうして 三年あまりが過ぎ、入江薫は 小学校を卒業して 本芝へ帰ることになった。
その時、よしは 入江を会長室に招く。
「今日は、預かったカバンを返すからね」
そう言って、よしは 入江に真新しいズックの肩掛けカバンを渡した。
入江は 何のことかさっぱり分からなかった。
彼は 三年前のカバンのことをすっかり忘れていたのだ。
キョトンとしている彼を見て、よしは、
「忘れちゃったのかい」と言って、ニコニコ笑っている。
相当あとになってから、入江は ようやく思い出すのだ。
そのカバンは元のものではなかった。
東本は 二人から預かったカバンを そのまま倉庫にしまって置くようなのんびりした教会ではなかった。
また、中学生になる子供に、小学生用のカバンを返すような、そんな よしではなかった。
幅が ずっと広くて 大きい中学生用のカバンであった。
そのほかに、よしは、
「この二十円は本代だよ。手に持ってちゃいけないから、着物をおぬぎ」
と 、入江の帯を解いて、肌につけてやった。
わずか九歳の子供との約束を、その当人が全く忘れてしまっているにもかかわらず、目の回るほど多忙の よしが ちゃんと覚えており、おろそかにしなかった ということは、一つの驚きである。
子供たちは、たすけ一条の香りのプンプンする教会の中で、中川よしという慈母に見守られ、 不自由の中を 明るく元気に育っていったのだった。
この子供たちが 成人した後、ほとんど教会長となり、道の上に 大きな働きをするのである。
(高橋定嗣『大いなる慈母』P,164〜P,169)
白木原明吉 初代会長の身上 ~ 出直し(大正5年~大正6年)
大正5年の秋、上級・東本分教会に勤め中の (白木原)明吉は、からだが思わしくないので、一時暇を貰って 本芝に帰って来た。
この報を聞いて、各方面から見舞客があった。その中の一人である、時の東京教務支庁長・梶本宗太郎が
「教会のふしんをさせてもらいなされ」と 教会建築を勧めた。この諭しに基づいて、会長代理の (白木原)アキヨ以下 役員一同(は、対応を)相談(した。
そ)の結果、普請を実行させてもらおうではないか、ということで皆の意見がまとまった。
(その決議をもって) 中川(よし)会長に (教会ふしんを実行することについて) 伺ったところ、大いに激励され(た。
そこから、本芝一同は、一躍) 普請に取り掛かった。その普請の最中の 大正6年2月2日、
(白木原)明吉は、皆に見守られ、みかぐらうたを唱え終え (静かに) 息を引きとった。
白木原明吉 初代会長の出直し後の 教勢発展
(白木原)明吉会長の出直後、(本芝宣教所の) 教会は、一時ひそやかになった。
(しかし) これまでも (白木原)アキヨが 会長代理として指導してきたこともあり、
(そこまでの大きな)信者の動揺はなく、むしろ (白木原明吉 初代会長の出直しを生き節として、本芝の)教勢は 益々 発展した。梶本(宗太郎) 教務支庁長の勧告による教堂の増改築工事は、大正6年4月に起工した。
白木原アキヨ2代会長の就任(大正7年)
大正7年10月28日、
白木原アキヨが、(天理教教会本部の) 許しを得て2代会長に就任した。
更なる教勢躍進、付属屋の修繕(大正13年)
(本芝宣教所は、幸い) 関東大震災にも災害を受けず、教勢は躍進の一路をたどった。
(そして、教勢躍進に伴い) 教会建物の狭隘が ますます甚だしく感じられるようになった。(そこで、本芝は) 大正13年、付属屋を修繕。
8月3日に奉告祭を執行した。
本芝支教会へ昇格(大正13年)
同年(大正13年) 10月4日、
本芝宣教所から 支教会に昇格した。
神殿ふしん(昭和5年~昭和7年)
昭和5年頃の本芝支教会は、
部属教会 19ヵ所、
年間のおぢばがえりは 1,075名に達し、
教会の住込み人は 80名の大世帯であった。この時に 上級・東本分教会から、神殿建築の声がかかった。
当時、(上級の) 東本分教会では、新しい神殿の普請が進められており、震災直後に建てた神殿はいらなくなるので、本芝支教会にさげ渡してやろう という声がかかった(のである)。
(白木原)アキヨ会長以下 役員一同は、これを頂戴することとなった。(白木原)アキヨ会長は、(本芝一同に向かって)
「神殿は 神様のお鎮まり場所だから、神々しく造ってほしい。拝殿は おたすけの道場だから、材木は節だらけの悪いものでも良い。しかし 一度参拝したら、また参拝せずには居られなくなるような、陽気な、明るい感じを出してくれ」と言った。(白木原アキヨ会長の思いを受けて、一同の誠真実が集結。
ふしんは着実に進み、無事) 神殿が完成。昭和7年10月12日、
快晴にめぐまれ、神殿落成奉告祭が執行された。その後、幾度か境内地の拡張、付属建物の改築、増築等が行われて、
(もう) その頃の面影はなくなってしまったが、
(それでも) 神殿は、今 (※1977年) もなお 当時の姿のままで受けつがれ、たすけ一条の道場として使用されている。
本芝分教会へ昇格(昭和9年)
昭和9年5月25日、
(本芝支教会は) 分教会に 昇格した。
白木原アキヨ2代会長の出直し(昭和10年)
本芝分教会昇格の「お運び」があってのち、
(白木原)アキヨ (2代)会長は 病の身となった。当時 (白木原)アキヨは 東本の理事を拝命していたので、(病を得てからも) 東本に詰めて、病身の中を上級の用に勤め切った。
昭和10年5月4日、本芝分教会月次祭の日(に) 久し振りに 本芝に帰ったが、
祭典には 玉串を奉献しただけだった。(白木原アキヨは) それから本芝で療養。
(そして、昭和10年) 6月21日 午前4時、
64歳をもって (波瀾万丈の) 人生の幕を閉じた。白木原アキヨ の出直しは、本芝大教会史において、最も大きな「節」の一つであった。
本芝の礎石、白木原アキヨ
白木原アキヨは、本芝大教会の 信仰の元であり、教会の生みの親であった。
本芝の初代会長は、その夫・白木原明吉であったが、
明吉会長は、ほとんど 上級・東本に住み込んで、上級の御用に専念した。そのため、教会の方は、高輪の布教所時代から、アキヨが 苦労の中を丹精し尽くした(のだった)。
どの信者も、アキヨ会長の仕込みを受け、日々の生き方を指導された。
そして、明るい信仰の光のもとに、自己の生活を楽しませてもらった。(それは) 教会が大きくなって、信者が多くなっても同様であった。
(白木原アキヨは) 信者の先々・すみずみにまで心を尽くし、誰が今何をしているのか、誰が今何を考えているのかなど、みな知っていたようであった。
(白木原アキヨは) その上で その人その人を 仕込んでいった。本芝の信仰につながる者は、みな アキヨ会長を 親と慕い、その言葉・その行為を通して 親神を知り、信仰に励んだ。
当時の本芝分教会にとって、その会長を失ったことは (言葉にならない程) 大きな悲しみであった。
白木原 保3代会長の就任(昭和10年)
昭和10年9月23日、
(白木原)明吉・アキヨ の長男・保が、3代会長に就任した。
本芝大教会へ昇格(昭和18年)
(白木原アキヨ)2代会長の播いた種は 立派に芽をふいて、
(白木原アキヨ2代会長) 出直し後 10年経った 昭和18年7月27日、
(本芝分教会は) 部内教会 50ヵ所をもって 東本より分離陞級、大教会となった。
大教会昇格後、太平洋戦争 動乱の時代(昭和18年頃~昭和20年頃)
(本芝が、大教会へ陞級した頃、
日本は) 戦争の悪化と共に 動乱の時代を迎えた。(昭和16年の開戦から 昭和20年の終戦まで続いた 太平洋戦争の戦禍は 日本全土に及び、
特に、首都・東京が被った戦争の爪跡は 悲惨にも 多くの教会長・信者の生命を奪い、
(本芝部内の) 戦災教会は、19ヵ所を数えた。
白木原明宏4代会長の就任(昭和22年)
(昭和20年に日本全土を焦土と化した太平洋戦争が終結し、本芝も戦後復興に全身全霊で取り組んだ。)
(そして)
昭和22年、
(白木原 保3代会長が辞任し)
白木原明宏が4代会長に就任した。
伸びゆく本芝の道(昭和30年頃~昭和50年頃)
(白木原明宏4代会長という) 若い会長を戴いた (本芝大教会) 部内は、
(白木原アキヨ)2代会長に植えつけられた信仰を、(より一層) ぢば一筋に向け(た。
そして)
(昭和31年の) 教祖70年祭には、部内 108ヵ所、
(昭和41年の) 教祖80年祭には 130ヵ所 …
と 教会数も増加した。(また) 昭和35年より計画を進めていた海外布教も、
昭和47年4月26日には、ブラジル・ベレン市に「アマゾニア教会」、
昭和48年4月には、ハワイ・ホノルル市に「アイマナ布教所」を設立。(こうして)
(白木原明吉) 初代(会長)・(白木原アキヨ) 2代(会長) によって蒔かれた苦労の種は、見事に開花した(のであった)。(本芝大教会は)
(昭和51年の) 教祖90年祭を目前にして、
部内教会 180ヵ所、布教所 270ヵ所となり、
この中から、本荏分教会が 部内教会 50ヵ所をもって、分離陞級した。〔現住所〕〒108-0074 東京都港区高輪1丁目22−17
〔電話〕 03-3441-0145(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,770〜772)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第119回目の今回は、
「本芝大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 本芝大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして そのまま書写します。
大分県西国東郡にいるころ 相場に失敗し、明治三十一年上京した 白木原明吉 (本芝初代) のもとには、彼が 以前世話した女が 奥様と居座っていた。
そこへ 夫を追い、妻・明代が上京。間もなく 三男・肇は 肋膜炎で 幼い命を引き取った。
その位牌を抱き、夫が女と住む同じ屋根の下に、明代(アキヨ) も 独り寝んだ。
道の話を聞くようになったのは そのころである。四十年、明吉が 脳溢血で倒れた。
よしのおたすけを受け、おぢば帰りし、明吉は生まれかわった。
帰京後、月島布教所に入り込み、三年目、よしの命で 芝区高輪町に布教所を構えた。四十五年、上野の小間物店主・藤井定次郎と弟・豊次郎が入信。
(田中)豊次郎は 後に 荏原郡へ布教に出、本荏の基礎を築いた。大正二年、本郷千駄木町の彫金業・入江貞治・ひで (本理世二代) 夫婦が、貞治の眼病と長男・貞のカリエスから入信した。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,110)
育ての精神伝承
東京は 高輪、本芝宣教所。
大正三年、入江貞治 一家五人も住み込み、本芝家族は 一挙に 膨れ上がっ た。
それを聞いた 東本の中川よしは、子供がいては布教しにくかろうと、貞治の二男・薫 (八歳) と長女・千代子 (六歲) を引き取った。このころ 厩橋の 東本には、布教者の子弟が 五、六十人もいた。
よしは 教養の必要さを痛感し、明治三十七年に、教会住み込み人とその子弟のために 東本夜学校を 設けたほどである。
薫は、東本から 本所の小学校に通い、おたすけ精神の渦巻く中で、たくましく育てられた。
幼年・少年期に染み込んだものほど 強いものはない。薫は 本理世の三代会長になってからも 常に 大勢の住み込み人を抱え、部内の子弟を預かって育んだ。
人をほめ、個々の長所を引き出すというのが、基本姿勢。
「育てば育つ」を実践した。東本からのこの流れは 時代を超え、空間を超えて 今に 受け継がれ ている。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,34)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】119回目の当記事では『天理教事典』の中の「本芝大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
本芝大教会は、東本大教会から分かれた大教会ですね。
東本大教会は高安大教会から分かれた大教会。
すなわち、高安の流れを汲む大教会。
高安大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。
本芝大教会は、
前々回勉強した 本保大教会、前回勉強した 本愛大教会 同様、
東本大教会から分かれた大教会ですね。
東本大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

当シリーズ 前々回 (第117回) が「本保大教会」、
前回 (第118回) が「本愛大教会」、
そして 今回 (第119回) は「本芝大教会」。
前回(第118回)「本愛大教会」の「おわりに」の所でも書きましたが、
「本芝大教会」は
【教会番号117〜119】 → (117番) 本保 ー (118番) 本愛 ー (119番) 本芝、
という「東本大教会」から分離した「教会番号連続 3兄弟」グループ 3番目の大教会 (^^)
ということで、
今回は「東本大教会」連続分離教会シリーズ 3回目でした。

今回は『天理教事典』1977年版「本芝大教会」解説文を書写したわけですが、
『天理教事典』の解説文の中には、白木原明吉初代会長が 回心した経緯や 白木原夫妻が 本格的に布教を始めたあたりの経緯が 書かれておらず、
「ウ~ン、ここからここの間に 何があったのだろう…」みたいな感じで、最初、史実のつながりが把握しきれませんでした。
流れがつかめず 戸惑っていた時に、
そういえば、以前「東本大教会」について勉強した際に読んだ 高橋定嗣著『大いなる慈母』という本の中に、白木原アキヨ先生のことが書いてあったなぁ、ということを思い出しました。
そこで、本棚の奥から『大いなる慈母』を引っ張り出してきて、読み返してみました。
すると、『天理教事典』には書かれておらず 分からなかった部分が バッチリ書いてありました。
それで、今回は、
『天理教事典』「本愛大教会」解説文の書き写し学習本文の合間に、高橋定嗣著『大いなる慈母』の関連文をはさませて頂いた、という次第です。

今回、『天理教事典』「本愛大教会」解説文の書写学習にあたって高橋定嗣著『大いなる慈母』を読み返したわけですが、
読み返して、改めて 深い感動に包まれました。
これまで何度も読んだ 高橋定嗣著『大いなる慈母』ですが、
改めて読み返すことで、かつての感動が また蘇ってきたのでした。
私は、『大いなる慈母』という本の中でも、中川よし東本初代会長と 白木原アキヨ先生の関わりの部分には、特に 強く心を揺さぶられます。
特に、白木原アキヨ先生が あまりの辛さに 死ぬことを決意して、神様にお別れを告げるため 東本大教会へ参拝、
それに気付いた中川よし先生が全力で食い止められたエピソードの部分は、何度読んでも 涙が出てきます。

今回の「本芝大教会」書写学習では、
高橋定嗣著『大いなる慈母』再読の機会をお与え頂いて頂いたお蔭で、お道の原点に思いを致すことが出来ました。
それは、私にとって
「先人ありて今の道」
「たすけて頂いて今がある」
という、たびたび耳にする教語を 改めて肝に銘じる 貴重な機会となりました。
頭でっかちになってしまって、すっかり原点を忘れてしまっていることに気付く かけがえのない機会となりました。
――ということで、
今回の「おわりに」では、くだらない私の感想をダラダラ書くのは控えて、
『大いなる慈母』の書写した部分を何度も読み返して、その感動の余韻に浸ることにしたいと思います。(^^)
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも教会の歴史を知った上で、今の「本芝大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「本芝大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。






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