天理教 各教会の歴史探索(第117回)【本保大教会】『天理教事典』より

「本保大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号116番「甲府大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号117番「本保大教会」について勉強します。

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本保大教会(ほんぽ だいきょうかい)

本保大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビュー より

本保大教会始まり頃の情勢(明治29年)

本保は、東本初代、中川よし の東京布教に始まる。

時は、明治29年(1896) 5月のことである。

この一月前、(明治29年) 4月6日、内務省の秘密訓令が発令された。
これがため、警察の干渉が厳しく、(この頃は) 天理教にとって、(より)一層、苦難の道(中)であった。

進取の気性に富んだ 佐津川亀太郎 初代会長

本保初代・佐津川亀太郎は、当時、
(東京府東京市) 本所横網町で爪掛製造業を営み、住み込み職人を6~7人置いて、手広く商いをしていた。

進取の気性に富んだ (佐津川)亀太郎は、
今まで手縫であった爪革を「ミシン縫」にすることを思いつき (他に先駆けて取り入れた。) 

この「ミシン縫」のお蔭で (佐津川亀太郎の経営する爪掛製造社は) 迅速で大量に しかも安値で 爪革が出来るようになった。
そのため、需要が激増して、追われるような繁忙を極めていた。

佐津川夫妻、中川よしとの出会い(明治29年)

だが、そんな中にあっても、(佐津川)亀太郎の長男・保治が 病気 (脊髓病) を抱えており、(商売の方は非常に繁盛し順調でありながらも、それが 佐津川)亀太郎夫妻の心を痛めていた。

(佐津川 保治の病気(脊髓病) の元というのは)
(佐津川)保治が 6歳の折、階段から落ちた(ことだった。
保治は、それ)が原因で脊髄を痛め、次第に 背骨が彎曲してしまったのである。

(佐津川)亀太郎は、この長男のため、あらゆる手だてを尽くしてみたが、効果はなかった。
(その一方) 亀太郎の妻・クラ もまた、産後の患いのため 家で養生しながら医者に通っていた(のだった)。

(佐津川クラ は、かねてより) 店の内職をしていた 管沼 (天理教信者) から 信仰を勧められていた。
しかし、(明治29年に発令された) あの内務省の秘密訓令以来、天理教に対する社会の批判が一層激しくなっていたこともあり、(ずっと) 半信半疑であった。

そんな折――
(佐津川クラ は、店の内職をしていた ) 管沼に(よって、東本初代の) 中川よし に引き合わされた。
(佐津川クラ は) 中川よし から、かしもの・かりものの教理を諄々と聞かされた。

その話は、すぐに (佐津川クラ の) 胸に響いたわけではなかった。
しかし、(中川)よしの 真実にあふれた言動は、(佐津川)クラの心に焼きついて離れなかった。

(佐津川亀太郎の) 記録によると
「妻ハ 明治29年ノ頃、天理様ニテ 長男ノ固疾ナル 脊髓病ガ癒ユト聞キ、助ケタキー念ヨリ 私(ヒソ)カニ 教理ヲ聞キヰタル様子ニテ、尚又 自宅ノ雇人某 (注小沢) モ、南ノ教会二信仰シヰタルコトアリ、
時ニオ話ナド ナセル様ナレド、更二信頼スル意志ナク、
且又、布教師モ 二度 自宅二見エシモ 風采卑シク、到底 信頼スル底ノ心モ 湧カザリシ」
とある。

「妻は 明治29年の頃、天理様にて 長男の個疾なる 脊髄病が癒ると聞き 助けたき一念より ひそかに 教理を聞きいたる様子にて、なおまた 自宅の雇人某 (注小沢) も、南の教会に信仰しいたることあり、時にお話などなせる様なれど、更に信頼する意志なく、
かつまた、布教師も 二度 自宅に見えしも 風采卑しく、到底 信頼する底の心も 湧かざりし」

このように、(佐津川)クラ と (中川)よし との交渉はあったが、(それは、佐津川)亀太郎にまでは 及んでいなかった。

佐津川夫妻の長男・保治、出直し後の奇蹟(明治29年)

そんなある日、
中川よし が家庭の事情から 郷里の (京都府丹波) 赤熊に 一旦 帰ってしまった。

それから数日後、佐津川の家に奇蹟が現われた。

「其ノ後、布教師ハ 布教ノ見込ミ立タズシテ ー旦 帰国セラレ、
全ク 消息モ絶エタリシガ、長男ハ 九オノ秋 早世シ・・・・・・
死體ヲ 北枕二直サントセル時、
背中ノ高ク固マリヰタル部分が、病前ノ健康體ノ時ト同ジク平ラニナリオレルニ医師モ吃驚シタル程ニテ、
此ノ姿ヲ見シ時、初メテ家中ノ者が『身上ハ神ノ借物』ナルヲ話シヰタルヲ想起シ、
人間ノカニテ 全力ノ及ブ限リハ治療セルモ 尚脊中ノ曲ル程ナリシモノガ、
死シテ 平常ノ姿ニナルハ 是レ 全ク神ノ借物二相違ナカルベシトノ確心ヲ深メ、
ココニ 初メテ 天理ノ信仰ヲ求ムル心 油然トシテ 湧キタリ」

「その後、布教師は布教の見込み立たずして一旦帰国せられ、全く消息も絶えたりしが、
長男は、9歳の秋、早世し…
死体を北枕に直さんとせる時、
背中の高く固まりいたる部分が、病前の健康体の時と同じく平らになりおれるに医師も吃驚したる程にて、
この姿を見し時、初めて家中の者が『身上は神の借り物』なるを話しいたるを想起し、
人間の力にて全力の及ぶ限りは治療せるも、尚、背中の曲がる程なりしものが、
死して平常の姿になるは、これ 全く神の借り物に相違なかるべしとの確信を深め、
ここに初めて、天理の信仰を求むる心、油然として湧きたり」

佐津川亀太郎の入信 〜 市ヶ谷集談所の開設(明治30年〜明治35年)

(中川)よし が 2度目に東京の土を踏んだのは、明治30年11月27日のことであった。

「…………カクテ 明治30年冬、再度、以前ノ布教師ハ上京、
大體ヲ 拜聴スルコトトナリ、信仰心 少々 芽グミ出シタリ。
然レドモ 豫テ 天理教ニ関シテハ 新聞紙上ニ 甚シキ悪評ヲ見知リイタルタメ、
之レ結局 布教師ノ是非二依ルト思惟シ、ヒソカニ 布教人ノ態度ヲ 見ルコトトセリ…………」

「…………かくて 明治30年冬、再度、以前の布教師は上京、
大体を拝聴することとなり、信仰心 少々 芽ぐみ出したり。
然れども かねて 天理教に関しては 新聞紙上に 甚だしき悪評を見知りいたるため、これ結局 布教師の是非に依ると思惟し、ひそかに  布教人の態度を見る事とせり…………」

「然ルトコロ、該 布教人ハ 聞ケバ 頼ルトコロモナクトノコトナレバ、ココオイニワカニ 惻隠ノ情 起こり、
幼ナ男児ヲ 背ニシタル婦人布教師ヲ 取敢トリアエズ 自宅ニ 御泊メスルコトトナシ、
自宅ヨリ 自由二 布教二 出デラルル様 申シ進メタリ。
カクテ 布教人ノ日々ノ行動ヲ見ルニ恬淡テンタンニシテ 只々 オ助ケヲ コレ 生命トスルノ心情 歴然タリ、
朝早ク外出シテハ 夜オソク帰り、ソレヨリ 熱心二 主人二 教話ナリー日ノ出来事ヲ話ス 其ノ熱烈ナル布教精神二 感動シ、
到底 男子ノ及バヌ 覚悟ト行イヲセラルル コノ婦人コソ、真ノ布教人ナリト 深ク 信頼ノ念ヲ固メ…………」(同前)

「然るところ、その布教人は 聞けば頼るところもなくとのことなれば、ここにおいて にわかに 惻隠の情 起こり、
幼な男児を 背にしたる婦人布教師を とりあえず 自宅に御泊めすることとなし、
自宅より 自由に 布教に 出でらるる様 申し進めたり。
かくて 布教人の日々の行動を見るに恬淡てんたんにしっって 只々 おたすけを これ 生命とするの心情歴然たり、
朝早く外出しては 夜おそく帰り、それより 熱心に 主人に 教話なり一日の出来事を話す その熱烈なる布教精神に 感動し、
到底. 男子の及ばぬ 覚悟と行いをせらるる この婦人こそ、真の布教人なりと 深く 信頼の念を固め…………」

以後、東本の教えの上において、
佐津川(亀太郎) は、副担任として 中川よしの布教活動をたすけ、
自らも「市ヶ谷集談所」を設け、布教に従事した (明治35年)。

本保の礎を築いた人々

佐津川(亀太郎) は、その経歴が示すように 秀れた実業家であった。
その周囲には、やはり 秀れた実業家や社会人が 沢山いた。

これらの人々が 佐津川(亀太郎) の信者となり、布教し、
佐津川の布教をたすけ、発展させたのであった。

まず、直ぐの妹・きんがいる。
彼女の主人は 山田茂八 (保浜初代) で、山田は元欧州航路の船大工であった。
大へん勢のいい人で、おたすけにかかると、もし たすからなかったら この首を差上げますと言ってかかった。
それで「首の山田」の異名をとったという人である。

(また) 山田の実弟に、安岡角蔵がいる。
この人は、佐津川の家で働いていた。

妹婿に、安岡豊吉がいる。
旧姓・田沼といって、この人も 佐津川家で働いていた人である。

佐津川亀太郎の子供である 長男・保治、2男・準 (2代会長)、3男・堅三、4男・道一 (初代詰所主任)、そして娘婿の小林醇一も ひとかどの社会人であった。

この様な人々の関係からか、佐津川の信仰は、山ノ手に広まっていった。

当時の人々の名前と職業を挙げると、
松井保定 (農商務省官吏)・森田寛蔵 (当時 帝大法科在学、後 タイ国公使)・平野蔵吉 (砲兵工廠勤務)・土岐政亮 (金港堂書店社員)・豊原莫澄 (画家)・長谷川清次郎 (参謀本部勤務)・高橋喜太郎・山口常次郎…
など 数十名である。

本保布教所の開設(明治37年)

明治37年12月2日、
(佐津川亀太郎を中心にして信仰に導かれた人々は)
(東京都東京市) 牛込区大久保余丁町64番地に (教堂を) 新築し、
「本保布教所」設置の許しを得た。

布教の広がり(明治36年頃~明治41年頃)

これより先、
明治36年4月、安岡角蔵が 横浜市外保土ヶ谷に、
翌(明治)37年2月には、山田茂八が 横浜市中村町に、
(そして) 明治40年2月には、長谷川清次郎が 川崎砂子に、
それぞれ 布教に出た。

いずれも 苦労艱難を重ね、
明治41年6月に(は) 山田茂八を会長として、神奈川県下に 保浜布教所が 設置された。
これは、本保出張所として、最初の部内教会である。

本保の礎を築いた人々、その2

この頃には、
後に 本保の役員に登用された人々が、相続いて入信している。

すなわち、
雨宮喜穀 (保笹初代の父)・石渡乃ぶ (保川初代)・平野はる (保白初代)・矢島徳三郎 (元彫金師:保島初代)・大沢鍋六 (蒔絵師:保代初代)・杉浦長之助 (書店主:保巣初代)・熊井広吉 (蒔絵師:保荏初代)・神山彦太郎 (大工棟梁:信徒総代)・北見善一・奥田辰之助 (保東初代)…
などの人々である。

本保支教会へ改称(明治42年)

かくて、教勢はいよいよ伸び広がり、
明治42年2月10日には、本保支教会と改称した。

佐津川亀太郎 初代会長の厳格さを象徴する逸話

本保 初代会長(の) 佐津川亀太郎は、非常に厳格な人で、
自分に対しても、他人に対する以上に厳格であった。

こんな逸話が残っている。

(佐津川)亀太郎は、夕勤め後、常に拝殿に端坐して、参拝の人達に「取次」をしていた。話が済んで参拝の人々が帰っても 依然として端坐しているので、
ある日、そばの者が 何故おやすみにならないのかと尋ねると、
「参拝の方が家へ帰りつくまでは 自分も起きているのだ」と答えられた とか。
(この逸話は) 今だに (本保の) 語り草となっている。

当時は 交通の便も悪く、参拝の人々は殆ど徒歩であった(ことを思うと、その逸話の かけがえなさが より際立つであろう)。

神殿ふしん真っ只中で遭遇した関東大震災(大正12年)

大正12年(1923) 6月4日、
本保支教会 神殿増改築願(を出し)、即日 許しを得(た。)
(そして) 7月に入ってから 工事にかかった。

(神殿ふしんが着々と進行していた) 同年(大正12年) 9月1日、
午前11時58分、
突如、関東一帯が 未曽有の大地震に襲われた。(関東大震災)
(それは) 丁度 昼食時であった。
そのため、各所に大火災が起こり、東京の下町や横浜は全滅し、悲惨を極めた。

本保(支教会)では、上棟式が済んで間もなくのことであり、まだ 神殿の屋根には瓦が積み重ねられ 葺くばかりになっていた(。

関東各地が想像を絶する災害に見舞われた)が、
(本保支教会のふしん中の神殿では) 不思議(なこと)に、1枚の瓦も崩れ落ちなかった。

(しかし) この地震で、罹災教会が 多数 発生した。
(本保の上級である) 東本分教会も、神殿 及び 教職舎など ことごとく焼失した。

佐津川亀太郎 初代会長の出直し(大正12年)

(関東大)震災の余燼さめやらぬ (震災発生)翌月(の) 10月2日(から)、
(佐津川亀太郎) 初代会長は、風邪気味で寝込んだ。

(そして、関東大震災後の混迷極まる世相の中)
(大正12年) 10月6日 午前2時28分、
(佐津川亀太郎 初代会長は) 62歳で 出直した。

佐津川 準2代会長の就任(大正12年)

(佐津川亀太郎 初代会長の出直しを受けて) 
(大正12年) 11月20日、
2代会長に 佐津川 準が 就任した。

佐津川 準2代会長の人となり

佐津川 準は 学者肌で、しかも 熱血の人であった。

当時 盛んであった路傍講演では、常に 聴衆を湧かしたものである。
また 文化活動にも積極的意欲を燃やし、東京教務支庁・教友会の機関紙『教の友』の編集に携わった。
また、自らも『我等は行かん』『よみがえる春』などの書を著し、『教の友』社で映画を制作したこともある。

このように、文化面で 佐津川 準の果たした役割は、大きなものがあった。

本保分教会へ昇格(昭和9年)

昭和9年(1934) 1月30日、
本保分教会に昇格(した)。

(佐津川 準)2代会長就任よりこの間は、本保の最盛期(と言える程に 教会内容が充実した時期)であった。

本保分教会 教勢の翳り(昭和10年代)

(着々と教勢を拡大させていった本保分教会であった)が、国際情勢の悪化、時局の変化に伴い、
(それまで飛ぶ鳥を落とす勢いであった本保の) 教勢も、(この後) 次第に翳りを見せ始め(るようになっていっ)た。

昭和17年4月26日、
佐津川 準(2代会長) は、大分・宮崎 両教区庁長を拝命(した)。

本保大教会へ陛級(昭和18年)

翌 昭和18年6月30日、
本保(分教会) は、東本(大教会) より分離して 大教会に陛級した。

動乱の太平洋戦争(昭和16年頃~昭和20年頃)

(昭和16年に開戦された太平洋戦争の) 戦局は、日増しに激しさを加え、国民生活はいよいよ窮乏を極めていった。

そのような中に昭和19年も暮れて、
翌 昭和20年1月11日 夜9時頃、
本保大教会は 不慮の失火のため、教堂 及び 教職舎を焼失した。

戦災離散による苦難の道 ~ 挫折を乗り越えての戦後復興ふしん(昭和20年~昭和27年頃)

この年(昭和20年) の8月、永い戦争が終わった。

(本保大教会) 部内教会のほとんどが罹災し、信者は四散。
月次祭も満足につとめることが出来なかった。

だが、(本保大教会一同は) この難局に(も) 心を倒すことなく、
昭和21年7月には 仮建築。
続いて、(昭和21年) 11月26日には 神殿復興建築の許しを得、槌音も高らかに 工事に着手した。

しかし、勇んでかかったこの普請も、いろいろの事情から 一時挫折。
神殿建築落成奉告祭が執行されたのは、(その) 6年後の 昭和27年5月13日であった。

この間、離散した信者も帰ってきて、(本保大教会) 部内教会も 落ち着きを取り戻してきた。

佐津川 準2代会長の辞任、佐津川守里3代会長の就任 ~ 奉告祭(昭和32年~昭和33年)

昭和32年1月18日、
佐津川 準 (2代会長)は、35年にわたる会長職を辞任(した)。

同年(昭和32年) 1月27日に、
後継者、佐津川守里が3代会長に就任した。

翌 昭和33年11月22日、
2代真柱の臨席のもと 盛大に(3代会長) 就任奉告祭を執行した。

佐津川亀太郎 初代会長50年祭 ~ 詰所ふしん(昭和48年~昭和49年)

また、昭和48年9月30日には、
(佐津川亀太郎) 初代会長50年祭が 盛大に執行された。

その記念事業として提唱された第39母屋・本保詰所も、
翌(昭和)49年4月9日に (無事) 完成した。


〔出版物〕『本保』(月報)

〔現住所〕〒192-0043  東京都八王子市暁町1丁目37-11
〔電話〕 042-625-1206

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,777〜779)

おわりに

本保大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第117回目の今回は、
「本保大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

本保大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 本保大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

佐津川亀太郎は、本所外手町で 島岡屋という爪掛製造業を営んでいた。

長男 保治は 六歳の時、階段から落ち、脊髄が曲がっていた。また 妻クラは 産後の身上すぐれず 困っている時であった。
弥吉から、両親が神様の話を胸に治めればたすかると聞かされ、クラは 熱心に耳を傾けた。
しかし 亀太郎は、よしや弥吉の 粗末な風采に 信頼する気持ちが起きなかった。

亀太郎は よしの布教態度を観察した。

「布教人の日々の行動を見るに 恬淡てんたんにして、ただ おたすけを これ生命とするの心情 歴然たり。朝早く外出しては 夜晩く帰り、それより熱心に 主人に教話なり 一日の出来事を話す。その熱烈たる布教精神に感動」(「天理教伝道者に関する調査」報告) した。

本保の道は ここに始まる。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,110)

本保大教会は、東本大教会から分かれた大教会ですね。
東本大教会は高安大教会から分かれた大教会。
すなわち、高安の流れを汲む大教会。

高安大教会・東本大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

本保大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビューより

今回の書写学習の中で、まず 強く印象に残ったのは、
やはり、佐津川亀太郎初代会長の入信に至るまでの経緯でした。

入信前の佐津川亀太郎先生――
商売は繁盛している。
しかし、その裏で長男は重い病を抱え、妻もまた病の中にある。
いわば、
「外から見れば順風満帆、しかし内実は苦しみの中」
という状況だったのではないかと想像致します。

こうした構図は、これまで当シリーズで学んできた中で何度も繰り返し現れてきたものですが、
それでもなお、その一つ一つの事例に触れるたびに、やはり心を動かされるものがあります。

そして――
その極めつけとも言える出来事が、ご長男 出直しの場面でした。

脊髄を痛めて背骨が湾曲してしまっていた長男・保治さんが9歳で出直された後、ご遺体を北枕に直そうとしたところ、高く固まっていた背中が病前の健康体の時と同じく平らになっていた――
その不思議な姿を目の当たりにして、「身上は神の借り物」という教えが真理であるという確信が油然と湧き起こった、ということ。

もちろん、これをどのように受け止めるかは人それぞれでしょうし、
冷静に考えれば様々な見方もあるのかもしれません。

しかし、少なくとも当時の佐津川家の人々にとっては、それは単なる現象ではなく、
「身上は神の借り物」という教理が、それまでの頭の中の単なるイメージではなく「真実」として心の奥深くに突き刺さる体験となられたのに違いありません。

長男の出直という、これ以上ない深い悲しみの中で、むしろその悲しみの只中に神様のご守護の姿を見せられた――というこの史実は、読んでいて大変胸に響くものがありました。

本保大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

また、
佐津川亀太郎初代会長の 東本初代・中川よし先生に対する印象が 推移していく過程も、印象に残りました。

『天理教事典』本文によると、
佐津川亀太郎初代会長は、
中川よし先生のことを決して最初から信頼していたわけではなく、
むしろ当初は「風采卑しき」とまで見ていた、とのこと。

しかし、その後の 中川よし先生の生活態度、布教への姿勢、そして何よりも「おたすけを生命とする」その在り方を 日々目の当たりにするにつれ、
徐々に 佐津川亀太郎初代会長の心も動かされていったのでした。

この流れを読んでいて、あらためて感じたのは、
「言葉」よりも「生き方」が人を動かすという、
ごく当たり前でありながら、実際には なかなか出来ない真理でした。

どれだけ立派な教理を語ったとしても、
その人の生き方が伴っていなければ、人の心には響かない。
逆に、
たとえ 最初は疑いの目で見られていたとしても、
その日々の積み重ねが 本物であれば、やがて 必ず伝わる――

中川よし先生の歩みは、
そのことを雄弁に物語っているように 感じられたのでありました。

本保大教会GoogleMapより③
GoogleMapより

また、
大正12年の関東大震災で瓦が一枚も落ちなかったという話も強く心に残りました。

膨大な被害の中で、ふしん中の神殿だけが無傷だったとは、まるで「揺るがぬ信仰の象徴」のようです。
けれども、その後、戦火によって堂舎を焼失する苦難にも遭われました。

一度立ち上がり、また倒れ、それでもなお再び建て直して今に至る――
本保大教会の そのような歩みの中に
「節から芽が出る」という教えの 確かな実証を見る思いが 致します。

本保大教会Googleストリートビュー④
Googleストリートビュー より

その他にも、
佐津川亀太郎 初代会長が、夕勤め後、参拝の方々が帰られた後も端坐したまま起き続けておられ、その理由を問われると「参拝の方が家へ帰りつくまでは自分も起きているのだ」と答えられたという逸話。

当時は交通の便も悪く、参拝の人々は徒歩で遠くから来ておられた時代のこと。
どれほどの時間、どれほどの思いで座しておられたのか――
その姿を想像すると、単なる「厳格さ」という言葉では言い表せない、深い親心のようなものを感じます。

また、
佐津川 準2代会長が、
路傍講演で常に聴衆を湧かし、機関紙の編集、著作活動、映画制作など文化面でも大いに活躍された、という話。
学者肌でしかも熱血の人、という人物像に、なんとも魅力的な人柄を感じます。

どれもこれも、知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「本保大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

本保大教会Googleストリートビュー⑤
Googleストリートビュー より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「本保大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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