Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号59番「平安大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号60番「豊岡大教会」について勉強します。
- 豊岡大教会(とよおか だいきょうかい)
- 木岡儀八郎 初代会長の生い立ち(嘉永5年〜明治15年頃)
- 木岡儀八郎と正木国蔵の出会い(明治16年)
- 木岡儀八郎の奇蹟的なご守護(明治17年)
- 木岡儀八郎の 茨木基敬「天地組」訪問〜初おぢば帰り(明治17年〜明治18年)
- 豊岡大教会の始まり(明治18年)
- 豊岡の道の広がり(明治18年〜明治19年頃)
- 天地組第6番講社の結成〜木岡儀八郎の教職上昇(明治19年〜明治23年頃)
- 高まる反対攻撃〜盛り上がる布教活動(明治20年頃〜明治23年頃)
- 豊岡地方への移転(明治23年)
- 豊岡支教会の設置(明治25年)
- 大がかりな移転建築ふしんの始動(明治26年)
- 重なるふし~難局乗り越え完成したふしん(明治29年頃~明治36年)
- 豊岡分教会への改称(明治40年)
- 木岡儀八郎初代会長の出直し~木岡友吉2代会長の就任(明治44年~明治45年)
- 北大教会からの分離=本部直轄へ(大正14年)
- 北但馬地震~震災からの復興(大正14年)
- 豊岡中教会への昇格(大正15年)
- 震災復興の神殿ふしん(昭和6年~昭和8年)
- 豊岡大教会への昇格(昭和15年)
- 木岡友吉2代会長辞任~木岡初郎3代会長の就任(昭和16年)
- 木岡初郎3代会長の出征〜復員(昭和16年~昭和21年)
- 戦後復興〜木岡初郎3代会長の出直し(昭和21年~昭和25年)
- 木岡籌子4代会長の就任〜諸々のふしん(昭和25年〜昭和52年)
- おわりに
豊岡大教会(とよおか だいきょうかい)

木岡儀八郎 初代会長の生い立ち(嘉永5年〜明治15年頃)
後に豊岡の初代会長となる木岡儀八郎は、
嘉永5年(1852) 9月13日、但馬国温泉村湯73番屋敷 (現・兵庫県美方郡温泉町湯1212番地) において、
父・利右衛門、母・ゆか の長男として誕生した。本家の樹岡家と同様、紺屋を業とし、
俗に 分家 紺屋と呼ばれ、
染物の他に 藍玉の製造販売も広くしていた。(木岡儀八郎は)
慶応2年(1866) 隣村・清富村の 楠田弥右衛門の娘・里恵 と結婚。
父の業を継ぎ、商売繁昌して信用も厚く、
郡内 及び 隣郡の 紺屋 組合長も勤めていた。(木岡)儀八郎は、元来 恵み深い性格であり、かつ 信仰心も深く、
近郊の神社寺院の参詣は怠ることなく、寄進なども率先して行い、
殊に家の宗旨である「法華宗 妙見講」は 相当 熱心に信仰していたようである。
木岡儀八郎と正木国蔵の出会い(明治16年)
明治16年(1883) 夏は、おぢばで「雨乞いづとめ」の行われた年であり、
関西一円、旱天が打ち続いていた。この地方(但馬国) においても その例にもれず、
村内を貫流している春来川の水は 杜絶し、飲料水にも事欠く状態となった。
従って 藍草は枯死し、藍玉の製造は 全く不可能となってしまった。同業者の困憊は その極に達し、
一同 鳩首 協議の結果、(紺屋) 組合長・木岡儀八郎名義で、藍玉の本場・阿波国 徳島へ 注文を発することとなった。
その使者として 秋に(但馬国へ) 訪ねて来たのが、藍玉問屋利]こと 近藤利兵衛の歩取、正木国蔵 (後の名東大教会 初代会長) であった。(阿波国から遠路はるばる訪ねて来て木岡儀八郎と縁のできた正木国蔵は)
これを契機に 毎年 (但馬国を) 訪れることを約し (その時は 一旦帰国した。)
木岡儀八郎の奇蹟的なご守護(明治17年)
(正木国蔵が) 再び (但馬国の) 湯村を訪ねて来たのは、翌(明治)17年の秋であった。
しかし、
この間 (=明治16〜17年) 僅か1年であったが、
(実に、その間は)
正木(国蔵) にとっても (木岡)儀八郎にとっても
生涯の一大転換期ともいうべき、大きな「節」に遭遇していた(時期なのだった)。正木国蔵(の方)は、
前年(明治16年) の暮、
妻・くま の産後の病から 撫養大教会信者・野村ます より 神様の話を聞いてたすけられ、
正木(国蔵)は 行商を打ち切り、郷里で布教に専念する決心をしていた(時期だった)。(すなわち、正木国蔵にとって)
今回(=明治17年秋) の行商は 最後の行商であり、
否、行商というよりは 集金と伝道の旅であった。一方、(木岡)儀八郎(の方)は、
(明治17年) 春 3月頃より とかく健康が勝れず、しばしば胃痛を訴え 食欲は減退し、
ぶらぶらする日が多くなっていた。丁度 正木(国蔵) が訪ねて来た時は、
「後1週間の寿命」と医師に宣告されてより「3日目」の夕刻 (という時期)であった。(一年ぶりに但馬国へ訪ねたところ 木岡儀八郎の余命幾ばくもないことを知った)正木(国蔵)は(大変驚き)、
集金の話はそこそこにして 病気の話へと変わり、転じて 神様の話となった。
(木岡儀八郎にとって 正木国蔵から聞く話は) 聞けば聞く程 不思議な話であり、不思議な守護を下さる神様(の話)であった。
(木岡)儀八郎は、(正木国蔵の話に深く)感銘し、3日間の祈願を頼んだ。その結果、(なんと)
(木岡儀八郎の) 胃痛は止まり 内臓よりの悪臭もなくなり、
薄紙をはぐように 快方に向かった(のだった)。(奇蹟的なご守護を目の当たりにした木岡)儀八郎は、
あまりの感激に
翻然として 従来の職業と地位を放擲して、たすけ一条に専心すべく意を決し、入信を誓った(のであった)。
木岡儀八郎の 茨木基敬「天地組」訪問〜初おぢば帰り(明治17年〜明治18年)
(明治17年に 正木国蔵による木岡儀八郎への奇蹟的なおたすけ活動があり)
その後、(木岡)儀八郎は 近隣の人々 及び 同業者を集めて 正木国蔵の話を熱心に聴き、正木(国蔵)の話に飽きることを知らなかった。(しかし、それはいつまでも続けられるものではなく)
(ある日、木岡儀八郎は) 正木(国蔵)より、出発の近いことを知らされた。
(木岡)儀八郎は「(どうか) 今暫く滞在を」と懇請したが、
(正木国蔵から) すでに出発を心に定めて来ている(ことだから…) と言われては、変更することも出来なかった。正木(国蔵)は (木岡儀八郎に対し)
「四国の徳島は遠い。大阪の天満に行けば、茨木(基敬)さんという人がいる。その人を尋ねて行くように」
との言葉を残し、立ち去った。正木(国蔵)の帰国後、(木岡)儀八郎は
(大阪・天満の) 茨木(基敬)のもとを訪問し、その後 大和・庄屋敷へお礼参拝をしたい と念願。
しかし、連日の降雪で 発つに発たれずにいた。(降雪の冬を抜けた) 翌 明治18年3月、
(木岡)儀八郎は、雪の解けるを待ち切れず 旅装に身を固め、単身 大阪・天満をさして出発した。明治18年の頃といえば (まだ) 汽車はなく、
(木岡儀八郎は) 50里余(約200キロ) の道を踏破して、茨木(基敬)の門をたたいた(のであった)。茨木(基敬)に初めて面会した(木岡)儀八郎は、
まず (『天地組』への)入社を願い、(そこで) 教理の数々を聞き、将来の指導を願った。
(そして) 天地組で1泊の後 おぢばへ参拝し、(おぢば参拝後) 帰国の途についた(のであった)。(木岡儀八郎は) おぢばでの滞在は短かったけれども、
参拝したことにより 一大光明が与えられ、心から喜びを持つようになった。
豊岡大教会の始まり(明治18年)
(大阪・天満〜おぢば訪問から) 帰国後の (木岡)儀八郎は、
最初の決意のように、一路「たすけ一条」に邁進した。ここに、(木岡)儀八郎の生命は、信仰の生涯に捧げられて、
「教えの先達」としての第一歩を踏み出したのである。時に、明治18年4月18日、(木岡)儀八郎 34歳であった。
今日の豊岡大教会は、ここに始まった。
豊岡の道の広がり(明治18年〜明治19年頃)
(木岡)儀八郎の胃病はすっかり治まり、
感激と報恩に燃える信仰は、何処へ行っても、(周囲の人々に) 感激を与えないことはなかった。(木岡儀八郎の) 奇蹟は、それからそれへと伝わり、
信者に加入する者は 日に日に増していった。教勢は、(但馬国の)湯村を中心に、近村はもちろん、隣郡へと伸び、鳥取地方よりも救けを求めてくる者も出てきた。
天地組第6番講社の結成〜木岡儀八郎の教職上昇(明治19年〜明治23年頃)
そこで、(明治)19年5月、一同 相談し、
講元に 木岡儀八郎、副講元に 関尾万平、取締に 高垣源蔵と定めて、大阪にのぼり、天地組総長・茨木基敬の指導を得て、
「天地組」第6番 講社を結成することとなった。その後、(木岡)儀八郎は、
明治20年3月16日、教導職試補。(明治)21年1月26日、初席。
(明治)21年11月5日、「おさづけの理」拝戴。
(明治)23年6月18日、権訓導 (天理教々師) に補命された。
3ヵ年間に、神の「よふぼく」として育っていった。布教も活発に行われ、月々の祭典は賑かになり、講社も盛大になった。
高まる反対攻撃〜盛り上がる布教活動(明治20年頃〜明治23年頃)
しかし、
(木岡)儀八郎のおたすけの評判が高くなるにつれ、一般からの非難攻撃が絶えず、
障子を破る者、投石する者などがでてきた。一方、木岡家の経済も次第に逼迫し困窮を極めてきた。
しかし、教祖を「ひながた」とする(木岡)儀八郎には、そんな苦難は物の数でなく、益々熱心に 益々夢中になって、布教に専心した。
従って、伝道線は各地へ伸び広がっていった。信者加入者100余戸をかぞえる中で、
(木岡)儀八郎の信念に導かれ、また、報恩感謝の念より、布教に活躍するものが (続々と)現れ(てきた。)楠田菊之助は、兵庫県養父郡方面 (後に、鳥取県八頭郡方面)
木岡勇次郎は、鳥取県東伯郡方面、
西村弥三吉は、楠田の後を受けて養父郡・城崎郡豊岡地方 (後に北海道札幌)、
中井文助は、岡山県津山方面 (後に島根県隠岐島)、
稲葉善蔵は、島根県松江市…
と、それぞれ布教に出た。このため 教勢は 燎原に火を放つ如く広がって行き、
それらの内に 講社の結成をみた。
豊岡地方への移転(明治23年)
教勢が八方へ伸展した中でも、豊岡地方は とみに隆盛を極め、一村を挙げて改式するものが多かった。
その頃 結成されていた
船町講社・小田井講社・高柳講社・朝倉講社
の信者200名の代表として、
今井与三兵衛・宮井嘉兵衛・藤原忠平の3名が
(木岡)儀八郎の豊岡移住を懇請するとともに、豊岡町本町の 田村右京太夫 所有の家屋を買収した。そこで (木岡)儀八郎は、
(明治)23年8月15日、湯村の講社を 木岡勇次郎に譲り、
豊岡へ移住することとなった。
豊岡支教会の設置(明治25年)
明治24年、大阪の天地組講社に北分教会が設置されるに及び、
豊岡でも教会設置の気運が濃厚となった。(そして) 信者 600名、講元・世話係 134名の連署をもって 書類を整え 届け出たところ、
明治25年9月19日、兵庫県但馬国豊岡町本町18番地に、
北分教会部内「豊岡支教会」設置の許しを得た。
大がかりな移転建築ふしんの始動(明治26年)
そのうちに 急激な教勢の発展は 参拝者の激増となり、
神殿の狭隘と諸施設の不便が顕著となってきたので、
教会開設1年余にして 移転の相談となった。(その結果、移転することで相談がまとまり、豊岡支教会は)
同町(兵庫県但馬国豊岡町本町)内 新屋敷156番地に 田地806坪 (2,665平方メートル) を購入し、
土砂は 円山川より、石材は 玄武洞より採掘して、2メートルの地上げをなし、5日を期して 工事に取りかかった。(工事が始まると)
但馬界隈の信者はもちろん、鳥取、島根方面、また 北海道地方からも、距離の遠近交通の便不便を問わず、老若男女が(ひのきしんに駆けつけ) 毎日 (その数) 数百人を越え、
豊岡付近は「ひのきしん」の一大絵巻を展開した。
重なるふし~難局乗り越え完成したふしん(明治29年頃~明治36年)
しかし、丁度その頃、
内務省より秘密訓令が発せられて(明治29年)、天理教への弾圧は激しくなり、
かつまた、教内でも「安堵事件」(明治30年)が起こり、
その影響 甚だしく、離散する教信者が 多く出てきた。
また、北海道方面では 教会の設置取消などの難局に遭遇した。そのため、普請は一時中止となり、
(明治31年~明治34年頃の) 3年間、
(木岡儀八郎) 初代会長 及び 後継者・木岡友吉は、
難関をのりきるために東奔西走、わらじを解く暇もない状態であった。その結果、
(明治)34年より 再び 普請に取りかかり、
教祖殿、会長宅、客室、倉庫など、4棟171坪 (564平方メートル) の普請も完了して、
(明治)36年4月19日、(無事に) 開講式と落成奉告祭を盛大に執行した。
豊岡分教会への改称(明治40年)
かくて難局をきりぬけ、
今度は、新芽がふき出し、布教活動も活発となり、
(明治)40年3月1日には
北大教会部内「豊岡分教会」と改称になった。
木岡儀八郎初代会長の出直し~木岡友吉2代会長の就任(明治44年~明治45年)
(木岡)儀八郎は、
(明治)44年12月11日、病を得て、齢60歳をもって出直した。
当時、教会数 44ヵ所、教人数 195名、よふぼく数 284名であった。このため 2代会長には、
(木岡)儀八郎の嗣子・木岡友吉が 明治45年2月1日に 就任した。
(木岡)友吉は、それまで 北海道で布教に専心していた。
北大教会からの分離=本部直轄へ(大正14年)
大正14年(1925) 3月30日、
豊岡(分教会)は、
北大教会より分離して、本部直属「豊岡分教会」となった。
北但馬地震~震災からの復興(大正14年)
かく 分離はしたものの、
(分離)間もない (大正14年) 5月23日、
北但馬地方の大震災に遭い、町の大半は倒壊あるいは灰燼に帰し、
豊岡(分教会)も全焼の憂き目をみた。(北但馬地震により大被害を受けた豊岡分教会であったが)
早速 復興に取りかかり、
(大正14年) 7月には、4棟189坪 (624平方メートル) の仮建築をなした。続いて (大正14年) 11月には、
(奈良県)丹波市町豊田111番地に 4棟 202坪 (667平方メートル) を新築して詰所を開設し、
(大正14年) 翌月(12月)よりの 教祖40年祭(大正15年)を迎えることとなった。
豊岡中教会への昇格(大正15年)
(大正15年の) 教祖40年祭も 無事終了したその秋、
(木岡友吉)2代会長の病気を契機として、部内信者が奮起して、
大正15年11月19日には「豊岡中教会」に昇格した。
震災復興の神殿ふしん(昭和6年~昭和8年)
昭和6年(1931) 3月25日 復興建築の許しを得、
隣接地134坪を購入すると共に、
2ヵ年の歳月を費して、神殿、教祖殿、付属建物 3棟 202坪 (668平方メートル) を完成。(昭和)8年4月7日、落成奉告祭を執行した。
豊岡大教会への昇格(昭和15年)
昭和15年3月25日
(豊岡)大教会に昇格(した)。
木岡友吉2代会長辞任~木岡初郎3代会長の就任(昭和16年)
翌年(昭和16年) 2月12日、
(木岡友吉)2代会長は、老齢のため辞任。(木岡友吉は) そののち(辞任後)、後進の指導に当たっていたが、
(昭和)29年2月12日、齢83歳で出直した。2代会長・木岡友吉の辞任にともない、3代会長に 木岡初郎が就任した。
(木岡)初郎(3代会長) は、
東京で 初豊分教会長として 布教に専念していたが、
昭和16年2月28日 3代会長に就任した。
木岡初郎3代会長の出征〜復員(昭和16年~昭和21年)
しかし、(木岡初郎3代会長は)
第2次世界大戦のため召集され、5年間 (=昭和16年〜昭和21年) 軍務に服した。
その間、弟の 木岡二郎が 代務者をつとめた。(木岡初郎3代会長は) (昭和)21年5月 復員した。
(そして) 憩う間もなく、(豊岡)大教会 陞級、および 会長就任奉告祭の準備に取りかかり、
(昭和21年)11月7日 執行した。
戦後復興〜木岡初郎3代会長の出直し(昭和21年~昭和25年)
以来、(木岡)初郎は 心の普請と形の普請に心を注ぎ、
第1期として 詰所信者室 100坪の増築に着手した。ところが、(木岡初郎3代会長は) 巡教中 病に倒れ、
一時 小康を得たが 再発して、
(昭和)25年5月5日、齢39歳をもって出直した。
木岡籌子4代会長の就任〜諸々のふしん(昭和25年〜昭和52年)
(その後)
昭和25年7月30日、4代会長に、
3代会長夫人・木岡籌子が 就任した。(木岡)籌子は、(木岡初郎) 前会長の遺志を継いで、
事務所、信者室150坪 (395平方メートル) の増築を完成した。(そして)
(昭和)29年には、本部境内地拡張のため、
(豊岡)詰所を 天理市田部133番地・845坪 (2,792平方メートル) に移転をなし、
8棟 372.62坪 (1,229平方メートル) を建築して、教祖70年祭(昭和31年) を迎えた。(木岡籌子4代会長は) その後、教勢の発展と教会内容の充実に意を注いだ。
(豊岡)大教会では 4棟155坪 (511平方メートル) を増築し、
(豊岡)詰所(の方で)も、5棟98坪 (324平方メートル) の増築を完了した。昭和51年(には)、第45母屋として許された詰所(の)普請にかかった。
そのため、一時 天理市川原城町400の1へ移転したが、
昭和52年8月(には) 工事も 完成して、移転した。〔現住所〕〒668-0021 兵庫県豊岡市泉町20番24号
〔電話〕 0796-22-2298(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,607〜609)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
60回目の今回は、
「豊岡大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも豊岡大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
日本海に近い美方郡温泉町湯村の 木岡儀八郎(豊岡初代) は 染物屋と藍玉の製造販売を営んでいた。
明治十六年夏、全国的な干天続きで藍草は枯死してしまった。
同業者が協議、藍玉の本場・徳島へ注文することとなり、来たのが 正木国蔵であった。翌年春ごろ、儀八郎は胃を患い、医者より余命一週間と宣告されて三日目に国蔵と会った。
痛みは不思議に止まり、道一条を決意。国蔵が徳島へ発つ時、「撫養は遠い。大阪の茨木基敬を訪ねよ」と言った。
天地組に加入し、報恩と感激に燃えて布教に回った。
奇跡が各所に現れ、湯村より周辺へ、中国地方や北海道へ伸び広がった。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,83
信者の要請で二十三年、豊岡に移った。
豊岡大教会は、北大教会から分かれた大教会ですね。
北大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
豊岡大教会 初代会長の木岡儀八郎先生に初めて天理教の教えを伝えたのは、
名東大教会 初代会長の【正木国蔵】先生。
そのことは、当シリーズの「北大教会」「名東大教会」「飾東大教会」の回で勉強して知っておりました。
今回「豊岡大教会」について勉強しながら、
“そう言えば、以前「飾東大教会」について勉強した際に【正木国蔵】先生についてあれこれ書いたなぁ…”
と思い出しました。
豊岡大教会初代会長の木岡儀八郎先生の入信について考える時
【正木国蔵】先生の経歴に触れることは外せません。
そこで、
かなり長くなりますが、
(リンクを貼って そこへ飛んだり戻ったりするのも面倒なので)
以下に、改めて引用掲載することにします。
【さまよいブログ > 天理教各教会の歴史探索(第27回) 飾東大教会】より引用
…飾東大教会は兵神大教会から分かれた大教会ですが、
初代の紺谷久平先生に「初めて」お道の教えを伝えたのは、
阿波国名東郡の【正木国蔵】先生だったのですね。
今回の勉強を通して、初めて知りました。
正木国蔵先生の名前は、
天理教大教会の歴史を勉強するシリーズを開始して、
既に何回か目にしました。
第14回「北大教会」の中では
豊岡方面の伝道者として記述されていました。
後の 豊岡大教会の信仰は、
もともと天地組からではなく、
四国の徳島から伝わった信仰である。その経歴をたずねると、
明治16年の秋、但馬地方は藍が出来ず、
紺屋仲間は 藍玉を徳島から取り寄せるべく、
温泉村湯村紺屋 木岡儀八郎が 代表して
徳島の問屋 利」こと 近藤利平方に手紙を出した。この時、
近藤方の手代として但馬へ行ったのが、
徳島在高崎の人、正木国蔵であった。正木(国蔵) は
この年 妻の産後の患いから、
徳島県麻植郡森山村山路の
野村京太(大阪真明組、後の芦津大教会からの信仰)
から話を聞いて 入信していた。正木国蔵は、
早速 兵庫県三方郡温泉村湯村の近江屋方に泊り、交渉を開始したが、
そのかたわら 神様の話を伝えた。宿の森田家の車曳きの 高垣源造、
床屋の 本田菊三郎、夏川くま、木岡儀三郎などが信仰した。
そして 照来村丹土の紺屋 田淵広七も 入信した。ある時 正木(国蔵) の言うには
「私は四国の徳島のものであり、
私の信者となると、ここから海を渡って徳島へ行き、それから又 海を渡って大和へ参拝せねばならぬ。
それは大変だから、大和への道順である大阪へ出て、
よき講元を探し、それの講社にしてもらいなさい」と。それで、田淵広七は
明治18年の末
大阪へ出て 講元をさがすこと3日目に、
やっと探し当てたのが、
樋ノ上橋西詰の 茨木基敬であった。しかし、時は既に 年末に近く、
(『天理教事典』1977年版 P,228)
但馬路は 雨雪の時期になっていたので、
茨木(基敬)は
来春には、当天地組より人を遣わしましょう と約束をし、
田淵(広七) は 但馬へ帰った。
参考までに…と思って、
当シリーズ未学習の「豊岡大教会」解説文を先走って見てみたところ、
上記とは ちょっと違う説明でした。
(木岡)儀八郎は
(明治17年)春3月頃より とかく健康が勝れず、
しばしば胃痛を訴え食欲は減退し、ぶらぶらする日が多くなり、
丁度 正木(国蔵)が (但馬国へ)訪ねて来た時は
「後1週間の寿命」と医師に宣告されてより3日目の夕刻であった。正木(国蔵)は
集金の話はそこそこにして病気の話と変わり、転じて神様の話となった。聞けば聞く程不思議な話であり、
不思議な守護を下さる神様であった。(木岡)儀八郎は
感銘し 3日間の祈願を頼んだ。その結果、
胃痛は止まり、内臓よりの悪臭もなくなり、
薄紙をはぐように快方に向かった。ここで(木岡)儀八郎は
あまりの感激に
翻然として 従来の職業と地位を放擲して
「たすけ一条」に専心すべく意を決し、入信を誓った。その後、(木岡)儀八郎は
近隣の人々及び同業者を集めて、正木国蔵の話を熱心に聴き、
正木(国蔵)の話に飽きることを知らなかった。正木(国蔵)の出発の近いことを知り、
(木岡)儀八郎は「今暫く滞在を」と懇請したが、
すでに出発を心に定めて来ているというので
変更も出来なかった。そこで、正木(国蔵)は
「四国の徳島は遠い。大阪の天満に行けば茨木さんという人がいる。その人を訪ねていくように」
との言葉を残し 立ち去った。…明治18年3月、(木岡)儀八郎は、
旅装に身を固め、単身 大阪を目指して出発した。
明治18年の頃といえば、汽車はなく、
50里余(約200キロ)の道を踏破して、茨木(基敬)の門をたたいた。茨木に初めて面会した(木岡)儀八郎は、
(茨木基敬に)入社を願い、教理の数々を聞き、
将来の指導を願って そこで1泊の後
「おぢば」へ参拝して 帰国の途についた。おぢばでの滞在は短かったが、
(『天理教事典』1977年版 P,608)
参拝したことにより、一大光明が与えられ、
心から喜びを持つようになった。
「北大教会」解説文の中では、
正木国蔵先生は、田淵広七先生に話をしたように書かれていますが、
「豊岡大教会」解説文の中では、
木岡儀八郎先生に話をした と書かれてあります… (-_-;)
…まぁ、いずれにしましても、
正木国蔵先生が
“自分ではなく 大阪の先生を頼りなさい”
と話をしたことは間違いなさそうですね。
また、第24回「名東大教会」の中では、その初代会長として記述されていました。
柏原(友吉)隣家の 寺内講元は、
同県(徳島)内 名東郡 高崎村 講元 正木国蔵の導きで入信。正木(国蔵)は 明治18年 妻の病気から入信、
明治21年10月「さづけの理」を戴いていた。そして、同村(高崎村)内 藍商某家の手代となり
播州や三丹地方へ 藍行商の傍ら 天理教の布教も行ない、
飾東初代会長 及び その他各地へ「にをいがけ」をした。一家の都合上 布教を専門にするには至らなかったが、
13戸の信者を結成し、
その枝先が 徳島市郊外 寺内講元の入信につながった。柏原友吉は 早朝魚市場を営み、
毎夜50名以上の病人が集まり 重病人も必ず救かる奇蹟に、
付近各村、板野郡貞方、大寺、名東郡高崎、西名東、田宮、芝原、井戸、八万、津田、勝浦郡飯谷、八多、吉井、大原、論田、麻植郡鴨島、牛島
その他へと波及し、
明治25年 徳島市幟町にて
撫養部内として、名東支教会設置出願する迄に 600戸の信徒を結成した。こうした中で 柏原友吉は
名東の会長になる事を辞退し、
高崎講元の 正木国蔵を名東支教会長として 出願許しを得、
柏原友吉は 理事として勤めた。名東支教会は、初代会長に正木国蔵をもって、
(『天理教事典』1977年版 P,881)
明治25年 6月22日付で (名東支教会の)会長就任と設置の許しを得た。
私は、この【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を開始してから
初めて「正木国蔵」先生を知ったのですが、
この正木国蔵先生は、
ご商売の関係もあって、まさしく、
この道を日本全国へ広める 伝道者の役割を果たされた先生なのですね。
正木国蔵先生に対して私が興味深いなぁと思ったのは、
伝道の結果を受けての組織化に関して、全く執着がない点でした。
名東大教会においては その初代会長に就任しておられるわけですけれども、
それも、
実質的な創設者である 柏原友吉先生が固辞したため、就任された。
その名東支教会長も、
就任して約8年後には、
相応しい該当者と思われる 柏原源次郎先生の環境が整った と判断されて、
すみやかに その会長職を譲り渡された。
また、正木国蔵先生は、
豊岡大教会、飾東大教会ともに
その礎となられた先生方へ 初めて この道を伝えられたわけですが、
その先生方が実際に歩むにあたっては、
「理」がうんぬん ということよりも、
地理的な面に配慮して、利便性というか 実利を優先して 行動された。
豊岡大教会の田淵広七先生に対しては、
「私は四国の徳島のものであり、私の信者となると、ここから海を渡って徳島へ行き、それから又 海を渡って大和へ参拝せねばならぬ。
それは大変だから、大和への道順である大阪へ出て、よき講元を探し、それの講社にしてもらいなさい」
と促された。(…『天理教事典』1977年版 P,608 「北大教会」解説文参照)
そして、その結果、
豊岡大教会は 北大教会の部内となられた。
また、飾東大教会の紺谷久平先生に対しても、
紺谷久平先生に初めて教理を伝えた者ではあるものの、
正木国蔵先生ご自身が商売の都合で播州方面へ来られなくなったと言って、
紺谷久平先生に、
身近な講元を捜してそれの講社にしてもらうことを勧められた。
その結果、紺谷久平先生は、
身近な清水与之助先生の兵庫真明講に加入されることとなった。
そしてその後、
飾東大教会は 兵神大教会の部内となられた。
もしも、正木国蔵先生が
「理」というか 縦の系列にこだわられる先生だったら、
豊岡大教会も、飾東大教会も、撫養大教会の部内…
ということになっていた可能性も あるわけです。
(それはそれで一つの道であり、そこに何の善悪も無いことは言うまでもないことですが…)
しかし、正木国蔵先生は、
手引きの親が○○だから 遠い近いは二の次、導きの親に付いていくのが正しい道だ…
という理念優先タイプではなかった。
“私が手引きしましたけど、私は遠方ですから、もっと身近で便利な人の所で信仰して下さい…”
という徹底的な実利優先タイプ。
いかにも、日々 実利を確保することが求められるご商人、今風の言葉で言うとビジネスマン気質の先生… という感じがします。
私は好きです、こういう考え方。
「理」というものを絶対視して正統性を最優先するよりも、日々の利便性を大切にした方が、圧迫感がないし、何より心が軽いじゃないですか…
――でも、きっとそういう考え方は、信仰的には未熟で、俗に言う「分かってない」というやつなのでしょうね。
ただ、正木国蔵先生のそのような行動の背景には、
これまで【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】で勉強してきて分かった点、
=道の初期には、現代のような系統へのこだわりはさほどなく、自分の都合で気軽に所属を選択できるという環境であった、という点、
そこには配慮する必要があるかもしれませんが。
現代のような、
「理」を重んじ、順序に重要な価値があることが共有される環境下においても
正木国蔵先生が同じような行動を取られるかどうか…
それは分かりません。
しかし、個人的には、
正木国蔵先生の考え方のような ユルイ組織の方がいいなぁ…
というのが本音です (^^ゞ
( さまよいブログ > 【飾東大教会】(第27回)天理教各教会の歴史探索 より)
名東、飾東、豊岡…という、3つの大きな天理教大教会の道明けに深く関与された【正木国蔵】先生。
天理教にとって、その果たされた役割の大きさは 言葉にできない程 大きなものであったような気がします (^^)
今回は、ちょっと引用が長くなってしまいました (>_<)

今回もまた知らないことばかりで、その他の部分でも多くのことを知ることが出来て、勉強になりました。
特に考えさせられたのが、茨木事件から北但馬地震に至る 時系列。
まず、茨木事件。
豊岡大教会初代の 木岡儀八郎先生は、元々は 名東大教会初代の 正木国蔵先生からお話を聴いて この道に入られたけれども、正木先生の勧めもあって、その後、大阪の茨木基敬先生を訪ね「北大教会」の門下に入られた。
今回勉強した『天理教事典』「豊岡大教会」解説文の中には、全く触れられていなかったので内情がわからないのですが、
豊岡大教会は 北大教会の部内でしたから、
上級・北大教会の茨木基敬会長が解任された 大正7年の「茨木事件」の際には、豊岡分教会(当時)でも、さぞや大混乱があったことでしょう。
続いて、北但馬地震。
大正14年の北但馬地震の「ふし」については、今回の勉強で初めて知りました。
北但馬地震により、なんと教会が全焼!
目に見えない天の理というものを 思案の基礎に置く お道の人々にとって、
大正14年3月に 豊岡分教会が北大教会から分離して本部直属となった その2ヶ月後(大正14年5月) に 北但馬地震により教会が全焼した、という事実は、どのように映ったでしょうか。
- 大正7年「茨木事件」→ 上級・北大教会の茨木基敬会長 免職
- 大正14年3月30日、豊岡分教会が 北大教会から分離し 本部直轄へ
- 大正14年5月23日、北但馬地震で 豊岡分教会 全焼
何でもかんでもごっちゃに関連付けて 勝手なストーリーを創り上げるのは スピリチュアルおたくの悪い癖だ、と非難されそうです。
それでも、茨木事件によって上級・北大教会の茨木基敬先生が免職となり、
その数年後に 豊岡が 北大教会から分離し本部直轄となった直後に 大地震に見舞われ、神殿が全焼してしまった…となると、
きっと、そこに何らかの因果関係を感じてしまった人は少なくないのではないか、
当時の人々の中でも、そこに何らかの因果関係を感じた人はいたのではないか、
そう思うのです。
それ以上の掘り下げは控えますが、豊岡大教会の歴史を振り返った時に、このようなストーリーが人々に何らかの影響を与えたに違いないということは、特筆されるべきであろうと考えます。
ただ、
そのような大きな節に見舞われ、いろいろな思いを抱えながらも、
豊岡の皆様は、心倒すことなく前進されました。
だからこそ、今も、重厚で尊い姿でそびえ立っている…
私はそのように思います。
何も知らないのにわかったふうなことを書いて お恥ずかしい限りですが (^^ゞ
いずれにしても、
そのような 様々な多くの節を乗り越えて 今の立派な「豊岡大教会」があるということを忘れてはならない…
と、改めて そのようなことを思ったりするのでありました。
それにしても、
ある一つの対象を、そうした歴史を何も知らずに見るのと、歴史を踏まえて見るのとでは、目に映る現象に何ら変わりがなくても、そこから生まれてくる思案は 全く異なってきますよね。
深みが出てくるように思います。

今回もまた、歴史を学ぶことの大切さ、意義深さを、実感させられました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「豊岡大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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