Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号84番「錦江大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号85番「繁藤大教会」について勉強します。
- 繁藤大教会(しげとう だいきょうかい)
- 初代会長・坂本徳太郎
- 坂本徳太郎の入信(明治22年)
- 坂本徳太郎 信仰の深まり、道一条の決意(明治22年頃)
- 集談所の設立(明治23年)
- 集談所の移転(明治23年)
- 繁藤支教会の設置(明治25年)
- 本席の繁藤巡教(明治27年)
- 繁藤の新規事業 挑戦、そして挫折(明治27年頃)
- 繁藤のどん底時代(明治29年頃〜明治39年頃)
- 坂本徳太郎 初代会長と一同、忍耐の道(明治40年頃)
- 繁藤の道の広がり(明治36年頃〜大正時代)
- 坂本徳太郎 初代会長の出直し(明治45年)
- 坂本照吉2代会長時代(明治45年〜大正15年)
- 坂本照吉2代会長の出直し 〜 浜田道久3代会長の就任(大正15年)
- 負債問題の解決(昭和前期)
- 繁藤大教会への昇格(昭和16年)
- 教会の移転建築(昭和22年〜昭和26年)
- 浜田道久3代会長の本部入り(昭和28年)
- 坂本道照4代会長時代(昭和30年〜昭和33年)
- 坂本藤恵5代会長就任 〜 繁藤詰所の建築(昭和33年〜昭和46年)
- おわりに
繁藤大教会(しげとう だいきょうかい)

繁藤大教会は、
高知県 長岡郡 天坪村 繁藤 (現、香美郡土佐山田町繁藤) にはじまる。
初代会長・坂本徳太郎
初代会長・坂本徳太郎は
嘉永2年(1849) 6月7日、
同村(天坪村)・繁藤 秋の谷に出生(した)。(坂本)家は 代々農業で、
山村には珍しい程の 近在に聞こえた大家であった。(坂本徳太郎は)
隣村・瓶岩村の 浜田家 (=旧藩主・山内家所有山林のお山番をしていた) から 娘・八重を妻に迎えて、家業は 益々栄えていた。家業は すべて妻にまかせ、自分は専ら村の顔役として東奔西走し、
その名も「秋の谷の徳さん」として遠近に聞こえ、
旅行の時には いつも白たびをはいていた。
坂本徳太郎の入信(明治22年)
明治22年(1889) 41歳の春頃、
「高松一高知」間の国道が開通されようとしていたので、
(坂本)徳太郎は、
地元民として、交渉のため 度々 高知県庁に出かけていた。(坂本徳太郎が たびたび高知に出向く内)
高知には 天理教といって 不思議な神様がやって来て(いて) 多くの珍しい救けがあがっている、
という噂が耳に入ってきた。当時、隣村・瓶岩村の竹村家に嫁いでいた 妹・八重が、33歳の時、産後の肥立ち悪く 眼病となった。
(それで) 町田病院に入院したが 不治となり、実家に連れ帰っていた。(天理教の噂を耳にした 坂本徳太郎は) 早速 その妹(八重) を連れて、高知市帯屋町に宿をとり、
当時 帯屋町にあった 高知大教会の前身である集談所 (周旋人・和田宅) に参拝。
(坂本徳太郎は、その集談所で 妹の) おたすけをうけ、数日間 滞在した。(妹・八重の眼病は直らなかったものの)
(坂本徳太郎は、高知集団所で滞在を重ね) 教理(の話)を (深く) 聞き、その有難さを (しみじみと) 感じた。これが、(坂本徳太郎) 入信の第一歩である。
坂本徳太郎 信仰の深まり、道一条の決意(明治22年頃)
その後、ある日、(坂本徳太郎が) 屋根の修繕中、どうした事かすべり落ち(てしまった。)
(屋根から落ちて) 腰痛を覚えていたところへ、同村(天坪村)・角茂谷の 佐藤永之助 (末弟・音松と共に 熱心に信仰していた) が来て、(天理教のおたすけを受けることを勧めた。)
(それで、坂本徳太郎は、佐藤永之助から) すすめられるままに、竹内伝太郎 (高知大教会部属・比江分教会創設者) の おたすけをうけた。(竹内伝太郎のおたすけを受け、結構なご守護を頂いた坂本徳太郎は)
そのようにしているうちに、益々 教えの有難さが身に沁み(るようになっていっ)た。
(そして) 遂には、自分から隣人に にをいがけをするようになった。(それを受けて)
高知の集談所からも、布数師が次々と出張して来るようになった。(坂本徳太郎は) お話を聞けば聞く程 教理の深さを悟り、
天理教の神が「元の神・実の神」であり、この教えが 世界最後(だめ)の教えであることを確信した。(そして) 41歳の時、遂に「道一条」に通ることを決意した。
集談所の設立(明治23年)
(道一条を決意した坂本徳太郎は)
翌 明治23年(1890) 1月21日に別席を運び、
同年(明治23年) 11月18日には、おさづけの理を戴いた。(そして) 同年(明治23年) 12月26日には、教徒に登録され、
いよいよ 神のよふぼくとしての第一歩をふみ出した。幸い 土地は沢山持っていたので、
同年(明治23年) に、国道沿いの天坪村 繁藤1826番地に集談所を設立した。
集談所の移転(明治23年)
信者の数は急激に増加し、
このため、参拝者の収容が困難となったので、
同村(天坪村) 繁藤125番口ノ2地に宅地を拓き、その地 (繁藤支教会 設立の場所) に、矢つぎ早に移転増築した。また、(坂本)徳太郎は、秋ノ谷の土地建物を売却し、
本宅だけを持って 集談所に近接する604番地に移転して来た。
繁藤支教会の設置(明治25年)
翌 明治24年(1891) 9月17日、高知分教会が設立され、
その翌年 明治25年 9月27日、繁藤支教会設置の許しを受けた。
(月次祭は 毎月 旧16日であった)。設立当時の文献によると、
「1. 金五百弐拾参円五拾銭也 1. 米 四石也 1. 麦 壱石弐斗也
(但し、旧九月分 収入高 如斯)
1. 金 六百七拾五円五拾錢也 1. 米 四八斗也 1. 麦 壱石弐斗也
(但し、旧拾月分 収入高)
1. 金 九百参拾参円也 1. 米 弐石八斗也 1. 麦 八斗八升也
(但し、旧拾壱月分 収入高)
1. 金 四百四拾円也 1. 米 弐石壱斗参升五合也 1. 麦 六斗壱升也
(但し、旧拾弐月分 収入高)
総合計 金 弍千六百五拾壱円七拾五銭也
仝 米 拾参石壱斗五合也
仝 麦 参石八斗九升也
(但し、明治二十五年 旧九月より旧拾弐月迄 収入高)」
とある。(繁藤)支教会 設立当初の周旋人は 46名を数え、信徒名簿に記載されている信徒者は118名である。
いずれも戸主名ばかりであるから、普通参拝人は 相当数あったものと思われる。また、当時の月給は 3円位、米1升が 3銭位の時代であったから、
(設立当時の文献に記載されたお供え量を見ると)
教勢がいかに盛んであったかが 窺われる。
本席の繁藤巡教(明治27年)
明治27年(1894) 4月、本席の巡教を受けた。
繁藤(支教会)から 屈強な若者が 阿波の川口 (徳島県と高知県との県界にある町) まで(本席を) 迎えに出た。
ここで 本席は駕籠に乗った。その日は あいにくと朝からの雨であったが、一行が進むにつれて雨は止み、去るに従って降り出す、という不思議を見せて頂き、一同 感激したという。
夕方、土佐の大杉に着き、宿舎と定めてあった「日和佐屋」に着いたが、
本席から「繁藤へ」との言葉があった。(宿屋「日和佐屋」でお泊まり頂く予定にしていた) 一同(だったが、本席の 繁藤での宿泊を希望するとのお言葉を受けて) 感激して (急遽、予定を変更して、日和佐屋での宿泊をキャンセルし、繁藤へ向かうこととなった。)
(一同は) 道を急ぎ、吉野川の支流 (穴内川) に沿って 3里(約12km) 程さかのぼって、繁藤支教会に着いた。
(本席が繁藤に宿泊した) この夜、一同 挨拶に出た中に、
周旋人の一人、岡部仲次 (弟・兼四郎と共に熱心に信仰していた) という者がいた。
岡部(仲次) は あまり人の前に出る事を好まない性格の人であったが、誠真実の人であった。(岡部仲次が) 親指を先にして両手をつき挨拶したところ、
「何か欲しいものがありますか」と言葉があった。
が、彼は 別にものを欲しがるような人ではなかった。
そこで、本席は「ものの与えを 与えてやろう」と言葉を下されたという。
この人 及び この人の子孫は「もの」を充分にお与え頂いている。本席は、翌朝 出発の際、
教会の門の脇にある桜と椎の巨木をみられ「大切にするように」との言葉を見送りの者に言われたという。(岡部仲次翁 談)
繁藤の新規事業 挑戦、そして挫折(明治27年頃)
(繁藤支教会一同は)
財力の続く間は、(坂本徳太郎) 会長始め 周旋の人達は われ先にと競って私財を提供して布教活動を進めていた。(しかし、私財のみに依存した布教活動の展開というのも) いつまでも続く筈がなく、一同(は) 策を案じた。
(一同が案じた結果 実現に至った策は、次のようなものであった。)
(繁藤支教会の) 周囲の山々には 原料が沢山あるので、布教活動費の捻出方法として、紙漉工場を作り 大々的に (紙漉)事業を始めたのである。
(このようにして、繁藤支教会として、布教活動費を捻出するために新規事業に取り組んだのであったが)
しかし「らくらくの中に実はない」との思召からか、神様はこれをお許しにならず、(紙漉=製紙事業は) 忽ちにして失敗。その後には、莫大な負債が残った。このため、(坂本徳太郎) 会長は、移築していた本宅を人手に渡し、
明治27年(1894) 11月29日 おさしづを願い、家族一同を連れて、教会に住みこんだ。明治二十七年 十一月二十九日
繁藤支教會長 教會へ引き越し願さあ/\ 尋ねる事情々々、さあ 事情は願通り、さあ/\ 許し置こう/\。
さあ 治める處/\、さあ 許し置こう/\。この頃から、繁藤、苦難の道が始まる。
(それまで) 枯野原に火を点じたような勢いの天理教であったが、
(事業の失敗をきっかけにして)
「おどり遊んで財産を取り上げる 淫祠邪教である」
との風評が伝わり出し、村人達の反対攻撃が 激しくなっていった。
繁藤のどん底時代(明治29年頃〜明治39年頃)
教祖10年祭の明治29年(1896) 頃から 同(教祖)20年祭の明治39年(1906) 頃までの およそ10年間位が、(繁藤にとって) 一番のどん底時代であった。
会長夫人・(坂本)八重は、昨日まで使用人であった人達の家に、日傭人として働きに出るようになった。
(また) 長男・照吉は、高等小学校に学びながら、郵便配達をするなどして家計を助けた。しかし (それでも、莫大な負債は一向に軽減せず) 日々の御供物にもこと欠く日が続き、債権者に責められる日が続いた。
どうする事も出来ず、八重(夫人)は、夜半ひそかに教会を抜け出し、川に身を投げようと橋上に佇んだ事が幾度もあったという。
坂本徳太郎 初代会長と一同、忍耐の道(明治40年頃)
このような状態の中にも、
(坂本徳太郎) 初代会長は、心の成人と天理教の伝道に精進した。このような苦難の日々が続く中 (どうにか日々やりくりしていたのだが)
(繁藤の) 教会設立後15年にして、遂には「教会解散」の声が出る程の状態にまで陥っ(てしまったのだっ)た。(そのようなどん底状態に陥ってしまったが、それでも、坂本徳太郎) 会長の (信仰)信念(は) 固く、(坂本徳太郎会長は、苦難の道中も 歯を食いしばって精進し続けた。
そして、忍耐と精進によりこのようなどん底状態を耐え抜き、何とか) この難関を突破(していった)。(負債問題は依然として残されたままではあったものの、
繁藤の)道は、谷底から(かすかな)光明を見出し(つつ) 一歩一歩と前進していった。
繁藤の道の広がり(明治36年頃〜大正時代)
苦難時代の(真っ只中ではあったが)
明治36年(1903) 頃に(は)、
部内・本山分教会所属の布教師が、北海道移民開拓団の一員として出かけ、紋別方面にて布教を始めていた。(その後) 長男・(坂本)照吉も そこに出かけ、共に布教し (紋別分教会の始まり)、
更に、四国に帰ってからも、高知方面で布教した (種崎分教会の始まり)。また、一方では、
(繁藤の)教線は 本山分教会から 吉野川を遡り、大川村 井ノ川 (本川分教会) から 別子銅山を北に越え、
愛媛県新居浜市 (城下分教会) の付近をはじめ、愛媛県西部に延びた。
(また) 豊後水道を渡って、大分県をはじめ福岡県・下関方面へも 広がっていった。
坂本徳太郎 初代会長の出直し(明治45年)
初代会長・坂本徳太郎は、
高知分教会 設立当初から 高知初代会長・島村菊太郎の片腕となって働き、
(繁藤のどん底時代を、誠真実の心で歩み抜いた。)(そして) 明治45年(1912) 1月23日、
63歳の時、眠るが如く 出直した。この頃、(繁藤の) 部内教会数は 14ヵ所を数え、教勢は次々と伸びていた。
世間から笑われそしられている間に 教えは八方に伸び、
(坂本徳太郎 初代会長) 出直しの時の弔電は、
四国はもちろんの事、北海道・九州などの遠方からも 続々と届いた。この時、(電報)局では人手が足らず、
大杉局に、(繁藤支)教会から 二人の青年を手配した程であったという。
また、葬儀の際の会葬者は、教会から墓地迄の数丁の道が人で連なり、近村には かつてない盛儀として 人々を驚かせた。『天坪村誌』には、
「鳴呼、曽て、土佐の山霊が生んだ 通称『秋の谷の徳さん』、彼の生涯は果して幸福なりしや、
41歳の世渡り盛りから天理教祖の門人となり、富は貧に、賢は愚に、世界の貧乏くじが一身に集中せる如く、明治45年1月、63歳を以て人生を終る迄、地位もなく、名誉もなく、只有るものは山の如き借金なりし彼、(中略)
俗世の人間的不遇の中に、天寿を完ふした彼・坂本徳太郎の墓所は、村内・繁藤小倉山の雑木に包まれた、ささやかなる先瑩の地に営まれてゐる。
いつも参拝者があると云ふ訳にはあらねど、
時に、県内はもとより、遠い県外の人人、それも、この土地とは何等の生活上の関係なからんと思はれる人々が、訪れては、涙して参詣するを見る。
恐らく、坂本徳太郎を始め 幾多の殉教者の霊も 満足せるものと思はる」
と 記されている。
坂本照吉2代会長時代(明治45年〜大正15年)
明治45年(1912) 6月28日、
長男・坂本照吉が 2代会長を継承した。(坂本照吉)2代会長在任中に (繁藤の)負債は未だ解決されなかったが、
(それでも) 教祖40年祭(を) 目標に教勢の拡張につとめ、教勢は日毎に伸びた。大正15年(1926) 11月、
(坂本照吉2代会長が) 45歳で出直した時には、
部内教会数は 37ヵ所と、(就任前に比べて) ほとんど倍となっていた。
坂本照吉2代会長の出直し 〜 浜田道久3代会長の就任(大正15年)
(大正15年11月)2代会長・坂本照吉が出直した時には、
嗣子・坂本道照が まだ年少であった。そのため、
大正15年(1926) 12月5日、
叔父の 浜田道久 (坂本照吉2代会長の末弟) が 3代会長を継いだ。
負債問題の解決(昭和前期)
(浜田道久3代会長は)
(天理教教会)本部(の)普請 (昭和普請) には、高知大教会からの献木探しに また 教えの上に、寝食を忘れてつとめた。そうこうする内に、(長年にわたって繁藤を苦しめた)負債も いつの間にか解決し、(繁藤の) 教勢も (大きく)伸びた(のだった)。
繁藤大教会への昇格(昭和16年)
(そして)
昭和16年(1941) 3月26日、
(繁藤は) 教規の定めるところにより、大教会に昇格し、高知大教会より分離した。
教会の移転建築(昭和22年〜昭和26年)
終戦直後の 昭和22年(1947)、
従来の建物は老朽化し、狭隘となっていたので、
(坂本徳太郎) 初代会長 出生の地より
川をはさんで真向かいの現在地 (香美郡土佐山田町平山字岡田丸1748番地) に、移転建築の工を起こした。(そして) 4年後の 昭和26年2月、
(無事に 移転建築が) 完成した。
浜田道久3代会長の本部入り(昭和28年)
次いで、昭和28年に
3代会長・浜田道久は、
教祖70年祭活動の おやさとふしん方の ひのきしん部主任に任ぜられた。(そのため) 会長(職)を (坂本照吉)2代会長(の)嗣子・坂本道照にゆずって 本部に入った。
その後、修養科主任等を歴任(した)。現在 ( =『天理教事典』1977年版出版当時) 本部員に登用され、おやしきにて つとめている。
辞任当時には、部内教会数も 65ヵ所を数えた。
坂本道照4代会長時代(昭和30年〜昭和33年)
(坂本照吉)2代会長(の)嗣子・坂本道照は、
昭和30年(1955) 1月26日、
許しを受け、4代会長を継承した。しかし、不幸にして、
在任わずか 3年後の 昭和33年(1958) 8月23日、
45歳で出直した。
坂本藤恵5代会長就任 〜 繁藤詰所の建築(昭和33年〜昭和46年)
(坂本道照4代会長出直し) 後、
その妻・坂本藤恵が、
昭和33年9月26日に 許しを受けて、
5代会長に就任した。昭和35年には、詰所も 高知より独立し、
昭和46年(1971) には 第18母屋として建築した。かくして、
世界だすけへの体制を着々とととのえ、
さらに活発なおたすけ活動を進めている。〔現住所〕〒782-0062 高知県香美市土佐山田町平山1748番地
〔電話〕0887-57-9207(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,396〜398)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
85回目の今回は、
「繁藤大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中にも 繁藤大教会に関する文章がほんの少しだけありましたので、自己覚え書きとして そのまま書写します。
(高知大教会初代の島村菊太郎は、身上の) 危機を脱した時、
「千人の人をたすけさしてもらい、教祖の元へお連れしてお礼を申し上げよう」
と 誓いを立てた。(島村菊太郎は) 早速、大阪の店を畳んで高知市に居を構え、寝食を忘れて布教に回った。
病院があまりない時代のこと、郡部の重い病人は 高知市内の病院に入院したり、宿をとって通院していた。
菊太郎の不思議なたすけの評判を聞きつけ、その人たちが 願いに来た。
長岡郡瓶岩村 (現・土佐山田村) の 坂本徳太郎は、
国道開通に伴い 地元代表として県庁に通ううち、噂を聞き、産後の患いと眼病で悩む妹・八重を連れて来た。後に、繁藤大教会の理を築く。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,85)
繁藤大教会は、高知大教会から分かれた大教会ですね。
高知大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】85回目の当記事では『天理教事典』の中の「繁藤大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことばかりでした。
今回の勉強で、私の中で 特に印象に残ったのは、
繁藤支教会を設立して まだ日も浅い頃、布教活動費を捻出するために、繁藤支教会として「紙漉事業」を始めたもののうまくいかず、失敗し、莫大な負債が残った、
という史実でした。
人間は 霞を食べて生きていくわけにはいかない。
何をするにも お金はかかる。布教するにも お金が必要だ。
まずは、しっかりした経済的基盤を築き上げて、その上で しっかり布教活動に励もう。
そのために、個人としてではなく 繁藤支教会として、教会活動に専念する信者の生活を 経済面から支える事業を立ち上げよう。
布教活動費を賄うために どんな事業が良いだろうか。
そうだ、教会の周りには 木が (文字通り) 山ほどある。紙漉をやろう。
紙漉事業を起こして、そこから生まれる収益を 教会生活の経済的基盤にしよう――
これは 私の勝手な想像ですが、
おそらく、繁藤の皆様は そのように考えられたのではないか、と推察致します。
『天理教事典』「繁藤大教会」解説文の中には 紙漉事業の立ち上げから撤退に至る経緯が記載されていないため、詳細は不明です。
しかし、
繁藤支教会が手がけた「紙漉」という 非常にチャレンジングな新規事業は、残念ながら失敗に終わり、その後に莫大な借金が残った…
ということは、動かしようのない事実として 繁藤の歴史に刻まれている――
それは 間違いなさそうです。
どのぐらいの負債だったのか 記述はありませんが、坂本徳太郎 初代会長の移築していた本宅が 人手に渡り、また、そこからは 日々の御供物にも困り、八重夫人は 川に身を投げようと 橋上に佇んだ程だった… と『天理教事典』「繁藤大教会」解説文には 書かれてありました。
最終的に その負債問題が解決したのは 昭和に入って浜田道久3代会長の時代になってからだった、とも書かれてありましたから、よほどの借金だったのだと思われます。

これまで【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を継続する中で、実に多くの大教会が、その歴史の中で 強烈な経済的困窮時代を経験していることを学んできました。
そして、今回の勉強を通して、「繁藤大教会」においても、
その初期に、莫大な負債を抱え 恐ろしいほどの経済的困窮時代を通ってこられたのだ、
と 知りました。
これまで、多くの天理教大教会が その初期に 壮絶な経済的困窮時代を経験していることを学んできたわけですが、
ただ、今回の「繁藤大教会」の経済的困窮は、「紙漉」という新規事業の挫折に端を発している、というところが異色だなぁ…と感じました。
これまで 私の中には、
後に 大教会にまで発展するような 大きな天理教教会の その初期は、
神様のことさえやっていれば、人間のことは放っておいても 後は全て神様が良きように取り計らって下さる、人間思案を捨てて信仰活動に全振りすることこそ尊い――
みたいな 文化があるようなイメージがありました。
しかし、「繁藤大教会」の初期は、
信仰という 内面に関わる活動に全力で取り組みつつも、
同時に、社会生活の現実面も疎かにせず、リアルな経済活動にも目を向け、実際に行動された、
というわけです。
おそらく、この部分は、
現在 天理教の教会にご縁を頂いている人にとっては、評価がわかれるところだろうと思います。
特に、天理教文化圏の中で生まれ育ち 天理教的価値観を大切にする人々にとっては、
「繁藤大教会」初期の、このような信仰活動と共に経済活動にも取り組むような活動は、「二兎を追う」活動であって「二兎を追う者は一兎をも得ず」的に受け止められるのかもしれないなぁ…
と 想像します。
「繁藤大教会」が その初期に、布教活動費を捻出するために新規事業を立ち上げた取り組みは残念ながら失敗に終わり、その後には莫大な負債が残って、その後長期間にわたって苦労された、という史実、
信仰的に考えると、それは、
そのように推移した結果こそが「神意」である、すなわち 信仰活動と経済活動を両立させようという思案そのものが神様の望むところではないことの証明だ、
と 言われるかもしれません。
しかし、今の私は、(これまで天理教大教会の初期歴史を勉強する中で、実に多くの大教会が、その初期に経済的にとてつもない苦難の道中を通り抜けてきた歴史に数多く触れてきたこともあってか)
信仰活動と経済活動を両立させようとしたこのような活動を、人間思案の強い信仰的に未熟な取り組みだったとは思えない、思いたくないという気持ちが強い… というのが正直なところです。(^^)
私個人としては、
信仰という 内面に関わる活動に全力で取り組みつつも、
同時に、
社会生活の現実面も疎かにせず、リアルな経済活動にも目を向け、実際に行動された「繁藤大教会」初期のこの史実に、
深い敬意を抱くのであります――
…しかし、きっとそれは、信仰的には、
中途半端な信仰しか持っていない者であるが故の、人間思案に囚われた未熟な考え方なのだろうなぁ… (-_-;)
という自覚はあります。
この先、経済も含めた現実面のことにとらわれずに 信仰活動に専念することこそ 神様の思いに添う行動である、という価値観に変わることも、もしかしたら あるかもしれません。(現時点では その可能性は極めて低いですが… (^^;)…)
本心から そんなふうに思えるようになることへの憧れ(?) みたいなものも、ちょっとだけあります。
自分の中に、
お道の中の「神一条の精神」という言葉は そういう境地のことを指しているのかもしれない、ならば、むしろ そういう心境になれることを目指すべきではないか…
等と思ったりする部分もありますから… (^^)
ウ~ン、例によって、今回もまた グジグジと理屈っぽいことを書き連ねてしまいました (^^ゞ

その他にも、
明治27年の本席様ご巡教の話は興味深かったです。
私の中では、本席様というと、ずっとお屋敷に詰めて「おさしづ」を出しておられるイメージでした。
なので、このように、おぢばを離れて地方の教会へご巡教に行かれることもあったという史実は、これまで持っていた本席様のイメージへ 新たな一面を付け加えてくれるものとなりました。(^^)
その他にも、どれもこれも 知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、
非常に感動すると共に、とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「繁藤大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。




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