Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号57番「愛知大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号58番「梅谷大教会」について勉強します。
- 梅谷大教会(うめたに だいきょうかい)
- 梅谷大教会の祖、宮森与三郎(明治10年頃〜明治14年頃)
- 宮森与三郎による布教〜永神組の設立(明治14年〜明治15年頃)
- 梅谷分教会の設立(明治24年)
- 神殿及び付属建物の建築(明治25年〜明治26年)
- 梅谷の道の広がり(明治25年〜明治26年)
- 内務省秘密訓令に伴う動揺(明治29年前後)
- 宮森与三郎2代会長の就任〜教会の移転(明治31年)
- 苦難をはねのけ展開する布教活動(明治31年頃〜明治39年頃)
- 駒谷儀右衛門3代会長の就任(明治41年)
- 駒谷儀右衛門3代会長時代(明治41年〜大正7年)
- 駒谷石松4代会長の就任(大正7年)
- 信者詰所の移転新築〜教祖殿の新築(大正13年〜大正14年)
- 中教会〜梅谷大教会への昇格(昭和9年〜昭和15年)
- 駒谷石松4代会長の辞職〜出直し(昭和16年〜昭和18年)
- 駒谷安次郎5代会長の就任(昭和16年)
- 戦後の様々な動き(昭和26年頃〜昭和46年頃)
- 駒谷和彦6代会長の就任〜教祖90年祭(昭和46年〜昭和51年)
- おわりに
梅谷大教会(うめたに だいきょうかい)

梅谷大教会の祖、宮森与三郎(明治10年頃〜明治14年頃)
梅谷大教会は、
後に本部員となった宮森与三郎 (旧名、岡田与之助) により 創められた。明治10年頃、(宮森)与三郎は、肩の神経痛から入信。
北檜垣 (現在 天理市檜垣町) の実家から 足繁く教祖のもとへ通い、ついには お屋敷専従となった。明治13年頃、中山秀司は、
官憲の圧迫干渉から逃れるてだてとして、
金剛山地福寺配下の「転輪王講社」を開設した。この設置出願の折、教祖は厳しくお止めになったが、
(中山)秀司は、教祖や信者の事を思い、
「神が退く」との親神の言葉を押して出かけた。この時、 (中山)秀司にお伴したのが (宮森)与三郎である。
翌 明治14年(1881)、(中山)秀司は 61歳で出直した。
宮森与三郎による布教〜永神組の設立(明治14年〜明治15年頃)
これを契機として、
(宮森)与三郎は 京都の 相楽郡木津町 梅谷に布教に出た。(京都府相楽郡木津町の) 梅谷村は 茶の産地で、
(宮森)与三郎は 日中(は) 焙爐師として働き、夜は 布教に専念した。かくするうち、
庄屋を勤めた家柄の 笹西治郎兵衛が
妻の病気をたすけられたのを契機として入信。
次いで、駒谷忠四郎が 一家をあげて入信した。明治15年1月頃には、入信家庭35戸を数えた。
かかる中、講社結成の声が挙がり、
このころに 当時 教外に好意を持たれていた「明誠社」の第2分社をおいた。笹西(治郎兵衛)、駒谷(忠四郎) に加えて 入信者も増し、布教が進められた。
(その結果) 教えは 京都、滋賀、奈良の3県に亘り 伸展し、
ついに(は) 「明誠社」の分社を廃して、笹西治郎兵衛を講元としての「永神組」の設立をみ(るに至っ)た。
梅谷分教会の設立(明治24年)
宮森与三郎(による) (京都府木津町) 梅谷の地での 3ヵ年の布教は、講社として結実。
(その後、宮森)与三郎は お屋敷に帰ることになったが、
(宮森)与三郎の教えを身に体して 布教に専念するもの(は) 陸続と現われ、「永神組」26講を数えるに到った。(そして) 明治24年(1891) 4月18日、
(天理教教会)本部より 許しを得て、「梅谷分教会」を設置した。
初代会長に 笹西治郎兵衛が就任した。
神殿及び付属建物の建築(明治25年〜明治26年)
(明治24年) 教会設立と共に、神殿及び付属建物の建築に着手。
明治25年秋 竣工。あけて (明治)26年、
初代真柱、本席・飯降伊蔵らの臨席を得て、3月20日 鎮座祭、21日 開筵式を執行した。
梅谷の道の広がり(明治25年〜明治26年)
引き続き (続々と) 部内教会の設立をみた。
明治25年には… 大柳生、神山、清古 (設立当初、忍辱仙であるが後に改称、以下改称したものは現在の教会名を記す)、鴨野、青谷、須川 の各教会が、
(明治)26年には… 綴喜・小原・今小路・北野・阿并・木津・笠置、
(明治)27年には… 梅高栄・宝飯・城南・井手、
(明治)28年には… 岩手県に 磐井 が、
引き続き 翌 (明治)29年には… 長坂、岩里、以上、新設教会の設立…
と 東北方面にも 教えは伸び、
さらに 同年(明治29年) …長野県に 高井 が設立された。
内務省秘密訓令に伴う動揺(明治29年前後)
明治29年(1896)、天理教に対する内務省の秘密訓令が発令された。
それは、少なからず 梅谷(分教会) の信者間にも動揺をきたし、
同年(明治29年) 11月(には、なんと) 初代会長・笹西治郎兵衛が 辞職を申し出(るに及んだ。)
更に(は) 教会移転の問題も生じて、事態は深刻となった。(事態)解決のため、(梅谷関係者一同は) 再三「おさしづ」を仰ぎ、
(その結果)
とりあえず 駒谷忠四郎が 副会長に就任(し、この困難に対応することとなった)。また、(事態)収拾のため、(天理教教会)本部より 数度にわたって 本部役員が派遣された。
宮森与三郎2代会長の就任〜教会の移転(明治31年)
(内務省秘密訓令発布から打ち続く混乱を受け、梅谷関係者一同が) 協議の結果、
教会(を) 移転(すること)が決定した。(また) かかる事態ゆえ、
2代会長に(は、梅谷創立の祖である) 宮森与三郎を、
との願い出が(一同から)なされ(た。)(それを受け)
明治31年3月、(天理教教会本部の) 許しを得て、
(宮森与三郎が 梅谷分教会2代会長に) 就任した。また (明治31年) 同月(3月)25日、
(梅谷分教会は) 移転の許しを受けて、
(現在地である) 奈良市 東笹鉾町75番地に移転。
(明治31年) 12月22日 鎮座祭を執行した。
苦難をはねのけ展開する布教活動(明治31年頃〜明治39年頃)
このような混乱の中、
多くの役員は引退、信者は離散、講社は他系統に転属する…など 教勢に大打撃を受けた。しかし、宮森与三郎を芯として 残った信者は、(そのような苦難に負けることなく) 復興に努めると共に 布教活動に邁進した。
(その結果)
明治32年には… 東北方面に 本吉、東山 が、
翌(明治)33年には… 下閉伊・上北・東陸・釜石・千厩 が、
さらに 同年(明治33年) … 北海道に 花畔、
と (全国広範囲に) 各教会の設立をみた。また、地元である 奈良でも、
明治37年… 倭清水 が設立され、
苦難の中に(も) 新たなる活動は進められた。明治39年(1906) 1月(には)
おぢば(へ)参拝(し宿泊する)信者のために
宮森与三郎宅 (現天理市三島町にあった) 2階を改築して、
「梅谷分教会 仮事務所」(=詰所) を開設した。
駒谷儀右衛門3代会長の就任(明治41年)
明治41年3月、2代会長・宮森与三郎は、
梅谷(分教会)の復興を果たし、次代を担うべき者が育成されたのを見届け、
本部の役目も多忙なところから 会長を辞した。
(宮森与三郎は、昭和11年1月25日 80歳で出直した)。かわって、3代会長に
副会長・駒谷忠四郎の子息、(駒谷)儀右衛門が 就任した。
駒谷儀右衛門3代会長時代(明治41年〜大正7年)
(駒谷)儀右衛門は、
嘉永4年(1851)生まれで、
父・忠四郎の感化をうけて信仰に勤しんだ。ことに、苦難の中を (父・駒谷忠四郎と) 共に歩んだ経験から、
(駒谷儀右衛門は)
(梅谷)部内教会の丹精と発展の上に 努力を傾けた。(駒谷儀右衛門が3代会長に) 在任(の)期間中、
明治42年に… 稲田、
翌43年には… 田原郷・波多野が、
また
大正2年には… 宿浦、
以上の教会設立をみている。(駒谷)儀右衛門(3代会長) は、
大正7年(1918) 1月9日、病を得て 67歳で出直した。
駒谷石松4代会長の就任(大正7年)
(駒谷)儀右衛門(3代会長) の出直しにより、
4代会長に、嗣子・駒谷石松が
同年(大正7年) 1月29日付で 就任した。
信者詰所の移転新築〜教祖殿の新築(大正13年〜大正14年)
大正13年4月17日、
三島で開設され その後 布留〜田部 と転々とした「梅谷分教会仮事務所」を、
名称も「信者詰所」と改め、現在地の 川原城へ 移転新築した。翌(大正)14年、
教祖40年祭を目睫にして 教祖殿新築に取り掛かり、
(大正14年) 10月20日 竣工し、鎮座祭を執行した。
中教会〜梅谷大教会への昇格(昭和9年〜昭和15年)
昭和9年(1934)7月、中教会(へ) 昇格した。
そして、
昭和15年3月13日、(梅谷)大教会に昇格した。
駒谷石松4代会長の辞職〜出直し(昭和16年〜昭和18年)
翌年(昭和16年)、
(駒谷)石松は、臥床 老齢を理由に 会長職を辞し、
昭和18年5月19日、出直した。
駒谷石松4代会長、在任中の功績(大正13年〜昭和10年)
(駒谷石松4代会長は) 在任期間中、部内教会の発展に尽力した。
大正13年… 梅波多・北高山・名賀、
(大正)14年… 津西(昭和17年再認可)・清光・東清神・盛・北仁・ 神信・草内・相内・磐仙、
(大正)15年… 梅鮮・摺沢、
昭和2年… 梅東清、
(昭和)9年… 和滝・釜鉄・梅陸・小友・小原木・磐長・松岩・綾高、
(昭和)10年… 梅和・相馬山・島亀山、以上の如く (続々と) 26ヵ所の教会が新設された。
さらに奈良教務支庁主事としても永年つとめた。
駒谷安次郎5代会長の就任(昭和16年)
(駒谷石松)4代会長の辞職にともない、
昭和16年(1941) 10月9日、
駒谷安次郎が 5代会長に就任した。
戦後の様々な動き(昭和26年頃〜昭和46年頃)
(駒谷安次郎が5代会長就任時は) 戦中、戦後と困難な時期であったが、
(梅谷) 部内一つになって 布教に専心した。昭和26年3月22日、
2代真柱を迎えて「梅谷創立60周年記念祭」を執行(した)。教祖70年祭の昭和31年(には)、
(梅谷)大教会 隣接地 (=教祖が数度にわたり御苦労になった旧奈良監獄署敷地跡の一部) 500坪を買収。さらに、教祖80年祭の昭和41年には、
同じ跡地の 1,100坪の土地と 警察学校であった建物を 買収した。年祭毎に 教祖ゆかりの土地を得る事ができ、
70数年前に苦労の中から移転をしていた という親神のはからいに、
一同の感激も 一入のものがあった。昭和46年10月、
後任者の成長と 健康上の理由から (駒谷)安次郎は 会長を辞し、
昭和48年9月23日、73年の生涯を閉じた。
駒谷安次郎5代会長、在任中の功績(昭和21年頃〜昭和40年頃)
(駒谷安次郎5代会長) 30年間の在任期間中、
昭和21年… 白光・梅弟、
(昭和)22年… 八街・浪里、東広、
(昭和)23年… 梅真・広泰・梅高久、
(昭和)27年… 磐吉、
(昭和)29年… 釜石港・中妻・釜市・梅奥東、
(昭和)30年… 円平・ 倭京平、清広理、綾光、中井戸、
(昭和)31年… 梅伊豆、
(昭和)40年… 五葉松…
以上の各教会の設立をみた。また、(駒谷安次郎5代会長は) 奈良教区長としても 2期つとめるなど、要務を果たした。
駒谷和彦6代会長の就任〜教祖90年祭(昭和46年〜昭和51年)
昭和46年(1971) 10月27日、
(駒谷)安次郎の長男・駒谷和彦が、6代会長に就任した。翌(昭和)47年3月2日、
真柱臨席のもと 盛大に(6代会長)就任奉告祭が執行された。この前日(昭和47年3月1日)には、真柱祭主で 中山家霊様を合祀した。
喜びの中、同年(昭和47年) 10月、
「(梅谷大教会)創立80周年記念祭」をつとめた。昭和50年、 教祖90年祭を前に、
手狭になった詰所を、一部新築 拡張した。この年(昭和50年)… 梅の原・浜洋 が設立され、
教祖90年祭の (昭和)51年には… 円勇 が設立された。〔現住所〕〒630-8288 奈良県奈良市 東笹鉾町75番地
(『天理教事典』1977年版 P,80〜82)
〔電話〕 0742-26-4927
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
58回目の今回は、
「梅谷大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】58回目の今回は、
『天理教事典』の中の「梅谷大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、今回も、本当に知らないことだらけでした。
梅谷大教会の土台は、宮森与三郎先生によって築かれたとのこと。
私の中で、天理教において【梅谷】という単語は、船場大教会の「梅谷四郎兵衛」先生と結びつきがち… (#^^#)
なので、「梅谷大教会」と聞くと、何となく船場の梅谷四郎兵衛先生のことをイメージしてしまいます。
ですが、梅谷四郎兵衛先生とは全く関係なくて、「梅谷大教会」の【梅谷】は、京都府木津町の「梅谷」という地名からきていたのですね。
また、「梅谷大教会」といえば、おやさまが何度も御苦労下された旧奈良監獄署の隣にある 奈良市の大教会!というイメージがありました。
が、元々は、京都府木津町で誕生した教会で、それが いろいろあって奈良市へ移転した、と。そういう歴史があったのですね。
現在 内統領の 宮森与一郎先生が会長をしておられる明拝分教会が京都府京田辺市にあるのも、きっとそうした歴史が関係しているのでありましょう。
だからどうした? という話題かもしれませんが、
知らなかったことを知るというのは、たとえ些細なことでも嬉しく感じるもの…という話であります (^^ゞ

今回の『天理教事典』「梅谷大教会」解説文の書き写しを通して 私が最も印象に残ったのは、明治29年の内務省秘密訓令に伴う大混乱の部分でした。
『天理教事典』の中には次のように書かれてありました。
明治29年(1896)、天理教に対する内務省の秘密訓令が発令された。
それは、少なからず 梅谷の信者間にも動揺をきたし、同年(明治29年) 11月(には、なんと) 初代会長・笹西治郎兵衛が辞職を申し出(るに及んだ。)更に(は) 教会移転の問題も生じて、事態は深刻となった。
(事態)解決のため、(梅谷関係者一同は) 再三「おさしづ」を仰ぎ、(その結果) とりあえず 駒谷忠四郎が副会長に就任(し、この困難に対応することとなった)。
また、(事態)収拾のため、(天理教教会)本部より 数度にわたって 本部役員が派遣された。(内務省秘密訓令発布から打ち続く混乱を受け、梅谷関係者一同が) 協議の結果、教会(を) 移転(すること)が決定した。
(また) かかる事態ゆえ、2代会長に(は、梅谷創立の祖である) 宮森与三郎を、との願い出が(一同から)なされ(た。)
(それを受け) 明治31年3月、(天理教教会本部の) 許しを得て、(宮森与三郎が 梅谷分教会2代会長に) 就任した。
また (明治31年) 同月(3月)25日、(梅谷分教会は) 移転の許しを受けて、(現在地である) 奈良市東笹鉾町75番地に移転。(明治31年) 12月22日 鎮座祭を執行した。
(『天理教事典』1977年版 P,81)
内務省秘密訓令によって、梅谷大教会の初代会長である笹西治郎兵衛先生が辞職された (それで 駒谷忠四郎先生が 副会長に就任された)。
そして、教会も、京都府 相楽郡木津町 梅谷から、今の 奈良市 東笹鉾町に移転された。
それでもって、梅谷分教会の母体となった「永神組」を創設しながらも お屋敷の御用があるため梅谷の教会運営には携わらずにいた「宮森与三郎先生」が、2代会長に就任された。
教会移転、事実上の創始者である宮森与三郎先生の 会長就任…
という、梅谷大教会の大変革をもたらした「内務省秘密訓令」というのは、
まさしく、初期・梅谷大教会の「大節」だったことがわかります。
これまでに 講話等の中で、
「内務省秘密訓令」が天理教に与えたダメージは非常に大きいものがあった、
という話を聞いたことはありました。
しかし、恵まれた現代に生きる私にとって、それは、
リアルさを伴わない「遠い昔の歴史上の出来事」
という感じのものでした。
それが、今回、
こうして「内務省秘密訓令」に伴う混乱状況を【具体的な史実】として捉える機会を与えて頂いた。
それにより、これまで何となくボンヤリとしかイメージ出来なかったその歴史上の出来事を、
わずかではありますが、形というか現実感を伴って感じることができるようになった気がします。
昔の出来事をより身近なものとして感じるためには、
実際の人物や場面を具体的に辿ることが大切なのだ、
ということを 改めて感じさせられたのでありました。

また、梅谷大教会というと、
旧奈良監獄署敷地跡の隣接地 というのが有名な話であります。
何も知らなかった私は、これまで
旧奈良監獄署敷地跡の隣接地ということで、あえて そこに教会を設立したのだろう… ぐらいに思っていました。
しかし 今回の勉強を通して、
実際はそうではなくて、
たまたま梅谷大教会が移転してきたのが旧奈良監獄署敷地跡の隣接地で、それが教祖70年祭、80年祭と、年祭ごとに教祖ゆかりの土地を買収していくことになったのだ… と知りました。
神様の不思議なお働き という感じがしますよね。
このようなことも、
このような勉強をしていなければ全く知らないままなことでした。
知らなかったことを知ることが出来て 嬉しく思います。
その他にも、
これまで知らなかったいろいろな事を知ることが出来て、とても勉強になりました。有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「梅谷大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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