Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】、
今回もいきます。
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ 初回記事の冒頭に記述してありますので、
ご一読頂ければ 幸いです。
教材は、
たまたま自教会にあった 1977年版の『天理教事典』。
古い教材にて、記述内容はとても古いです。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
当ブログは、自己学習目的のものでして、
ただ単に、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したものであります。
ですので、
記事の記述内容の正確性というところまではよく検証できていないということを
まず、お断りしておきたいと思います。
当シリーズ前回は、
教会番号12番「芦津大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号13番「高知大教会」について勉強します。
高知 大教会 (こうち だいきょうかい)
島村菊太郎 初代会長の入信
高知大教会 初代会長 島村菊太郎は
安政5年(1858) 11月5日、
高知県 香美郡三島村久枝(現南国市) に生まれた。信仰の始まりは、
明治21年(1888) 春である。当時 菊太郎は、10年間の酒造場勤めから独立、
高知市において酒造業を始めたが、
2度にわたる失敗で破産、大阪に出て何とか成功し、
家を興すべく 海産物商を営むうち、
痔の疾患に苦しんだところから、
同郷の知人、
都築竹治 (=安政3年出生、昭和13年出直、83歳。当時 南真明組「よふぼく」、後に転籍して高知大教会役員)
を訪ね、
「神様の話を聞かせてくれ」
と頼んだことによる。3度の「おぢば帰り」によって
鮮かに平癒した 菊太郎であったが、
同年(明治21年) 7月より 肋膜炎発病、
8月には 重態との宣告を受けた。しかし 悟るところがあって、
(明治21年) 8月下旬「おぢば」に帰り、
3日間の滞在中に すっきり癒った。この不思議な親神の働きに感激した菊太郎は、
「無い命たすけられたご恩報じに、千人の人をたすけさしていただく」
との心を定め、
早速 大阪の店は友人に譲って、(明治21年) 9月上旬、
千人救けの 悲願達成を目的に、
妻 銀代 (=文久元年生まれ、明治21年菊太郎と結婚、大正15年出直、66歳)
の待つ 高知へ帰った。この時、
菊太郎は まだ「おさづけ」を拝戴していなかったが、
神棚に供えて祈念した神水と、
「おぢば」より戴いた御供(ごく)を持って
真剣な布教を開始した。破産した家の復興も、借金の返済も
一切を守護に任せ
直ちに 布教に専従した その決断、その真実を
親神も受取られたのであろう、
不思議や奇蹟が相次ぎ、菊太郎の家には 早朝から大勢の人が押しかけ、
整理に困るほどになったので、
大阪の都築竹治に応援を求めなければならなかった。この年末(明治21年末) には、
求めに応じて帰高した 都築竹治と共に、
なおも 熱心な布教活動が続けられた結果、
早くも 天理教の教えは 高知市内だけでなく、
近郷一帯に 伸びて行った。
高知集談所の開設(明治22年~明治23年)
明治22年(1889) 4月、
熱心だった ある周旋に土地の提供を受け、
たすけられた人々の手によって、50坪の神殿が落成、
高知集談所の開設祭が つとめられた。所長に推された 菊太郎は、
自分は 千人救けの約束を果たしたなら、
元の商売に立ち返って家を興さねばならないからと、
固辞して受けず、
講元(所長) 講脇(副所長)とも 人に譲って、
自分は 理事に名を連ねただけであった。この年(明治22年) 5月18日、
菊太郎は「おさづけ」を拝戴、
親神の「よふぼく」として
ますます 熱心な布教活動に 献身した。明治23年(1890) には、
布教線は 四国山脈を越えて 愛媛県に伸び、
高知県下では、
繁藤(現大教会)、山田、比江、夜須、赤野、加茂(現 伊野大教会)、高岡(現大教会)、新居
の順で 講が結ばれ、
各地で布教に専心する「よふぼく」も だんだんその数を増していった。現在 高知大教会の主な直属教会の基礎は この頃 築かれている。
高知分教会の設置(明治24年~明治25年)
明治24年(1891) 3月、
再び 集談所長就任を 一同から強く要請せられた菊太郎は、
漸く初志を翻し、
天理教に専従することを決意して
所長に就任した。この年(明治24年) 8月、
集談所の通路変更と 家の一部改造を願い出たところ、
「おさしづ」をもって、
思いもかけず 教会設置の神意を告げられた。神意に勇み立った菊太郎は 急遽 高知に帰り、
一切の準備を整えて 役員多数と共に「おぢば」に帰り、
(明治24年) 9月16日、
「おさしづ」をもって、
本部直属教会としての 高知分教会設置を許された (初代真柱 認可は 9月17日)。
この時、教会設置願書に連署した役員・ 周旋は 364名にのぼる。同年(明治24年) 12月、
教会設置にともなう 神殿建築のための移転地 1,157坪を、
高知市 永国寺町 (=現在の所在地の一部であるが 町名変更のため 追手筋2丁目3番22号となっている)
において買収、
その後、南と東の隣接地 合計 1,995坪も買収し、
翌 明治25年 早々より 神殿建築に掛った。この年(明治25年) 、
繁藤、高岡、山田、比江、土南、伊野 が
それぞれ 教会設置を許され、
島根県、宮崎県へも 道が伸びて行った。
神殿建築前後(明治26年~明治27年)
明治26年(1893)、
見事 竣工して 当時 四国一と称された神殿において、
初代真柱一行を 本部より迎え、
盛大な奉告祭が 執り行われた (=神殿・木造瓦葺 単層平家建、梁行8間、桁行12間、床面積 約500m²)。この年(明治26年) 、
韓国 釜山において、
部内の土南分教会からの布教が始められた。
これが 天理教における海外布教の嚆矢(こうし)といわれている。また
長崎県、対馬、福岡県、大分県など
九州方面にも 伝道線が伸びて行った。
明治27年(1894) 4月、
本席 飯降伊蔵の手によって、
高知大教会に 教祖 お目標が 祀られた。
高知分教会 道の広がり(明治28年~明治30年代)
明治28年には
1年間に 48ヵ所の教会が設置され、
部内教会 合計 62ヵ所を数えるようになった。韓国においても、信者は 200名を越え、
この年(明治28年) 10月
韓国から 2名の信者が 初めて 参拝のため来日。翌年(明治29年) の教祖10年祭には
10数名の信者が「おぢば」に参拝した。これを機会として 韓国布教に資するため、
高知市に 朝鮮語塾を開いたが、
日清戦争後の現地事情や 経費の問題もあって 間もなく閉鎖、
韓国布教自体 頓挫のやむなきに至った。この 明治29年 (1896) 4月には、
内務省訓令 甲第12号をもって 全国に天理教弾圧が指令されたが、
このショックに加えて、多くの事情がつぎつぎと重なり、
20年以上にも及ぶ 教勢沈滞という影響を受けなければならなかった。その影響を 教会設置数の上から見てみると、
明治30年(1897) 23ヵ所、31年8ヵ所、32年7ヵ所、33年2ヵ所、34年4ヵ所、35年4ヵ所、36年1ヵ所、37年1ヵ所、38年3ヵ所といった状態で、
覆うべくもない 不振沈滞が 見受けられる。この間、菊太郎は
明治33年(1900) 天理教会本部准員、34年 本部員に 登用任命されている。また 同じくこの間に、
明治29年 5月 詰所建築の許しを得て、
85坪ほどのものが 8月完成。明治38年(1905) には、
教祖20年祭の 帰参者受け入れのために 23坪を増築、
明治43年にも、16坪余りの増築をしている。明治39年(1906) 夏頃より
菊太郎は 健康を害し、
臥床する日が 続くようになった。
高知分教会から大教会へ(明治40年頃~明治42年頃)
こうした中にも、
教勢の伸展を念ずる菊太郎は、
明治40年 1月、
アメリカ布教を計画して 布教師 8名を選び、ハワイ布教に派出した。これは、向こうの国情、風俗、習慣等、事前の研究不足から 大半が挫折した。
明治41年(1908)、
天理教が 一派の独立を許されたところから、
菊太郎は、天理教録事に任ぜられ 改めて 本部員を拝命した。また 高知分教会も
翌年(明治42年) 大教会と改称された。この時の教勢は、
四国・中国・九州の殆ど全県に及び、
所属教会144ヵ所、教師数1,313 名、「よふぼく」数3,544名、信徒戸数約18,000戸を 数えている。
島村菊太郎初代会長の出直(明治43年~明治44年)
明治43年、
菊太郎の病状は 次第に悪化、
これを憂えた初代真柱は、
甥(おい) に当たる 梶本国治郎を 布教中の東京から呼び返し、
(明治43年) 12月31日、島村家の養嗣子として 入籍した。翌(明治) 44年 1月29日、
高知大教会 初代会長 島村菊太郎は、
「神様が 三日の間 ゆっくり休ましてくださる」
を最期の言葉として、
波瀾に富んだ その生涯を閉じた。
54歳であった。(明治44年) 2月2日、
本部葬をもって 豊田山に葬る。この出直によって、
養嗣子 国治郎は、
同年(明治44年) 4月29日、2代会長に就任した。
島村国治郎2代会長・前期(大正時代)
大正元年(1912) 3月、
大教会 神殿南側に 別棟として
教祖殿建築の許しを得、5月竣工した。この頃、永年の事情による教勢不振も 少しずつ解決に向かい、
明治42年からこの年までの 4年間に、
63ヵ所の教会が 新設されている。大正3年(1914) 2月18日、
国治郎に長男出生、初代真柱は、初代会長 (島村)菊太郎の生まれかわりとし、
「前生は 花の菊であったが、今度は 規矩準縄 (きくじゅんじょう) の規矩としよう」
と、規矩夫と 命名した。この年(大正3年) 9月、
(島村国治郎) 2代会長は 教勢伸展を図る上から 都会布教を提唱し、
東京へ 6名の布教師を みずから引率して出発、
大阪へも 出張所を開設した。これは 教祖30年祭への活動の一環であったが、
はじめ 効果が見られなかったものの、
これが種となって、
後年 首都圏や大阪方面に 教会が設置されるようになった。大正8年(1919) 1月 本部春季大祭に、
高知の他 10数ヵ所の直属教会に対し、
事務停止という、
本部への願書など一切受け付けてもらえない、
きびしい処置を受ける事となった。それは
高知が、永年の教勢不振から、
10数年間にわたって、本部へ納めるべき教費金を滞納、
本部からは
「教費金は 本部と教会をつなぐ血管のようなもの、血管が切れては 救かる道がない」
と、たびたび 督促をうけていたが、
(島村国治郎) 2代会長は
部下全体の疲弊 (ひへい) の状態を見て
「この上に苦労を掛けるには 忍びない、
幸い自分は 本部出身であるから、
自分が悪者になって 頭をさげて通ればいい」
と信じて、事をかわしてきた。ところが
この事務停止という 思いがけない事態となったのである。このとき (島村)国治郎は
初めて 自分の考えの誤りを悟り、
「真に子供のためを思うなら、
たとえ それが どんなに苦しくても、
ぢばのため 親のために、
運び切り、尽くし切らせることだ」
との信念を固めた。そうして
この信念が、(島村国治郎) 2代会長の 信仰のバックボーンとなり、
これから後の 高知大教会の進路を決定づけた。この年(大正8年) 2月、
高知詰所 移転建築の許しを得、
4月着工、翌年(大正9年) 4月 竣工した。大正10年(1921)、
教祖40年祭にともなう、
教勢倍加運動、境内拡張の 2大方針が
本部より 発表された。(島村)国治郎は
特に 境内拡張こそ緊要であると、
先ず 高知詰所の移転を図り、
数ヵ所の土地を物色ののち、
田井之庄に適地を見付けて 翌年(大正11年) 買収、続いて 本部職員住宅地や、他の詰所の用地 (8ヵ所)も 買収に掛かり、
幾多の困難を乗り越え、
時には 反対派の暴漢に襲われ、
時には 我が命を拋つ覚悟で交渉にのぞむなどの苦心を重ねて、
遂に 約40町歩(40ヘクタール) の買収を完了、
本部周辺の詰所等、
大正14年までに その移転を終えることが出来た。この年(大正14年) 国治郎は 本部員に登用された。
島村国治郎2代会長・後期(昭和初期~昭和16年)
昭和5年 (1930)9月、
本部より教祖50年祭・立教100年祭と昭和普請が 発表された。(島村)国治郎は 欣然と
翌年(昭和6年) 1月、普請用材の献納を申し出て その一部を引き受けたが、
神殿丸柱に使用される巨大材は 国有林以外にはなく、
その国有林でも 到底見られない といわれた。しかし「親神様の神殿用材だから必ずある!」との信念から、
(昭和6年) 2月、献木探査班を編成、
四国山脈中の数ヵ所へ 派出した。この年(昭和6年) 12月上旬、
2代真柱一行を迎えて 視察入山を得るまで、
その探木の苦心は 言葉に尽せないものであった。また 材の発見、払下げ折衝、代金納入、伐採、人力による搬出等、
以後 4年間、信者一丸となって、
ただ献木、献木 の声に明け暮れた。その心血をそそいだ 真実の結晶として、
昭和普請の用材、
檜388本 3,100石(1,023㎥) 栂332本 6,000石(1,980㎥)
を中心とした 献木を
完了することができた。昭和15年(1940) 高岡、川之江、
翌年(昭和16年) 繁藤、愛豫、伊野 と、
それぞれ 大教会に 分離昇格した。昭和16年 8月26日、
2代会長 (島村)国治郎は 本部専務となり、
3代会長に 嗣子、規矩夫が 就任した。
島村規矩夫3代会長(昭和16年~昭和50年)
昭和20年 6月7日と 7月4日の2度、
高知市は 大空襲を受け、大教会の四囲は炎上、
市内の7割は 焼失壊滅の被害を受けた上、
翌(昭和) 21年12月、南海大地震によって 徹底的にいためられた。
しかし、神殿 その他 境内建物には 殆ど被害がなかった。昭和23年(1948)
戦災都市復興計画法により、境内地の3分の1近くを強制収用されることとなったが、
代替地の無償提供と保育所開設を条件に、指定解除を得たことから、
(昭和23年) 11月、たちばな保育園を開園した。昭和25年 創立60周年記念に 教務所(客殿)建築を決定、
翌年(昭和26年) 9月完成した。昭和32年(1957) 高知市五台山の墓地移転を決定、
また 数年前、部内教会より献納されていた大阪市森の宮の土地に、
布教の家(完成後、大阪信者修練所と呼ぶ) が 順次完成した。昭和34年 3代 (島村規矩夫) 会長は 神殿建築の決意を表明、
1期工事として 信者室(鉄筋コンクリート3階建) の建築、
そのための 役員住宅 移転建築に取り掛かった。これらは 昭和37年の創立70周年記念祭までに
それぞれ仕上がった。昭和37年 8月、
おやさとやかた東左5棟完成により、高知詰所を移転することとなり、
(昭和37年) 10月移転、
田井之庄の旧詰所は 本部に献納した (現在《=『天理教事典』1977年版 発刊当時》天理大学体育学部に使用中)。昭和39年(1964) 4月、3代 (島村規矩夫) 会長は 本部員拝命。
教祖80年祭の後、昭和43年 2月 待望の神殿建築の許しを得、
鉄骨鉄筋コンクリート造 本瓦葺 2階建の神殿 延べ787坪、付属建物 延べ614坪が完成、
昭和46年11月、
創立80周年記念祭と神殿落成奉告祭を執り行なった。昭和50年5月26日、3代 (島村規矩夫) 会長の出直により
4代会長に 島村広義が就任した。
島村広義4代会長(昭和50年~)
4代会長、島村広義は 昭和42年天理大学を卒業。
昭和38年 2月1日「おさづけの理」拝戴。昭和43年 10月25日 本部青年に登用され、
昭和45年には 青年会高知分会委員長。(昭和)46年 7月1日には 高知教区主事、
同年(昭和46年) 12月26日 青年会本部委員を歴任。〔現住所〕〒780‐0842 高知市追手筋2丁目3番22号
〔電話〕088-822-7717(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』(1977年版) P,326~329 )
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
13回目の今回は、
「高知大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
『天理教事典』(1977年版)「高知大教会」説明文を書き写した後、
ネットで「高知大教会」を検索してみると、
すぐに「天理教高知大教会」公式HPがヒットしました。
ただちにお邪魔して拝見。
すると、立派なホームページの中に
「島村菊太郎 初代会長の歩みを詳しく見る」というページあり。
そこには、
高知初代・島村菊太郎先生の入信から教会設立、神殿普請までの歩みが、
「劇画 教祖物語」(道友社)を描かれた中城健雄先生による漫画を中心にして
非常に分かりやすくまとめられているではありませんか!
これは分かりやすい‼…(^O^)/
「明治24年9月16日高知分教会設置の願い」に対する【おさしづ】も掲載されていて、
文章だけでは感じることが出来なかった 高知大教会設立に至る苦難の歴史をじっくり味わうことができる…
と、本当に、心から感動しました。
「天理教高知大教会」公式HPによると、
島村菊太郎物語
本文中の挿絵は、髙知大教会が発刊した劇画「天理教髙知大教会初代会長 島村菊太郎物語」(編:髙知大教会 画:中城健雄) の作中のものです。
島村菊太郎の入信、生い立ちからその晩年までを、全380ページにわたって描き切った信仰劇画の本作では、菊太郎の人物、逸話などがより詳しく描かれています。
道友社発刊の「劇画 教祖物語」を作画された中城健雄先生の力作でもある本書は、髙知大教会にて頒布しております。
詳細は、天理教髙知大教会 (088)822-7717 までお問い合わせください。
とのこと。
機会があれば、取り寄せて ぜひ全編拝読させて頂きたい、と思いました。
この【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においては、
『天理教事典』(1977年版)に記載された各大教会の歴史書き写した後に、
毎回、自己学習の意味もあって、
「あとがき」とか何とかいって 私の感想みたいな文章を付け足しているのですが、
今回は――
“そんなものいらない…
「天理教高知大教会」HPの「島村菊太郎 初代会長の歩みを詳しく見る」を読んで、
天理教を支える大きな柱の一つに発展した「高知大教会」の原点というものを
じっくり噛みしめさせて頂きたい!――”
そう思いました。
ただ、
蛇足であることは重々自覚しておりますが、
今回書き写した史実の中の、大正時代の【業務停止】処分という史実、
それには強い衝撃を受けた――
という個人的に率直な感想は、覚え書き的意味で、
書き足しておきたいと思います。
【業務停止】――
そんな歴史があったとは…
全く知らなかった (*_*)
そこからは、
いろいろな悟りが出来ると思います。
…しかし、私はその背景をよく知りません。
それに、何と言っても、ふらふらさまよう信仰落第生です。
なので、興味本位で深入りするのは 控えておきたいと思います(^^;)
…いずれにしても、
今回も、いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
『島村菊太郎物語』のような漫画があると、本当にいいですね。
初代の苦労が、頭の理解だけでなく、
胸というか 心の奥にまで 染み込んでくるような感じがします。
すべての大教会にあったらいいのに…と思ってしまいます(笑)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「高知大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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