Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番34号番「生野大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号35番「東愛大教会」について勉強します。
- 東愛大教会(とうあい だいきょうかい)
- 西家長男の 西 初太郎について
- 西家そろっての入信(明治20年)
- 西 初太郎 初代会長の布教(明治20年頃〜明治22年頃)
- 濃尾地震、災害復興ひのきしん隊(明治24年)
- 災害復興ひのきしん後の熱田・知多方面布教(明治24年〜明治25年頃)
- 東愛出張所の設置(明治25年頃〜明治26年)
- 東愛出張所 設置場所の調整(明治26年頃)
- 西初太郎 初代会長の座右の銘(漢文)
- 支教会→分教会→中教会→東愛大教会(明治28年→昭和15年)
- 檜づくりの事務所建築(昭和15年頃)
- 西 初造2代会長の就任(昭和16年)
- 西 初太郎初代、会長職の退任〜出直し前後(昭和16年〜昭和18年前後)
- 太平洋戦争〜戦後復興(昭和20年頃〜昭和27年頃)
- 西 初造2代会長から西初彦3代会長へ(昭和40年代)
- おわりに
東愛大教会(とうあい だいきょうかい)
西家長男の 西 初太郎について
東愛大教会の初代会長 西初太郎は、
明治5年(1872) 4月19日、
三重県 南牟婁郡 市木村209番屋敷の
西 専助、いそ夫婦の間に、長男として生まれた。家は 父祖以来、木綿屋を主業としていたが、
後に 呉服、荒物、菓子、酒、味噌、醤油などの日用品や雑貨なども営業するようになり、
近隣で、通称「店」といえば、まず 西家のこととされ、
家計は豊かであった。(西) 初太郎の下には 7人の弟妹、上に姉二人がいたが、
祖父母と父母の慈愛は、長男である 初太郎 の一身に集められていたようである。
西家そろっての入信(明治20年)
明治20年 陰暦10月に至り、
(西) 初太郎の姉 はんの夫・西 菊次郎が腸チフスにかかり、
一進一退の病状が続いた。その頃、
尾呂志村の 天理教布教師・山田作次郎の噂を聞いていた。(山田)作次郎は
肺結核を患い、次第に重症となっていくので、
行商をしている畑林為七に案内を頼み、
大阪の緒方病院へ赴く途中、
当時、評判の高い大和の おぢば に参拝し、僅か3日間で病気が全快。
「この教えこそ間違いない」と確信し、
その信念を世の中の人に伝え、布教に専念していた。事実、ここかしこで 不思議な程に 奇蹟が起こっていた。
病人は、100人中100人とまでいかないにしても 99人が確実に救かった。西家の人々は、
(西) 菊次郎の腸チフスを救けてもらうのは この神様より他にない、
と相談をまとめて、
(山田作次郎に) おたすけ を依頼した。依頼に応じて西家を訪れたのは
(山田作次郎と共に布教に励んでいた) 畑林為七であった。(畑林)為七は、
(西) 菊次郎の寝ている隣の部屋で 一心に祈念した。ところが、
神様に願って貰った直後に、
(西) 菊次郎は 容態が急変し 俄かに出直し(てしまっ)た。父の (西) 専助をはじめ 一同の者は
この事態に接して驚くと共に
「これは並のことではない」と考え抜いた。(そして その)結果、
一家そろって 入信することになったのである。時に 明治20年 11月29日 陰暦10月15日、
(西) 初太郎16歳の時である。
西 初太郎 初代会長の布教(明治20年頃〜明治22年頃)
(西) 初太郎は、ただちに布教に出た。
夜は、山田作次郎、畑林為七の家を訪ねて 教理を学び、おつとめ を習い、
日中は、紀州の山野を 布教に走りまわる毎日であった。当時、天理教の発展を妨害しようとする運動は、
この地方においても 激烈を極めた。
明治22年 陰暦11月、
「正明講」講長・山田作次郎が 尾呂志村 栗須の駐在所に召喚された。その折、(山田)作次郎と警官とが取り交したやりとり――
「私は このお道(天理教)を信仰したお蔭で、無い命を救けて貰ったのです。
こんな結構なお道を 自分だけのものにしておいては申し訳ない。
日本はおろか、世界の隅々まで、この教えを広めるつもりでおります。」「馬鹿をいえ。
日本はおろか とお前はいうが、日本がどれ程広いのか 知っているか。
南牟婁あたりでさえ 反対されているではないか。
伊勢や美濃、尾張へ行ってみろ。仏教の盛り場じゃ。
そんなところへ教えが広まったら、本官は 鯱鉾立ちして お前に降参してやる。」その やりとりを後から聞いた (西) 初太郎は
「尾張、美濃こそ 自分の行くところ」
と 心に決めた。
濃尾地震、災害復興ひのきしん隊(明治24年)
明治24年 10月28日 朝6時半、
美濃・尾張地方 全域にわたり、地震が発生した。
いわゆる 濃尾大地震である。美濃から尾張にかけて、死者 7,200人、負傷者 16,900人、家屋全半壊 213,300戸。
山崩れ、堤防決壊等、被害甚大であった。
とくに 名古屋市内の家屋倒壊は おびただしい数にのぼった。
余震がいつまでも続いた。当時の南海支教会は、この時、
大工、左官などを交えた 総勢30数名を
「災害復興ひのきしん隊」として派遣した。
(西) 初太郎 20歳の時である。
災害復興ひのきしん後の熱田・知多方面布教(明治24年〜明治25年頃)
隊員の中で志あるものは、
この機会に布教せねば、と心がけたが、
思うようには捗らなかった。
仏教王国といわれる この地方のことであったから、(それも)当然と思われた。(しかし、そのような中も)
(西) 初太郎は、
その後、尾張と紀州を往復しつつ、
主として 熱田方面を中心に、布教を続けた。
更に、知多郡方面へも足を伸ばした。
東愛出張所の設置(明治25年頃〜明治26年)
(西初太郎の布教も進み)
明治25年 1月 集談所(設置)、
(明治)25年 6月 信徒結成所(設置)、
同年(明治25年) 6月 熱田 布教事務取扱所(設置)、
(そして)
明治26年 12月 (ついに)「東愛出張所」の設置となる。「東愛」という出張所名には、
上級・南海分教会の布教路線における「東海道沿線上の愛知県」
という意味がこめられているという。『信徒加入書』を繙くと、
明治24年 12月 古橋勝治 入信、
(明治)25年 1月 亀島林蔵、
(明治)26年 2月 斉藤作蔵、4月 小笠原喜兵衛、6月 平野久兵衛、7月 後藤政太郎、8月 沢田惣右衛門、9月 平野銀次郎、12月 森田清助、 森田定右衛門、榊原喜平、榊原照吉
などの名前がある。信者の層は、富裕な上層階級から 貧乏暮しの人々…と 多彩にわたっているが、
その数を調べると、
(西) 初太郎が布教の拠り所としている 熱田地方より、むしろ 知多郡に数が多く、
したがって、
ある時期には、知多滞在の日数が多かった。
東愛出張所 設置場所の調整(明治26年頃)
いよいよ「(東愛)出張所」設置という段階になって、
設置場所について、色々と意見の対立が起こった。月次祭のたびに、知多から わざわざ 熱田まで出向くことの不便さ、
(それは) 10里の道程であってみれば、
女や子供は 年に何度 参拝が出来ることであろうか。当時 23歳の (西) 初太郎は、
自分より遙かに年長の人達をも交えた信者を説得するのに骨折ったが、
もともと初めから熱田に教会を設置する意志であることを 幾度となく信者に言い聞かし納得させ、
(最終的に) 教会を 熱田に設置した。これら 知多方面の 熱心な信者達は、
やがて
東京、豊橋、岐阜、信州へと布教に出向き、
それぞれ 教会を設置した。
西初太郎 初代会長の座右の銘(漢文)
(西) 初太郎は、少年の頃、
漢学者・斉藤琢磨について学問を修め、漢文と数学に秀でていた。(西) 初太郎の【座右の銘】としていたのが以下である。
「人倹素ヲ尚ビ 高遠ノ志ヲ抱キ 小成ニ安ンゼズト雖モ、其ノ久シキニ及ブニ就テハ 種々ノ障礙ヲ来シ 其志遮断セラルル無キ能ワズ、宜シク 百折撓マズ 千挫モ屈セズ 鋭進シテ止マザル勤勉力ヲ 有ス可シ。
視ヨ 彼松柏幾多ノ風雪ヲ経テ 而シテ 其年久シクシテ 甚色改メズ 以テ 天下ノ良材タルベシ。
僅二 数月期年ニシテ成就セント欲スルモノ 猶ホ 独活老大タルノミ。
勉強間断ナク 工夫ニ遺漏ナク 精純息マザル者ハ 能ク 常人ノ到ル能ハザルノ地位二達スル事ヲ得。
故二 志高 且ツ 大ナル者ハ 其達スル所 亦 高且大ナリ。
其志ス所卑近ナル者ハ 其到ル所 亦卑近ナリ。
数々激動シテ 其志ヲ保持シ、深ク欲スル所ノ者 何ゾ 区々タルノ利益ト快楽トニ 拘泥スルノ暇アランヤ。
諺ニ日ク 精神到ル処 金石皆透ルト、何事カ 成ラザランヤ」(これを見ることによっても)
(西) 初太郎の 日常の精神的姿勢を知ることが出来る。
支教会→分教会→中教会→東愛大教会(明治28年→昭和15年)
明治28年 9月、「 (東愛)支教会」。
(明治)33年 11月、現在地 (名古屋市瑞穂区豊岡通1丁目1番地) に移転。
(明治)42年 5月、「(東愛)分教会」に昇格。
昭和10年 10月、
部属教会 107ヵ所(その内 支教会 5ヵ所、宣教所 102ヵ所)をもって
「東愛中教会」に昇格の上、南海大教会から分離。(昭和)15年 1月、(東愛)大教会に昇格した。
檜づくりの事務所建築(昭和15年頃)
(東愛大教会の)神殿の建物は
(東愛支教会が現在地に移転した) 明治33年 11月に建築完成したものであるが、
(それは)
極めて粗末なものであった。檜材は1本も使用せず、造作も悪く、
そのために 建築後1年を経て、すでに雨漏りが始まるという有様であり、
大雨・大風の都度、度々の修理を施し、凌げるだけ凌いできたものであった。(そのような歴史を経て、東愛大教会は)
現在地 ( 旧地名:愛知郡瑞穂村字中ノ口15番地 → 現在地名:名古屋市瑞穂区豊岡通1丁目1番地 )
に移転して30周年を記念して、
当(東愛大)教会としては 初めての、
檜づくりの「事務所」を建築した(のであった)。(かつて)
(西) 初太郎が、 明治33年 3月に (最初の) 神殿建築の許しを本部に願い出たところ、
神意により「心だけ、心だけ許しおこう」という「さしづ」であったので、
その神意を十分に心に治めたいという精神から、
(神殿建築の) 材料は 杉、大工は一番下手な大工に頼んだものであった。それが、
移転30周年に至り、
教会の伸展も教内に注目を集める今日となって、
ようやくにして、
木造瓦葺2階建の「事務所」建築となったのである。境内地は、
3筆にして 合計 11,695.83平方米 (3,537坪 8合7勺)。この内の 約8,720平方米は、
上級・南海大教会に上納した寄付金(御供金)に関して
上級教会から奨励金として還付された費用をもって その都度 購入した敷地、それを1筆にまとめたものである。
(つまり)
直接、部属教会とか信者から土地購入費として上納されたものではない。(いわば)
上級教会に運んだ真実、つくした真心の記念としての敷地である。
西 初造2代会長の就任(昭和16年)
昭和16年(1941)
(西) 初太郎は、 長男・初造に 会長職を受け継がせた。
第2次世界大戦が激化の一途を辿りつつあった頃である。同年(昭和16年) 3月27日、
(西) 初造が2代会長に就任した。
西 初太郎初代、会長職の退任〜出直し前後(昭和16年〜昭和18年前後)
(西) 初太郎(初代会長)は、
(会長職の退任) 以後、著述などに心を傾注した。長らく 手にかけては来たが、多忙にとり紛れて果たし得なかった『東愛大教会史』編纂に
本腰を入れて取りかかった。役員の古橋唯一郎たちを助手として、
夏は信州、冬は熱海などに 悠々自適の余生を送りつつ、
みずから 上級の歴史、部属教会の成立過程を語り、あるいは筆をとった。そして、昭和18年 1月9日、
(西 初太郎 初代会長が) 出直した。(西) 初太郎(初代会長) は
16歳の折に信仰に入り、
以来 絶え間なく 信仰の道を歩んだ。その信念と 一代にして築き上げた「東愛大教会」の栄光を後継者に托して、
真摯にして価値多い生涯を閉じたのである。(その) 1年後 (昭和19年)、
妻のやす が、
夫の1年祭のつとめを終えた直後の 2月6日、
思い出したかの如く、夫の後を追って出直した。
夫妻共に 享年72歳であった。
太平洋戦争〜戦後復興(昭和20年頃〜昭和27年頃)
戦争は、いよいよ苛烈を極め、
昭和20年 1月7日には 事務所が、
5月17日には 神殿、客室、炊事場、納屋が全焼、
残存建物は 会長住宅、役員住宅のみとなった。(東愛の) 部属教会は、
名古屋、豊橋、静岡、横浜、東京にわたっていたが、
その内の 31ヵ所が灰燼に帰した。戦争終結と同時に、
本部の趣旨に従い、
2代会長の 西初造は、部属教会の復興に鋭意努力した。昭和21年 11月には、神殿及び客室を建築し、
2代真柱の臨席を得て鎮座祭及び奉告祭を執行。更に、
創立60周年(昭和27年)を目標として 鉄筋コンクリート陸屋根式鼓楼付神殿の建築にかかり、12月15日 完成、
2代真柱を迎えて、同夜(12/15夜) 鎮座祭、翌16日 奉告祭を執行した。この頃 東愛の教線は、
名古屋を中心として 愛知県下、静岡、神奈川、東京、千葉、埼玉、群馬、新潟、長野、京都、岐阜、鳥取、奈良に伸展していた。
西 初造2代会長から西初彦3代会長へ(昭和40年代)
昭和40年には、
部内・愛静分教会が 大教会に陞級して分離し、本部直属教会となった。昭和43年、(西初造)2代会長が 愛知教区長に任命されたので、
(昭和)45年には 長男・西初彦が 3代会長に就任した。また、(西初彦3代会長は)
(西初造)2代会長が積年の願いであった信者会館の増築をすすめた。関連事業として 財団法人 東愛保育園を経営している。
〔出版物〕 『東愛のみち』(昭和31年刊)
〔現住所〕〒467-0012 愛知県名古屋市瑞穂区豊岡通1 丁目1番地
〔電話〕052-853-2622(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,590〜592)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
35回目の今回は、
「東愛大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】35回目の当記事では
『天理教事典』の中の「東愛大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
東愛大教会は、南海大教会から分かれた大教会ですね。
南海大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
当記事では
『天理教事典』の中の「東愛大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
東愛大教会の元一日は、
三重県南牟婁郡の
西 専助・いそ 夫妻の 娘婿である 西 菊次郎氏の
腸チフスへのおたすけを願ったところ、
神様にお願いした直後に容態が急変し、にわかに出直してしまった、
というところにあるのですね。
興味深いのは、
危篤の命が「持ち直した」のではなくて、
「にわかに出直した」ということ。
願い通りの姿のご守護でなかったのにも関わらず、
西家の方々は、
その中に神様の奇蹟を感じ取り、一家揃って入信しておられる、
という点です。
無い命をもたすけて下さる神様だとの噂を耳にして「おたすけ」を依頼した。
それなのに、
逆に お願いしてもらった途端に 亡くなってしまった‼︎
普通に考えれば
「騙された!」
と 怒り心頭に発しそうなもの。
にも関わらず、西家の皆様は、
おたすけに出向いておられた畑林為七先生に 怒って詰め寄るどころか、
一同がこの事態に接して驚き「これは並のことではない」と考え抜き、
その結果、一家揃って入信することを決意しておられる。
後に「東愛大教会」の初代会長となられる西 初太郎先生は その当時16歳とのことですから、
そのような思案を主導したのは、
そのご両親である 西 専助・いそ ご夫婦であったのではないかと思われます。
願いとは全く異なる姿、ある意味、真逆の姿を見せられて、
それを どのように受けとめられたのか、
どのような思案の結果、入信しようとの決意に至られたのか――
『天理教事典』には記述がありませんので 分かりませんが、
非常に興味深いものがあります。
願い通りの姿ではないにも関わらず、
そこに深い神意を感じ取ることが出来る――
既に、その時点で、
西先生ご一族の「精神性」の高さが窺えるような気がします。
お道に出会うまでは、地域で代表するご商売を幅広く展開され、家計は裕福であられたということ、
また、
西初太郎 初代会長は 少年時代から漢文と数学に秀でておられ、漢文の座右の銘が残っておられるという点、
そのような『天理教事典』に記述された わずかな事歴からしても、
きっと、元々 高い霊性をお持ちのご一族であられたとのだろう、
ということが推察されます。
神様は、
この者たちは、願い通りの姿ではなくとも ちゃんと本質を見抜くことが出来る、
と分かっておられたからこそ、
このような、ある意味、表面的には 真逆の姿のご守護を下さったのかもしれません。
そう考えると、
西家の皆様がこの道の人となられ、
それが後に「東愛大教会」という大木としてそびえ立つに至っている、
というのも、むべなるかな、という気が致します。
また、
「南海大教会ー東愛大教会」といえば、
何といっても、忘れてはならないのは、
濃尾地震の際の「災害復興ひのきしん隊」でありましょう。
だいぶ前に、「天理教災害救援ひのきしん隊」について調べた記事を公開したことがあります。
(2022年1月15日)
その記事は、
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』(道友社)という本を参考にして「天理教災害救援ひのきしん隊」について紹介したものですが、
その著書の巻末の年表に、次のように記述されていました。
明治24年10月28日、濃尾地震。
M8.0の大地震。死者が7200人余、全壊家屋14万2千戸。
おさしづを受けて 慰問使が派遣される。
本部から義援金(85万円)。
12月、南海支教会から 名古屋訪問にひのきしん隊が出動。
岐阜まで足を延ばす者も。(太字はブログ主による)
(金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,274)
同著の本文には、以下のような記述もありました。
天理教史の中で “先駆け” となる、この(濃尾地震) 災害復旧ひのきしん活動は、教内でも注目を浴び、
明治24年12月創刊の『道の友』(天理教の月刊誌) 第3号では、
「慈善建築」の見出しでこれを取り上げている。その内容には、こんなやりとりがある。
「なぜ、こうした義挙をなし得るのか」という被災者の問いに対し、
「天理教の教理をしっかり治めて実践しているからだ」と、彼らは胸を張って答えているのだった。なお、南海支教会では、
ひのきしん活動の際、名古屋に集談所を設けたものの、なかなか道がつかない。
「こんなに仏教の盛んな土地は、日本全国へ道がついてからでないと到底、道はつかぬ」
と、当地での布教を断念する者が相次いだという。
また、断続的な余震にも脅かされた。そんな中、派遣された役員の一人である西初太郎は、
それだからこそと不退転の決意で布教に励み、
翌25年秋には熱田町に布教事務取扱所の設置をみるに至る。
これが、のちの東愛大教会の道の “かかり” となった。(太字はブログ主による)
(金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,17)
また、『道~天理教伝道史をあるく』(道友社編)の中でも、以下のような記述がありました。
明治24年10月28日、濃尾大地震が愛知、岐阜両県一帯を揺るがした。
和歌山の南海支教会では神殿造作中であったが、
会長・山田作治郎は、いち早く災害復旧ひのきしん隊派遣を提唱、
西 初太郎、愛知県人・横井留吉らを 扶助派出係に命じ、
大工、左官ら30数名を罹災地へ派遣した。話は、2年前の出来事にさかのぼる。
和歌山県 木本警察署が 信仰をやめよ と作治郎に迫り、
「尾張、美濃のごとき仏教の盛大な土地に天理教信者ができたら、
わが輩はしゃちほこ立ちして貴様に降参する」
と息巻き、(山田)作治郎は
「天理教の邪魔をしたものが立つかどうか、年限たったらわかりましょう」
と応酬した。
以来、濃尾地方進出を念願していた。折からの大地震である。
(西) 初太郎は、
(山田)作治郎の悲願をどうしても実現したい と現地へ赴いた。一行は ひのきしんをさせてもらいたいと触れ回ったが、土地の人は応じない。
しばらくして 留吉の知り合いから依頼があり、
それが口火となって 頼みに来る者が増えた。(西) 初太郎は その後も名古屋へ足を運び、
「道がつかなかったら 死んでも紀州に帰らぬ」
と 不退転の決意で布教にあたった。(明治)26年、熱田町に 東愛出張所設置。
同年、知多郡に澄む 農業 森田清助の姉 てい と いとこの 小笠原いち が入信、
知多半島の道が始まった。豊浜村の穀物商・沢田惣右衛門(愛静創設者) は、
今夜 結構な話があると聞いて、自ら出かけた。
(小笠原)いち の話を聞き、その場で信徒加入書に記入した。
決断力に富んでいた。(太字はブログ主による)
『道~天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,92~93
『駆けつける信仰者たち』や『道~天理教伝道史をあるく』という本を通して、
明治24年の濃尾地震を受けて、
南海大教会の 山田作治郎初代会長は 組織的な救援活動を行って復旧活動にいそしんだ、
そして、それに基づいた 南海大教会、及び、それにつながる東愛大教会…
それらによる組織的な活動が、
今の「天理教災害救援ひのきしん隊」の先駆けだった、
ということを知りました。
今、能登地震にあたって大活躍中の「天理教災害救援ひのきしん隊」ですが、
南海大教会、東愛大教会等…それにつながる皆様は、
そのパイオニアだったのですね。
今生においてお道にご縁を頂いた者として、深く感動し、心から敬意を表します。
その他のことも含め、今回もまた、知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「東愛大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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