天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より

山名大教会天理教各教会歴史探索第3回 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

これまで自分とご縁がなかった
天理教の各教会の歴史について知りたい
との思いから、
本年の 3月後半から
天理教 各教会の歴史探索シリーズ
を開始しました。

このシリーズは、
自分の教会にあった『天理教事典』(1977年初版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写し、
それによって
天理教 各大教会の 大雑把な歴史というものを知ろう
という企画です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

書写する順番は、
教会番号の順番で 行う予定です。

前回は、
教会番号2番の「兵神大教会」の説明を 書き写しました。

第3回目の今回は、
教会番号3番の「山名大教会」です。

(天理教山名大教会HP:http://www.t-yd.jp

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山名大教会 (やまな だいきょうかい)

山名大教会写真①
天理教山名大教会HPより

江戸時代後期~明治10年代

山名大教会は
諸井国三郎の 入信によってはじまる。

国三郎は、
天保11年(1840) 7月20日、
遠江国(静岡県)山名郡 広岡村 下貫名の
組頭の 3男として生まれた。

安政3年に 江戸へ上って仕官したが、
明治6年(1873) に辞して 帰郷した。

この頃、下貫名は
莫大な負債を抱えて 苦しんでおり、
国三郎は 選ばれて その整理にあたった。

村の 福祉向上にも尽力し、
明治12年からは
殖産興業の実践として 養蚕製糸機業を営んでいた。

こうした中に、
明治15年10月、
手代に連れられて 吉本八十次がやってきた。

この 吉本によって、
国三郎は 初めて 天理教の教えを聞くことになった。
吉本の布教活動により、
教えは 村内にたちまち伝わり 評判となった。

翌16年1月には、
吉本以下 5名が おぢばへ帰っている。
この時、国三郎は 同行しなかった。

同月の末日、
3女の 甲子が 咽喉を病み 危篤に陥ったため、
国三郎は 親神への信心を誓って、
妻 そのとともに 必死に願ったところ、
甲子はたすかり、
(明治16年)2月10 日、
お礼のため 国三郎は 初めて「おぢば」に参拝した。

おぢばから戻った その月の26日、
国三郎が 講元となって 天輪講 を結成した。
この講の 最初の加盟者は 11名であった。

翌 3月には、
おぢばから 高井直吉、 岡田与之助、井筒梅治郎、橘善吉らが訪れ、
この人々の働きで 不思議なたすけが続出し、入信者も相つぎ、
高井らの滞在中に 講社への加入者は 82名にのぼった。

(明治16年)3月24日には
天輪講を 遠江真明講 と改称している。

同年 8月、
2度目の「おぢばがえり」をして、
この時「てをどり」を習得した。

明治17年 1月21日、
国三郎他 10名は 3回目のおぢばがえりに出発し、
フラフ (旗) を立てて おぢばに到着した。
(『稿本天理教教祖伝逸話篇」231-232頁 参照)

139. フラフを立てて

明治十七年一月二十一日(陰暦前年十二月二十四日)
諸井国三郎は、第三回目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、
二十二日に豊橋へ着いた

船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の提灯屋が目についた。

そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。
その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社、と大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。

一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、
二十六日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。

翌二十七日朝、六台の人力車を連らね、
その先頭の一人乗りにはこの旗を立てて諸井が、
つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗っていた。

お屋敷の表門通りへ来ると、
一人の巡査が、見張りに立っていて、いろいろと訊問したが、
返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ。

お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、
「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで。」
と、仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていたが、
この旗を見るに及んで、
成る程、教祖には、ごらんになる前から、この旗が見えていたのであるなあ、
と感じ入った、という。

翌18年 1月から 1カ月の間、
国三郎は 近隣 65カ町村にわたって 白熱的な布教を進め、
さらに 4月には、
東京 及び 関東一円の 伝道の旅をした。

この年(明治17年)から 3年の間は
国三郎の一家が 最も 貧窮した時期でもあった。

明治20年代

明治20年 7月、
国三郎は「おさづけの理」を拝戴 し、
さらに 布教に邁進した。

同年12月には、
国三郎宅を増築して 永代講を設け、
一切の家業を捨てて 布教に専念することになった。

同時に 国三郎を慕い寄る信者たちと
持ち寄りの 共同生活を始めた。
この頃、教勢は 遠州一円に及んだ。

翌21年 2月、
国三郎の妻 そのは
生後10ヵ月の 5女 ろくを連れ
初めて おぢばがえりをした。
このとき、
ろくは「水のさづけ」を拝戴した。

明治21年(1888) 4月には
天理教会本部が設置となり、
5月20日、山名分教会 の設置が許された。

翌22年 3月18日付で
静岡県庁からも 設置が認可され、
国三郎が 初代会長に就任し、
4月25日、
信者6,000余名の参集の中で
山名分教会 開筵式を 執行した。

当時の教勢は、
東は 千葉・埼玉・東京、
西は 三河・尾張、
北は 長野 に及んでいる。

同年11月、
おぢばに 山名 登参事務所(現在の信者詰所に相当するもの)を設けた。

天理教会が設置されてからは、
布教は 非常な勢いで進められ、
山名分教会 部内でも、
明治23年 1月の 白羽・益津支教会 設置を最初として
続々と 教会が設置された。
同26年末までに
計36ヵ所の 部内教会ができている。

また 一方では
東北地方一帯への 布教が始められ、
同27年には 早くも 東北に 7ヵ所の教会が 設置された。
翌28年末までに
山名の部内教会は 110カ所となった。

この間に、山名分教会では
明治23年に 2階を神殿にした建物を増築し、
24年には 正門を建造して 教会の様相を整えた。
また、明治26年4月には
講社 1万戸となったことの 祝をしている。

しかし、
明治27・28年の 日清戦争による経済不況や、
29年の内務省秘密訓令により、
山名の教勢は 沈滞していった。

29年1月には 信者詰所 新築上棟式を執行し、
3月の 教祖10年祭には 信者10万人が参集し、
4月に 国三郎は 本部員に登用されるなど 喜びが続いたが、
しかし、政府の迫害干渉は具体化し、
山名部内でも
9月に 伊那・松本支教会の認可が 取消された。

そこで、
教勢の伸展を願って 初代会長は 台湾布教を決意し、
10月に その 後援機関として
大日本神道 天理 山名婦人協会を創設した。

明治30年代

翌30年 3月、
その幹事として 国三郎の長女 たまが 任命され、
国三郎自身も 7 月、10月と続いて渡台して 布教活動にあたり、
10月には 台中教会、
12月には 遠参出張所 設置の 許しを得るにいたった。

しかし、翌31年 1月、
国三郎は 台中にて病気となり、3月に 帰国した。
直ちに「おさしづ」を仰ぎ、
家族全員 おぢばに 住み込むこととなった。

国三郎の帰国後、
台湾で進められていた殖産事業は
悉く 成果を得ずに 中途で挫折したが、
布教伝道は 立派な成果を 収めていった。

12月に 国三郎一家は おぢばに移り住んだが、
それを前にした 10月、
副会長として
諸井松太郎(国三郎女婿・たまの夫・後に 清麿と改名)が就任した。

明治33年(1900) 1月に
国三郎は 初代会長の役を辞し 、
1月17日付で
諸井清麿が 2代会長に就任した。

沈滞していた教勢は、
この年から 再び 盛りかえしてきた。

3月から 部内の 愛知支教会は 北海道布教を開始し、
6月には 台北教会の設置が 許されている。

翌 34年から 山名分教会の 移転建築が始められ、
37年11月に 神殿が落成、
39年6月に 教祖殿が落成し、
続いて 客室なども完成して、
この年(明治39年)のうちに 移転は完了した。

一方、
34年には 室清助らを中心に 清国布教が始まった。
35年 2月には 廈門 (あもい) 教会 設置に至り、
40年 3月、2代会長は 廈門に巡教して 布教師たちを励ました。

明治40年代~大正時代

明治41年(1908) 11月、
神道 直轄であった天理教は 一派独立した。

これに伴って 教規が改正され、
翌42年 2月に
山名分教会は 大教会と改称された。
当時の部内教会は 203カ所である。

この後も 布教は 国の内外に進められた。

まず 国外では、
大正2年 1月に 大連宣教所、
同6年 5月に 嘉義東門宣教所などが設置され、
この年には
中国人信者30名が おぢばがえりをしている。

国内では、教会設置が相次ぎ、
また、
東洋紡績に対する 工場伝道も 開始された。

大正7年 4月、
2代真柱の教育委員などとして活躍していた初代会長 諸井国三郎は
78歳で出直した。

この頃から、
教会本部の 境内地 拡張計画にあわせて、
再び 信者詰所の 移転に着手した。

まず、
大正10年 6月に 三島地区に 1町1畝3歩を、
翌11年 7月には
第2敷地として 田部地区に 2町3反3畝15歩を買収した。

しかし、一方では
山名の 教統継承問題が 起こっていた。

これは、
大正12年 5月に至って
山名大教会を分割し
名京大教会を 新設することで 決着がついた。

11月22日付で
山名大教会 3代会長に
諸井慶五郎(国三郎女婿・ろくの夫)が、
11月23日付で
名京大教会 初代会長に
諸井忠彦(2代会長清麿の養嗣子)
が就任した。

山名所属の直轄教会は
分教会 9、 支教会13、宣教所 9であり、
部内教会は 計181ヵ所である。

一方、
名京所属の直轄教会は
分教会 9、支教会 4、宣教所 5であり、
部内教会は 計175ヵ所である。

数の上では 折半された形になったが、
有力な分教会の多くは 新設の大教会に所属したため、
山名では
その後の活動の上に いろいろと 苦労が続いた。

分割により、
買収した詰所用地のうち
1町8畝23歩を 名京に分譲した。

3代会長に就任した 諸井慶五郎は、
大正9年から 天理女学校 教頭、教学部員としてつとめ、
翌14年 4月には、教義史料集成掛に、
8月には 天理中学校長となっている。

分割の問題が 一応 解決して
山名詰所の 移転建築が始まった時は、
すでに 教祖40年祭まで 3ヵ月足らずとなっていた。

大正14年12月、
教祖40年祭の 信者の受け入れのため
田部の現在地に 信者詰所を 新築落成した。

翌15年 1月の 教祖40年祭には
山名から 約1万人が参拝。

また、
この年祭を前にして進められた 教勢倍加運動により、
分割後 2年余にして
教会数は 371カ所となった。

教祖40年祭の後、
再び 教勢の進展をはかって 活動が進められた。

昭和時代(戦前)

昭和 6年には
都市 布教強化のため
東京、京都、大阪、名古屋に
布教事務所を置くことになる。

また この年、
(諸井慶五郎)3代会長は 台湾へ、
更に翌 7年には 上海へ 巡教した。

同年10月、
山名初代会長 入信50周年を記念して 祭典を執行し、
この時、『山名大教会史』を刊行した。

海外では、
昭和9年 8月に 台湾伝道庁が 設置されたこともあって、
会長は
台湾布教 及び 中国の 廈門教会 復興に 尽力した。

昭和10年(1935)12月、
教会本部に
税務事件が起こった。

(諸井慶五郎)会長は
教庁の 庶務部長などを務めていたところから 家宅捜索を受け、
証拠湮滅の疑いで 逮捕されて
奈良刑務所に 拘置された。

(昭和)11年 1月に 教祖50年祭が 執行された。
(諸井慶五郎)会長は
2月24日に保釈され 出所している。

3月には 本部関係の職を すべて辞し、
12月までは 会長職に専念して
部内教会を巡教した。 

その後
本部の職務に復帰し、
昭和14年 8月には 華北伝道庁長を命ぜられ、
北京に 常駐となった。

同16年 4月に 教規が改正され、
12月に周智分教会 部內 磐城平分教会が
大教会として 分離陸級している。

日華事変から 太平洋戦争へと
内外の状勢が 急迫するのに従い、
会長は、本部の要職にあるため
身辺極めて多端となり、
会長職を辞して
本部の仕事に 専念することになった。

昭和17年(1942) 4月2日、
4代会長として諸井慶徳(慶五郎 長男)が就任した。

同年10月、
前会長 慶五郎は 華北伝道庁長を免ぜられ、
翌18年11月に 東京教区長として 赴任した。

(昭和17年)19年 5月に
4代会長が 応召となったため
前会長が 代務者となった。

が、10月に
慶徳は 現地除隊となり 教会へ戻った。

(昭和17年)12月には 東海道地方に大地震があり、
大教会の神殿など 大きな被害を受けた。

昭和時代(戦後)

(昭和)20年8月に
日本は 敗戦をむかえ、
(昭和20年)9月に
慶五郎 前会長は 復興部長を命ぜられ、
戦災を受けた教会の 復興事業に尽力した。

昭和21年 1月に
教祖60年祭が執行され、
教内は「復元」の歩みをはじめた。

山名部内も
(昭和)22年頃から 息吹きを取戻して
復興と布教が 進められた。

23年 4月には
山名大教会 創立60周年 記念祭
並びに
初代会長の30年祭を執行し、
創立以来 未曽有の 盛況を呈した。

(昭和)26年 3月、
静岡県庁の認可を得て 山名保育園を開設した。
これは、
同32年 4月に 山名幼稚園と改められている。

慶五郎 前会長は、
同22年10月に 復興部長を 免ぜられたが、
翌23年 2月の 教議会において
教政の最高責任者である 教務総長に選ばれた。

その後、25年 9月の改選時にも 再選された。

この役は、昭和27年の教規改正で 表統領と改称され、
慶五郎は、27年、31年、34年と 3選され
その職をつとめた。

また、
宗教法人 審議会委員を
7期14年間つとめるなど 社会的にも活躍した。

更に
天理よろづ相談所 憩の家 の開設に尽力し、
昭和41年 開設時には 所長に就任し、
昭和47年 3月まで つとめた。

(諸井)慶五郎は
昭和51年3月6日、
89歳で 出直した。

一方、
4代会長 諸井慶徳も 教内外に 幅広く活躍した。

例えば、
昭和26年には
アメリカ政府の招きで渡米して 宗教教育の現況を視察し、
また、昭和24年
天理大学開設とともに 宗教学科長となり、
更に 天理教校長となって
学問と教育に 情熱を傾けた。

山名にあっては
部内教会や信者の 丹精につとめた。

ところが、
昭和35年
2代真柱の随行員として 渡欧の折、
以前から患っていた病気が悪化して、単身帰国、
翌36年 6月
46歳にて 出直した。

諸井慶徳が 天理教学に残した 業績は大きく、
著作論文も 多数にのぼる。

昭和36年 9月26日、
5代会長に 諸井春子 (4代会長夫人)が就任した。

同年11月、
城山分教会が 大教会となって 分離陞級した。

昭和43年 4月には、
山名の 創立80周年記念祭
及び
初代会長 50年祭を 執行した。

また、この年の 5月には、
米国に マウント・アメリカ教会、
11月には、
台湾台北市佈道所を 設立。

昭和45年10月に
教職舎本館を、
48年12月には
信者詰所を新築落成した。

〔現住所〕 〒437 静岡県 袋井市 三門町 7番地の1 
〔電話〕 0538‐42‐4151 

(『天理教事典』1977年版 P,853~855)

天理教山名大教会HP:http://www.t-yd.jp

おわりに

天理教兵神大教会写真②
天理教山名大教会HPより

天理教各教会の歴史を調べることを目的とした新シリーズ
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

シリーズ3回目の今回は、
教会番号3番の「山名大教会」の歴史をなぞりました。

前回も書きましたが、
当シリーズの 参考教材は
『天理教事典』の【初版=1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています。

しかし、私が知りたいのは各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております。

山名大教会というと、
【諸井慶徳】先生を始め「天理教学」を支えた先生方のイメージが強く、
学究肌というか、知的な雰囲気を持つ方々が多い印象があります。
私の勝手なイメージに過ぎないのでしょうが…(笑)

今回は
『天理教事典』の中の
「山名大教会」についての記述を書き写したわけですが、
これまで同様、知らないことばかりでした。

山名の教統継承問題のため、
大正時代に、山名大教会を分割して名京大教会が新設された話、
昭和10年に教会本部に税務事件が起こって、
諸井慶五郎3代会長が
教庁の庶務部長などを務めていたところから 家宅捜索を受け、
証拠湮滅の疑いで逮捕され、奈良刑務所に拘置された話…等々、
今まで知らなかったことを知ることが出来て、勉強になりました。

どんな組織も、
長い歴史の間には本当にいろんなことがあるんだなぁ…
という、ごく当たり前の事実を、
改めて噛みしめているところであります。
(何を今さら、と言わないで…笑)

ということで――
今回は「山名大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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