天理教 各教会の歴史探索(第48回)【大江大教会】『天理教事典』より

「大江大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号47番「明城大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号48番「大江大教会」について勉強します。

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大江大教会(おおえ だいきょうかい)

大江大教会写真②
村本建設天理教大江大教会神殿 より

初代会長・中西金次郎の身上(明治15年頃〜明治19年頃)

初代会長・中西金次郎は、
明治15年(1882)頃、「疝気」という病を患い、それが快癒したので、
明治17年頃 大阪市東区 谷町2丁目で「丸金」(まるきん) と号して
(石油・種油)の小売商を始めた。

その経営も順調に進んできたため、
翌(明治)18年 12月 (大阪府) 東区釣鐘町1丁目に移り 店員もふやして、なお発展に努めようとした矢先、
すなわち 同(明治)19年 1月、持病の「疝気」が再発して、
医薬は勿論、按摩、鍼灸、湯治等あらゆる事をして 治癒につとめた。

しかし 痛みは益々激しく、
腰から背筋に、頸から後頭部に及び脳にまで影響して、昼夜の別なく激痛が続き、
辛抱強い(中西)金次郎も、これには堪えかねて、 
ある時 妻の ゆき子に、
死んでもよいから 出刃包丁で 痛む個所を切ってくれ と訴えたという。

中西夫妻の入信(明治19年)

その頃 見舞に来た 友人の中西鹿造が、
(大阪府) 和泉町に あらたかな神さんがあるから 救けて貰うよう 勧めた。

その神さんとは、
当時、(大阪府) 東区和泉町2丁目で 3階建の家を「寄所(布教所)」として盛んに布教していた
天恵(てんえい) 4番 講元・泉田藤吉であった。

(中西)金次郎は 勧められるままに
妻の肩に縋って「寄所」へ 3日間連続でお参りしたが、
(泉田藤吉)講元は 3日共不在で
代理者が、心学道話による話をしていた。

しかし 聡明な(中西)金次郎は、
そんな話なら 自分の方が良く知っている と思って聞いていた。

従って 何の験しも見えず、
4日目に (中西)金次郎は もう行かないことにしたが、
(妻の)ゆき子が もう1度だけと熱心に勧めたため、
仕方なく ゆき子の肩に縋って 足を運んだ。

この時、(泉田藤吉)講元は 在宅で、
人間の身上(身体)は 親神よりの借物、心一つがわがもの、病の元は心から
との教えを説いた。

(中西)金次郎は 初めて聞く教理に感激し
おさづけ をして貰って 自宅に戻った。

この時 不思議にも 激痛は半減しており、
(中西)夫妻は 驚くやら喜ぶやら(で)
翌日から、自ら進んで参拝し、教理を聞き、おさづけを受けているうちに、
日ならずして全快した。

かくて 夫妻は入信。

時に 明治19年(1886) 2月、
(中西)金次郎は 37歳、(妻の)ゆき子は 35歳であった。

中西夫妻のおぢばがえり(明治19年)

(中西)金次郎夫妻は
その翌月の(明治19年) 3月、
(泉田藤吉)講元に連れられて、初めて、おぢば に帰参した。

取次人が、
天恵4番・泉田藤吉の信者、中西金次郎と申す者、帰って参りました
と 教祖に告げると「ハイハイ」という声が聞こえて (教祖が)お出まし下され、
親しくお会い下された。

(中西)夫妻 は喜んで、
(それ)以来、毎月 1〜2回は 必ず 帰参するようになった。

(明治19年) 8月17日 帰参した時、
教祖は「味醂」を召し上がり、7分を残して、盃もろとも(中西夫妻に) 授けられた。
この盃の内面は 金色で、月日と雲の模様入りであった。

続いて (明治19年) 9月20日帰参の時、
教祖にお召し頂き度い と真心こめて赤い座布団を作り、
十三峠を越えて 夫妻が交代で持参したが、
教祖はお休み中だったので
側近者に事の由を告げて宿に着いた。

お目覚めになった教祖は、
結構な物 上げて下さった、とお喜びになり、
翌 (明治19年9月) 21日 お呼びがあって 伺うと、赤い襦絆を下された。

この「赤衣」は 
後に (中西)金次郎が 教会を設立した時、
教祖の「お目標」に、と願い出て許され、
現在も (大江大教会に) お鎮り頂いている。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』

186. 結構なものを

明治十九年三月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田藤吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。

教祖は、お寝みになっていたが、
「天恵四番、泉田藤吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました。」
と取次いで頂くと、直ぐ、
「はい、はい。」
と、お声がして、お出まし下された。

同年八月十七日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。

同年九月二十日には、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。

この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、
「結構なものを。誰が下さったのや。」
と、お言葉があったので、側の者が、
「中西金次郎でございます。」
と申し上げると、お喜び下され、翌二十一日宿に居ると、お呼び出しがあって、赤衣を賜わった。
それはお襦袢であった。

恵心組の結成(明治19年頃〜明治20年)

(中西)金次郎夫妻は
入信後 熱心に「寄所」へ参拝を続け、(泉田藤吉)講元の話に耳を傾け、
不思議なたすけを頂く人々を目のあたりに見て、
こんなに容易に人がたすかるものなら これから病気に苦しむ人々をたすけて 御恩返しをしよう、
と思った。

最初は、(泉田藤吉)講元に従って 布教に廻っていたが、
後に(は) 単独で布教をするようになり、
(の ゆき子)も、油を売りつつ布教した。

二人共 まだ おさづけの理を敷いていなかったので、
「ちよとはなし」(つとめの一部) のおてふりで お願いをした。

そうしたところ、
たすけを頂いて入信する人や、また、おたすけを願って 訪れて来る人が相次いだ。

そのため、
商売も出来にくい状態となってきたので、
妹婿の 河村庄平に その方を引受けて貰って
専心 布教する事となった。

これより先(の)、明治19年(1886) 6月頃(には)
自宅の床の間に 親神を祀っていた。

明治20年(1887) 春、
天恵4番の分講として「恵心組(えいしんぐみ)」の講名を受けた。

中西夫妻のおさづけの理拝戴(明治21年)

(この頃)
(中西)金次郎は 子供が授からなかったので、
どういうことかとお伺いし、おさしづを仰いでいる。

明治21年(1888) 10月、
(中西)夫妻が おぢばに帰った時、
金次郎が にわかに病気となった。

(そこで) 本席に (神意を)伺ったところ
「これは 結構を頂戴するのや」と仰せになり、
続いて
「埃の事情、掃除して願出よ」
とのお言葉があった。

(中西)金次郎は反省する所(が)あり、
家に戻って 家族の者と話し合った。
(話し合って)了解が出来たので、引返し帰参して 願い出ると
おさしづがあり、(中西金次郎は)「おさづけの理」を戴いた。

翌日、本席は わざわざ宿へ出向き、
「結構が頂戴出来て、めでたい事や。精一杯 おたすけをさせて貰いなされや」
と 仰せになった。

次いで、同年(明治21年) 12月25日、
(妻の)ゆき子も「おさづけの理」を戴いた。

教会移転の実現(大正15年頃〜昭和4年

恵心組から大江支教会の設立へ(明治19年)

明治23年(1890) 秋頃、
泉田 (藤吉) 講元が 大分県中津へ布教に出る事となり、
(泉田藤吉は) 
(中西)金次郎に 天恵4番講を預け、取締(講元代理) に指名した。

(中西)金次郎は 素直にその任に当たっていたところ、
今村斧太郎が これ(天恵4番講) を継承する事となり、
金次郎の組織した「恵心組」は 本部直轄となった。

(中西)金次郎夫妻の布教は 徐々に白熱化し、
病気を救けて貰って入信する者が 次第に多くなった。

その中から 布教に出る人も出来て、
伝道は 大阪市内から始まり、付近の東成郡 西成郡に伸び、
西成郡では 歌島村野里や豊里村菅原に、
また 東成郡では 蒲生に信者が出来て 各講社が結成された。

中でも、安原瀬助、茶木谷与兵衛とその妻ハナは、熊本市内と菊池郡に、
更に、安原瀬助は 一旦 大阪に戻り、更に 愛媛県三机村に向かった。

田中甚五郎は 同(愛媛県) 二名津に、
新谷多造と堀場丑松は 岐阜県 高田村に布教して 信者が出来、
各々 講社を結成した。

(中西)金次郎は
各地に 布教伝道の実績が見えてきたので 教会の設立を計画した。

自宅を改造して 神殿その他を設け、本部へ出願し、
明治25年 11月22日に許された。
(=大江支教会の設立)

明治27年 5月18日、初代真柱祭主のもとに 鎮座祭、
翌(5月)19日の開莚式を 盛大に執行した。

中西ゆき子初代会長婦人の出直し(明治27年)

恵心組の講長は女ですか と言われる程、(中西ゆき子は) 熱心におばに通った。

(中西ゆき子は) おたすけに 信者の育成に(駆け回り)、
きびしさもある反面、深い愛情を以て(信者を)教え導き、どん底生活に堪えて、
(夫婦力を合わせて)ようやく教会設置にまで漕ぎつけた。

しかし、(中西ゆき子は) 床に臥すようになり、
その晴れの(大江支教会)開莚式のおつとめに出ることは叶わなかった。

(そして、中西)ゆき子は、
この盛儀(=大江支教会開莚式) 終了して52日目の 
明治27年 7月10日、遂に出直した。
享年42歳。

「糟糠の妻」の出直しという悲しい大節に直面した初代(中西金次郎)の心中は、いかほどであっただろうか。

中西金次郎初代会長の身上、そして出直し(大正8年〜大正9年)

(中西金次郎) 初代会長は、大正8年(1919) の秋頃から、
「胃縮」という病名で、天理市布留の大江詰所で静養していた。

板倉槌三郎、深谷源次郎、増井りん、各本部員のおたすけを受けていたが、
(静養する中で) 養嗣子・孫三郎に会長を継がせる心を決めた。
(そして) 翌(大正)9年 9月1日、享年70歳を以て 出直した。

(中西金次郎は)
入信以来 実に35年、おたすけに励み、「大江」の基礎を築いた先駆者であった。

中西孫三郎2代会長の就任〜教祖40年祭活動(大正9年〜大正15年)

(中西金次郎) 初代会長は、病勢一進一退の中に辞任し、
大正9年 (1920) 6月2日、養嗣子・孫三郎が、許しを受けて2代会長に就任した。
次いで、同(大正)10年 1月22日、盛大な(2代会長)就任奉告祭を執行した。

こうした中で、教祖40年祭への活動が始まった。

諭達の発表、教義講習会の開催、教勢倍加運動の展開となって 教内は一斉に立上がり、
白熱的な活動が始まった。

大江(支教会)も、この躍動の波に乗って 実績を挙げる事が出来た。

すなわち、
「別席」を運ぶ者、おさづけを戴く者、別科に入学する者、卒業して布教に出る者、教会を設置する者が相次ぎ、
大正12年に 教会設立 7ヵ所、
同(大正)13年に 4ヵ所、
同(大正)14年には 7ヵ所、
(大正)15年 1月中に 4ヵ所、
合計22ヵ所の新設を見た。

(教祖40)年祭 発表当時、(教会は)10ヵ所しかなかったのが、
32ヵ所となって、実に3倍加した。

更に、年祭に帰参する信者受入れの準備として、
天理市田部町に 6,386平方米余の土地を買収し、
旧詰所(天理市布留)の建物の移築と増築にかかり、
大正15年1月完成した。

かくて
1月15日・20日・25日 の3回に亘って執行された (教祖40)年祭には、多数の信者を迎える事が出来た。

教会移転の実現(大正15年頃〜昭和4年)

(中西孫三郎)2代会長は、
(中西金次郎) 初代会長の願望であった教会移転を 
初代の10年祭までを区切りとして(何としても実現したい、と打ち出した。) 

何回となく役員会議を開き、また 候補地を視察したりして、紆余曲折を重ねた結果、
広大な土地と素晴らしい建物を買収をすることが出来た。

(そして)
昭和4年(1929) 8月、
(大阪府) 東区釣鐘町1丁目から 大阪市 西淀川区大仁元町1丁目85番地に移転し、鎮座祭・奉告祭もつとめた。
(また)
(昭和4年) 9月1日には (中西金次郎) 初代会長の10年祭をもつとめて、故人の遺志実現の喜びを見ることができた。

教祖50年祭活動〜中教会への昇格(昭和5年〜昭和10年)

昭和5年(1930) 9月26日、
教祖50年祭・立教100年祭の公示があって、
教内は またこれを目標に 活動が始まった。

大江(支教会)も 移転後の負債返還問題が残っていたが、
一切を捨てて 両年祭を目標に邁進すると共に、
中教会への昇格を期して、信者の育成と教会の増設に努力した。

その結果、三津屋、上中島の両宣教所が 支教会に昇格。

こうして 新設教会11ヵ所の増設となり、
昭和10年(1935) 4月13日、
(大江)中教会に昇格の許しを受けた。

次いで、(昭和10年) 10月2日、
2代真柱を迎えて、喜びの中で (中教会)昇格奉告祭を執行した。

かくして、
教祖50年祭は 中教会昇格をはたして迎えることができた(のであった)。

立教百年祭〜大教会への昇格(昭和12年〜昭和15年)

翌(昭和)12年 11月28日、立教100年祭が 戦時体制下に執行されたが、(大江中教会からも) 部内信者多数が 帰参した。

遅々たる歩みではあったが 
年祭活動によって教線も拡張し、部内教会数は 43ヵ所になった。

こうして、昭和15年(1940) 2月10日、
(中教会から 大江)大教会に昇格する事を許され、
同年(昭和15年) 11月2日、
2代真柱を迎えて 盛大な昇格奉告祭を執行した。

戦時下の教会移転(昭和19年〜昭和20年)

しかし、4年後 思いがけない教会移転の事情がおこった。

戦時下(にて)空襲に備えての家屋疎開(が必要となり)止むを得なかったが、
結局 天王寺区上汐町4丁目の土地建物を買収して、
昭和19年(1944) 5月、内部の改造、神殿の設備、壁の塗替えを終え、(一時的に) 御津大教会に預託していたお目標の「奉遷鎮座祭」を執行。
ここに移転を完了した。

昭和20年3月13日夜、大阪に大空襲があって(大江大)教会が全焼した。
しかし、お目標は 無事 大阪教務支庁に奉遷(した)。

その後、(お目標を) 部内教会に仮遷座して、祭典も教務もここで執行していたが
(中西孫三郎2代)会長の要請により
役員会議の結果、上汐町に戻り、木造瓦葺平家建1棟を新築落成して、昭和20年11月22日、鎮座祭と月次祭を執行した。

終戦後の復興ふしん(昭和21年〜昭和22年)

戦争が終結して平和が訪れ、地方に疎開していた人々も帰阪し 参拝者も次第に多くなってきたので、
第2回目の復興ふしんとして、(大江大教会は) 木造瓦葺平家建の神殿を新築した。

建築資材の一切は配給制度となって 困難を極めたが、
昭和21年10月に落成、
翌(昭和)22年3月29日 2代真柱祭主のもとに鎮座祭、
翌(昭和22年3月)30日 移転復興奉告祭を 盛大に挙行した。

中西太一3代会長の就任〜神殿の改築(昭和24年〜昭和26年)

2代会長・中西孫三郎は、後進に道を開くために辞任し、
長男・太一が 
昭和24年4月13日 許しを得て3代会長に就任した。

3代会長就任奉告祭を目標に神殿の改築をし、
昭和26年11月29日、2代真柱祭主のもとに 
木の香も新しい神殿・教祖殿で、鎮座の儀が厳粛に執行された。

翌(昭和26年11月)30日、
 (3代)会長就任、神殿新築落成の両奉告祭と、創立60周年記念祭の 
三つの慶びの祭典を執り行った。

創立70周年記念祭〜創立80周年記念祭(昭和37年〜昭和47年)

(大江)大教会の創立70周年を迎える準備として 
客殿の新築に取りかかり、これが完成したので、
昭和37年12月6日、
2代真柱を迎えて 創立70周年記念祭を執行した。

(中西孫三郎)2代会長は、
中西太一に会長を譲って後も、神殿おたすけ係を拝命して、後 本部准員に登用され、本部につとめていた。

(その後) 病床の身となり、大江詰所で静養中のところ 
昭和42年1月29日、74歳で出直した。

創立80周年の記念祭を目標に 
鉄筋コンクリート3階建の信者会館の新築に取り掛かり、
その完成と 教会新設2ヵ所を見て、
昭和47年9月21日、真柱を迎えて 盛大な記念祭を執行した。

〔現住所〕〒543-0002  大阪市天王寺区上汐4丁目1−19
〔電話〕06-6771-6413

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,102〜105)

おわりに

大江大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

48回目の今回は、
「大江大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

大江大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】48回目の当記事では
『天理教事典』の中の「大江大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

前回「明城大教会」について勉強し、今回「大江大教会」の勉強をしたわけですが、記事を作成する中でGoogleMapで場所を検索した際、明城大教会と大江大教会は比較的近い場所にあることに気付きました。

ついでに「大阪 天理教 大教会」でGoogleMapを検索。

大阪 天理教 大教会

すると、非常に近い場所に大教会がたくさんあることを知りました。

明城大教会、大江大教会だけでなく、すぐ近くに御津大教会や船場大教会、北大教会に此花大教会…
その他にも大教会がいっぱい‼︎

さすが大阪!と感じます。

それはともかくとして …(^^;)
大江大教会初代会長の中西金次郎先生は、
「泉田藤吉」先生から教理を聴き、身上をたすけて頂いてこの道に入られたのですね。

「泉田藤吉」先生については、「御津大教会」解説文を書き写した際に勉強しました。

その際、御津大教会初代の小松駒吉先生は、
おたすけ実習の如く、最初は泉田藤吉先生に連れられて布教に回っておたすけのイロハを習得し、
その後一人で布教に出るようになった、と学びました。

今回の学習で、
大江大教会初代会長の中西金次郎先生もまた、
最初は、泉田藤吉先生に従って布教に回り、その後段々と夫婦で布教するようになっていかれたのだ、
と知りました。

その結果、信者も増えてきたので、泉田藤吉先生の「天恵4番講」の分講として「恵心組」を結成。
それが発展して、今の「大江大教会」につながっている、というわけなのですね。

そう考えると、「泉田藤吉」先生が残した大阪方面の布教伝道の実績というのは、並々ならぬものがある、と言えそうです。

しかし、その「泉田藤吉」先生は、明治23年に大分県中津へ布教に行くこととなり、大阪の拠点は、後任の者に委ねることとなった。

『天理教事典』解説文によって、
その際、「泉田藤吉」先生は、自身が講元をつとめる「天恵4番講」の取締(講元代理)に、中西金次郎先生を指名されていた、
ということを知りました。

結局、その後に 他の先生が「天恵4番講」は担当されることとなったようですので、名実ともに泉田藤吉先生の後継者というわけではないようですが、
おたすけの先生とも言える 泉田藤吉先生が、直々に 後任に指名されるという事実から、
中西金次郎先生に対する 泉田藤吉先生の信頼の大きさが如何に大きいものだったか、
ということが窺えるような気がします。

そして、中西金次郎先生は、「天恵4番講」からわかれて「恵心組」にて ひたむきに布教に専念。
その結果、全国あちこちに教えが広まり、
それが今の「大江大教会」という雄姿に繋がっている。

今回の書き写しによって、そのような歴史を初めて知ることが出来たのでありました。

大江大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビューより

今回の書き写しもまた、知らないことだらけでしたが、
その中で印象に残ったことの一つとして、
中西ゆき子初代会長夫人の早過ぎるお出直し、
という史実があります。

中西ゆき子初代会長夫人は、
明治19年に、夫(中西金次郎)が、死んでもいいから痛む箇所を包丁で切ってくれと懇願する程に苦しんでいたのを泉田藤吉先生におたすけ頂いて、かしもの・かりものの教理を深く悟られた。

そして その感激から、
その後は、恵心組の講長は女性ですか?と言われる程、熱心におぢばがえりされた。

その後、中西金次郎初代会長と夫婦心を合わせて布教に励んで多くの人が集まるようになり、晴れて教会を設立するまでに至ったものの、
中西ゆき子初代会長夫人は、病に倒れ、「大江支教会」開莚式のおつとめに出ることは叶わなかった。

そして、大江支教会開莚式終了後52日目、明治27年7月10日に、後の大江大教会の盛況を見ることなく「42歳」の若さで出直されたのでありました。

中西金次郎初代会長夫妻はお子様がおられなかったのとのことですので、
明治19年に入信し、その6年後の明治25年に教会を設立し、さぁこれから本格的なご恩報じの道を…
という時に 最愛の奥様を亡くされた中西金次郎初代会長の悲しみは、一体どれほどだったのものだったでありましょうか。
その時の中西金次郎先生の心中は、察するに余りあります。

しかし、中西金次郎初代会長は、その悲しみを乗り越えて、
大江支教会の上に真実を尽くされ、教会の基礎を築かれました。
そして、その基礎の上に、今の「大江大教会」の偉大な姿があるわけであります。

毎回のように「おわりに」の最後の方に書き添える文章の繰り返しになりますけれども、
そういった教会の歴史を知った上で今の雄姿を見ると、
その姿に、より一層の重みを感じられるような気が致します。

大江大教会写真①
ホームメイト・リサーチ旅探天理教大江大教会 より

その他にも、知らないことばかりでした。

今回もまた、書き写しを通して多くのことを知ることができ、とても勉強になりました。
有難いことでした。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「大江大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】19回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名京大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第20回)【中和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】20回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第21回)【櫻井大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】21回目である今回は、『天理教事典』に記載された「櫻井大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第22回)【筑紫大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】22回目である今回は、『天理教事典』に記載された「筑紫大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第23回)【越乃國大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】23回目である今回は、『天理教事典』に記載された「越乃國大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第24回)【名東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】24回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第25回)【麹町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】25回目である今回は、『天理教事典』に記載された「麹町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第26回)【日光大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】26回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日光大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第27回)【飾東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】27回目である今回は、『天理教事典』に記載された「飾東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第28回)【東本大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】28回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東本大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第29回)【嶽東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】29回目である今回は、『天理教事典』に記載された「嶽東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第30回)【島ヶ原大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】30回目である今回は、『天理教事典』に記載された「島ヶ原大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第31回)【堺 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】31回目である今回は、『天理教事典』に記載された「堺 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第32回)【御津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】32回目である今回は、『天理教事典』に記載された「御津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第33回)【城法大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】33回目である今回は、『天理教事典』に記載された「城法大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第34回)【生野大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】34回目である今回は、『天理教事典』に記載された「生野大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第35回)【東愛大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】35回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東愛大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第36回)【本島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】36回目である今回は、『天理教事典』に記載された「本島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第37回)【牛込大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】37回目である今回は、『天理教事典』に記載された「牛込大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第38回)【深川大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】38回目である今回は、『天理教事典』に記載された「深川大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第39回)【浅草大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】39回目である今回は、『天理教事典』に記載された「浅草大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第40回)【西陣大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】40回目である今回は、『天理教事典』に記載された「西陣大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第41回)【大縣大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】41回目である今回は、『天理教事典』に記載された「大縣大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第42回)【社 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】42回目である今回は、『天理教事典』に記載された「社 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第43回)【神川大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】43回目である今回は、『天理教事典』に記載された「神川大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第44回)【笠岡大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】44回目である今回は、『天理教事典』に記載された「笠岡大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第45回)【西宮大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】45回目である今回は、『天理教事典』に記載された「西宮大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第46回)【明和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】46回目である今回は、『天理教事典』に記載された「明和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第47回)【明城大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】47回目である今回は、『天理教事典』に記載された「明城大教会」についての説明を書き写しました。

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