天理教 各教会の歴史探索(第24回)【名東大教会】『天理教事典』より

「名東大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号23番「越乃國大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号24番「名東大教会」について勉強します。

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名東大教会(みょうどう だいきょうかい)

名東大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

名東大教会の始まり(明治22年~明治23年頃)

明治22年(1889)
徳島県下数十カ村に天理教を布教した 撫養大教会初代会長 土佐卯之助は
鳴門市高田の自宅にて、
同県(徳島県) 答島村 講元 長尾芳松が重病であったのを、
2週間祈願して 全快の守護を得たので、
 36km離れた答島村へ長尾(芳松)を送り届けようと
12km南方にある 徳島市の南端勢見神社前に達した。

そこで、土佐卯之助は 長尾芳松の希望により別れた。
長尾(芳松)は 答島村に帰村した。

(その後)土佐(卯之助)は 徳島市郊外 斎田講元 寺内宅に立寄り、
天理教が発展しているかどうかを尋ねたところ、
隣家の魚市場主人 柏原友吉は 真言宗行者の弟子であり、
そのために天理教に対し 大反対をするので困っている との状況説明にて
土佐卯之助は 柏原友吉に面談を申し込み、初対面した。

土佐(卯之助)の教話を心に留めた柏原友吉は
その月、土佐(卯之助)に導かれて 本部に初参拝をした。

更に、
本部の参拝から帰宅するや 直ちに
女魚行商人で1ヵ年足立たずの病人に出会い、
(柏原)友吉が祈願するや
一夜にして足が立つという 不思議な守護を得た。

この奇蹟が 魚市場より付近に伝わり
毎夜50人余の病人が集まり、
そのため 徹夜の「おたすけ」が続けられた。

一方、土佐卯之助は
撫養から 毎月2、3回訪問し、教理を伝えた。

明治23年 撫養大教会開筵式の際は、
16㎞距てた徳島市内から
柏原友吉が入信に導いた信者50名が団参した。

名東支教会の設置(明治25年~明治26年)

柏原(友吉)隣家の 寺内講元は、
同県(徳島)内 名東郡 高崎村 講元 正木国蔵の導きで入信。

正木(国蔵)は 明治18年 妻の病気から入信、
明治21年10月「さづけの理」を戴いていた。

そして、同村(高崎村)内 藍商某家の手代となり
播州や三丹地方へ 藍行商の傍ら 天理教の布教も行ない、
飾東初代会長 及び その他各地へ「にをいがけ」をした。

一家の都合上 布教を専門にするには至らなかったが、
13戸の信者を結成し、
その枝先が 徳島市郊外 寺内講元の入信につながった。

柏原友吉は 早朝魚市場を営み、
毎夜50名以上の病人が集まり 重病人も必ず救かる奇蹟に、
付近各村、板野郡貞方、大寺、名東郡高崎、西名東、田宮、芝原、井戸、八万、津田、勝浦郡飯谷、八多、吉井、大原、論田、麻植郡鴨島、牛島
その他へと波及し、
明治25年 徳島市幟町にて
撫養部内として、名東支教会設置出願する迄に 600戸の信徒を結成した。

こうした中で 柏原友吉は
名東の会長になる事を辞退し、
高崎講元の 正木国蔵を名東支教会長として 出願許しを得、
柏原友吉は 理事として勤めた。

名東支教会は、初代会長に正木国蔵をもって、
明治25年 6月22日付で 会長就任と設置の許しを得た。

名東支教会 最初の神殿は
名東の役員であった 高野清太郎、井内和次郎 所有の山林から
良材を切り出し建築されたものである。

この建築は 撫養部内第1号として 明治26年3月に建築落成し、
同月(明治26年3月)18日 本部巡教員である 橋本教正を迎えて
盛大な開筵式を挙行した。

名東の道の広がり(明治時代後期)

明治37年5月、
撫養系の信者 山口県防府市勝坂、鶴掉勝六宅を根拠として
名東より
単独布教師 古川太十郎、篠原伴次郎、岩田忠次、黒地重三郎の4名を派遣した。

更に 同年同月(明治37年5月) 山口県玖珂村 及び 伊陸村へ
名東より
三浦文平、管川峰次郎2名を 布教のため派遣した。

こうした中で
600名の信者が同県(山口県)内 10数ヵ所にできたので、
明治28年 5月 山口県防府市緑町において
古川太十郎を会長として、防府大教会を設置した。

明治28年 7月 山口県玖珂町付近から 500名の信者が結成されたので
布教者 三浦文平を会長として
名東部内 周東支教会設置の許しを得た。

明治26年9月
徳島県飯谷村講元 高野清太郎を所長として 勝浦出張所を設置。

明治28年9月、
同県(徳島県)内 名東村にて
名東役員 椎野円吉を所長とし 国名出張所設置。

また
高志村講元 福原友衛門を所長として高志出張所、
高崎村では 名東役員、元淵利吉を所長として名高出張所、
松島村では、原田種吉を所長として上板出張所を、
それぞれに設置した。

山口県地方は 防府支教会部内として、
明治29年に都濃、佐波、徳地、吉敷、周西出張所の
5ヵ所を設置。

同年(明治29年)、
山口県内には 周東支教会 部内として、
周陽、熊毛、周南、山代、周郷、広佐、
計6ヵ所の 出張所を設置した。

正木国蔵 初代会長(明治25年~明治33年)

名東初代の 正木国蔵は
明治25年6月22日 名東支教会長就任後、
明治30年7月27日には 撫養大教会役員を拝命。

その後 
明治33年 7月25日、名東支教会長を辞任。
同年(明治33年) 10月27日、2代支教会長に柏原源次郎が就任した。

柏原源次郎2代会長について

明治25年 撫養分教会役員 天満益衛門の現役兵入隊により、
弟 天満源次郎は
18歳で撫養分教会に住込み、青年勤めに励んだ。

(天満)源次郎は 漢文の心得があり、
毎月の月次祭には論語を用いて説教をしたため、
初代会長 土佐卯之助より厳しい注意を受け、
先人の拓いた信者への説教は役に立たぬ、自身自から道を拓く様
との仕込みにより、
21歳の時 教師補命を受け、
単独布教のために伊予 岩松町に出発、1ヵ月間で35戸の信者を結成した。

こうした時、
名東理事 柏原友吉の相続人として見込まれ、
撫養初代会長 土佐卯之助の指図により、
1週間後 名東柏原家に入り、
天満源次郎から 柏原源次郎へとかわった。

こうした事情は
柏原友吉が重病であったために急に決定し、
源次郎が入家して10日目に
養父である柏原友吉は 44歳を以て出直した。

(柏原)友吉の50日祭が終了するや
(柏原)源次郎は 再び 教師1名を連れ、
単独布教として 九州 佐賀県唐津市に出発、21歳であった。

(柏原源次郎は) もし道が拓けなかった場合は玄海に身を投ずる決意をして、
同市(唐津市)郊外に向かって布教を展開、
開始後40日目に老女の病人が即座に救かり、
二人目は 産後3年足立たずの人が3日間で足が立つという奇蹟により
2ヵ月間で50戸の信者を結成。

1年4ヵ月間に 唐津より佐賀方面に教勢伸張し、
200戸に及ぶ信者の結成を見、
10名の別席者をつくって 単独布教を引き揚げた。

以来 3ヵ年 名東役員として
他の布教師と共に
名東部内 中国九州地方教会を巡教した。

明治33年、名東初代 正木(国蔵)会長 退任により、
名東2代会長に 柏原源次郎が就任した。

柏原源次郎2代会長の時代(明治33年頃~昭和16年)

名東の布教線は
九州、広島、阪神、北海道へと次第に拡張していったが、
内務省訓令後、
設置出願は 10年間 全部却下された。

こうした厳しい状況のなかで、
(柏原源次郎)会長は 毎年2回 必ず部内教会 及び 布教所を巡教、
修理第一主義を実行した。

天理教独立後、地方認可の道がひらけ、
教祖30年祭の頃には、
撫養の布教勢力は 250ヵ所にまで発展、
その中で 名東は 100ヵ所を有した。

大正6年(1917) 5月、撫養大教会の移転改築が決定。

建築工事に際し、柏原(源次郎)会長は 献金委員長の大命を受け、
撫養全体に 工事促進の巡教を行う事を命じた。

この工事は大規模なもので 当時 教内第一と称せられた。

大正14年3月、教会本部より、
2代真柱就任を期して 名東分教会は
撫養より分離昇格するように指示があった。

同年同月(大正14年3月)
名東から 柏原(源次郎)会長をはじめ 役員7名が 撫養大教会に出向き、
その席上で 名東分教会の分離昇格の発表があった。

発表に対し 名東の柏原(源次郎)会長は
撫養大教会の教会建築は完成したが、
まだ落成式が済んでいないため、5年間の延期を希望したが、
撫養2代会長から遠慮せずに受理するよう促され、
即時 分離昇格の命を受けた。

(大正14年) 4月21日付で
名東部内 174ヵ所の内、防府 44ヵ所を撫養に残し、
130ヵ所をもって 名東中教会に昇格した。

名東は 50年祭迄に
信徒詰所建築、大教会昇格、本部教祖殿 銅瓦を 撫養と合同献納。

(教祖)40年祭前、分離の時に 130ヵ所であったが、
(教祖)50年祭迄に 250ヵ所にまで発展した。

昭和5年(1930) 柏原源次郎長男 義則は
大学卒業後 ハワイで1年間単独布教、太平洋教会を設置した。
引続いて 欧米視察旅行に出発、昭和7年春 帰国した。

昭和8年 4月26日、名東大教会に昇格決議。
同年(昭和8年) 10月21日、本部の許しを得、翌(昭和)9年 3月1日、名東大教会 昇格奉告祭を執行した。
同年(昭和8年) 10月23日、信徒詰所 落成式典を執行。

昭和14年3月15日、周東分教会は 名東より分離、大教会に昇格を許された。

柏原義則3代会長の時代(昭和16年~昭和44年)

こうした中で、2代会長 柏原源次郎は 昭和14年 本部員の命を受け、
昭和16年 3月24日には 会長職を退任。

長男 (柏原)義則に 会長職を譲り、
本部員として専心、天理教の要務につくこととなった。

以来、時局の様相は次第に熾烈となり、
天理教の布教活動も停滞の状態となったが、
この間 昭和20年7月3、4日、徳島空襲のため 神殿が焼失した。

終戦と共に
次第に復興の意欲も盛上がり、
昭和22年 3月10日には 仮神殿落成奉告祭をする迄に至った。

3代会長 柏原義則は 政界にも力を発揮し、
昭和21年 4月衆議員議員に当選(以後3回当選)、
昭和24年には 文部政務次官を勤めた。

その後、教会の活動も漸次活発となり、
昭和26年には 社会事業更生病院を建設した。

引続いて 鉄骨鉄筋の神殿本普請の建築に着手し
昭和27年 12月10日 落成奉告祭を執行すると共に、
名東60周年記念祭を盛大に挙行した。

(柏原義則)3代会長は 28年間在職し、昭和44年 4月退任。

柏原和子4代会長の時代(昭和44年~)

同年(昭和44年)4月19日、
4代会長に 柏原和子が就任して現在(註:『天理教事典』1977年版出版当時)に至る。

4代会長後継者とされていた柏原与志郎が
昭和34年 12月13日に 38歳で出直したので、
和子夫人が任に就いたものである。

同(昭和)44年 6月10日、就任奉告祭が盛大に行われた。

その後、(昭和)47年 4月16日には「名東会館」が完成。

同年(昭和47年) 12月9日、創立80周年記念祭が執行され、
また 昭和48年から教祖90年祭活動が進められる中に、
同(昭和)49年 4月19日、詰所の一部が「第40母屋」として新築落成をみた。

現在、よふぼく、信者は、世界だすけへの一層の躍進を誓って、活動している。

〔現住所〕〒770 徳島市幟町1丁目32番地
〔電話〕088-623-3312

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)

『天理教事典』1977年版 P,811〜813

おわりに

名東大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

24回目の今回は、
「名東大教会」の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

Googleストリートビュー②より
Googleストリートビューより

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】24回目の当記事では
『天理教事典』の中の「名東大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

名東大教会は、撫養大教会から分かれた大教会ですね。
河原町大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「名東大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)

  1. 撫養初代の土佐卯之助が、徳島県答島村・長尾芳松のおたすけを行った。

  2. 土佐卯之助が答島村に立ち寄った便に、斎田講元 寺内宅に立寄り、その地域の天理教浸透状況を尋ねた。
    すると、隣家の魚市場主人 柏原友吉による大反対で困っている、との話を聞いた。

  3. それを聞いた土佐卯之助は、柏原友吉に面談を申し込み対面した。

  4. 柏原友吉は、土佐卯之助の教話に感銘を受け急転回。
    土佐卯之助に導かれ、本部に初参拝した。

  5. 柏原友吉は、本部の参拝から帰宅するや、直ちに地元布教を開始。
    病人の奇蹟的救済が相次ぎ、その結果、毎夜50人余の病人が集まる程になった。
    そのため、徹夜の「おたすけ」が続けられた。

  6. 明治23年の、柏原友吉に教えを伝えた土佐卯之助会長の撫養大教会開筵式の際には、
    16㎞距てた徳島市内から土佐の撫養大教会へ、
    柏原友吉が入信に導いた信者50名が団参した。

  7. その後、徳島でもどんどん教えが広まり、名東支教会を設置することになった。
    柏原友吉が名東の会長になる事を辞退したので、
    柏原友吉隣家・寺内講元導き親である高崎講元の正木国蔵を名東支教会長として出願、許しを得た。
    柏原友吉は 理事として勤めることとなった。

  8. 明治25年 6月22日、
    名東支教会は、正木国蔵を初代会長とし 設置の許しを得た。

  9. 明治33年 7月25日、名東初代 正木国蔵会長が退任した。
    柏原家には、柏原友吉重病に伴い、土佐卯之助の指図で撫養役員・天満益衛門の弟、源次郎が入籍していた。
    その源次郎が、明治33年 10月27日、名東2代支教会長に就任した。

  10. 2代会長 柏原源次郎は、昭和14年 本部員の命を受け、昭和16年 3月24日に 会長職を退任。
    柏原源次郎長男・柏原義則が、3代会長となった。

  11. 柏原義則3代会長は 28年間在職し、
    昭和44年 4月に退任した。

  12. 4代会長後継者とされていた柏原与志郎は
    昭和34年12月13日に 38歳で出直していたので、
    昭和44年4月19日に、柏原和子夫人が4代会長に就任した。

…そんな感じでしょうか。

名東大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

『天理教事典』を書き写しながら、私が非常に興味深く感じたのは、
名東大教会が撫養大教会から独立するくだりでした。

『天理教事典』には次のように記述されていました。

大正14年3月、教会本部より、
2代真柱就任を期して 名東分教会は
撫養より分離昇格するように指示があった。

同年同月(大正14年3月)
名東から 柏原(源次郎)会長をはじめ 役員7名が 撫養大教会に出向き、
その席上で 名東分教会の分離昇格の発表があった。

発表に対し 名東の柏原(源次郎)会長は
撫養大教会の教会建築は完成したが、
まだ落成式が済んでいないため、5年間の延期を希望したが、
撫養2代会長から遠慮せずに受理するよう促され、
即時 分離昇格の命を受けた。

以前、水口大教会の勉強をした際、
水口大教会も 河原町大教会から分離する話が出た時、
「水口としては(河原町からの分離は) 時期尚早の故をもって決まらず、むしろ 和合協力、教会の発展を期すべく、嶽東出張所の昇格、河原町の敷地買収並びに移転、更に水口の増築などに忙殺されて一顧する暇もなかった…」
と、不安いっぱいだったということを知りました。

名東大教会も、
撫養から分離独立する提案に対しては 猶予を願い出られた、
すなわち、
それは困惑を持って受けとめられるものだった、
というわけなのですね。

というか、
この『天理教事典』の記述を素直になぞるならば、
名東大教会にとって、
撫養大教会から分離独立する話は、寝耳に水だったように読めます。

天理教初級者の私は、
大教会から大教会が分離する経緯がどういうふうになっているのか知らないのですが、
少なくとも、水口や名東の場合は、
自分たちから願い出たのではなくて、ご本部からの指示を受けて進められた、
喜ばしく有難い提案というよりも、むしろ困惑する提案だった、
というわけです。

柏原源次郎会長は撫養大教会の教会建築落成式が済んでいないので5年間の延期を希望した。
けれども、撫養2代会長から遠慮せずに受理するよう促され、即時 分離昇格の命を受けた。

浅い感想であることは重々承知していますが、
私は、そこに、
子の成長を願う親と、親を慕う子の深い絆を感じました。
何とも言えない温かみを覚えました。

親のことを放っておいて独立するわけにはいかない、と躊躇する子。
親のことはいいから自分の道を歩みなさい、と独立を促す親。

お道の教会制度は「親ー子」関係で表現されることが多く、
その弊害が指摘されることが多々あることは承知しています。

しかし、その一方で、
「親ー子」関係として例えられる絆、
それは、世間一般の「組織」ではあり得ない優しさと思いやりを伴った温かいものである
ということを、
この撫養と名東の関係は示している、
と私は感じました。

落ちこぼれ信者の私は、無邪気に、
お道の教会制度が、癒着・馴れ合い・依存等の弊害を克服し、
親子関係の良い点を最大限活かしたものにアップデートされていけばいいのになぁ…
などと、
この度の「名東大教会」勉強を通して、思ったりするのでありました。

――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。

名東大教会ストリートビューより③
Googleストリートビューより

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「名東大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】19回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名京大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第20回)【中和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】20回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第21回)【櫻井大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】21回目である今回は、『天理教事典』に記載された「櫻井大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第22回)【筑紫大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】22回目である今回は、『天理教事典』に記載された「筑紫大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第23回)【越乃國大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】23回目である今回は、『天理教事典』に記載された「越乃國大教会」についての説明を書き写しました。

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