「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写

「「おふでさき」【第一号】 を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

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今回からの記事の意図

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天理教ご本部「春季大祭」も無事終わり、
いよいよ、教祖百四十年祭の三年千日年祭活動期間に突入致しました。

ふらふら彷徨う新米教会長の私にとって、教祖百四十年祭は、「教会長」という立場をお与え頂いて、初めての「教祖年祭」になります。

教祖百四十年祭に向かう三年千日の年祭活動期間だぞ、気合を入れて信仰活動に取り組め!
とあちこちでご指導頂きます。

仰られることはよく分かるのですが、「信仰落第生」の私です。
正直なところ、教会長らしいことと言って、特に何も出来そうにありません。
(最初から逃げ腰でどうする! と責めないで…《涙》)

しかし、だからと言って、
全く何の意識もせず、このまま、ただボ~ッと教祖百四十年祭の当日を迎えるのは、
それはそれで心苦しい。申し訳ない。

そこで、教祖年祭に向けて、「落第生」なりに何か出来ることはないかしらん…
と、無い頭を絞って考えてみました。

にをいがけ、おたすけ、路傍講演…等、バリバリの信仰活動は、私には「荷が重い」。

で、私の頭に浮かんだのは、
まずは、『原典』を勉強してみよう…ということでした。

わがこと(我が事)かい!
とのツッコミが入りそうですが、
そうです。わがことです…(汗)

布教活動とか、教会内容の充実に向けた活動とかの「外向き」の活動は、
内向性格の私には負担が大きく、その取り組みに、なかなか喜びが伴わない。
むしろ、気が滅入る。

それよりも、内向性格者なら内向性格者なりに、その性格に向いた「内向き」の活動というものがあるはず。
そういう活動に取り組む方が、自身の満足度や喜びにつながる。

それは、
【短期的】には、単なる自己満足充足という極めて狭い範囲を満たすだけの活動かもしれない。
けれど、眉間にシワを寄せつつ 不向きな活動に四苦八苦するよりも、
自己の特性を活かした活動に取り組み、その結果が良い形で周囲へ波及することを期待する、というやり方の方が、
【長期的】には社会への貢献になるのではないか。

屁理屈こねまわすんじゃないよ!と言われそうですが(笑)…
まぁ、そのように考えたわけです。

ということで、
私なりの「年祭活動」の一つとして、
天理教の『原典』についての勉強を、このブログを通して、少しばかりやってみることにした、という次第。

芹澤茂著『おふでさき通訳』を書写する意図

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天理教の『原典』について勉強してみよう、と思いついたはいいものの、
さて、では何の勉強をするか?
ということで、また頭を悩ませました。

いろいろ考える中、
かつて、この『さまよいブログ』で
みかぐらうた通訳~上田嘉太郎先生著作『みかぐらうた略解』に学ぶ~
という記事を公開したことがあったのを思い出しました。
2021年10月19日の記事です。

それは、
上田嘉太郎先生の『みかぐらうた略解』という本に書かれた、
天理教原典「みかぐらうた」の現代訳文をただ単に【通し】で記載するという、
まさしく、自己満足を充足するだけの記事でした。

が、そこから連想するような形で、
自教会の本棚に芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本があったことを思い出したのです。

「そうだ。あの『おふでさき通訳』に書かれた、天理教原典『おふでさき』の口語訳文を【通して】記載してみたらどうだろう?
『おふでさき』の【口語訳】を〈読み物風〉に『通して』読んでみたら、今までよりも『おふでさき』に対する理解が深まるのではないだろうか…」

そのような思いに至った、というわけであります。

「おふでさき」第一号21のおうたに

このよふハ りいでせめたる せかいなり
なにかよろづを 歌のりでせめ (1‐21)

とあるように、
「おふでさき」は五七五七七の短歌調になっているのが特徴であり、きっとそこに深い神意がこめられているのだと思います。

そのまま味わうことに意味があるのだとは思うのですが、
私のように散文の方が好きな者からすると、
これが「散文」だったら、また違った形で頭に入ってくることも結構あるんじゃないかなぁ…
という思いが湧いてきたりもするわけです。

すなわち、これから私がやろうとしていることというのは、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本の中の「おふでさき」の口語訳文を【通して】記載すること、
その作業によって、「おふでさき」を散文で読み物風に通して読んでみること、
というわけです。

そのことにより、今まで見えていなかった「おふでさき」の景色の見え方が広がることを期待しながら。

『おふでさき通訳』の口語訳文を書写するにあたっては、
「おふでさき」原文を記載しそれと対比させるような形で口語訳文を記載する、というやり方では、
“「おふでさき」を読み物風の「散文」として味わいたい”
という目的を、今一つ達成しづらい面があります。

なので、「おふでさき」の原文は一切記載しません。
ひたすら、芹澤茂先生の「口語訳文」のみを書写、書き連ねていきます。

芹澤茂先生『おふでさき通訳』の「口語訳文」を書写するという今回の記事——
世の中的には、どこにもニーズはないかもしれません。

しかし、それにもめげず、【自己学習】の足跡として公開します。

その理由は、
何と言っても当ブログはあくまで【自己学習ノート】であり、
“誰かが見るかもしれないという緊張感”、
それが私の「怠け心」にブレーキをかけてくれ、
そのことが、自己学習という当ブログの趣旨を満たす上で大きな力になるからです(笑)

芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写

translation from one language to another

今回は、「おふでさき」【第一号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第一号】口語訳 書き写し

【第一号】 

(七十貮才老女 明治貮巳年正月從)

「よろづよのせかい一れつを見晴らしても、
“むねのわかりた者”は居ない(ので、人間はこの世の真実も神の心も知らぬ)。

まだ(神の胸の内を)説いて聞かしたことはないのだから、知らぬというのも無理はない。

このたびは、(その日が来た故、)神が表へ現れて何ごともみな説いて聞かせよう。」
(1~3) 

「このところ(について)“やまとのぢばのかみがた”と言っているけれど、その元は知るまい。

この元を詳しく聞いたなら、どんな者もみな恋しくなる(に違いない。聞きたいであろう)。

聞きたいなら訊ねて来るがよい。
よろづいさいの元のいんねんをよく聞かそう。」
(4~6) 

「神が(遠くまで)出て、何でも委細を説いて聞かすなら、世界一れつは心がいさんで来る。

(世界中)一列に(みな)早くたすけることを急いでいるから、世界(中の人々)の心をいさめかけて行く。」
(7~8) 

「だんだんと(順序を追って、世界中の人々の)心が勇んで来るならば、
“せかいよのなか”(自然も豊作)“ところはんじょう”(社会も繁栄)(ということになる)。
(9) 

「この先はかぐらづとめの手を付けて、
(だんだんと道具立ても教え、やがて(人衆など)みんな揃ってつとめができる日を待っている。

早くみんな揃ってつとめを(するようにせよ。つとめを)してそばがいさめば、(その心を受けとって)神もいさむ。

一れつに(何ごとにつけても)神の心がいずむならば、立毛(作物)がみないずんで(不作になって)しまう。

いずむ心は気の毒である。いずまぬように早くいさむようにせよ。

立毛がいさみ出るようにと思うなら、かぐらづとめやてをどりをせよ。」
(10~14) 

「このたびは早くてをどりを始め掛けよ。
これが“合図の不思議”ということになる。

この合図が不思議(な出来事の起きる合図である)と言っても、
まだ不思議は(起きていないので)見えていない。

しかし、その日が来れば(それは)確かに分かるのだ。
その日が来て何かということがはっきり分かったということになれば、どんな者でもみな感心する。

(起きるということが)見えているから(話を)説いておこうというのは“世界並”である。
(神は)見えていない以前に説いておく。」
(15~18) 

「この先は、上たる者の心がだんだんと、心を静めて(思案していくことによって)和睦(する心に)なるよう(にする)。

この和睦は、難しいようであるが、だんだん神が守護する。」
(19~20)

「この世は理で責めた世界である。
(それ故、)何ごとにつけ、みな歌の理で責めることにしよう。

責めると言っても手出しするのではないし、口やかましく言うのでもなく、筆先の責めである。

何もかも間違いなくいっていればよいので、間違いのある場合は、歌(の形で文字に書い)て知らせる(故、読んでさんげせよ)。」
(21~23) 

「(教祖より口で言って)知らしたら(必ず)現れて来るので、それは気の毒である、
どんな病(現われ) も(当人の)心から出たものだとは言っても。
(だから口では言わぬ。筆に書いておく)

(今話題になっている)病(秀司の足痛)も、世界並のものではない。
神の立腹を今こそ現わす(ものだ)。

今までも神の言う事を聞かないから、(人目につくよう)表に表したのである。

これほど神のざんねんが出ているから、医者も薬も治療できない。

この病ばかりは人並なものと思ってはならぬ。
これは、歌に(その理を)書いて責めきる(ので、よく思案せよ)。
(24~28) 

「このたびは屋敷の掃除をすっきりと仕立ててみせるから、よく見ていよ。
掃除さえすっきりとしてしまえば、(あとは)“知りて話して話する”ということになる。」
(29~30) 

「これまでの(神の)ざんねんであったことは何かと言えば、
(秀司の)足の悪いのが第一の残念なのだ。

この足を病と言っているが、病ではない。
神の立腹(が現れているの)だ。

立腹も少しではなく、積もり重なった上での事である。
どうして立腹なのかと言えば、悪事が退かないからである。

この悪事がすっきりと退かないことには、ふしんの邪魔になるということをよく考えよ。」
(31~35) 

「この悪事はなんぼしぶといものであっても、神が責めきり退けてみせる。

この悪事をすっきりと除けてしまったなら、足の悪いのもすっきりと直る。足さえすっきりと直りさえしたら、あとは普請のもよう(準備)だけだ。」
(36~38) 

「ちょっと話(しておく)。

正月三十日と日をきって送り返すのも、神の心からである(人間心からではない)。

そばの者は何をするのかと思っても、先なることを知らぬからである。

その日が来て、(納得のいく事が)見えて来たなら、そばの者も“神の言うことは少しも違わない”(ということがわかる)。

今までは、神の言うことを疑って、何でも“嘘だ”と言ってきた。
この世を創めた神の言うことに千に一つも違うことはない。」(39~43) 

「だんだんと(先なることが)見えてきたなら得心をせよ。
どんな心もみな現れる(ので、これを見たなら得心できる)。」
(44) 

「よろづよ(万世)の世界中を見渡してみれば、道の次第も色々ある。
この先は、道に例えて話をする。どこのこととも言わないでおこう。」
(45~46) 

「山坂や、茨ぐろも崖道も、剣の中も通り抜けたら、まだ見える、火の中もあり、淵中も(あり)、それを越したら細い道あり。
細道をだんだん越せば大道や。
これが確かな本道である。」
(47~49) 

「この話は、ほかの事(よそごと)ではないので、神一条(神の話一筋)で(通る者はみな)我がこと(と思って思案せよ)。」
(50) 

「今まではうちに関することばかり(話したが)、
もうこれからは文句を変える(話題を変える)。」
(51) 

「よろづよに世界のところを見渡しても、あしきの者(悪人)は本当はいないのだ。

(あしきと言っているが、)どこにもあしきなどない、
ただ一寸のほこりが付いた故(に、あしきとなるの)である。

この先は、心を静めて思案(してほこりに)注意せよ。
(そして)あとで後悔のないようにせよ。」
(52~54) 

「今までは(人間は)、長い道中(様々の)道すがら(を神は通してきたので)、
よほど退屈したであろうな。

このたびは、もう確かな参り所が見えてきたぞ、
(神が守護し導いてきた人生について)得心をせよ。

これからは(人間の来し方・行く末の)長い道中を説いて聞かす故、よく思案せよ。」
(55~57) 

「この先は、うちを治める段取り(に取り掛かる)。
(これを)神の方では急込んでいる。」
(58) 

「だんだんと(順序を追って思案して)神の言うことを聞いてくれ。
悪いことを言うわけではないのだから。

この(今話題になっている)子供(お秀)を二~三年仕込もう(花嫁修業させよう)と言っているけれど、(この子供はいつ)“神の手離れ”(になるかわからぬ)。思案してみよ。

親がどんなに思っていても、神の手離れ(になったら、これ)はどうしようもない。

この世は悪事まじりであるから、いんねんを付けることはしてはいけない。」
(59~62) 

「わが身を思うと、“もう五十になる”と考え(て、先を急ごうとす)る(のも無理ではない)が、
神の眼にはまだ先(の寿命)がある。

今年から六十年はしっかりと神の方はしかと請け合う。

(それには)これから心をしっかり入替え(て、わが身思案をやめ、
神の思召に添うという決心をせ)よ。

悪事を払って若い女房(を貰うのだ)。

これとて、難しいように思われているが、神が出(て働い)たなら、(必ず)貰ってくる。

(そうして家を治めて)日々に(神のご用の上に)心を尽くしたならば、
あとの支配を万事まかせよう。」
(63~67) 

「五人(子供が)ある中で、二人は家におけ、
あと(残る)三人は神の方で引き受けよう。

昔のことも今の時代のことも(話に聞く限りのことを)よく考慮して、
心を静めて思案してみよ。
(この結婚の話は、今までにあったようなことではない。)

今までも神の世界であっ(て、結婚も、神が陰から守護してはい)たが、
(神が)仲立ちをするのは今が初めてである。

これからは、せかいの人は(何も知らぬ故)おかしなことと笑うであろうが、
どんなに笑っても、これが一番肝腎なことである。

せかいの人は何をするのかと言うであろうが、
人の笑いを神が楽しむ(と思って心を澄ましていよ)。」
(67~72) 

「めいめい(各自)が考えている(その)心は考え違いである。

神の心はみな(人間の考えとは)違う。

前生のいんねん(ある者を)寄せて守護する(のであるから)、
これは末代までもしかと治まる(のである)。」
(73~74)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,13~44
さまよい人
さまよい人

「おふでさき」を散文で読んでみると、また違った味わいがありますね。

 以上、芹澤茂著『おふでさき通訳』第一号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第一号】の概要

「No,1」の文字

芹澤茂先生著『おふでさき通訳』を通して、「おふでさき」【第一号】を散文化して味わいましたが、
そうした作業を通して、
そもそも「おふでさき」【第一号】全体の概要、それはどういうものなのだろう…
という問題意識が高まっていきました。

そのような漠然とした問題意識を抱えながら教会の本棚を探してみると、
「おふでさき」関連の教内図書がいくつか見つかりました。

【矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』(1994年4月1日発行)】

【上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』(2017年2月1日発行)】

これまでずっと本棚にありましたが、お恥ずかしながら、このたび、初めて手に取って中を開いて見た次第です(汗)

まだパラパラとしか読んでいませんが、「おふでさき」を勉強する上で絶好の参考書だと感じました。

教祖百四十年祭の「三年千日」年祭活動期間の旬でもありますし、
おやさまの御心を少しでも身近に感じることができるように、これから、少しずつ拝読して勉強したいと思います。

さて、その矢持辰三先生、上田嘉太郎先生、それぞれの書籍の中で、
「各号ごと」の概要を記して下さっていました。

「おふでさき」【第一号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
それを書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

第一号について】

おふでさきは、明治二年正月から書きはじめられました。

第一号に続いて、この年(明治二年)三月に書かれた第二号と併せて、
この二つの号はおふでさき全体の序言、あるいはおふでさき全文の要点となる大切な事柄が述べられているように思います。

この時、教祖の長男秀司様が結婚されますが、このことも述べられます。

また、この年(明治二年)の四月末から六月初めにかけて、教祖は三十八日間の断食をされます。

おふでさきご執筆の理の重さを、身をもって示されたように悟らせていただけます。

矢持辰三『おふでさき拝読入門』P,19
さまよい人
さまよい人

明治維新が成立し、江戸幕府から明治政府へ移行したばかりの
明治2年から「おふでさき」の御執筆は始まったのですね。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

第一号の概要

冒頭で、立教の由縁、立教に際しての親神様の思いを述べ、
これからは元のいんねんを説き聞かせ、人々の心を勇ませて、世界一れつのたすけを急ぐ旨、ご宣言になっている。

そのための根本の道としてつとめを教える。

皆が揃って、勇んでつとめをするならば神が勇む、神が勇めばその守護もどんどん現れてくると、つとめの意義を明かされる。

この世は理詰めの世界であると仰せになり、筆先、歌をもって理の諭しをすると告げて、
秀司様の足の障り、結婚問題を台に、屋敷の掃除をお急き込みになる。

その中には、病についての思案や、道、ほこりといった、たとえを用いての諭しが含まれている。

上田嘉太郎『おふでさき通解』P,13
さまよい人
さまよい人

【第一号】は序章のような位置付けであることがよく分かりますね。

感想

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「おふでさき」を散文にしてみたものを読む、という取り組みにはたして意味があるのか。

というより、神様の思惑があってわざわざ短歌調で表されたものを散文にするという行為は、神意に反する行いではないのか。

たまたまこの記事を目にした方から、そんなご指摘を頂きそうです。

しかし、今回、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』を、第一号だけですが「散文化」してみて、
これはこれで意味があるのではないのかな、と私は感じています。

天理教内に「おふでさき」を勉強する書籍は多く存在します。

しかし、私のような信仰落第生の「新米教会長」にとって、そういった専門書は、正直「難しい」。

それ以前に、「おふでさき」という原典に触れるにあたっては、
私の場合、必要に応じて、その都度、部分部分を細切れに拝読するのがほとんどで、
「おふでさき」全体のストーリー性を意識しながら、全体像に触れようとする機会は、これまであまりなかったように感じます。

「全体像」というものを意識する、視野を拡大して「全体性」に思いを馳せる、ということ。

枝葉末節にとらわれて本筋を見失ってしまわないようにするためには、そのような取り組みは不可欠だと思うのです。

そしてそれは、天理教原典である「おふでさき」においても決して例外ではないはずです。

「おふでさき」の細かいパーツに目を奪われて、全体像が見えなくなるようなことがあってはならない。

そうならないための一助として、
短歌調の「おふでさき」を散文化してみて、それを物語風に通して読んでみる、という取り組み。
それは、決して無意味なことではない。
散文の方が全体像をイメージしやすい面がある。

私は、そのように考えます。

ということで——
今回から、ちょっとずつ、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』の「口語訳文」のみを書写して、
「おふでさき」を散文で味わってみる、
ということをしていきたいと思っています。

関連動画の紹介

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この記事を書き上げた頃、何となくYouTubeネットサーフィンしていたら、
語り文で聞く『おふでさき』」という動画に出会いました。

それは、天理教版の「ゆっくり実況動画」を公開している【ゆっくり天理教 てんちり】というチャンネルの中の動画で、
「おふでさき」のおうたを、動画のキャラクターが一つずつ意訳して朗読する、という動画でした。

芹澤茂先生の『おふでさき通訳』は、短歌長のおうたに、意味が分かるよう多少付け加えの言葉を入れつつも、あくまで原文の趣きを損なわないような口語訳に努める、という感じがありました。

それに対し、【ゆっくり天理教 てんちり】さんの「語り文で聞く『おふでさき』」は、おうたの背景も含めた理解が進むことを目指した意訳、という感じで、
天理教の基礎教養に乏しい私にとっては、意味も含めた訳なので “そういう意味かぁ…” と勉強になることが多かったです。

それに、何と言ってもYouTube動画ですから、流しておけば独りでに耳に入ってくるし、初心者にとっては実に有難いコンテンツだと感じました。

なんだ、こんな動画があったのか。
それなら“「おふでさき」を散文で味わいたい”という私のニーズは、これで十分満たせるじゃないか…と思いました。

もし、この記事を書く前にこの動画に出会っていたら、きっと今回の記事には取り掛かっていなかったと思います。

しかし、せっかく書き上げた記事をボツにするのも癪だし、
当ブログは自己学習ブログですので、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』口語訳を書写するという作業そのものが私にとって価値あることなので、このまま公開させて頂くこととします。

「おふでさき」を現代文で理解するという目的のためには、このたびの私の記事よりよっぽど有効だと思われる【ゆっくり天理教 てんちり】さんの「語り文で聞く『おふでさき』」という動画については、以下にリンクを貼っておくことにします。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

とても分かりやすく、勉強になります。
この先も、【ゆっくり天理教 てんちり】さんのチャンネルで大いに勉強させて頂きたいと思っています。

現代訳で聞く、おふでさき01 1~44 (https://www.youtube.com/watch?v=rNtU2E4BW08

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき01 1~44)より

現代訳で聞く、おふでさき01 45~74 (https://www.youtube.com/watch?v=fQbv_6ffN8U

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき01 45~74)より

改めて「おふでさき」【第一号】を散文で読む(括弧書きも外して)

stil life teddy white

今回の記事では、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という著作の口語訳文を書写したわけですが、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
最後に、
改めて、芹澤茂先生の著作内で記されていた括弧( )や「おふでさき」番号等もすべて外して、
完全な「散文」にしたものを置いておきたいと思います。

「おふでさき」【第一号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第一号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十二才 明治二年正月より)

万世の世界一れつを見晴らしても、“むねのわかりた者”は居ないので、人間はこの世の真実も神の心も知らぬ。
まだ神の胸の内を説いて聞かしたことはないのだから、知らぬというのも無理はない。
このたびは、その日が来た故、神が表へ現れて何ごともみな説いて聞かせよう。 

このところについて“やまとのぢばのかみがた”と言っているけれど、その元は知るまい。
この元を詳しく聞いたなら、どんな者もみな恋しくなるに違いない。
聞きたいであろう。
聞きたいなら訊ねて来るがよい。
よろづいさいの元のいんねんをよく聞かそう。 

神が遠くまで出て、何でも委細を説いて聞かすなら、世界一れつは心が勇んで来る。
世界中一列にみな早くたすけることを急いでいるから、世界中の人々の心を勇めかけていく。 

段々と順序を追って、世界中の人々の心が勇んで来るならば、“せかいよのなか”=自然も豊作、“ところはんじょう”=社会も繁栄、ということになる。 

この先は、かぐらづとめの手を付けて、だんだんと道具立ても教え、やがて、人衆などみんな揃ってつとめができる日を待っている。
早くみんな揃ってつとめをするようにせよ。
つとめをして傍が勇めば、その心を受け取って、神も勇む。
一れつに何ごとにつけても神の心がいずむならば、立毛、作物がみないずんで不作になってしまう。
いずむ心は気の毒である。
いずまぬように、早く勇むようにせよ。
立毛、作物が勇み出るようにと思うなら、かぐらづとめやてをどりをせよ。 

このたびは、早くてをどりを始め掛けよ。
これが“合図の不思議”ということになる。
この合図が不思議な出来事の起きる合図であると言っても、まだ不思議は起きていないので見えていない。
しかし、その日が来れば、それは確かに分かるのだ。
その日が来て何かということがはっきり分かったということになれば、どんな者でもみな感心する。

起きるということが見えているから話を説いておこう、というのは“世界並”である。
神は、見えていない以前に説いておく。 

この先は、上たる者の心が段々と、心を静めて思案していくことによって和睦する心になるようにする。
この和睦は、難しいようであるが、だんだん神が守護する。

この世は、理で責めた世界である。
それ故、何ごとにつけ、みな歌の理で責めることにしよう。
責めると言っても手出しするのではないし、口やかましく言うのでもなく、筆先の責めである。
何もかも間違いなくいっていればよいので、間違いのある場合は、歌の形で文字に書いて知らせる故、読んでさんげせよ。 

教祖より口で言って知らしたら必ず現れてくるので、それは気の毒である。
どんな病、現われも当人の心から出たものだとは言っても。
だから、口では言わぬ。筆に書いておく。

今、話題になっている病、秀司の足痛も、世界並のものではない。
神の立腹を、今こそ現わすものだ。
今までも神の言う事を聞かないから、人目につくよう、表に表したのである。
これほど神のざんねんが出ているから、医者も薬も治療できない。
この病ばかりは、人並なものと思ってはならぬ。
これは、歌にその理を書いて責めきるので、よく思案せよ。 

このたびは、屋敷の掃除をすっきりと仕立ててみせるから、よく見ていよ。
掃除さえすっきりとしてしまえば、あとは“知りて話して話する”ということになる。
 

これまでの神のざんねんであったことは何かと言えば、秀司の足の悪いのが第一の残念なのだ。
この足を病と言っているが、病ではない。
神の立腹が現れているのだ。
立腹も少しではなく、積もり重なった上での事である。
どうして立腹なのかと言えば、悪事が退かないからである。
この悪事がすっきりと退かないことには、ふしんの邪魔になる、ということをよく考えよ。 

この悪事は、なんぼしぶといものであっても、神が責めきり退けてみせる。
この悪事をすっきりと除けてしまったなら、足の悪いのもすっきりと直る。
足さえすっきりと直りさえしたら、あとは普請のもよう、準備だけだ。 

ちょっと話しておく。
正月三十日と日を切って送り返すのも、神の心からである。
人間心からではない。
傍の者は何をするのかと思っても、先なることを知らぬからである。
その日が来て、納得のいく事が見えて来たなら、傍の者も、“神の言うことは少しも違わない”ということがわかる。
今までは、神の言うことを疑って、何でも“嘘だ”と言ってきた。
この世を創めた神の言うことに、千に一つも違うことはない。 

段々と、先なることが見えてきたなら得心をせよ。
どんな心もみな現れるので、これを見たなら得心できるであろう。 

万世の世界中を見渡してみれば、道の次第も色々ある。
この先は、道に例えて話をする。

どこのこととも言わないでおこう。 

山坂や、茨ぐろも崖道も、剣の中も通り抜けたら、まだ見える、火の中もあり、淵中もあり、それを越したら細い道あり。
細道をだんだん越せば大道や。
これが確かな本道である。 

この話は、ほかの事、よそごとではないので、神一条、神の話一筋で通る者は、みな我がことと思って思案せよ。 

今までは、うちに関することばかり話したが、もうこれからは、文句を変える。話題を変える。 

万世に世界のところを見渡しても、あしきの者、悪人は、本当はいないのだ。
あしきと言っているが、どこにもあしきなどない。
ただ、一寸のほこりが付いた故に、あしきとなるのである。
この先は、心を静めて思案して、ほこりに注意せよ。そして、あとで後悔のないようにせよ。
 

今までは、人間は、長い道中、様々な道すがらを神は通してきたので、よほど退屈したであろうな。
このたびは、もう、確かな参り所が見えてきたぞ。
神が守護し、導いてきた人生について、得心をせよ。
これからは、人間の来し方・行く末の長い道中を説いて聞かす故、よく思案せよ。 

この先は、うちを治める段取りに取り掛かる。
これを、神の方では急込んでいる。 

段々と順序を追って思案して、神の言うことを聞いてくれ。
悪いことを言うわけではないのだから。
この、今話題になっている子供、お秀を、二~三年仕込もう、花嫁修業させよう、と言っているけれど、この子供は、いつ“神の手離れ”になるかわからぬ。
思案してみよ。
親がどんなに思っていても、神の手離れになったら、これはどうしようもない。
この世は悪事まじりであるから、いんねんを付けることはしてはいけない。 

わが身を思うと、“もう五十になる”と考えて、先を急ごうとするのも無理ではないが、神の眼にはまだ先の寿命がある。
今年から六十年は、しっかりと神の方はしかと請け合う。
それには、これから心をしっかり入れ替えて、わが身思案をやめ、神の思召に添うという決心をせよ。
悪事を払って、若い女房を貰うのだ。
これとて、難しいように思われているが、神が出て働いたなら、必ず貰ってくる。
そうして家を治めて、日々に神のご用の上に心を尽くしたならば、あとの支配を万事まかせよう。 

五人子供がある中で、二人は家に置け。
あと残る三人は、神の方で引き受けよう。
昔のことも今の時代のことも、話に聞く限りのことをよく考慮して、心を静めて思案してみよ。
この結婚の話は、今までにあったようなことではない。
今までも神の世界であって、結婚も、神が陰から守護してはいたが、神が仲立ちをするのは今が初めてである。
これからは、世界の人は何も知らぬ故、おかしなことと笑うであろうが、どんなに笑っても、これが一番肝腎なことである。
世界の人は何をするのかと言うであろうが、人の笑いを神が楽しむと思って、心を澄ましていよ。 

めいめい各自が考えている、その心は、考え違いである。
神の心はみな、人間の考えとは違う。

前生のいんねんある者を寄せて守護するのであるから、これは、末代までもしかと治まるのである。

以上、
芹澤茂先生が著作内で記されていた括弧( )や「おふでさき」番号をすべて外し完全な「散文」にした、
「おふでさき」【第一号】口語訳でした。

今回の記事では、
せっかく手間暇かけて(笑)、「おふでさき」口語訳を【通して】書写しましたので、
また折に触れてこの散文を読み返し、
天理教原典である「おふでさき」の全体像が少しでもイメージできるよう、
自分なりに努めていきたいと思っています。

ということで、今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第一号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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