「おふでさき」【第十一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,11

「『おふでさき』【第十一号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年2月から継続中の“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ。

今回で11回目。

このシリーズも長くなって、メインの文章以外は毎回同じ記述。
ですので、前置きはそこそこにして、早速始めます。

前回は「おふでさき」【第十号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第十一号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,11

praying bible reading

今回は、「おふでさき」【第十一号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第十一号】口語訳 書き写し

【第十一号】
(七十八年老女 明治八年六月)

「胸先へきびしくつかえてきたなら、これは月日の急込みである。」
(1) 

「この先は一れつ(世界)の者にだんだんと、身の内障り(=病)がみな付くであろう。
どんな障りが付いても案ずるな。
月日の心には大変な思惑(があって、ていれしているのである)。

身の内に障りが付いても、(月日が)めいめい(=各自)の心をわけるのだ(という事を思案せよ)。
真実に(神を)思う心とめいめいの思案ばかり思っているのとを。」
(2~5) 

「月日は、どんな心でいる者も、このたびは確かにわけてみせる。どんな心もしっかりと見ているので、月日はこのたび皆わける。

口先の追従などは不要である。心のまことを月日は見ている。」
(6~8) 

「これまでもいろいろ話を説いたけれど、本真実が見えていない。

今日の日は、何の話をしたとしても違うようなことは言わないが(嘘と思っている)。
月日が一度言っておいたならば、いつになっても違うことはないのである。
それを知らずそばの者の心は、誰でも、(月日の言葉を)世界並のように思って(いずんでいる)。」
(9~12) 

「このたびの悩むところで得心をせよ。
みな(=関係者)の心も、めいめい(=当事者)の心も。

この事(=悩むこと)について、(月日の)自由自在(のたすけの方に)違いはないが、みなの心に承知しない(という心違いをしている)限りは(どうにもならぬ)。
一れつに(=全部)承知をしたということになれば、月日は請け合って確かにたすける。

このたすけは、どんなことに思っているか。
三日目には外に出られるように(したい)。」
(13~16) 

「これまでも月日(の話である)と言って、だんだんと話を説いてきたけれども、まだ芯(=肝腎)のところは全く分からないであろう。
このたびはどんな事も(分かるように表に)あらわす。

(すなわち、月日の)話でも、(いつも)同じ所で(=教祖から)言うならば、何か人間心(からの話)であるように、皆の者が思う心(であって)は気の毒である。

このたび、所を変えて(=こかんから)話をする。
これ(=両方からの話)を聞いて、どんな者でも得心をせよ。
月日の自由(自在の働き)は、みなこの道理である。」
(17~21) 

「体内へ月日が入込んで自由(自在の話)を言っているけれども、承知することはできないであろう。
(それ故) この先は、精一杯だんだんと(このように)断っておいて(から)取り掛かるのである。

月日が(表に)現われ出るといっても、だんだんと何でも前もって言っておいてから(始め掛けるの)である。」
(22~24) 

「このたびの悩んでいるのを病だと思っているが、これは違う。
こればっかりは病なぞと思うな。
月日が自由(自在のたすけ)を知らしたいから(していることである)。

何もかもどんな事も知らせるというのは、(これから)先の思惑があるからなのだ。
この(こかんに対する思惑の)話は、どういうことかと言えば、先のことは万事月日が引き受け(ている)。」
(25~28) 

「月日が引き受けるというのも、元のいんねんがあるからである。
いんねんといって、どんないんねんかというなら、(この者は)人間を創めた元初まりで道具(になった者の魂)である。

この者に月日が万事の仕込みをする。
それによって珍しいたすけをするのである。

このこと(=たすけについての事柄)は、ちょっとした事とは思うな。
これがにほんのこふきとなるのである。」
(29~32) 

「“あれまあ、(お屋敷に)帰らせて、これ程なにもすきやかにたすかる事を早く知っていたなら(早く返したのに” という事になる)。

(月日には分かっているのに)それを知らず
“なんでも行かせず、このとこ(櫟本)で養生させておこうと思っていたなあ。こんな事(=早くたすかること)を早く知っていたなら、切ないこともなく、心配もなかったのに”
(という事になる)。

人間は浅はかなものであるから、月日の言われることに背いてしまった。」
(33~36) 

「これからはどんな事でも、月日にもたれ付かなければならない。
どんな事をするにも、月日にもたれていれば危な気はない。

こんな結構な道筋を知らずにいたのが、後の後悔となる。
この先はどんな事を言われても、月日の言われる事は背かん(という心になれ)。」
(37~40) 

「月日がやしろとなる(ようにと言っている)者(=こかん)の胸先がつかえているのを、何と思っているか。
このつかえは人並のものと思うな。

(これについては)月日の心は本当に心配である。
それ(=重大さ)を知らず、一れつ皆の者は各自、わが身思案で(他人事のように思い、自分の)仕事しか(心にない)。

月日には(行く末どうなるか)どんな道も見えている。
世界中は(=うちもせかいも)それを思わず(うっかり暮らしている)。

この(行く末の)道を、わが子(=人間)よ、一れつは皆思案せよ。
どんな道があるか知れないのだよ。

どんなことでも、先へ(=前もって)知らしておくから、後で後悔しないようにせよ。」
(41~46) 

「こんなこと、何を言うのかと皆の者は思うであろうが、(月日は)子供(=人間)が可愛い(上から口説くのである)。
(たすけのために)世界中(からお屋敷に寄せた)多くの子供の胸の内がわかるもよう(=段取り)はないだろうか。

このような事をくどくどと言うのも、(人間の行く末の)道を案じている上からである。
(人間をたすけるために) これからはどんな事も言って聞かせるので、これを決して嘘と思うな。」
(47~50) 

「このたびの月日の仕事(について)しっかりと聞け。
(人間の都合の)悪いようなことは(何も)しない。

何とかして珍しいたすけを教えたいので、そこで取り掛かった仕事である。
(これを思案して)今までと心をしっかり入替えて、陽気づくめの心になれ。

この心は、どうしたらなれるかと思うであろうが、月日が体内に入込ん(で、胸のほこりを掃除し)たなら、日々にひとりでに心が勇んでくる。
(どうか)陽気づくめの心になれ。」
(51~55) 

「月日は日々(世界中の)心をいさめかけて、(世界中を)陽気づくめになるようにする。
この話を何と思って聞いているか。
(世界中の人間を皆たすけたいという)たすけ一条のもよう(=段取り)ばかりを(急いている)。」
(56~57) 

「月日はどんな事も見ている。
何を言ってもみな承知せよ。

今年から七十年は夫婦共に、病まず、弱らずに暮らすこと(ができる)なら、それ以上の楽しみはあるまい。
これ(=この話)をまことと思って楽しんでいよ。」
(58~60) 

「月日は、今までどこにもないことばかり言うぞ。
これを承知して聞け。

このようなない事ばかり言うけれど、先を見ていよ。
皆まことである。

何ぶんにも珍しいことをするのであるから、どんな話もない事ばかり。
どんなにない事ばかり言っても、先を見ていよ。
(必ず)見え(て(=実現して)く)るのが不思議である。」
(61~64) 

「今の悩んでいることは、辛いことであるが、これから先は、心に楽しみ(のある道に出る)。
このような話は(これまで)くどくどと言ってきたが、これが末代のこふきになるのである(から、口説いてきた)。

(こふきと言うが、)月日が このたび ここ(=元の屋敷)に現われて、どんなことも話をするのは、どのようなことでも だんだん(=順序を追って)(世界中に)知らしたい(ので、そのために)にほんのこふきを みな拵える(ということである)。」
(65~68) 

「この世の初まり出しは、大和(の国)の山辺郡の庄屋敷である。
その内に中山氏という屋敷(があり、そこに)人間を創めた(時の)道具(になった者)が見えている。
この道具は、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみこと(の神名を付けられた道具の魂の者)である。

月日は、それ(=その魂のいんねん)を見すまして(=見極めて)(天より)天降り、(そして、こふきを拵えるために)何でもよろづを仕込むもよう(=段取り)を(している)。」
(69~72) 

「この所で何をするにも、どのような事をするのも、みな月日(の心でするの)である。
どのような事を言うにも、みな月日(の心で言うの)である。
そばの者は、真似をしてみよ(、真似はできまい)。」
(73~74) 

「この世を創めてから今日までは、本(元の)真実を言ったことはない。
今日の日は、どのようなことについても、真実を言わねばならぬようになる(から気をつけていよ)。

めいめい(=各自)は“何を言っているのだろう”と思うな。
月日が思うように言うのである(から、これから言うこともよく聞き分けよ)。

いつ何どきに(親里へ)帰ってきても、めいめいの心あるとは決して思うな。
(月日はいんねんをもって寄せるのである。寄せているのであるが)どのような者も芯(=心の底)から得心をさせて(連れ)帰るので、これを見ていよ。

どれ程の剛的(=剛の者)であるとか、発明(=利発聡明な者)でも、月日の心(からすること)には、これはかなわない。」
(75~80)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,,408~434
さまよい人
さまよい人

このたび、第十一号の口語訳書写の学習を通して、この第十一号は「こかん様の身上」が大きなテーマになっているのだということを知りました。


【こかん様、この年(明治八年)  9月27日 (陰暦8月28日)、39才でお出直し】

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第十一号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第十一号】の概要

「No,11の文字」

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第十一号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第十一号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第十一号について】

第九号、第十号、第十一号と連続して、表紙に「明治八年六月」と記されていますが、第十一号が六月いっぱいで書き終えられたのか、それとも年末にわたって書かれたのか、検討の余地があります。

というのは、一つには、次の第十二号のご執筆が明治八年十二月からであると推定されることです。
二つ目には、教祖の末女こかん様の出直しがお言葉の背景になっているのですが、こかん様の出直しは明治八年九月二十七日(陰暦八月二十八日)であることです。

こかん様が出直されたことについて諭されていると見るならば、六月中に書かれたとはいえませんが、そのお言葉が予言として出されたと理解するならば、六月中に書かれたといってもおかしくはありません。
そうした点の解釈によって書かれた時期は変わってきます。

ともあれ、第十一号では、ぢば定めが行われた重要な時期に、単に教えを説かれるだけでなく、具体的に、教祖の長男の秀司様、末女こかん様の身上障りを通して、親神の思召が述べられています。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,356)
さまよい人
さまよい人

前々回記事で取り上げた矢持先生による「第九号」解説欄では、かんろだいが建設された「明治八年六月」に第九号、第十号、第十一号と一気に書き上げられた、と説明されていました。
が、中身を掘り下げてみると、この第十一号は、六月中に書き上げられたのか、書き始められたのは六月でも、そこから十二月ぐらいまで時間をかけて書き上げられたのか、検討の余地がある、ということなのですね。


今まで何となく拝読していた「おふでさき」ですが、このような面まで掘り下げて学ぶと、おうたの背景にこれまでと違う景色が広がって見えてくるような気がしますね。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第十一号の概要】

本号では、特にこかん様の身上を台に、身上を通しての思案、仕込み、さらには、元のいんねんにも言及され、再三、こふきをと仰せになって、個人の問題ではなく、末代まで語り伝えるべき話だとされる。

まず、身上を通して心を分けると言明され、従って、人間の側としては、本人も傍々(はたはた)も、身上に神意を悟るよう促される。

また、こかん様の魂のいんねん、お立場を明かして、親神の思惑を述べ、これを台として、神意に沿い切れぬ人間の浅はかさを指摘し、親神にもたれつけ、と信心の要諦を示される。

さらに、万事を教えて、一れつ子供を陽気づくめに導いてやりたいとの親心を述べ、元のいんねんに触れて、立教の由来を教えられる。

結びに、ぢばにおける一切が親神様のなされ事であることを強調し、重ねて、親神への帰依を求められる。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,370~371)
さまよい人
さまよい人

第十一号は、こかん様の身上を含め、「こかん様」が大きなテーマとして取り上げられている号なのですね。

関連動画の紹介

black laptop computer turned on with red light

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第十一号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

 現代訳で聞く、おふでさき11  01~40 https://www.youtube.com/watch?v=gASR0b9u2es

【ゆっくり天理教 てんちり】> 現代訳で聞く、おふでさき10  01~54)より

現代訳で聞く、おふでさき11  41~80 https://www.youtube.com/watch?v=91XDYI-MA4s

【ゆっくり天理教 てんちり】> 現代訳で聞く、おふでさき11  41~80)より

改めて「おふでさき」【第十一号】を散文で読む(括弧書きも外して)

person in a white dress sitting on the ground under a tree at night

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第十一号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第十一号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十八才 明治八年六月 )

胸先へきびしくつかえてきたなら、これは月日の急込みである。

この先は、一れつ世界の者に段々と、身の内障り(=病)がみな付くであろう。
どんな障りが付いても案ずるな。
月日の心には大変な思惑があって、手入れしているのである。

身の内に障りが付いても、月日がめいめい(=各自)の心を分けるのだという事を思案せよ。
真実に神を思う心と、めいめいの思案ばかり思っているのとを。

月日は、どんな心でいる者も、このたびは確かに分けてみせる。
どんな心もしっかりと見ているので、月日はこのたび皆分ける。

口先の追従などは不要である。
心のまことを月日は見ている。

これまでもいろいろ話を説いたけれど、本真実が見えていない。

今日の日は、何の話をしたとしても違うようなことは言わないが、嘘と思っている。
月日が一度言っておいたならば、いつになっても違う事はないのである。
それを知らずそばの者の心は、誰でも、月日の言葉を世界並のように思っていずんでいる。

このたびの悩むところで得心をせよ。
みな(=関係者)の心も、めいめい(=当事者)の心も。

この事(=悩むこと)について、月日の自由自在のたすけの方に違いはないが、皆の心に承知しないという心違いをしている限りはどうにもならぬ。

一れつに(=全部)承知をしたということになれば、月日は請け合って確かにたすける。
このたすけは、どんな事に思っているか。
三日目には外に出られるようにしたい。

これまでも月日の話であると言って、段々と話を説いてきたけれども、まだ芯(=肝腎)のところは全く分からないであろう。
このたびは、どんな事も分かるように表にあらわす。

すなわち、月日の話でも、いつも同じ所で(=教祖から)言うならば、何か人間心からの話であるように、皆の者が思う心であっては気の毒である。

このたび、所を変えて(=こかんから)話をする。
これ(=両方からの話)を聞いて、どんな者でも得心をせよ。
月日の自由自在の働きは、皆この道理である。

体内へ月日が入込んで自由自在の話を言っているけれども、承知することはできないであろう。
それ故、この先は、精一杯だんだんと、このように断っておいてから取り掛かるのである。

月日が表に現われ出るといっても、段々と何でも前もって言っておいてから始め掛けるのである。

このたびの悩んでいるのを病だと思っているが、これは違う。
こればっかりは、病なぞと思うな。
月日が自由自在のたすけを知らしたいからしている事である。

何もかもどんな事も知らせるというのは、これから先の思惑があるからなのだ。
この、こかんに対する思惑の話は、どういう事かと言えば、先のことは万事月日が引き受けている。

月日が引き受けるというのも、元のいんねんがあるからである。
いんねんといって、どんないんねんかというなら、この者は人間を創めた元初まりで道具になった者の魂である。

この者に、月日が万事の仕込みをする。
それによって珍しいたすけをするのである。

このこと(=たすけについての事柄)は、ちょっとした事とは思うな。
これが、にほんのこふきとなるのである。

“あれまぁ、お屋敷に帰らせて、これ程なにもすきやかにたすかる事を早く知っていたなら早く返したのに”
という事になる。

月日には分かっているのにそれを知らず、
“なんでも行かせず、このとこ(=櫟本)で養生させておこうと思っていたなあ。こんな事(=早くたすかること)を早く知っていたなら、切ない事もなく心配もなかったのに”
という事になる。

人間は浅はかなものであるから、月日の言われることに背いてしまった。

これからはどんな事でも、月日にもたれ付かなければならない。
どんな事をするにも、月日にもたれていれば危な気はない。

こんな結構な道筋を知らずにいたのが、後の後悔となる。
この先はどんな事を言われても、月日の言われる事は背かない、という心になれ。

月日がやしろとなるようにと言っている者(=こかん)の胸先がつかえているのを、何と思っているか。
このつかえは人並のものと思うな。

これについては、月日の心は本当に心配である。
それ(=重大さ)を知らず、一れつ皆の者は各自、わが身思案で他人事のように思い、自分の仕事しか心にない。

月日には、行く末どうなるか、どんな道も見えている。
世界中は(=うちもせかいも)それを思わずうっかり暮らしている。

この行く末の道を、わが子(=人間)よ、一れつは皆、思案せよ。
どんな道があるか知れないのだよ。
どんなことでも、先へ(=前もって)知らしておくから、後で後悔しないようにせよ。

こんなこと、何を言うのかと皆の者は思うであろうが、月日は、子供(=人間)が可愛い上から口説くのである。
たすけのために、世界中からお屋敷に寄せた多くの子供の胸の内がわかるもよう(=段取り)はないだろうか。

このような事をくどくどと言うのも、人間の行く末の道を案じている上からである。
人間をたすけるために、これからはどんな事も言って聞かせるので、これを決して嘘と思うな。

このたびの月日の仕事について、しっかりと聞け。
人間の都合の悪いような事は、何もしない。

何とかして珍しいたすけを教えたいので、そこで取り掛かった仕事である。
これを思案して、今までと心をしっかり入替えて、陽気づくめの心になれ。

この心は、どうしたらなれるかと思うであろうが、月日が体内に入込んで、胸のほこりを掃除したなら、日々にひとりでに心が勇んでくる。
どうか陽気づくめの心になれ。

月日は日々、世界中の心をいさめかけて、世界中を陽気づくめになるようにする。
この話を何と思って聞いているか。
世界中の人間を皆たすけたいという、たすけ一条のもよう(=段取り)ばかりを急いている。

月日はどんな事も見ている。
何を言ってもみな承知せよ。

今年から七十年は夫婦共に、病まず、弱らずに暮らすことができるなら、それ以上の楽しみはあるまい。
これ(=この話)をまことと思って楽しんでいよ。

月日は、今までどこにもないことばかり言うぞ。
これを承知して聞け。

このようなない事ばかり言うけれど、先を見ていよ。
皆まことである。

何ぶんにも珍しいことをするのであるから、どんな話もない事ばかり。
どんなにない事ばかり言っても、先を見ていよ。
必ず見えて(=実現して)くるのが不思議である。

今の悩んでいることは、辛いことであるが、これから先は、心に楽しみのある道に出る。
このような話は、これまでくどくどと言ってきたが、これが末代のこふきになるのであるから、口説いてきた。

こふきと言うが、月日がこのたびここ(=元の屋敷)に現われて、どんな事も話をするのは、どのような事でもだんだん(=順序を追って) 世界中に知らしたいので、そのために、にほんのこふきをみな拵えるという事である。

この世の初まり出しは、大和の国の山辺郡の庄屋敷である。
その内に中山氏という屋敷があり、そこに人間を創めた時の道具になった者が見えている。

この道具は、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみことの神名を付けられた道具の魂の者である。
月日は、それ(=その魂のいんねん)を見澄まして(=見極めて)天より天降り、そして、こふきを拵えるために何でもよろづを仕込むもよう(=段取り)をしている。

この所で何をするにも、どのような事をするのも、みな月日の心でするのである。
どのような事を言うにも、みな月日の心で言うのである。

そばの者は、真似をしてみよ、真似はできまい。

この世を創めてから今日までは、本元の真実を言ったことはない。
今日の日は、どのようなことについても、真実を言わねばならぬようになるから気をつけていよ。

めいめい(=各自)は “何を言っているのだろう” と思うな。
月日が思うように言うのであるから、これから言うこともよく聞き分けよ。

いつ何どきに親里へ帰ってきても、めいめいの心あるとは決して思うな。
月日はいんねんをもって寄せるのである。

寄せているのであるが、どのような者も芯(=心の底)から得心をさせて連れ帰るので、これを見ていよ。
どれ程の剛的(=剛の者)であるとか、発明(=利発聡明な者)でも、月日の心からする事には、これはかなわない。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十一号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第十一号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで――

今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十一号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9
天理教「おふでさき」第九号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10
天理教「おふでさき」第十号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました

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