「おふでさき」【第十三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,13

「『おふでさき』【第十三号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年2月から継続中の“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ。

今回で13回目になりました。
当シリーズも長丁場になりましたし、前置きなしで早速始めます。

前回は「おふでさき」【第十二号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第十三号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,13

take a ballpoint pen and write in a notebook

今回は、「おふでさき」【第十三号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第十三号】口語訳 書き写し

【第十三号】

(明治十年 陰暦) 四月廿八日 九どきより 

「今日までは、何かにつけて心配をしたけれど、あすの日からは 往還の道(に出る)。
(すなわち) 今ままでは、どんな難渋な(通りにくい)道筋も 見えているから、ことわり(=予告)ばかり(口説いた)。

(しかし) この先は 確かに月日が請け合うから、どんなことが起きても 危ないことはない。
だんだんに どんな(思い掛けない)話を聞いても、世界を楽しめよ、これは (ざんねんを晴らすための) 月日の働きである。」
(1~4) 

「これからは、月日が出掛ける(ので、月日の)働きは、何をするのか 誰も分からぬ。
(月日が) 日々に 世界のあちこちを よく見ていると、一れつの子供(=人間)は いじらしい(程 心配して 努力している)。

月日は、だんだんと、どんな事についても、(子供を)たすけるもよう(=段取り)を 本当に急いでいるのである。
(それ故) これまでは ことわり(=予告)ばかり言っておいたが、もう これからは ことわりはない (=直ぐに働く)。」
(5~8)

(明治十年 陰暦) 五月五日 

「今日までは、何も知らないで、人間の心(で思案する)ばかりで、心配をし(てい)た。
(それも 無理はないが) これからは 心をしっかり入替えて(=人間心をやめて)、神にもたれて 陽気づとめを(せよ)。

そうしたなら、そのまま直ぐに しっかりと(つとめの)利益を現わすから、これを 見てくれ。
これ(=つとめ)さえ 確かに その利益が見え(てき)たなら、あとは いつでもみな “かんろだい” (というようになる)。」
(9~12) 

「この先は、月日が 一度言った事には、どんなことも 背くことはできない。
月日が言ったことを 消す(=否定する)ならば、(その者から 守護が)直ぐしりぞくことになる と承知していよ。」
(13~14) 

「今までは、うちにおいても せかいにおいても、真実の心に(=心の奥底に) わかりが全くない(としか言えぬ)。
月日は 第一に これがざんねんである。
(わかるように) 何とか これ(=この心)を澄ましたいものだ。」
(15~16) 

「この心は、どうしたなら わかる(ようになる)か (と言えば)、何でも、意見しなければならぬ。
意見といっても、少しの人ではない。
多くの (よふぼくの)胸(を 意見して 澄まし、分かるようにするの)が 難しい。

どれほど難しいことといっても、めいめい(=各自) の 子供(=人間) を意見する。
この (意見する)もよう(=手段)を どうしたらよいか。
なんでも 神のざんねんを 現わす(ほかはない)。」
(17~20) 

「日々に 神の胸には、だんだんと (ざんねんの) 埃が 一杯積もっているけれども、この埃を 掃除するのは 難しい。
(うちの者が) つとめなりとも (早く)とり掛かったなら (と思っている)。

心さえ その真実を 神が受けとれば、どんな埃も (神の埃も 人間のほこりも) みな 掃除するのである。
(また だんだんに、うちから せかいへと) 一れつの胸の内さえ すっきりと 掃除してしまったなら、それからは 世界中は が勇んできて、陽気づくめ(の世界)に、ひとりでになるのである。」
(21~25) 

※「神の胸に埃がある」と言われる場合、この埃は、八つのほこりとは異なる。

八つのほこりは、親神を基準として決められるもので、人間の心遣いについて述べられたものである。
人間の心遣いと対比して、神の「ざんねん」の心を『埃』といわれたものと理解する。

この親神の心は、そばの者が勇んで 親神の思惑に添うとき晴れる と言われる。
「そばが勇めば神もいさむ」(一号十一) のである。

(芹澤茂『おふでさき通訳』P,514) 

「しっかりと聞け。
高山でも谷底でも、見れば 月日の子供ばかり (一杯である)。
人間も、一れつ (誰でも、自分の) 子供は 可愛いかろう。
(その子供が 埃にまみれ、いずんで暮らしているのを見ている) 神のざんねんを 思ってくれ。

これまでは、どのようなことを見ても、神の方では じっと (黙って)見ていた。
このたびは、もう 日が詰まって(=切迫して)いるから、どんなことでも みな 言う(ので、よく聞き分けよ)。

月日の方から 世界中を見渡してみるが、元初まりを 知っている者が いない。
この元 (=元なる真実) をどうかして世界へ教えたいため、そこで 月日が 現われて出たのである。」
(26~31) 

「このたびの 月日のざんねんというのは、容易な事ではない と思え。
月日は この真実を 世界中へ どうしてなりと教えたいから(話をし、段取りをしている)。
それを知らず、月日の言うことを みな 消して(=否定して)、あとは 人間心だけが はびこっている。」
(32~34) 

「この先は、月日のざんねん・りっぷくを みな 晴らすが、これを承知しているか。

月日の方で ざんねん・りっぷくを 晴らし(て、珍しいつとめの 証拠を見せ)たならば、そのあとには、珍しい道をつける。
この(珍しい)道とは、どういうことと思うか、“よろづ(=万事につけて)互いにたすけ” ということだけである。」
(35~37) 

「世界中 “互いにたすけ” をするならば、月日も (その真実の)心を みな 引き受ける。
月日が 心を引き受けるからは、どんな事についても 働きをする。
(月日の)働きも (沢山あるから) どういうことと 思うかもしれないが、善と悪とを 分けるばかりである。」
(38~40) 

(明治十年 陰暦 五月) 十六日より 

「今日までは、どんな悪事といっても、わが身に知っている者は あるまい。
この(悪事の)心(について) 神が 真実を言って聞かすから、みな 一れつ(の者)は よく 思案してくれ。」
(41~42) 

「世界中 一れつ(の人間)は みな 兄弟姉妹である。
(それを知らず、他人のように 考えるのが心違いで、) 他人という事は 決して ないのである。
この元 (=元なる真実) を知っている者がいないので、それが、月日の 全く ざんねんに思うところだ。」
(43~44) 

「高山に暮らしている者も、谷底に暮らしている者も、同じ魂である。
それから(=この世に生まれて) だんだんと(=日々) つかっている道具(=体) は、みな 月日からの貸物(=かしもの) である。
それを知らず、みんな 人間の心では、なぜか (人間に) 高低がある と思っている(が、これは 心違いである)。」
(45~47) 

「月日は、この真実を 世界中へ、どうかして しっかりと 承知をさせたい。
これさえ確かに 承知したならば、むほんの根は 切れてしまうのである。」
(48~49) 

「月日は 真実に思っている、高山の戦いさえ 治めたならば、と。
この (治める)段取りとして、どうしたなら 治まるだろうか。
陽気づとめをするようになったなら (治まっていく)。

この (話をしている教祖の)心について、誰が言っているのか と思うな。
月日の心ばかり(で言っているので)である。
このつとめ(によって治まること)は、高山(の戦いの如きもの)では難しい (と思うかもしれぬが)、神が しっかりと引き受ける。」
(50~53) 

「このたびは、どんなことでも 真実に 確かに請け合って 働きをする。
神が出て 世界中を働くから、どんなつとめ(をして)も 怖いことはない(。必ずたすけるから 安心していよ)。

しっかり 聞(いてお)け。
(今までは) “高山(はえらい者)や” と言って 谷底(の者が) ままに(=自由勝手に) されたことであったが、これからは 月日が代わりに出るから、(高山の者は) ままにしようというなら、ままにしてみよ。

今までとは 文句が違うぞ (=そうはいかない)。
これから先は 神のままである。」
(54~58) 

「月日が (天より)天降った(ことについての)心は、何のこと(を思っているの)か 誰も知るまい。
第一には、立毛(=農作物) を作るのをたすけたい、肥一条を教えたい(ということである)。
この肥が どうして効くかというと、(人間の真実の)心を 神が 受け取ったなら (効くのである)。」
(59~61) 

「今までは、真実を 神が言ってあるけれど、うち(の者)からして 疑うばかりである。
このたびは、何を言っても 疑うな。
これを疑えば 月日は しりぞく。

この事は あくどい程(何遍)も 言っておく。
これを疑えば、本当に 後悔する。
月日が 一度言っておいた事は、いつになっても 違うことはない。」
(62~65) 

「今までは 月日が どんなことを言っても、みな疑って 言い消すばかりであった。
月日は 第一に これが ざんねんである。
なんでも これを しっかり決める。

(すなわち) これからは、月日の言うことは 何でも背かない というように、神にもたれよ。
そうしたなら、神の方も 真実をもって 確かに引き受けて “働きをする”。
(反対に) 月日が これほど口説きつめるのであるから、心違いをするならば (=疑えば)、直ぐに “しりぞく” (ことになる)。」
(66~70) 

「真実に 心にまことがあるならば、どんなたすけも 違うことはない。
この先は、立毛の肥が違わないように、どうか しっかり 承知してくれ。」
(71~72) 

**************************

明治十丑九月吉朔十九日ヨリ(明治十うし九月きっさく十九日より) 

(明治十年 陰暦 九月) 十九日 より 

※七三のおうたからは、中扉があるように、話があらたまっている。

今までのお話は、親神のなさろうとする思惑が話題であって、思惑を実行すべき人間がどうしたらよいかは、間接的にしかお話になられなかった。

これからのお話 (第十四号以降) は、人間のなすべき仕事について 次第に詳しくお話になられる。

その初めとして、またある意味では 今までの話の締めくくりとして、(第十三号) 七三~九九のおうたに、神と人との共働(協同しての働き) を話題にされる。

(芹澤茂『おふでさき通訳』P,537) 

「今日からは、月日の思うことを、どのようなことも みな 言い掛ける。
今までも 大抵の話は説いたけれど、月日の思惑は まだ 言っていない(ことがある)。

これから どんな話をしても、これを決して 嘘と思うな。
月日の心は 急いているから、どのようなことを言うか知れない(が、よく聞き分けよ)。」
(73~76) 

「この心(にあること)を どういう事に思っているか。
にほんも からも てんぢくまでも、この間、道程が余程あるけれども、一夜の間にも 働きをする (ということである)。

(月日が働きに出る という)この話を、人間(の方)は 何と思っているのだ。
(人間は) 月日のかしものであり、みな わが子供である(から、月日は 自由自在に働いてたすけるのである)。」
(77~79) 

「いつまでも 月日がじっとしていれば、いつになっても 治まるめ(=目標)がない。
それ故、月日が出掛けて働くが、どこへ出るかは 知る者はない。

世界中(の人間の)心を澄ますというのであるから、ちょっとのこととは決して思ってはいけない。
(大変なことになって) どのようなこと(が起き)ても、めいめいの 胸の内を澄ましたならば、(決して) 危ないことはない。」
(80~83) 

「だんだんと 月日が 日々に思惑としていることは、(まず) 多くの人を待つことである。
この人を どういうことのために待っているか と言えば、一れつに わが子(=人間)をたすけたいからである。

(そのため 月日が働いて) 今年には、どんな珍しい道筋が見えてくるかもしれない(から、まず人が寄るのに気を付けていよ)。」
(84~86) 

「口先でなんぼ真実を言っても、誰も聞き分ける者がいない。
それ故、月日はこのたび、どのようなことでも真実を皆して見せる(ということにする)。

(これについて)どんなことをしても、人間の心が混じるとは決して思うな。
月日は、真実に余り見兼ねるから、そこでどんなこともするのである。」
(87~90) 

「(よふぼくは)どれほど剛の者でも、若い者でも、これが頼りになると決して思うな。
このたびは、神が表へ現われて、自由自在に話する。

(また) どのようなことも、(月日が)真実する (=真実を現わす)。
(この働きによって 人々は) 胸の内より(掃除ができて) ひとりでに 澄み切るのだ。

(このことについては) 今までは、一れつは みな 人間の心ばかりで思案していたが、このたびは、どのようなこと(について)でも、人間心の思案は 全く 要らないのである。」
(91~95) 

「何もかも、どのようなことも 言っておく。
何を言っても 嘘と思うな。

高山で どのような者が幅を利かしていても、この真実 (=月日がよふぼくと共に働くこと) を誰も知るまい。
月日は、どんな所に居る者でも、胸の内 (=心)を しっかりと見ている。
胸の内が 月日の心に適ったなら、いつまでも しっかりと踏ん張る (=守護する)。」
(96~99) 

「月日が 日々 心に急込んでいるのに、そばの心には 何もわかっていない。
急込みとは何のことか と思っているだろうが、立毛 (=農作物) を作れば 水が欲しかろう。

この話を みな 一れつの心に、何と思って 思案しているか。
月日は 第一に これ (=立毛を作ること) をたすけたさ(に日々急込んでいるので)、そこで どのようなことも 言うのである。」
(100~103) 

「何もかも 月日が いかほど口説いても、本当のことと思って 聞いてくれる者がいない。
それ故、月日のざんねん・りっぷくが 山のように 積もり重なっている。

今までは、月日 (=日柄) が来なかった故 じっとしていたが、このたびは もう 日が詰まってきているから、どんな仕事も 早く掛かる。
この先に (月日のざんねんが現われて) どんな道があるとしても、人をうらむことはない、わが身うらみである。

この話は どこのことを言っている ということはない。
高山でも 谷底でも (どんな道が現われるか、一れつは みな 気を付けよ)。」
(104~109) 

「どのようなことを言うのも、(わが子を) たすけたいからである。
そこで 色々 口説きつめた。この先は、何を言っても、どのようなことでも、悪いことは 言わない。

真実の たすけばかりを急くから、そこで だんだん 意見したのである。
真実に 心を澄ました上は、たすける段取りを 早く教える。

このたすけは、どういうことか と言うと、ほふそ(=疱瘡) をしないよう にとのお守り(を拵える) つとめのことである。
また、たすけは、病まず・死なず・弱らない という証拠守りを 早くやりたい。」
(110~115) 

「何もかも、よろづたすけを 急くのであるから、心次第に どんなことでも (たすける)。
一れつは みな めいめいの胸(=心) 次第で、どんなことでも、(願いが) 叶わないことはない。

雨乞いも、今までは 神が 真実を明かして 言ったことは何もないが、このたびは、どんなことについても、尋ねてくるなら 真実を みな 言って聞かせよう。
月日の方では、何が叶わない とは言うまい、みな めいめいの 心次第である。」
(116~120)

(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,506~550)
さまよい人
さまよい人

「おふでさき」の号数が進むにつれて、
どんどん、神様のもどかしさが拡大していくように感じられますよね。

と同時に、
“何とかわかってくれよ” という切なさが、ひしひしと伝わってくるようです。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第十三号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第十三号】の概要

「No,13」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第十三号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第十三号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第十三号について】

この号も内扉にご執筆の年月が記されていません。
しかしながら、七二のお歌と七三のお歌の間に中扉があり、そこに「明治十丑九月吉朔十九日ヨリ」とあります。

「朔十」の字は、旁(つくり)の「十」を下に降ろして、「十九日」と読ませていますので、九月十九日より、つまり明治十年の秋ごろということになります。

一のお歌の前の「四月廿八日九どきより」は陰暦で、陽暦では六月九日に当たります。
そうしたことからも、この号は明治十年に執筆されたと推定されます。

明治十年といえば、日本国内では、一月三十日から九月二十四日にかけて、西郷隆盛を中心とする反政府の乱・西南戦争が起こり、これを契機とする農民の騒擾が熊本県下に頻発し、その数三十一件にも及んでいます。

そんな中で、西南戦争で負傷した人々の救療に当たる「博愛社」が組織され、これは後に「日本赤十字社」となりました。

それに、この年にはコレラが中国の上海から長崎、横浜に上陸して、各地に広がり、死者八〇二七人、罹病者一万三八一六人にのぼっています。
また、現在の東京大学が開校したのも、この年です。

一方、ぢば・おやしきに目を転ずると、この年の初めから、教祖自ら、三曲の鳴物を教えられています。

最初に手ほどきを受けられ、芯となった方は、琴は辻とめぎく(八歳)、三味線は飯降よしゑ(十二歳)、胡弓は上田ナライト(十五歳)、控は増井とみゑ(十一歳)でありました。

これは、たすけ一条の道を進められるうえで、重要な事柄ですが、そのいきさつについては『稿本天理教教祖伝逸話篇』の五二~五五を参考にしていただきたいと思います。

この年、二月五日(陰暦明治九年十二月二十三日)、秀司様・まつゑ様夫妻の間に、たまへ様が誕生されました。たまへ様は後に、初代真柱様の奥様となられます。

五月二十一日(陰暦四月九日)、秀司様は、奈良警察署に召喚されています。
杉本村の宮地某という者が、ひそかに七草の薬をつくり、これを秀司様からもらったと警察に誣告したためで、六月二十九日(陰暦五月十九日)まで、四十日間、無実の罪で拘留されました。

そうしたことがおふでさきの背景になっていると感じられる個所も出てきます。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,427~428)
さまよい人
さまよい人

明治十年という、西南戦争、コレラ流行…といった大事件が頻発した、

まさしく『激動の時代』に、

この第十三号は書かれたのですね。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第十三号の概要】

まず、往還道と仰せになって、今後は親神が積極的に働きを顕すと宣言すると共に、よふき(陽気)づとめにかかることを促される。

口先でどれほど説き諭しても聞き分けがない残念を繰り返し嘆かれ、この残念を晴らし、一れつの子供をたすけるべく、現実に顕して意見すると仰せになる。

また、この積もる残念を晴らす根本の道はつとめに掛かることであり、このつとめによって、利益を顕し、一れつの胸を掃除して陽気づくめへと導くと約束される。

さらに、つとめの理合いを教える元の理に基づいて、一れつ兄弟姉妹、同じ魂、神のかしものと、人間は等しく親神の子供であり、本来、上下、貴賤の別はないと教えられる。
そして、これを世界中に承知させれば、むほんの根は切れてしまうとも仰せられる。

立教に当たっての親神の思召を、「元初まりを教えて、よろづ互いにたすけする道へと導きたい」と述べられる一方、「立毛つくるをたすけたさ」とも仰せになって、肥の守護などにも言及される。

また、身上、事情に表して引き寄せ、心を澄ますことや、何があっても人を恨まず、我が身を恨めなどと銘々の心の治め方についても諭される。

全ては真実のたすけを急ぐ上からであると仰せになり、このたすけの段取りの例として、「ほふそせんよのまもりつとめ」、証拠守りを挙げ、最後に、どんな守護も銘々の胸次第と結ばれる。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,454~456)
さまよい人
さまよい人

神の残念が積もり重なっていること、そして、その残念を晴らすには、とにかく「陽気づとめ」に掛かること。

それを強調して下さっているのですね。

これほどまでに「ざんねん」の言葉を目にし続けていると、

信仰初級者の私にさえ、
「あぁ…本当に、この上なく残念な思いであられたんだなぁ…」
というのが伝わってきます。

関連動画の紹介

smartphone full of youtube symbols

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第十三号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

現代訳で聞く、おふでさき13  01~42👇https://www.youtube.com/watch?v=GwmwxG0fAIY

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき13  01~42)より

現代訳で聞く、おふでさき13  43~83 👇https://www.youtube.com/watch?v=BtYNVkqI7NM

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき13  43~83)より

現代訳で聞く、おふでさき13  84~ 120👇https://www.youtube.com/watch?v=m4yPTMMvWjo

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき13  84~ 120)より

改めて「おふでさき」【第十三号】を散文で読む(括弧書きも外して)

girl's left hand wraps around toddler while reading a book during golden hour

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第十三号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第十三号】口語訳(芹澤茂先生)

明治十年 陰暦 四月二十八日 九ッ刻より 

今日までは、何かにつけて 心配をしたけれど、明日の日からは 往還の道に出る。
すなわち、今ままでは、どんな難渋な 通りにくい道筋も 見えているから、ことわり (=予告) ばかり口説いた。

しかし この先は、確かに 月日が請け合うから、どんなことが起きても 危ないことはない。
段々に、どんな 思い掛けない話を聞いても、世界を楽しめよ、これは 残念を晴らすための 月日の働きである。 

これからは、月日が出掛けるので、月日の働きは、何をするのか 誰も分からぬ。
月日が 日々に 世界のあちこちを よく見ていると、一れつの子供 (=人間) はいじらしい程、心配して 努力している。

月日は、段々と どんな事についても、子供をたすけるもよう (=段取り) を本当に急いでいるのである。
それ故、これまでは、ことわり (=予告) ばかり言っておいたが、もう これからは、ことわりはない (=直ぐに働く)。

明治十年 陰暦 五月五日 

今日までは、何も知らないで、人間の心で 思案するばかりで、心配をしていた。
それも 無理はないが、これからは 心をしっかり入替えて (=人間心をやめて)、神にもたれて 陽気づとめをせよ。

そうしたなら、そのまま直ぐに、しっかりと つとめの利益を現わすから、これを 見てくれ。
これ (=つとめ) さえ、確かに その利益が 見えてきたなら、後は、いつでも みな “かんろだい” というようになる。 

この先は、月日が 一度言った事には、どんなことも 背くことはできない。
月日が 言ったことを消す (=否定する) ならば、その者から 守護が、直ぐ しりぞく事になる と承知していよ。 

今までは、うちにおいても 世界においても、真実の心に (=心の奥底に) 分かりが 全くない としか言えぬ。
月日は、第一に これが残念である。
分かるように、何とか これ (=この心) を澄ましたいものだ。

この心は、どうしたなら 分かるようになるか と言えば、何でも、意見しなければならぬ。
意見といっても、少しの人ではない。
多くのよふぼくの胸を 意見して澄まし、分かるようにするのが 難しい。

どれほど難しい事といっても、めいめい (=各自) の子供 (=人間) を 意見する。
この意見する もよう(=手段) を どうしたらよいか。
なんでも 神の残念を 現わすほかはない。

日々に 神の胸には、段々と 残念の埃が 一杯 積もっているけれども、この埃を 掃除するのは 難しい。
うちの者が つとめなりとも、早く 取り掛かったなら、と思っている。

心さえ その真実を 神が受けとれば、どんな埃も(=神の埃も人間のほこりも)、みな 掃除するのである。
また、段々に、うちから世界へと 一れつの胸の内さえ すっきりと 掃除してしまったなら、それからは 世界中は 気が勇んできて、陽気づくめの世界に、ひとりでになる のである。 

しっかりと聞け。
高山でも谷底でも、見れば 月日の子供ばかり 一杯である。

人間も、一れつ 誰でも、自分の子供は 可愛いかろう。
その子供が 埃にまみれ、いずんで 暮らしているのを見ている 神の残念を 思ってくれ。

これまでは、どのようなことを見ても、神の方では じっと黙って見ていた。
このたびは、もう 日が詰まって (=切迫して) いるから、どんな事でも みな 言うので、よく 聞き分けよ。

月日の方から 世界中を見渡してみるが、元初まりを 知っている者が いない。
この元 (=元なる真実) をどうかして 世界へ教えたいため、そこで 月日が現われて出たのである。

このたびの 月日の残念というのは、容易な事ではない と思え。
月日は、この真実を 世界中へ どうしてなりと教えたいから 話をし、段取りをしている。
それを知らず、月日の言う事を みな 消して (=否定して)、後は 人間心だけが はびこっている。 

この先は、月日の残念・立腹を みな 晴らすが、これを 承知しているか。
月日の方で 残念・立腹を晴らして、珍しい つとめの証拠を 見せたならば、そのあとには、珍しい道をつける。
この、珍しい道とは、どういうこと と思うか、“よろづ(=万事につけて)互いにたすけ” ということだけである。 

世界中 “互いにたすけ” をするならば、月日も、その真実の心を みな 引き受ける。
月日が 心を引き受けるからは、どんな事についても 働きをする。
月日の働きも 沢山あるから、どういう事 と思うかもしれないが、善と悪とを 分けるばかりである。

明治十年 陰暦 五月十六日より 

今日までは、どんな悪事といっても、わが身に知っている者は あるまい。
この 悪事の心について、神が 真実を言って聞かすから、みな 一れつの者は、よく思案してくれ。

世界中 一れつの人間は みな 兄弟姉妹である。
それを知らず、他人のように考えるのが 心違いで、 他人という事は 決してないのである。
この元 (=元なる真実) を知っている者がいないので、それが、月日の 全く 残念に思うところだ。 

高山に 暮らしている者も、谷底に 暮らしている者も、同じ魂である。
それから (=この世に生まれて) 段々と (=日々) つかっている道具 (=体) は、みな 月日からの貸物 (=かしもの) である。
それを知らず、みんな 人間の心では、なぜか、人間に高低がある 思っているが、これは 心違いである。

月日は、この真実を世界中へ、どうかして しっかりと 承知をさせたい。
これさえ 確かに 承知したならば、むほんの根は 切れてしまうのである。

月日は 真実に思っている、高山の戦いさえ 治めたならば、と。
これを 治める段取りとして、どうしたならば 治まるだろうか。
陽気づとめ をするようになったなら、治まっていくのである。

この話をしている 教祖の心について、誰が言っているのか と思うな。
月日の心ばかりで 言っているのである。
このつとめによって 治まることは、高山の戦いの如きものでは難しい と思うかもしれぬが、神が しっかりと 引き受ける。

このたびは、どんなことでも 真実に 確かに請け合って 働きをする。
神が出て 世界中を働くから、どんなつとめをしても 怖いことはない。
必ず たすけるから 安心していよ。

しっかり 聞いておけ。
今までは、“高山はえらい者や” と言って 谷底の者が ままに (=自由勝手に) されたことであったが、これからは、月日が 代わりに出るから、高山の者は ままにしよう というなら、ままにしてみよ。

今までとは 文句が違うぞ (=そうはいかない)。
これから先は 神のままである。

月日が 天より天降った事についての心は、何のことを思っているのか 誰も知るまい。
第一には、立毛 (=農作物) を作るのをたすけたい、肥一条を教えたい ということである。

この肥が どうして効くか というと、人間の 真実の心を 神が受け取ったなら 効くのである。 

今までは、真実を 神が言ってあるけれど、うち(の者) からして 疑うばかりである。
このたびは、何を言っても 疑うな。これを疑えば 月日はしりぞく。

この事は あくどい程、何遍も 言っておく。
これを疑えば、本当に 後悔する。
月日が 一度言っておいた事は、いつになっても 違うことはない。

今までは 月日が どんなことを言っても、みな 疑って 言い消すばかりであった。
月日は 第一に これが残念である。

なんでも これを しっかり決める。
すなわち、これからは、月日の言うことは 何でも背かない というように、神に もたれよ。
そうしたなら、神の方も 真実をもって 確かに 引き受けて “働きをする”。

反対に、月日が これほど口説きつめるのであるから、心違いをするならば (=疑えば)、直ぐに “しりぞく” ことになる。

真実に 心に まことがあるならば、どんなたすけも 違うことはない。
この先は、立毛の肥が 違わないように、どうか しっかり 承知してくれ。

明治十年 陰暦 九月十九日 より 

今日からは 月日の思うことを、どのようなことも みな 言い掛ける。
今までも 大抵の話は説いたけれど、月日の思惑は まだ 言っていないことがある。

これから どんな話をしても、これを 決して 嘘と思うな。
月日の心は 急いているから、どのようなことを言うか 知れないが、よく 聞き分けよ。

この心に あることを どういう事に 思っているか。
にほんも からも てんぢくまでも、この間、道程が 余程あるけれども、一夜の間にも 働きをする ということである。

月日が働きに出る というこの話を、人間の方は 何と思っているのだ。
人間は 月日のかしもの であり、皆 わが子供である から、月日は 自由自在に働いて たすけるのである。

いつまでも 月日が じっとしていれば、いつになっても 治まるめ (=目標) がない。
それ故、月日が 出掛けて働くが、どこへ出るかは 知る者はない。

世界中の 人間の心を澄ます というのであるから、ちょっとのこととは 決して 思ってはいけない。
大変なことになって どのようなことが 起きても、めいめいの 胸の内を 澄ましたならば、決して 危ないことはない。

段々と 月日が 日々に 思惑としていることは、まず 多くの人を 待つことである。
この人を どういう事のために待っているか と言えば、一れつに わが子 (=人間) をたすけたいから である。

そのため、月日が働いて 今年には、どんな 珍しい道筋が 見えてくるかもしれないから、まず 人が寄るのに 気を付けていよ。

口先で なんぼ真実を言っても、誰も 聞き分ける者が いない。
それ故、月日はこのたび、どのようなことでも真実を皆して見せるということにする。

これについて、どんなことをしても、人間の心が混じる とは 決して思うな。
月日は、真実に 余り 見兼ねるから、そこで どんなことも するのである。

よふぼくは どれほど剛の者でも、若い者でも、これが 頼りになる と決して思うな。
このたびは、神が表へ現われて、自由自在に話する。

また、どのようなことも、月日が真実する (=真実を現わす)。
この働きによって 人々は、胸の内より 掃除ができて ひとりでに 澄み切るのだ。

このことについては、今までは、一れつは みな 人間の心ばかりで 思案していたが、このたびは、どのようなことについてでも、人間心の思案は 全く 要らないのである。

何もかも、どのようなことも 言っておく。
何を言っても 嘘と思うな。

高山で どのような者が 幅を利かしていても、この真実 (=月日がよふぼくと共に働くこと) を誰も知るまい。
月日は、どんな所に居る者でも、胸の内 (=心) をしっかりと見ている。
胸の内が 月日の心に適ったなら、いつまでも しっかりと踏ん張る (=守護する)。

月日が 日々 心に急込んでいるのに、そばの心には 何も わかっていない。
急込みとは何のことか と思っているだろうが、立毛 (=農作物) を作れば 水が欲しかろう。

この話を みな 一れつの心に、何と思って 思案しているか。
月日は 第一に、これ (=立毛を作ること) をたすけたさに 日々 急込んでいるので、そこで どのようなことも 言うのである。

何もかも 月日が いかほど口説いても、本当のことと思って 聞いてくれる者が いない。
それ故、月日の残念・立腹が山のように積もり重なっている。

今までは、月日 (=日柄) が来なかった故 じっとしていたが、このたびは もう 日が詰まってきているから、どんな仕事も 早く掛かる。
この先に、月日の残念が現われて どんな道があるとしても、人を恨むことはない、わが身うらみ である。

この話は、どこのことを言っている ということはない。
高山でも 谷底でも どんな道が 現われるか、一れつは みな 気を付けよ。

どのようなことを言うのも、わが子を たすけたいからである。
そこで、いろいろ 口説きつめた。

この先は、何を言っても、どのようなことでも、悪いことは 言わない。
真実のたすけばかりを 急くから、そこで だんだん 意見したのである。

真実に 心を澄ました上は、たすける段取りを 早く教える。
このたすけは、どういうことか と言うと、ほふそ (=疱瘡) をしないように とのお守りを拵える つとめ のことである。
また、たすけは、病まず・死なず・弱らない という証拠守りを 早くやりたい。

何もかも、よろづたすけ を急くのであるから、心次第に どんなことでも たすける。
一れつは、みな めいめいの胸 (=心) 次第で、どんなことでも、願いが叶わない ことはない。

雨乞いも、今までは 神が真実を明かして 言ったことは 何もないが、このたびは、どんなことについても、尋ねてくるなら 真実を みな 言って聞かせよう。
月日の方では、何が叶わない とは言うまい、みな めいめいの 心次第である。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十三号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第十三号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで――
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十三号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
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「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
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「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
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