「おふでさき」口語訳~芹澤茂著『おふでさき通訳』書写【総集編】

おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年(2023年) 2月4日~5月27日、約4ヶ月にわたって掲載した
“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ”
(「おふでさき」を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写)

お蔭様をもちまして、前回までで
「おふでさき」口語訳、全十七号 を書き写すことができました。

この企画は、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本の中の「おふでさき」口語訳文を通して記載し、
「おふでさき」を散文で読み物風に通して読んでみることで、
今まで見えていなかった「おふでさき」の景色の見え方が広がることを期待したものでした。

すなわち、「通して読む」ことが主旨。
「おふでさき」の全体性を感じることを目指して取り組んだものです。

となると、各号ごとブツ切りのままでは、未完成。
約4ヶ月かけて行ってきた 各号ごとの口語訳を、すべて 一まとめにして、
それを「通して読む」ことで、初めて、初期の目的を達成できる というもの。

というわけで、今回は、
これまで「各号ごと」に書き写してきた 芹澤茂先生の『おふでさき通訳』の「おふでさき」口語訳文を、
すべて集めて 一まとめにして、掲載したいと思います。

ある意味、今回の記事のために、これまで一号ずつ「口語訳文」の書き写しをやってきた、
と言ってもいいかもしれません。

かなり長くなりますが、
「おふでさきの全体性」ということを大きなテーマとしていますので、
あえて、読み手の負担「増大」には 目をつぶり、
これまでに公開してきた「各号」記事の【散文調・口語訳文】を、
そのまま複写して、連続掲載させて頂きます。

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「おふでさき」を散文で読む

hermit reading the classics in the forest

 「おふでさき」【第一号】口語訳(芹澤茂先生)

 【第一号】

(教祖七十二才 明治二年正月より)

万世の世界一れつを見晴らしても、“むねのわかりた者”は居ないので、人間はこの世の真実も神の心も知らぬ。
まだ神の胸の内を説いて聞かしたことはないのだから、知らぬというのも無理はない。
このたびは、その日が来た故、神が表へ現れて何ごともみな説いて聞かせよう。 

このところについて“やまとのぢばのかみがた”と言っているけれど、その元は知るまい。
この元を詳しく聞いたなら、どんな者もみな恋しくなるに違いない。
聞きたいであろう。
聞きたいなら訊ねて来るがよい。
よろづいさいの元のいんねんをよく聞かそう。 

神が遠くまで出て、何でも委細を説いて聞かすなら、世界一れつは心が勇んで来る。
世界中一列にみな早くたすけることを急いでいるから、世界中の人々の心を勇めかけていく。 

段々と順序を追って、世界中の人々の心が勇んで来るならば、“せかいよのなか”=自然も豊作、“ところはんじょう”=社会も繁栄、ということになる。 

この先は、かぐらづとめの手を付けて、だんだんと道具立ても教え、やがて、人衆などみんな揃ってつとめができる日を待っている。
早くみんな揃ってつとめをするようにせよ。
つとめをして傍が勇めば、その心を受け取って、神も勇む。
一れつに何ごとにつけても神の心がいずむならば、立毛、作物がみないずんで不作になってしまう。
いずむ心は気の毒である。
いずまぬように、早く勇むようにせよ。
立毛、作物が勇み出るようにと思うなら、かぐらづとめやてをどりをせよ。 

このたびは、早くてをどりを始め掛けよ。
これが“合図の不思議”ということになる。
この合図が不思議な出来事の起きる合図であると言っても、まだ不思議は起きていないので見えていない。
しかし、その日が来れば、それは確かに分かるのだ。
その日が来て何かということがはっきり分かったということになれば、どんな者でもみな感心する。

起きるということが見えているから話を説いておこう、というのは“世界並”である。
神は、見えていない以前に説いておく。 

この先は、上たる者の心が段々と、心を静めて思案していくことによって和睦する心になるようにする。
この和睦は、難しいようであるが、だんだん神が守護する。

この世は、理で責めた世界である。
それ故、何ごとにつけ、みな歌の理で責めることにしよう。
責めると言っても手出しするのではないし、口やかましく言うのでもなく、筆先の責めである。
何もかも間違いなくいっていればよいので、間違いのある場合は、歌の形で文字に書いて知らせる故、読んでさんげせよ。 

教祖より口で言って知らしたら必ず現れてくるので、それは気の毒である。
どんな病、現われも当人の心から出たものだとは言っても。
だから、口では言わぬ。筆に書いておく。

今、話題になっている病、秀司の足痛も、世界並のものではない。
神の立腹を、今こそ現わすものだ。
今までも神の言う事を聞かないから、人目につくよう、表に表したのである。
これほど神のざんねんが出ているから、医者も薬も治療できない。
この病ばかりは、人並なものと思ってはならぬ。
これは、歌にその理を書いて責めきるので、よく思案せよ。 

このたびは、屋敷の掃除をすっきりと仕立ててみせるから、よく見ていよ。
掃除さえすっきりとしてしまえば、あとは“知りて話して話する”ということになる。
 

これまでの神のざんねんであったことは何かと言えば、秀司の足の悪いのが第一の残念なのだ。
この足を病と言っているが、病ではない。
神の立腹が現れているのだ。
立腹も少しではなく、積もり重なった上での事である。
どうして立腹なのかと言えば、悪事が退かないからである。
この悪事がすっきりと退かないことには、ふしんの邪魔になる、ということをよく考えよ。 

この悪事は、なんぼしぶといものであっても、神が責めきり退けてみせる。
この悪事をすっきりと除けてしまったなら、足の悪いのもすっきりと直る。
足さえすっきりと直りさえしたら、あとは普請のもよう、準備だけだ。 

ちょっと話しておく。
正月三十日と日を切って送り返すのも、神の心からである。
人間心からではない。
傍の者は何をするのかと思っても、先なることを知らぬからである。
その日が来て、納得のいく事が見えて来たなら、傍の者も、“神の言うことは少しも違わない”ということがわかる。
今までは、神の言うことを疑って、何でも“嘘だ”と言ってきた。
この世を創めた神の言うことに、千に一つも違うことはない。 

段々と、先なることが見えてきたなら得心をせよ。
どんな心もみな現れるので、これを見たなら得心できるであろう。 

万世の世界中を見渡してみれば、道の次第も色々ある。
この先は、道に例えて話をする。

どこのこととも言わないでおこう。 

山坂や、茨ぐろも崖道も、剣の中も通り抜けたら、まだ見える、火の中もあり、淵中もあり、それを越したら細い道あり。
細道をだんだん越せば大道や。
これが確かな本道である。 

この話は、ほかの事、よそごとではないので、神一条、神の話一筋で通る者は、みな我がことと思って思案せよ。 

今までは、うちに関することばかり話したが、もうこれからは、文句を変える。話題を変える。 

万世に世界のところを見渡しても、あしきの者、悪人は、本当はいないのだ。
あしきと言っているが、どこにもあしきなどない。
ただ、一寸のほこりが付いた故に、あしきとなるのである。
この先は、心を静めて思案して、ほこりに注意せよ。そして、あとで後悔のないようにせよ。
 

今までは、人間は、長い道中、様々な道すがらを神は通してきたので、よほど退屈したであろうな。
このたびは、もう、確かな参り所が見えてきたぞ。
神が守護し、導いてきた人生について、得心をせよ。
これからは、人間の来し方・行く末の長い道中を説いて聞かす故、よく思案せよ。 

この先は、うちを治める段取りに取り掛かる。
これを、神の方では急込んでいる。 

段々と順序を追って思案して、神の言うことを聞いてくれ。
悪いことを言うわけではないのだから。
この、今話題になっている子供、お秀を、二~三年仕込もう、花嫁修業させよう、と言っているけれど、この子供は、いつ“神の手離れ”になるかわからぬ。
思案してみよ。
親がどんなに思っていても、神の手離れになったら、これはどうしようもない。
この世は悪事まじりであるから、いんねんを付けることはしてはいけない。 

わが身を思うと、“もう五十になる”と考えて、先を急ごうとするのも無理ではないが、神の眼にはまだ先の寿命がある。
今年から六十年は、しっかりと神の方はしかと請け合う。
それには、これから心をしっかり入れ替えて、わが身思案をやめ、神の思召に添うという決心をせよ。
悪事を払って、若い女房を貰うのだ。
これとて、難しいように思われているが、神が出て働いたなら、必ず貰ってくる。
そうして家を治めて、日々に神のご用の上に心を尽くしたならば、あとの支配を万事まかせよう。 

五人子供がある中で、二人は家に置け。
あと残る三人は、神の方で引き受けよう。
昔のことも今の時代のことも、話に聞く限りのことをよく考慮して、心を静めて思案してみよ。
この結婚の話は、今までにあったようなことではない。
今までも神の世界であって、結婚も、神が陰から守護してはいたが、神が仲立ちをするのは今が初めてである。
これからは、世界の人は何も知らぬ故、おかしなことと笑うであろうが、どんなに笑っても、これが一番肝腎なことである。
世界の人は何をするのかと言うであろうが、人の笑いを神が楽しむと思って、心を澄ましていよ。 

めいめい各自が考えている、その心は、考え違いである。
神の心はみな、人間の考えとは違う。

前生のいんねんある者を寄せて守護するのであるから、これは、末代までもしかと治まるのである。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写

 「おふでさき」【第二号】口語訳(芹澤茂先生)

【第二号】

(明治二年三月 教祖七十二才)

これからは往還の道を付けかける。
そうして、世界の心をみないさめるのである。 

上たる者は、心がいさんでくるからよく注意していよ。
何どきに来るかと言っている間に刻限が来た、というように、すぐ来る。

茶を摘んであとを刈り取ってしまったなら、そのあとへ出るのは幼木であろう。
農事が一段落したら、よふきづとめにかかるのだ。
皆がいさんでつとめるこのつとめによって、どこから心いさんで来るかと思うだろうが、上たる者がいさんでくるのである。

だんだんと、神の守護、働きというのは、珍しいことを仕掛けていく。

この日々の急込みの心を何と思っているのか、一人として考えてみるものは居ないのか。
珍しいこととは身上・事情であるが、何が起きても、世界並の病や痛みではない。
みんな神の急込みでありてびき、手引きである。
なぜ急込んでいるかと言えば、つとめの人衆がほしいからである。 

このつとめを何のことと思っているのか。
よろづたすけのもよう、段取りである。
このつとめによるたすけは、今ばかり、その場だけのたすけと考えるな。
これは末代のこふき(こうき)となるものである。 

ちょっと話する、よく聞け。
世間の人は、のぼせとか、かんてきとか言っているが、ただの病ではない。
神の急込みを知らせている。
だんだんと心を尽くして神一条、神の話を説いて聞かせているのに、まだわからないのか。 

早く表へ出ようと思うけれど、道がなくては出るに出られない。
この表へ出る道を早く付けようと思っても、ほかの所からでは付けれない。

神の急込んでいるこの道を本当に思ってくれるなら、胸の内から万事を思案せよ、
そしてしっかりした信心の心を定めよ。

この話は何のことかと思うのは無理もない。
神の“打ち分け場所”を急込んでいるのである。
この道がちょっとでも見えかけたならば、世界の人々の心がみないさみ出て来る。 

何でも神の言うことはしっかり聞け。
屋敷、お屋敷の掃除が出来上がったならば、
———この掃除は横目をつかう暇もないくらい直ぐに現われて、夢のようにほこりが散るのだ———
このほこりをすっきりと払ったならば、その後はよろづのたすけ一条である。
それ故、この先はだんだんつとめを急込んで、よろづたすけの段取りばかり急がれる。 

世界中、うちも世界もどこが病気だ、ここが痛むと言っているが、みな神の“みちをせ”=道教え、“てびき”=手引きであることを知らない。

この世に人間の考えているような病はない。
身の内、体の障り、病気はよく思案せよ。

日々に神の急込みであるつとめによるこのたすけを、みなの者は何と思っているのか。 

高い山の静かな池に湧き出た水で、澄んだ水であるけれど、流れ出る出端は勢いよく土を流すため濁って、“ごもく”=芥混りである。

人間の心も、元々は綺麗なものであるから、今は濁っていても、だんだんと心を静めて思案するとき、澄んだ水のように綺麗に変わってくる。

山の中の水=世界の人々の心の中に入り込んで、どんな水でも元のように澄ましてしまう。
心を澄ました後は、日々に心を尽くし胸を治めて通るならば、末は頼もしい道がある。

これからは、高山の池=人の心に飛び入り、どんな“ごもく”=芥も掃除する。
“ごもく”=芥さえすっきり出してしまえば、あとの水は澄んでしまう。

これからは、からとにほんの話をする。
何を言おうとしているのかは、直ぐには分からないであろう。

“とうじん”=からの者がにほんの地に入込んで、ままに、自由にするのが神の立腹の元である。
それ故、段々とにほんを扶ける段取りをして、“とうじん”=からの者を神のままにする。

この先は、その段取りとして、からとにほんをわけて布教伝道していく。
これがわかったら世界が治まる。 

今までは、上たる者の心がわからない、真実がわかっていないので、また、その上に従うせかいの者も教祖のしていることを世界並のものと思っていた。
これからは、神が体内に入込んで、そのような心をすっきりとわけて真実をわからせてみせる。

日々に寄って来る人に断りを言えば、だんだんになお慕い寄る。
どんなに多くの人が来ても案ずることはない、神が引き受ける。

そうして、やがてかんろだいが据えられて、将来、“珍しいこの世初めの証拠のかんろだい”と言われるようになり、これが基になって、にほんの治まりとなるのである。

高山に“火と水”=神の働きが、今から神の眼には幻として見えているが、誰の眼にもこれが見えないか。

段々とどんな話も説き聞かしてある。
神の眼には確かなことが見えているからである。

仕合わせが良くなりたいと言ってたすけて貰いに出て来たのであろう。
それならよく話を聞け、そうすれば十分身についてくる、仕合わせになれる。
この、将来に見えてくる話を楽しんでいよ。

何もかも強欲を尽くすなら、その結果、神の立腹が見えて、現れてくる。
だんだんと十五日より見えかける。
善と悪とはみな現れる。

この話は、どこの、誰のこととも言わない。
見えてきたならば、みな得心をせよ。

高山のにほんの者ととうじんとをわける“もよう”=段取り・手段も、これも、“はしら”=かんろだいに関連がある。
また、“とうじん”=からの者と、にほんの者とをわけるのはどうするかというと、“火と水”=神の働きを入れて分けるのである。

「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2

 「おふでさき」【第三号】口語訳(芹澤茂先生)

【第三号】

(教祖七十七才 明治七年一月より)

このたびは、門の内から 今話題の建物を早く急いで取払いせよ。
そのあとをすっきりと掃除してしまったら、縄棟を 急いで頼む。
本当に 掃除をすっきりしたら、そのあとは、うちの者の心が “神一条”=親神のお話一条になって心がいさんでくる。
段々と布教伝道が行われて、世界の心も勇んでくるなら、これが にほんの治まりとなる。 

今までは、神の思惑は どんなことも、はっきりとはわからなかったであろう。
しかしこれからは、心勇んでかかれば、神も勇んで働いて、“不思議合図”ということが見えてくる、すなわち、神の手引きによって 人々が寄ってくる。
来ない者に無理に来い というのではない。

匂いが掛かって 慕って信仰に付いてくるなら、いつまでもよし。 

これからは、水に例えて話すので、澄むと濁り ということから悟れ。 

神が心から急込んでいるのは、しんのはしら を早く入れたいということである。
この柱を早く入れようと思っても、濁り水のため、入れる所がわからない。
この濁り水を、早く澄ます段取りとしては、水嚢と砂に掛けて澄ますようにせよ。
そんな水嚢が どこにあると思うな。

“むね”=悟り と “くち”=諭し とが 砂と水嚢 である。 

この話が すみやかに悟りがついてよくわかったら、直ぐに「しんのはしら」を入れる。
「はしら」さえしっかり入れ 据えたなら、この世は 確かに治まりがつく。
この話は 人間の考えではわからないので、心を澄まして悟る以外にはない。
これが悟れたら、証拠試しをする。

この世の人間と この世界を初め掛けた、創造した元の神については、誰も何も知らないであろう。
泥海の中から道具を寄せて、これに 色々の守護の方法を教え掛け、それ、そこに出来た人間が 段々と栄えてきた。
このたび たすけ一条の道を教えるのも、これも、今までにない事を始め掛けるのである。
今までにないことを始め掛けるというのも、元拵えた、創造した神であるから できるのである。 

日々に “神の話” が山ほどもつかえてあるが、説くに説かれない。
神の方から何でも説くことはできるが、心を澄まして聞く者がない。
早く、心を澄まして聞くならば、どんな話も みな説き聞かそう。 

このかんろだいについては、この世の 確かな試しが懸けてある。
これに間違いないと思え。
この試しが はっきりと見えてきたなら、神の話は、どんな話も みな 本当であるということの証拠となる。
それ故、何もかも、どんな難しい話も説いておくので、何を言っても嘘と思うな。

眼に見えぬ 神の言うこと為すことは、何をするのか 簡単には分からないであろう。
しかし、直ぐ その通り実現されて見える話であって、これが 神の話が真実であるという確かな証拠である。
これを見て、何を聞いても 楽しんで信仰について来い。
どんな話も みんな これと同じ道理である。 

人の物を借りたなら、利息も要るし、早く返済して お礼を言うのが 世界の道理である。 

子の夜泣きについて 考えている心は違う。
子が泣いているのを なぜ 泣くと思うな。
そうではない。神が 口説いているのである。

このように 前もって早々と神が知らしてやるから、夜泣きだけでなく どんなことについても、神の言うことを しっかりと聞き分けよ。
親の心違いのないように、早く 思案をするがよい。

神の急込んでいることは たすけのことであるので、本当に 人をたすける心であるなら、神の口説きは 何もない。 

当人が 勝手に “今さえよければいい” と思うのは、心違いである。
出掛け、最初から どんな大道を通っても、そんな心では、やがて 行く末の細道を通らねばならない。それが 分かっていない。

人間は 浅はかなものであるから、行く末どんなになるか、その道筋は 全くわからない。
それ故、今のことを言ってはいけない。

先の方には 往還道、広い道が見える。
今の道が どんな道でも嘆くな。先の本道を 楽しんでいよ。 

本当に たすけ一条の心であるなら、何も言わずとも、神は その心を受けとる。
しんの心に 誠さえあるなら、口先の追従などは 不要である。 

だんだんと 何事についても、この世は 神のからだということを思案してみよ。
また、人間の体は みな 神のかしものである。
何と思って 使っているのか。 

今年には 珍しいことを始め掛ける。
今までに人間の知らぬことをする。 

今までは、神のすることを 何ごとにつけても 世界並に理解していた。
これからは 胸の内より 真にわかるようにせねばならぬ。 

このたびは たすけ一条にとり掛かるにも、わが身の試しに 懸かった上である。
たすけといっても、神の教えるたすけは 拝み祈祷でたすけるのでも、伺いを立ててたすけるのでもないが、神が 必ずたすける。
それには、たすけのために働く者は、この所、お屋敷で 万事説いて聞かすことを よく心に覚えよ。
それが 神一条であり、胸の内より 分かるということである。

それ故、わかるように 胸の内をすまして思案せよ。
“人をたすけたら わが身もたすかる” のは道理であろう。

わが身のことは 心配するな。 

高山は せかいの人を みな思うように勝手にしているが、眼の前のことだけで、先、将来のことは 何にも見えていない。
神は 先を見てたすけるので、そのたすけのために働く者を 段々と多く寄せてはあるが、この “立木”=人 を沢山寄せてはあるが、精神が いがみかがみの 曲がった者は よふぼくになれない ということを思案せよ。 

世界中、胸の内より分かるように「しんばしら」を早くみせたい。
これを 神は急込んでいる。
そうしておいて、世界中、うちもせかいも 胸の内を掃除する。
この掃除には、神が箒となるから、しっかりと見ていよ。
これからは 神が表へ現れて、“山”=人間 の生活にかかわって掃除する。
全部 みな 神が掃除をしたなら、人間も神も 心が勇んで 陽気づくめとなる。
この たすけ一条の道は、なんでも 皆、神が引き受けるから、どんな事でも、自由自在に神がたすけをさせるのである。

このたびは、うちを治める真柱を入れたい故に 水を澄ましていくのを急込んでいる。
うちの真柱に対して、高山の 芯の柱は “とうじん”=からの者・神のことがわからぬ者である。
これが第一に、神の立腹の元である。

その 高山に居る、上たる者は、ずっと今まで、段々と世界の人々を、“まま”=自由 にしている。
これを見ている神のざんねんを 何と思っているか。 

今までは、何を言っても見えて実現してないが、もう このたびは、実現すべき “せつ”=時節 が来た。
これから、よふきづとめの段取りに再び取り掛かるが、どういうことか ちょっとには分からないであろう。
今までも、“知りて話して話する” と説いてあるが、これも 何のことか分からないでいずんでる。
それも無理はないので、これまでは、どんな話も説き聞かせたが、その日が来ないので、話の通りに実現していないから。
しかし、もうこれからは 時節が到来したので、言えば そのまま実現してくる。
その例を予言しておくから、しっかり聞いておけ。
“三六二五 の暮合いに 胸の掃除を 神がする。” 

思案してみよ。
どれほど澄んだ水でも、泥を入れれば濁る。
濁り水を早く澄ましてしまわないことには、しんのはしらの入れようがない。
心を澄まして「はしら」を早く入れたことなら、末代にまで しっかり治まりがつく。 

この世を 創めた神の真実の話を説いて聞かす。嘘と思うな。
今までも “しんがく”=心学・神学、“こふき”=古記 の如き教理はあるが、元を知って教えているものはない。
それもその筈で、泥海中より始まって今日に至った人間の道すがら、道程を知っている者はないのだから。 

これまでは、この世を創めてから、ない事、知らないことを 段々と説いて聞かせる。
何もかも ない事ばかり説くけれども、これに間違ったことはない、みんな真実である。 

十一に九で(=二十)、苦がなくなって、辛を忘れる「正月二十六日」を待つ。
この間に しんも付きくるので、欲を忘れて、人衆が揃ってつとめのできる準備をする。 

日々に 神の心に急込んでいるのは、自由自在のたすけの守護を早く見せたい ということである。
これからは、人衆が揃ってかんろだいのつとめをする。
このつとめによって、珍しい自由自在のたすけの証拠ができるので、これで確かに にほんは治まる。 

真実に たすけ一条であるから、どんな 怖いことも全くない。
ただ、なんでも たすけ一条を止めるというなら、神のざんねんが その者の身上に現れてくる とだけは言っておく。
よく思案してみよ、よろづたすけをするこの “もよう”=手段 は、人間業と少しでも思ってはいけない。
今までは、胸が分からないため 何についても無知のままに、人間心でやってきたが、これは違う。 

これからは 神の心と上たる者の 心と心を ひき合わせる。
この話を ちょっとしたことと思うな。
神が、上が無知故に世界を危ない道に指導していく真実を見かねた故にする 大事な話である。 

これからは、神の力と上たる者の力と、力競べをすると思え。
どれ程の 剛的、剛の者でも、居るなら出してみよ。神の方には 倍の力がある。
真実の神が表へ出るのであるから、どんな手段をも 講ずると思え。 

今までは からがにほんをままに自由にした。この 神のざんねんをどうしよう と思う程である。
この先は 神がにほんの者を連れて表へ出るから、にほんがからをままにする、そうしてこの世を治めていく。
みな一れつは 承知していよ。
にほんもからも、“同じ樹”=人間 の “根”=元 と “枝”=先 とのことであるから、何かの異変がある時は、枝先は折れてくるし、根元は栄え出る。 

今までは からは偉いと言っていたが、これから先は 折れるばかりである。
にほんを見よ、小さいように思っていたのであろうが、“根”=元 が現われれば 恐れ入るぞ。
“このにほんの力は人間業と思われない、これは神の力だ、これはかなわない” と、からの者は言うようになる。 

この世は、一れつ人間は、賑わしく暮らしているけれども、人間生活の元を知っている者はいないので 人々は苦しんでいる。
この元を詳しく知ったならば、病などの身上・事情の起きることはないのに。 

何にも知らないで 暮らしているこの子供が、神の眼には いじらしい。
どんなことでも、病というものはない。病があるのは 心違いの道があるからである。
この道というのは、をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん、これがほこりであり、病の元となる。 

この世の人間は みな神の子であり、神は 親である。
親である神の言うことを しっかり聞き分けて貰いたい。 

ほこりさえ すっきりと払ったなら、そのあとは 段々と 様々の守護を教えて 珍しいたすけをする。
真実の心を受け取り次第にたすけるので、このたすけによって、人間が病まず・死なず・弱らないようにしたい。
また、このたすけとは、百十五歳定命と定めたい。これは 全く神の心の一条に思う話である。 

日々に 神の心の急込みを、傍なる者は 何と思っているか。
上たるものを怖い と思っていずんでいるが、神の急込みについて、上を怖い と思うことはない。
胸がわるい と言っているが、これを病と思うな。
これは、神の急込みがつかえた故、神の守護ができなくなった結果である。 

神の心に考えていることと言えば、段々と順序を追って不思議を現わし、たすけを急込むことである。
この不思議は何のことか と思っているが、ほこりを払って掃除を仕立てること、それによって、みなの心を澄ますこと である。
そのあと、早く“はしら”=かんろだいを入れたなら、これで この世の定めがつくのである。
この話が早く実現して皆に見えてきたならば、どんな者でも 神の言うことを得心せよ。 

今までは、証拠試しをすると言ってあるが、この話題になっている「かんろだい」についても、何のことであるかわかっていない、得心がいっていない。 

今話題になっているこの者、お秀は、四年以前に“迎い取り”=出直させ、神が抱きしめているが、これが 証拠になるのである。
真実に思うことは、早く この者を“返す”=生まれ返す段取りが、神の急込みの第一である。 

これまでは、自由自在のたすけをする と何度か説いてきたが、時節が来ないため、何も、見えた、実現してきたことはないけれど、これからは どんな話を説いておいても、それが見えた、実現してきたなら、自由自在ということがわかるので、神の話は必ず実現するものである。 

今までのことは、何も言ってくれるな。正月二十六日に始め掛ける。
そのために、これからは せかいの心をいさめかけるもようと、にほんを治めるもようをする。 

人間の心というのは浅はかで、眼の前に見えた事ばかり言う。
これからは、今までにないことばかり説いておく。これから先にどうなるかをしっかり見ていよ。
どんな事でも、だんだん順序を追って 言い掛ける。
眼の前に見えているようなことは 決して言わない。 

この世を創めた神の「しんばしら」を 早く据えつけたい。
これが 神の一条の話である。
眼に見えない神の言うことすることを、だんだん順序を追ってよく聞いて、思案してみよ、わからぬことはあるまい。 

今の道を、上の “まま”=自由 と思っているが、それは 心違いである。
この世は 神が治めているので、神の “まま”=自由 である。
上は 世界中を “まま”=自由 にする。これを ざんねんと思う神の心を知れ。
これまでは、万事、世界は上の “まま”=自由 であった。
しかし、もうこれからは 文句が変わる、“まま”=自由 にできない。 

この世を創めてからのことは 何もかも説いて聞かしたことはないので、
神が守護していることを知らず、
上は 世界中をわが思いの “まま”=自由 に出来ると思って、“まま”=自由 にしているのは心違いである。
高山に育つ木も谷底に育つ木も、みな 同じことである、木に変わりはない。
人間のからだは みな神のかしものである。神の自由であることを知れ。
すべての人は、みな、わが身を気を付けていよ。
神が なん時どこへ行くか、働きに出るか わからぬぞ。 

ちょっと話するので よく聞け。
神の心の急込みは、よふぼくを寄せる段取りである。
今までにも 段々と 多くの立木があるけれど、どれがよふぼくであるか知れまい。
よふぼくも 少しぐらいでなく、多くの用材がほしいのだ。 

日々に よふぼくは手入れをする。どこが悪いと思ってはならない。
同じように見える木でも、だんだん手入れするものもあり、切り倒したまま横たえておくのもある。 

どのような自由自在のたすけも現わすところの、この、今話題のつとめによる試しは、ほかのところではしない。
今までも 試しと言って説いてきたけれど、もう、今度のかんろだいのつとめは、試し納め、最後の試しである。 

段々と何ごとについても、“この世は神のからだ” である。これをよく思案してみよ。
このたびは 神が表へ出ているからよろづのこと、万事を皆、教える。
めいめい、各自の “身の内=体 は、神のかしもの・人間にとってはかりもの” であることを知らなくては、ほかのことは何もわからないので、

このことはまずしっかり心に理解して記憶せよ。 

思案せよ。病というものはない。
神の “みちをせ”=道教え “いけん”=意見 である。
ちょっとした 眼がわるいとか 出来物とか、のぼせや 痛みなどは、神の手引きである。

今までは、高い山といっても、よふぼくが見えてないが、この先は 高山にも だんだんとよふぼくを見出す段取りをする。 

一れつに、世界中を早くたすけるために 段々と 話して聞かしているこの “もよう”=よふぼくによる布教伝道 によって、上下共に心をいさましていく。
この たすけ一条の道によって、日々に 少しずつでも世界の人々の心が勇んでくるなら、作物の成育も盛んになる。
何でも たすけ一条で世界中をたすけていって、世界の人々の心の中にある 謀叛の根を早く切りたい。 

今の道は 埃だらけであるから、箒をもって 掃除する。
そのあとの道は、広々として “ごもく”=芥 もない。

幾人でも 連れて通るがよい。 

明治七年二月二十二日の 五ッ刻(午前八時頃) に話しかける。
よろづいんねんを みな説いて聞かせる と予告しておく。
高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、比べて 思案せよ。
日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。これが “こふき” となるものである。

「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3

 「おふでさき」【第四号】口語訳(芹澤茂先生)

【第四号】

(教祖七十七才 明治七年四月)

今の道は何のための道と思っているか。
何か分からない道のようであるが、この先には往還の位置が見えている。

あそこにある、もうここに来たというように早く出てくる。
その日はいつかと思っているだろうが、五月五日に確かに出てくる。

それからお蔭が始まる。
夜昼知れんくらいに賑わって忙しくなる。

だんだん進んで六月になったなら、証拠守りを作って出す予定である。
それからは、だんだんと“ふしん”=普請 を急込んで、とても忙しくなる。

これからは、神の心は日々に急込みがつかえてあるとよく知っていてくれ。
どんなに多くの急込みがあっても、口では何も言わないで、神が働くということも承知していよ。

この先は、神の手引きによって多くの人が出て来るのが見えていると、早く知らしてやりたいと思っているが。
段々と珍しい人が見えてあるけれど、誰の眼にもこれが見えないか。

これからあとの話をしておく。沢山の道程を経る道であるから、よく見ていよ。
これは珍しい道である。
やがては、面白いではないか、多くの人が集まって “天の与えだ、頂きに行こう ”と言ってくるようになる。

日々に、身に障りが付いて病気になって “また来たか、神の待ちかねているのを知らないで” というようなことになる。

段々と順序を追って、つとめの人衆の役割通りに手が揃い、つとめをする。
これが合図となって、何か不思議なたすけが“出掛ける”=現われる。

日々に、神の心に急込んでいるのは、段々と上の心に早くこの不思議なたすけを見せたなら、ということである。

しかし、今の上たる者は、神の心もこの世の真実も、何も知らずに、“とうじん”=からの者に従っている心が、神からみると実におかしい。

日々に、神の心の急込みは、“とうじんころり”=コレラ が流行する旬を待っている。
今までの“牛”=コレラ の先ぶれを考えてみよ。
上たる者は、次には人間のコレラが流行することに気を付けていよ。
その旬になったら、不思議なたすけによって神の心もこの世の真実もわかるようになる。

これ=不思議なたすけ さえ皆見えてきたならば、
布教伝道がうまくいって、世界=世の中の人々の心もみんな勇んでくる。
なんでも世界の心が勇むなら、神の心も勇むのである。

きょうの日は、どんな道と思うであろうが、珍しいことが見えてくる。
段々に何でも見えてくるので、きょうの日がどんな道であっても、苦労の道をみな楽しめよ。

日々に陽気づとめの手が付けば、神の楽しみはどれ程か分からない。
それ故、つとめ人衆を待ちかねているのである。
そばの者は何を考えているのか。

どんな病でもただの病気ということはないので、身に障りが付くというのは、神の用向きがあるからである。
この用向きも、何のことか簡単には分からないだろう。
神の思惑は沢山あるので、用向きも多い。

それ故、病で出てきたのものには、何でも神の思惑を説いて聞かしたら、心が勇む。
段々に、順序を追って、何でも思惑を十分に説き聞かせたら、身の内の障りも“すずやかに”=すっきりとなる。

また、この先には、陽気づとめをできるように待ちかねている。
何のことかと言えば、「かぐらづとめ」のことである。

世界中から寄って来る者は多くの人であるが、神の心を知っている者はいない。
それも無理ではない。

しかし、このたびは神の心の中にある真実を、何でも一切みな教える故、よく聞き分けよ。
何でも“神一条”=神の話 を知ったなら、布教伝道において からに負けるようなことはない。

この先は、からとにほんをすみやかに、段々分ける“もよう”=段取り をする。
これさえ早く分かったら、神の残念も晴れる。
神の残念が本当にみな晴れたなら、世界の人々の心もみな勇み出る。

段々と順序を追って、世界中を真実にたすける“もよう”=準備・段取り ばかりするのである。
そうしてたすけをしていけば、 “そののち”=将来 は、病まず・死なず・弱らずに暮らし、心次第ではいつまでもこの世に生きていてよい。

また先は、将来には、これはまだ余程年限が経ったならのことであるが、“年が寄る”=年寄りになるということが全くなくなるのである。

このような珍しい道について、今までは何でも知らなかったことを、これから先は皆教える。

今では、皆の心と内なる者の心が神の心と大きく違ってしまっているけれども、明日にはきょうの心を忘れて、なんでも“神一条”=神の話 につかねばならない。
これをよく頼む。

そのため、神はてびきをするから、日々に身の障りがついたら、心違いを神が知らせるので、神の言うことを得心せよ。

それには、めいめい、当人の身の内、からだの病気から、心違いを思案して、心定めをして神にもたれよ。

なんでも神の思惑は、深く遠くまで見透した上である。
傍なる者はそれを知らずにいる。

きょうまでは、この道についてどんな話をしても、その道は見えなかったが、明日からは早く見える。
思案して心を定めよ。

この先の道を早く知らそうと思うけれど、悟りがないので、これが、これを説いて聞かすのが、難しい。
段々と順序を追って、筆に書いて知らしてあるけれど、悟れないのが神のざんねんに思うところである。

なんでも神の言うことをよく聞け。
みな、めいめい、当事者の心次第である。

真実に心を澄まして、勇んで、思案して、心を定めて、神にもたれて陽気づとめの準備をせよ。

この話は何のことかと思うな、“肥一条”=肥のつとめ の話である。
“肥”=肥のつとめ による守護 といっても、何が効くと思うな。
心の誠・真実が効くのである。
真実の心を神が見定めが付いたなら、どんな守護もすると思え。

しっかりと聞いておけ。
つとめに限らず、よろづの事を皆教える。

それには隔ては少しもない。
どんな所の人がこの屋敷に出て来ても、皆いんねんの者であるから、皆同じように教える。

この所は、人間を創め出した屋敷である。
そのいんねんによって天降ってきて、神はたすけの道を始めた。

この先は世界中を、一れつ、全部をたすけるための守護をみんな教える。
段々とよろづたすけをみな教えておいて、それから からとにほん を分けるばかりである。

日々に、からとにほん を分ける道=方法、すなわち布教伝道が、神の急込みであり、これ“一条”=一筋 である。
この道が早く分かったならば、そのあとは、万事 神のままである。

きょうの日は、本当に珍しい初まり出しをみよ。
万事について、いんねんによって皆ついてくる。

いんねんも多くの人であるからといって、どこにも隔てはない。
いんねんと言うと 隔てがあるように思うかも知れぬが、この世界や人間を創めた神であるから、世界一れつは 皆わが子である。
一れつの子供が可愛いが故に、いろいろ心を尽くし切っている。

この、いんねんによって出てきたこどもに、何もかもたすけの守護を教えて、早く表へ出したいという、神の心の急込みをみよ。

段々と順序を追って、このこどもの出世=成人 を待ちかねる。
神の思惑はこればかりである。
この、たすけの守護を教えられたこどもさえ 早く表へ出したなら、からをにほんの地にするのである。

真実にこどもの心よ、しっかりせよ。
神の心は急くばかりである。

日々に、神の急込みの現われである この悩みを、よく思案して、心を定めて神にもたれ、早くたすける段取りをしてくれ。

内なる者は上を思っていずんでいる。
怖いことはない、神が請け合う。

今までと道が変わっているから、早く往還の道に出るよう急込むのである。
この道はいつのことかと思っているが、早く出てみよ、もう今のことである。

この道が変わっていることについて、段々と順序を追って、筆=「おふでさき」に知らしてあるから、早く心に悟り取るがよい。
これさえ早く悟りがついたなら、身の内の悩みも “すずやかに”=すっきり よくなる。

つとめでも、初めはてをどりを教え、次いでまた、かぐらのことも教えて、ちょっとの細道を付けてはあるが、段々と 草が“しこって”=繁って 道がわからなくなっている。
早く細道を出て、本道をつける段取りを付けよ。

日々に、心勇んで本道を急込め。
早く本道を付けたならば、やがて、それが つとめのできる往還の道となる。

本当に この本道が付いたなら、その末は、往還を通って 頼もしい陽気づくめの道になるのだ。
村方は、なおも たすけを急いているので、早く思案して たすけの準備をしてくれるよう。

世界中の人間は、神にとっては 皆わが子である。
すべての者は、みな、神を 親と思え。

世界中、どこでも、話を知らせるのに、まず 説教の形式として始め掛ける。
説いて聞かせる、聞きに行く、というのが 世間のやり方である。

しかし、どれほど見えたようなことを言っても、言う方が 人間やこの世の元を知っていないのであるから、聞く方でわかる筈がない。
段々と ないこと、今は目に見えないことばかり言っておいて、それが その通りになるならば、これが本当である。

その通りになるのは 元を知っているからである。

一れつに、神にもたれる、この布教伝道しようとする こどもよ、早く 表へ出る“もよう”=準備 をせよ。
本当に 表へ出ようと思うなら、心しずめて “しん”=元 を尋ねよ。

この こどもの胸の内が、神の方で 本当に 見定めがついたなら、説教に限らず、どんな “もよう”=手段 も(講じて 話が伝わるようにしよう)。

日々、神の心は 急込んでいるが、こども=人間 の方はさっぱりわからない。
こどもでも 少しではない、沢山いても 全然わかっていない。

今までは、学問なぞと言っても、見えてないことは 全く知らないであろう。
しかし神は、この先は 見えてないことを、万事、必要なだけは、みな 説いておく。

これからは、この世を創めてから まだ教えてないつとめを、段々と教え、手をつける。
このつとめは、世界中の たすけ道=たすけの手段 で、ものを言えない者でも、ものが言えるようにするのである。

それ故、日々に つとめの人衆はしっかりせよ。
心をしずめて、早く つとめにとりかかれ。

このつとめを 何の事かと思っているが、このつとめによって、世界を治め、世界をたすける自然の恵みを守護するのである。

この道が 確かに見えて 実現してきたなら、人間の病の根は 切れてしまう。
真実の心次第に、どこにおいても、誰でも、どんな守護でもしてやろう。

神の急込んでいる今の道を、うちの者は心配しているが、案じることはない。
しっかり見ていよ。
これまでと 道が変わると言ってある。
神は 違ったことは言わない。

この先は、神の心の急込みを、口では どうも言うに言われない。
言うのがどんなに難しいといっても、説かないでは 分かりようがない。
それ故、日々に 神の思惑を 段々と説いておくから、よく聞いてくれ。

この思惑の道は、全く難しい、しかし 珍しい道である。
しっかり見ていよ。

この道を通り抜けたら、その先は、からは にほんの地にしてある。
からの地を にほんの地にしたならば、これは 末代=永遠 の生き通りである。

この世を 治めるも上なら、天もかみ である=上方の天 にあって、神が治めている。
上と神 との治める心を 分ける。

段々と 見えないことを言っておいて、先で見えたら これが神である=神は先をみて治める。
どんなに見えたことを言っても、先が見えなければ、本当の治め方は わかるまい。それが 上の治め方である。

これからは 世界中の胸の内を、上下 共にわけてみせる。
そのため神は働くので、これ=この働き をみよ。

神は、世界もうちも隔てなく、平等に 胸の内より掃除するぞ。
この掃除は 難しいことであるが、埃が立って 身上・事情が現われても、病というはない と言っておく。
どんな痛みや 悩みや 出来物や 熱や下りも、みんな ほこりである。

この世を創めてからのことは、何もかも、まだ 上へ教えたことはないであろう。
このたびは、何でも皆 上たる者へ知らせておいたなら、それからは、中には思案をする者もあろう。
皆が寄り合って話をしたら、中には本当に心に頼もしい話であると思って、思案をする者もあろう。
この話の道を 上へ通じたならば、神の自由自在のたすけを直ぐに現わす。

この世を創めた神の自由自在のたすけを 見せたことはなかった。
それ故、何も知らないで過ごしているが、神の自由自在のたすけを知らせてやったなら、そのままには していられない。

これを聞いて、みな 一れつの人々は思案しなければならない。
これと同じように、何でも 心次第である。

きょうの日は、まだ何も見えて=実現していないが、六月を見よ、みな出てくる。

今までは、“高い山や”=「俺は高山に住む指導者だぞ」 と言って、人々を“ままに”=自由にしている。
谷底の者は、この真実に無知な高山に従って しょげているだけである。
これからは、高山にも谷底にも、真実の神の話として、元初まりの話を、にほんの者から 言って聞かせて 勇むようにする。

この世の初まり出しは 泥の海であった。
その中に 泥鰌ばかり沢山いた。

この泥鰌は何であるか と言うと、これが 人間のたねになった。
このものを 神が引き上げ食ってしまって、だんだん守護して 人間としたのである。
それからの神の守護というものは、並大抵なことでなかった。

この話は、昔話かなんぞを聞くような ちょっとしたことと思ってはならぬ。
この話は、世界一れつをたすけたいから 聞かす話である。
日々に、神の心の真実を説いて聞かすことには、深い思惑があると思え。

今までは、にほんが からに従って、思うままにされたことは 神の残念である。
このかやしとして神が働くので、この 神の働きを見よ。
どんな者も 真似ができるか。

からの者が どんなに 剛的な者=剛の者 といっても、神がしりぞく=守護の手をひくから、これには かなわぬだろう。
なんでもみな、このようにして 神が自由自在の働きをすると思え。

思案してみよ、にほんの者が どんなに若いとか年寄りとか弱い者であっても、心次第で、神はどんな自由自在の働きもさせる。

今までも、教祖と同じように暮らしていても、神の自由自在の働きを知っている者は 居なかった。
これからは、この自由自在の働きだけでなく、万事につけて、みな 説いておくから、心違いのないようにせよ。

「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4

 「おふでさき」【第五号】口語訳(芹澤茂先生)

【第五号】

(教祖七十七才 明治七年五月)

今までは、牛馬に堕ちるということは、時々聞いていても、“あと先”=過去と将来 が、はっきり具体的に知られることはあるまい。

このたびは、“先なること”=来生 を “この世”=今生 から知らせるから、“”身の障り”=病気 によって、これを見てよく思案せよ。 

この世は、どんなにわが身のことを思っても、その通り方が、神の立腹となるようなものでは、これは思い通りにはならない。

“めいめい”=個人 にわが身思案は要らない。
神が、それぞれ、その者を見分ける。

一屋敷の中に同じように暮らしていて、“神も仏もない” と思ってわが身勝手な通り方をしても、“神も仏もある” のだということを考えよ。

神は 立腹のかやしをするので、“これ”=かやし を見て、どんな者でも得心せよ。
神は、善と悪とが分かるように、必ず する。 

この話を、みな 一れつは思案せよ。
一人として 同じ心ではあるまい。
親子でも夫婦でも、兄弟姉妹の仲でも、みな、一人ひとり 心は違う。
 

“世界中”=内も世界 も、どこの者という区別は言わない。

誰でも、心のほこりが 身に障りとなる。
それ故、“身の内”=体 の悩む“ところ”=病気 を思案して、ほこりの心違いをさんげし、神にもたれる心になるよう思案せよ。
そうしたら、自由自在のたすけをするので、どんなに病が “難しい”=重い と言っても、神の自由自在のたすけを早く見せてやりたい。

今までは、神の自由自在という真実を知っている者は全く居ないので、誰も 本当に思案をしていなかった。
これからは、どんなに難しい病でも、心次第で直らぬということはない。
真実の心を神が受け取れば、どんな自由自在のたすけもしてみせる。 

これほどの神の真実の心からする この話を、そばの者は 早く悟れ。
これさえ 悟りが付けば、神は 自由自在のたすけをして見せるので、何についても、これと同じ道理である。 

今日までは、何事にも、あまり 急かすことはなかったが、もう今日は、往還の道を急込む。
この 往還の道は、世界並のことと 思ってはならない。
これは “末代”=永遠 にわたる こふき の初まりである。 

この、今 話題の人衆は、どこに居る とは言わないが、身の内の “障り”=病気 を手引きとして、みな 寄って来るであろう。
この障りについては、神の手引き・意見・立腹であるけれども、みな、“めいめい”=各自、心違いを思案してみよ。

この話を 何と思って聞いているか。
神は、人間が可愛いあまりに 口説いているのだ。

どんなに意見や立腹と言っても、これをたすけない と言っているのでは決してない。
人間の、わが子を意見することを考えてみよ。
腹の立つのも 可愛い故からであろう。

よく思案して、心定めて随いて来い。
末には 頼もしい道があるぞ。 

今までは 心違いがあっても、まだ、その日=旬 が来ていないので、見許して、そのままにしていた。
このたびは、何でもかでも、“胸の内”=心 を掃除するから、この点をよく、みな 承知していよ。

胸の内を掃除をする というのも、神の思惑が 深くある=いろいろ教えたいからなのだ。

すなわち、いくら教えても、この胸の掃除をすっきりと仕上げてしまわないと、胸が真実にわかった ということにならないからである。
掃除して、このように、心が芯からわかった ということになれば、この世初まりと同じ守護を現わすつとめの手を付ける。 

近道も通らず、欲も高慢も ないようにして、ただ一筋の 本道に出よ。
この道についたなら、いつ迄も、これが にほんの こふき である。
にほんにも こふき が出来たことなら、必ず、からを にほん のままにする。

この世を創めてからの真実を、まだ 今までは言ったことはない。

この話は、話するのが難しいけれど、言わずにいれば 誰も知らないので、何とか 知らさねばならない。
それ故、段々と、どんなことでも にほん の者に教えて、それから言って聞かせるようにする。
この話を、心を静めて しっかり聞いておけ。

今までは、どんな “法”=法術 と言っても、これからは 法は効かない。
これまでは、枝先では、法 なぞと教えてあるけれども、“先”=将来 を見ていよ。

にほんには、法 のようなものは まだ何も知らなくても、これから先の道には、法 よりすぐれたものがあることを楽しんでいよ。

一体、法 といっても、誰が、法 によってたすけをするか など考えなくてもよい。
この世 創めた神が するのである。

それ故、このたび、こふき によるたすけでは、どんなに難しいことといっても、神が、たすけを取次ぐ者の真実を受け取ったなら、出来ていく。 

今までは からやにほん と言ってきたけれど、これから先(将来)は にほんばかりである。

枝先は、葉が繁って 大きく見えるけれど、手を出すと折れる=案外弱い。
これから先を見ていよ。

元なるものは 小さいようであるが、根であるから しっかりしている。
どんなことでも 元を知ることが大事だ。 

術 とか 法 とかいうものが えらいものだと思うな。
心の誠、これが真実であり 真の術である。
それを 人間は浅はかであるから、物珍しい事を 法 なぞと言って、その真似をしようと思うのだ。 

今までは、神が現われ出て 自由自在の働きをしても、まだ “真実”=真実のこと を知った者はいない。
それ故、この先は、どんなことも 真実を教えておいたなら、それから神の働きは、何もかも 自由自在をしてみせる。
真実の神の働きをしかけたら、世界一れつは 心が澄み切って、真実のことも分かる。 

神の働きはどういうものか と考えるであろうが、神は、人間の心を受け取り次第に “かやし”=お返し をするのである。

この “かやし”=お返し は普通に考えられるようなものではなく、道のりが 千里も隔たっていても、かやす。
このこと=かやし は、何を言っても思っても、その心を受け取り次第、直ぐに “かやし”=お返し する。

この かやし は どんなものかと思うな。
善悪ともに、皆、かやすのである。
善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに かやすのである。
このこと=かやし が、人々の心に 本当に見えてきたならば、一れつは、どんな者でも、みな 心が澄み渡る。 

今日の日は、何も見えてはいないが、八月をみよ、みな 見えてくる。

見えると言っても、何のことか知れまいが、高い山から 往還の道が付いてくる。
この道を付けようとして、“仕拵え”=準備 をしているのを、そばの者は、何も知らないで 心配している。

この所へ呼びに来たり、出向いて来たりするのも、皆、神の思惑がある故に させていることである。
それを何も知らずに、傍の者は、世界並の 取締りや干渉 のように思っている。

何が起きても、世界並に思うて 心配するな。
珍しい道が 出来てくるのだから。 

段々と、この世を創めてから 長い時間が経ったが、一人として 真実を知っている者はいない。
この真実を知らせようと、どれほど神の心は急いても、皆の者の心は、まだ、うっかりとしている。
早く思案して 急込め。

なぜ、根元、根本教理を掘る 段取りに取り掛からないのか。
この世の真実の根の掘り方を知っている者がないので、いくら急いても どうにもならぬ。

この根を 本当に掘ったなら、誠に 頼もしい道になるのに。
この道を掘りきって 通り抜けたなら、“上も下も”=高山も谷底 も、みんな 心が勇んでくるのに。

これからは、何としても、世界一れつを 勇むようにする段取りばかりする。 

段々と、何ごとでも、にほんには 知らないことがないようにしたい。
それは、何もかも 世界中へ教えたいからである。

その 神の思惑が深いのに、それを知らず、世界中は 内も世界も、どこでも皆、神の言うことを、なぜか 危ないように思っている。
どんなことでも 神の言うことであるから、ちょっとも 危ないことはない。 

何もかも、色々のことを、段々と 順序を追って話をしているのに、わかっている者がいない。

これからは、どうか本当に、胸の内を 早く澄ます段取りをしてくれ、心を澄まさないと 話がわからないから。
澄ます ということであるが、世界中から寄って来るのが 多くの人であるから、これを みな澄ますというのは難しい。
どんなに難しいと言っても、めいめいが、わが心の真実を見よ、そうすれば 澄ますことができる。 

この心というものは、澄み・分かりたならば、そのまま、神の働きが はっきりと見えるものである。 

日々に、神が働いている 真実の姿を知っている者は、全くないであろう。

何でも 神の自由自在の働きというのは、珍しいことを して見せるから、よく見ていよ。
どんな珍しいことと言っても、みな神のすること・なすことであるから、上を恐れず、神にもたれよ。 

今までは、どんなことも はっきりとは知らなかったであろうが、今は、ちょっと細い道筋が 見えかけている。

この道を だんだん慕っていくなら、確かに、先の方に 本道が見える。
細道から 本道へとたどる、これまでに通ってきた道筋については、から も にほん も、何のことか分からないので、心配したであろう。
しかし、この先は分かってくる。

すなわち、どんなに から が偉いものやと言っても、にほん が負けるということはないので、神の話を伝えて、真実を分からせることは出来る。 

この世の 元初まりの根を掘らそう。
力がある限り、掘りきってみよ。
この根を 掘りきりさえしたなら、いかに から は偉いと言っても、にほん の者にかなう者は ないのだ。

これから言うことを しっかり聞いておけ。
根を掘って、神の教えることを 何でも知っていれば、布教伝道において、口で言っても心に思っても、どこで言っても、何を思っても、神は いつでもこれを受け取る。
“心を受け取る通りに、直ぐに善悪の かやし をする” と言っているのは、このことである。

から の者からは神が退くので、これを手引きとして、心が澄んで、神の話を聞くようになるのである。
これを 承知していよ。

「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5

 「おふでさき」【第六号】口語訳(芹澤茂先生)

【第六号】

(教祖七十七才 明治七年十二月より)

このたびは珍しいことを言い掛けるので、心を静めてこの話を聞いてくれ。

こう言っても、みんな神のすること言うことであるから、そばの者に心配を掛けるようなことではない。
これからする話を、どうかみな誰でも本当に心を静めて承知してくれ。

神が付け掛けているこの道は、どういうものと思っているか。
この世治める真実の道である。 

上たる者の心に、“火と水”=神の守護 を分からすならば、ひとりでにこの世は陽気づくめに治まってくる。
この火と水を分からすというその段取りは、ここでよふきづとめをするのであると考えよ。

このつとめは、この世を創め掛けたのと同じことで、珍しいことをして見せるのである。
この世を創めてから今までにないつとめによって、もう一度創め掛けて、この世を確かに治める。


この世の月日の心にある真実のことを知っている者は、全く居ないであろう。
それ故、これからそれを話そう。

しかも、これまではどんな神と言っても、眼に見えないと言っていた。
このたびは、どんな神も、本当に眼で見えるように現われ出して、話をする。そういう話し方で話そう。 

今からは、何を言っても思っても、そのまま直ぐに見えてくるので、“これは不思議た”ということになる。

“何ごとも秋を合図に見えかける”と言っておこう。
その秋=時が来たら、つとめをせねばならぬ。
それ故、よふきづとめに早くとりかかれ。

世界中から出てきて、神の話を聞いて、多くの人が暮らしている、その一人々々をみると、おしなべて、皆、靄(もや)の中にいるようである。
日々に、胸の内が澄み、神の話が分かるというように心の成人をしていくなら、神の思惑や神の働きは見えてくる。

この、今話題の、神の真実の道がしっかりと見えたならば、もう大丈夫だ。
この先をしっかりと楽しんでいよ。 

段々と、心勇んで急込め。
早く本道へ急ぎ出るのだ。

そうして、つとめ人衆十人の真実の心を神が受けとったなら、それからは、どんなことも段々と神の思惑をみな説き聞かす。

日々、神の心は急いても、人衆十人の心が揃わなくては話ができない。
今つとめに出ている十人の中に、三人の片腕ともなる者は、“火水風が退く”=守護がなくなる ことがあると知れ。 

どんなことでも神のする事である。
これをただの病と決して思うな=神の思惑を悟れ。
神はなんでも真実の神の自由自在の働きを知らせたい故にして見せるので、心を受けとれば、たすけるのである。 

これまでは、世界に様々の教えがあって、これによりどんな道も通ってきたが、人間は、その日が来ないので真実を知らず、いずんでいたのである。
この先は、どんなことでも段々と順序を追って、本当の真実、神の話をにほんの者から言って聞かせて、勇むようにしよう。

今までは、どんな神=神々も沢山あって、拝み・祈禱によるたすけをすると言ってきたが、このたすけの元を知っている者があるならば、尋ねて行ってみよ。神が許す。 

また先は人が寄り、いさんでくるので、どんなことも段々とみな教え、本道を付けたことならば、どれ程の楽しみであろう。 

今までにないことばかり言いかけて、よろづたすけのつとめを教える。 

この、今話題のつとめについて言えば、十人の人衆の中に元初まりの親である月日がいるのである。
その親が、いざなぎといざなみの雛形となるものを引き寄せて、人間を創め掛ける守護を教えたのである。 

このつとめの元は、元初まりにおいて泥海中に魚と巳とがいて、それを引出して夫婦の雛形としたところにある。 

この世の元初まりは泥の海で、その中に泥鰌ばかり沢山いた。
そのうちに魚と巳とが混じっているので、よくよく見ると、人間の顔をしている。
それを見て、これを人間の雛形として創め掛ければ人間が拵えられる、と思い付いたのは、全く月日の心からである。 

このもの=魚と巳に神の働き・守護を受け持つ道具を寄せて、段々と人間を創め掛ける守護を教えたことなら出来る。この道具は、くにさづちの道具と月よみの道具と、これを、それぞれ巳と魚の身の内=体 に仕込んだなら、夫婦の雛形となろう。
その外、くもよみとかしこねとをふとのべとたいしよく天の、それぞれの道具を寄せたことなら道具が揃うであろう。

このようにして、雛形と道具が揃ったなら、それからは、確かに人間と人間の住む世界ができる故、この世界を創めよう、という神の相談がまとまりがついたのである。 

これからは、ない人間ない世界を拵える上での神の守護というのは、並大抵なことではなかったのである。
今までにないことを創めるというのは、何を言うのも難しいことである。 

この世を創め掛けたことについての真実を、誰も知っている者はいないであろう。
これからは、どんなことも段々と順序を追って言って聞かす。
これを嘘と考えるな。 

人間を創め掛けたのは、魚と巳とを寄せて、これを、それぞれ種と苗代にして創め掛けた。
このものに、月日が体内に入込んで、段々と人間を創め出す守護を教え込んだ。

そして、泥鰌を種として人間を創ったが、この子数は九億九万九千九百九十九人である。
この人数を三日三夜かかって宿し込み、その場所に三年三月留まっていた。

それから生まれ出したものは五分で、五分から五分五分と成人した=大人になった。
このもの=巳に、一度教えた守護によって、同じ=巳 の体内に、同じ子数の人間が三度宿ったのである。 

この世の真実の神は月日である。
その他のものはみな道具である。

人間を創めようというので、段々と寄せて使ったもので、これに神名を付けたのである。 
いざなぎ といざなみ とが「一の神」である。
これ=この守護の理 は、“天照皇太神宮”=伊勢神宮 として拝んでいるものである。 

また先=将来 は、元初まりの話やその他、何でも、段々、順序を追って説くけれども、これは皆、今までに人間の知らぬ話ばかりである。

その話をしたい故、この先は、何を言っても、まず人間を創め掛けたことばかり話して聞かす。

ここは、この世を創め出したという いんねんのある屋敷である。
教祖は、人間を創めた時の元の親であるという魂のいんねんを持つ。

月日は、それ=そのいんねん を見澄ましていて、旬刻限を待って天降り、何でも知らしたいから色々段取りをしている。

月日が心に強く思っていることは、“めいめいの社”を貰い受けたい、ということである。
そうなったなら、話通りなのを見て人々の心も澄む故、自由自在にいつでも思うままに話をしようと思っているのに。

今までも、“月日のやしろ”=教祖 はしっかり貰い受けてあるけれど、めいめいの社は貰い受けてない故、それを見て人々の心もいずんでいた。
このたびは、もうそんなことよりも、月日が確かに表へ現われて、なんでもみな話して聞かせよう。

今までは、御簾の内らに居たから、外からは月日のことが何も見えなかったが、このたびは赤い=明るい所へ出たから、月日の働きはどんな事も直ぐに見える。

この、教祖が着ている赤い着物をなんと変に思っているのか。
中に月日が籠っているのである。

今までも、月日の“まま”=自由に何ごともできるのであるが、その日=丁度よい日 が来ないので、そのまま見許していた。
このたびは、もう十分に日も来たので、何でも月日が自由自在の働きによって“まま”=自由 にする。
それ=自由自在の働き を知らず、高山は何を考えて、何でも
“まま”=自由 にしているのか。

何ごとも、この所=教祖 には人間の心があるとは全く考えるな。
どんなことを言っても、筆先に書いても、これは月日の心の指図である。
高山は、何を言っても思っても、みな人間の心の指図である。

月日が付けた「天理王命」という名前を取払おうとした。
この残念を何と思うか。
月日の立腹や残念は容易なことではないと考えよ。

今までは、“高い山や”と言って威張って、何でも万事ままにしたけれど、これからは 月日が代わって“まま”=自由 にする。
何でもよい、できるなら真似をしてみよ。

このところでは、何を言ったり何をしたりするのも、みな月日の思う通りのことばかりである。
これからは、月日の心の残念を晴らすための段取りばかりする。

この先は、どんなほこりが立って身上・事情が起きても、これを病や災難であると決して思ってはいけない。
月日の残念が現われたのだと考えよ。

今までも月日の残念は、山のように積もっている。
これを晴らすために「かやし」をする。

今までも「かやし」と言って説いてきたが、何の事かと思っていたであろう。
誠に「かやし」というのは、この、埃が立つということである。
特に、高山の者はよく覚えておくがよい。

この世の初まりは泥海中のことで、そこに月日がいただけであった。
月日は思い付いた。
“そうだ、人間の世界を創め掛けたら”

ない世界を創め掛けるのは難しいことである。

“そうだ、人間を拵える道具を見付けなければならぬ”
そう思ってよく見てみると、泥海の中に泥鰌も魚も巳も、その他のものも皆見えている。

“そのもの達を皆引き寄せて談じ合い、人間を拵える守護を教えて創め掛けたら”
と相談した。

ない世界を創めようとして、この月日が、段々と順序を追って心を尽くしてきた上から人間の世界があるのだ。
この、人間の通ってきた道を知っている者は全くいない。
この残念を何と思っているのか。

これ程に思って創めたこの世界なのに、人間は何も知らぬ。
月日の心には 何と残念なことか。

月日が 段々と 心を尽くしきって守護してきた、その上での人間である。
それを知らず、今のところは高山は、みな幅を利かして“まま”=自由 にしている。

月日には、第一にこれが残念である。
どんな「かやし」をするか分からぬぞ。

この世界において、山崩えなども雷も、地震や大風は月日の立腹、残念の現われである。
どんな大社、高山も油断するな。
いつ何どき、月日が飛んで出るか分からぬぞ。

一れつに誰でも、皆、わが身に気を付けよ。
「かやし」をするのに、月日は遠慮をするようなことは全くない。

何もかも、精一杯、前もって断っておいて、それから月日の仕事に取り掛かるのである。

月日が働けば「かやし」が見えてくるが、どんなことが現われても、他人を恨んではいけない。
みんな、めいめい=自分 が自分を恨むことである。

この話は、段々と今まで順を追って何遍も口説いてきたことである。
これをしっかり聞き分けてほしい。

一れつに誰でも、皆、めいめいの胸次第である。
その胸の内を月日が見分けていると思え。

月日は、真実の心を見定めて、受け取り次第に「かやし」をするのである。
今までは、何を言っても思っても、みな人間の心だけが基準であった。
これからは、善い事をしても悪い事をしても、そのまま直ぐに月日が「かやし」をする。

今までは、このことについては 人間の悟り=理解 もあったけれど、もうこれからは、悟りによってたすかるということはない。

この世の真実の親は月日である。
親は、何でも万事について守護をする。

これから言うことには、何を言っても嘘ということはない。
みな真実=本当のこと と思って聞き分けよ。

どんな事でも、月日が真実に心を尽くして、考えて、創めたことばかりである。

今までは、病と言えば “それ医者だ、薬だ” と言って、みな心配をしたけれど、これからは、痛みや悩みや出来物も、息・てをどりのさづけでみなたすける。

このたすけは、今まで知らぬことであるが、これから先は試しをしてみよ。
どんなに難しいように見える病気でも、月日の真実のこもった息のさづけでたすける。

月日が真実の心を見定めて、どんな守護もすると思え。

つとめによって、生まれ子が安産に、疱瘡も麻疹もしないように育ち、また、病まず若死にせずに暮らすことなら、どれほどの楽しみであろう。

このように、どんな自由自在のたすけもする、と言っても、みな月日の心から出ることである。
これをよく聞いておけ。

今までも大抵のことは口説いて説き諭してきたけれども、月日の思惑については、まだ言い足らない所がある。
このたびは、月日の残念を、積もり重なっているから、なんでも皆、言っておく。

この所=元の屋敷において、たすけ一条を止められているこの残念は、なんでも「かやし」をせずにおられぬ。
この「かやし」は “大社高山取払い” であり、“みな一れつは、わが身を気を付けよ” と言ったことを承知していよ。

この「かやし」の話を何と思って聞いているか。
“天火・火の雨・海は津波” が「かやし」である。

残念が現われるとこのようなことになるので、これほど月日が心配しているのに、世界中は何と思ってうっかり暮らしているのか。

段々と、このように口説きや嘆きをもって説いているが、真実になった心は、受け取ってたすける。
どんな者も、一れつに可愛いわが子である。
これをたすけようと見守っている、月日の心の心配をよく考えてくれ。

この世は、一れつは、全部、月日のからだであり、その中に懐住居している人間のからだは、みな、月日よりの「かしもの」である。

世界中の者がこの真実=真理・真相 を知ったならば、強気や強欲を出す者はいない。
この真実を知って、心が本当に分かったならば、怖いことも危ないこともない。

それなのに、月日が教えることはみな消してしまって、ただ人間心だけで思案している、それでどうしてたすかっていけようか。

今までも、この世を創めたことについての真実を教えておこうと思ったけれども、まだこれは控えている。

月日は、日々、心に急込んでいるが、教えるべき刻限を待っていると思え。

この話を何と思って聞いているか。
月日の思惑では、深い利益を考えて、その段取りをしているのだ。

こればかりは、人並の人間のすることと思うな。
月日の仕事は、大変な思惑があって していることである。

月日が自由自在の働きをすると幾度か説いてきたが、“まだ今までは見えたことはない” と思っている。
このたびは、自由自在を真実にして見せたならば、これが本当であるとわかる故、してみせよう。

どんな事をしても、みな月日がすることであり、真実の心、たすけ一条の心からすることである。

子供がほしいと思っても、胎内へ宿し込むのも月日の守護に依るのであり、生まれ出すのも、月日の世話取りであるから、神の話を真実の話として聞き、神にもたれよ。

このたびは、どんな事でも真実に現われ出して、して見せることにする。
今話題とした、これ=出生の問題がどうなるかを見て、どんな者も得心をせよ。

人間の心次第に、神は、どんな自由自在の働きもみせる。
どんなことをするのにも、真実の心を受け取り次第に、みな、して見せる。

「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6

 「おふでさき」【第七号】口語訳(芹澤茂先生)

【第七号】

(教祖七十八才 明治八年二月)

月日が 三十八年以前に 人間世界に天降ったのは、元のいんねんによる。

月日は そのいんねんがある故に、何でも 委細を話したいから、話をして たすけの段取りを しているのである。
上(=世界の人々の上に立つ者) は、それを知らずに、何事も、教祖からの話を 世界並と考えている。

ここは 元なる ぢば であるから、“初まり出し” について 知らぬことはない。
上へ この真実を なるべく早く知らしてやろう と月日が思っても、上は それを知らずに、めいめいに わが身思案(=人間思案) をばかり思っているのが 残念である。

月日には 人間世界の行方が 段々 見えているが、その道筋に、怖い 危ない道がある。
それ故、月日は その道を 早く知らそう と思って 心配しているので、このことを よく考えよ。

人間の わが子を思うのと同じで、月日は 怖い 危ない道を 案じている。
それを知らず、一れつ(=世界中の人間) は、皆、わが身思案の上に従って、めいめい うっかり暮らして いずんでいる。 

この世界のことは、何でも 万事 一れつに 月日が支配をする と考えよ。
この話は、どういうことか と思うだろうが、これから先の 道を見ていよ。

“どんな高い山でも水がつく。谷底だからといって危ないことはない。”
何ごとも 月日が支配するのであるから、大きい 小さい などの人間思案は 問題にならない。 

これまでも 何でも 用木(=よふぼく) が欲しいから、大抵 尋ね(=探し)ていたけれども、このたびは、谷底に ちょっとした木(=人材) が たっぷり見えている。

この木も、だんだん 月日が手入れをして、つくり上げたら 国の柱になる。
それから後は、日々に 月日が 見定め(=見極め)て、あとの後継者としての 段取り だけをすればよい。
それには、まず、ひねた木から 段々と 手入れして 引き寄せ、そのあとの段取りを 付ければよい。

日々に、月日の思惑は深いが故に、いろいろ段取りをする。

同じ所に 二本も 三本も 見える。
この木(=よふぼく) については、女松男松(=男女の区別) は言わない。
どんな木でも 月日の思惑があって、引き寄せて 用いるのである。

この後に何の話をするか と言えば、よふぼくのもよう(=段取り) ばかり言うから よく聞き分けよ。

よふぼくでも、ちょっとのことではないので、五十人 六十人 という人数が欲しい。
この人数は いつまでも減らないようにして、また、末代に続き、切れ目のないようにする。

これ程まで考えている 月日の心の真実(=本心) に対して、皆の心は 何と思っているのであろう。
どんな口説き話をするのも、わが子をたすけたい という 一条の心からである。

一れつの 人々の胸の内が 本当に 早く分かった ということであるなら、それからは 月日が よろづを支配して、何でも よろづのたすけをする。

この よろづのたすけ については、今 この屋敷において、早く たすけの証拠として 珍しい利益を見せたい と考えて、月日の心は 急くばかりである。
何でも彼でも というこの急込みがある故に、まず第一に、胸の内より 掃除を急ぐのである。

この話は、どこのことか と思ってはならぬ。
皆 めいめいの うちの話である。

ほこりを掃除して、めいめいの 胸の内から しっかりと真実を出せば、直ぐに見える。
月日は、うちにおいて つとめの証拠を見せたい という この急込みがあるから、何かと 心がせわしい。
これ(=このつとめによる利益) さえ 早く 自由自在であることを見せたなら、月日の心も ひとりでに 勇んでくるのに。

今までも “今がこの世の初まり” と言ってあるけれども、何のことやら 分からないでいた。
このたびの 自由自在のたすけ によって、この話を 得心せよ。

今まで こんなことは 知らないであろう。
すなわち、月日が 体内に入込んで、自由自在のたすけを 皆 して見せるのだ。

これ程の 自由自在という真実 について話をするのは、今が 初めてである。
この先(=将来) は、いつになっても この道理と同じく、自由自在のたすけを 早く知らす。

そして 得心できるようにする。

今までも どんな道も通ってきたが、“をびやたすけ” の試し始めである。
このたびは、つとめによる “をびやたすけ” の真実であることを分からせて、早く このたすけをしよう と急いているけれど、一れつの者は、今まで知らぬ事であるから、皆 じっとして いずんでいる。

本当に 心を定めて願うなら、自由自在に 今の間にも 神はたすける。
このことは 誰も まだ知らぬことであるから、うちの者も 胸がわからないでいるのは、月日の残念である。

今までは どんなことでも 見えてない(=実現していない) けれども、これから先は 早く見えるようになる。

真実の心があるなら、何なりと 早く願え。
直ぐに 叶うようにしよう。どんな事でも 叶えられぬとは 言わない。今は たすけ一条を急込んでいるから。

これほど 月日の心は急込んでいるのに、そばなる者の心は なぜ いずむのか。早く 心勇んで 急込め。
月日は、これ(=つとめ) を待ちかねているのを 知らぬか。
月日は 自由自在の利益を 真実に 早く見せたい、これ 一筋である。

これ程に思う 月日の真実の心を 考えずに、そばの心は まだ 世界並の心でいる。

どのようなことを言っても、人間の心で 言っているのではない、月日の心である。
今までは、何を言っても 人間の心が混じるように思って、本当に 信頼していない。

しっかり聞け。
これからは 心を入替えて、人間心が あるとは思うな。

今までは、同じ人間であるように 思っているから、何も 分からんのだ。
これからは、何を言っても 何をしても、人間のする事である と決して思うな。

今までは、日柄も もう少し 来なかったので、何についても 控えていた。
この先は 控えずに言うけれど、どんな事を言っても、怖いとか 危ない ということはないと思え。

これからは、月日が 出張りをする。
そして どんな事でも “かやし” をしてやる。

だから心配は要らない。

月日が これまでに残念に思うことは、山のように 積もり重なっている。
どれ程、残念が積もっている と言っても、人間に どうせよこうせよ と言うのではない。

月日が出張ってかやし」をする。

これからは どんなに高い所にでも、この 自由自在のかやし」の真実を 早く見せたい。
これを見て、高い所にいる 上たる者の心が すみやかに分かったなら、それからは、月日が勇んで 自由自在のたすけを 早くするのに。

それと共に、月日が このつとめによる 自由自在のたすけの利益を 世界中へ 早く 一れつに知らしたなら、やがては 陽気づくめになっていく。

このたびの 孕んでいるのを、うちの者は、どんな考えで 生まれるのを待っているのか。
このことは、人並な事とは思うな。

これについては、月日は 大変な思惑がある。

この事の元から話をするなら、それは 六年以前(明治三年)に遡るので、三月十五日に迎い取りた子供がいるであろう。
その子を それから今まで、月日が しっかりと抱きしめていた。
早く 見せたい (=生まれ返したい)。

これが 月日の思惑であるのに それを知らず、うちなる者は、何もかも、世界並のように思っている。

この話については、いろいろ思っているであろうが、これが第一に、そもそも “今がこの世の初まり” であることがわかるための 段取りなのだ。

この事は この位にして、また先の 道の様態(状況) を段々と、万事につけて、皆、説いておく。

この次に生まれる子は、名前を “たまへ” と付ける。
この子を早く見たい と思うなら、月日が教える つとめの手を しっかり憶えて つとめをせよ。
この話を 真実と思うならば、心を治めて 早く とりかかれよ。

今までは 何を言っても、一れつの 人々の胸もわからないし、その日も来ないので、言った通りに見えて(=実現して)こなかった。
段々と 胸もわかれば 期日も到来してきたので、月日の心は ひどく 急込んでいる。

これ(=今話題になっているつとめの証拠) さえ 早く見えた(=実現した) ならば、これからの布教伝道において、かなう者は いない。
月日が、これを しっかり見せたなら、あとの布教伝道の仕事は どんな事でも 話通りに実現していく。

今までも、をびや許しや ほふそ(疱瘡)の守りなどの この許し(=許し物)を、皆は 何と思っていたのか。
このたびは、どんな事でも すっきりと、みな 本当の事を言って聞かせる故、よく 思案せよ。

これからは、をびや許しによるたすけも、しっかりと 切ないことなく、早く 産まれるようにする。
それには、段々と 口で何事を言っても、月日の言うように しなければならない。

何事でも、しっかり 月日が言うようにせよ。
月日の言うことに、違うことはない。
どんなたすけをするのも、みな つとめによるので、月日が言うように 確かに 実行するなら、たすける。

真実の心があるなら、月日の方も、しっかり請け合って たすけをする。
このたびは、たすけをするのにも、真実に請け合って たすけをするので、これは 今が 初めである。

これ程に 月日の心は 急込んでいるのだから、そばの者も、月日の言う通りに、つとめの拵え(=準備) をせよ。

この たすけをするもよう(=手段) は、どれとどれ というものではなく、どんな事も、皆 つとめによるのである。
そして つとめでも、同じことをするのではないので、みな 願いに応じて、それぞれ 違った手を教える。

今までの道すがら というのは、どういう道であったのか 知っている者はいない。
しかし これからは、どんな道でも 段々と、よろづ(=幾重の) 道筋を、みな 分かり易く言って聞かせる。

月日より 道筋について 何でもよく聞いて、聞き分けたなら、この、今 言っている残念というのは、無理ではない、当然である、と 分かるであろう。
月日が この残念という一条 を晴らしたなら、そのあとは 陽気づくめである。

日々に 陽気づくめになっていく というのは、どんな事か 誰も知るまい。
何もかも 陽気というのは 皆 つとめによるので、それ故、珍しい事を みな 教えるのである。

段々と つとめを教えることについての段取りは、まず、そばの者の心を 胸のうちより みな 掃除する。
掃除したあとは、神の話を聞いて 日々に 心が勇んでくるので、その時 よろづのたすけを現わす つとめ の手を付ける (=手を教える)。

このつとめはどういうものか と言うと、をびや(産屋)・ほふそ(疱瘡) 等を たすけるものである。
このたすけは、いかにするか と言うと、ほふそ(疱瘡) をしないように、との つとめを教えるのである。

この道を 早く教えよう と急込んでいるのは、このつとめによって 世界一れつの心を澄ますのである。

この話を どういうことに 聞いているか。
これは 世界をたすけるための もよう(=段取り) である。

どのような たすけ をするのも、真実の親(=月日) が 教祖をやしろとして居るから、みな 引き受けるのである。
このことについて、これこそ真実なのだ と思うなら、その誠真実を受け取って、心次第に たすける。

心さえ真実に澄んだなら、どんな事でも 違うことはない。
今までは、月日が どれ程思っても、そばの者の心は、心を澄まさないから 分からなかった。
心を澄まして 親を信頼せよ。

これからは、どんな つとめを教えるのも、人間の心で教えるのではない と考えよ。
月日は、つとめだけでなく どんな事も教えるが、これは、この世 創めてから 今までにない事ばかりである。
人間の心で思うようなことは、月日は 何にも言わない。

月日は、どんな事も みな 一れつの人々に教えて、陽気づくめにする。
世界中、みな 一れつが澄み切って、陽気づくめに暮らすことなら、これを見て、月日も確かに心が勇む、ということになるので、そうなったならば、人間であっても、みな 同じことである。

すなわち、この世界の人々の 心が勇むならば、月日も 人間も 同じことである

「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7

 「おふでさき」【第八号】口語訳(芹澤茂先生)

【第八号】

(教祖七十八才 明治八年五月 )

日々に、月日のざんねんが山のように積もっているのを晴らしたいと思っている。

この話は、月日の思惑として段々と説いてあるが、何でもみな、よろづのたすけという事である というのは 分かっているであろう。
真実の心次第にどんなつとめをするのも、これも、みな たすけである。

月日には、世界中の人間は 皆わが子であり、たすけたい との心ばかりである。
それなのに、差止められて残念な上に、またその後、取払いまでされるとは。

それ故に、たすけづとめが出来ないから、月日の心は なんとも言いようもなく 残念である。
つとめでも、月日がだんだん手を教え、その外、みな 教えていくのは 人間の心で教えるのではない。
どんな事をするのにも、人間の心がある と必ず思うな。

この所においては、いかなる話も 月日のすること、どんなもよう(=段取り)も、みな 月日のする事である。

どのような障りが身上に付いても、人間の心があるとは 決して思うな。

この世を初め出した月日であるから、どんな事も 知らぬ事はない。
世界中 一れつ(=人間)の胸の内は、月日の方へ みな写るのである。

それを知らず、みな 人間の心というものは、わが身思案(=人間思案) ばかりしている。
この先は、みな 段々と順を追って、真実の道を教えるから、順序通り よく聞け。

この世の初まり出しは 月日からである。
このたび 天保九年に、なんでも委細を みな教えかけて、この真実の道を創めた。
それ(=天保九年)までは、誰も、月日の真実を知った者はいないので、何でも 月日の思案だけで、陰から旬々に、聖者偉人に指図して 教えを説かしてきた。

きょうまでも、どんな事も 月日の教え、することと言ってあるけれど、まだ これがよく分かっていない。

しっかり聞け。
この世 創めた真実はこうである、と言って 話を説いてあるけれど、せかいには 誰一人知っている者はないので、何を言っても、わかり難い。

その筈である。
この世を創めてから 今までにない事を、段々と口説いているのであるから。

この世の 初まり出しの真実を知らしておかなければならぬ。
今までも “たすけ一条” としばしば言ってきたが、本真実(=本元の真実)を知らないから、たすけ一条も 真実の心で勤められない。

どのような事でも 月日が言うことであるから、これを真実と思って聞くなら、どんなたすけも 請け合う。
どのような事も 段々に言って聞かすので、これを まことと思って 聞き分けよ。

この世の 本元なる所というのは、この所より ほかにはあるまい。
この話をどういうこと(=変な話)と思うであろうが、どんな話も、みな 人間にしてやりたいから言うのである。
この世を初め出した真実を、みな 一れつの人間は承知せねば、たすけが 成就しない。

どのような たすけをするにも、人並の、人間心のような事は 言わない。
今までに見えている事や ある事は、そんな事を 言うのではない。

これまでにない事ばかり言って 聞かして、真実のたすけを するのである。
このたすけは どういうことかと言うと、ほふそ(=疱瘡)をしないように、との お守りを拵える。

また、をびやのたすけでは、月日の自由自在の守護によって 安産するはもとより、お産の時期も、何時にでも、延ばしたり 早めたりすることができる。
これは 皆つとめによるので、これ程の 自由自在の守護を言う約束をするのも、容易な事ではない ということを思案せよ。

月日の方は 大抵これくらいなら、という程 心を尽くしているのに、世界中は うちもせかいも まだ 世界並である。
この世を 初め出した本真(=根本)を言って聞かさないと、本当のたすけは できない。

この所、つとめの場所は、人間を初め出した所である。
また、人間を初め出したる親は、教祖をやしろとして 人間世界に存命でいる。
これが 真実である。

この話を “これは本当のことだ” と思うものは、どこの者でも 決して居ないであろう。
このような ない事ばかり言うのは、これが真実であり、まこと(=本当)であるからである。

今までも(=元初まりにおいても)、ない世界を創めた時には、知らない事を教えて 創めた。
この度、このたすけの道も、まだ これまでにない事や 知らぬ事ばかり言って、また 教えかける。

どのような者でも 知らぬ事ばかり、これを教えるのが 月日の思惑である。
月日は だんだん知らぬ事ばかり、何でも教えて 世界をたすけなければならないのである。

これ程に思っている月日の心配を、世界の者は 何も知らずに うっかりくらしている。

心さえ 月日がその真実を受け取る事ができれば、どんなたすけも みな 請け合う。
どんなたすけも、真実の親が 教祖を月日のやしろとして居るから、月日が言うのである。

この月日は、元なるぢばや、元なるの いんねんがあるので、自由自在のたすけができる。
この話を なんでこのように くどく言うのかと言えば、たすけ一条を請け合う元であるからである。

この元は、どこを尋ねてみても、知っている者は 決して居まい。
その筈であって、月日が 人間の体内に入込んで話をするのは 今が 初めてである。

この世界が、一れつ みな 見える月日があるから、どこの事でも 知らぬ事はない。
月日が 皆 それぞれ見定め(=見極め)て、善と悪とを 見分ける。

月日が なぜ このようにくどい(=くどく話す)かというと、行く末に あしき(=わるい事)が 見えているのが 気の毒であるからなのだ。
すなわち、段々と 恩が重なりその上は、放っておくと 牛馬に落ちるという道が、月日には 見えている。
気が付いて たすけを求めるなら、どんな者でも、月日は その者の真実の心を受け取ることができたなら、皆 たすける。

今までは、月日がどんな話をしても、人間の眼には 何も見えたことはない と思っているけれども、そんなことはない。
これまででも、みな 月日の言ったことは見えてきたのであるが、本元の 真実のことを知らないから 見えないのだ。

どうか、本元の真実を 知ってほしい。
この真実とは、
“雷も 地震も 大風も 水浸きも、これは 月日の残念立腹のかやしである”
ということなのだ。

この事を 今まで誰も知らぬから、このたび 月日が先に知らしておく。

月日には、みな 一れつの人間は わが子である。
可愛い一杯に 思っている。

それを知らず、一れつは 皆、めいめい 各自の胸の内は、ほこりばかり思案して ほこりが一杯に 積もっている。
このほこりを すっきりと掃除しないことには、月日が どんなに思っても、どうにもならない。

月日が 牛馬と見えるような 怖い危ない道筋を 案じているのに、めいめいは、何も知らずにいる。
どんな高い所の者と言っても、月日にとっては 皆 わが子であり、親は 心を尽くして子供を守護している。

それを知らず、親のすることを差止めて、また その上取払うとは、これは どうしたことだ。

月日は 今までどんなことでも、現われ出て、自由自在の働きを見せた事はないけれど、このたびは、胸の内から すっきりとほこりを掃除して、月日の残念を晴らさないことには、これから後のもよう(=段取り)が 立たない。

このあと、残念を晴らしたあとは、どんな者にも 一れつに誰でも、たすけたいという上からの手段を 教えるだけである。
そして この先は、たすけ一条に取り掛かったなら、どんな者も 心が勇むばかりである。

何ごとも 月日が一度言ったことは、違いそうなことはない。
それを 一度ならず今までも、くどい程 何編も説いてある。
それでも 心にわかりが付いていない。

しっかり聞き分けよ。
月日のやしろたる教祖を 同じ人間であるように考えているのは、これは 間違いである。
どんな事を教え掛けるのにも、元なる親でなければいけない。

今まで 何でも教えてきたが、皆 この道理によって 初め掛けて 教えてきた。
人間を創めた親が 教祖の外に もう一人、どこかに 現われて居るなら、尋ねていってみよ。

このように、今 話題にしているような 今まで人間の知らぬ事を、だんだん 順序を追って 言って 話して聞かしているが、これは 皆 本当のことである。
日々に 今までに知らぬことや ないことを教えるのが、月日の楽しみである。

この世に存命で居る、人間を創めた時の 親なる者(=教祖)に “天の与え” があると聞いているけれども、この話は 何の事か、ちょっとには わからないであろう。

これは、月日が ぢきもつ(=食物)をやろう というのである。
この話は、どういうことか と言えば、かんろだいに 平鉢を載せて、そこに渡す という話である。

この先は、あっちこっちの者に 身に障りを付け、月日がていれをする と思え。

教祖のもとに出てきたなら、わが身の 教祖の障りと引き合わせて、同じことなら その者を選び、また 屋敷のうちを 早く掃除せよ。
掃除した所を歩くと 立ち留まる所があるから、その者たちも 歩かせよ。
そこが ぢばである。

そこに かんろだい を据えるのだ。
そうした(=据えた)なら、それからは、手を揃えて 早くつとめにかかれよ。
つとめをすれば、みなの心も 月日の心も 勇んでくる。

こればかりは、どこを尋ねても、どこにもない。
これは、にほんのしんの柱である。

これさえ 確かに見えて(=実現して)きたならば、どんな者が向かってきても 怖れることはない。

何を言っても、話が真実である という証拠が見えないと、あとの布教伝道の段取りを付けにくい。
証拠が見えたなら、どんなに高い所の者に対しても、自由自在の話をすることができる。

「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8

 「おふでさき」【第九号】口語訳(芹澤茂先生)

【第九号】

(教祖七十八才 明治八年六月 )

今までは 何を言っても人間の心で言っていることのように思っていたが、このたびは、何を言っても人間の心があるとは、決して考えるな。

どんな事でも しっかりと聞いてくれ。
人間心は 決して混ぜない。
月日がどんな事もしっかりと言い掛けるから、これを よく聞いてくれ。 

月日がやしろとなる者を 二人共、別間に 隔てておいてもらいたい。
このことを勇んでしてくれたなら、それからは 何ごとも しっかり請け合ってたすけをする。
これを しっかりと見ていよ。

この先(=将来)は、ここで どんなたすけをするのも、みな 世界でのたすけを 請け合う元であるのだ。
それ故、どんなことを言っても、月日の言うことを “そんなことは出来ない” と言い消さぬように、しっかり聞いて 承知してくれ。

この先は、どんなに難しい病でも、みな 月日が請け合ってたすける。
人間に病というのは ないけれど、この世 創まりを知っている者は ないので、ほこりを積んで 病にもなる。

このこと(=“この世の初まり出しは月日である” ということ) を知らしたいから、その日を待っていた。

なので、その時期まで、段々と 人間の修理や肥として 医者や薬を教え、これらが 請け合って たすけを行ってきた。
これからは、何でも 万事 みな 説いて聞かすから、どんな事でも しっかりと聞くのだ。

これまで言うべき事は 大抵の話は 説いて聞かしたが、まだ 言っていない 月日の心の真実があるので 言っておく。
今日からは どんなことを言うやら 分からないが、よく聞け。

月日の心は 本当に 急込んでいる。
日々に 何を急込んでいるか と言うと、“月日がとび出るもよう(=段取り)” ばかり。

この話をしっかり聞いて 承知せよ。
このために どんなことをするか 知れないぞ。

この先の道の様態を しっかりと聞き分けてくれ。
これは 月日の頼みである。

月日がとび出た ということを聞いたなら、かんろだいを 早く出せ。
そのため、かんろだいを据える処(=場所) の「ぢば」を しっかりと 心積もりをしておけ。
これ(=ぢば)さえ 確かに 定めておいたなら、どんなことが 起きてきても、危ないことは ない。

“月日がとび出るところ” をちょっと(=簡単に) 話しておくが、それは “高い所や遠い所”  である。
その話(=将来このことが起きた時の話) を聞いたならば、一れつの人々は、“なんと月日は えらいものだなぁ” と、世界中 みな 段々と言うであろう。

その日が来たなら、人々の 胸の靄が 晴れるに違いないのだ。
そして その時は、月日の三十八年以前から 今までの胸のざんねん、すなわち 人間を見て 本当に 気の毒だと思っていたことも 晴れるのだ。

このたびは、どんなことも しっかりと、みな 一れつの者に知らす。
知らす といっても、何を知らすのか と思うであろうが、“元なる親を確かに知らす” のである。

このようなことを言い掛けて 元なる親を知らすのも、何のことか、その理由は 誰も知らぬであろう。
この世を 一れつに 皆 たすけたいから、この真実を 知らし掛けるのである。 

今までに ないたすけをするのであるから、元を知らさないわけには いかない。
今までも 知らぬ事を いろいろ教えてきたのは、つまりは、元なる親を 確かに 知らせるためである。
元なるの親を 確かに知ったならば、どんな事でも みな 引き受けてたすける。

この話は、誰が(=人間が) 言っていると思うなよ。
月日の心で 言っているのである。 

よろづよの 世界一れつを 見渡してみよ。
病にも いろいろある。
このたびは どんな難しい病でも、請け合って たすける事のできる 家伝を教える。

また これからは、確かに たすかる薬味を 言って聞かすから、何を言っても 承知してくれ。

このたびの 悩むところは 辛いであろうが、これを越したあとのところは 楽しみがあることを よく知れ。
このことについては、先より(=前もって) 精一杯ことわりが 言ってあるではないか、それを 思案してみよ。

どんなことをするにも、先から ことわって 取り掛かるのが 月日の仕事である。
この話は どういうことに 思っているのか。
月日が 自由自在のたすけを 知らしたい故、段取りをしていることである。

真実にこの一条(=一点)を早く見せたいと、月日の心は急いているけれども、傍の者にどれ程月日が頼んでも、聞き分けがないというのは、なんというざんねんなことか。

どんなことを言っても、今のこと(=眼の前のこと) など 何も言ってはいない。
先を見通して 話をしているのだ と思え。
段々と(=順序を追って) 何の話をするのにも、先の(=将来の) ことばかり言っておくのである。

これからは 何の話をするか というならば、かんろだいの話 という一条(=一点)である。
今あるかんろだいというのは、ちょっとの雛形としてだけのもので、これから 段々 しっかり かんろだいのもよう(=段取り) について 言って聞かすから、よく 承知してくれ。

まず、この台の形状であるが、下の段から言うと、真中を 少し彫り込み、差し渡しを 三尺にして、六角(=六角形) にせよ。

今までに いろいろ話を説いてきたのは、この台を据える 段取りについて の事ばかりである。
これさえ しっかり据えておいたなら、何にも 怖いことも 危ないことも ない。

けれども、月日の指図でしたことを、これを 止めるようなことなら、わが身の守護が 止まるような 怖いことになる。
やがては、これ(=かんろだい) を見て、“本当に真実結構なことだ” と、“これこそ月日の教えである” と、みな 言うようになる。

将来、この台が出来上がったなら、直ぐにつとめをするので、その時は どんなことでも叶わぬ ということはない。

この台も いつ どうせよ とは言わない。
出来上がったなら つとめをする。

これ(=かんろだいを据えること) さえ決まり、つとめに取り掛かる ということになったら、どんなことでも 叶わぬことはない。
よく 見ていよ。

確かに 月日がぢきもつ(=食物) の与えを しっかり渡す。
それは どんな事でも、確かに本当だ という証拠がないと、いざという時 危ういことになるからである。

これからは どんな事も だんだんと細かく説く。
これに背かないように、確かに 実行せよ。

この話は 何を言うのか と思うなよ。
かんろだいのもよう(=段取り) という事についての話である。

この台も、だんだん上に 十二段積み上げて、また その上は 差し渡し 二尺四寸の台とする。
その上の所に 平鉢を載せておいたなら、そこに 確かに ぢきもつ(=食物) を与えよう。

ぢきもつ(=食物) を誰に与えるか というなら、この世 初めた時の親である 教祖に渡す。
天から与えを貰う 教祖の心に思うところは 誰も 知らないであろう。

月日が しっかりと 心を見定めてから ぢきもつ を渡すのである。
月日は、これを 教祖に渡しておいたなら、あとは 親(=教祖)より 心次第に 渡すであろう。

「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9

 「おふでさき」【第十号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十号】

(教祖七十八才 明治八年六月 )

真実の心を月日が見定めて、天から渡す与え というのは、ちょっとした事とは 決して思うな。
天の月日には 深い思惑がある。

この話はどういうことか と言うと、から・てんぢくまでも 人々の心を澄ましていくという思惑である。

さて、この心をどのようにして澄ますか というと、月日がとび出て、あっちこっちと方々で、まず、段々と様子を見て、月日が体内に入込んで、自由自在の働きを仕掛けるので、その働きによって 心が澄むのである。

そうしたなら、どれ程 “からはえらい者や” と言っても、にほんの者(=布教伝道者)にかなわず、話を聞かないわけには いかない。

このように 月日がとびでて働く故、日々に見えてくるところによって 、このことを得心せよ。
いつ何どき、どんな話を聞くやら わからないぞ。
どんな話を聞いても、“これは 前もって月日の言われていたあの話だな” と思わねばならぬ。

これからは、にほんの者は段々と、月日が引き立てていくので、これを見ていよ。

それについては、にほんの者に何もかもどんなこともみな教えて、知らないことがないようにする。

また、にほんには柱(=かんろだい)を立てておくので、こうしたならば、“病まず・死なず・弱りなき” ようになって、にほんの治まりとなる。

今までは、からは偉い者やと言って、幅を利かして、ままに(=自由に)していたが、今度は かやしをする。

この かやしの話は、誰にどうしろ とは言わない。
月日がとび出て ままに(=自由に)する。

これまでも、月日がいることを知らぬ者はないけれども、本元の月日の真実を知っている者は いない。
このたびは、どんなことも、本元の真実を にほんの者から言って聞かして、たすけを急ぐのである。

この月日がとび出て働く日柄(=旬)はいつ頃か と言うと、“田の修理終い次第” であると言っておく。

その旬が来たら、それからは、何か 思い掛けぬような 珍しい道になる。
つとめの人衆も、みな 寄って来る。

段々と かんろだいも出来、つとめによって、日々に 心が勇んでくる。
そして、“なんと大和は えらい(=大した)豊年ではないか”、というようになる。

日々に、早く つとめを急込めよ。
つとめによって、どんな災難も みな逃れる事が出来る。
どんなに難しくなる病でも、つとめ一条で
皆 たすかるのである。

つとめと言っても、どういうつとめをするのか と言えば、かんろだいのつとめ という一条(=一点)である。

この かんろだいを どのように思っているか。
これは、にほんの親であるのだ。

これさえ 誠真実に思うならば、月日がその心を見分けて、みな 引き受けて、どんな守護もする。
月日が引き受ける と言うからには、千に一つも 違うということはない。

この(=今話題にしている)話を、どういう事として 聞いているのか。
この かんろだいのつとめ というのは、ちょっとした つとめ と思ってはならない。

この つとめのために、てをどりの三十六人の人が ほしい。
鳴物の人を含めて、十九人のかぐらづとめの人衆が ほしい。

本当に、心を定めて 思案せよ。
取次の者には、このことを しっかりと頼んでおく。

この台を拵えようとして、段々に 順序を追って、月日は 人衆の段取りをしている。
人衆が しかと寄ったならば、そのまま(=直ぐに) 台も出来るのである。

この道は、どういうことかと言うと、月日が つとめの手を教えておいて、それから にほんの者に これを仕込んで、これを 月日が一れつ(=ずっと) 世界中に連れて出たならば、やがて ひとりでに出来てくる。 

これさえ 確かに出来たならば、月々のつとめも 間違いなく出来る。
つとめさえ 違わないようになったなら、天の与えも 違うことはないので、やがては 陽気づくめになる。

この道は、誠に 真実難しい道であるから、皆 よく思案せよ。 

この つとめの人衆は、どこにいるか 知らないであろう。
月日が見分けて みな 引き寄せる。
どんな所の者といっても、月日が 自由自在の働きをして見せる(=引き寄せる)。

段々と 人衆が揃った上で、真実をみて 役割をする。
役割とは何か というと、まず かぐら十人と、あとは 鳴物九人。
これさえ 早く しっかり揃ったなら、どんなことでも 出来ないことはない。

今日からは、だんだん文句が変わってくる(=話題を変える)。
今までに 知らない話ばかり言うから、よく聞け。

今までも、どんな道(=様々の教え)もあるけれど、みな 月日が教えたものである。
月日が 大抵 何もかも、だんだんと 旬々に教えてきたけれども、このたびは また その上に まだ人間の知らないこと、すなわち 本元の真実を 何でもみな 言って聞かせる。

これまでは、からは偉い者や と言って威張っていたが、これも 月日が教えてきたものである。
このたびは 月日が元へと立ち返って、木の根(=本元の真実)を しっかり みな 現わす故、にほんの者は これを よく知らねばならぬ。

この世の 元の真実をしっかりと知っている者は、どこの者でも 決して居るまい。
真実に、この元なる真実の事さえ しっかりと知っていれば、月日に連れられて どこへ行ったとて、自由自在に 話ができる。

この話を 何と思って 聞いているか。
月日は、これ(=本元の真実の話)を 取次に 仕込みたいのである。

それについて、どんなことを月日が考えているか と言うと、“人間の元” についての話を、まず 世界中へ知らす事である。
早く この真実を 一れつに、にほんの者から 知らしたならば、この世の元の如き話についても 話がわかる。

神の話というものは、どれほど 話を説いて聞かしても、元を知らしておかないと その真実は わからない。
元さえしっかりと言っておけば、何を言っても、みな 聞き分けるものである。

元の話とは、“この世の地と天とは実の親、それより出来た人間である” という、かしもの・かりものの話である。

これからは、からもにほんも 知らない事ばかり言うから、しっかりと聞いて よく記憶しておけ。
どのような事でも、聞かれて “知らぬ” と言わないように、みんな一れつに、にほんの者に仕込みたいから。

日々に 月日の心に思っていることは、この屋敷に出てくる 多くの人の胸の内を分けたい ということである。
この、人々の心が どうしたならばわかるであろうか、どうか 早くこれを分けたい。

そして、この者たちが 布教伝道して、だんだんと 世界中が真実に 胸の内がわかったならば、どれ程の 月日の楽しみであろう。

それからは、一れつの 胸の内がわかったなら、月日は それより、だんだんと 日々 心をいさめ掛けて、やがて だんだんに 陽気づくめを皆に教えていき、陽気ぐらしの世界にする。

世界中から出てくる 多くの人の胸の内を みな 澄ましたことであるなら、それからは、月日の心が勇み出て、どんなことでも、月日は真実に、みんな、この者たちから 一れつ世界中に教えて、人間が 陽気ぐらしするようになるのを 見たいからである。

このような思惑がある故、真実の心の者が ほしい。

月日は どんなことでも仕込みたいから、この話を聞いて、何を仕込むのか と思うかも知れないが、これから先の いろいろな道筋を 仕込むのである。 

今日までは、どんな事も見えてないけれど、その日(=旬)が近付いてくれば、ひとりでに 現われて見えてくる。

身上に どんなことが現われてきても、ただの病と 思ってはいけない。
何でも このような現われは みな 月日のていれ(=手入れ)である。

月日は、日々に 心が急込んでいるから、病だけでなく、どんなもよう(=段取り)もするか知れないから、これは皆、手入れである と考えよ。

急込みといっても、何の事かわかるまいが、月日は、かんろだいのもようばかりを 急込んでいる。

日々に 身の内(=体)に障りが付いたなら、“これは 月日のていれ(=てびき)であるのだなあ” と考えよ。
これを 一つの教理として 教えておく。

さて、段々と 世界中をよく見てみると、気の毒であるから、文句を変えて、次のようにしたい。
思案してみよ、そうすればわかるが、口でどんなことを言っても、言っている事が本当である という確かな証拠が なければいけない。
それ故、月日が体内に入込んで、自由自在の指図をして、口で言い聞かせる話が本当だ と信じられる証拠を 見せることにする。

それ故に(=証拠があることを示すため)、上述の教理のように、今まで どこにもない事ばかり 前もって言っておいて、刻限を待って 初め掛ける。

今までも、人間の聞いたことのないことばかり言っているが、これも、みな 月日の教えである。

このたびの話題になっている かんろだい というのも、これも 今まで知らぬことである。
どのようなことを言うのも みな 月日の心からであって、知らぬことを 教えたい。

そこで 一言言っておくが、“この屋敷にかんろだいを据えるのは、人間を初め掛けたという話の証拠である。”
何ごとも、皆この通り(=この道理で) 先に教えておいて、それから初め掛け、世界中の心を澄ますのである。

日々に でも 世界一れつをいさめるもよう(=段取り)ばかりする。
やがて、段々と 世界の人々の心が勇むならば、立毛(=農作物)も、一緒に みな 勇み出る。

この 世界一れつの心が、どうして勇むようになるか というと、月日が 人足を連れて出て勇むようにする。

それまでに、あっちこっちで どんな話も、段々に、みな 聞くであろう。
どんな話を聞いても、それは みな先に 前もって 言ってあることであるから、その場合には、今の この話を よく思案してみよ。

“月日は 何を(=変なことを)だんだん言われるなあ” と思うであろうが、これは、先の楽しみだ。

何ごとも 月日の心に思うであるが、特に思っているのには、にほんに こふきが欲しい ということである。
にほんにも こふきを確かに拵えて、それをひろめたら からの者は、にほんの者の 思うままに 話をわからせて、勇ますことが出来る。

この話(=こふきをひろめ、世界の人々をいさましてたすける話)を、皆の者は 何と思って聞いているか。
にほんの者は、みな わが事と思って 思案すべきものである。

それ(=月日の心からしているたすけの段取り)を知らずに、なんと思って 上たる者は差止めるのか、全く 胸がわかっていない。

これは、月日の残念である。
この所で、どのようなこふきを実行しても、これは皆、にほんの宝であるのに。

一れつの心を定めて 思案せよ。
そして、早く こふきが出来ることを 待つ心になれ。

真実のこふきが出来たならば、どんなに難しい事でも、月日は ひろめる。
月日が ひろめをすると言っても、皆の心には 承知(=納得)は出来まい。
それ故に、取次に しっかり頼んでおくから、承知していよ。

この日柄はいつか と言えば、刻限が来たならば、いつ何どき 月日が どこへ行くか分からないが、その日は もう近い。
日々に 取次の人はしっかりと、心を静めて、早く こふきを拵える事に 取り掛かれよ。

この道は、皆の者は どんなことと思っているか。

ちょっとには分からぬ道 と思うかもしれないが、月日は、何でもかでも、真実の心をしっかり持って、どんな困難も 通り抜ける心でいるのだ。
この道が 上にまで抜けたなら、自由自在の働きをする。

月日が この今まで話してきた働きを 仕掛けた(=初め掛けた)なら、どんなに剛的(=剛の者)といっても、心から真実が分かり、心も澄み切って、どんな事についても をや(=月日)に もたれるようになる。

そうして この先(=将来)は、世界中は どこまでも 陽気づくめに 皆 なるようにする。

段々と これまで説いてきた この道筋の様態は、みんな わが事と思って 思案せよ。

「おふでさき」【第十号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10

 「おふでさき」【第十一号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十一号】

(教祖七十八才 明治八年六月 )

胸先へきびしくつかえてきたなら、これは月日の急込みである。

この先は、一れつ世界の者に段々と、身の内障り(=病)がみな付くであろう。
どんな障りが付いても案ずるな。
月日の心には大変な思惑があって、手入れしているのである。

身の内に障りが付いても、月日がめいめい(=各自)の心を分けるのだという事を思案せよ。
真実に神を思う心と、めいめいの思案ばかり思っているのとを。

月日は、どんな心でいる者も、このたびは確かに分けてみせる。
どんな心もしっかりと見ているので、月日はこのたび皆分ける。

口先の追従などは不要である。
心のまことを月日は見ている。

これまでもいろいろ話を説いたけれど、本真実が見えていない。

今日の日は、何の話をしたとしても違うようなことは言わないが、嘘と思っている。
月日が一度言っておいたならば、いつになっても違う事はないのである。
それを知らずそばの者の心は、誰でも、月日の言葉を世界並のように思っていずんでいる。

このたびの悩むところで得心をせよ。
みな(=関係者)の心も、めいめい(=当事者)の心も。

この事(=悩むこと)について、月日の自由自在のたすけの方に違いはないが、皆の心に承知しないという心違いをしている限りはどうにもならぬ。

一れつに(=全部)承知をしたということになれば、月日は請け合って確かにたすける。
このたすけは、どんな事に思っているか。
三日目には外に出られるようにしたい。

これまでも月日の話であると言って、段々と話を説いてきたけれども、まだ芯(=肝腎)のところは全く分からないであろう。
このたびは、どんな事も分かるように表にあらわす。

すなわち、月日の話でも、いつも同じ所で(=教祖から)言うならば、何か人間心からの話であるように、皆の者が思う心であっては気の毒である。

このたび、所を変えて(=こかんから)話をする。
これ(=両方からの話)を聞いて、どんな者でも得心をせよ。
月日の自由自在の働きは、皆この道理である。

体内へ月日が入込んで自由自在の話を言っているけれども、承知することはできないであろう。
それ故、この先は、精一杯だんだんと、このように断っておいてから取り掛かるのである。

月日が表に現われ出るといっても、段々と何でも前もって言っておいてから始め掛けるのである。

このたびの悩んでいるのを病だと思っているが、これは違う。
こればっかりは、病なぞと思うな。
月日が自由自在のたすけを知らしたいからしている事である。

何もかもどんな事も知らせるというのは、これから先の思惑があるからなのだ。
この、こかんに対する思惑の話は、どういう事かと言えば、先のことは万事月日が引き受けている。

月日が引き受けるというのも、元のいんねんがあるからである。
いんねんといって、どんないんねんかというなら、この者は人間を創めた元初まりで道具になった者の魂である。

この者に、月日が万事の仕込みをする。
それによって珍しいたすけをするのである。

このこと(=たすけについての事柄)は、ちょっとした事とは思うな。
これが、にほんのこふきとなるのである。

“あれまぁ、お屋敷に帰らせて、これ程なにもすきやかにたすかる事を早く知っていたなら早く返したのに”
という事になる。

月日には分かっているのにそれを知らず、
“なんでも行かせず、このとこ(=櫟本)で養生させておこうと思っていたなあ。こんな事(=早くたすかること)を早く知っていたなら、切ない事もなく心配もなかったのに”
という事になる。

人間は浅はかなものであるから、月日の言われることに背いてしまった。

これからはどんな事でも、月日にもたれ付かなければならない。
どんな事をするにも、月日にもたれていれば危な気はない。

こんな結構な道筋を知らずにいたのが、後の後悔となる。
この先はどんな事を言われても、月日の言われる事は背かない、という心になれ。

月日がやしろとなるようにと言っている者(=こかん)の胸先がつかえているのを、何と思っているか。
このつかえは人並のものと思うな。

これについては、月日の心は本当に心配である。
それ(=重大さ)を知らず、一れつ皆の者は各自、わが身思案で他人事のように思い、自分の仕事しか心にない。

月日には、行く末どうなるか、どんな道も見えている。
世界中は(=うちもせかいも)それを思わずうっかり暮らしている。

この行く末の道を、わが子(=人間)よ、一れつは皆、思案せよ。
どんな道があるか知れないのだよ。
どんなことでも、先へ(=前もって)知らしておくから、後で後悔しないようにせよ。

こんなこと、何を言うのかと皆の者は思うであろうが、月日は、子供(=人間)が可愛い上から口説くのである。
たすけのために、世界中からお屋敷に寄せた多くの子供の胸の内がわかるもよう(=段取り)はないだろうか。

このような事をくどくどと言うのも、人間の行く末の道を案じている上からである。
人間をたすけるために、これからはどんな事も言って聞かせるので、これを決して嘘と思うな。

このたびの月日の仕事について、しっかりと聞け。
人間の都合の悪いような事は、何もしない。

何とかして珍しいたすけを教えたいので、そこで取り掛かった仕事である。
これを思案して、今までと心をしっかり入替えて、陽気づくめの心になれ。

この心は、どうしたらなれるかと思うであろうが、月日が体内に入込んで、胸のほこりを掃除したなら、日々にひとりでに心が勇んでくる。
どうか陽気づくめの心になれ。

月日は日々、世界中の心をいさめかけて、世界中を陽気づくめになるようにする。
この話を何と思って聞いているか。
世界中の人間を皆たすけたいという、たすけ一条のもよう(=段取り)ばかりを急いている。

月日はどんな事も見ている。
何を言ってもみな承知せよ。

今年から七十年は夫婦共に、病まず、弱らずに暮らすことができるなら、それ以上の楽しみはあるまい。
これ(=この話)をまことと思って楽しんでいよ。

月日は、今までどこにもないことばかり言うぞ。
これを承知して聞け。

このようなない事ばかり言うけれど、先を見ていよ。
皆まことである。

何ぶんにも珍しいことをするのであるから、どんな話もない事ばかり。
どんなにない事ばかり言っても、先を見ていよ。
必ず見えて(=実現して)くるのが不思議である。

今の悩んでいることは、辛いことであるが、これから先は、心に楽しみのある道に出る。
このような話は、これまでくどくどと言ってきたが、これが末代のこふきになるのであるから、口説いてきた。

こふきと言うが、月日がこのたびここ(=元の屋敷)に現われて、どんな事も話をするのは、どのような事でもだんだん(=順序を追って) 世界中に知らしたいので、そのために、にほんのこふきをみな拵えるという事である。

この世の初まり出しは、大和の国の山辺郡の庄屋敷である。
その内に中山氏という屋敷があり、そこに人間を創めた時の道具になった者が見えている。

この道具は、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみことの神名を付けられた道具の魂の者である。
月日は、それ(=その魂のいんねん)を見澄まして(=見極めて)天より天降り、そして、こふきを拵えるために何でもよろづを仕込むもよう(=段取り)をしている。

この所で何をするにも、どのような事をするのも、みな月日の心でするのである。
どのような事を言うにも、みな月日の心で言うのである。

そばの者は、真似をしてみよ、真似はできまい。

この世を創めてから今日までは、本元の真実を言ったことはない。
今日の日は、どのようなことについても、真実を言わねばならぬようになるから気をつけていよ。

めいめい(=各自)は “何を言っているのだろう” と思うな。
月日が思うように言うのであるから、これから言うこともよく聞き分けよ。

いつ何どきに親里へ帰ってきても、めいめいの心あるとは決して思うな。
月日はいんねんをもって寄せるのである。

寄せているのであるが、どのような者も芯(=心の底)から得心をさせて連れ帰るので、これを見ていよ。
どれ程の剛的(=剛の者)であるとか、発明(=利発聡明な者)でも、月日の心からする事には、これはかなわない。

「おふでさき」【第十一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,11

 「おふでさき」【第十二号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十二号】

明治八年 陰暦 十二月二十七日より (=陽暦 明治九年一月二十三日) 

今日からは 世界を月日が見定めて、胸の掃除に かかることにする。
この掃除には、うちも せかいも 隔てなく、めいめい(=各自) の心を みな 現わす。 

明治九年 陰暦 三月十四日より 

今までは、神の残念に思うこと、それは、山のように 人間の胸に ほこりが積もっているが、情けない(=嘆かわしい)ことに、日柄も まだ ちょっと来ていない(=早い)ため どんなことも 言うに言われなかった。

このたびは、月日が ほこりの積もっている真実を見兼ねるので、どのような事も みな 現わして掃除する。
すなわち、今日の日は、どれ程 わが身勝手に威張って ままに(=自由に)していても、月日は 体内より 退く(=守護できなくなる)のである。

陰暦 四月四日より 

この話は、何のことかと言えば、にほんも からも てんじくも 人間の心を澄ましていく、という事である。
そのために、これからは 世界中を一れつに、みな 月日が掃除をするので、これを 承知していよ。

これまでも 月日が 段々に 精一杯ことわりを言ってあるけれど、口先で言っただけでは 確かに 承知する(=聞き分ける)者はないので、止むを得ず、ほこりを掃除して 心を澄まさねばならない。

陰暦 四月五日 

今までも 月日は、段々と 精一杯 心を尽くしているけれど、世界には、知っている者は誰も居ない。
そのために ほこりを積んでいるので、どうも このたび 旬が来ては、月日は 致し方ない。

それ故、世界中をどこまでも、前もって ことわっておくが、月日は、掃除のために 体内から しりぞく(=守護ができなくなる)のである。

陰暦 四月十二日 

今日の日は、何の話をするか と言えば、よふぎ(=用木)の 初めの事ばかり言う。
よふぎでも、その人は誰それである と言わないが、もとは一本でも 枝は八本 というように、それからそれと 沢山になる。

この木を 早く接ぎたい(=神一条の心定めをさせたい) という急込みによって、月日の胸が つかえきっている程である。
この木も、一枝をしっかり接いだなら、あとなる枝は みな 早く定まる。

何もかも、月日の言うことは しかと聞け。
そして 心に定めを付けたなら、それからは 身の内の悩みは 全くなくなるので、だんだんに 心は 勇むばかりである。

それを知らずに、皆の心は 誰でも、世界並のような事ばかり言う。
このところを(=教祖の言動については)、世界並とは 思うな。
月日の心より する事ばかりである。

陰暦 四月十四日 

今日(=きょうの日)になっては、月日の心の残念は、もう 容易なことではない と思え。
人間は 浅はかなものであるから、見えた事ばかり言い、眼に見えない月日のすることを知っている者が 居ない。

だが 思案してみよ、月日は 何ごとについても、これまで 段々と前もって言ってある。
これは 承知しているだろう。

今までも、月日の残念については、何でも 大抵 口説いてきたので、その話によって 眼に見えているはずであるのに、世界では、誰も これ(=月日の心尽くし)を知っている者が居ない。

月日の心の残念を よく見よ(=知れ)。
このたびは、ことわった上にまた口説き、その上に、さらにことわっているのだ。 

どれほど口説き、ことわりを言っても、誰も 聞き分けする者はない。
それ故に、だんだん 日柄が経つけれど、いつになったら “これだ” と言って、心に得心して分かる という目当てがない。

それ故、今日の日には、もう 節(=旬)が来たから、月日が出掛けて 胸の掃除にかかる。
これを みな 承知せよ。 

この先の道すがら(=道程)を 言って聞かそう。
どんな事を言うか、その内容は 分からないであろう。

日々に 月日が何を言っても、そのまま見えてくる(=眼に見えるように実現してくる) のが “これは不思議だ” というような事である。
月日が どんな事を言うか、人間には 分からないであろうが、言った通りになるので、それで どうかして 先に知らしたいと、ことわりばかり 言ってきた。

(さあ 今は、ことわりも ちょっとの事というのではない。
どんなに大変なことが見えてくるか 分からないぞ。

どのような事が見えるか 知れないぞ。
月日は、まことに気の毒である とは思っているが、どうしようもないのだ。

いつ何どきに見えて(=実現して)くるのか 分からぬ。
月日の心は 残念の思いで積みきっている (=これ以上支えきれない)。

いつ、「かやし」が現われるのかと、これ程 月日の心は心配しているのを、そばの者は何も知らずに居る。
そばの者は、わが身思案で 自分の仕事ばかり考えている。

「かやし」が見えてきたなら、文句が変わるぞ。
どんな事でも 先へ(=前もって) 知らしておくから、後で 後悔のないようにせよ。
先へ知らすのも、月日は この世を創めた神であるので、どんな事も 見えているからである。

このたびは、どんなことも 時旬が積みきって(=切迫して)いるので、もう 抜き差しならない。
すなわち、今までは どんな事を言っても、まだ じっくりとして(=差し控えて) いたけれども、今日の日は、横目をつかう間ほどの ちょっとの油断もするな。
いつ何どき どんな事があるか 知れない。

今までに 筆につけて書き留めたことわり(=予告)が、“さあ見えてきた” ということになる。
そして、人々の心は勇む。

これさえ 見えてきたならば、一れつは、どんな者でも、やがて 段々に 陽気づくめになるのだ。
この、陽気づくめの心になるのだ ということを、どうか早く 一れつは 承知してもらいたい。
これは 月日の頼みである。

今日からは 珍しいことを言いかける。
何を言うのか、ちょっとには 知れないだろうが、よく聞け。

この話については、何を言っても 背くな。
これについての 神の思惑は 大変なものがあるのだから。
すなわち、これから後の話は、山のような 神の残念を晴らす段取りである。
 

この先は どれ程難しい病でも、いきと てをどり 等のさづけによって 皆 たすける。
どんなに難しくなる病でも、“これは治らぬ”  とは言わない。

ただ 今日までは、日柄も刻限も来ていなかったため、違っていた(=見えなかった) ところもあったけれど、これから 段々に 説いておくことは、どんな事も 違うということはない。

これまでの道すがらというのは、本当に 難渋な道であったけれど、この先の道は 何でも気が勇む。
“どんな珍しい道があるか” と 楽しんでいよ。

とんとん 飛び出るような 予期しないことを見ても、“これは月日が前もってことわって(=予告して) おられたことだ” と考えて 心に案ずるな。
そのあとは、万事 月日が引き受けて、いついつまでも 陽気づくめにしていく。 

今までは、どのような話をしても、いつの事だろう と思って 聞いていた。
“やれ、怖いことだ、聞くより早く もう見えた” というようになる。

どんな事でも 油断はできないぞ。
この先の道は、日々 心が勇むようにしていく。

どんな事でも、言えばそのまま 直ぐに見えてくる。
しかし、残念が現われてきて どんなに難しい事情であると見えても、陽気づとめによって 皆 たすける。

これからは、月日の方は どんな仕事をするか と思うであろう。
心次第に どんなことでもする。

すなわち、月日は だんだん 心の残念を、どんな事でも みな 晴らすのである。
どんな事を言うのも、みな 月日の心からであり、どんな仕事をするのも 月日の心からである故、何をするか 知れないぞ。

教祖には いかなる事も見えるので、これは、みな 月日の心であるからなのだ。
人間心がある と思うな。

今日からは、どのようなことも急込んで、どんな働きをするか 知れないが、みな 月日の働きと思え。

今なるの 月日(=教祖)の思うことは、口は人間の口で、心は月日の心である。

しかと聞いておけ。
教祖の口は、みな(=何事につけても) 月日が借りていて、教祖の心は、みな月日が貸しているのである。

この事ばかりは、うらみ(=疑いの心) があるならば、どんな事についても 月日が 皆 かやしをする。
そして 必ず 疑いを晴らす。

どのようなことを言うのも みな 月日の心のままであり、人間心は 少しも混ぜない。
教祖より言われることが どれ程 難しいように思っても、これは 皆 月日が引き受けるので、案ずることはない。

この先の道を 楽しめよ。
一れつ世界中は、神の残念を晴らしたなら、どんな珍しい道になるとも分からぬ。

日々に、胸の掃除にかかったなら、どんな者でも にほんの者に かなう者はいない。
この掃除は どういう事であるか と思うだろうが、月日が 体内に入込んで働いて、掃除するのである。

この話は、どこの人の話か と思うだろうが、高い所や遠い所で、心を みな 現わして掃除するのである。

何もかも 月日の言うことはよく思案せよ。
何を言っても違いはない(=言う通りに見えてくる)。

月日は、世界中一れつの人間の心を澄ましたい上から、どんな事をするかわからぬぞ。
どんな事をしても、みな、たすけたい との一条の心からである。

それ故、 この先を しっかり見ていよ。
月日は 話通り働くので、一れつは (=うちもせかいも) みな 胸の掃除が ひとりでに出来ていくのである。
この掃除が うちにおいて すっきりとしたならば、そのまま 直ぐに 守り拵えに取り掛かる。

この道(=胸の掃除の道) を月日の心は 日々 急込んでいるけれど、誰も知らない。
この道に 早く付いた(=着手した)ことなら、どんな者も、みな 段々に勇むのである。

この話を、誰がしている と思うな。
月日の心から 言っているのである。

この道を急込んでいるのは、この世の真実(=真実の事)を 世界中へ、どんなにしても 知らしたいからである。

今日までは、“一日なりと”  と言って日を延ばし、どんな事を見ても 控えていた。
このたびは、もう 日が詰まってしまったので、どうしても 控えることが出来ないのである。

これからは、何どきに どのような事を聞いても、これは 月日の残念・立腹の現われなのだ、と思え。
月日には、どのような者でも 皆 わが子なので、可愛いばかりで 見守ってはいるけれども、もう じっとしては いられないのだ。 

今までは、世界中は一れつに、めいめい(=各自が) 思案をしてはいるけれど、情けないことには、どのように思案しても、“人をたすける心” がないので たすけが出来ない。

“これからは 一れつは 心をしっかり入替えてくれ”  これが 月日の頼みである。
この 心を入替えるとはどういうことか と言えば、世界をたすける一条(=一筋) の心に すっかり 入替えるのである。

この先は、世界中は一れつに、よろづ(=万事) について “互いにたすけ” をするならば、月日も その心を受け取って、どんなたすけも すると思え。

このたすけは、“どんなことであろう” と思うだろうが、ほふそ(=疱瘡) をしないように確か 請け合う。

また、このたすけは、立毛(=農作物) が一れつに どこまでも、いつも 豊作になる手段を 教えたい。

この道(=手段) を早く 一れつに仕込もう と思うけれども、一れつ(=皆) の心に わかりがない(=胸が分かっていない) ので、それが 出来ない。
世界中に、どこにも隔てはない のであるから、一れつは、このことを よく 思案してくれ。

“互いにたすけ” によって、真実に 心に定めが 皆 ついて、神の言うことに背かない ということになる。
そのようになれば、それからは、月日の心が しっかりと 受け取り次第、うちにおける つとめのたすけを 急込むのである。

このたすけは、ちょっとのこと(=軽い話) と思うな。
これは にほんの 一の(=特に大切な)「こふき」と なるものである。

これさえ 早く しっかり実現して見せたなら、どんなに 高い所の者であっても、こればかりは 人間業でないから、月日の 自由自在の働きに対して “背くことは出来ない” と考えるであろう。

そうなったなら、どんなに 高い所においても 真似は できないであろう。
これを よく 思案してみよ。

この思惑のために、月日が つとめによって、“病まず死なず弱らないように” との証拠を 早く出そう と思うけれども、一れつ(=皆の者) は疑って、誰でも 月日のすることを 世界並のことと思っているので、それが 出来ない。

この所(=教祖) には 人間心は全くない。
月日の思うことばかりである。

そのことを、これは 今まで 誰も知っている者のない 事柄であるため、分かっていない というのが 神の残念である。

この心を、どうか 真実一れつの心を、澄ますもよう(=方法) が ないだろうか。
心さえ澄んで、早く 月日の言うことが分かった という事になれば、そのまま直ぐに 証拠を出すのに。

今までは どのような嘘も 聞いていたが、もう これからは 嘘は聞かない。
これからは、嘘を言ったら、その嘘を言った者が 嘘になる(=真実の守護がなくなる) ということも、これを よく承知していよ。
月日は、誠真実の者がほしいので、 嘘と追従は 大嫌いだ。

この先になったら、そのような心の者からは、月日の守護が しりぞくのだ。
このように言ったら 本当にそうなってしまうので、それ故に、口に言わず、黙って 一日なりと日を延ばして、大抵のことは 見許していたのである。

このたびの “早く証拠を出したい” と言っているのを、何と思っているか。
証拠も、どういうことか と思うであろうが、身の内(=体)について 確かに 試しをする という事である。
この 試しについては、本当に 月日の残念は 容易なことではない と思え。 

身の内に、どこにも 不足のない者であったのに、月日が思惑の上から、足をいがめて 苦労を掛けたなあ。
年限は 三十九年も 以前(=天保九年)で、それ以来、心配、苦労、悩みを掛けてきた。
そのために、月日の言うことを 何事も疑っているが、無理もない点もある。

このたびは、この 胸の内をすきやかに掃除して、疑いを晴らす段取りをするのが、第一に 必要である。
この心を 月日の方へ しっかりと付けないことには、どんな話も 進んでいかない。

どんな事をしたのも みな 月日である。
このような事は、誰も知らない に違いない。

今日の日は、横目をつかう間もない程、早く 証拠を出して見せる。
これを見たならば、どんな者でも 月日の言うことを 得心せよ。

何の話も 皆 この通り(=道理)で、証拠をもって話を分からせるのが 月日の働きである。
今までの この つとめによる証拠を早く出せない残念 というものは、口で言うような 生易しい事では ないのだ。 

今までは、山のような 残念の道を通り抜けてきたが、このたび、これ(=残念) を晴らして、つとめの証拠 を見せることができたならば、そのあとの布教伝道では、さづけによって どんな病も、つとめによって いかな事であろうが、皆 たすける。

この世と人間の元を 世界中へ知らしておいたことなら、それからは どんなたすけもするので、例えば、一言 言ったまででも、皆 たすける、それ程の たすけをする。

これまでは、段々と 口説き・ことわりを言ってあるけれど、芯が 分かっていない。
この芯とは、どういう事か と言うと、胸の思案が 第一に 大事なことである。

何についても 胸(=考えていること)と 口(=言っていること)とが違っては、神の心に適わない(=合わない)。
本当の心が 神の心に適わなければ、どれほど心を尽くした と言っても 受け取れない。

こればかりは、いかに 誰と 相談したって、胸に思案して 真実の心にならなければ、とても 神の心に適わないので、月日の守護が しりぞくほかはない。

何ごとにつけても、神の言うことを しっかりと聞け。
神の言うことは 何を言っても 違う(=真実でない)ということはない。

本当に 珍しいたすけを教えたいので、そこで、どのような事も 言って聞かしているのである。
月日は、この世を創めてから まだ無いことを、どんなことでも教えたいから くどく ことわりを 言うのである。

よく聞け、この世の本元である真実を しっかり 承知しなければいけない。
この元というのを、しっかり知っている者は、どこの者でも さらに 全くないのだ。

このたびは、本元の真実を言って聞かすので、何を言っても しかと承知せよ。

この屋敷において、人間を創めたとき 道具となったのは、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、月よみのみこと、くにさづちのみこと、くもよみのみこと、かしこねのみこと の名を授けられた者が、第一の道具である。

それから、をふとのべのみこと の名を授けられた者は、立毛を守護する働きを現わした 第一の道具である。
次に、たいしょく天のみこと の名を授けられた者は、世界の鋏(=ハサミ) のように切る守護を現わした 第一の道具である。

これまでは、守護の働きを現わす道具を 一切 みな寄せて、どのような道も 通り抜けてきた。
この先は、寄せた道具を見分けして、仕込むもよう(=段取り)を急ぐだけである。

この者は “どこに居るか” と思うな。
直ぐそばに、歳は十一で、二人いるでないか。

この人(=者)は、人間創め掛けた いざなぎのみこと の道具と、立毛(=農作物) 一切の守護の をふとのべのみこと の道具である。

今日の日は、どのようなことも言うが、何を言っても 承知してくれ。
今までも、神(=月日) の思惑で話したいことが 幾つかあるけれど、その日が来ないもので、控えていた。
段々と 日が切迫してしまっているので、どんなことも 言っておくから、よく 覚えておけ。

これまでは、どこの人でも みな 同じように、月日が何を言っても 疑っていて、しっかり聞いていない。
このたびの話は、本元の 真実の話であるから、これに背いたなら(=しっかり聞かないなら)、直ぐに、その「かやし」があるぞ。

世界には、雨を欲しい と思ったとしても、この元なるものは何であるか を知らないであろう。
この元をしっかり言い掛けるから、どんなことでも 承知するなら、雨の守護を現わす。

(陰暦) 六月二十八日五ツ刻より話 

今日の日は、この世を創めてから 無い話をする。
何を言っても、これを 聞いてくれ。

“この世は神の世界” と言ってはいるが、どんな事でも「しん」は知らない。
この「しん」を 誠真実に してみせる。

これを見たならば、みな 得心をせよ。
どのような事をするのも、みな 月日の心からである。
何を言うのも、みな 月日の心からである。 

このたびは、この世を創めてから 無い事を、どんなことでも みな 現わす。
すなわち、月日は 体内にこもっていて、どんな仕事をするか 知れないぞ。

どんな夢を見るのも 月日の働きである。
真事(まこと=思い掛けぬこと)を見るのも 月日の働きである。

この世の 水の元である事を、まだ これまでは 言ったことはない。
このたびは、本元の真実である 水の事 について、どんな話をするか 知れないが、よく聞き分けよ。
この元を、確かに言い掛けるから、世界並な言い方では 言われない。 

今日からは、どのような事も 言い掛ける。
何を言っても しかと聞け。

無い話を仕込むのは、この先 日々に、高山は 段々と どんなことを頼み尋ねてくるか分からぬからである。
そのとき 説き聞かすための 元になる話をしているので、これさえ 見えてきたなら、どのような事が起きてきても、危ない事は 決してないのだ。

今日の日は、何の話をするか 分からぬが、どんな事も 承知してくれ。

めいめいの心と 身の内(=体)について、どのような事も しっかりと現わす。
これを見たら、どんな者でも 真実に、胸の掃除が ひとりでに出来る と言っておく。

このたびは、どんな事でもすっきりと、現われ出して 皆 して見せる。
体内に何があるか、どのような者でも 知っている者は あるまい。

この話は何か と言うと、月日の働く仕事であって、これを よく 見ていよ。
月日は、人間の心次第に、何をするか 分からないぞ。

今日の日は、何も知らないで、誰でも 世界並で うっかり暮らしているが、明日の日には、どういう道を通るようになるか というと、しんの心が 現われてくるのである。

この心が現われて出てきたならば、誰でも 月日の言うことに 背くことはできない。
これを見たなら、どんな者でも 真実の心から、頭を傾けて、みんな 思案をするようになる。

さあ、思案すべき日が 来たぞ。
この、月日の言うことに背かぬ、という心さえ しっかり定めがついたことであるなら、どんなたすけもしよう。

この話は、まったく 月日の心だけから話すので、人間心がある(=混じっている) と思うな。
このことを、真実である と思って頼めば、一れつに(=どこの者でも)、どんな事でも 守護を現わそう。

「おふでさき」【第十二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,12

 「おふでさき」【第十三号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十三号】

明治十年 陰暦 四月二十八日 九ッ刻より 

今日までは、何かにつけて 心配をしたけれど、明日の日からは 往還の道に出る。
すなわち、今ままでは、どんな難渋な 通りにくい道筋も 見えているから、ことわり (=予告) ばかり口説いた。

しかし この先は、確かに 月日が請け合うから、どんなことが起きても 危ないことはない。
段々に、どんな 思い掛けない話を聞いても、世界を楽しめよ、これは 残念を晴らすための 月日の働きである。 

これからは、月日が出掛けるので、月日の働きは、何をするのか 誰も分からぬ。
月日が 日々に 世界のあちこちを よく見ていると、一れつの子供 (=人間) はいじらしい程、心配して 努力している。

月日は、段々と どんな事についても、子供をたすけるもよう (=段取り) を本当に急いでいるのである。
それ故、これまでは、ことわり (=予告) ばかり言っておいたが、もう これからは、ことわりはない (=直ぐに働く)。

明治十年 陰暦 五月五日 

今日までは、何も知らないで、人間の心で 思案するばかりで、心配をしていた。
それも 無理はないが、これからは 心をしっかり入替えて (=人間心をやめて)、神にもたれて 陽気づとめをせよ。

そうしたなら、そのまま直ぐに、しっかりと つとめの利益を現わすから、これを 見てくれ。
これ (=つとめ) さえ、確かに その利益が 見えてきたなら、後は、いつでも みな “かんろだい” というようになる。 

この先は、月日が 一度言った事には、どんなことも 背くことはできない。
月日が 言ったことを消す (=否定する) ならば、その者から 守護が、直ぐ しりぞく事になる と承知していよ。 

今までは、うちにおいても 世界においても、真実の心に (=心の奥底に) 分かりが 全くない としか言えぬ。
月日は、第一に これが残念である。
分かるように、何とか これ (=この心) を澄ましたいものだ。

この心は、どうしたなら 分かるようになるか と言えば、何でも、意見しなければならぬ。
意見といっても、少しの人ではない。
多くのよふぼくの胸を 意見して澄まし、分かるようにするのが 難しい。

どれほど難しい事といっても、めいめい (=各自) の子供 (=人間) を 意見する。
この意見する もよう(=手段) を どうしたらよいか。
なんでも 神の残念を 現わすほかはない。

日々に 神の胸には、段々と 残念の埃が 一杯 積もっているけれども、この埃を 掃除するのは 難しい。
うちの者が つとめなりとも、早く 取り掛かったなら、と思っている。

心さえ その真実を 神が受けとれば、どんな埃も(=神の埃も人間のほこりも)、みな 掃除するのである。
また、段々に、うちから世界へと 一れつの胸の内さえ すっきりと 掃除してしまったなら、それからは 世界中は 気が勇んできて、陽気づくめの世界に、ひとりでになる のである。 

しっかりと聞け。
高山でも谷底でも、見れば 月日の子供ばかり 一杯である。

人間も、一れつ 誰でも、自分の子供は 可愛いかろう。
その子供が 埃にまみれ、いずんで 暮らしているのを見ている 神の残念を 思ってくれ。

これまでは、どのようなことを見ても、神の方では じっと黙って見ていた。
このたびは、もう 日が詰まって (=切迫して) いるから、どんな事でも みな 言うので、よく 聞き分けよ。

月日の方から 世界中を見渡してみるが、元初まりを 知っている者が いない。
この元 (=元なる真実) をどうかして 世界へ教えたいため、そこで 月日が現われて出たのである。

このたびの 月日の残念というのは、容易な事ではない と思え。
月日は、この真実を 世界中へ どうしてなりと教えたいから 話をし、段取りをしている。
それを知らず、月日の言う事を みな 消して (=否定して)、後は 人間心だけが はびこっている。 

この先は、月日の残念・立腹を みな 晴らすが、これを 承知しているか。
月日の方で 残念・立腹を晴らして、珍しい つとめの証拠を 見せたならば、そのあとには、珍しい道をつける。
この、珍しい道とは、どういうこと と思うか、“よろづ(=万事につけて)互いにたすけ” ということだけである。 

世界中 “互いにたすけ” をするならば、月日も、その真実の心を みな 引き受ける。
月日が 心を引き受けるからは、どんな事についても 働きをする。
月日の働きも 沢山あるから、どういう事 と思うかもしれないが、善と悪とを 分けるばかりである。

明治十年 陰暦 五月十六日より 

今日までは、どんな悪事といっても、わが身に知っている者は あるまい。
この 悪事の心について、神が 真実を言って聞かすから、みな 一れつの者は、よく思案してくれ。

世界中 一れつの人間は みな 兄弟姉妹である。
それを知らず、他人のように考えるのが 心違いで、 他人という事は 決してないのである。
この元 (=元なる真実) を知っている者がいないので、それが、月日の 全く 残念に思うところだ。 

高山に 暮らしている者も、谷底に 暮らしている者も、同じ魂である。
それから (=この世に生まれて) 段々と (=日々) つかっている道具 (=体) は、みな 月日からの貸物 (=かしもの) である。
それを知らず、みんな 人間の心では、なぜか、人間に高低がある 思っているが、これは 心違いである。

月日は、この真実を世界中へ、どうかして しっかりと 承知をさせたい。
これさえ 確かに 承知したならば、むほんの根は 切れてしまうのである。

月日は 真実に思っている、高山の戦いさえ 治めたならば、と。
これを 治める段取りとして、どうしたならば 治まるだろうか。
陽気づとめ をするようになったなら、治まっていくのである。

この話をしている 教祖の心について、誰が言っているのか と思うな。
月日の心ばかりで 言っているのである。
このつとめによって 治まることは、高山の戦いの如きものでは難しい と思うかもしれぬが、神が しっかりと 引き受ける。

このたびは、どんなことでも 真実に 確かに請け合って 働きをする。
神が出て 世界中を働くから、どんなつとめをしても 怖いことはない。
必ず たすけるから 安心していよ。

しっかり 聞いておけ。
今までは、“高山はえらい者や” と言って 谷底の者が ままに (=自由勝手に) されたことであったが、これからは、月日が 代わりに出るから、高山の者は ままにしよう というなら、ままにしてみよ。

今までとは 文句が違うぞ (=そうはいかない)。
これから先は 神のままである。

月日が 天より天降った事についての心は、何のことを思っているのか 誰も知るまい。
第一には、立毛 (=農作物) を作るのをたすけたい、肥一条を教えたい ということである。

この肥が どうして効くか というと、人間の 真実の心を 神が受け取ったなら 効くのである。 

今までは、真実を 神が言ってあるけれど、うち(の者) からして 疑うばかりである。
このたびは、何を言っても 疑うな。これを疑えば 月日はしりぞく。

この事は あくどい程、何遍も 言っておく。
これを疑えば、本当に 後悔する。
月日が 一度言っておいた事は、いつになっても 違うことはない。

今までは 月日が どんなことを言っても、みな 疑って 言い消すばかりであった。
月日は 第一に これが残念である。

なんでも これを しっかり決める。
すなわち、これからは、月日の言うことは 何でも背かない というように、神に もたれよ。
そうしたなら、神の方も 真実をもって 確かに 引き受けて “働きをする”。

反対に、月日が これほど口説きつめるのであるから、心違いをするならば (=疑えば)、直ぐに “しりぞく” ことになる。

真実に 心に まことがあるならば、どんなたすけも 違うことはない。
この先は、立毛の肥が 違わないように、どうか しっかり 承知してくれ。

明治十年 陰暦 九月十九日 より 

今日からは 月日の思うことを、どのようなことも みな 言い掛ける。
今までも 大抵の話は説いたけれど、月日の思惑は まだ 言っていないことがある。

これから どんな話をしても、これを 決して 嘘と思うな。
月日の心は 急いているから、どのようなことを言うか 知れないが、よく 聞き分けよ。

この心に あることを どういう事に 思っているか。
にほんも からも てんぢくまでも、この間、道程が 余程あるけれども、一夜の間にも 働きをする ということである。

月日が働きに出る というこの話を、人間の方は 何と思っているのだ。
人間は 月日のかしもの であり、皆 わが子供である から、月日は 自由自在に働いて たすけるのである。

いつまでも 月日が じっとしていれば、いつになっても 治まるめ (=目標) がない。
それ故、月日が 出掛けて働くが、どこへ出るかは 知る者はない。

世界中の 人間の心を澄ます というのであるから、ちょっとのこととは 決して 思ってはいけない。
大変なことになって どのようなことが 起きても、めいめいの 胸の内を 澄ましたならば、決して 危ないことはない。

段々と 月日が 日々に 思惑としていることは、まず 多くの人を 待つことである。
この人を どういう事のために待っているか と言えば、一れつに わが子 (=人間) をたすけたいから である。

そのため、月日が働いて 今年には、どんな 珍しい道筋が 見えてくるかもしれないから、まず 人が寄るのに 気を付けていよ。

口先で なんぼ真実を言っても、誰も 聞き分ける者が いない。
それ故、月日はこのたび、どのようなことでも真実を皆して見せるということにする。

これについて、どんなことをしても、人間の心が混じる とは 決して思うな。
月日は、真実に 余り 見兼ねるから、そこで どんなことも するのである。

よふぼくは どれほど剛の者でも、若い者でも、これが 頼りになる と決して思うな。
このたびは、神が表へ現われて、自由自在に話する。

また、どのようなことも、月日が真実する (=真実を現わす)。
この働きによって 人々は、胸の内より 掃除ができて ひとりでに 澄み切るのだ。

このことについては、今までは、一れつは みな 人間の心ばかりで 思案していたが、このたびは、どのようなことについてでも、人間心の思案は 全く 要らないのである。

何もかも、どのようなことも 言っておく。
何を言っても 嘘と思うな。

高山で どのような者が 幅を利かしていても、この真実 (=月日がよふぼくと共に働くこと) を誰も知るまい。
月日は、どんな所に居る者でも、胸の内 (=心) をしっかりと見ている。
胸の内が 月日の心に適ったなら、いつまでも しっかりと踏ん張る (=守護する)。

月日が 日々 心に急込んでいるのに、そばの心には 何も わかっていない。
急込みとは何のことか と思っているだろうが、立毛 (=農作物) を作れば 水が欲しかろう。

この話を みな 一れつの心に、何と思って 思案しているか。
月日は 第一に、これ (=立毛を作ること) をたすけたさに 日々 急込んでいるので、そこで どのようなことも 言うのである。

何もかも 月日が いかほど口説いても、本当のことと思って 聞いてくれる者が いない。
それ故、月日の残念・立腹が山のように積もり重なっている。

今までは、月日 (=日柄) が来なかった故 じっとしていたが、このたびは もう 日が詰まってきているから、どんな仕事も 早く掛かる。
この先に、月日の残念が現われて どんな道があるとしても、人を恨むことはない、わが身うらみ である。

この話は、どこのことを言っている ということはない。
高山でも 谷底でも どんな道が 現われるか、一れつは みな 気を付けよ。

どのようなことを言うのも、わが子を たすけたいからである。
そこで、いろいろ 口説きつめた。

この先は、何を言っても、どのようなことでも、悪いことは 言わない。
真実のたすけばかりを 急くから、そこで だんだん 意見したのである。

真実に 心を澄ました上は、たすける段取りを 早く教える。
このたすけは、どういうことか と言うと、ほふそ (=疱瘡) をしないように とのお守りを拵える つとめ のことである。
また、たすけは、病まず・死なず・弱らない という証拠守りを 早くやりたい。

何もかも、よろづたすけ を急くのであるから、心次第に どんなことでも たすける。
一れつは、みな めいめいの胸 (=心) 次第で、どんなことでも、願いが叶わない ことはない。

雨乞いも、今までは 神が真実を明かして 言ったことは 何もないが、このたびは、どんなことについても、尋ねてくるなら 真実を みな 言って聞かせよう。
月日の方では、何が叶わない とは言うまい、みな めいめいの 心次第である。

「おふでさき」【第十三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,13

 「おふでさき」【第十四号】口語訳(芹澤茂先生)

 【第十四号】

明治十二年 六月ヨリ 

どのような 変わった夢を見るのも、月日の働きである。
変わったことを 何か言っても、みな 月日の働きなのだ。

月日は 日々に心が急込んで、いろいろ働いても、それを見て そばの者の心は いずんでしまうばかりである。
いずむのも、どうしていずむのか というなら、その元は、上たる者が 何も真実を知らぬからである。

その上に、世界の者は、それを知らずに、何ごとにつけ、みな 従っている故に いずんでいるので、そばの者も 世界並になって いずむのである。

月日には、第一に これが残念である。
そこで、どんな事でもするので、どうかして 勇むようにしたい。
月日が、日々 心急いていても、口では どうも言うに言われない。
それ故、夢でなりとも にをいがけをしている。

早く 思案をしてくれ。
月日には この残念というのは、口で言うようなものではない。

今日までは、どんな話も 段々と いろいろ説いてきたけれども、何を言っても、日柄や刻限が来ないために、何も 人間の眼に見えたことはないので、そのために、何を月日が言っても、みな疑って 言い消すばかりである。

月日には、第一に これが残念である。
これからは、何でも これを しっかり現わす。

今までは、どんなことを言っても、直ぐに 見えたということはないが、このたびは、三日のうちに 段々と 世界においての話として、何(=どんな話)を聞くか 分からぬ。

これからは、日々に 月日は働くので、どんな仕事をするか 知れない。

この世に “かまい” とか “憑きもの” とか “化け物” などが在る とは 決して思うな、みな 月日の働きによって 人間の心が 現われてきたものである。

今までに、月日の残念が 山のように積もってあるのを、みな 晴らす。
この晴らしは、どのようにして晴らすか というなら、月日の心にあることを、皆、して見せる。

今日までは、この世 創めてから 日が随分経ったが、月日の心にある真実は、まだ 知るまい。
どのようなことでも 月日のすることである。

どんな事が起きて、たとえ それが病でも、ただの病ではない。
身の内に どのようなことをしても、病ではなく、月日の手入れである。
世界では コレラと言っているけれども、月日が 残念を知らしているのである。

世界中、どこの人でも みな 同じように、月日が手入れをすると 心がいずんでしまうのであるが、これからは 心をしっかり入替えて、陽気づくめの心になってくれ。

もともと 月日が人間を創め掛けたのは、人間の陽気遊山を見て 共に楽しみたい故である。
世界では、この真実を知らぬから、皆、どこまでも いずむばかりである。

月日が、特に、陽気づくめと言って たすけの段取りをしているのを、これを 止めたなら、月日の残念は 大変なことになる。
この話を どうか しっかりと聞き分けて、早く 思案をしてくれるよう、と、言っておく。

今までは、 “月日” と言って説いたけれど、もう今日からは、 “をや” と名前を変える。

今日までは、大社や高山が 幅を利かして、ままに (=自由に) していたのであるが、これからは、親が代わって、ままにする。
これ(=親のすること) に背いたならば、直ぐに「かやし」をする。

今日までも、親の残念というのは、ちょっとのことではない と思え。
また、このたびも、まだ世界では 何ごとにつけても、上に立つ者は 幅を利かしていて、親の心など 何も知らずにいるのだ。

人間も 子供は可愛いであろうが。
それを思って、親の思いを 思案してくれ。

日々に、親の思案というのは、わが子をたすける段取りばかり思っている。
それを知らずに、世界中は、うちも世界も、何か悪いことのように思っている。

何もかも、親の残念を よく思ってみよ、
何も分からぬ子供に、親が 意見をされているのだぞ。
これからは、どんな所の者の意見でも、親が出ているのだから、受ける事はない (=必要はない)。

このような意見については、どのような者が 幅を利かして言ったとしても、言ったと思えば、直ぐに その者から 親の守護はしりぞいてしまう。
しりぞくも働きをするも、どのような仕事をするのにも、先より 精一杯ことわって (=予告して)おく。

今日までは、どんなことも 日々に 心配したけれども、明日からは、どんなことを見たとて、また、何を聞いても、楽しみばかりである。
これまでは、高山から、何もかも、どんな指図も受けたけれど、この先は、どのようなことを言われても、親の指図があるから、決して 受けることはない。

今までは、日柄も ちょっと来ていなかったので、どんな事についても、じっ としていた。
もう 今日は、その日が 十分に詰んで (=迫って) いる。
どんなことでも、そのままに(=直ぐに)する(=実行する)。

それ故、これからは、親の思うことだけが 大事なのだ。
一言 言ったら、これに違いはない (=その通りになる)。

世界中一れつは、皆 どこまでも、どんなことがあるか 知れない。
どのような事があっても、真実の心次第で、怖いことはない。

心さえ すっきりと澄んだことならば、どんな事でも 楽しみばかりである。
この話を疑う心があるならば、承知して(=心に納めて)おるがよい。
どんな道があるか わからぬぞ。

世界中の人間は、親にとっては、みな 子供である。
子供可愛さの余りに、何を言うやら 分からぬ。

この世界は、高山も谷底も、をやにとっては 子供ばかりである。
その子供に、このたびは 何でもかでも、真実(=本当) の親の心を知らしたいのである。
これ(=親の心) さえ確かに承知したならば、いつまで この世に居ても、陽気づくめである。
この道(=親の心を知らせる布教伝道の道)は、親の頼みである。
一れつは、どうかしっかり承知してくれ。

今日までも、どのような道も 段々と 通り抜けてきたけれども、これからの道は、なんでも 珍しい道となる。
この、今の道を通り抜けたなら、それから 親の心が勇み出て、どんなことでも 初め掛ける。
これさえ 初め掛けたなら、どんな者でも、親に もたれるようになる。

この道を付けようとして、今までは、仕拵え(=準備) をしてきた。
どんな者でも、親が これからどんな働きをするか、まだ知らないであろう。

さあ、取り掛かれ。
もう これからの道筋は、どんな所の者に対してでも、危ないことはない。

今までは、うちの者にも いろいろと心配を掛けてきたけれども、明日からは、親が先頭に出るから、どんな事に対してでも、「かやし」をしてやる。

さあ 今日は、何の話も、段々と 細かくよふぼくに言え。
もう その節(=時節) である。

何でも、言わずにいては 分からないので、何でも委細を、みな 言って聞かせよ。
この話は、何のことか知るまいが、親の働きを みな 言っておけ。
働きといっても、何のことか知るまいが、世界の人々の心を、みな現わす ということである。

これを現わし出す というのも、どうするか言うと、めいめい(=当事者) の口で みな 言うように、親が 仕掛ける。
どのようなことでも、わが身の口から言うことなら、是非はあるまい (=仕方ないだろう)。

これからは、めいめいが 何も言うまいと思っても、親が入込んで言うように、仕掛ける。

この先は、どんな者でも、真実に 胸の掃除をするように、みな 仕向けていく。
この掃除は、どうしてするか と思うだろうが、親は子供に、どんな意見をするか 分からない。

どのような事があっても (=起きてきても)、案じることはない。
すべて、子供を可愛いと思う 親の意見である。

口先で なんぼ真実を言っても、聞き分けがない とは、なんという親の残念か。
それ故、親が体内に入込んで、どんなことをするか 知れないぞ。

身上に どのような せつない事が出てきても、病ではない。
親の 残念の現われ出たものである。
この話は どこのこととは言わない。
人間は、親をやにとっては、皆、わが子である。

真実の親の残念が出たならば、この治め方は 誰も知るまい。
これについては、誠真実の心があるならば、どんな事でも 言って聞かせる。

どのようなことを言うか 分からないが、これに背いたなら、親は 直ぐにしりぞく (=守護がなくなる)。
これまでは、何をしても止められて、背くばかりのことであったから、親の残念が 積もったのである。

今日の日は、親が どのような事をしたとしても、また、何を言ったとしても、背かないようにせよ。
この (=今話題の) 道は、くれぐれも頼んでおくが、これについては、親が引き受ける故、案じなくても 良いのだ。

このことは、何の事か と思うな。
つとめの鳴物を、早く 出来るようにしてほしいのだ。

もう今日の日は、どんな事をしても、何も案ずるな。
みな、親が請け合う。

今までは、上は 何も知らないから、差止めばかりして、意見などもしてきたが、このたびは、どんな剛の者でも、親の言うことに 逆らえない。

意見を言うような心であるなら、親はしりぞく(=守護がなくなる)。
この事を、早く しっかりと心定めして、早く つとめに取り掛かれよ。

何もかも、みな、早く つとめの仕拵え(=準備) をせよ。
親の請け合い であるから、危ないことはない。

このことを心定めをして、思案して、早く つとめの人衆のもよう(=段取り) を急ぐ。
早々と、心が揃って しっかりとつとめをするなら、世界は治まる。

「おふでさき」【第十四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,14

 「おふでさき」【第十五号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十五号】

(明治十三年一月より)

 今日までは、何のことでも じっくりとして 言わずにいたことであるが、もう今日は、何でもかでも 言うのであるから、親の残念を 思ってくれ。

今日までは 何を言っても 人間の心を言っても、承知して 従ってくれ。

このたびは、どんな ためし をするか 分からないが、これで しっかり 心を定めよ。
この話は、誰のこと とは 言わない。
皆 めいめい(=各自)の 心定めである。

どれほど 身上(=体) に 切ないことがあっても、親が 踏ん張ってたすけるので、このことを 承知していよ。

これからは 心を定めて、親の言うことを しっかりと 承知してくれ。
身上は 案ずることはない。

明日からは、親が働きをするから、どんな者でも 背くことはできない。
親の働きというものは、今までも 四十三年以前から、親が現われて 初め掛けて、今日まで 働いてきた。

今日までは、大抵 残念なことも 幾たびも、じっと 我慢 していたことであるが、さあ 今日は、月日(=親) の腹が はじけてしまった。
控えていたが、もう 控えてはおれない。 

今までは、村(=村方) であるから と思って、じっくりと(=黙って) まだ 治まって(=働かないで) いたけれども、このたびは どのような所の者も、どのような心でいる者も、見定めをつけて 直ぐに働く(=掃除をする)。

しかし、これほど残念が積もっているが、心次第によっては 皆 たすける。
どれほど 残念が積もっていても、親は 踏ん張り切って 働きをする。

今日の日は、何を言うか 知れないが、よく聞け。
親の残念に思うことを 皆 現わすぞ。

すなわち、今までは 人の心の真実を知った者はいなかったが、さあ 今日は、どんな者でも 真実の胸の内を、確かに 現わす。
これさえ 皆 現わしたことならば、胸の掃除が ひとりでに 出来る。

今日からは どんな話を仕掛けても、何を言っても 承知をしてくれ。

段々と これから 何を言うか、これは 分からない。
どんなことでも 思惑をする上からの 話である。

今までは 四十三年以前(=天保九年) から、足を悩めて、そのままにしてきた。
これが 心配であった。

このたびは、何でもかでも、これを 元通りにして返す。
この話について、何を 月日(=親)が 言ったとしても、どんなことで
も 背かないようにせよ。

これからの 親の頼みは こればかりである。
他のことは 何も言わない。

このことを頼む とは、何を頼むのか と思うであろうが、つとめ一条 のことだけである。
この つとめ は  “これが この世の初まり” と言っているであろう、これさえ叶ったことなら。

さあ 今日は、親の言うことは、何ごとも、そばの者は 心に背かぬようにせよ。

そばなる者が 心違いをすれば、やむを得ない (=「かやし」を せねばならない)。
そこで、くどく 言っておく。

心違いについては 今日の日は まだ、どういうことが現われてくるか、どんなことでも、世界には 知っている者はいないけれど、親の眼には はっきりと 見えているのだ。
どんなことやら、誰も 知るまいが。 

親の話は、この世を創めてからを見ても、今までは 誰でも 知らぬことばかりである。
世界中へ そのことを教えたいから、それで 段々に 順序を追って どのようなことも するのである。

それは、 何もかも どのようなことも言っておいて、それから 親が 働きをするためなのだ。

その働きも、どんなことか 知るまいが、世界中は 親のからだ(=体) であるから、世界中で  自由自在に働く。
その 思惑の上から、今までの 親の 残念を知らしたさに、そこで このたびは、どんなためしも 皆 して見せる。
うちでも世界でも、どのようなことをするやら 知れないから、皆 一れつは 承知していよ。

このたびの 残念口説きの この話を、みな 一れつは 何と思っているか。
この元は、四十三年以前(=天保九年) から、大変な(=重大な) ためし が掛けてあるのだ。

これさえ しっかり承知して、つとめができたなら、その他 どんなことも 叶わないことはない。
世界中 みな 一れつ人間を たすけるために、そこで このためしは 大変なことなのだ。

今日までは、どのような道も 通り抜けて、その間 じっとしていたけれども、もう 今日は、何でもかでも、真実を してかかる(=真実が現われるように働きかける) ので、承知していよ。

そうなれば、今までと 道が ころっ と変わるのである。
みな 一列は 心を定めよ。

この道は うちも世界も 隔てなく、世界中の 胸の掃除をする道になるのである。
その時、この ためし が 大変重要になる。

この世を創めてから 今日までは、本真実(=本元の真実) を言ったことはない。
今日の日は 本真実を 言い掛けるから、どうか しっかり 承知してくれ。

この話は 何かと言うと、四十三年以前(=天保九年) から 大変な ためし が掛けてあるということ、これ一条(=一筋) である。
この ためし は何のこと と思うか、つとめ一条(=つとめによる珍しいたすけ) を急くための 段取りである。

この つとめについて、どういうことに 思っているのか。
鳴物を入れて つとめること、人衆を揃えること のもよう(=準備) を早くせよ。

この つとめは、どんな者でも 十分に 思案せよ。
これを止めたならば、わが身も 止まるぞ。

この つとめをする ということは、この世を創め掛けたも 同じことである。
元初まりにおいて、親は ない人間を 創め掛けたのである。

このたびも これ(=つとめ)さえ 初め掛けてつとめ の試しをし、証拠ができたことなら、これからの道において いかなる たすけ も、皆、親は 請け合う。

それ故、このこと(=つとめをすること) は、しっかりと 承知をしなければならぬ。
これを止めたならば、直ぐにしりぞく(=守護がなくなる。)

今までは、“高山や” といって、けんけんと(=威張って) ままに(=自由に) していたことであるが、これからは どれ程 高い山でも、谷底を まま にすることは 決して 出来ないぞ。
なぜなら、この先は 谷底には 段々と 多くの用木(=よふぼく) が見えている。

そして、この よふぼくには、段々と、この世を創めた親が 皆 入込む、そうして働くのだから。
この世を創めた親が 入込めば、どんなことをするか 知れない。

どのような 珍しい不思議な ことをした としても、案ずることはない。
何でも 万事 親が請け合う。

この 今 話題の よふぼく についての 事柄を、心をしっかりと定めて、早く 取り掛かれよ。

今日までは、この道は どんな道やら 誰でも 知っている者はなかったが、もう 今日は 道が変わって 胸の掃除の道になるから、芯の心(=本心) を 段々と 皆 現わすので、これを 承知していよ。

親の眼に 適った者は、日々に 段々 心が 勇むばかりである。
親の眼に 残念の者は、いつ何どき、夢をみるように 散るかも知れない。

この話は どこの事とも言わない。
世界中の人間 は 皆 わが子である。
一れつの子供が 可愛い という心ばかりで、どこにも 隔ては 更にない。

だが、しっかり聞け。
心違いをすれば 是非がない(=やむを得ない) ので、そこで だんだん 手入れをするのである。
この事については、高山でも谷底でも、油断しないよう 心を定めよ。

さあ 頼むぞ。
何を頼むと思うか。
早く 鳴物を寄せて 稽古をせよ。

これまでは どんなことでも じっくりと、まだ 納まって(=働かないで) いたけれども、もう 今日の道は、何でもかでも、早く つとめをせねばならぬ という事 (=事態) である。

今までは、どんなことでも 段々と(=順序を追って)、いろいろ 頼み掛けてあるけれど、どんなことを頼んでも、誰も聞き分けてくれないとは、何という 親の残念か。

このたびの 残念(と言って) 口説いているこの話を、どうか しっかり聞き分けてくれ。

今日の日は 親が何ごとを言っても、どんなことでも 背かないようにせよ=(よく 聞き分けよ)。
今までは、どんな話をしても、何を言っても、匂いばかりであった。

今日の日の話 というのは、もう 節(=時節) であるから、言えば そのまま 直ぐに見える(=現われる) のだ。
この話は、四十三年以前(=天保九年) からの 親の 胸の残念を 今 晴らす ということなのである。

それを知らず、うちなる者は 何もかも、世界並のことのように 思っている。

この道は、四十三年以前(=天保九年) から、まことに 難渋な(=通りにくい) 道を 通ってきた。
その 残念なことを、今まで 誰も知らなくても、このたび これを みな 晴らすことにする。

この晴らしは どうして晴らすか と言えば、つとめ一条で みな 現わすのである。
このつとめについて、親が何ごとを言っても、どんなことにも 背くようなことはするな。

これだけは くれぐれも頼んでおくが、これは、あとで 後悔しないように というためである。

このたびの つとめ一条を止めるなら、名代なりと、直ぐに しりぞく。
この話を そばの者は 何と思っているか。

もう一息 (=ちょっとの間) も 待ってはいられない。

早く 鳴物なりと 出し掛けよ。
つとめだけを 急込んでいるのだから。

「おふでさき」【第十五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,15

 「おふでさき」【第十六号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十六号】

(明治十四年四月より)

今までは、この世を創めた 人間の元なることは、誰も 知るまい。
このたびは、この元なる真実 をしっかりと、どうか 世界へ みな 教えたい。 

この元 (=元なる真実) は どういうことか というと、かぐら両人が入っている つとめというのが、これが真実に “この世初まり” の理 (=守護) を現わすものである。

このたびの かぐら 両人 というのは、人間を創め掛けた 親である。
この元 (=元初まり) を知っているものが 居ないので、この真実を みな 教えよう。 

今までも、日々 口説いて、だんだんと (=順序を追って) 言って聞かしたことではあったが、もう今日は、どれ程 月日(=親) が言っても、一れつの心が 分からないで来てしまった。
それ故、もう 節(=時節) が来ているから、是非なく (=やむを得ず)、今は「かやし」をする (=胸のそうじをする)。

この「かやし」を、ちょっとしたこととは 思うではない。
あっちこっちに 多く見えているぞ。

この世の 人間を創めた 元なること (=元初まりの真実) を、どこの人でも まだ 知るまい。
このたびは この真実を 世界中へ (=うちも世界も)、どうかしっかり みな 教えたい。

しっかりと聞け。

この 元なる真実 というのは、まず、「くにとこたちのみこと」様 と「をもたりのみこと」様 が おいでになったのである。
このお方が、泥海の 水の中を見澄まして、うをと みとを お傍に 引き寄せられて……。

このたびの 残念というのは、芯 (=心の底) からである。
これを 晴らす もよう(=段取り・手段) が ないだろうか。
あれば、どんな もよう もする、そして、このことを 神が しっかり引き受ける。

どんな「かやし」も すると思え。
この「かやし」が 見えたならば、どこまでも、胸の掃除が ひとりでに できるのである。

今までは、どんな事も 見許して じっとしていたけれども、今日の日は もう 日が詰んで (=迫って) いるから、どんなことについてでも、直ぐに「かやし」をする。

この所 (=お屋敷) に、止める心で 来るならば、そのまま どこへ 月日が出るか 分からない。
出るというのも、どんなことか 分からないだろうが、月日は 迎えに出るので、これを 承知していよ。

今日の日は、もう 十分に 日が詰んであるから、どのような道があるか 知れないぞ。
世界中 (=うちも世界も) 皆 一れつは しっかりしていよ (=油断するな)。
いつ 何どき、月日が 連れに出るか 分からないぞ。

今日の日は 珍しいことを 言い掛ける。
何を言うか 誰も 知らない話である。

世界では、皆 どこまでも 同じ事をする。
子供を 片付けると言って、拵え (=支度) をする。

どれ程 拵え をしたと言っても、その先 (=将来) どうなるかは、誰も知るまい (=月日には見えている)。

月日の方には どんな思惑があるか、思惑が現われてくる この道筋については 知っている者はいない。

この先は どのような 夢をみるやら。
文句が変わって、心が 勇むようになるで。
どんなに 珍しい夢をみるやら わからないが、これを合図に つとめに掛かれ。

今日の日は、どんなことも 黙って 聞いている。
しかし、 いつ何どき 文句が変わる (=事情が変わる) ことやら。

どんなことがあっても (=起きてきても)、人を 恨むなよ。
皆 めいめい(=各自)の する事が 元になって出てくるのである。

月日には みな 一れつ 人間 は わが子である。
可愛い一杯に 思っているけれども、めいめいに することばかりは 是非もない (=仕方がない)。
そこで じっくり 見ているのである。

今日の日は、何にも 知らずにいるけれども、明日の日をみよ。
大変な往還の道になって、つとめもでき、人も寄る。
この 往還の道が 見えてきたならば、世界に出ても、 どのような者でも、叶う者は ないのだ。

そのために、 月日には どんな思惑があるか、この心の中は 誰も知るまい。
これ (=思惑の道) が見え掛けた (=見え始めた) ならば、世界中は どこまでも 胸の内が ひとりでに 澄み切るようになる。

これからは、この世 創めてから 無いことばかり、何もかも 言い掛けるので、よく聞け。

今までは 人の心の真実を、誰でも 知ることのできた者は いないが、このたびは、神が 表へ出ているから、人の心の内の どんなことでも 皆 教える。

この話は どこのことだとは 言わない。
身の内 (=体) の 障り (=病) で知らせる。

“こんな事を なんで言うのや” と思うなよ。
可愛い余りに 言うことであるから。

どのような事でも、わが身 (=自分) のすることで、自分のほかは知る者はない と思っても、神の知らぬ ということはない。
その心を知らして、きれいな心で暮らせるよう たすけたい と思っている。

それ故、何ごとも 万事 前もって ことわって、その上で かかる仕事であるから、承知せよ。

今までは、どのような事についても、じっくりと 控えていたが、これからは 働く。
しっかり 聞いておけ。

今までの話は、何を言っても 聞いたばかりであった。
しかし 今日の日は、道は 既に 忙しくなっている 道であるから、どんなことでも 早く 見えてくる。

それ故、出かけて (=実現して) からでは どうにもならぬ 故に、ことわっておくのだ。
そこで、一れつに 思案するように 頼んでおく。

今までも 神の口説きは、段々と いろいろ 説いてきたのであるが、どれほど 口説いたとて、誰も 聞き分けがないというのは、何という 親の残念であろう。

ここまでも 口説いたのは、 容易ならぬ (=大変な) 口説きである。
それ故、このたびこそは 思案をするように、くれぐれも 言っておく。

この話を 何と思って 聞いているか。
これは、 残念が 積もり重なった上での 話なのだ。

今日の日の 神の残念・立腹は、容易なことではない (=重大である) と思え。

ぢば・教祖は、月日が、無い人間や 無い世界を 創め掛けた時の 親であるのだ。
その所を (=それを)、何も知らない子供に、太鼓 止められた この残念を 見よ。

このたびは、この「かやし」を きっと するから、皆 どこまでも、承知していよ。

今日までは、誰も 何も知らずにいたが、さあ 見えてきたぞ、えらい (=大変な) 楽しみの道が。
この 楽しみの 道とは、どんなことか と思うであろうが、世界一れつの 胸の掃除である。

このことは、“何の事や” と思っているが、神の残念を 晴らすことである。
この先 (=将来) は、どこの人と 決めては 言わないが、どんな者も 胸の内を 皆 見ているのである。

今日からは 月日が出かけるので、その働きは、どんなことをするか 知れない。
今から 月日が 働きをするのは、どこでするのか 誰も知るまい。

月日は、高山も 谷底までも、世界中 一れつを 皆 あっちこっちと 働くのである。
月日が 世界中を働けば 大変なことが起きるが、この治め方は 誰も知るまい。

それ故、この鎮め方を ちょっと知らすから、一れつは 早く 思案をするように、ことわっておく。

つとめでも、ほかの事とは 思うなよ、たすけたいとの 一条ですることである。

それを知らず、みな 誰でも、段々と 年を追って、なぜか 悪しきなことのように 思っている。

人間は 浅はかなもの であるから、何を言っても、芯を (=本当のところを) 知らないで、ほかのことばかり 思案している。

今日までは、どんなことについても、控えて 言わなかった。
じっとしていた この 残念をみよ。

これからは、神の思惑をする (=実行する) から、どんなことをするか 知れないぞ。

今までは、どんなことも 言ったり思ったり、ままに (=自由に) していたけれど、この先 (=これから先) は 神が支配をするからには、どんなことでも ままには できないぞ。

人間の眼には 何も 見えていないが、神の眼には みな 見えている。
拵え (=支度した物) を遣るのは、しばらく待ってくれ。
泥水の中へ はめる(=落とす) ようなものだ。 

今までは、どんなことでも、あまり むごいことは 言わないできた。
今日は、何でも 言わねばならぬ。

よく聞け、もう今日は、何もかも 見えるようになるのだ。
すなわち、刻限が来たら、月日は 連れて行く。

今日の日は、もう 十分に 詰んで (=日が詰まって)きた。
いつ 何どき、連れに出るやら 知れないぞ。

連れて行くのも、ちょっとのことではない。
多く見えるが、誰も 知るまい。

このようにして 神が 世界中で働く時、どれ程 高い所の者と言っても、もう 今日からは、文句が変わるぞ。
旬は 満ちてきているのだから、さあ思案、これから 心を入替えて、思案を 定めないといけない。

「おふでさき」【第十六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,16

 「おふでさき」【第十七号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十七号】

(明治十五年)

今までは、何のための 道か 知らなかったであろうが、今日から先は 道が分かるようになる。
この道は、どういうことか と思っているが、かんろだいの一条 ということである。 

このだい (=かんろだい) をどういうことに思っているか。
これは にほんの 大事な宝である。

これ(=かんろだいの意義)を 皆の者は、何と思っているか。
この 元なること (=元のいんねん) は (何であるかを) 誰も知るまい。

このたびは この元なることを、真実に どうかして 世界中へ みな 教えたい。

 この元を言えば、かんろだいの立つ この ぢばは、元初まりにおいて いざなぎ (=父親の雛形である魚〘うを〙)と いざなみ (=母親の雛形である巳〘み〙) の 身の内の 本真ん中であった所である。

その所で、世界中の人間は 皆、その ぢばにおいて、創め掛けたのである。
それ故、そのぢばは 世界一れつにとっては どこまでも、これは “にほんの故郷” である。 

人間を創め掛けた という証拠に、かんろだいを 据えておくことにする。
この台が、みな 揃いさえしたならば、どんなこと (=願い事) でも 叶わないことはない。

それまでになるには、まだまだ 世界中を どこまでも、胸の掃除を しなければならない。 

この掃除は、どこにも 隔てはない (=平等である) ので、ひとりひとりの心を 月日が 見分けている と思うがよい。
月日は、どんな所にいる (=暮らしている) 者でも、心次第に みな 受けとる。

今までは、どんな心でいたとしても、一夜の間にも 心を入替えよ。
真実に 心をすっきりと 入替えて、真実の心になれば、それ (=その心)も 月日は すぐに受け取って たすける。

月日にとっては、世界中の人間は 皆 わが子であり、可愛い一杯 という心、これ 一条である。

今までは、どんな者でも 人間の 胸のうち (=心) を知った という者は いないに違いない。
しかし このたびは、どんな所に (=高い所や 遠い所に) 居る者でも、胸のうちを みな 言って聞かせるようにする。

これまでは、壁一重 隔てたなら、何を言っても ちょっとも 知れまいと 思っていただろうが、その心を 神が 指図して よふぼくから言わせる。

このように 今日からは、横目をつかう間もない程 (=短い時間) に、夢を見たように、月日は 何をするやら わからぬぞ。

今までの 月日の残念 というものは、なかなか (=とても) ちょっとのことではないが、それが 晴れる日は 迫っている。
今日までは 何も 知らずにいたけれど、さあ、えらい (=大変な) 本道が 見えてきた。

この道を 早く見たくて 急込んできた。
この道についたなら、さあ これからは、陽気づくめである。

この話は、何のことを言っているのか と思っているのであろうが、筆の先 (=筆の先に記したこと) が見えてきたなら ということである。

今までは、どのようなことも 黙って 聞いていたが、このたびこそ 残念を晴らす。

この 晴らしを、どういうことに 思っているか。
いつ 何どき、どこで、月日がしりぞく (=守護がなくなる)か 分からぬ。

これまでの 長い道中の この残念は、ちょっとのことではない と思え。
これからは、この「かやし」をするから、みな 一れつ 誰でも 承知していよ (=覚えておくがよい)。

世界中 どこの者とも言わず 誰でも、みな 月日は しっかり見ている。
どんなことを言っても、思っても、月日が知らぬ ということはないので、月日は 心を受けとって 善悪共に みな かやす。

この先は どんなことをするにも、月日は 前もって ことわって (=予告して) おく。

これからは、月日の 残念が出たならば、どのような事があるか 知れない

今日の日は、どんなことも 現われてくる日が 詰んできた (=期限が迫った)。
神の残念を 晴らす 旬である。
現われてくるのを 見守っていよ。

今までは、この世を創めた 場所・人間の 元である ぢばは、誰も 知らなかった。
このたびは、この真実 (=真実のこと)を 世界中へ、どうか しっかりと教えたい。

それ故、このぢばで かんろだいを 初めたのは、ここが 本元の所であるからなのだ。
このことを初め掛ける というのも (=理由も)、世界中を たすけたいからである。

それなのに、これを何も知らない子供に取払われたこの残念というのは……。

しかと聞け。
この先には、どのような「かやし」があるやら 知れないぞ。
月日が この かやし をしようとする 残念というものは、なかなか ちょっとの事では ないぞ。

「かやし」でも、ちょっとの事 とは思うな。
どんなことを 月日はするか 分からぬ。

この話を、皆の者は 何と思って 聞いているか。
神の残念は えらい (=大変な) ことである。

今までは どのような道も、だんだんと 通り抜けては きたけれども、もうちょっとの 刻限が 来ていない故に、じっとしていた。

しかし、今日の日は、もう 十分に 日が詰んで (=詰まって) きた。
刻限が来たなら 直ぐにかやすぞ。

この日 というのは、いつのことと 思っているか。
二十六日が来たことなら。

それからは、何でもかでも 真実の (=本当の) 心を、それぞれ みな 現わして 掃除する。

“こんなこと (=かやしをすること) を なぜ言うのか” と思うな。
月日は 人間が 可愛いあまりに、言うのである。

月日には、世界中の子供は、可愛い とばかり思っている。
それ故に、世界中をどこまでも、胸の掃除をして、陽気ぐらしを させたいのである。

この掃除を、どういうことに 思っているか。
掃除するのも たすけだけを 思っているのだ。

たすけといっても、その場 その時の あしきを直すことだけではない。
これまでにない 珍しいたすけを 見せたいと 思っているのに。

このたすけを、どういうことに 思っているか。

月日は 人間が “病まず・死なず・弱りなきように” 暮らすことのできるように 守護したい。
こんなことは 今まで どこにもない事である。
この証拠を知らしたい ということである。

これは これまでは どこを尋ねても ないことである。
このたび これを 神は 初めたかったのである。

今日までは、どんな道であるか 知らなかったであろう。
これから先 (=将来) は、道を知らす。

この道は、どういう事に思うか、月日の 残念一条の道である。

この残念は 何のことと思うか。
かんろだいが 第一の残念である。

この 月日の 残念は ちょっとのことではないので、どんな「かやし」を 月日がするか わからない。
どのようなことがあっても (=起きてきても)、うらみに思うな。

皆 めいめいに (=自分で)しておいたものが 芽を吹いたのである。
この先は、世界中は どこまでも、高山においても、谷底までも 月日はでかける。

これからは、世界中は 一れつに、だんだんと (=順序を追って) 胸の掃除をすると思え。
この掃除を、皆の者は 何と思うか。

この掃除をせねばならぬ 神の心はどんな心か を、誰も知るまい。

月日には どんな残念に思うことがあっても、今までは じっと 見許していた。
さあ 今日は、日も 十分に詰んで (=詰まって) きたので、何でもかでも「かやし」をせずには おられない。

この「かやし」を 何のことか と思っているが、神の残念から ということだけである。
この残念は、ちょっとのこととは 思うな。
積もり重なった上のことである。

月日には 世界中(の人間)は 皆 わが子である。
可愛い一杯に 思っているけれど、それを知らず、みな 一れつは、めいめいに、ほこりばかり 思案している。

この ほこりにまみれ、いんねんに苦しむ子供をみている 心、親である 神の残念の心を 思ってみてくれ。
どうも なんとも 言うに言われない。

今までのような事は もはや 言わない。
これから先は 悟りばかりである。

この先は 何を言うか 知れないが、これまで言った事を よく聞き分けて、どうか しっかり思案して 悟ってくれ。

里/\、田音/\、平様/\。
この話は、合図立て合いが 出たならば、何のことか わかるようになるが、何についても、みな この通りである。

これをば、みな 一れつは 心に しっかり思案するよう、頼んでおく。

「おふでさき」【第十七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,17

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳を書写した「おふでさき」の散文、
第一号から第十七号、すべての【総集編】でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
和歌形式の文を散文化して終わり
では意味がなくて、
むしろ、それはスタート。

散文化した後、
天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて、何回も読み返すことが肝要だと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて、
「おふでさき」口語訳の全文を「通して」読み返し、
「おふでさき」の【全体性】把握に努め、
少しでも、
そこに籠められた神様の思いを感じることが出来るように、
自分なりに努力したいと思います。

ということで――
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
芹澤茂先生著『おふでさき通訳』を教材とした
「おふでさき」全おうたの口語訳
という記事でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました