「おふでさき」【第十号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10

「『おふでさき』【第十号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年2月から継続中の“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ。

今回で10回目。
ついに2ケタになりました。

前回は「おふでさき」【第九号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第十号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10

three books next to an open notebook

今回は、「おふでさき」【第十号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第十号】口語訳 書き写し

【第十号】

(七十八年老女 明治八年六月)

「真実の心を月日が見定めて、天から渡す与えというのは、ちょっとした事とは 決して思うな。
天(の月日)には 深い思惑がある。
この話はどういうことか と言うと、から・てんぢく(まで)も (人々の)心を澄まして(いく という思惑である)。」
(1~3) 

「(さて) この心をどのようにして澄ますかというと、月日がとび出て、あっちこっちと(方々で)、(まず) だんだんと(様子を見て)、月日が体内に入込んで、自由自在(の働き)を仕掛けるので(、その働きによって 心が澄むので)ある。

そうしたなら、どれ程 “から(はえらい者)や” と言っても、にほんの者(布教伝道者)にかなわ(ず、話を聞かないわけにはいか)ない。

(このように月日がとびでて働く故) 日々に見えてくるところによって (このことを)得心せよ。
いつ何どき、どんな話を聞くやら (わからないぞ)。

どんな話を聞いても、“これは前もって 月日の(言われていたあの)話だ(な” と思わねばならぬ)。」
(4~8) 

「これからは、にほんの者はだんだんと、月日が引き立て(ていくので)、これを見ていよ。
(それについては、にほんの者に)何もかも、どんなことも みな教えて、知らないことがないようにする。

(また) にほんには 柱(=かんろだい)を立て(ておくので、こうし)たならば、“病まず・死なず・弱りなき” ように(なって、にほんの治まりと)なる。」
(9~11) 

「今までは から(は偉い者)やと言って、幅を利かして、ままに(=自由に)していたが、今度は かやしをする。
この(かやしの)話は、誰にどうしろ とは言わない。
月日がとび出て ままに(=自由に)する。

これまでも、月日(がいること)を知らぬ者はないけれども、本元(の月日の真実)を知っている者はいない。
このたびは、どんなことも (本元の)真実を(にほんの者から)言って聞かして、たすけを急ぐのである。」
(12~15) 

「この (月日がとび出て働く)日柄(=旬)はいつ頃か と言うと、“田の修理終い次第” (であると言っておく)。
(その旬が来たら) それからは 何か(思い掛けぬような)珍しい道になる。

つとめの人衆も みな寄って来る。
だんだんと(かんろだいも出来、つとめによって) 日々に 心がいさんでくる。
(そして) “なんと大和は えらい(=大した)豊年(ではないか”、というようになる)。」
(16~18) 

「日々に 早くつとめを急込めよ。
(つとめによって) どんな災難も みな のがれる(ことが出来る)。
どんなに難しくなる病でも、つとめ一条で 皆 たすかるのである。」
(19~20) 

「つとめと言っても、どういうつとめをするのか と言えば、かんろだいのつとめ という一条(=一点)である。

この かんろだい をどういうように思っているか。
これは にほんの親であるのだ。
これさえ誠真実に思うならば、月日が (その心を)見分けて、みな 引き受け(て どんな守護もす)る。
月日が引き受ける と言うからには、千に一つも 違うということはない。」
(21~24) 

「この(=今話題にしている)話を、どういう事として 聞いているのか。
この かんろだいのつとめというのは、ちょっとした つとめ と思ってはならない。

(この つとめのために てをどりの)三十六人の 人がほしい。
鳴物(の人)を含めて、十九人の かぐらづとめの人衆がほしい。
本当に 心を定めて思案せよ。
取次の者には、(このことを)しっかりと頼んでおく。」
(25~28) 

「この台を 拵えようとして、だんだんに(順序を追って)、月日は 人衆の段取りをしている。
人衆が しかと寄ったならば、そのまま(=直ぐに) 台も出来るのである。

この道は、どういうことか と言うと、月日がつとめの手を教えて(おいて)、それから (にほんの者に これを仕込んで、これを) 月日が 一れつ(=ずっと) 世界中に連れて出たならば、(やがて) ひとりでに出来てくる。」
(29~32) 

「これさえ 確かに出来たならば、月々のつとめも 間違いなく出来る。
つとめさえ 違わないようになったなら、天の与えも違うことはない(ので、やがては よふきづくめになる)。
この道は、誠に 真実難しい道であるから、みな よく思案せよ。」
(33~35) 

「この (つとめの)人衆は、どこにいるか 知らないであろう。
月日が 見分けて みな 引き寄せる。
どんな所の者といっても、月日が自由(自在の働きを)して見せる(=引き寄せる)。」
(36~37) 

「だんだんと 人衆が揃った上で、真実をみて 役割をする。
役割とは何か というと、(まず) かぐら十人と、あとは 鳴物(九人)。
これさえ 早くしっかり揃ったなら、どんなことでも 出来ないことはない。」
(38~40) 

「きょうからは だんだん文句が変わってくる (=話題を変える)。
今までに知らない話ばかり言う(から、よく聞け)。

今までも、どんな道(=様々の教え)もあるけれど、みな 月日が教えたものである。
月日が 大抵 何もかも、だんだんと(旬々に)教えてきたけれども、このたびは またその上に (まだ人間の)知らないこと、(すなわち 本元の)真実を 何でも みな言って聞かせる。」
(41~44) 

「これまでは から(は偉い者)や と言って威張っていたが、これも 月日が教えてきたものである。
このたびは 月日が元へと立ち返って、木の根(本元の真実)を しっかり みな現わす(故、にほんの者は これを よく知らねばならぬ)。

この世の元(の真実の)を しっかりと知っている者は、どこの者でも 決して居るまい。
真実に この元(なる真実の事)さえ しっかりと知っていれば、(月日に連れられて) どこへ行ったとて (自由自在に話ができる)。

この話を 何と思て 聞いているか。
(月日は) これ(=本元の真実の話)を 取次に仕込みたいのである。」
(45~49) 

「(それについて) どんなことを月日が考えているか と言うと、“人間の元” (についての話)を(まず) 世界中へ(知らすことである)。
早く この真実を一れつに (にほんの者から)知らしたならば、(この世の元 の如き話についても)話がわかる。

(神の話というものは) どれほど話を説いて聞かしても、元を知らしておかないと (その真実はわからない)。
元さえしっかりと言っておけば、何を言っても みな 聞き分けるものである。
(元の話とは) “この世の地と天とは実の親、それより出来た人間である” (という、かしもの・かりものの話である)。」
(50~54) 

「これからは、からも にほんも 知らないことばかり言うから、しっかりと聞いて (よく記憶して)おけ。
どのような事でも、(聞かれて)“知らぬ”と言わないように、みんな一れつに(にほんの者に)仕込みたいから。」
(55~56) 

「日々に 月日の心に思っていることは、(この屋敷に出てくる) 多くの人の胸の内を(わけたい ということである)。
この(人々の)心が どうしたならばわかるであろうか、どうか 早くこれをわけたい。
(そして この者たちが布教伝道して、だんだんと)世界中が 真実に 胸の内がわかったならば、(どれ程の)月日の楽しみ(であろう)。

それからは、一れつの胸の内がわかったなら、月日は それより、だんだんと日々心をいさめ掛けて、(やがてだんだんに) 陽気づくめを皆に教えて(いき、陽気ぐらしの世界にする)。」
(57~61) 

「世界中(から出てくる) 多くの人の胸の内を みな澄ましたことであるなら、それからは、月日の心がいさみ出て、どんなことでも、月日は真実に、みんな (この者たちから)一れつ(世界中)に教え(て、人間が 陽気ぐらしするようになるのを 見)たいからである。」
(62~64) 

「(このような思惑がある故) 真実の心(の者)がほしい。

月日は どんなことでも仕込みたいから、この話(を聞いて)、何を仕込むのか と思うか(も知れぬが)、これから先の いろいろな道筋(を仕込むのである)。」
(65~66) 

「きょうまでは どんなことも見えてないけれど、その日(=旬)が近づいてくれば、ひとりでに(現われて)見えてくる。

(身上に)どんなこと(が現われてきて)も、(ただの)病と思ってはいけない。
なんでも(このような現われは) みな 月日のていれ(=手入れ)である。

月日は、日々に心が急込んでいるから、(病だけでなく) どんなもよう(=段取り)もするか知れない(から、これは みな ていれであると考えよ)。
急込みといっても、何のことかわかるまいが、(月日は) かんろだいのもようばかり(を急込んでいる)。」
(67~70) 

「日々に 身の内(=体)に障りが付いたなら、“これは月日のていれ(=てびき)であるのだなあ” (と考えよ。これを 一つの教理として教えておく)。

(さて、)だんだんと、世界中をよく見てみると、気の毒であるから、文句を変え(て、次のようにし)たい。
思案してみよ(、そうすればわかるが)、口でどんなことを言っても (言っていることが本当であるという)確かな証拠がなければいけない。
(それ故) 月日が体内に入込んで、自由自在の指図を(して、口で言い聞かせる話が本当だと信じられる)証拠(を見せること)にする。

それ故に(=証拠があることを示すため)、(上述の教理のように)今までどこにもないことばかり (前もって)言って(おいて、刻限を待って) 初め掛ける。」
(71~75) 

「今までも、(人間の聞いたことの)ないことばかり言っているが、これも みな 月日の教えである。

このたびの(話題になっている)かんろだい というのも、これも 今まで知らぬことである。
どのようなことを言うのも みな 月日(の心からであって)、知らぬことを教えたい。

(そこで一言言っておくが、) “この屋敷にかんろだいを据えるのは、人間を初め掛けた(という話の)証拠(である)。”
何ごとも みな この通り(=この道理で)(先に教えておいて、それから)初め掛け、世界中の心を澄ますのである。」
(76~80) 

「日々に なんでも世界一れつをいさめるもよう(=段取り)ばかりする。
(やがて) だんだんと 世界の(人々の)心がいさむならば、立毛(=農作物)も 一緒に みな いさみ出る。」
(81~82) 

「この(世界一れつの)心が、どうしていさむ(ようになる)か というと、月日が 人足を連れて出(ていさむようにす)る。

それまでに、あっちこっちでどんな話も、だんだんに みな 聞くであろう。
どんな話を聞いても、それは みな 先に(前もって)言ってある(ことである)から、(その場合には、今のこの話を) よく思案してみよ。

“月日は何を(=変なことを) だんだん言われる(なあ)” と思うであろうが、(これは)先の楽しみ(だ)。」
(83~86) 

「何ごとも 月日の心に思う(ことであるが、特に思っているの)には、にほんに こふきを欲しいということである。

にほんにも こふきを確かに拵えて、それをひろめたら から(の者)は、(にほんの者の思う)ままに(話をわからせて、いさますことが)出来る。」
(87~88) 

「この話(=こふきをひろめ、世界の人々をいさましてたすける話)を、皆の者は 何と思って(聞いて)いるか。
にほんの者は、みな わが事(と思って思案すべきもの)である。

それ(=月日の心からしているたすけの段取り)を知らずに、なんと思って 上たる者は(差止めるのか、全く)胸がわかっていない。
(これは) 月日のざんねんである。

この所で、どのような こふき を(実行)しても、これは (皆)にほんの宝である(のに)。」(89~91)

「一れつの心を定めて 思案せよ。
(そして) 早く こふき(が出来ること)を待つ心になれ。

真実の こふきが出来たならば、どんな(に難しい)事でも、月日は ひろめる。
月日がひろめをする と言っても 皆の心には 承知(=納得)は出来まい。
それ故に、取次にしっかり頼んでおくから、承知していよ。」
(92~95) 

「この日柄(はいつかと言えば)、刻限が来たならば、いつ何どき 月日がどこへ行くか(わからぬが、その日はもう近い)。
日々に 取次の人はしっかりと、心を静めて 早く(こふきを拵えることに取り)掛かれよ。」
(96~97) 

「この道は、皆の者は どんなことと思っているか。
ちょっとには分からぬ(道と思うかもしれないが)、月日は、何でもかでも、真実の心を しっかり(持って、どんな困難も) 通り抜ける(心でいるのだ)。

この道が上にまで抜けたなら、自由自在の働きをする。」
(98~100) 

「月日が この(今まで話してきた)働きを仕掛けた(=初め掛けた)なら、どんなに剛的(=剛の者)といっても、心から真実が分かり、心も澄み切って、どんな事についても をや(=月日)にもたれる(ようになる)。
(そうして)この先(=将来)は、世界中はどこまでも 陽気づくめに 皆 なるようにする。

だんだんと (これまで説いてきた)この道筋の様態は、みんな わが事と思って 思案せよ。」
(101~104)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,,364~407
さまよい人
さまよい人

前回記事の矢持辰三先生第九号解説の中に、
“おやさまは、明治八年六月の一ヵ月間に、第九号、第十号、第十一号と三つの号を一気に書かれた…”
とありました。

その説明を元にこの「第十号」を拝読すると、確かに、第九号から続いての内容だなぁ、ということが、初心者にも感じられる気がします。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第十号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第十号】の概要

「No,10」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第十号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第十号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第十号について】

先の第九号では、教えのをやである教祖が月日のやしろであることを、繰り返し、徹底的に説かれ、人々に仕込まれましたが、
第十号では、その教祖が、どのような方法で一れつの人間をたすけようとされるのか、その思いの大筋が述べられていると思います。

おふでさき全体を通して、つとめの完成を急き込まれている中で、一番肝心な目標であるかんろだいのぢば定めがなされた月に、いよいよ、かんろだい建設の意義が明らかにされます。

そして親神の深い思惑を、人々に取り次ぐ役に当たる人(取次人という)に確認せしめ、それを世界に伝えていくため、「こふき」の完成に向かわれる思召が述べられます。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,321)
さまよい人
さまよい人

人類救済の手段が、どんどん具体的になっていっている、という感じですね。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第十号の概要】

前号に引き続いてのかんろだい、ぢきもつの話に始まり、まず、親神が自由自在の働きを顕して、世界一れつを澄まし、かんろだいを建てた暁には、病まず、死なず、弱らずの世界が到来すると、全体的な構想を述べられる。

次いで、そのための具体的な手立てとして、かんろだいのつとめ実行を急き込まれ、もっぱら、そのもよう立て、順序、特に、人衆を寄せる段取り、かんろだいの意義について詳述される。

また、つとめの理話たる元の理の話の意義について簡潔に触れられる。

さらに、布教伝道の拠り所ともなるこふきをこしらえること、広めることの重要性を説き、取り次ぎの役割に言及される。

やがては、上へも道をつけ通し、世界中を陽気づくめの世に立て替えると宣べて、人々を励まされる。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,336)
さまよい人
さまよい人

かぐらづとめ、かんろだい、元の理、こふき…、といった、お道の土台となるお話の関連が、だんだんとくっきりしていく感じです。

関連動画の紹介

youtube on your smartphone

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第十号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

 現代訳で聞く、おふでさき10  01~54 https://www.youtube.com/watch?v=LAeboDa1Jpc

【ゆっくり天理教 てんちり】> 現代訳で聞く、おふでさき10  01~54)より

現代訳で聞く、おふでさき10  55~104 https://www.youtube.com/watch?v=hHzOdQHAQuA

【ゆっくり天理教 てんちり】> 現代訳で聞く、おふでさき10  55~104)より

改めて「おふでさき」【第十号】を散文で読む(括弧書きも外して)

boy in gray vest and pink dress shirt holding a book

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第十号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第十号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十八才 明治八年六月 )

真実の心を月日が見定めて、天から渡す与え というのは、ちょっとした事とは 決して思うな。
天の月日には 深い思惑がある。

この話はどういうことか と言うと、から・てんぢくまでも 人々の心を澄ましていくという思惑である。

さて、この心をどのようにして澄ますか というと、月日がとび出て、あっちこっちと方々で、まず、段々と様子を見て、月日が体内に入込んで、自由自在の働きを仕掛けるので、その働きによって 心が澄むのである。

そうしたなら、どれ程 “からはえらい者や” と言っても、にほんの者(=布教伝道者)にかなわず、話を聞かないわけには いかない。

このように 月日がとびでて働く故、日々に見えてくるところによって 、このことを得心せよ。
いつ何どき、どんな話を聞くやら わからないぞ。
どんな話を聞いても、“これは 前もって月日の言われていたあの話だな” と思わねばならぬ。

これからは、にほんの者は段々と、月日が引き立てていくので、これを見ていよ。

それについては、にほんの者に何もかもどんなこともみな教えて、知らないことがないようにする。

また、にほんには柱(=かんろだい)を立てておくので、こうしたならば、“病まず・死なず・弱りなき” ようになって、にほんの治まりとなる。

今までは、からは偉い者やと言って、幅を利かして、ままに(=自由に)していたが、今度は かやしをする。

この かやしの話は、誰にどうしろ とは言わない。
月日がとび出て ままに(=自由に)する。

これまでも、月日がいることを知らぬ者はないけれども、本元の月日の真実を知っている者は いない。
このたびは、どんなことも、本元の真実を にほんの者から言って聞かして、たすけを急ぐのである。

この月日がとび出て働く日柄(=旬)はいつ頃か と言うと、“田の修理終い次第” であると言っておく。

その旬が来たら、それからは、何か 思い掛けぬような 珍しい道になる。
つとめの人衆も、みな 寄って来る。

段々と かんろだいも出来、つとめによって、日々に 心が勇んでくる。
そして、“なんと大和は えらい(=大した)豊年ではないか”、というようになる。

日々に、早く つとめを急込めよ。
つとめによって、どんな災難も みな逃れる事が出来る。
どんなに難しくなる病でも、つとめ一条で
皆 たすかるのである。

つとめと言っても、どういうつとめをするのか と言えば、かんろだいのつとめ という一条(=一点)である。

この かんろだいを どのように思っているか。
これは、にほんの親であるのだ。

これさえ 誠真実に思うならば、月日がその心を見分けて、みな 引き受けて、どんな守護もする。
月日が引き受ける と言うからには、千に一つも 違うということはない。

この(=今話題にしている)話を、どういう事として 聞いているのか。
この かんろだいのつとめ というのは、ちょっとした つとめ と思ってはならない。

この つとめのために、てをどりの三十六人の人が ほしい。
鳴物の人を含めて、十九人のかぐらづとめの人衆が ほしい。

本当に、心を定めて 思案せよ。
取次の者には、このことを しっかりと頼んでおく。

この台を拵えようとして、段々に 順序を追って、月日は 人衆の段取りをしている。
人衆が しかと寄ったならば、そのまま(=直ぐに) 台も出来るのである。

この道は、どういうことかと言うと、月日が つとめの手を教えておいて、それから にほんの者に これを仕込んで、これを 月日が一れつ(=ずっと) 世界中に連れて出たならば、やがて ひとりでに出来てくる。 

これさえ 確かに出来たならば、月々のつとめも 間違いなく出来る。
つとめさえ 違わないようになったなら、天の与えも 違うことはないので、やがては 陽気づくめになる。

この道は、誠に 真実難しい道であるから、皆 よく思案せよ。 

この つとめの人衆は、どこにいるか 知らないであろう。
月日が見分けて みな 引き寄せる。
どんな所の者といっても、月日が 自由自在の働きをして見せる(=引き寄せる)。

段々と 人衆が揃った上で、真実をみて 役割をする。
役割とは何か というと、まず かぐら十人と、あとは 鳴物九人。
これさえ 早く しっかり揃ったなら、どんなことでも 出来ないことはない。

今日からは、だんだん文句が変わってくる(=話題を変える)。
今までに 知らない話ばかり言うから、よく聞け。

今までも、どんな道(=様々の教え)もあるけれど、みな 月日が教えたものである。
月日が 大抵 何もかも、だんだんと 旬々に教えてきたけれども、このたびは また その上に まだ人間の知らないこと、すなわち 本元の真実を 何でもみな 言って聞かせる。

これまでは、からは偉い者や と言って威張っていたが、これも 月日が教えてきたものである。
このたびは 月日が元へと立ち返って、木の根(=本元の真実)を しっかり みな 現わす故、にほんの者は これを よく知らねばならぬ。

この世の 元の真実をしっかりと知っている者は、どこの者でも 決して居るまい。
真実に、この元なる真実の事さえ しっかりと知っていれば、月日に連れられて どこへ行ったとて、自由自在に 話ができる。

この話を 何と思って 聞いているか。
月日は、これ(=本元の真実の話)を 取次に 仕込みたいのである。

それについて、どんなことを月日が考えているか と言うと、“人間の元” についての話を、まず 世界中へ知らす事である。
早く この真実を 一れつに、にほんの者から 知らしたならば、この世の元の如き話についても 話がわかる。

神の話というものは、どれほど 話を説いて聞かしても、元を知らしておかないと その真実は わからない。
元さえしっかりと言っておけば、何を言っても、みな 聞き分けるものである。

元の話とは、“この世の地と天とは実の親、それより出来た人間である” という、かしもの・かりものの話である。

これからは、からもにほんも 知らない事ばかり言うから、しっかりと聞いて よく記憶しておけ。
どのような事でも、聞かれて “知らぬ” と言わないように、みんな一れつに、にほんの者に仕込みたいから。

日々に 月日の心に思っていることは、この屋敷に出てくる 多くの人の胸の内を分けたい ということである。
この、人々の心が どうしたならばわかるであろうか、どうか 早くこれを分けたい。

そして、この者たちが 布教伝道して、だんだんと 世界中が真実に 胸の内がわかったならば、どれ程の 月日の楽しみであろう。

それからは、一れつの 胸の内がわかったなら、月日は それより、だんだんと 日々 心をいさめ掛けて、やがて だんだんに 陽気づくめを皆に教えていき、陽気ぐらしの世界にする。

世界中から出てくる 多くの人の胸の内を みな 澄ましたことであるなら、それからは、月日の心が勇み出て、どんなことでも、月日は真実に、みんな、この者たちから 一れつ世界中に教えて、人間が 陽気ぐらしするようになるのを 見たいからである。

このような思惑がある故、真実の心の者が ほしい。

月日は どんなことでも仕込みたいから、この話を聞いて、何を仕込むのか と思うかも知れないが、これから先の いろいろな道筋を 仕込むのである。 

今日までは、どんな事も見えてないけれど、その日(=旬)が近付いてくれば、ひとりでに 現われて見えてくる。

身上に どんなことが現われてきても、ただの病と 思ってはいけない。
何でも このような現われは みな 月日のていれ(=手入れ)である。

月日は、日々に 心が急込んでいるから、病だけでなく、どんなもよう(=段取り)もするか知れないから、これは皆、手入れである と考えよ。

急込みといっても、何の事かわかるまいが、月日は、かんろだいのもようばかりを 急込んでいる。

日々に 身の内(=体)に障りが付いたなら、“これは 月日のていれ(=てびき)であるのだなあ” と考えよ。
これを 一つの教理として 教えておく。

さて、段々と 世界中をよく見てみると、気の毒であるから、文句を変えて、次のようにしたい。
思案してみよ、そうすればわかるが、口でどんなことを言っても、言っている事が本当である という確かな証拠が なければいけない。
それ故、月日が体内に入込んで、自由自在の指図をして、口で言い聞かせる話が本当だ と信じられる証拠を 見せることにする。

それ故に(=証拠があることを示すため)、上述の教理のように、今まで どこにもない事ばかり 前もって言っておいて、刻限を待って 初め掛ける。

今までも、人間の聞いたことのないことばかり言っているが、これも、みな 月日の教えである。

このたびの話題になっている かんろだい というのも、これも 今まで知らぬことである。
どのようなことを言うのも みな 月日の心からであって、知らぬことを 教えたい。

そこで 一言言っておくが、“この屋敷にかんろだいを据えるのは、人間を初め掛けたという話の証拠である。”
何ごとも、皆この通り(=この道理で) 先に教えておいて、それから初め掛け、世界中の心を澄ますのである。

日々に でも 世界一れつをいさめるもよう(=段取り)ばかりする。
やがて、段々と 世界の人々の心が勇むならば、立毛(=農作物)も、一緒に みな 勇み出る。

この 世界一れつの心が、どうして勇むようになるか というと、月日が 人足を連れて出て勇むようにする。

それまでに、あっちこっちで どんな話も、段々に、みな 聞くであろう。
どんな話を聞いても、それは みな先に 前もって 言ってあることであるから、その場合には、今の この話を よく思案してみよ。

“月日は 何を(=変なことを)だんだん言われるなあ” と思うであろうが、これは、先の楽しみだ。

何ごとも 月日の心に思うであるが、特に思っているのには、にほんに こふきが欲しい ということである。
にほんにも こふきを確かに拵えて、それをひろめたら からの者は、にほんの者の 思うままに 話をわからせて、勇ますことが出来る。

この話(=こふきをひろめ、世界の人々をいさましてたすける話)を、皆の者は 何と思って聞いているか。
にほんの者は、みな わが事と思って 思案すべきものである。

それ(=月日の心からしているたすけの段取り)を知らずに、なんと思って 上たる者は差止めるのか、全く 胸がわかっていない。

これは、月日の残念である。
この所で、どのようなこふきを実行しても、これは皆、にほんの宝であるのに。

一れつの心を定めて 思案せよ。
そして、早く こふきが出来ることを 待つ心になれ。

真実のこふきが出来たならば、どんなに難しい事でも、月日は ひろめる。
月日が ひろめをすると言っても、皆の心には 承知(=納得)は出来まい。
それ故に、取次に しっかり頼んでおくから、承知していよ。

この日柄はいつか と言えば、刻限が来たならば、いつ何どき 月日が どこへ行くか分からないが、その日は もう近い。
日々に 取次の人はしっかりと、心を静めて、早く こふきを拵える事に 取り掛かれよ。

この道は、皆の者は どんなことと思っているか。

ちょっとには分からぬ道 と思うかもしれないが、月日は、何でもかでも、真実の心をしっかり持って、どんな困難も 通り抜ける心でいるのだ。
この道が 上にまで抜けたなら、自由自在の働きをする。

月日が この今まで話してきた働きを 仕掛けた(=初め掛けた)なら、どんなに剛的(=剛の者)といっても、心から真実が分かり、心も澄み切って、どんな事についても をや(=月日)に もたれるようになる。

そうして この先(=将来)は、世界中は どこまでも 陽気づくめに 皆 なるようにする。

段々と これまで説いてきた この道筋の様態は、みんな わが事と思って 思案せよ。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第十号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで――

今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9
天理教「おふでさき」第九号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました

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