Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今より少しでも「神様」を感じられるようになりたいとの思いから、
芹澤茂先生著『おふでさき通訳』を教材として「おふでさき」口語訳を書写する
“「おふでさき」を散文で読もう”
という企画。
今回で6回目となりました。
今回も長い記事になりそうですし、
前置きは抜きにして、さっそくいってみましょう。
前回は「おふでさき」【第五号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第六号】口語訳を書写します。
芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
今回は、「おふでさき」【第六号】の口語訳を書き写します。
「おふでさき」【第六号】口語訳 書き写し
第六号
(七十七才老女 明治七年十二月ヨリ)「このたびは珍しいことを言い掛けるので、心を静めてこの話を聞いてくれ。
(こう言っても)みんな神のすること言うことであるから、そばの者に心配を掛けるようなことではない。これからする話を、どうかみな誰でも本当に心を静めて承知してくれ。
(神が付け掛けている)この道は、どういうものと思っているか、この世治める真実の道である。」
(1~4)「上たる者の(心に)火と水(神の守護)を分からすならば、ひとりでに(この世は)陽気づくめに治まってくる。
この火と水を分からすという(その段取り)は、ここでよふきづとめをするのであると考えよ。(このつとめは)この世を創め掛けたのと同じことで、珍しいことをして見せるのである。
この世を創めてから(今までに)ないつとめ(によって)もう一度創め掛けて、(この世を)確かに治める。」
(5~8)「この世の月日の心にある真実(のこと)を知っている者は全く居ないであろう。
(それ故これからそれを話そう。しかも)これまではどんな神と言っても、眼に見えないと言っていた。このたびはどんな神も、本当に(眼で見えるように)現われ出して、話をする(。そういう話し方で話そう)。」
(9~11)「今からは、何を言っても思っても、そのまま(直ぐに)見えてくるので、“これは不思議だ”(ということになる)。
“何ごとも秋を合図に見えかける”(と言っておこう)。
(その秋(時)が来たらつとめをせねばならぬ。それ故)よふきづとめに早くとりかかれ。」
(12~13)「世界中(から出てきて、神の話を聞いて)多く(の人が)くらしている、その一人々々(をみると)、おしなべて、皆もやの(中にいる)ようである。
日々に(胸の内が)すみ、(神の話が)わかるというように心の成人をしていくなら、(神の思惑や神の働きは)見えてくる。この(今話題の、神の真実の)道がしっかりと見えたならば(もう大丈夫だ)。
この先をしっかりと楽しんでいよ。」
(14~16)「だんだんと心いさんで急込め。早く本道へ急ぎ出るのだ。
(そうして)つとめ人衆十人の真実の心を神が受けとったなら、それからはどんなこともだんだんと神の思惑をみな説き聞かす。日々神の心は急いても、人衆十人の心が揃わなくては(話ができない)。
(今つとめに出ている)十人の中に三人の片腕(ともなる者)は、火水風が退く(守護がなくなる)ことがあると知れ。」
(17~21)「どんなことでも神のする事である。
これを(ただの)病と決して思うな(神の思惑を悟れ)。(神は)なんでも真実の神の自由(自在の働き)を知らせたい故に、して見せるので(心を受けとればたすけるので)ある。」
(22~23)「これまでは(世界に様々の教えがあって、これにより)どんな道も通ってきたが、(人間は)その日が来ないので(真実を知らず)、いずんでいたのである。
この先は、どんなことでもだんだんと(順序を追って)、本当の真実(神の話)を(にほんの者から)言って聞かせ(て、いさむようにし)よう。今まではどんな神(神々)も沢山あって、拝み・祈禱(によるたすけをする)と言ってきたが、この(たすけの)元を知っている者があるならば、尋ねて行ってみよ。神が許す。」
(24~27)「また先は(人が寄り、いさんでくるので、)どんなこともだんだんと(みな教え)、本道を付けたことなら(ば、どれ程の楽しみであろう)。」
(28)「今までにないことばかり言いかけて、よろづたすけのつとめを教える。」
(29)「この(今話題の)つとめ(について言えば)、十人の人衆の中に元初まりのをや(親)(である月日)がいるのである。
(そのをやが)いざなぎといざなみ(の雛形となるもの)を引き寄せて、人間を創め(掛ける)守護を教えたのである。」
(30~31)「この(つとめの)元は、(元初まりにおいて)泥海中にうをとみと(がいて)、それを引出して夫婦(の雛形)とした(ところにある)。」
(32)「この世の元初まりは泥の海で、その中にどぢょばかり(沢山)いた。
そのうちにうをとみとが混じっている(ので)、よくよく見ると、人間の顔をしている。それを見て(これを人間の雛形として創め掛ければ人間が拵えられる、と)思い付いたのは、全く月日の心からである。」
(33~35)「このもの(うをとみ)に(神の働き・守護を受け持つ)道具を寄せて、だんだんと(人間を創め掛ける)守護を教えたことなら(できる)。
この道具はくにさづち(の道具)と月よみ(の道具)と、これを(それぞれみとうをの)身の内(体)に仕込んだなら(夫婦の雛形となろう)。(その外)くもよみとかしこねとをふとのべとたいしよく天(の、それぞれの道具)を寄せたことなら(道具が揃うであろう)。
(このようにして、雛形と道具が揃ったなら、)それからは確かに(人間と人間の住む世界ができる故、この)世界を創めよう、という神の相談がまとまりがついたのである。」
(36~39)「これからは、(ない人間ない世界を拵える上での)神の守護というのは、並大抵なことではなかったのである。
今までにないことを創めるというのは、何を言うのも難しいことである。」
(40~41)「この世を創め掛けた(ことについての)真実を、誰も知っている者はいないであろう。
これからは、どんなこともだんだんと(順序を追って)言って聞かす。
(これを)嘘と考えるな。」
(42~43)「人間を創め掛けたのは、うをとみと(を寄せて)これを(それぞれ)たねとなわしろにして創め掛けた。
このものに、月日が体内に入込んで、だんだんと(人間を創め出す)守護を教え込んだ。(そして、どぢょをたねとして人間をつくったが、)この子数は九億九万九千九百九十九人である。
この人(数)を三日三夜かかって宿し込み、(その場所に)三年三月留まっていた。それから生まれ出したものは五分(で、五分)から五分五分と成人した(大人になった)。
このもの(み)に一度教えた守護によって、同じ(みの)体内に(同じ子数の人間が)三度宿ったのである。」
(44~49)「この世の真実の神は月日である。
そのほかのものはみな道具である。
人間を創めようというので、だんだんと寄せて使ったもので、これに神名を付けたのである。」
(50~51)「いざなぎ といざなみ とが一の神である。
これ(この守護の理)は、天照皇太神宮(伊勢神宮)(として拝んでいるもの)である。」
(52)「また先(将来)は、(元初まりの話やその他)何でもだんだん(順序を追って)説くけれども、(これは皆)今までに(人間の)知らぬ話ばかりである。
(その話をしたい故、)この先は、何を言っても、(まず)人間を創め掛けたことばかり(話して聞かす)。」
(53~54)「(ここは)この世を創め出した(といういんねんのある)屋敷である。
(教祖は)人間を創めたときの元の親である(という 魂のいんねんをもつ)。月日は、それ (そのいんねん)を見すましていて、(旬刻限を待って)天降り、何でも知らしたいから (色々段取りをしている)。」
(55~56)「月日が心に強く思っていることは、“めいめいの社” を貰い受けたい、ということである。
そうなったなら (話通りなのを見て人々の心もすむ故)、自由自在に いつでも思うままに話をしようと思っているのに。今までも、“月日のやしろ” (教祖)はしっかり貰い受けてあるけれど (めいめいの社は貰い受けてない故、それを見て人々の心も) いずんでいた。
このたびは (もうそんなことよりも、月日が)確かに表へ現われて、なんでもみな 話して聞かせよう。」
(57~60)「今までは 御簾の内らに居たから(外からは月日のことが)何も見えなかったが、このたびは赤い(明るい)所へ出たから、(月日の働きは) どんな事も直ぐに見える。
この (教祖が着ている)赤い着物を なんと(変に)思っているのか。
中に 月日が籠っているのである。」
(61~63)「今までも 月日のまま(自由)(に何ごともできるの)であるが、その日 (丁度よい日)が来ないので、(そのまま)見許していた。
このたびは もう十分に日も来たので、何でも (月日が自由自在の働きによって) ままにする。それ (自由自在の働き)を知らず、高山は 何を考えて 何でもままにしているのか。
何ごとも この所(教祖)には 人間の心があるとは 全く考えるな。どんなことを言っても、筆先に書いても、これは 月日の心の指図である。
高山は 何を言っても思っても、みな 人間の心(の指図)である。」
(64~69)「月日が付けた(天理王命という)名前を 取払おうとした。
このざんねんを 何と思うか。
月日のりっぷくや ざんねんは 容易なことではない と考えよ。今までは “高い山や” と(言って)威張って 何でも 万事ままにしたけれど、これからは 月日が代わってままにする。
何でもよい、(できるなら) 真似をしてみよ。このところでは、何を言ったり何をしたりするのも、みな 月日の思う通りのことばかりである。」
(70~74)「これからは 月日の心のざんねんを晴らすための 段取りばかりする。
この先は、どんなほこりが立って (身上・事情が起きて)も、これを 病(や災難)であると決して思ってはいけない。(月日のざんねんが 現われたのだと考えよ。)」
(75~76)「今までも 月日のざんねんは、山のように 積もっている。
これを (晴らすために) かやしをする。今までも かやし と言って説いてきたが、何の事かと思っていたであろう。
誠に、かやし というのは この (埃が立つという)ことである。
(特に)高山の者は よく覚えておくがよい。」
(77~79)「この世(の初まり)は 泥海なかのことで、そこに 月日がいただけであった。
月日は 思い付いた。
“そうだ (人間の)世界を創め掛けたら”
ない世界を 創め掛けるのは 難しいことである。“そうだ (人間を拵える)道具を 見付けなければならぬ”
(そう思って) よく見てみると、(泥海の)中に どぢょも うをも みも、そのほかのものも 皆 見えている。“そのもの達を 皆 引き寄せて談じ合い、人間(を拵える)守護(を教えて) 創め掛けたら” (と相談した)。」
(80~84)「ない世界を創めようとして この月日が、だんだんと (順序を追って) 心を尽くし(てき)た上から (人間の世界があるのだ)。
この (人間の通ってきた)道を 知っている者は全くいない。このざんねんを 何と思っているのか。
これ程に思って 創めたこの世界なのに (人間は何も知らぬ)。
月日の心には 何とざんねんなことか。」
(85~87)「月日が だんだんと 心を尽くしきって(守護してきた)、その上での人間である。
それを知らず、今のところは 高山は、みな 幅を利かして ままにしている。月日には 第一に これがざんねんである。
どんなかやしを するか分からぬぞ。」
(88~90)「この世界(において) 山崩え なども雷も、地震や大風は 月日の立腹 (ざんねんの現われである)。
どんな大社 高山も 油断するな。
いつ何どき、月日が 飛んで出るか(わからぬぞ)。一れつに 誰でも、皆 わが身に気を付けよ。
(かやしをするのに) 月日は 遠慮をするようなことは 全くない。」
(91~93)「何もかも 精一杯 (前もって)ことわって(おいて、)それから 月日の仕事に(取り)掛かるのである。
(月日が働けば、かやしが見えてくるが、)どんなこと(が現われて)も、(他人を)恨んではいけない。
みんな めいめい(自分)が自分を恨むことである。この話は だんだんと (今まで順を追って) 何遍も 口説いてきたことである。
これを しっかり 聞き分けてほしい。」
(94~96)「一れつに 誰でも 皆 めいめいの胸次第である。
(その胸の内を)月日が見分けていると思え。月日は真実の心を見定めて、受け取り次第にかやしをするのである。
今までは、何を言っても思っても、みな人間の心だけ(が基準)であった。これからは善い事しても悪い事(して)も、そのまま直ぐに(月日が)かやしをする。
今までは(このことについては人間の)悟り(理解)もあったけれど、もうこれからは悟り(によってたすかるということ)はない。この世の真実のをや(親)は月日である。
(をやは)何でも万事について守護する。これから(言うことに)は、何を言っても嘘(ということ)はない。
みな真実(本当のこと)と思って聞き分けよ。」
(97~103)「どんな事でも 月日が 真実に(心を尽くして)考えて 創めたことばかりである。
今までは、病と言えば “(それ)医者だ、薬だ” と言って) みな 心配をしたけれど、これからは 痛みや悩みや出来物も、いき・てをどり(のさづけ)で みな たすける。このたすけは 今まで 知らぬことであるが、これから先は 試しをしてみよ。
どんなに難しいように見える病気でも、(月日の)真実のこもった いき(のさづけ) でたすける。」
(104~108)「月日が真実の心を見定めて、どんな守護もすると思え。
(つとめによって)生まれ子が(安産に)、疱瘡も麻疹もしないように(育ち)、(また)病まず若死にせずに くらすことなら (どれほどの楽しみであろう)。(このように) どんな自由(自在のたすけ)もすると言っても、みな 月日の心から 出ることである。
これをよく聞いておけ。」
(109~111)「今までも 大抵(のことは) 口説いて 説き諭してきたけれども、月日の思惑(について)は まだ言い足らない(所がある)。
このたびは、月日のざんねんを、積も(り重な)っているから、なんでも 皆 言っておく。この所 (元のやしき) において、たすけ一条を止められ(ているこのざんねんは)、なんでも かやしをせずに おられぬ。
このかやしは“大社高山取払い”であり、“みな 一れつは (わが身を気を付けよ” と言ったことを)承知していよ。この(かやしの)話を 何と思って 聞いているか。
“天火・火の雨・海は津波” (が かやし)である。
(ざんねんが現われると このようなことになるので、) これほど 月日が心配しているのに、世界中は 何と思って (うっかりくらして)いるのか。」
(112~117)
※「かやし」という言葉からすると、報復のような語感であるが、
【対応策】の如き意味である。
(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,255)
「だんだんと (このように) 口説きや 嘆きをもって 説いているが、真実になった心は (受け取って)たすける。
どんな者も、一れつに (可愛い)わが子である。
(これを たすけようと見守っている) 月日の心の心配を よく考えてくれ。」
(118~119)「この世は 一れつは (全部)月日(のからだ)であり、(その中に 懐住居している) 人間(のからだ)は みな 月日よりの かしもの である。
世界中の者が この真実(真理・真相)を知ったならば、強気や強欲を 出す者はいない。(この真実を知って) 心が本当にわかったならば、怖いことも 危ないこともない。
(それなのに) 月日が教えることは みな消してしまって、ただ 人間心だけで(思案して)いる(、それで どうしてたすかっていけようか)。」
(120~123)「今までも、この世を創めた(ことについての)真実を 教えておこう と思ったけれども(、まだこれは 控えている)。
月日は 日々 心に急込んでいるが、(教えるべき)刻限を待っている と思え。この話を 何と思って 聞いているか。
月日の思惑では、深い利益を(考えて、その段取りをしているのだ)。こればかりは、人並の(人間のする)ことと思うな。
月日の仕事は 大変な思惑が(あって していることで)ある。」
(124~127)「月日が 自由自在(の働きをする)と 幾度か説いてきたが、“まだ今までは 見えたことはない” (と思っている)。
このたびは 自由自在を真実にして見せたならば、これが 本当である(と わかる故、してみせよう)。どんな事をしても みな 月日がすることであり、真実の心、たすけ一条(の心からすること)である。
(子供がほしいと思っても) 胎内へ宿し込むのも月日(の守護に依るの)であり、生まれ出すのも月日の世話取りである(から、神の話を 真実の話として聞き、神に もたれよ)。」
(128~131)「このたびは どんな事でも 真実に現われ(出し)て、して 見せる(ことにする)。
(今 話題とした) これ(出生の問題)(がどうなるか)を見て、どんな者も 得心をせよ。(人間の)心次第に (神は) どんな自由(自在の働きもみせる)。
芹澤茂著『おふでさき通訳』P,208~261
どんなことをするのにも、真実の心(を受け取り)次第にみなして見せる。」
(132~134)
「おふでさき」【第六号】は 134首のおうたで、「第四号」と同じ数ですね。
「第十二号」が182首と最多で、【第六号】は、おうたの数の多さが「第四号」と並ぶ同率2位 ということですね。
(2位という表現はちょっと変かもしれませんが…笑)
以上、芹澤茂著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の書き写しでした。
「おふでさき」【第六号】の概要
次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第六号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第六号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より
【第六号について】
第六号は明治七年十二月から明治八年一月にわたって執筆されたと推定されます。
この号にして、ようやく「元初まりの話」が具体的に語られます。この明治七年十二月には、たいへん重要な出来事が、いくつも起こっています。
第五号でも触れましたが、まず、教祖が自ら高山布教にかかられる一つの契機として、十二月二十三日(陰暦十一月十五日)に、奈良県庁の呼び出しで、教祖は山村御殿(円照寺)へ出向かれ、取り調べを受けられます。
山村御殿は、いまの奈良市山村に所在する尼寺ですが、ここには当時、明治天皇の叔母である伏見宮文秀女王がおられ、こういう高貴な方のところへ呼び出したなら、憑きものならば畏れて退散するだろう、と当局の役人は考えたようです。
この取り調べに対して、教祖は明快に答えられましたが、以後、県庁としてはおやしきの動きを注視し、取り締まりが厳しくなって、参拝人の出入りが禁止されるのです。
翌二十四日、教祖は、おふでさき号外と呼んでいる三首のお歌を書かれ、側近の人々に下げられました。
にち/\に心つくしたものだねを
神がたしかにうけとりているしんぢつに神のうけとるものだねわ
いつになりてもくさるめわなしたん/\とこのものだねがはへたなら
これまつだいのこふきなるそやこれから官憲の圧迫・干渉が強まる時、教祖はもとより、側近の人たちも大きな苦労を受けねばならない。
それを予測するように、この道に心を尽くしたことは、「ものだね(物種)となって、神が確かに受け取っている。
それはいつまでも腐ることはないし、末代までたすかる基になるのだ、という意味合いが、ここには説かれています。「ものだね」とは、必要な時に、必要な量だけ、何でも与えられる種、末代まで生え続ける真実の種であるという説明がなされています (上田嘉成著『おふでさき講義』参照)。
さらに、その翌日の十二月二十五日には、仲田、辻、松尾の三名が奈良中教院に召喚され、
「天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め」
と、信仰を差し止め、そのうえ、おやしきにやって来て、幣帛、鏡、簾などの神具を没収するという事件が起こっています。その翌二十六日に、教祖は初めて赤衣を召されます。
これについては、この号の中で説かれていますが、赤衣を召されたのは、自ら「月日のやしろ」であることを人々の目に見せて示された親心からでありました。
そして、この日、
「一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井」
と、四名の者に初めて身上たすけのさづけが渡されました。また、この十二月の中旬には、中南の門屋の建築の用材の準備にかかられます。
多事多端の中で、第六号の筆は進められていくのです。
(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,193~195)
第六号は、明治七年十二月から明治八年一月にかけての、
官憲の圧迫・干渉が強まり、取り締まりが厳しくなって、
参拝人の出入りが禁止され始めた時期に執筆されたのですね。
上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より
【第六号の概要】
冒頭で「この世治める真実の道」と、本教信仰の目指すところを簡潔に示し、
その根本的な手立てが、陽気づとめの勤修にあるとして、
神意に適うつとめ人衆の揃うことを急ぐと共に、つとめの理話である元の理の話の本論を展開される。これに先立ち、月日の呼称を用い始められる。
さらに、立教の由来を教え、赤衣の理について述べられる。
また、元初まり以来の親神の苦心を知らず、あまつさえ高山が権勢をほしいままにする現実社会のありようを嘆き、
これを転じて、親神の思惑通りの世に立て替えること、
及び、かやしとしての天変地異や銘々の身上などにも言及される。一方、身上たすけのためのさづけの理を教えると共に、
(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,196)
どんなかやしも一れつ我が子を案ずるがゆえであると、
真実の心になりさえすれば、必ずたすけると請け合われる。
第六号から「月日」の呼称を用い始められたのですね。
つとめの理話である「元の理」の話の本論を展開されたり、おやさまが赤衣を召されるようになられたことの理合いについて教えて下さったり…
何となく、御教えの語りが、新しいステージに入ったように感じられますね。
関連動画の紹介
これまでの当シリーズで毎回紹介している
「おふでさき」を現代文で理解するという目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
「語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第六号に関係する動画のリンク。
今回も、以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)
①現代訳で聞く、おふでさき06 1~54👇 https://www.youtube.com/watch?v=7HsZ1yWG5x4
②現代訳で聞く、おふでさき06 55~100👇 https://www.youtube.com/watch?v=Exgas_ANyTM
③現代訳で聞く、おふでさき06 101~134👇 https://www.youtube.com/watch?v=OrwCXnCEYks
改めて「おふでさき」【第六号】を散文で読む(括弧書きも外して)
これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。
「おふでさき」【第六号】散文(芹澤茂先生訳)
「おふでさき」【第六号】口語訳(芹澤茂先生)
(教祖七十七才 明治七年十二月より)
このたびは珍しいことを言い掛けるので、心を静めてこの話を聞いてくれ。
こう言っても、みんな神のすること言うことであるから、そばの者に心配を掛けるようなことではない。
これからする話を、どうかみな誰でも本当に心を静めて承知してくれ。
神が付け掛けているこの道は、どういうものと思っているか。
この世治める真実の道である。
上たる者の心に、“火と水”=神の守護 を分からすならば、ひとりでにこの世は陽気づくめに治まってくる。
この火と水を分からすというその段取りは、ここでよふきづとめをするのであると考えよ。
このつとめは、この世を創め掛けたのと同じことで、珍しいことをして見せるのである。
この世を創めてから今までにないつとめによって、もう一度創め掛けて、この世を確かに治める。
この世の月日の心にある真実のことを知っている者は、全く居ないであろう。
それ故、これからそれを話そう。
しかも、これまではどんな神と言っても、眼に見えないと言っていた。
このたびは、どんな神も、本当に眼で見えるように現われ出して、話をする。そういう話し方で話そう。
今からは、何を言っても思っても、そのまま直ぐに見えてくるので、“これは不思議た”ということになる。
“何ごとも秋を合図に見えかける”と言っておこう。
その秋=時が来たら、つとめをせねばならぬ。
それ故、よふきづとめに早くとりかかれ。
世界中から出てきて、神の話を聞いて、多くの人が暮らしている、その一人々々をみると、おしなべて、皆、靄(もや)の中にいるようである。
日々に、胸の内が澄み、神の話が分かるというように心の成人をしていくなら、神の思惑や神の働きは見えてくる。
この、今話題の、神の真実の道がしっかりと見えたならば、もう大丈夫だ。
この先をしっかりと楽しんでいよ。
段々と、心勇んで急込め。
早く本道へ急ぎ出るのだ。
そうして、つとめ人衆十人の真実の心を神が受けとったなら、それからは、どんなことも段々と神の思惑をみな説き聞かす。
日々、神の心は急いても、人衆十人の心が揃わなくては話ができない。
今つとめに出ている十人の中に、三人の片腕ともなる者は、“火水風が退く”=守護がなくなる ことがあると知れ。
どんなことでも神のする事である。
これをただの病と決して思うな=神の思惑を悟れ。
神はなんでも真実の神の自由自在の働きを知らせたい故にして見せるので、心を受けとれば、たすけるのである。
これまでは、世界に様々の教えがあって、これによりどんな道も通ってきたが、人間は、その日が来ないので真実を知らず、いずんでいたのである。
この先は、どんなことでも段々と順序を追って、本当の真実、神の話をにほんの者から言って聞かせて、勇むようにしよう。
今までは、どんな神=神々も沢山あって、拝み・祈禱によるたすけをすると言ってきたが、このたすけの元を知っている者があるならば、尋ねて行ってみよ。神が許す。
また先は人が寄り、いさんでくるので、どんなことも段々とみな教え、本道を付けたことならば、どれ程の楽しみであろう。
今までにないことばかり言いかけて、よろづたすけのつとめを教える。
この、今話題のつとめについて言えば、十人の人衆の中に元初まりの親である月日がいるのである。
その親が、いざなぎといざなみの雛形となるものを引き寄せて、人間を創め掛ける守護を教えたのである。
このつとめの元は、元初まりにおいて泥海中に魚と巳とがいて、それを引出して夫婦の雛形としたところにある。
この世の元初まりは泥の海で、その中に泥鰌ばかり沢山いた。
そのうちに魚と巳とが混じっているので、よくよく見ると、人間の顔をしている。
それを見て、これを人間の雛形として創め掛ければ人間が拵えられる、と思い付いたのは、全く月日の心からである。
このもの=魚と巳に神の働き・守護を受け持つ道具を寄せて、段々と人間を創め掛ける守護を教えたことなら出来る。この道具は、くにさづちの道具と月よみの道具と、これを、それぞれ巳と魚の身の内=体 に仕込んだなら、夫婦の雛形となろう。
その外、くもよみとかしこねとをふとのべとたいしよく天の、それぞれの道具を寄せたことなら道具が揃うであろう。
このようにして、雛形と道具が揃ったなら、それからは、確かに人間と人間の住む世界ができる故、この世界を創めよう、という神の相談がまとまりがついたのである。
これからは、ない人間ない世界を拵える上での神の守護というのは、並大抵なことではなかったのである。
今までにないことを創めるというのは、何を言うのも難しいことである。
この世を創め掛けたことについての真実を、誰も知っている者はいないであろう。
これからは、どんなことも段々と順序を追って言って聞かす。
これを嘘と考えるな。
人間を創め掛けたのは、魚と巳とを寄せて、これを、それぞれ種と苗代にして創め掛けた。
このものに、月日が体内に入込んで、段々と人間を創め出す守護を教え込んだ。
そして、泥鰌を種として人間を創ったが、この子数は九億九万九千九百九十九人である。
この人数を三日三夜かかって宿し込み、その場所に三年三月留まっていた。
それから生まれ出したものは五分で、五分から五分五分と成人した=大人になった。
このもの=巳に、一度教えた守護によって、同じ=巳 の体内に、同じ子数の人間が三度宿ったのである。
この世の真実の神は月日である。
その他のものはみな道具である。
人間を創めようというので、段々と寄せて使ったもので、これに神名を付けたのである。
いざなぎ といざなみ とが「一の神」である。
これ=この守護の理 は、“天照皇太神宮”=伊勢神宮 として拝んでいるものである。
また先=将来 は、元初まりの話やその他、何でも、段々、順序を追って説くけれども、これは皆、今までに人間の知らぬ話ばかりである。
その話をしたい故、この先は、何を言っても、まず人間を創め掛けたことばかり話して聞かす。
ここは、この世を創め出したという いんねんのある屋敷である。
教祖は、人間を創めた時の元の親であるという魂のいんねんを持つ。
月日は、それ=そのいんねん を見澄ましていて、旬刻限を待って天降り、何でも知らしたいから色々段取りをしている。
月日が心に強く思っていることは、“めいめいの社”を貰い受けたい、ということである。
そうなったなら、話通りなのを見て人々の心も澄む故、自由自在にいつでも思うままに話をしようと思っているのに。
今までも、“月日のやしろ”=教祖 はしっかり貰い受けてあるけれど、めいめいの社は貰い受けてない故、それを見て人々の心もいずんでいた。
このたびは、もうそんなことよりも、月日が確かに表へ現われて、なんでもみな話して聞かせよう。
今までは、御簾の内らに居たから、外からは月日のことが何も見えなかったが、このたびは赤い=明るい所へ出たから、月日の働きはどんな事も直ぐに見える。
この、教祖が着ている赤い着物をなんと変に思っているのか。
中に月日が籠っているのである。
今までも、月日の“まま”=自由に何ごともできるのであるが、その日=丁度よい日 が来ないので、そのまま見許していた。
このたびは、もう十分に日も来たので、何でも月日が自由自在の働きによって“まま”=自由 にする。
それ=自由自在の働き を知らず、高山は何を考えて、何でも “まま”=自由 にしているのか。
何ごとも、この所=教祖 には人間の心があるとは全く考えるな。
どんなことを言っても、筆先に書いても、これは月日の心の指図である。
高山は、何を言っても思っても、みな人間の心の指図である。
月日が付けた「天理王命」という名前を取払おうとした。
この残念を何と思うか。
月日の立腹や残念は容易なことではないと考えよ。
今までは、“高い山や”と言って威張って、何でも万事ままにしたけれど、これからは 月日が代わって“まま”=自由 にする。
何でもよい、できるなら真似をしてみよ。
このところでは、何を言ったり何をしたりするのも、みな月日の思う通りのことばかりである。
これからは、月日の心の残念を晴らすための段取りばかりする。
この先は、どんなほこりが立って身上・事情が起きても、これを病や災難であると決して思ってはいけない。
月日の残念が現われたのだと考えよ。
今までも月日の残念は、山のように積もっている。
これを晴らすために「かやし」をする。
今までも「かやし」と言って説いてきたが、何の事かと思っていたであろう。
誠に「かやし」というのは、この、埃が立つということである。
特に、高山の者はよく覚えておくがよい。
この世の初まりは泥海中のことで、そこに月日がいただけであった。
月日は思い付いた。
“そうだ、人間の世界を創め掛けたら”
ない世界を創め掛けるのは難しいことである。
“そうだ、人間を拵える道具を見付けなければならぬ”
そう思ってよく見てみると、泥海の中に泥鰌も魚も巳も、その他のものも皆見えている。
“そのもの達を皆引き寄せて談じ合い、人間を拵える守護を教えて創め掛けたら”
と相談した。
ない世界を創めようとして、この月日が、段々と順序を追って心を尽くしてきた上から人間の世界があるのだ。
この、人間の通ってきた道を知っている者は全くいない。
この残念を何と思っているのか。
これ程に思って創めたこの世界なのに、人間は何も知らぬ。
月日の心には 何と残念なことか。
月日が 段々と 心を尽くしきって守護してきた、その上での人間である。
それを知らず、今のところは高山は、みな幅を利かして“まま”=自由 にしている。
月日には、第一にこれが残念である。
どんな「かやし」をするか分からぬぞ。
この世界において、山崩えなども雷も、地震や大風は月日の立腹、残念の現われである。
どんな大社、高山も油断するな。
いつ何どき、月日が飛んで出るか分からぬぞ。
一れつに誰でも、皆、わが身に気を付けよ。
「かやし」をするのに、月日は遠慮をするようなことは全くない。
何もかも、精一杯、前もって断っておいて、それから月日の仕事に取り掛かるのである。
月日が働けば「かやし」が見えてくるが、どんなことが現われても、他人を恨んではいけない。
みんな、めいめい=自分 が自分を恨むことである。
この話は、段々と今まで順を追って何遍も口説いてきたことである。
これをしっかり聞き分けてほしい。
一れつに誰でも、皆、めいめいの胸次第である。
その胸の内を月日が見分けていると思え。
月日は、真実の心を見定めて、受け取り次第に「かやし」をするのである。
今までは、何を言っても思っても、みな人間の心だけが基準であった。
これからは、善い事をしても悪い事をしても、そのまま直ぐに月日が「かやし」をする。
今までは、このことについては 人間の悟り=理解 もあったけれど、もうこれからは、悟りによってたすかるということはない。
この世の真実の親は月日である。
親は、何でも万事について守護をする。
これから言うことには、何を言っても嘘ということはない。
みな真実=本当のこと と思って聞き分けよ。
どんな事でも、月日が真実に心を尽くして、考えて、創めたことばかりである。
今までは、病と言えば “それ医者だ、薬だ” と言って、みな心配をしたけれど、これからは、痛みや悩みや出来物も、息・てをどりのさづけでみなたすける。
このたすけは、今まで知らぬことであるが、これから先は試しをしてみよ。
どんなに難しいように見える病気でも、月日の真実のこもった息のさづけでたすける。
月日が真実の心を見定めて、どんな守護もすると思え。
つとめによって、生まれ子が安産に、疱瘡も麻疹もしないように育ち、また、病まず若死にせずに暮らすことなら、どれほどの楽しみであろう。
このように、どんな自由自在のたすけもする、と言っても、みな月日の心から出ることである。
これをよく聞いておけ。
今までも大抵のことは口説いて説き諭してきたけれども、月日の思惑については、まだ言い足らない所がある。
このたびは、月日の残念を、積もり重なっているから、なんでも皆、言っておく。
この所=元の屋敷において、たすけ一条を止められているこの残念は、なんでも「かやし」をせずにおられぬ。
この「かやし」は “大社高山取払い” であり、“みな一れつは、わが身を気を付けよ” と言ったことを承知していよ。
この「かやし」の話を何と思って聞いているか。
“天火・火の雨・海は津波” が「かやし」である。
残念が現われるとこのようなことになるので、これほど月日が心配しているのに、世界中は何と思ってうっかり暮らしているのか。
段々と、このように口説きや嘆きをもって説いているが、真実になった心は、受け取ってたすける。
どんな者も、一れつに可愛いわが子である。
これをたすけようと見守っている、月日の心の心配をよく考えてくれ。
この世は、一れつは、全部、月日のからだであり、その中に懐住居している人間のからだは、みな、月日よりの「かしもの」である。
世界中の者がこの真実=真理・真相 を知ったならば、強気や強欲を出す者はいない。
この真実を知って、心が本当に分かったならば、怖いことも危ないこともない。
それなのに、月日が教えることはみな消してしまって、ただ人間心だけで思案している、それでどうしてたすかっていけようか。
今までも、この世を創めたことについての真実を教えておこうと思ったけれども、まだこれは控えている。
月日は、日々、心に急込んでいるが、教えるべき刻限を待っていると思え。
この話を何と思って聞いているか。
月日の思惑では、深い利益を考えて、その段取りをしているのだ。
こればかりは、人並の人間のすることと思うな。
月日の仕事は、大変な思惑があって していることである。
月日が自由自在の働きをすると幾度か説いてきたが、“まだ今までは見えたことはない” と思っている。
このたびは、自由自在を真実にして見せたならば、これが本当であるとわかる故、してみせよう。
どんな事をしても、みな月日がすることであり、真実の心、たすけ一条の心からすることである。
子供がほしいと思っても、胎内へ宿し込むのも月日の守護に依るのであり、生まれ出すのも、月日の世話取りであるから、神の話を真実の話として聞き、神にもたれよ。
このたびは、どんな事でも真実に現われ出して、して見せることにする。
今話題とした、これ=出生の問題がどうなるかを見て、どんな者も得心をせよ。
人間の心次第に、神は、どんな自由自在の働きもみせる。
どんなことをするのにも、真実の心を受け取り次第に、みな、して見せる。
以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第六号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第六号】の散文でした。
毎回、最後に記述しておりますが、
「おふでさき」口語訳の書写シリーズ、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。
散文化した後、
天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。
教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。
機会を見つけて読み返し、
少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。
しばらくは、このシリーズを続けます。
ということで、今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第六号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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