「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3

「「おふでさき」【第三号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

前々回前回と、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本の中の「おふでさき」の口語訳文を【通して】記載した記事を公開しました。

本年2月に入って始まった、“この「おふでさき」を散文で読む”シリーズは、
今まで見えていなかった「おふでさき」の景色が少しでも多く見えるようになりたい、
との思いから、
短歌調で書かれた「おふでさき」を、あえて【散文】で、読み物風に「通して」読んでみよう、
という企画であります。

【散文】で読むにあたっては、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という著作を教材とすることにしました。

そして、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』口語訳文を書写するにあたっては、
「おふでさき」原文を記載しそれと対比させる形で口語訳文を記載するというやり方では、
「おふでさき」を読み物風の散文として味わいたい、
という目的を今一つ達成しづらい感じがするので、
「おふでさき」原文は一切記載せず、ひたすら芹澤茂先生の口語訳文のみを書写、書き連ねる、
というやり方を取っています。

前回は「おふでさき」【第二号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第三号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3

arid arches national park desert

今回は、「おふでさき」【第三号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第三号】口語訳 書き写し

第三号

(七十七才老女 明治七戌年一月ヨリ)

「このたびは、門のうちから(今話題の)建物を 早く急いで取払いせよ。
そのあとをすっきりと掃除してしまったら、縄棟を急いで頼む。
本当に掃除を(すっきり)したら、そのあとは (うちの者の心が) 神一条(親神のお話一条)になって心がいさんでくる。
だんだんと (布教伝道が行われて)せかいの心もいさんでくるなら、これがにほんの治まりとなる。」
(1~4) 

「今までは (神の思惑は)どんなことも、はっきりとはわからなかった(であろう。
しかし、)これからは (心いさんでかかれば神もいさんで働いて) “不思議合図” ということが見えてくる (すなわち神の手引きによって人々が寄ってくる)。
来ない者に無理に来い というのではない。
(匂いが掛かって慕って信仰に) 付いてくるなら、いつまでもよし。」
(5~6) 

「これからは、水に例えて話すので、澄むと濁り ということから悟れ。」
(7) 

「神が 心から急込んでいるのは、しんのはしらを早く入れたい(ということである)。
この柱を早く入れようと思っても、濁り水のため 入れる所がわからない。
この (濁り)水を早く澄ます段取り(として)は、水嚢と砂に掛けて澄ますようにせよ。
そんな水嚢がどこにあると思うな、むね(悟り)とくち(諭し)とが 砂と水嚢である。」
(8~11) 

「この話が すみやかに悟りがつい(てよくわかっ)たら、直ぐにしんのはしらを入れる。
はしらさえ しっかり入れ(据え)たなら、この世は 確かに治まりがつく。
この話は (人間の考えではわからないので、心を澄まして) 悟る以外にはない。
これが悟れたら、証拠試しをする。」
(12~14) 

「この世の 人間(とこの世界)を 初め掛けた(創造した)元の神については、誰も(何も)知らないであろう。
泥海の中から (道具を寄せて これに色々の) 守護(の方法)を教え掛け、それ (そこに出来た人間)が だんだんと栄えてきた。
このたび たすけ一条(の道)を教えるのも、これも (今までに)ない事を初め掛けるのである。
今までにないことを 初め掛けるというのも、元拵えた(創造した)神であるから (できるのである。)」
(15~18) 

「日々に “神の話” が山ほどもつかえてあるが、説くに説かれない。
(神の方から) 何でも説くことはできるが、心を澄まして聞く者がない。
早く、心を澄まして聞くならば、どんな話も みな 説き聞かそう。」
(19~21) 

「(このかんろだいについては) この世の 確かな試しが懸けてある。
これに間違いない と思え。この試しが はっきりと見え(てき)たなら、(神の話は)どんな話も、みな本当である(ということの証拠となる)。
(それ故) 何もかも、どんな(難しい)話も説いておくので、何を言っても嘘と思うな。」
(22~24) 

「眼に見えぬ神の言うこと為すことは、何をするのか (簡単には)分からないであろう。
(しかし、)直ぐ (その通り実現されて)見える話であって、これが (神の話が真実であるという)確かな証拠である。
これを見て、何を聞いても 楽しんで(信仰について)来い。
どんな話も みんな これと同じ道理である。」
(25~27) 

「人の物を借りたなら、利息も要るし、早く返済して お礼を言うの(が世界の道理)である。」
(28) 

「子の夜泣きについて 考えている心は違う。
子が泣いているの(をなぜ泣くと思うな。そう)ではない。
神が口説いているのである。(このように前もって) 早々と神が知らしてやるから、(夜泣きだけでなく) どんなことについても (神の言うことを)しっかりと聞き分けよ。
親の心違いのないように、早く思案をするがよい。
(神の急込んでいることは たすけのことであるので) 本当に人をたすける心であるなら、神の口説きは何もない。」
(29~32) 

「当人が (勝手に) “今さえよければいい” と思うのは、心違いである。
出掛け(最初)から どんな大道を通っても、(そんな心ではやがて) 行く末の細道(を通らねばならない。それ)が見えて(分かって)いない。
人間は 浅はかなものであるから、行く末(どんなになるか、そ)の道筋は全くわからない。(それ故) 今のことを言ってはいけない。先の方には往還道(広い道)が見える。今の道が どんな道でも嘆くな。先の本 道を楽しんでいよ。」
(33~37) 

「本当に たすけ一条の心であるなら、何も言わずとも、神はその心を受けとる。
しんの心に 誠さえあるなら、口先の追従などは不要である。」
(38~39) 

「だんだんと 何事についても、この世は 神のからだということを思案してみよ。
(また) 人間(の体)は みな神のかしものである。何と思って 使っているのか。」
(40~41) 

「今年には珍しいことを初め掛ける。今までに(人間の)知らぬことをする。」
(42) 

「今までは (神のすることを)何ごとにつけても 世界並(に理解していた)。
これからは 胸の内より真にわかる(ようにせねばならぬ)。」
(43) 

「このたびは たすけ一条にとり掛かるにも、わが身の試しに懸かった上である。
たすけといっても (神の教えるたすけは) 拝み祈祷でたすけるのでも、伺いを立ててたすけるのでもない(が、神が必ずたすける)。
(それには、たすけのために働く者は) この所(お屋敷)で万事説いて聞かす(ことをよく心に覚えよ)。
(それが) 神一条であり、胸の内より(わかるということである。それ故) わかるように胸の内をすまして思案せよ。
“人をたすけたらわが身もたすかる”(のは道理であろう。わが身のことは心配するな)。」
(44~47) 

「高山は せかいの人をみな思うように勝手にしているが、(眼の前のことだけで) 先(将来)のことは 何にも見えていない。
(神は先を見てたすけるので、そのたすけのために働く者を) だんだんと多く寄せてはあるが、この立木(人)を 沢山寄せてはあるが、(精神が)いがみかがみの(曲がった)者は よふぼくになれない(ということを思案せよ)。」
(48~50) 

「世界中 胸の内より(わかるように) しんばしらを早くみせたい。
これを神は急込んでいる。
(そうしておいて)世界中(うちもせかいも)胸の内を掃除する。
この掃除には 神が箒となるから、しっかりと見ていよ。
これからは 神が表へ現れて、山(人間の生活)にかかわって掃除する。
全部 みな神が掃除をしたなら、(人間も神も) 心がいさんで 陽気づくめとなる。
(このたすけ一条の道は) なんでも皆、神が引き受けるから、どんな事でも、自由自在(に神がたすけをさせるの)である。」
(51~55) 

「このたびは うちを治める真柱を入れたい(故に) 水を澄まして(いくのを急込んでいる)。
(うちの真柱に対して) 高山の芯の柱はとうじん(からの者・神のことがわからぬ者)である。
これが 第一に神のりっぷく(の元である)。
(その高山に居る)上たる者は、ずっと (今まで)だんだんと 世界(の人々)を ままに(自由に)している。
(これを見ている)神のざんねんを 何と思っているか。」
(56~58) 

「今までは 何を言っても見えて(実現して)ないが、もう このたびは (実現すべき)せつ(時節)が来た。
これから よふきづとめ(の段取り)に再びとり掛かるが、どういうことか ちょっとには分からないであろう。
今までも “知りて話して話する” と説いてあるが、これも何のことか分からない(でいずんでる)。
(それも無理はないので) これまでは、どんな話も説き聞かせたが、その日が来ないので (話の通りに)実現していない(から)。
(しかし もう)これからは 時節が到来したので、言えば そのまま実現してくる。
(その例を予言しておくから) しっかり聞いておけ。
“三六二五の暮合いに 胸の掃除を 神がする。”」
(59~64) 

※「三六二五の暮合い」は 日時を指定しているのであるから、
「二五」は二十五日で、月は当月のため省略され、「三六」は 三十六年とする。
三十六年は立教三十六年である と従来より解釈されている。

これは推定であるが、このお歌の執筆より三日後の 陰暦明治六年十月二十五日 とも理解できる。

『註釈』によれば、ある月の二十五日に信者が来て お屋敷の掃除をしたという。

多分、今日 よく知られている“ひのきしん”として そのようなことがあり、
珍しい出来事として当時のお屋敷の人々に受けとられたが故に、伝えられたもの
と思われる
(『註釈』参照)。

(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,88)

「思案してみよ。
どれほど澄んだ水でも、泥を入れれば濁る。
濁り水を早く澄ましてしまわないことには、しんのはしら の入れようがない。
(心を澄まして) はしらを早く入れたことなら、末代にまで しっかり治まりがつく。」
(65~67) 

「この世を 創めた神の真実(の話)を説いて聞かす。嘘と思うな。
今までも しんがく(心学・神学) こふき(古記)(の如き教理) はあるが、元を知って(教えて)いるものはない。
それもその筈で、泥海なかより(初まって今日に至った人間)の道すがら(道程)を知っている者はないのだから。」
(68~70) 

「これまでは、この世を創めてから、ない事(知らないこと)を だんだんと説いて聞かせる。
何もかも ない事ばかり説くけれども、これに 間違ったことはない(みんな真実である)。」
(71~72) 

「十一に 九で(二十)苦がなくなって 辛を忘れる 正月二十六日を待つ。
この間に しんも付きくる(ので、) 欲を忘れて、人衆が 揃ってつとめのできる準備をする。」
(73~74) 

※(おふでさきの)七三(のおうた)で述べられた数字は、
11+9=20 とも、中山たまへ 十一歳 で 教祖 九十 の時 とも、
11-9=2 で一桁上がって (“芯はずれ”をこのように解釈して) 二十 とも、
種々の解釈があるが、
要は、明治二十年 を指定している。
これは、「おさしづ」の中でそのように言われているのである。

明治二十年陰暦正月二十六日 を予定の日として、
それまでに かんろだいも据えられるので、
“欲を忘れてひのきしん” (「みかぐらうた」十一下り目) の心で、人衆が揃ってつとめができる用意を整えることが これからの仕事である、
という意味である。 

(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,92~93)

「日々に 神の心に急込んでいるのは、自由自在(のたすけの守護)を 早く見せたい ということである。
これからは 人衆が揃って(かんろだいの)つとめをする。
(このつとめによって 珍しい自由自在のたすけの証拠ができるので、)これで確かに にほんは治まる。」
(75~76) 

「真実にたすけ一条であるから、どんな怖いことも全くない。
(ただ、)なんでも たすけ一条を止めるというなら、神のざんねんが (その者の)身上に現れてくる(とだけは言っておく)。
よく思案してみよ、よろづたすけをする このもよう(手段)は 人間業と少しでも思ってはいけない。
今までは (胸が分からないため)何についても 無知のままに、人間心でやってきた(が、これは違う)。」
(77~80) 

「これからは 神の心と上たる者の 心と心をひき合わせる。
この話をちょっとしたことと思うな。
神が、(上が無知故に せかいを危ない道に指導していく)真実を見かねた故(にする大事な話)である。」
(81~82) 

「これからは、神の力と上たる者の力と、力競べをすると思え。どれ程の剛的(剛の者)でも、居るなら出してみよ。
神の方には倍の力がある。真実の神が表へ出るのであるから、どんな手段をも講ずると思え。」
(83~85) 

「今までは からがにほんをままに(自由に)した。
この神のざんねんを どうしよう(と思う程である)。
この先は (神がにほんの者を連れて表へ出るから)、にほんが からをままにする(、そうして この世を治めていく)。
みな一れつは 承知していよ。
(にほんもからも) 同じ樹(人間)の 根(元)と 枝(先)との ことであるから、(何かの異変があるときは) 枝先は折れてくるし、根元は栄えでる。」
(86~88) 

「今までは からは偉いと言っていたが、これから先は 折れるばかりである。
にほんを見よ、小さいように思っていた(のであろう)が、根(元)が現われれば恐れ入るぞ。
“この(にほんの)力は 人間業と思われない、これは神の力だ、これは かなわない”(と からの者は言うようになる)。」
(89~91) 

「この世は (一れつ人間は)、賑わしく くらしているけれども、(人間生活の)元を知っている者はいないので(人々は苦しんでいる)。
この元を詳しく知ったならば、病(などの身上・事情)の起きることはないのに。」
(92~93) 

「何にも知らないで くらしているこの子供が、(神の眼には)いじらしい。
どんなことでも、病というものはない。病があるのは 心違いの道があるからである。
この道というのは、をしい・ほしい・(にくい・)かわい・(うらみ・はらだち・)よく・こうまん、これがほこり(であり、病の元となる)。」
(94~96) 

「この世の人間は みな神の子であ(り、神はをや(親)であ)る。
(親である)神の言うことを しっかり聞き分けて貰いたい。」(97) 

「ほこりさえ すっきりと払ったなら、そのあとは(だんだんと様々の守護を教えて)珍しいたすけをする。
真実の心(を受けとり)次第にたすけるので、このたすけによって (人間が)病まず・死なず・弱らないようにしたい。
(また、)このたすけとは、百十五歳定命と定めたい。
(これは全く) 神の心の一条(に思う話である)。」
(98~100) 

「日々に 神の心の急込みを、そばなる者は 何と思っているか。
上たるものを 怖いと思っていずんでいるが、神の急込み(について 上を)怖いと思うことはない。
胸がわるい(と言っている)が、これを病と思うな。
(これは)神の急込みがつかえた故 (神の守護ができなくなった結果)である。」
(101~103) 

「神の心(に考えていること)と言えば、だんだんと (順序を追って)不思議を現わし、たすけを急込む(ことである)。
この不思議は 何のことかと思っているが、ほこりを払って掃除を仕立てる(こと、それによってみなの心を澄ます)ことである。
そのあと 早くはしら(かんろだい)を入れたなら、これで この世の定めがつくのである。
この話が 早く(実現して皆に)見えてきたならば、どんな者でも (神の言うことを)得心せよ。」
(104~107) 

「今までは 証拠試しをすると言ってあるが、(この話題になっている)かんろだいについても、何のことであるか わかっていない (得心がいっていない)。」
(108) 

「(今話題になっている)この者 (お秀)は、四年以前に迎い取り (出直させ)、神が抱きしめているが、これが証拠になるのである。
真実に(思うことは) 早く(この者を)返す (生まれ返す)段取りが 神の急込みの第一である。」
(109~110) 

「これまでは 自由自在(のたすけをする)と何度か説いてきたが (時節が来ないため) 何も見えた(実現してきた)ことはないけれど、これからは どんな話を説いておいても、それが見えた(実現してきた)なら、自由自在ということがわかる(ので、神の話は 必ず実現するものである)。」
(111~112) 

「今までのことは、何も言ってくれるな。
(正月)二十六日に始め掛ける。
(そのために) これからは せかいの心をいさめかけ(るもようと)、にほんを治めるもようをする。」
(113~114) 

「人間の心というのは 浅はかで、(眼の前に)見えた事ばかり言う。
これからは (今までに)ないことばかり説いておく。
これから先(にどうなるか)をしっかり見ていよ。どんな事でも だんだん(順序を追って)言い掛ける。
(眼の前に)見えている(ような)ことは 決して言わない。」(115~117) 

「この世を創めた神のしんばしらを 早く(据え)つけたい。
これが 神の一条(の話である)。
眼に見えない神の言うことすることを だんだん(順序を追ってよく)聞いて、思案してみよ(、わからぬことはあるまい)。」
(118~119) 

「今の道を、上のまま(自由)と思っているが、それは心違いである。
(この世は 神が治めているので)神のままである。上は世界中をままにする。
これをざんねん と思う神の心を知れ。
これまでは 万事 世界は上のままであった。
しかし もう これからは文句が変わる (ままにできない)。」
(120~122) 

「この世を 創めてから(のこと)は 何もかも説いて聞かしたことはないので (神が守護していることを知らず)、上は 世界中をわが儘に思って (ままにして)いるのは 心違いである。
高山に育つ木も 谷底に育つ木も みな 同じことである (木に変わりはない)。
人間(のからだ)は みな 神のかしものである。
神の自由(であること)を知れ。
すべての人は みな わが身を気を付けていよ。
神がなん時 どこへ行く(働きに出る)か わからぬぞ。」(123~127) 

「ちょっと話(するので よく聞け)。
神の心の急込みは よふぼくを寄せる段取りである。
(今までにも) だんだんと 多くの立木があるけれど、どれが よふぼくであるか知れまい。
よふぼくも 少しぐらいでなく、多くの用材が ほしいいのだ。」
(128~130) 

「日々に よふぼくはていりをする。
どこがわるいと思ってはならない。
同じ(ように見える)木でも、だんだん手入れするものもあり、(切り倒したまま) 横たえておくのもある。」
(131~132) 

「どのような 自由自在(のたすけも現わすところ)の この(今話題のつとめによる)試しは、ほかのところではしない。
今までも 試しと言って説いてきたけれど、もう (今度のかんろだいのつとめは) 試し納め(最後の試し)である。」
(133~134) 

「だんだんと 何ごとについても “この世は神のからだ” である。
これを よく思案してみよ。
このたびは 神が表へ出ているから よろづのこと(万事)を 皆教える。
めいめい(各自)の “身の内(体)は(神のかしもの・人間にとっては)かりもの” であることを知らなくては、ほかのことは何もわからない(ので、このことは まず しっかり心に理解して記憶せよ)。」
(135~137) 

「思案せよ。
病というものはない。神のみちをせ(道教え) いけん(意見)である。
ちょっとした眼がわるいとか 出来物とか、のぼせや痛みなどは、神のてびき(手引き)である。」
(138~139) 

「今までは高い山といっても、よふぼくが見えてないが、この先は高山にもだんだんとよふぼくを見出す段取りをする。」
(140~141) 

「一れつに (世界中を)早くたすける(ために だんだんと話して聞かしている)このもよう (よふぼくによる布教伝道)(によって)、上下共に 心をいさましていく。
(このたすけ一条の道によって) 日々に (少しずつでも)世界の(人々の)心が いさんでくるなら、作物の成育も 盛んになる。
なんでも たすけ一条で(世界中をたすけて)いって、(世界の人々の心の中にある) 謀叛の根を早く切りたい。」
(142~144) 

「今の道は 埃だらけであるから、箒をもって掃除する。そのあとの道は、広々として ごもく(芥)もない。
幾人でも連れて通るがよい。」
(145~146) 

「(明治七年)二月二十二日の 五ッ刻(午前八時頃) に話しかける。
よろづいんねんを みな 説いて聞かせる(と予告しておく)。
高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、(比べて)思案せよ。
日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。
これが “こふき” となるものである。」
(147~149)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,64~124
さまよい人
さまよい人

「おふでさき」【第三号】は「149首」もあります。
47首しかなかった【第二号】の約3倍!!

「おふでさき」中、最多かと思ったら…
【第十二号】は もっと多くて「182首」もあるのですね。

すなわち、【第三号】は「おふでさき」の中で2番目に沢山のおうたがある号、
ということです。

以上、芹澤茂著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の書き写しでした。

「149首」と沢山のおうたがあるために、かなりのボリュームになりました。
最後まで読み通すのも一苦労ですね(笑)

しかし、「おふでさき」原文は短歌調。短い「おうた」が大量にある、というわけです。

短歌調という“細切れフレーズ”の集積は、
量が多いが故に、より「全体像」が見えにくくなる面があるのではないだろうか。

このたびの長い大量のまとまりを扱う作業を経て、
私は、
「全体像」を掴むという上では、【散文化】したものを「通して」読む方が有効ではないか、
と、改めて感じました。

実際にそれを腹の底から実感できるほど【散文化】したものを読み込めてはいないので、
それを自信満々に主張する資格はありませんが…(汗)

「おふでさき」【第三号】の概要

「No,3」の文字

次に、前回同様、
「おふでさき」【第三号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第三号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第三号について】

おふでさきは、すべて陰暦によって書かれているのですが、
第三号以降、各号の表紙の年月は陽暦になっています。

これは、表紙は教祖が書かれたものでないことを物語っています。
「明治七戌年一月ヨリ」とありますから、陰暦でいえば明治六年十一月十三日以降ということになります。

おふでさき第一号、第二号は、共に明治二年に記されたものですから、
第三号が執筆されるまでに 四年以上の空白があります。

なぜ、それほどの間、筆を執られなかったのかというと、
第一号、第二号で諭された内容を、
読む者の立場に立って、十分に理解できるまでの思考の時間を与えられた、
と考えることができます。

教祖が事を進められる場合、
まず、教え方の段取り・順序というものを常に考えられています。

一つのことが理解できたら次のことへ進むというように、だんだんと教えの深みに導いていかれます。
そうした親心が、このことにも現れていると思います。

もう一つ大切なのは、
この明治七年と翌八年の両年で、おふでさきは第三号から第十一号まで、全体の半分以上が書かれていることです。

『教祖伝』を拝すと、明治七、八年は、内外ともに多事多端でありますが、
その一方で、教祖のたすけ一条の道をつける急き込みがピークに達している時期であったように思えます。

それだけに、おふでさきによる急き込みにも厳しさが感じられます。

ちなみに、明治七年の主な出来事を挙げておきたいとおきます。

  • 正月、親神様に供えらえた鏡餅を、参拝者に振る舞う「お節会」が早くからあったが、
    それが賑やかになってきた。
  • 六月十八日(陰暦五月五日)、
    かねて教祖のご生家前川家に製作を依頼されていた「かぐら面」を受け取りに行かれる。
  • 陰暦六月、証拠守りを渡しはじめられる。
  • 陰暦十月、仲田、松尾の両名を大和神社に遣わし、神祇問答をさせられる。
  • これが原因となって、
    十二月二十三日(陰暦十一月十五日)、教祖は山村御殿(円照寺)に呼び出しを受けられ、
    二十五日には、辻、仲田、松尾の三名が奈良中教院に呼び出される。
    それまでのいわば私的な理由による反対攻撃が、公的な立場からの弾圧へと変わっていく。
  • その直後の十二月二十六日から、教祖は赤衣を召される。
  • さらに重要なことはに、このころから、身上たすけのためのさづけが渡される。

『教祖伝』を拝すと、
明治三年から六年までは、特に大きな反対攻撃もありませんので、
人間心では、大和神社での神祇問答などなければよかったのに、と思いがちですが、
おふでさきの内容からすれば、教祖の「高山布教」が始まった時期であったことに気づくのです。

この明治七年には、第三号から第六号の半ばまでが記されたと推定されます。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P65~66)
さまよい人
さまよい人

(第一号、第二号執筆後)第三号が執筆されるまでに四年以上の空白があります。
なぜ、それほどの間、筆を執られなかったのかというと、
第一号、第二号で諭された内容を、
読む者の立場に立って、十分に理解できるまでの思考の時間を与えられた、
と考えることができます。


という矢持先生のご指摘文を読んで、
“そういうことだったのか!”と、今さらながら感動しました。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第三号の概要】


つとめの芯、内の治まりの芯だる「はしら」(イ、かんろだい ロ、真柱) を入れることを中心とするつとめのもよう立てを急き込まれる。

また、その前提となる屋敷の掃除、胸のそうじ、心の成人について、
水、ほこりのたとえを用いて分かり易く教えられると共に、
たすけの理話の台とも言うべき、かしもの・かりものの教理に言及される。

そして、人をたすける心こそが親神の思いに適う心であると、その核心を教示される。

さらに、神一条で、勇んでつとめる陽気づとめこそが、世の治まりの根本であると仰せられる。

また、この世の創め出しと 立教が 一つ理のものであることを明かす 元の理の話を 説き始められる。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,60)
さまよい人
さまよい人

「元の理」の話は、
“この世の創め出し”と “立教”が、「一つ理」のものであることを明かすためのものなのですね!!

関連動画の紹介

inside the library

前回も紹介しましたが、
「おふでさき」を現代文で理解するという目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第三号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

現代訳で聞く、おふでさき03 1-41👇 https://www.youtube.com/watch?v=jus4za9rv8g

現代訳で聞く、おふでさき03 42-91👇  https://www.youtube.com/watch?v=9nmaUghgZ9Q

現代訳で聞く、おふでさき03 92-149👇  https://www.youtube.com/watch?v=QRl6CqwOMWM

改めて「おふでさき」【第三号】を散文で読む(括弧書きも外して)

uncle sitting on an outdoor bench reading a book

前々回前回
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置きました。

今回も、「おふでさき」を散文でより味わいやすくするために、
最後に、それを置いておきたいと思います。

「おふでさき」【第三号】散文(芹澤茂先生訳)

「おふでさき」【第三号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十七才 明治七年一月より)

このたびは、門の内から 今話題の建物を早く急いで取払いせよ。
そのあとをすっきりと掃除してしまったら、縄棟を 急いで頼む。
本当に 掃除をすっきりしたら、そのあとは、うちの者の心が “神一条”=親神のお話一条になって心がいさんでくる。
段々と布教伝道が行われて、世界の心も勇んでくるなら、これが にほんの治まりとなる。 

今までは、神の思惑は どんなことも、はっきりとはわからなかったであろう。
しかしこれからは、心勇んでかかれば、神も勇んで働いて、“不思議合図”ということが見えてくる、すなわち、神の手引きによって 人々が寄ってくる。
来ない者に無理に来い というのではない。

匂いが掛かって 慕って信仰に付いてくるなら、いつまでもよし。 

これからは、水に例えて話すので、澄むと濁り ということから悟れ。 

神が心から急込んでいるのは、しんのはしら を早く入れたいということである。
この柱を早く入れようと思っても、濁り水のため、入れる所がわからない。
この濁り水を、早く澄ます段取りとしては、水嚢と砂に掛けて澄ますようにせよ。
そんな水嚢が どこにあると思うな。

“むね”=悟り と “くち”=諭し とが 砂と水嚢 である。 

この話が すみやかに悟りがついてよくわかったら、直ぐに「しんのはしら」を入れる。
「はしら」さえしっかり入れ 据えたなら、この世は 確かに治まりがつく。
この話は 人間の考えではわからないので、心を澄まして悟る以外にはない。
これが悟れたら、証拠試しをする。

この世の人間と この世界を初め掛けた、創造した元の神については、誰も何も知らないであろう。
泥海の中から道具を寄せて、これに 色々の守護の方法を教え掛け、それ、そこに出来た人間が 段々と栄えてきた。
このたび たすけ一条の道を教えるのも、これも、今までにない事を始め掛けるのである。
今までにないことを始め掛けるというのも、元拵えた、創造した神であるから できるのである。 

日々に “神の話” が山ほどもつかえてあるが、説くに説かれない。
神の方から何でも説くことはできるが、心を澄まして聞く者がない。
早く、心を澄まして聞くならば、どんな話も みな説き聞かそう。 

このかんろだいについては、この世の 確かな試しが懸けてある。
これに間違いないと思え。
この試しが はっきりと見えてきたなら、神の話は、どんな話も みな 本当であるということの証拠となる。
それ故、何もかも、どんな難しい話も説いておくので、何を言っても嘘と思うな。

眼に見えぬ 神の言うこと為すことは、何をするのか 簡単には分からないであろう。
しかし、直ぐ その通り実現されて見える話であって、これが 神の話が真実であるという確かな証拠である。
これを見て、何を聞いても 楽しんで信仰について来い。
どんな話も みんな これと同じ道理である。 

人の物を借りたなら、利息も要るし、早く返済して お礼を言うのが 世界の道理である。 

子の夜泣きについて 考えている心は違う。
子が泣いているのを なぜ 泣くと思うな。
そうではない。神が 口説いているのである。

このように 前もって早々と神が知らしてやるから、夜泣きだけでなく どんなことについても、神の言うことを しっかりと聞き分けよ。
親の心違いのないように、早く 思案をするがよい。

神の急込んでいることは たすけのことであるので、本当に 人をたすける心であるなら、神の口説きは 何もない。 

当人が 勝手に “今さえよければいい” と思うのは、心違いである。
出掛け、最初から どんな大道を通っても、そんな心では、やがて 行く末の細道を通らねばならない。それが 分かっていない。

人間は 浅はかなものであるから、行く末どんなになるか、その道筋は 全くわからない。
それ故、今のことを言ってはいけない。

先の方には 往還道、広い道が見える。
今の道が どんな道でも嘆くな。先の本道を 楽しんでいよ。 

本当に たすけ一条の心であるなら、何も言わずとも、神は その心を受けとる。
しんの心に 誠さえあるなら、口先の追従などは 不要である。 

だんだんと 何事についても、この世は 神のからだということを思案してみよ。
また、人間の体は みな 神のかしものである。
何と思って 使っているのか。 

今年には 珍しいことを始め掛ける。
今までに人間の知らぬことをする。 

今までは、神のすることを 何ごとにつけても 世界並に理解していた。
これからは 胸の内より 真にわかるようにせねばならぬ。 

このたびは たすけ一条にとり掛かるにも、わが身の試しに 懸かった上である。
たすけといっても、神の教えるたすけは 拝み祈祷でたすけるのでも、伺いを立ててたすけるのでもないが、神が 必ずたすける。
それには、たすけのために働く者は、この所、お屋敷で 万事説いて聞かすことを よく心に覚えよ。
それが 神一条であり、胸の内より 分かるということである。

それ故、わかるように 胸の内をすまして思案せよ。
“人をたすけたら わが身もたすかる” のは道理であろう。

わが身のことは 心配するな。 

高山は せかいの人を みな思うように勝手にしているが、眼の前のことだけで、先、将来のことは 何にも見えていない。
神は 先を見てたすけるので、そのたすけのために働く者を 段々と多く寄せてはあるが、この “立木”=人 を沢山寄せてはあるが、精神が いがみかがみの 曲がった者は よふぼくになれない ということを思案せよ。 

世界中、胸の内より分かるように「しんばしら」を早くみせたい。
これを 神は急込んでいる。
そうしておいて、世界中、うちもせかいも 胸の内を掃除する。
この掃除には、神が箒となるから、しっかりと見ていよ。
これからは 神が表へ現れて、“山”=人間 の生活にかかわって掃除する。
全部 みな 神が掃除をしたなら、人間も神も 心が勇んで 陽気づくめとなる。
この たすけ一条の道は、なんでも 皆、神が引き受けるから、どんな事でも、自由自在に神がたすけをさせるのである。

このたびは、うちを治める真柱を入れたい故に 水を澄ましていくのを急込んでいる。
うちの真柱に対して、高山の 芯の柱は “とうじん”=からの者・神のことがわからぬ者である。
これが第一に、神の立腹の元である。

その 高山に居る、上たる者は、ずっと今まで、段々と世界の人々を、“まま”=自由 にしている。
これを見ている神のざんねんを 何と思っているか。 

今までは、何を言っても見えて実現してないが、もう このたびは、実現すべき “せつ”=時節 が来た。
これから、よふきづとめの段取りに再び取り掛かるが、どういうことか ちょっとには分からないであろう。
今までも、“知りて話して話する” と説いてあるが、これも 何のことか分からないでいずんでる。
それも無理はないので、これまでは、どんな話も説き聞かせたが、その日が来ないので、話の通りに実現していないから。
しかし、もうこれからは 時節が到来したので、言えば そのまま実現してくる。
その例を予言しておくから、しっかり聞いておけ。
“三六二五 の暮合いに 胸の掃除を 神がする。” 

思案してみよ。
どれほど澄んだ水でも、泥を入れれば濁る。
濁り水を早く澄ましてしまわないことには、しんのはしらの入れようがない。
心を澄まして「はしら」を早く入れたことなら、末代にまで しっかり治まりがつく。 

この世を 創めた神の真実の話を説いて聞かす。嘘と思うな。
今までも “しんがく”=心学・神学、“こふき”=古記 の如き教理はあるが、元を知って教えているものはない。
それもその筈で、泥海中より始まって今日に至った人間の道すがら、道程を知っている者はないのだから。 

これまでは、この世を創めてから、ない事、知らないことを 段々と説いて聞かせる。
何もかも ない事ばかり説くけれども、これに間違ったことはない、みんな真実である。 

十一に九で(=二十)、苦がなくなって、辛を忘れる「正月二十六日」を待つ。
この間に しんも付きくるので、欲を忘れて、人衆が揃ってつとめのできる準備をする。 

日々に 神の心に急込んでいるのは、自由自在のたすけの守護を早く見せたい ということである。
これからは、人衆が揃ってかんろだいのつとめをする。
このつとめによって、珍しい自由自在のたすけの証拠ができるので、これで確かに にほんは治まる。 

真実に たすけ一条であるから、どんな 怖いことも全くない。
ただ、なんでも たすけ一条を止めるというなら、神のざんねんが その者の身上に現れてくる とだけは言っておく。
よく思案してみよ、よろづたすけをするこの “もよう”=手段 は、人間業と少しでも思ってはいけない。
今までは、胸が分からないため 何についても無知のままに、人間心でやってきたが、これは違う。 

これからは 神の心と上たる者の 心と心を ひき合わせる。
この話を ちょっとしたことと思うな。
神が、上が無知故に世界を危ない道に指導していく真実を見かねた故にする 大事な話である。 

これからは、神の力と上たる者の力と、力競べをすると思え。
どれ程の 剛的、剛の者でも、居るなら出してみよ。神の方には 倍の力がある。
真実の神が表へ出るのであるから、どんな手段をも 講ずると思え。 

今までは からがにほんをままに自由にした。この 神のざんねんをどうしよう と思う程である。
この先は 神がにほんの者を連れて表へ出るから、にほんがからをままにする、そうしてこの世を治めていく。
みな一れつは 承知していよ。
にほんもからも、“同じ樹”=人間 の “根”=元 と “枝”=先 とのことであるから、何かの異変がある時は、枝先は折れてくるし、根元は栄え出る。 

今までは からは偉いと言っていたが、これから先は 折れるばかりである。
にほんを見よ、小さいように思っていたのであろうが、“根”=元 が現われれば 恐れ入るぞ。
“このにほんの力は人間業と思われない、これは神の力だ、これはかなわない” と、からの者は言うようになる。 

この世は、一れつ人間は、賑わしく暮らしているけれども、人間生活の元を知っている者はいないので 人々は苦しんでいる。
この元を詳しく知ったならば、病などの身上・事情の起きることはないのに。 

何にも知らないで 暮らしているこの子供が、神の眼には いじらしい。
どんなことでも、病というものはない。病があるのは 心違いの道があるからである。
この道というのは、をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん、これがほこりであり、病の元となる。 

この世の人間は みな神の子であり、神は 親である。
親である神の言うことを しっかり聞き分けて貰いたい。 

ほこりさえ すっきりと払ったなら、そのあとは 段々と 様々の守護を教えて 珍しいたすけをする。
真実の心を受け取り次第にたすけるので、このたすけによって、人間が病まず・死なず・弱らないようにしたい。
また、このたすけとは、百十五歳定命と定めたい。これは 全く神の心の一条に思う話である。 

日々に 神の心の急込みを、傍なる者は 何と思っているか。
上たるものを怖い と思っていずんでいるが、神の急込みについて、上を怖い と思うことはない。
胸がわるい と言っているが、これを病と思うな。
これは、神の急込みがつかえた故、神の守護ができなくなった結果である。 

神の心に考えていることと言えば、段々と順序を追って不思議を現わし、たすけを急込むことである。
この不思議は何のことか と思っているが、ほこりを払って掃除を仕立てること、それによって、みなの心を澄ますこと である。
そのあと、早く“はしら”=かんろだいを入れたなら、これで この世の定めがつくのである。
この話が早く実現して皆に見えてきたならば、どんな者でも 神の言うことを得心せよ。 

今までは、証拠試しをすると言ってあるが、この話題になっている「かんろだい」についても、何のことであるかわかっていない、得心がいっていない。 

今話題になっているこの者、お秀は、四年以前に“迎い取り”=出直させ、神が抱きしめているが、これが 証拠になるのである。
真実に思うことは、早く この者を“返す”=生まれ返す段取りが、神の急込みの第一である。 

これまでは、自由自在のたすけをする と何度か説いてきたが、時節が来ないため、何も、見えた、実現してきたことはないけれど、これからは どんな話を説いておいても、それが見えた、実現してきたなら、自由自在ということがわかるので、神の話は必ず実現するものである。 

今までのことは、何も言ってくれるな。正月二十六日に始め掛ける。
そのために、これからは せかいの心をいさめかけるもようと、にほんを治めるもようをする。 

人間の心というのは浅はかで、眼の前に見えた事ばかり言う。
これからは、今までにないことばかり説いておく。これから先にどうなるかをしっかり見ていよ。
どんな事でも、だんだん順序を追って 言い掛ける。
眼の前に見えているようなことは 決して言わない。 

この世を創めた神の「しんばしら」を 早く据えつけたい。
これが 神の一条の話である。
眼に見えない神の言うことすることを、だんだん順序を追ってよく聞いて、思案してみよ、わからぬことはあるまい。 

今の道を、上の “まま”=自由 と思っているが、それは 心違いである。
この世は 神が治めているので、神の “まま”=自由 である。
上は 世界中を “まま”=自由 にする。これを ざんねんと思う神の心を知れ。
これまでは、万事、世界は上の “まま”=自由 であった。
しかし、もうこれからは 文句が変わる、“まま”=自由 にできない。 

この世を創めてからのことは 何もかも説いて聞かしたことはないので、
神が守護していることを知らず、
上は 世界中をわが思いの “まま”=自由 に出来ると思って、“まま”=自由 にしているのは心違いである。
高山に育つ木も谷底に育つ木も、みな 同じことである、木に変わりはない。
人間のからだは みな神のかしものである。神の自由であることを知れ。
すべての人は、みな、わが身を気を付けていよ。
神が なん時どこへ行くか、働きに出るか わからぬぞ。 

ちょっと話するので よく聞け。
神の心の急込みは、よふぼくを寄せる段取りである。
今までにも 段々と 多くの立木があるけれど、どれがよふぼくであるか知れまい。
よふぼくも 少しぐらいでなく、多くの用材がほしいのだ。 

日々に よふぼくは手入れをする。どこが悪いと思ってはならない。
同じように見える木でも、だんだん手入れするものもあり、切り倒したまま横たえておくのもある。 

どのような自由自在のたすけも現わすところの、この、今話題のつとめによる試しは、ほかのところではしない。
今までも 試しと言って説いてきたけれど、もう、今度のかんろだいのつとめは、試し納め、最後の試しである。 

段々と何ごとについても、“この世は神のからだ” である。これをよく思案してみよ。
このたびは 神が表へ出ているからよろづのこと、万事を皆、教える。
めいめい、各自の “身の内=体 は、神のかしもの・人間にとってはかりもの” であることを知らなくては、ほかのことは何もわからないので、

このことはまずしっかり心に理解して記憶せよ。 

思案せよ。病というものはない。
神の “みちをせ”=道教え “いけん”=意見 である。
ちょっとした 眼がわるいとか 出来物とか、のぼせや 痛みなどは、神の手引きである。

今までは、高い山といっても、よふぼくが見えてないが、この先は 高山にも だんだんとよふぼくを見出す段取りをする。 

一れつに、世界中を早くたすけるために 段々と 話して聞かしているこの “もよう”=よふぼくによる布教伝道 によって、上下共に心をいさましていく。
この たすけ一条の道によって、日々に 少しずつでも世界の人々の心が勇んでくるなら、作物の成育も盛んになる。
何でも たすけ一条で世界中をたすけていって、世界の人々の心の中にある 謀叛の根を早く切りたい。 

今の道は 埃だらけであるから、箒をもって 掃除する。
そのあとの道は、広々として “ごもく”=芥 もない。

幾人でも 連れて通るがよい。 

明治七年二月二十二日の 五ッ刻(午前八時頃) に話しかける。
よろづいんねんを みな説いて聞かせる と予告しておく。
高山の説教を聞いて、この神の話を聞いて、比べて 思案せよ。
日々に神のする話を、だんだんと聞いて楽しんでいよ。これが “こふき” となるものである。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第三号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第三号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
前回最後にも記述した通り、散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、
天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、
少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで、今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第三号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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