「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8

「『おふでさき』【第八号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

2月4日より始まった
芹澤茂先生著『おふでさき通訳』を教材として「おふでさき」口語訳を書写する
“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ。

今回は8回目。

前回は「おふでさき」【第七号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第八号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8

autumn open a book

今回は、「おふでさき」【第八号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第八号】口語訳 書き写し

【第八号】
(七十八年老女 明治八年五月)

「日々に、月日のざんねんが山のように積もっているのを晴らしたい(と思っている)。

この話は、月日の思惑としてだんだんと(説いてあるが、)何でもみなよろづのたすけ(ということである)というのは(分かっているであろう)。
真実の心次第にどんなつとめをするのも(これも)みなたすけである。」
(1~3) 

「月日には、世界中(の人間)は皆わが子(であり)、たすけたいとの心ばかり(である)。
それなのに、差止められてざんねんな上に、またその後取払いまで(されるとは)。

それ故にたすけづとめが出来ないから、月日の心はなんと(も言いようもなく)ざんねん(である)。

つとめでも、月日がだんだん手を教え、(その外みな教えていくのは)人間の心で(教えるので)はない。
どんな事をするのにも、人間の心があると必ず思うな。」
(4~8) 

「この所(においては)、いかなる話も月日(のすること)、どんなもよう(段取り)もみな月日(のすること)である。

どのような障りが(身上に)付いても、人間の心があるとは決して思うな。

この世を初め出した月日であるから、どんな事も知らぬ事はない。
世界中一れつ(人間)の胸の内は、月日の方へみな写るのである。
それを知らず、みな人間の心というものは、わが身思案(人間思案)ばかりしている。」
(9~13) 

「この先はみなだんだんと(順を追って)、真実の道を教えるから(順序通りよく聞け)。

この世の初まり出しは月日(から)である。
(このたび天保九年に)なんでも委細をみな教えかけ(て、この真実の道を創め)た。

それ(天保九年)までは誰も(月日の真実を)知った者はいないので、何でも月日の思案だけで(陰から旬々に、聖者偉人に指図して教えを説かして)きた。」
(14~16) 

「きょうまでもどんな事も月日(の教え、すること)と言ってあるけれど、まだ(これがよく)わかっていない。

しっかり聞け。
この世創めた真実(はこうである)と言って話を説いてあるけれど、せかいには誰一人知っている者はないので、何を言っても、わかり難い。

その筈である。
この世を創めてから(今までに)ないことをだんだんと口説いているのであるから。」
(17~20) 

「この世の初まり出しの真実を知らしておかなければならぬ。
今までも“たすけ一条”としばしば言ってきたが、本真実(本元の真実)を知らないから(たすけ一条も真実の心で勤められない)。
どのような事でも月日が言うことであるから、これを真実と思って聞くなら(どんなたすけも請け合う)。
どのような事もだんだんに言って聞かす(ので)、これをまことと思って聞き分けよ。」
(21~24) 

「この世の本元なる(所)というのは、この所よりほかにはあるまい。
この話をどういうこと(変な話)と思うであろうが、どんな話もみな(人間に)してやりたいから(言うのである)。

この世を初め出した真実を、みな一れつ(の人間)は承知せねば(たすけが成就しない)。」
(25~27) 

「どのようなたすけをするにも、人並の(人間心の)ような事は言わない。

今までに見えている事やある事は、そんな事を言うのではない。
これまでにない事ばかり言って聞かして、真実のたすけをするのである。

このたすけはどういうことかと言うと、ほふそ(疱瘡)をしないようにとのお守りを拵える。
また、をびやのたすけでは、(月日の)自由(自在の守護によって安産するはもとより)、(お産の時期も)何時にでも、延ばしたり早めたりすることができる。

(これはみなつとめによるので、)これ程の自由自在(の守護)を言う(約束をする)のも、容易な事ではない(ということを思案せよ)。」
(28~33) 

「月日(の方)は大抵(これくらいならという程)心を尽くしているのに、世界中は(うちもせかいも)まだ世界並である。
この世を初め出した本真(根本)を言って聞かさないと(本当のたすけはできない)。」
(34~35) 

「この所、つとめの場所は、人間を初め出した所である。
(また)人間を初め出したるをや(親)は(教祖をやしろとして人間世界に)存命でいる。
これが真実である。

この話を“これは本当のことだ”と思うものは、どこの者でも決して居ないであろう。
このようなない事ばかり言うのは、これが真実であり、まこと(本当)であるからである。」
(36~39) 

「今までも(元初まりにおいても)、ない世界を創めた時には、知らない事を教えて創めた。
この度(このたすけの道)も、まだ(これまでに)ない事や知らぬ事ばかり言って、また教えかける。
どのような者でも知らぬ事ばかり、これを教えるのが月日の思惑である。

月日はだんだん知らぬ事ばかり、何でも教えて世界をたすけ(なければならないのであ)る。
これ程に思っている月日の心配を、せかいの者は何も知らずに(うっかりくらしている)。」
(40~44) 

「心さえ月日が(その)真実(を)受けと(ることができ)れば、どんなたすけもみな請け合う。
どんなたすけも、真実のをやが(教祖を月日のやしろとして)居るから、月日が言うのである。」
(45~46) 

「この月日は、元なるぢばや元なるのいんねんがあるので自由自在(のたすけができる)。
この話をなんでこのようにくどく言うのかと言えば、たすけ一条を請け合う元であるからである。」
(47~48) 

「この元は、どこを尋ねてみても、知っている者は決して居まい。
その筈であって、月日が(人間の)体内に入込んで話をするのは今が初めてである。」
(49~50) 

「この世界が一れつ(みな)見える月日があるから、どこの事でも知らぬことはない。
月日がみなそれぞれ見定め(見極め)て、善と悪とを見分ける。」
(51~52) 

「月日がなぜこのようにくどい(くどく話す)かというと、(行く末に)あしき(わるい事)が見え(てい)るのが気の毒であるからなのだ。
(すなわち)だんだんと恩が重なりその上は、(ほうっておくと)牛馬(に落ちる)という道が、(月日には)見えている。

(気が付いてたすけを求めるなら)どんな者でも、月日は(その者の)真実(の心)を受けとることができたなら、みなたすける。」
(53~55) 

「今までは(月日が)どんな話をしても、(人間の眼には)何も見えたことはない(と思っている)けれども(そんなことはない)。
これまででも、みな(月日の言ったことは)見えてきたのであるが、本元の(真実の)ことを知らないから(見えないのだ)。

(どうか本元の真実を知ってほしい。この真実とは)“雷も地震も大風も水浸きも、これは月日のざんねんりっぷく(のかやしである”ということなのだ)。

この事を今まで誰も知らぬから、このたび月日が先に知らしておく。」(56~59) 

「月日には、みな一れつ(の人間)はわが子である。
可愛い一杯に思っている。

(それを知らず)一れつは皆めいめい(各自)の胸の内は、(ほこりばかり思案して)ほこりが一杯に積もっている。
このほこりをすっきりと掃除しないことには、月日がどんなに思っても(どうにもならない)。」
(60~62) 

「月日が(牛馬と見えるような)怖い危ない道筋を案じているのに、めいめいは(何も)知らずに(いる)。

どんな高い所(の者)と言っても、月日にとっては皆わが子であ(り、をやは心を尽くして子供を守護してい)る。
それを知らず、をやのすることを差止めて、また(その上)取払うとは、これはどうしたことだ。」
(63~65) 

「月日は今までどんなことでも、現われ出(て、自由自在の働きを見せ)た事はないけれど、このたびは、胸の内からすっきりと(ほこりを掃除して、月日のざんねんを)晴らさないことには、(これから)あとのもよう(段取り)が(立たない)。

このあとは(晴らしたあとは)どんな者にも一れつに(誰でも)、たすけたいと(いう上から)の手段(を教える)だけである。
(そして)この先は、たすけ一条に(とり)掛かったなら、どんな者も(心が)勇むばかりである。」
(66~69) 

「何ごとも月日が一度言ったことは、違いそうなことはない。
(それを一度ならず)今までも、くどい程(何編も)説いてある。
それでも心にわかりが(付いてい)ない。
しっかり聞き分けよ。

(月日のやしろたる教祖を)同じ人間であるように考えているのは、これは間違いである。
どんな事を教え掛けるのにも、元なるをやでなければいけない。

今まで何でも教えてきたが、みなこの道理によって初め掛け(て教えてき)た。
人間を創めたをやが(教祖の外に)もう一人、どこかに(現われて)居るなら、尋ねていってみよ。」
(70~75) 

「このよう(に、今話題にしているよう)な(今まで人間の)知らぬ事を、だんだん(順序を追って)言って(話して聞かして)いるが、これは(みな)本当のことである。
日々に(今までに)知らぬことやないことを教えるのが、月日の楽しみである。」
(76~77) 

「この世に(存命で)居る、人間を創めた(ときの)親なる者(教祖)に“天の与え”があると聞いているけれども、この話は何の事かちょっとにはわからない(であろう)。
(これは)月日がぢきもつ(食物)をやろうというのである。
この話は、どういうことかと言えば、かんろだいに平鉢を載せ(て、そこに渡す)。」
(78~80) 

「この先は、あっちこっち(の者)に身に障り(を付け)、月日がていれをすると思え。
(教祖のもとに出て)きたなら、わが身の(教祖の)障りと引き合わせて、同じことなら(その者を選び、また屋敷のうちを)早く掃除せよ。

掃除した所を歩くと立ち留まる(所があるから、その者たちも歩かせよ。そこがぢばである)。
そこにかんろだいを据えるのだ。

そうした(据えた)なら、それからは手を揃えて早くつとめにかかれよ。
(つとめをすれば、みなの心も月日の)心もいさんで来る。」
(81~84) 

「こればかりは、どこを尋ねても、どこにもない。
これはにほんのしんのはしらである。

これさえ確かに見えて(実現して)きたならば、どんな者(が向かってき)ても怖れることはない。
何を言っても(話が)真実であるという証拠が見えないと、あとの(布教伝道の)段取りを(付けにくい)。

(証拠が見えたなら)どんなに高い所の者(に対して)も、自由自在の話をする(ことができる)。」
(85~88)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,~305~338
さまよい人
さまよい人

「おふでさき」も、号数が進むにつれて、

人間を救済するための具体的な段取りに関する話題が増えてくるような感じですね。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第八号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第八号】の概要

「No,8」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第八号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第八号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第八号について】

第八号は明治八年五月に書かれています。
陽暦六月二十九日(陰暦五月二十六日)、かんろだいのぢば定めがなされていますので、
その直前の時期ということになります。

ぢば定めという、たすけ一条のにおける最重要な事柄をなされるに当たり、
親神の心にかかる前年来の諸事件、
すなわち山村御殿のふしや奈良中教院のふしが、親神の心をいかに痛めているか、
というようなところから、諭しが始まっています。

拝読させていただくと、
第七号までに仰せられたことが繰り返されているように見えますが、
その内容は、少しずつ思いが高揚し、容易ならぬもどかしさと、切迫感が、ひしひしと伝わってきます。

そうした中にも、親神のたすけ一条の道の段取りが進められ、
将来へ明るい希望がもてるよう導かれています。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,272)
さまよい人
さまよい人

天理教の軸となる「かんろだい」のぢば定めが行われたのが、明治八年陽暦六月二十九日(陰暦五月二十六日)。
第八号はその直前の時期に書かれたのですね。
神様の人類救済計画が大きく動き始めた様子が伝わってくるような気がします。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第八号の概要】

まず、官憲の干渉、世の無理解から、たすけづとめができない現状を嘆かれ、
この残念を晴らすべく、元初まりの真実をはじめ、万事を教えてよろづたすけの何たるかを教えると、号全体の主題を提示される。

続いて、親神はこの世を創めた元の神であり、一れつ人間の親であることから、知らないことはない、また、全ては、かわいい子供をたすけたい親心からすることであると述べて、この世を造り出した真実、本心を教えるとして、ぢばの理、教祖の理を明かされる。

さらに、より具体的なたすけの諸相に話を進め、元のぢば、元の親、元のいんねんあるゆえにどんなたすけも引き受けること、
また、親神が一切の善悪を見分けすること、
あらゆる身上、事情、災厄の因が、胸のほこりにあることを教えられる。

そして、この度は、ほこりを払い、残念を晴らしてよろづたすけの段取りをするとして、
その象徴とも言うべきかんろだいの建設の順序とその理合いを教示される。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,282~283)
さまよい人
さまよい人

第八号は、よろづたすけ段取りの象徴とも言うべき「かんろだい」に関することが、大きなテーマなのですね。

関連動画の紹介

black and silver laptop computer on brown wooden table

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第八号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

 現代訳で聞く、おふでさき08 1~42 https://www.youtube.com/watch?v=nQQdEFpjf3g

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき08 1~42)より

現代訳で聞く、おふでさき08 42~88 https://www.youtube.com/watch?v=B0dUh5kROrE

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき08 42~88)より

改めて「おふでさき」【第八号】を散文で読む(括弧書きも外して)

child asian book read reading girl little girl

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第八号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第八号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十八才 明治八年五月 )

日々に、月日のざんねんが山のように積もっているのを晴らしたいと思っている。

この話は、月日の思惑として段々と説いてあるが、何でもみな、よろづのたすけという事である というのは 分かっているであろう。
真実の心次第にどんなつとめをするのも、これも、みな たすけである。

月日には、世界中の人間は 皆わが子であり、たすけたい との心ばかりである。
それなのに、差止められて残念な上に、またその後、取払いまでされるとは。

それ故に、たすけづとめが出来ないから、月日の心は なんとも言いようもなく 残念である。
つとめでも、月日がだんだん手を教え、その外、みな 教えていくのは 人間の心で教えるのではない。
どんな事をするのにも、人間の心がある と必ず思うな。

この所においては、いかなる話も 月日のすること、どんなもよう(=段取り)も、みな 月日のする事である。

どのような障りが身上に付いても、人間の心があるとは 決して思うな。

この世を初め出した月日であるから、どんな事も 知らぬ事はない。
世界中 一れつ(=人間)の胸の内は、月日の方へ みな写るのである。

それを知らず、みな 人間の心というものは、わが身思案(=人間思案) ばかりしている。
この先は、みな 段々と順を追って、真実の道を教えるから、順序通り よく聞け。

この世の初まり出しは 月日からである。
このたび 天保九年に、なんでも委細を みな教えかけて、この真実の道を創めた。
それ(=天保九年)までは、誰も、月日の真実を知った者はいないので、何でも 月日の思案だけで、陰から旬々に、聖者偉人に指図して 教えを説かしてきた。

きょうまでも、どんな事も 月日の教え、することと言ってあるけれど、まだ これがよく分かっていない。

しっかり聞け。
この世 創めた真実はこうである、と言って 話を説いてあるけれど、せかいには 誰一人知っている者はないので、何を言っても、わかり難い。

その筈である。
この世を創めてから 今までにない事を、段々と口説いているのであるから。

この世の 初まり出しの真実を知らしておかなければならぬ。
今までも “たすけ一条” としばしば言ってきたが、本真実(=本元の真実)を知らないから、たすけ一条も 真実の心で勤められない。

どのような事でも 月日が言うことであるから、これを真実と思って聞くなら、どんなたすけも 請け合う。
どのような事も 段々に言って聞かすので、これを まことと思って 聞き分けよ。

この世の 本元なる所というのは、この所より ほかにはあるまい。
この話をどういうこと(=変な話)と思うであろうが、どんな話も、みな 人間にしてやりたいから言うのである。
この世を初め出した真実を、みな 一れつの人間は承知せねば、たすけが 成就しない。

どのような たすけをするにも、人並の、人間心のような事は 言わない。
今までに見えている事や ある事は、そんな事を 言うのではない。

これまでにない事ばかり言って 聞かして、真実のたすけを するのである。
このたすけは どういうことかと言うと、ほふそ(=疱瘡)をしないように、との お守りを拵える。

また、をびやのたすけでは、月日の自由自在の守護によって 安産するはもとより、お産の時期も、何時にでも、延ばしたり 早めたりすることができる。
これは 皆つとめによるので、これ程の 自由自在の守護を言う約束をするのも、容易な事ではない ということを思案せよ。

月日の方は 大抵これくらいなら、という程 心を尽くしているのに、世界中は うちもせかいも まだ 世界並である。
この世を 初め出した本真(=根本)を言って聞かさないと、本当のたすけは できない。

この所、つとめの場所は、人間を初め出した所である。
また、人間を初め出したる親は、教祖をやしろとして 人間世界に存命でいる。
これが 真実である。

この話を “これは本当のことだ” と思うものは、どこの者でも 決して居ないであろう。
このような ない事ばかり言うのは、これが真実であり、まこと(=本当)であるからである。

今までも(=元初まりにおいても)、ない世界を創めた時には、知らない事を教えて 創めた。
この度、このたすけの道も、まだ これまでにない事や 知らぬ事ばかり言って、また 教えかける。

どのような者でも 知らぬ事ばかり、これを教えるのが 月日の思惑である。
月日は だんだん知らぬ事ばかり、何でも教えて 世界をたすけなければならないのである。

これ程に思っている月日の心配を、世界の者は 何も知らずに うっかりくらしている。

心さえ 月日がその真実を受け取る事ができれば、どんなたすけも みな 請け合う。
どんなたすけも、真実の親が 教祖を月日のやしろとして居るから、月日が言うのである。

この月日は、元なるぢばや、元なるの いんねんがあるので、自由自在のたすけができる。
この話を なんでこのように くどく言うのかと言えば、たすけ一条を請け合う元であるからである。

この元は、どこを尋ねてみても、知っている者は 決して居まい。
その筈であって、月日が 人間の体内に入込んで話をするのは 今が 初めてである。

この世界が、一れつ みな 見える月日があるから、どこの事でも 知らぬ事はない。
月日が 皆 それぞれ見定め(=見極め)て、善と悪とを 見分ける。

月日が なぜ このようにくどい(=くどく話す)かというと、行く末に あしき(=わるい事)が 見えているのが 気の毒であるからなのだ。
すなわち、段々と 恩が重なりその上は、放っておくと 牛馬に落ちるという道が、月日には 見えている。
気が付いて たすけを求めるなら、どんな者でも、月日は その者の真実の心を受け取ることができたなら、皆 たすける。

今までは、月日がどんな話をしても、人間の眼には 何も見えたことはない と思っているけれども、そんなことはない。
これまででも、みな 月日の言ったことは見えてきたのであるが、本元の 真実のことを知らないから 見えないのだ。

どうか、本元の真実を 知ってほしい。
この真実とは、
“雷も 地震も 大風も 水浸きも、これは 月日の残念立腹のかやしである”
ということなのだ。

この事を 今まで誰も知らぬから、このたび 月日が先に知らしておく。

月日には、みな 一れつの人間は わが子である。
可愛い一杯に 思っている。

それを知らず、一れつは 皆、めいめい 各自の胸の内は、ほこりばかり思案して ほこりが一杯に 積もっている。
このほこりを すっきりと掃除しないことには、月日が どんなに思っても、どうにもならない。

月日が 牛馬と見えるような 怖い危ない道筋を 案じているのに、めいめいは、何も知らずにいる。
どんな高い所の者と言っても、月日にとっては 皆 わが子であり、親は 心を尽くして子供を守護している。

それを知らず、親のすることを差止めて、また その上取払うとは、これは どうしたことだ。

月日は 今までどんなことでも、現われ出て、自由自在の働きを見せた事はないけれど、このたびは、胸の内から すっきりとほこりを掃除して、月日の残念を晴らさないことには、これから後のもよう(=段取り)が 立たない。

このあと、残念を晴らしたあとは、どんな者にも 一れつに誰でも、たすけたいという上からの手段を 教えるだけである。
そして この先は、たすけ一条に取り掛かったなら、どんな者も 心が勇むばかりである。

何ごとも 月日が一度言ったことは、違いそうなことはない。
それを 一度ならず今までも、くどい程 何編も説いてある。
それでも 心にわかりが付いていない。

しっかり聞き分けよ。
月日のやしろたる教祖を 同じ人間であるように考えているのは、これは 間違いである。
どんな事を教え掛けるのにも、元なる親でなければいけない。

今まで 何でも教えてきたが、皆 この道理によって 初め掛けて 教えてきた。
人間を創めた親が 教祖の外に もう一人、どこかに 現われて居るなら、尋ねていってみよ。

このように、今 話題にしているような 今まで人間の知らぬ事を、だんだん 順序を追って 言って 話して聞かしているが、これは 皆 本当のことである。
日々に 今までに知らぬことや ないことを教えるのが、月日の楽しみである。

この世に存命で居る、人間を創めた時の 親なる者(=教祖)に “天の与え” があると聞いているけれども、この話は 何の事か、ちょっとには わからないであろう。

これは、月日が ぢきもつ(=食物)をやろう というのである。
この話は、どういうことか と言えば、かんろだいに 平鉢を載せて、そこに渡す という話である。

この先は、あっちこっちの者に 身に障りを付け、月日がていれをする と思え。

教祖のもとに出てきたなら、わが身の 教祖の障りと引き合わせて、同じことなら その者を選び、また 屋敷のうちを 早く掃除せよ。
掃除した所を歩くと 立ち留まる所があるから、その者たちも 歩かせよ。
そこが ぢばである。

そこに かんろだい を据えるのだ。
そうした(=据えた)なら、それからは、手を揃えて 早くつとめにかかれよ。
つとめをすれば、みなの心も 月日の心も 勇んでくる。

こればかりは、どこを尋ねても、どこにもない。
これは、にほんのしんの柱である。

これさえ 確かに見えて(=実現して)きたならば、どんな者が向かってきても 怖れることはない。

何を言っても、話が真実である という証拠が見えないと、あとの布教伝道の段取りを付けにくい。
証拠が見えたなら、どんなに高い所の者に対しても、自由自在の話をすることができる。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第八号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第八号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。
散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。
機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで、
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第八号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました

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