Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
教祖百四十年祭に向けた「三年千日」年祭活動期間の旬。
教祖百四十年祭を一つの目標として、
今よりは少しでも「神様」「おやさま」を感じられるようになりたいとの思いから、
“天理教原典の一つ『おふでさき』を改めて勉強をしよう”
と思い立ちました。
私なりの年祭活動として。
その具体的活動として、
本年2月に入って、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本の中の「おふでさき」の口語訳文を【通して】記載する、
ということを始めました。
この “「おふでさき」を散文で読む” シリーズは、
今まで見えていなかった「おふでさき」の景色が少しでも多く見えるようになりたい、
との思いから、
短歌調で書かれた「おふでさき」を、あえて【散文】で、読み物風に「通して」読んでみよう、
という企画であります。
【散文】で読むにあたっては、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という著作を教材とすることにしました。
そして、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』口語訳文を書写するにあたっては、
「おふでさき」原文を記載しそれと対比させる形で口語訳文を記載するというやり方では、
「おふでさき」を読み物風の散文として味わいたい、
という目的を今一つ達成しづらい感じがするので、
「おふでさき」原文は一切記載せず、ひたすら芹澤茂先生の口語訳文のみを書写、書き連ねる、
というやり方を取っています。
前回は「おふでさき」【第三号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第四号】の口語訳を書写します。
では、いってみましょう。
芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
今回は、「おふでさき」【第四号】の口語訳を書き写します。
「おふでさき」【第四号】口語訳 書き写し
第四号
(七十七才老女 明治七年四月)「今の道は 何の(ための)道と思っているか。
何か 分からない道のようであるが、この先には 往還の位置が見えている。あそこにある、もうここに来た(というように 早く出てくる)。
その日はいつか と思っているだろうが、五月五日に 確かに出てくる。
それから お蔭が始まる。
夜昼 知れんくらいに (賑わって 忙しく)なる。だんだん進んで 六月になったなら、証拠守りを 作って出す予定である。
それからは、だんだんと ふしん(普請)を急込んで、とても忙しくなる。」
(1~6)
※「五月五日」については、
明治七年の 陰暦五月五日 (陽暦六月十八日) に 教祖が 前川家に かぐら面を受取りに行かれた日であるから、その史実を予告した日付 と考えられている。
(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,127)
「これからは 神の心は 日々に急込みが(つかえて)ある とよく知っていてくれ。
どんなに多くの急込みがあっても、口では何も言わない(で、神が働く ということも承知していよ)。
この先は (神の手引きによって) 多くの人が出て来るのが見えていると、早く 知らしてやりたい(と思っている)が。
だんだんと 珍しい人が見えてある(けれど)、誰の眼にも これが見えないか。」
(7~10)「これからあとの話(をしておく)。
沢山の (道程を経る)道であるから、よく見ていよ。
(これは) 珍しい道である。
(やがては) 面白いではないか、多くの人が集まって、“天の与え (だ、頂きに行こう) ” と言ってくる(ようになる)。」
(11~12)「日々に 身に障りが付いて (病気になって)
“また来たか、神の待ちかねているのを知らないで”
(というようなことになる)。
だんだんと (順序を追って) つとめの人衆の(役割通りに) 手が揃い (つとめをする)。
これが合図となって 何か(不思議なたすけ)が 出掛ける(現われる)。」
(13~14)「日々に 神の心(に急込んでいるの)は、だんだんと 上の心に 早く(この不思議なたすけを)見せたなら (ということである)。
(しかし 今の)上たる者は(、神の心も、この世の真実も)、何も知らずに とうじん(からの者)に従っている心が (神からみると)実におかしい。
日々に神の心の急込みはとうじんころり(コレラ)(が流行する旬)を待っている。
今までの牛(コレラ)の先ぶれを考えてみよ。
上たる者は、(次には 人間のコレラが流行することに) 気を付けていよ。
(その旬になったら、不思議なたすけによって 神の心も この世の真実も わかるようになる。)」
(15~18)「これ(不思議なたすけ)さえ 皆 見えてきたならば (布教伝道がうまくいって)、せかい(世の中の人々)の心も みんな いさんで来る。
なんでも せかいの心がいさむなら、神の心も いさむのである。」
(19~20)「きょうの日は どんな道と思うであろうが、珍しいことが見えてくる。
だんだんに 何でも見えてくるので、(きょうの日が)どんな道であっても (苦労の道を) みな 楽しめよ。
日々に よふきづとめの手が付けば、神の楽しみは どれ程か 分からない。
(それ故、)つとめ人衆を 待ちかねているのである。
そばの者は 何を考えているのか。」
(21~24)「どんな病でも (ただの)病気ということはないので、身に障りが付く というのは、神の用向きがあるからである。
(この)用向きも、何のことか 簡単には分からない(だろう)。
神の思惑は沢山ある(ので、用向きも多い)。
(それ故、病で出てきたのものには) 何でも 神の思惑を説い(て聞かし)たら、心がいさむ。
だんだんに (順序を追って) 何でも思惑を十分に説き聞かせたら、身の内(の障り)も すずやかに(すっきりと)なる。」
(25~28)「また この先には よふきづとめを(できるように) 待ちかねている。
何のことか と言えば、かぐらづとめ のことである。」
(29)「世界中(から寄って来る者は) 多くの人であるが、神の心を知っている者は いない。
(それも無理ではない。しかし) このたびは 神の心の中にある真実を、何でも 一切 みな教える(故、よく聞き分けよ)。
何でも 神一条(神の話)を知ったなら、(布教伝道において) からに負けるようなことはない。」
(30~32)「この先は からとにほんを すみやかに、だんだん わけるもよう(段取り)をする。
これさえ早く分かったら 神のざんねんも 晴れる。
神のざんねんが 本当に みな晴れたなら、せかい(の人々)の心も みな いさみ出る。」
(33~35)
第二号のところでも勉強しましたが、
「から」と「にほん」については、口語訳だけだと何のことかよく分かりませんよね。
なので、
第二号の時に紹介した、『おふでさき拝読入門』の中の矢持辰三先生の解説文を再掲しておきます。
「からとにほん」は、
「なにをゆうともハかりあるまい」(三一)と仰せられるように、理解するのが大変難しい言葉であります。
もとより、唐の国、日本の国という国土的な認識と混同すべきではなく、深い信仰の意味で理解されるべきです。
信仰の上で、この例えを理解するには、「こふき話」と呼ばれる人間元初まりの話を基本にするのがよいと思います。
「こふき話」には、人間が三尺から五尺に成人する間に、天地、海山がはっきり分かりかけ、最初、大和(奈良県地方)に産みおろされた人間は日本の地に上がり、次に大和以外のところに産みおろされた人間は、食物を求めて唐(中国大陸)や天竺(インド)の地に上がった、という話があります。
もちろん、そのころに現在のような国境があったわけではありませんし、人種や国籍の区別ももちろんありませんでした。
したがって、「にほん」とは最初に親神の思召を聞き分けるところ、「から」とはその次に聞き分けるところ、という意味に悟ることができます。
親神の思召を聞き分けず、心がむなしい(カラ)人間が「から」とも悟れます。
このように悟ると、あとに出てくる「にほんのもの」(四六)とは、ぢばのある日の本の庄屋敷に早く帰ってきて、親神の思召を聞き分けて親神のご用を勤める者、「とふぢ(じ)ん」とは、まだまだ親神のみ心からは遠い人のことであるようにも悟れます。
(矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』P,58~59)
「だんだんと(順序を追って)、世界中を 真実にたすけるもよう(準備・段取り)ばかりするのである。
(そうして たすけをしていけば) そののち(将来)は、病まず・死なず・弱らずに(くらし)、心次第では いつまでも (この世に生きて)いてよい。
また先は (将来には)、(これは まだ余程)年限が経ったなら(のことであるが)、年が寄る(年寄りになる) ということが 全くなくなるのである。
(このような珍しい道について) 今までは 何でも知らなかったことを、これから先は 皆教える。」
(36~39)「今では、皆の心と うちなる者の心が (神の心と)大きな違いであるけれども、あすには(きょうの心を忘れて) なんでも神一条(神の話)に つかねばならない。
(これを よく頼む。そのため 神は てびきをするから) 日々に 身の障りがついたら、心違いを神が知らせるので、(神の言うことを) 得心せよ。
(それには) めいめい(当人)の 身のうち(からだの病気)から (心違いを)思案して、心定めをして神にもたれよ。」
(40~43)「なんでも 神の思惑は 深く(遠くまで見透した上で)ある。
そばなる者は それを知らずにいる。
きょうまでは (この道について) どんな話をしても、その道は 見えなかったが、(あすからは) 早く見える。
思案(して 心を)定めよ。
この(先の)道を 早く知らそうと思うけれど、悟りがないので、これが (これを説いて聞かすのが) 難しい。
だんだんと (順序を追って) 筆に(書いて)知らしてあるけれど、悟れないのが 神のざんねん(に思うところである)。」
(44~47)「なんでも 神の言うことを よく聞け。
みな めいめい(当事者)の 心次第である。
真実に 心(をすまして) いさんで、思案して(心を定めて)、神にもたれて よふきづとめ(の準備)をせよ。
この話は何のことか と思うな、肥一条(肥のつとめ) の話である。肥(肥のつとめによる守護) といっても、何が効く と思うな。
心のまこと・しんぢつが効くのである。
真実の心を (神が)見定めが付いたなら、どんな守護も すると思え。」
(48~52)「しっかりと聞いておけ。
(つとめに限らず) よろづの事を皆教える。
それには 隔ては少しもない。
どんな所の人が (この屋敷に)出て来ても、皆 いんねんの者であるから (皆 同じように教える)。」
(53~54)「(この所は) 人間を創め出した屋敷である。
そのいんねんによって 天降ってき(て、神はたすけの道を始め)た。
この先は 世界中を、一れつ(全部)を たすけ(るため)の守護を みんな教える。
だんだんと よろづたすけを みな教えて(おいて、それから) からとにほんを 分けるばかりである。」
(55~57)「日々に からとにほんを分ける道(方法) (すなわち布教伝道) が神の急込みであり、これ一条(一筋)である。
この道が 早くわかったならば、そのあとは 万事 神のままである。」
(58~59)「きょうの日は、本当に 珍しい初まり出し(をみよ)。
万事(について) いんねん(によって) 皆 ついてくる。
いんねんも 多くの人であるからといって、どこにも 隔てはない。
(いんねんと言うと 隔てがあるように思うかも知れぬが) この世界(や人間)を創めた神であるから、世界一れつは 皆 わが子である。
一れつの子供が 可愛いが故に、いろいろ 心を尽くしきっている。」
(60~63)「この(いんねんによって出てきた)こどもに、何もかも(たすけの守護を)教えて、早く (表へ出したい) という 神の心の急込みをみよ。
だんだんと(順序を追って)このこどもの出世(成人)を待ちかねる。
神の思惑はこればかりである。
(この、たすけの守護を教えられた)こどもさえ 早く 表へ出したなら、からを にほんの地にするのである。」
(64~66)「真実に こどもの心よ、しっかりせよ。神の心は 急くばかりである。
日々に、神の急込み(の現われである)この悩みを、(よく思案して、心を定めて神にもたれ、)早く たすける段取りを してくれ。」
(67~68)「うちなる者は 上を思って いずんでいる。
怖いことはない、神が請け合う。
今までと 道が変わっているから、早く 往還の道に出るよう 急込むのである。
この道は いつのことと思っているが、早く出てみよ、もう 今のことである。
(この道が 変わっていることについて) だんだんと(順序を追って) 筆(おふでさき)に知らしてあるから、早く 心に悟り取るがよい。
これさえ 早く 悟りがついたなら、身の内の悩みも すずやかに(すっきりよく)なる。」
(69~73)「つとめでも、初めは てをどり(を教え、次いで) また かぐら(のことも教えて)、ちょっとの細道を付けてはあるが、だんだんと 草がしこって(繁って)道がわからなくなっている。
早く (細道を出て)本道をつける段取りを(付けよ)。
日々に 心いさんで (本道を)急込め。
早く 本道を付けたならば、(やがて それが つとめのできる往還の道となる)。」
(74~76)「本当に この本道がついたなら、その末は (往還を通って) 頼もしい陽気づくめ(の道になるの)だ。
村方は なおも たすけを急いているので、早く 思案(して たすけの準備を)してくれるよう。」
(77~78)「世界中(の人間)は、神にとっては 皆 わが子である。
すべての者は みな (神を)親と思え。」
(79)「世界中 (どこでも、話をしらせるのに、まず)説教(の形式)として 始め掛ける。
説いて聞かせる、聞きに行く(というのが 世間のやり方である)。
(しかし) どれほど見えたようなことを言っても、(言う方が 人間やこの世の)元を知っていないのであるから、(聞く方で)わかる筈がない。
だんだんと ないこと (今は目に見えないこと)ばかり言っておいて、それが その通りになるならば、これが 本当である(。その通りになるのは 元を知っているからである)。」
(80~82)「一れつに、神にもたれる この(布教伝道しようとする)こどもよ、早く 表へ出る もよう(準備)をせよ。
本当に 表へ出ようと思うなら、心しずめて しん(元)を尋ねよ。
この こどもの胸の内が (神の方で) 本当に見定めがついたなら、(説教に限らず) どんな もよう(手段)も (講じて 話が伝わるようにしよう)。」
(83~85)「日々 神の心は 急込んでいるが、こども(人間)の方は さっぱりわからない。
こどもでも 少しではない、沢山いても 全然 わかっていない。
今までは 学問なぞと言っても、見えてないことは 全く 知らないであろう。
(しかし神は) この先(将来)は見えてないことを、万事 (必要なだけは) みな 説いておく。」
(86~89)「これからは、この世を創めて(からまだ教えて)ないつとめを、だんだんと教え、手をつける。
このつとめは、世界中の たすけ道(たすけの手段)で、ものを言えない者でも ものが言えるようにするのである。
(それ故、)日々に つとめの人衆は しっかりせよ。
心をしずめて 早く つとめにとりかかれ。」
(90~92)「このつとめを 何の事かと思っている(が、このつとめによって)世界を治め、(世界を)たすける(自然の恵みを守護する)のである。
この道が確かに見えて(実現して)きたなら、(人間の)病の根は切れてしまう。
真実の心次第に、どこにおいても、誰でも、どんな守護でもしてやろう。」
(93~95)「神の急込んでいる今の道を、うちの者は心配しているが、案じることはない。
しっかり見ていよ。
これまでと 道が変わると言ってある。
神は 違ったことは言わない。
この先は 神の心の急込みを 口ではどうも言うに言われない。
(言うのが) どんなに難しいといっても、説かないでは 分かりようがない。
(それ故、)日々に 神の思惑を だんだんと説いておくから、よく聞いてくれ。」
(96~100)「この(思惑の)道は、全く 難しい (しかし) 珍しい道である。
しっかり見ていよ。
この道を通り抜けたら、その先は、からは にほんの地にしてある。
からの地を にほんの地にしたならば、これは 末代(永遠)の 生き通りである。」
(101~103)「この世を 治めるも上なら、天もかみ である(上方の天にあって、神が治めている)。
上と神との (治める)心をわける。
だんだんと 見えないことを言っておいて、先で見えたら これが神である (神は先をみて治める)。
どんなに見えたことを言っても、先が見えなければ (本当の治め方は)わかるまい(。それが上の治め方である)。」
(104~106)「これからは 世界中の胸の内を、上下 共にわけてみせる。
(そのため神は働くので、)これ (この働き)をみよ。
(神は) せかいもうちも隔てなく (平等に)胸の内より 掃除するぞ。
この掃除は 難しいことであるが、(埃が立って 身上・事情が現われても) 病というはない と言っておく。
どんな痛みや 悩みや 出来物や 熱や 下りも、みんな ほこりである。」
(107~110)「この世を創めてからのことは 何もかも (まだ) 上へ教えたことはないであろう。
このたびは 何でも皆 上たる者へ知らせておいたなら、それからは、なかに 思案をする者もあろう。
皆が寄り合って話をしたら、なかには 本当に 心に頼もしい(話である)と思って、思案をするものもあろう。
この(話の) 道を上へ通じたならば、神の自由(自在のたすけ)を直ぐに現わす。」
(111~115)「この世を創めた神の自由(自在のたすけ)を 見せたことはなかった。
(それ故、)何も知らないで過ごしているが、神の自由(自在のたすけ)を知らせてやったなら (そのままにはしていられない)。
これを聞いて、みな 一れつ(の人々)は 思案しなければならない。
(これと同じように) 何でも 心次第である。」
(116~118)「きょうの日は、まだ 何も見えて(実現して)いないが、六月をみよ、みな 出てくる。」
(119)「今までは、“高い山や” (俺は高山に住む指導者だぞ)と言って(人々をままに(自由に)して)いる。
谷底(の者)は、(この真実に無知な高山に従って) しょげているだけである。
これからは 高山にも谷底にも、(真実の神の話として) 元初まり(の話)を (にほんの者から)言って 聞かせ(ていさむようにす)る。」
(120~121)「この世の初まり出しは 泥の海(であった)。
その中に どぢょばかり (沢山)いた。
このどぢょは 何であるかと言うと、これが 人間のたねになった。
このものを 神が引き上げ食ってしまって、だんだん守護して 人間としたのである。
それからの神の守護というものは、並大抵なことでなかった。」
(122~125)「この話は、(昔話かなんぞを聞くような) ちょっとしたことと思ってはならぬ。
(この話は) 世界一れつをたすけたいから(聞かす話である)。
日々に 神の心の真実(を説いて聞かすこと)には、深い思惑があると思え。」
(126~127)「今までは、にほんがからに従って ままにしられた(ことは) 神のざんねんである。
このかやしとして(神が働くので、この)神の働きを見よ。
どんな者も 真似ができるか。
(からの者が)どんなに剛的な者(剛の者)といっても、神がしりぞく(守護の手をひく)から、これには かなわぬだろう。
なんでも みな このようにして 神が自由(自在の働きを)する と思え。
思案してみよ、(にほんの者が) どんなに若いとか 年寄りとか 弱い者であっても、心次第で、(神は) どんな自由(自在の働きもさせる)。」
(128~132)「今までも (教祖と)同じようにくらしていても、神の自由(自在の働き)を知っている者は 居なかった。
芹澤茂著『おふでさき通訳』P,125~176
これからは (この自由自在の働きだけでなく) 万事につけて みな 説いておくから、心違いのないようにせよ。」
(133~134)
「おふでさき」【第四号】は、第三号の149首ほどではないですが、「134首」と多量のおうた。
第二号を書き終えてしばらくお休みしておられたのが、
明治7年に入って、第三号(149首)→第四号(134首)!と、
勢いよくハイペースで書き上げられたのですね。
以上、芹澤茂著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の書き写しでした。
「おふでさき」【第四号】の概要
次に、前回同様、
「おふでさき」【第四号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第四号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より
【第四号について】
この号では、親神の御教えを広めることのできる、いんねんのある者を寄せるということが、一つの話として述べられています。
そして、たすけの方法として、そのようにして寄せたいんねんのある者にかぐらづとめをつとめさせて、不思議な珍しいたすけをしてみせる。
そのたすけを証拠として、寄せられたよふぼくに親神の教えを布教伝道させる。その結果、教えを自由に説くことのできる「往還道」をつける、
(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P121)
という意図が述べられています。
これまでの号に続いて、「かぐらづとめ」によって珍しいたすけをしてみせることを第四号でも語られているのですね。
これから教える「かぐらづとめ」は本当に人類を救済する手段なのだということを、何とか分かってほしい、という神様の切実な思いが伝わってくるようです。
上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より
【第四号の概要】
いよいよ往還道が見えかけると切り出され、
その根本であるつとめの段取り、すなわち、人衆を寄せ、成人を促し、手を教えるなどと、その進め方を述べられる。また、このよふきづとめ、すなわち、かぐらづとめによって、不思議なたすけが現れ、やがては世界が治まると教示される。
さらに、つとめの段取りであると共に、世界たすけの道のもう一つの側面である布教伝道にふれ、
からとにほんを分けるなどの表現を用いて、親神の教えを世界にいきわたらせることの意義を説き、
そのためにも子供の成人と働きを求められる。こうしたたすけ一条の道の根本の理合いを、元の理の話に基づいて教えると共に、
(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,119)
さらに、立教のいんねん、人間はみな等しく親神の子供であること、また、上や修理肥の教えと対比しながら、
本教がだめの教えである所以を明かされる。
「第四号」では、たすけ一条の道の根本の理合いを、元の理の話に基づいて教えると共に、本教がだめの教えである所以を明かして下さったのですね。
「おふでさき」も、号が進むにつれ、どんどんと、表面的な話から深い話に入っていっていることがわかります。
関連動画の紹介
これまでの当シリーズで毎回紹介している
「おふでさき」を現代文で理解するという目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
「語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第四号に関係する動画のリンク。
今回も、以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)
①現代訳で聞く、おふでさき04 1~52👇 https://www.youtube.com/watch?v=dm121YA5c1E
②現代訳で聞く、おふでさき04 53~103👇 https://www.youtube.com/watch?v=c6w8gcK7gRc
③現代訳で聞く、おふでさき04 104~134👇 https://www.youtube.com/watch?v=_DzMkz4bcC8
改めて「おふでさき」【第四号】を散文で読む(括弧書きも外して)
これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。
「おふでさき」【第四号】散文(芹澤茂先生訳)
「おふでさき」【第四号】口語訳(芹澤茂先生)
(教祖七十七才 明治七年四月)
今の道は何のための道と思っているか。
何か分からない道のようであるが、この先には往還の位置が見えている。
あそこにある、もうここに来たというように早く出てくる。
その日はいつかと思っているだろうが、五月五日に確かに出てくる。
それからお蔭が始まる。
夜昼知れんくらいに賑わって忙しくなる。
だんだん進んで六月になったなら、証拠守りを作って出す予定である。
それからは、だんだんと“ふしん”=普請 を急込んで、とても忙しくなる。
これからは、神の心は日々に急込みがつかえてあるとよく知っていてくれ。
どんなに多くの急込みがあっても、口では何も言わないで、神が働くということも承知していよ。
この先は、神の手引きによって多くの人が出て来るのが見えていると、早く知らしてやりたいと思っているが。
段々と珍しい人が見えてあるけれど、誰の眼にもこれが見えないか。
これからあとの話をしておく。沢山の道程を経る道であるから、よく見ていよ。
これは珍しい道である。
やがては、面白いではないか、多くの人が集まって “天の与えだ、頂きに行こう ”と言ってくるようになる。
日々に、身に障りが付いて病気になって “また来たか、神の待ちかねているのを知らないで” というようなことになる。
段々と順序を追って、つとめの人衆の役割通りに手が揃い、つとめをする。
これが合図となって、何か不思議なたすけが“出掛ける”=現われる。
日々に、神の心に急込んでいるのは、段々と上の心に早くこの不思議なたすけを見せたなら、ということである。
しかし、今の上たる者は、神の心もこの世の真実も、何も知らずに、“とうじん”=からの者に従っている心が、神からみると実におかしい。
日々に、神の心の急込みは、“とうじんころり”=コレラ が流行する旬を待っている。
今までの“牛”=コレラ の先ぶれを考えてみよ。
上たる者は、次には人間のコレラが流行することに気を付けていよ。
その旬になったら、不思議なたすけによって神の心もこの世の真実もわかるようになる。
これ=不思議なたすけ さえ皆見えてきたならば、
布教伝道がうまくいって、世界=世の中の人々の心もみんな勇んでくる。
なんでも世界の心が勇むなら、神の心も勇むのである。
きょうの日は、どんな道と思うであろうが、珍しいことが見えてくる。
段々に何でも見えてくるので、きょうの日がどんな道であっても、苦労の道をみな楽しめよ。
日々に陽気づとめの手が付けば、神の楽しみはどれ程か分からない。
それ故、つとめ人衆を待ちかねているのである。
そばの者は何を考えているのか。
どんな病でもただの病気ということはないので、身に障りが付くというのは、神の用向きがあるからである。
この用向きも、何のことか簡単には分からないだろう。
神の思惑は沢山あるので、用向きも多い。
それ故、病で出てきたのものには、何でも神の思惑を説いて聞かしたら、心が勇む。
段々に、順序を追って、何でも思惑を十分に説き聞かせたら、身の内の障りも“すずやかに”=すっきりとなる。
また、この先には、陽気づとめをできるように待ちかねている。
何のことかと言えば、「かぐらづとめ」のことである。
世界中から寄って来る者は多くの人であるが、神の心を知っている者はいない。
それも無理ではない。
しかし、このたびは神の心の中にある真実を、何でも一切みな教える故、よく聞き分けよ。
何でも“神一条”=神の話 を知ったなら、布教伝道において からに負けるようなことはない。
この先は、からとにほんをすみやかに、段々分ける“もよう”=段取り をする。
これさえ早く分かったら、神の残念も晴れる。
神の残念が本当にみな晴れたなら、世界の人々の心もみな勇み出る。
段々と順序を追って、世界中を真実にたすける“もよう”=準備・段取り ばかりするのである。
そうしてたすけをしていけば、 “そののち”=将来 は、病まず・死なず・弱らずに暮らし、心次第ではいつまでもこの世に生きていてよい。
また先は、将来には、これはまだ余程年限が経ったならのことであるが、“年が寄る”=年寄りになるということが全くなくなるのである。
このような珍しい道について、今までは何でも知らなかったことを、これから先は皆教える。
今では、皆の心と内なる者の心が神の心と大きく違ってしまっているけれども、明日にはきょうの心を忘れて、なんでも“神一条”=神の話 につかねばならない。
これをよく頼む。
そのため、神はてびきをするから、日々に身の障りがついたら、心違いを神が知らせるので、神の言うことを得心せよ。
それには、めいめい、当人の身の内、からだの病気から、心違いを思案して、心定めをして神にもたれよ。
なんでも神の思惑は、深く遠くまで見透した上である。
傍なる者はそれを知らずにいる。
きょうまでは、この道についてどんな話をしても、その道は見えなかったが、明日からは早く見える。
思案して心を定めよ。
この先の道を早く知らそうと思うけれど、悟りがないので、これが、これを説いて聞かすのが、難しい。
段々と順序を追って、筆に書いて知らしてあるけれど、悟れないのが神のざんねんに思うところである。
なんでも神の言うことをよく聞け。
みな、めいめい、当事者の心次第である。
真実に心を澄まして、勇んで、思案して、心を定めて、神にもたれて陽気づとめの準備をせよ。
この話は何のことかと思うな、“肥一条”=肥のつとめ の話である。
“肥”=肥のつとめ による守護 といっても、何が効くと思うな。
心の誠・真実が効くのである。
真実の心を神が見定めが付いたなら、どんな守護もすると思え。
しっかりと聞いておけ。
つとめに限らず、よろづの事を皆教える。
それには隔ては少しもない。
どんな所の人がこの屋敷に出て来ても、皆いんねんの者であるから、皆同じように教える。
この所は、人間を創め出した屋敷である。
そのいんねんによって天降ってきて、神はたすけの道を始めた。
この先は世界中を、一れつ、全部をたすけるための守護をみんな教える。
段々とよろづたすけをみな教えておいて、それから からとにほん を分けるばかりである。
日々に、からとにほん を分ける道=方法、すなわち布教伝道が、神の急込みであり、これ“一条”=一筋 である。
この道が早く分かったならば、そのあとは、万事 神のままである。
きょうの日は、本当に珍しい初まり出しをみよ。
万事について、いんねんによって皆ついてくる。
いんねんも多くの人であるからといって、どこにも隔てはない。
いんねんと言うと 隔てがあるように思うかも知れぬが、この世界や人間を創めた神であるから、世界一れつは 皆わが子である。
一れつの子供が可愛いが故に、いろいろ心を尽くし切っている。
この、いんねんによって出てきたこどもに、何もかもたすけの守護を教えて、早く表へ出したいという、神の心の急込みをみよ。
段々と順序を追って、このこどもの出世=成人 を待ちかねる。
神の思惑はこればかりである。
この、たすけの守護を教えられたこどもさえ 早く表へ出したなら、からをにほんの地にするのである。
真実にこどもの心よ、しっかりせよ。
神の心は急くばかりである。
日々に、神の急込みの現われである この悩みを、よく思案して、心を定めて神にもたれ、早くたすける段取りをしてくれ。
内なる者は上を思っていずんでいる。
怖いことはない、神が請け合う。
今までと道が変わっているから、早く往還の道に出るよう急込むのである。
この道はいつのことかと思っているが、早く出てみよ、もう今のことである。
この道が変わっていることについて、段々と順序を追って、筆=「おふでさき」に知らしてあるから、早く心に悟り取るがよい。
これさえ早く悟りがついたなら、身の内の悩みも “すずやかに”=すっきり よくなる。
つとめでも、初めはてをどりを教え、次いでまた、かぐらのことも教えて、ちょっとの細道を付けてはあるが、段々と 草が“しこって”=繁って 道がわからなくなっている。
早く細道を出て、本道をつける段取りを付けよ。
日々に、心勇んで本道を急込め。
早く本道を付けたならば、やがて、それが つとめのできる往還の道となる。
本当に この本道が付いたなら、その末は、往還を通って 頼もしい陽気づくめの道になるのだ。
村方は、なおも たすけを急いているので、早く思案して たすけの準備をしてくれるよう。
世界中の人間は、神にとっては 皆わが子である。
すべての者は、みな、神を 親と思え。
世界中、どこでも、話を知らせるのに、まず 説教の形式として始め掛ける。
説いて聞かせる、聞きに行く、というのが 世間のやり方である。
しかし、どれほど見えたようなことを言っても、言う方が 人間やこの世の元を知っていないのであるから、聞く方でわかる筈がない。
段々と ないこと、今は目に見えないことばかり言っておいて、それが その通りになるならば、これが本当である。
その通りになるのは 元を知っているからである。
一れつに、神にもたれる、この布教伝道しようとする こどもよ、早く 表へ出る“もよう”=準備 をせよ。
本当に 表へ出ようと思うなら、心しずめて “しん”=元 を尋ねよ。
この こどもの胸の内が、神の方で 本当に 見定めがついたなら、説教に限らず、どんな “もよう”=手段 も(講じて 話が伝わるようにしよう)。
日々、神の心は 急込んでいるが、こども=人間 の方はさっぱりわからない。
こどもでも 少しではない、沢山いても 全然わかっていない。
今までは、学問なぞと言っても、見えてないことは 全く知らないであろう。
しかし神は、この先は 見えてないことを、万事、必要なだけは、みな 説いておく。
これからは、この世を創めてから まだ教えてないつとめを、段々と教え、手をつける。
このつとめは、世界中の たすけ道=たすけの手段 で、ものを言えない者でも、ものが言えるようにするのである。
それ故、日々に つとめの人衆はしっかりせよ。
心をしずめて、早く つとめにとりかかれ。
このつとめを 何の事かと思っているが、このつとめによって、世界を治め、世界をたすける自然の恵みを守護するのである。
この道が 確かに見えて 実現してきたなら、人間の病の根は 切れてしまう。
真実の心次第に、どこにおいても、誰でも、どんな守護でもしてやろう。
神の急込んでいる今の道を、うちの者は心配しているが、案じることはない。
しっかり見ていよ。
これまでと 道が変わると言ってある。
神は 違ったことは言わない。
この先は、神の心の急込みを、口では どうも言うに言われない。
言うのがどんなに難しいといっても、説かないでは 分かりようがない。
それ故、日々に 神の思惑を 段々と説いておくから、よく聞いてくれ。
この思惑の道は、全く難しい、しかし 珍しい道である。
しっかり見ていよ。
この道を通り抜けたら、その先は、からは にほんの地にしてある。
からの地を にほんの地にしたならば、これは 末代=永遠 の生き通りである。
この世を 治めるも上なら、天もかみ である=上方の天 にあって、神が治めている。
上と神 との治める心を 分ける。
段々と 見えないことを言っておいて、先で見えたら これが神である=神は先をみて治める。
どんなに見えたことを言っても、先が見えなければ、本当の治め方は わかるまい。それが 上の治め方である。
これからは 世界中の胸の内を、上下 共にわけてみせる。
そのため神は働くので、これ=この働き をみよ。
神は、世界もうちも隔てなく、平等に 胸の内より掃除するぞ。
この掃除は 難しいことであるが、埃が立って 身上・事情が現われても、病というはない と言っておく。
どんな痛みや 悩みや 出来物や 熱や下りも、みんな ほこりである。
この世を創めてからのことは、何もかも、まだ 上へ教えたことはないであろう。
このたびは、何でも皆 上たる者へ知らせておいたなら、それからは、中には思案をする者もあろう。
皆が寄り合って話をしたら、中には本当に心に頼もしい話であると思って、思案をする者もあろう。
この話の道を 上へ通じたならば、神の自由自在のたすけを直ぐに現わす。
この世を創めた神の自由自在のたすけを 見せたことはなかった。
それ故、何も知らないで過ごしているが、神の自由自在のたすけを知らせてやったなら、そのままには していられない。
これを聞いて、みな 一れつの人々は思案しなければならない。
これと同じように、何でも 心次第である。
きょうの日は、まだ何も見えて=実現していないが、六月を見よ、みな出てくる。
今までは、“高い山や”=「俺は高山に住む指導者だぞ」 と言って、人々を“ままに”=自由にしている。
谷底の者は、この真実に無知な高山に従って しょげているだけである。
これからは、高山にも谷底にも、真実の神の話として、元初まりの話を、にほんの者から 言って聞かせて 勇むようにする。
この世の初まり出しは 泥の海であった。
その中に 泥鰌ばかり沢山いた。
この泥鰌は何であるか と言うと、これが 人間のたねになった。
このものを 神が引き上げ食ってしまって、だんだん守護して 人間としたのである。
それからの神の守護というものは、並大抵なことでなかった。
この話は、昔話かなんぞを聞くような ちょっとしたことと思ってはならぬ。
この話は、世界一れつをたすけたいから 聞かす話である。
日々に、神の心の真実を説いて聞かすことには、深い思惑があると思え。
今までは、にほんが からに従って、思うままにされたことは 神の残念である。
このかやしとして神が働くので、この 神の働きを見よ。
どんな者も 真似ができるか。
からの者が どんなに 剛的な者=剛の者 といっても、神がしりぞく=守護の手をひくから、これには かなわぬだろう。
なんでもみな、このようにして 神が自由自在の働きをすると思え。
思案してみよ、にほんの者が どんなに若いとか年寄りとか弱い者であっても、心次第で、神はどんな自由自在の働きもさせる。
今までも、教祖と同じように暮らしていても、神の自由自在の働きを知っている者は 居なかった。
これからは、この自由自在の働きだけでなく、万事につけて、みな 説いておくから、心違いのないようにせよ。
以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第四号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第四号】の散文でした。
「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
前回最後にも記述した通り、散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。
散文化した後、
天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。
教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。
機会を見つけて読み返し、
少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。
しばらくは、このシリーズを続けます。
ということで、今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第四号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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