『ポジショニング戦略』を天理教教会にあてはめて考えてみた

読書ノート

皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。

今回は、アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』という本を読んで感じるところがありましたので、記事にしたいと思います。

この本は、ブログ関係の本を探している中で見つけたものです。
ブログやWebマーケット関係者多くの人が推薦しているので、何か参考になることがあるかも…と思って、私も読んでみました。

正直なところ、これまでビジネスとは無縁だった私には難しい本でしたが、それでも勉強になることが多々ありました。
特に、第22章「ポジショニングは教会をも変える」というくだりは、天理教の新米教会長にとっても非常に興味深い内容でした。

そこで、今回の記事では、『ポジショニング戦略』という本の中の、特に第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章を紹介し、それに私の意見も添えさせて頂きたいと思います。

天理教教会の運営に行き詰まりを感じている天理教教会関係の方(当然私自身も含めて)に何らかの参考になることを願いつつ、まとめました。

ぜひ最後まで読んでいってください。

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『ポジショニング戦略』という本を紹介

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まずは、『ポジショニング戦略』という本を紹介します。

この本の原書は、アル・ライズとジャック・トラウトという人により2001年に刊行され、日本では、2008年にその翻訳本が「海と月社」から出版されたそうです。

Amazonでは次のように紹介されています。

世界中で30年間読み継がれる、マーケターのバイブル、新版にて登場!
情報社会で「売れる商品」を生み出すための「基本戦略」そして「実践方法」を解き明かす。

  • モノと情報があふれかえる現代社会で、マーケティングの成否の鍵を握っているのは「ポジショニング」、
    すなわち消費者の頭の中に商品の的確なイメージを築き上げることができるか否かである。
  • ポジショニング理論を世界で初めて提唱し、その理論と実践方法を解き明かした本書は、マーケティング業界に一大革命をもたらした。
  • 以来約30年にわたって世界のマーケティングのプロたちの間で「必読書」として読み継がれている。

マーケテイングのバイブル的著書のようですね。

本の要約サイト(フライヤー)では、次のように要点をまとめてくれています。

  • 《要点1》 情報社会で商品やブランドを成功させるには、消費者の頭の中に商品を位置づけるという「ポジショニング戦略」が有効となる。
  • 《要点2》消費者の頭に刷り込み、確固たるポジションを築くには、そのセグメントで「一番乗り」をしなければならない。
  • 《要点3》業界のリーダーは、自分たちオリジナルのコンセプトを強調すべきだ。一方、リーダーを追う立場にあるものは、高価格や低価格といった、自分たちにしか埋められない「穴」を開拓する必要がある。

https://www.flierinc.com/summary/1108

ビジネスを生業としておられる方々にとっては、原著が最初に発刊された時には衝撃的だったとのこと。
そして、今では必須の考え方のようです。

ただ、今回の記事の中では、特に第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章を深堀したいと思います。
なので、次の段落で 『ポジショニング戦略[新版]』という本の中の、 第22章「ポジショニングは教会をも変える」の内容を紹介します。

「ポジショニングは 教会をも変える」ということについて

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では、アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』の中の、第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章を紹介します。

本書はマーケティングに関する本だが、宗教についての本として読んでもらってもかまわない。
馬鹿なことを言うなって? そうでもない。
宗教の本質とは、コミュニケーションだ。
神職者へ、そして信者へとつながるコミュニケーションがその本質である。

宗教におけるコミュニケーションで問題が起こるとしたら、その原因は完全無欠の神でも不完全な信者でもない。聖職者である。
とどのつまり、宗教が信徒に与える影響は、聖職者がいかにコミュニケーションを駆使できるかで決まるのである。

アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』P,223
さまよい人
さまよい人

著者らは、宗教の本質はコミュニケーション、そして、コミュニケーションで問題が起こるとしたら、それは聖職者の側に問題がある、と主張しています。

アイデンティティの危機

今から数年前、ポジショニング理論をカトリック教会に適用したことがある。
この巨大な組織が抱えるコミュニケーションの問題を、大企業の抱える問題と同様に扱ったのである。

もちろん、ローマ法王や司教から直接要請があったわけではない。
第2次バチカン公会議の直後、ある著名な神学者が「アイデンティティの危機」と呼んだ事態が起こり、これを深く憂えた 信者グループが、私たちに依頼してきたのだった。

カトリック教会内部のコミュニケーションがかなり無計画であることは、すぐに明らかになった。
状況を改善しようと、さまざまな対策が打たれてはいたが、どれも強い求心力や一貫性に欠けていた。
情報社会にあって、これは非常に深刻な問題だ。

教会は、あたかもGMのようだった。
全社的な企業広告戦略を持たず、宣伝は末端のディーラーに任せてしまっていた。
中にはよい宣伝もあるが、大半はひどい代物だ。

問題のほとんどは、第2次バチカン公会議に端を発していた。 

「バチカンの窓を開く」というこの改革運動が始まるまでは、信者の頭の中における教会のポジ ションははっきりしていた。
多くの人々にとって教会とは、「法を導く教師」だった。
規則と報酬、罰則が重視され、年配者に対しても若者に対しても一貫した指導を行っていた。

ところが、第2次バチカン公会議の結果、規則や規制の多くが不必要であるとして切り捨てられ、カトリック教会は法と秩序の指導者というポジションから離れてしまった。
典礼や儀式の改変が日常茶飯事になった。
厳正さよりも柔軟性が重視されたのである。

不幸なことに、こうした重大な変更が行われている間、ローマ法王庁には宣伝担当者がいなかった。
事態を把握し、新しい方向性をわかりやすい言葉で説明するプロデューサーがいなかったのだ。
しかし考えてみれば、「全社的」コミュニケーションなど必要のない時代が何年も続いていたのだから、カトリック教会が事の重大さに気付かなかったのも無理はない。

アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』P,223~225
さまよい人
さまよい人

カトリック教会が、第2次バチカン公会議以後、法と秩序の指導者というポジションから離れることになり、「アイデンティティの危機」を迎えていたことが述べられています。

影響力の低下

中でも最も痛かったのは、新しい教会について明確なイメージがなかったことだ。

「もはや教会が法の教師でないのなら、いったい何なのでしょう?」という疑問が信者の間に静かに広がっていたが、明確な答えは一度も提示されていなかった。
信者の頭の中にある教会のポジションを仕切り直す取り組みがなされなかったのだ。
そもそも、聖職者にはそんな発想もなかった。

そしてついに、史上初の事態に陥った。
毎週ミサに行く信者の数が、全カトリック教徒の半数 を下まわったのである。
プロテスタント教会の出席率がじつに安定しているのに比して、20% もの低下だった。

神父や尼僧、修道士の数も10年前に比べて20%減っていた。
さらに、聖職を目指す人は60%も減っていた。

だが、統計の結果で最重要だったのは、かつてプロテスタントの神学者、ピーター・バーガー が指摘した「カトリック教会は現在倫理的権威という意味でアメリカ社会最大の共同体である」という認識が揺らいできたという点だった。
「USニューズ&レポート」が、有力エグゼクティブ2万4000人に対して大組織の影響力調査を行ったところ、カトリック教会も他の宗教組織も最下位だったのである。 

倫理的権威としてのカトリック教会のイメージが、うまく伝わっていないのは明らかだった。

アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』P,225~226
さまよい人
さまよい人

法と秩序の指導者というポジションから離れたカトリック教会が、新しいポジションを築くことが出来ず、影響力がすっかり低下してしまったことを、具体的な数値を挙げて説明して下さっています。

教会の役割とは?

「現代におけるカトリック教会の役割とは?」

これは、聖職者も司教も信者も抱く疑問だが、一貫した答えが返ってきたためしがない。
簡単に答えられる問題ではないという指摘もある。
単純な問題として片づけられないという声もあるが、要するに関係者の多くが万人ウケの罠にはまっているのだ。

企業のエグゼクティブなら、こうした質問に対しては必ず何らかの答えを用意しているものだ。
たとえばGMのトップ役員なら、世界最大の自動車メーカーとして、自社の役割を明確に答えられるだろう。
「白い服をより白く」とか「クレストは虫歯との戦いに全力を尽くしています」など、企業は自社商品の本質を示す言葉を見出し、それを消費者に伝えるために何百万ドルという 費用を投じている。

これと同様にカトリック教会も、先の質問にシンプルでわかりやすい言葉で答える必要がある。
またその答えを、斬新で劇的な方法で大衆に伝えるべきである。

企業のアイデンティティを訴える広告戦略では、まずその企業の基本ビジネスを掘り下げて確認することが多い。
古い事業計画やこれまでの広告を総ざらいするのだ。
カトリック教会の場合も、2000年にわたる歴史をさかのぼる必要があった。
企業が年間報告書を読み返すように、 聖書を読み返したのである。
そこから、カトリック教会の役割を表現するシンプルかつ直接的な言葉を探した。

その作業の結果、聖書の中の二つの有名な言葉がクローズアップされた。

マタイ福音書によれば、キリストは在世中に、神は人に、神の子、神に愛されし者の言葉を聞くように命じられた(マタイ福音書17章23節)。

それから昇天後、キリストは弟子たちに、「私から聞いた言葉をすべての国の民に伝えよ」と命じた(マタイ福音書28章19節)。

アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』P,226~227
さまよい人
さまよい人

現代におけるカトリック教会の役割とは何か?との課題を設定し、著者らはその答えを、聖書の中の言葉に見出したのですね。

キリストの御言葉を教える者

聖書を読めば、キリストが教会の役割を「キリストの御言葉を教える者」ととらえていたことは明らかだ。

キリストは「神の子」であるから、彼の言葉は地上のすべての者に伝えられるべきである、とされている。
キリストの言葉は、当時の人々だけでなく、現代に生きる人々のためのものでもある。
その言葉には普遍性があり、決して古びない。
イエス・キリストは、シンプルで深い言葉の中に、すべての人々の思考と行動の糧をこめたのだ。
だから、今日キリストの言葉を伝えようとする者は、古いメッセージを自らの地域性や時代に合わせて今の方法で伝えるべきであり、それができなければならない。

キリストの時代にまでさかのぼることで、私たちは教会の役割を定義することができた。
すなわち、「カトリック教会は、キリストの言葉を新しい世代の頭の中によみがえらせ、彼らの問題に関連づけてやる必要がある」。
言い換えれば、第2次バチカン公会議の結果、カトリック教会は前進ではなく後退を余儀なくされ、「法の教師」から「キリストの御言葉の教師」となること を求められるようになったのだ。

複雑な問題に対して、こんなに単純でわかりきった解決法でいいのか、というむきもあるだろう。
確かに単純だ。
だが、 ポジショニング戦略とは、わかりきったことを探し出すことである。
わかりきったことは、何よりも伝わりやすい。
しかし、わかりきったコンセプトは残念ながら最も目に止まりにくく、評価されにくい。

人間の心は複雑なものをありがたがり、わかりきったことを単純すぎるとして退ける傾向がある。
だから、カトリック教会の聖職者たちも、高名な神学者アヴェリー・ダレスによる教会の役割の定義のほうを高く評価していた。
ダレスの定義とは「教会には、ひとつではなく6つの役割がある」という複雑なものだった。

アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』P,227~229
さまよい人
さまよい人

著者らは、キリストの時代にまでさかのぼることで、現代におけるカトリック教会の役割を、次のように考えました。

【カトリック教会は、キリストの言葉を新しい世代の頭の中によみがえらせ、彼らの問題に関連づけてやる必要がある。言い換えれば、第2次バチカン公会議の結果、カトリック教会は「法の教師」から「キリストの御言葉の教師」となること を求められるようになったのだ。】と。

「キリストの御言葉の教師」というのが、カトリック教会の新しいポジショニングというわけです。

ポジショニングの実践

わかりきったコンセプトが抽出できたところで、私たちはその実践法という課題に移った。

第一に取り組むべきは、説教の訓練だった。
「キリストの御言葉の教師」という役割を果たすには、説教の技を磨き、内容を改善する必要があった(今日、説教の巧みさでは、日曜の午前中 にテレビミサを行う説教師たちの右に出る者はいない)。 

また、これに加えて『はじまりへの回帰』という映画製作も提案された。

大規模なコミュニケーション戦略を展開する際には、人々の関心をひくドラマが必要だ。
映画という媒体が喚起する感情は、この種の戦略にとって理想的である。
新商品を発売するとき、テ レビが強力なツールになるのと同じである。

他にも、カトリック教会が「キリストの御言葉の教師」という役割を自分のものにできるよう、 さまざまなプランが提案された。

ここで大切なのは、いったんポジショニング戦略が動きだしたら、組織全体が団結するということである。
カトリック教会のように多面的な組織も例外ではない。 

しかし、カトリック教会の上層部に、これらを実践するよう説得するのは困難を極めた。

司教たちにとって、世俗信徒が教会の運営に口を出すのは決して面白いことではない。
加えて彼らは、提案された解決法は、どれもあまりにもわかりきったことで受け入れるに値しないと判断した。
シンプルなものは、複雑なものほど魅力的ではないのである。

とはいえ、これほどの問題が自然消滅することはあり得ない。
ご存じのように、 第2次バチカン公会議の結果を評価するために、新たな公会議を準備している。
バチカンの新聞「オゼルヴァトーレ・ロマノ」によれば、その公会議の目的は、「20年前の第2次バチカン公会議がもたらした混乱の解決」だという。

カトリック教会は、ついに混乱という問題自体を認めるのだろうか?
「アイデンティティの危機」を解決し、現代社会におけるカトリック教会のポジションを取り直すための戦略を立てるのだろうか?
その戦略は、カトリック教会内部のリベラル派と保守派の間に広がりつつある断絶を埋めることができるのだろうか?

見守りつづけるしかない。

アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』P,229~230
さまよい人
さまよい人

以上は、第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章の最終パラグラフです。

このくだりは、「キリストの御言葉の教師」というカトリック教会の新しいポジションを「どう実践していくか」、について書かれています。

どんな組織も、規模の大小に関わらず、いろいろ考え方の違いがあって様々な問題を抱えていることがわかります。

天理教の教会もポジショニングが必要だと思う

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以上、アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』という本の中の、第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章を紹介しました。

で、それを受けて、今日、私が言いたいことの結論を述べておきます。

今日私が言いたいのは、

天理教の教会もポジショニングが必要ではないか。
ポジショニングを意識してみよう。

ということです。

私は、『ポジショニング戦略』の本の、特に第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章を読んで、これって、天理教の教会にも当てはまる部分あるよなー、と強く感じました。

アル・ライズ&ジャック・トラウトが、「現代におけるカトリック教会の役割とは?」という問題意識をもってカトリック教会を新たにポジショニングした如く、
天理教の教会も、「現代における天理教教会の役割とは?」という問題意識をもって、天理教の教会を新たにポジショニングすることで、目指すところがハッキリしてやりやすくなるのではないかなー、と思った次第であります。

『ポジショニング戦略』を自分の天理教教会で考えてみた

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ポジショニングが必要と言う主張はわかったとして、では具体的にどうポジショニングすればいいのか。
それが難しい!

それは、それぞれの立場・環境、考え方で、当然、千差万別でありましょう。
しかし、そこで終わってしまっては、この記事も尻切れトンボ。
なので、このたびは〔思考実験的〕に、私の教会で「ポジショニング」ということを考えてみたいと思います。

天理教の教会の第一義は「おつとめを勤める場所」というのが大前提。
ですが、各地それぞれ個別の教会においては、それ以上の意義も込みにした、『個別のポジショニング』も必要だと思うのです。

『ポジショニング戦略』の著書の中で、カトリック教会は「法を導く教師」から「キリストの御言葉の教師」へとポジショニングの転換が進められた、という旨の説明があります。(P,225~228)
それになぞらえるような形で、それを私の教会に無理矢理当てはめて考えてみることにしました。

その結果、例えば、以下のような「ポジショニング」も考えられるかなー、と思ったりしました。

〔思考実験〕【私が任された教会における個別のポジショニング】

カトリック教会における「キリストの御言葉の教師」になぞらえて、「教祖(おやさま)の御言葉の教師」と言いたいところ。ですが、たとえ〔思考実験〕であっても、残念ながらそんな大それたことはよぅ言いません。

しいて掲げるとすれば、
【教祖(おやさま)の御言葉の共同探求者】
というところ。

平易な言葉で言えば、
【教祖(おやさま)の御言葉を一緒に学び求めていくもの】
という感じ。

それが私の教会の役割、と位置づける(=ポジショニングする)。

という感じでしょうか。

これは、今回の記事作成にあたって私の頭の中で考えたことです。
なので、決して誰かと相談して、今後私が、任された教会をそのようにポジショニングすることにした、というわけではありませんのでご了承ください。

けれど、もし仮にそのようにポジショニングしたとするならば、
今後、教会運営していくにあたって「優先」すべきになってくるのは、
新規参拝者の獲得や、既存参拝者リピート率の向上、等の「規模の拡大」ではなくなります。
それよりも、現時点で既に参拝してくれている方々と共に教祖のお言葉を求めて学んでいくことの方を優先していく、というわけです。

ビジネス用語をお借りするならば、
新規顧客の開拓よりも既存ユーザーの満足度向上の方に、よりリソースを集中する、
という言い方が出来るかもしれません。

これは、現時点では私の頭の中だけの考えです。が、もしも、その「ポジショニング」が関係者一同の共通認識になったとしたら、
教会への参拝者数が減っているとか、初席者(新規顧客みたいなもの)が全然ない、といった状況であっても、心理的にそんなに悲観しなくてもよくなってくるにちがいありません。

今参拝して下さっている方と共に道を求め勉強する(=既存ユーザーの満足度向上)ことこそが、この教会の役割だ、と自分たちで定義したからです。

・・・記事を書きながら、記事をまとめるためにこじつけ的にひねり出した「ポジショニング」の一例だけど、私の教会、これでいいかも…と、ちょっと思ったりしました(笑)

まとめ

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天理教の教会も「ポジショニング」が必要だ

「ポジショニング」によってポジションを確立することで、真の社会貢献ができるから

皆もポジショニングを意識してみよう

以上、アル・ライズ&ジャック・トラウト『ポジショニング戦略[新版]』の中の、特に第22章「ポジショニングは教会をも変える」という章を紹介し、それに私の意見も添えさせて頂きました。

ちょっと理屈っぽくて小難しい内容になってしまい、読みづらかったかもしれません。

小難しい文章なのに最後まで読んでくださった方、ホント~に有難うございました。感謝しかありません。

コロナ変異株(オミクロン株)がジワジワと世界中で広まっているようで不気味ですが、健康管理に気を付けて元気にやっていきましょう‼

ではでは、今回はこのへんで。

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