茶木谷吉信先生講話「御苦労さま」ご逸話をめぐって【YouTube文字起こし】

「ご逸話『御苦労さま』をめぐって」アイキャッチ画像 天理教・茶木谷先生

Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回は【YouTube文字起こし】シリーズです。

天理教養徳社運営「陽気チャンネル
茶木谷吉信先生による
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズの続き、
天理教教祖伝逸話篇195番「御苦労さま」をめぐって
のご講話を【文字起こし】して勉強します。

今回の動画では、
おやさまの
万人に向けた「へだてのない親心」は、
私たち人間に
お互いのありのままを受け入れて
認め合う姿を望まれる「ひながた」である
と悟ることができる、
ということについて学ぶことができます。

ということで、
今回のさまよい人【自己学習ノート】は、
【逸話篇の世界を旅する13】茶木谷吉信・正代分教会長「御苦労さま」
という動画を通しての学びを綴ります。

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今回紹介する動画について

今回、紹介【文字起こし】するYouTube動画は、
陽気チャンネル
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
【逸話篇の世界を旅する13】茶木谷吉信・正代分教会長「御苦労さま」
という動画です。

陽気チャンネル」>【逸話篇の世界を旅する13】茶木谷吉信・正代分教会長「御苦労さま」より

動画公開日: 2021年10月16日
動画概要欄: 「へだての無い親心から発されたお言葉は『御苦労さま』。なぜ、この言葉なのか?この言葉の奥にある不思議を、あるワークを使って解明を試みる。」

この動画を新しいタブで視聴したい方はこちらからどうぞ↓
https://www.youtube.com/watch?v=DDyua7GzeHo

おやさまのへだてのない親心の尊さを、
茶木谷先生のご講話によって
改めて深く味わうことができます。

茶木谷吉信先生講ご話「御苦労さま」のご逸話をめぐって

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ご逸話「御苦労さま」をめぐる茶木谷吉信先生ご講話【YouTube文字起こし]

ハイ、皆さん、こんにちは。
有難うございます。
ちょっとね、7月、8月、お休みを頂戴しましてね、
ちょっと空きましたけれども、
また元気に、今日からやってみたいと思います。

今日お届けする逸話、
何のご逸話を今日はやるか、といいますと、
195番「御苦労さま」というご逸話があります。
これを、
ちょっと皆様と一緒に
考えていきたいと思います。

でね、このご逸話は、ちょっと…
前もって言っておきますけどね、
すごく…読めば読むほど、
不思議なお話なんです。
私なんかも、とっても不思議で、
まぁ、その辺の不思議をですね、
ちょっと皆様方と一緒に、
体験できたらいいな、と思っています。

それからもう一つ。
今日は、 あるワークをですね、題材に、
このご逸話を読み進めていきたいと思っています。
後でワークが出てきますので、
楽しみにしておいて下さい。

それでは、いつものように、
このご逸話を、まず味わってみて下さい。
どうぞ。

195 御苦労さま

「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。
どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。
どんな人がお屋敷へ来ても、

可愛い我が子供と思う手おいでになる。

どんな偉い人が来ても、
『御苦労さま。』
物もらいが来ても、
『御苦労さま。』

その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。
皆、可愛い我が子と思うておいでになる。

それで、どんな人でも皆、
一度、教祖にお会いさせてもらうと、
教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。
教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。
例えば、取調べに来た警官でも、

あるいは又、地方のゴロツキまでも、
皆、信仰に入っている。
それも、一度で入信し、又は改心している。」
と。

これは、高井直吉の懐旧談である。

ハイ、いかがでしたか?

今、読んで頂きましたように、
このご逸話はですね、
「へだての心」
という言葉が最初に出てきます。
おやさまほど、
へだてのないお慈悲の深い方はなかった、
という言葉から始まっているんです。

「へだての心」はなぜ起きるのか

さあ、ここでちょっとですね、
皆様方と、
この「へだての心」っていうのが
何で起こるのかっていうことを、
ちょっと考えていきたい
と思っているんです。
このご逸話は、
何もそんな引っかからなかったら、
「ふーん」で終わってしまうんです。
やっぱり、ふーん、へえー、
そういうこともあったんや…、
で終わってしまう。

でも、やっぱり、
少し、やっぱりここでね、
引っかかることが大事だ、
と、僕、思っていて、
その「ふーん」で終わらせないために、
ちょっと、
いろいろ考えていきたいと思っています。

で、「へだての心」って…、
考えてみたら、
なんで 「へだての心」が起きるのか。
人はなぜへだてるのか。

これは、まあ、
「へだての心」というのは、
【八つのほこり】では、
「かわいい」のほこりですよね。

で、いつか、
「八つのほこりを科学する」
っていうのを配信でやりましたですね?(笑)
やりました。

「へだて」っていうのは、
「かわいい」のほこりっていうのは、
要するに、
こいつは可愛い、
こいつは可愛くないっていうね、
「にくい」っていうものに対するアンチ…
要するに、
その反対側にあるものとして、
(その時に)
ちょっとご紹介をしたんですけど…

やっぱり、
この「かわいい」のほこりというのは、
【比較】なんです。

こいつは可愛い、
こいつは可愛くない
っていう、比較なんです。
で、それで、
この「へだての心」って生まれてくるんです。
よくよく考えてみたら…。

だから、こいつは可愛いから可愛がる、
こいつは可愛くないから、
ちょっと、こう、遠ざける…。
ここに、
「へだて」っていう心が生まれてきます。

で、例えばですね、
「へだての心」は、じゃあ、
どっから生まれてくるのかっていう、
これを、いろいろいろいろ、
こぅ考えていくと、
まずは、見かけ。
見かけで人を判断してしまう。

そうですよね。ありますでしょ? 
例えば、
体の大きい人は不器用であるっていう…。
これね、完全に、見かけから、
その人を判断してますよね? 
そんなことないのに…(笑) 

もう、私、いっぱい知ってます。
大きい…体の大きい人で、
だけど、むちゃくちゃ器用な人って、
たくさん知ってます。
でも、どうしても、
体の大きい人は不器用であるっていう、
先入観がありますね。

あるいは、
事務の得意な人は几帳面であるっていう…。
ありますよね? ね。
でも、事務の得意な人だって、几帳面じゃない人、
いっぱいいます。ハイ。
事務はむちゃくちゃ得意なんだけど、
部屋に帰ったら、もうゴミだらけとか…。
そういう人…、私のことです (笑)
いっぱいいます、そういう人。

例えばね、暴走族の子供がね、いたとして、
その子が、例えば、
道端でしゃがんでるとしますよね。
さあ、どう思います?

あ、また何か、
タバコかなんか吸ってるんちゃうか? とか…。
思いませんか? 思いますよね。
(でも)ひょっとしたら、その子だって、
草引きしてるかもしれない。ね。
でも、すぐそうやって、パッと見て、ね、
ガラの悪い子が道端に座ってたら、
なんか、タバコ吸ってんじゃないか、
そういうふうに見てしまう…

「へだての心」の要因の一つは、「確証バイアス」

これをですね、
心理学の世界の言葉でいうと、
「確証バイアス(※)」 っていう言い方をします。

つまり、
自分がそういうふうに思い込んじゃったら、
それじゃない情報っていうのを、
人間ってのはシャットアウトするんです。
で、それを裏付ける証拠ばかりが見えてしまう。

そして、やはり、その人を、そういうふうに、
こう…判断してしまう、と。
これ、やっぱり、
見かけで判断をするっていうことも、
「へだての心」ですよね。

もう一つ言えるのは、
「良い子・悪い子」って言いますよね? 

よく、この子は「良い子」なんですって。
兄弟でもね、
この子は良い子なんです、
それに比べてこの子は…、って。
良くないっていうか…、
まぁ、良い子悪い子っていうのがある、
とします。

でも、それ…、
良い、悪いって、
その子供が持ってるんじゃないんです。
実は、この、「良い・悪い」の頭には、
必ず、ある言葉がくっついてて、
(それは)
「私にとって都合の」良い子、
「私にとって都合の」悪い子なんです。
子供に、良い子・悪い子なんてあるはずない。
みんな、やっぱり、子供なんですよね。

それを「良い・悪い」を 、
結局、評価をつけてるのは、
やっぱり、こちらの心の中にある
「へだての心」が、
やっぱり、
そういうふうに作り上げてると思うんですね。

だから、
「こいつは可愛い」
「こいつは可愛くない」っていう、
この、「かわいい」のほこり…

だから、子供さんを評価する時には、
相対評価…、
この子に比べてこの子はどう、
っていうふうに評価をするんではなくて、
「絶対評価」ですね。
この子はこういう良いところがある。
確かに、こういうふうなところもあるけれども、
困ったところもあるけれども、
でも、こういう良いところがある。
ここ見ても素晴らしい、ここもすばらしい、
っていうふうに
「絶対評価」をしていくっていうことが、
やっぱり、
「へだての心」っていうのを、
心の中から、こぅ…掃除する、
一つの、私は方法じゃないかな、
というふうに思っています。

確証バイアス(かくしょうバイアス、: confirmation bias)

確証バイアスとは、
認知心理学社会心理学における用語で、
仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、
反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。
認知バイアスの一種。
また、その結果として、
稀な事象の起こる確率を過大評価しがちであることも知られている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

おやさまが掛けれらたお言葉は、なぜ「御苦労さま」だったのか

さて、このご逸話で、
なぜ 、これ「御苦労さま」なんでしょう? 
これ、不思議に思いませんか? 
「おはようさん」じゃダメなんですか? 

どんな偉い人が来ても「おはようさん」、
物もらいが来ても「おはようさん」、
その御態度なり言葉遣いに、
いささかの違いがないっていう…。
(それでは)ダメなんですか? 
構わないじゃないですか
「おはようさん」でも。

なぜ「御苦労さま」なのかって。
ここに、私は、
すごく不思議な感じがしたんです、
このご逸話を読んだ時。

で、ちょっと、
なんで「御苦労さん」なんだろう
ということを考えていくと、
実は、
このご逸話の中のおやさまのセリフは、
「御苦労さま」
でなくてはならない理由があるんです。
私は、そういうふうに…そこに行き着いたんです。
あ、やっぱりこれ、
「御苦労さま」じゃなきゃダメだ、
と思ったんです。

〈「SOS」を出す〉&〈「SOS」を受ける〉【ロールプレイ】

で、それをちょっと、こぅ、
皆様方によくご理解 いただける…
かどうかわかりませんけど…(笑)
実は、
あるワークをこれからやって頂きます。

ちょっと二人の方をね、お呼びして、
まあ、これね、ぶっつけ本番なんです。
前もって何にも説明してないです。
こんなことやるからって、全然説明してない。
いきなり連れて来られたお二人が(笑)
いきなり私の指示に従って、
あるワークをやった映像がございますので、
それをちょっと、ご覧いただきたい、
というふうに思います。

では、そのワークの現場をご覧下さい。
どうぞ。

【ワークの映像】(別撮り)

≪ロールプレイ≫

〔場面〕バスの中。
たまたま隣り合わせの席に座った面識のない者同士の会話。

バスを降りようとした人が10円足りなくて、バスの臨席に座った人に10円を借りる、
というロールプレイ。

(主役)
バスを降りようとしたら10円足りなくて、バスの臨席に座った人に10円を借りる
(脇役)
①10円を貸してほしいと依頼されて、10円貸してあげる
②10円貸してあげた後「御苦労さま」と声をかける

まず一度実施して、その後、役を入れ替えて、もう一度実施。
ロールプレイ実施後、演者に、その役を演じた時の気持ちを尋ね、答えてもらう。

ハイ、いかがでしたですか? 
今ね、バスの中に座って
10円足りないって困ったっていう人が
「10円…、すいません、貸して下さい」
って(いうロールプレイを)やって頂きました。
もう、その人の身になって…。

このワークっていうのは、実は、
災害救援のボランティアの中では
結構有名なワークで…。

つまり、
「SOS」を出す人の難しさ、
たとえ10円でも、
「10円を貸して下さい」、
あるいは、「恵んで下さい」
って言うことの難しさ…。

逆に、
10円を渡す方は、
さっき何と仰ってました? 
たった10円ぐらいで
こんな喜んでくれたって仰ってましたよね。
で、10円もらう方は、
「イヤ~、やっぱり不安でした」
って仰ってましたよね? 
もう、ホント貸してくれるんだろうか、って。

これがね、
「SOS」を出す方と、
それから
「SOS」を受ける方の意識の違いです。

たった10円なんです。
だから、あげる方は、
「そんな、もう貸さなくって、これいいよ、あげるよ」
って言いますよね。
でも、たったその10円でも、
もらう方はどんだけ勇気がいるか、
っていうことです。

だから、
災害(救援)に行った時に、
支援を待ってる人は一杯いるんだけど、
ここまで「助けて下さい」って
(言葉が)出てるんだけど、
(被災者の人は)
その一言が言えないんですね。

だから、私たちは、
災害救援に行った時には、
「必要な人は手を挙げてください」
って言うんではなくて、
前もって、
何なには必要じゃありませんか? 
お水は大丈夫ですか? 
食料ありますか? 
毛布はありますか?
っていうふうに、
こちらの方から、
「ください」って言いやすい状態を
作っていくっていうのが、
実は、救援に行く時の、
ボランティアの基本的な考え方なんですね。
そのことが分かる、
良く理解できるワークなんです。

で、私は、このワークをちょっと応用して、
最後に、私、なんて言って頂いたか、
覚えておられますか?
(私は)
10円渡す時に
「御苦労さま」って言って渡して下さい、
って言いました。
(そうすると)
さあ、もらった人はなんて答えてました?
もう「めちゃくちゃ不思議や」
って仰ってましたね。

そうなんですよ、
この気持ちなんです、大事なのは。
この逸話を読む時に大事なのは、
この気持ちなんです。

考えてみて下さい。
物もらいさんが行っても
「御苦労さま」なんです。
偉い人が行って「御苦労さま」
(っていうのは)わかりますよ。
例えば、警察官とかね。
みんなのために頑張ってる人ですから…。
おやさまが「御苦労さま」って言われたら、
「お、あ…あぁ、いやいや…」
って仰る(でしょう)。
まぁ分かります。

でも、物もらいって…、
考えてみたら、今からおやさまのとこ行って、
物をもらう人ですよ。
相手に迷惑かける人ですよ。
相手に迷惑をかける人に対して、
自分に迷惑 をかける人に対して、
おやさまは「御苦労さま」って
(物を)渡しておられるんです。
これ、考えたら、
めちゃくちゃ不思議なことなんです。
そのことがよく体験できるワークだと思って、
さっき、ちょっと、お二人の方に、
無理をお願いしてやって頂いたんですね。ハイ。

で、つまり、これは「御苦労さま」・・・・・・

体験学習の理念について

あ、ちょっと
(横道にそれて)付け加えますけど、
「体験学習」…
今、やって頂いたそのワークっていうのは、
「体験学習」
というものの理念を取り入れています。
「体験学習」っていうものの理念は、
こういう、
「聞くことは忘れること」…
聞いただけでは忘れちゃうっていう…
これは当たり前なんです。
人間はそうなんです。
そういうふうに出来てるんです。

じゃあ、
「見て聞く」っていう…
ありますね、視聴覚。
「見て聞く」っていうことで十分なのかって、
それで も十分ではない。
これは「憶える」ことなんです。

本当に分かる、理解するためには、
やってみるっていうことです。

その場を、
たとえ模擬体験でもいいから、
「体験をしてみる」と本当に理解ができるよ
っていうのが、
これが「体験学習」の理念なんですね。

これを、ちょっと、
例えば、何かこういうことをですね、
学生会だとか、少年会だとか、
婦人会だとか、女子青年だとかの、
何かの時に、
なんかワークを作らなきゃいけないっていうことを、
もしも思っている方、
あるいは、
こういうワークしてもらったら、
もっと分かってもらえるんじゃないか
っていうことを、
ちょっと考えているような人には、
これを参考になさって頂きたいと思います。

いろんなワークができます。
いろんな模擬体験が出来るので、
このことを、ちょっと、
そういう立場にある方は、
覚えておいて頂けたらいいかな、
と思います。

おやさまが「御苦労さま」というお言葉をかけられた意味を探る

さて、物もらいさんは…、
いいですか?
これから迷惑をかけようっていう方が、
おやさまの前に行って
「恵んで下さい」
って言ったんです。

(そうしたら)おやさまは、
「御苦労さま」って言って、
物を下さいました。

物もらいさんは、何と思ったでしょう?
最初、「不思議や」と思ったはずです。

でも、そこに
「御苦労さま」の本当の意味が、
私は、隠れているような気がするんです。

物もらいさんって
好きで物もらいさんやってる人、
誰もいないですよ。
さっきの10円玉と一緒です。
できれば、
自分で稼いだお金で生きていきたいんですよ。
これ、誰だってそうですよ。
人から恵んでもらったもので生きていくって、
こんな屈辱ないですよ。
でもね、物もらいをしなきゃいけない事情があるんです。

例えば…、
分かりませんよ、この物もらいさんじゃないから…。
でも、この物もらいさんの…、
例えば、家に帰ったら、
お腹を空かしてる子どもがたくさんいるかもしれない。
働きたくても働けない事情があるのかも しれない。ね。
ご両親が、例えば、病気で寝てるとか、
主人が体が弱いとか、ね。

それで、もう…、
でも、小さい子供は、もう、お腹空かして、
もうピーピーピーピー泣いてる、と。
自分は食べなくても、何とでも我慢できるけれども、
何とか子供にはお腹いっぱい何が食べさせてやりたい、
ということで、
プライドも全部投げうって、
おやさまの前に行って、
「恵んで下さい」
って頭を下げている人なんですね。

それに対して、おやさまは、
「御苦労さま」 って仰ったんです。

私、この「御苦労さま」っていうのは…
物もらいさん、最初、不思議やな、
と思ったかもしれませんけど…
私は、次の瞬間、
この物もらいさんは泣いたと思います。

「噂に聞く生き神様、まさに生き神様や」
「私たちの親っていうふうに聞かせて頂いてる、まさに親や」
って。
このセリフはですね、
親じゃないと出せない言葉なんです。

おやさまの「御苦労さま」は、「生きてて御苦労さま」

つまり、どういうことか。
「生きてて御苦労さま」
なんです。

「大変だよね、
でもそんな中ね、
物もらいに身をやつしてまで、
一所懸命生きようとしてるよね」
「ご苦労さま」
っていう…
この…、
親じゃなきゃ出せない言葉なんです、
これは。

それを、
たぶん、物もらいさんは、
感じたんだと思うんです。
だから、
さっきの話の
一番最後に何て出てきたかって(いうと)
一遍に心を入れ替えて、
おやさまの親心に打たれて、
一遍に心を入れ替えた、
って書いてあります。

「おやさまのお慈悲の心に打たれたのであろう。
取り調べに来た警官でも、
あるいは地方のゴロツキまでも、
皆、信仰に入っている。
しかも、それも一度で入信し、
または改心している。」
(と『逸話篇』に書いてある)。

これ、
なんでこういうこと起きるのかって(考えると)
やっぱり、
この「生きてて御苦労さま」っていう、
この、「御苦労さま」に、
皆、心打たれたんだと、僕は思うんです。

だから、
私が、最初に感じた不思議っていうのは、
実は、この「御苦労さま」の意味を…
示す意味を、
誤解しているから、不思議なんです。

そうでしょ? 
何かしてもらった人に対して 「御苦労さま」は
当たり前だけどって、僕、言いましたけど、
この意味が違う。
何に対するねぎらいなのか、ってことなんです。

つまり、
「生きてて御苦労さま」
なんです。

「頑張って生きてくれてるよね、
大変だよね、御苦労さま」って、
これ、親でなきゃ出せない言葉なんですね、
「御苦労さま」という言葉は。
それに打たれて、みんな、たぶん改心して…

だから、
どんな人が来ても、
御態度なり言葉遣いが変わらないって、
ここが原因なんです。

何かをしてくれたから「御苦労さま」
じゃないんです。
警官が来ても、ゴロツキが来ても、
あるいは、偉い人が来ても、
「生きてて御苦労さま」。

「あなた、生きてて御苦労さま」って、
この、
親でなきゃ出せない言葉から発されているから、
当然、言葉遣いも御態度も変わらないんです。

私は、そういうふうに思って、
この逸話を読んだ時に、
ス~ッと最後まで納得したんです。
あっ、そうなのかって。

私たちは同じ親を頂く「きょうだい」だから、多様性を認め合っていくのが求められる心の置き所

今、世界にはいろんな方がおいでになります。
障がいを抱えた方、
あるいは発達障がいをお持ちの方、
認知症の方、
あるいはLGBT の方…。
この世の中の
いろんな人が手を取り合って…。

今、「ダイバーシティ」って言いますね。
多様性を認めていく社会を作ろうじゃないか
っていう動きを、
今、全世界中で推し進めています。

つまり、
ありのままを認めて受け入れる社会を、
今後、作っていこうっていうふうに、
みんな頑張ってるところなんですね。

だから…、
これは、もちろん
「御苦労さま」っていうのは、
おやさまだから言えた言葉なんですよ。
私たちはおやさまじゃないから、
親じゃないから、
「御苦労さま」とは、
なかなか言えないんだけれども、
このひながたから
私たちは何を学ぶのかっていうと…

「御苦労さま、生きてて御苦労さま」
って、同じ親から言われている私たちは、
「きょうだい」なんです。ね。

だから、私たちは、
その「きょうだい」として、
おやさまから、
そういう親心をかけられているから、
やっぱり、お互い、多様性を認めて…

さっき…、
最初に言いましたように、
「こいつ可愛い、こいつ可愛くない」
っていうふうに、
「へだての心」を使わずに、
「みんな『きょうだい』やないか」って
「みんなで助け合っていこうよ」って
「みんなのありのままを認めていこうよ」って、ね、
そういうふうに思うことが、
このひながたから、
やっぱり、
学ぶべき私たちの心の置き所じゃないかな
って思いますね。

おやさまこそ、ありのままを受け入れて下さる真の親

おやさまは、
何かができる人、何かがしゃべれる人、ね、
何か大きいこと言える人、声の大きい人とか、
何かができる人とか、
そういう人だけを受け入れて
可愛がって下さるんではなくて、
おやさまこそ、
ありのままを受け入れて下さる真の親だ、
そこのところをですね、
しっかり私たちは肝に銘じて、
今後もしっかりお道をたどり、
おたすけに精を出して行かねばならないんじゃないかなぁ
っていうふうに思っています。

今日は、
「御苦労さま」っていうご逸話から、
いろんなことに、
また、いつものように…、
ワークまでやって話を広げて、
皆様方にお伝え致しました。
いかがだったでしょうか。

では、また次も、
楽しみにお待ち頂きたいと思います。

本日はこれで終わります。
ありがとうございました。

陽気チャンネル【逸話篇の世界を旅する13】茶木谷吉信・正代分教会長「御苦労さま」より
さまよい人
さまよい人

今回も、素晴らしいお話でした。
おやさまこそ「真の親」。

心に染み入る言葉です。

以上、【逸話篇の世界を旅する13】茶木谷吉信・正代分教会長「御苦労さま」
というYouTube動画の【文字起こし】でした。

動画を視聴しての感想

rainbow beautiful devon

茶木谷先生の講話を拝聴するたび、
先生の、
常人とは異なるご逸話への引っ掛かり方に、
毎回、深く感動いたします。

最初、
「エ? そこが気になる、なんで?」
と不思議に思い、
で、動画視聴後に、
「そういうことか‼ なるほど、深いなぁ~」
と感嘆する。
それの繰り返しです。

今回の動画もそうでした。
取り上げて下さった「御苦労さま」というご逸話。
茶木谷先生ご自身が冒頭で
「このご逸話は何もそんな引っかからなかったら「ふーん」で終わってしまうんです」
と仰っておられた通り、
これまで私は「ふーん」と素通りしておりました。
でも、おそらく、それは私だけではなく、
きっと多くの人がそうだったのではないでしょうか。

先生が講話の中で言われていた通り、
分け隔てなく誰にでもかけて下さったお言葉は、
「おはようさん」でも別におかしくはない。
仮に「おはようさん」というお言葉であったとしても、
おやさまが皆に温かい親心をかけて下さっていることは
十分に伝わったでしょうし。

しかし、
おやさまのお口から発せられるお言葉は
「おはようさん」ではなく
「御苦労さま」というお言葉であった。
なぜか?
(そもそも、そこで、

それを「なぜ?」と疑問視する視点が
常人にはないと思うのですが…)

茶木谷先生は、
そのことを掘り下げて考えてみられた。
(ここが茶木谷先生の凄い所だと思います)

そして、その疑問は、
通常は
「御苦労さま」
というお言葉をかけられることはない
であろう状況であるにも関わらず
「御苦労さま」
というお言葉をかけられた
物もらいさんの気持ちを想像することによって、
氷解した。

おやさまは、
通常は
「御苦労さま」
というお言葉をかける状況ではない場面で
「御苦労さま」
というお言葉を使われている。
すなわち、その「御苦労さま」というお言葉は、
通常使うような意味で使っていない。

では、その言葉の背景には
どのような思いがひそんでいるのか。
それを想像することにより、
おやさまの思いが浮かび上がる。

おやさまがかけておられた
「御苦労さま」
というお言葉は、
何かをしてくれたことに対する
ねぎらいの意味をこめた
「御苦労さま」
ではなかったのだ。

つらい苦しい中、
歯を食いしばって生きている、
そのことをねぎらう意味の
「御苦労さま」
だった。

すなわち、
「御苦労さま」
というお言葉は、
何らかの行為に対してかけられたものではなく、
その存在そのものに向けて
発せられたものだった。
そう考えることで、
施しを受けにきた
物もらいさんに対してかけるお言葉も、
他の人々と変わらぬ
「御苦労さま」
だったということの意味が理解できるのだ。

茶木谷先生が講話の中で語っておられたのは
そういう内容だ
と私は理解しました。

おやさまの「御苦労さま」は
「生きてて御苦労さま」だ、
との茶木谷先生のご指摘。

「生きてて御苦労さま」だなんて、
そんなお言葉をかけられたら、
確かに、ただ生きていくだけで精一杯の
物もらいさんにとっては、
涙が出るほど温かい励ましだったに違いない、
そんな気がします。

自己肯定感の低い私なども、
そのような言葉を聞かされると
なんだか泣けてきます。

茶木谷先生は講話の中で
「おやさまが発せられる『御苦労さま』は
『生きてて御苦労さま』なんです。
『頑張って生きてくれてるよね、
大変だよね、御苦労さま』って、
これ親でなきゃ出せない言葉なんです。」
と仰っておられました。

ホントに、
こういうお言葉が
日常の中にサラリと出てくるというのは、
紛れもなく真実の「親」であることの証。
私もそう感じます。
計算して出てくる言葉じゃない。

そして、
見せかけじゃなくて「本当の親」の言葉だからこそ、
言葉を超えたレベルでそれが相手の魂に響いて、
どんな人も皆、おやさまの親心に打たれ、
一遍に心を入れ替えたのに違いありません。

ウクライナ戦争をはじめ多くの場所で、
憎しみの応酬が繰り返され、
対立と反目が
その根底を支配しているかに見える現代社会。
そのような、
ややもすると絶望的な暗い気持ちに
押しつぶされそうになってしまうような
今の世の中だからこそ、
人間は、本来、そうした深い「親心」に
包まれた世界に住んでいるのだよ、
という「おやさまひながた」から発せられる
メッセージの尊さが際立つ気がします。
そして、その輝きが、より光を増して
世界の一隅を照らしているように感じられます。

まとめ(今回の動画を通しての学び)

sun sunrise beach

【茶木谷吉信先生「天理教教祖伝逸話篇195『御苦労さま』をめぐって」
YouTube動画からの学び】

  • 「へだての心」は、相対評価=比較から生まれる。

  • 相対評価をやめて「絶対評価」=比較をやめて
    「この人はこの人」と絶対的な見方、
    それを心掛けていこう。

  • おやさまは、どんな人にも「御苦労さま」
    という変わらないお言葉をかけられた。
    それは、究極の「絶対評価」だとも言える。

  • おやさまがかけておられた
    「御苦労さま」というお言葉は、
    何かをしてくれたことに対するねぎらい
    の意味をこめた「御苦労さま」ではなく、
    つらい苦しい中、歯を食いしばって生きている、
    そのことをねぎらう意味の「御苦労さま」だった。

  • すなわち、おやさまの「御苦労さま」は、
    「生きてて御苦労さま」。

  • 「御苦労さま」のご逸話からは、
    改めて、おやさまこそ
    「ありのまま」すべてを受け入れて下さる
    「真の親」であることが感じられる。

  • 私たちは
    同じ親を頂く「きょうだい」だ
    と教えられている。
    だから、比較、差別につながる
    「へだての心」を乗り越えて、
    お互いのありのままを受け入れられるような
    心づくりに励み、
    多様性を認め合う社会の建設に貢献しよう
    と努めることこそ、
    「おやさまのひながた」をたどる道だと考えられる。

以上、
茶木谷吉信先生による
陽気チャンネル
【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
【逸話篇の世界を旅する13】茶木谷吉信・正代分教会長「御苦労さま」
のYouTube動画を【文字起こし】して、
そこから自分が学んだことをまとめました。

最後にもう一度、対象のご逸話、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』195番「御苦労さま」
を掲載しておきます。

195 御苦労さま

「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。
どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。
どんな人がお屋敷へ来ても、

可愛い我が子供と思う手おいでになる。

どんな偉い人が来ても、
『御苦労さま。』
物もらいが来ても、
『御苦労さま。』

その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。
皆、可愛い我が子と思うておいでになる。

それで、どんな人でも皆、
一度、教祖にお会いさせてもらうと、
教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。
教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。
例えば、取調べに来た警官でも、

あるいは又、地方のゴロツキまでも、
皆、信仰に入っている。
それも、一度で入信し、又は改心している。」
と。

これは、高井直吉の懐旧談である。

【逸話篇の世界を旅する】「茶木谷先生キラーフレーズ」

私たちの悩みや苦しみ、
必ず、おやさまは、

「ひながた」にその解決法を残してくださっています。
困った時は「ひながた」を勉強しましょう。
そこに必ず、解決策があります。

今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
おやさまの
万人に向けた「へだてのない親心」は、
私たち人間に
お互いのありのままを受け入れて
認め合う姿を望まれる「ひながた」である
と悟ることができる、
ということについての学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

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