天理教 各教会の歴史探索(第102回)【小牧大教会】『天理教事典』より

「小牧大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号101番「益津大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号102番「小牧大教会」について勉強します。

  1. 小牧大教会(こまき だいきょうかい)
    1. 山田末彦の入信(明治23年)
    2. 山田末彦の伝道活動、岩田小三郎の入信(明治24年)
    3. 小牧 布教仮事務所の開設(明治24年)
    4. 警察からの干渉 〜 地方庁へ布教事務所設置の申請と認可(明治25年)
    5. 市村末彦の小牧出張所長 就任(明治25年)
      1. 市村末彦 初代会長の生い立ち(明治3年〜明治23年)
      2. 市村末彦 初代会長の入信、布教専念(明治23年)
      3. 市村末彦初代会長の愛知支教会住込み 〜 小牧事務所 赴任(明治24年〜明治25年)
    6. 小牧出張所 本部お許し、正式開設(明治25年)
    7. 小牧の教勢拡大 〜 移転建築(明治25年〜明治27年)
    8. 内務省秘密訓令発布に伴う迫害攻撃激化を乗り越えての布教展開 〜 飛躍的発展(明治29年〜明治41年頃)
      1. 北海道〜東海地方、遠隔地への大々的な布教展開(明治33年〜明治34年頃)
      2. 幻の神殿ふしん=上級・山名への伏せ込み(明治34年頃〜明治40年頃)
    9. 小牧支教会へ昇格(明治42年)
    10. 重なる大節、市村ふさ初代会長夫人の出直しと教会火災(明治42年)
    11. 極度の経済的困窮時代(明治42年頃)
    12. 起死回生をかけた 小牧の北海道開墾事業(明治42年〜明治43年)
    13. 小牧支教会、再起の道(明治44年頃〜大正12年頃)
    14. 名京大教会の創設、名京大教会 愛知分教会 小牧支教会へ(大正12年)
    15. 部内教会の爆発的増加(大正12年頃〜大正14年頃)
    16. 教会の移転建築(昭和3年〜昭和5年)
    17. 名京大教会直属 小牧分教会へ改称・昇格(昭和9年)
    18. 市村左武郎の 会長代務者 就任(昭和9年)
    19. 市村左武郎2代会長の就任 〜 早過ぎる出直し(昭和14年〜昭和16年)
    20. 小牧大教会へ陞級(昭和16年)
    21. 市村 郁3代会長の就任(昭和16年)
    22. 市村末彦 初代会長の出直し(昭和17年)
    23. 市村 郁3代会長退任、市村武利4代会長の就任(昭和28年)
    24. 昭和30年代 〜 昭和40年代の動き
  2. おわりに
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小牧大教会(こまき だいきょうかい)

小牧大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

山田末彦の入信(明治23年)

明治23年 (1890)、
静岡県の山名分教会から 名古屋へ布教に来た 橋本伊平 (愛知大教会2代会長) が、
不思議なご守護を次々とあげた。

その中の一人(に) 山田末吉という人の妻がいた。
(彼女は) 眼病を救けられ、明治23年11月(に 山田夫妻が) 入信。
夫婦共に 信仰に励んだ。

山田末彦の伝道活動、岩田小三郎の入信(明治24年)

明治24年7月、
山田末吉は、招かれて (愛知県) 小牧町の「笹安」という菓子屋で 金米糖の製法を教授していた。

(山田末吉は) 仕事の暇を見ては 自分の妻のたすけられた不思議な神様の話を伝えていた。
(その話が広がっていって、愛知県) 小牧町字下ノ町で 製糸業を営んでいた 岩田小三郎にも伝わり、(岩田小三郎は) 山田末吉に 重病をたすけられた。

小牧 布教仮事務所の開設(明治24年)

これを機に、岩田(小三郎) が講元となって 神様を祀る事となった。
(そして、岩田小三郎は) ここを拠点として 布教し始めた。
(そして、その拠点を) 時の 天理教山名分教会 愛知支教会の (愛知県)小牧における「布教仮事務所」とした。

その後、愛知支教会から役員が交替で (小牧の布教仮事務所に) 出張して布教に当た(るようにな)った。
(そして) 専務で布教する者は無かったものの、次第に、(小牧の地に) 天理教の教えが広がっていった。

(当時は) 愛知支教会から(派遣された) 近藤初太郎・土井健次郎・柴田安次郎・石崎金太郎・市村末彦等が 布教専務者として 愛知に住み込み、各地の講社を足がかりに(して) 布教に東奔西走していた。
小牧の仮事務所もその一つであった。

警察からの干渉 〜 地方庁へ布教事務所設置の申請と認可(明治25年)

明治25年2月になって「小牧」の道も 漸く 警察の注目するところとなって、
信者を集めて説教するには 郡役所の認可なくしては 許されない、
との警告を受けた。

(そこで「小牧布教仮事務所」一同は) 急いで事務所設置の願書を郡役所へ提出。
(その結果) 同年(明治25年) 3月3日付を以て「天理教 愛知支教会 出張小牧事務所」の設置が認可された。
(ちなみに) この頃、当時の小牧警察署長・大泉菊雄が入信している。

かくて、
(愛知支教会出張小牧事務所は) 地方庁の認可は 早々に下りた(のだった。
しかし) まだ、(天理教)教会本部の許しは得ていなかった。

小牧出張所は 岩田小三郎宅に設けられてあった(わけだ)が、
(その後) 岩田小三郎の出直によって、(愛知県) 小牧町字中町の 蛯原次郎左衛門の所有である借家に移った。
(そして) 確定した所長のないままに、新講元・蛯原寿三郎が 代理で講社をまとめていた。

市村末彦の小牧出張所長 就任(明治25年)

(この頃は) 信者宅で、説教や てをどりの学び(をしたりすること)が許されなかったので、愛知支教会に於て、各地に出来た講社をまとめて、布教事務所を設ける事となった。

(愛知支教会)初代会長(の) 諸井松太郎から、(部内の各布教事務所に) 住み込み役員 5名をそれぞれ布教事務所の所長として専務させる事が命ぜられ、「小牧出張所」(布教事務所) は 市村末彦が担当(すること)となった。

明治25年5月の小牧地方に於ける教勢は、他の布教事務所に比べると 弱勢であった。

市村末彦 初代会長の生い立ち(明治3年〜明治23年)

初代会長・市村末彦は、
明治3年9月29日、
名古屋市下日置葛町150番戸にて、市村重明の末子として誕生(した)。

市村家は 旧尾張藩 徳川家の武士であったが、
明治維新で職を失い、末彦 誕生時には、婦人装身具を作る仕事をしていた。

市村末彦は、
生まれながらにして内転足 (ないてんそく) という病気であった。
そのため、立って歩くことが出来ず、かろうじて両手をついて這って歩く位であった。
成長するにつれ、両親の心痛は甚だしく、あらゆる方法をつくし、医者…温泉…と方々を回った。
しかし、何処へ行っても見離され、あちこちの神仏にも念じたが 効果なく、本人もあきらめていた。

市村末彦 初代会長の入信、布教専念(明治23年)

そのような状況の中、明治23年4月5日、
市村末彦 21歳の時、橋本伊平から 初めて天理教の教えを聞く機会を得た。

(市村末彦は、天理教の教理に深い感銘を受け) 即日 入信。
(そして) 橋本伊平より教えられた「人をたすけて我身たすかる」という教えを実行(に移)した。

(市村末彦は) 杖にすがって不自由な体を病院に運び、病院の入口に坐って、
扇に「十柱の神名・八つの埃」の教理を書き、出入りする病人に、一人一人神名を流した。
(その結果、なんと) 21日目に 足が治るという奇蹟的(な)ご守護を戴いた。

(そのような奇蹟的ご守護を戴いて感激した市村末彦は) いよいよ 神一条の信念を固め、家業の一切を放棄して、布教に専念することとなった。

市村末彦初代会長の愛知支教会住込み 〜 小牧事務所 赴任(明治24年〜明治25年)

かくて、(市村末彦は) 愛知支教会が明治24年4月に設置されるや 住込人として布教専務に当たり、各地に東奔西走した(のであった)。

(市村末彦は) 当時、愛知の布教師達の中では最若年で、
明治25年5月24日、小牧事務所へ赴任を命ぜられた時は、弱冠 23歳であった。

小牧出張所 本部お許し、正式開設(明治25年)

(市村末彦は、小牧事務所へ) 赴任後、直ちに、翌(明治25年) 6月、おぢばに帰参。
同月(6月)15日、(天理教教会)本部の許しを得て、
(先に地方庁の認可を受けていた) 小牧出張所は、(晴れて教会本部の許しも得て) 軌道にのった。

次いで、(明治25年) 8月には、神殿を増築した。

小牧の教勢拡大 〜 移転建築(明治25年〜明治27年)

この年(明治25年)、
小牧より 団体帰参をするなど 教勢は次第に広がり、
(小牧出張所は) 小牧町を中心として、2〜3年の間に 驚異的に発展した。

明治26…27年…と年を経るにつれ、(小牧)出張所が狭隘となったため、移転建築の議が起こった。
(その後) 信者の土地提供(があり、
それ)により、明治27年12月、(愛知県) 小牧町西町の地に移転した。

内務省秘密訓令発布に伴う迫害攻撃激化を乗り越えての布教展開 〜 飛躍的発展(明治29年〜明治41年頃)

かくの如く、小牧の教勢は次第に発展していった(のだ)が、
明治29年の内務省秘密訓令発布により、(段々と) 猛烈な迫害攻撃が加えられるようにな(ってい)った。

愛知県は仏教圏で、尾張北部の小さな町である小牧でさえ 10ヵ所の寺院があった。
小牧地方においても、(小牧出張所は) 僧侶を中心として天理教に対する反対攻撃が猛烈を極めた。

こうした(苦しい状況の)中(に追い込まれた後も、小牧出張所では)
市村(末彦)会長を中心として、主な役員・信者は 積極的な布教を展開。
迫害の中、一人…二人…と信仰する者が増加していった。

迫害攻撃の中、明治30年から40年にかけては、
(小牧出張所の) 教会境内地は拡張され 住み込み者は増加し、飛躍的な発展をとげた。
明治41年には、100余名の住込人があり、壮観を呈する程であった。

北海道〜東海地方、遠隔地への大々的な布教展開(明治33年〜明治34年頃)

(小牧の飛躍的発展の内訳を見てみると次の如くである。)

(小牧出張所は、明治27年に小牧町西町に移転後) 土地も次々と拡張され、部内教会 2ヵ所が設置された。
更に、山名初代会長・諸井国三郎の要請により、明治33年4月から(は) 北海道(にも) 布教を開始した。

翌(明治)34年には 布教が実を結び、(全国各地に) 布教所を設置。
7月には、北海道の北見・石狩・空知の方面へ、
内地では、岐阜県・静岡県・愛知県の各方面へ、10数名が 布教におもむいた。

(小牧の) 教会には、連日連夜 病人が続々とつめかけ、一晩に 60数名も (おさづけを) 取次いだ事もある、という程の盛況を呈した。

幻の神殿ふしん=上級・山名への伏せ込み(明治34年頃〜明治40年頃)

こうした中で、明治34年から (小牧出張所の)神殿ふしんに取りかかる事となった。

(神殿ふしん打ち出し後、小牧出張所は) 連日 ひのきしんでごった返していたが、
この年(明治34年) の5月28日、上級・山名の移転建築の発表があったため、
小牧の工事は (そこで) 一切中止。
(そこからは、上級) 山名の移転建築に全力を投入した。

(結局、この時の) 小牧の工事は 土盛りをしただけに終わり、遂に 神殿建築は成らなかった。
しかし、この間も、小牧の働きは衰えることなかった。

遠く 北海道の果てから濃尾一体にかけて (小牧の) 教線は目覚ましく伸展し、
前述の如く (小牧出張所は) 明治40年に至っては 最高の教勢伸張を見た(のであった)。

小牧支教会へ昇格(明治42年)

明治41年(1908) 天理教は一派独立し、
翌(明治)42年 3月14日には、
小牧(出張所)も昇格して、支教会となった。

重なる大節、市村ふさ初代会長夫人の出直しと教会火災(明治42年)

明治42年2月19日の一派独立記念奉告祭に参列すべく、小牧(支教会) の主だった人々が ぢばへ赴いていた時のこと。

その頃、(小牧支教会) 会長夫人・ふさ の病が重態となっていた。
(小牧一同は、そのことに関する懸念を抱えながら、支教会) 昇格(の) 事情運び(の段取り)を進めていたのだが、遂に (小牧からおぢばに ふさ会長夫人) 危篤の電報が打たれるに及んだ。

(明治42年) 2月23日、
(取るものもとりあえず) 一同が小牧へかけつけた時には、(ふさ) 会長夫人は 既に危篤(状態)であった。
しかも、(このような深刻な状況の中、それに加えて、
なんと) 失火により納屋2棟を焼失して(しまうという大きな節までもが、重なって生じて)いた。

(小牧初代)会長夫人・ふさは、(明治42年) 2月27日、遂に出直した。

極度の経済的困窮時代(明治42年頃)

この出直と失火は、(小牧支教会一同の) 前途に (大いなる) 不安をもたらした。

(支教会へ昇格するまでの飛躍的発展は影を潜め) 
この年(明治42年)の11月から(は) 経済的な危機となり、遂に 負債が払えなくなっ(てしまっ)た。

明治42年の暮れから大正元年にかけて、(一時は百名を越える程の賑わいを見せていた 小牧支教会の) 住込人も、(経済危機に伴って) 一人…二人…と去って行き、(遂には) 参拝人もなく(なる程まで人が離れて、すっかり)教会は行き詰まっ(てしまっ)た。

(経済的な危機に陥った背景として、
まず、上級) 山名(大教会) の普請が 数年にわたる大工事であり 容易ならざるものであったこと、
(それに加えて、上級) 愛知(分教会) の土地購入があったこと、
また、(教勢の発展に伴い) 小牧(支教会)の教会の住込人が、急激に (収容能力を遥かに越える程) 増加(したこと)、
更に、北海道方面の布教費等で無理が重なった(こと)、
等の要因が挙げられる。

(そのような多くの要因が重なって) 一時に 返済を迫られ(てしまっ)たため、
(小牧支教会としても) 手の下しようがなく、(遂には) 教会の土地建物も債権者に差押えられるに至った(のであった)。

起死回生をかけた 小牧の北海道開墾事業(明治42年〜明治43年)

この窮状を打開すべく、(小牧支教会は) 主なる役員一同、北海道の開墾に着手した。

明治42年の年末から43年1月にかけて、(小牧の)20名が 北海道の原始林の中へ開拓に出発。
(小牧の北海道開墾事業は) 第1回から第8回にわたり、
明治42年から明治44年4月にかけて、相前後して出発した。

北海道開墾(事業)は、(小牧の起死回生をかけた) 心血を注いだものであったが、
(残念ながら) 事業としては成功を見なかった。

小牧支教会、再起の道(明治44年頃〜大正12年頃)

(北海道開墾事業は、速やかな小牧の経済的困窮脱出の手立てとはならなかったものの) 
しかしながら、(荒野を切り開かんとする開拓精神の発露は) 教会内の信仰の結束を固め(る力となり)、(それは 小牧) 再起への足掛かりとなった。

(その後、北海道の) 開墾地に (小牧部内の) 宣教所を設置するに至り、
更に 婦人会が布教に乗出すに至り、(そうした一同の行動は、小牧の)債務返済の上に大きな働きをなした。

こうした中で大正3年から 各地に (小牧の)部内教会が設置され、各地に分散を余儀なくされた者が次々と(戻って来るようになった。
そして、それが) 教会設置の運びへと繋がっていったのであった。

(教会の土地建物が債権者に差押えられる程までに追い込まれた小牧支教会であったが、離れていた人々が少しずつ戻ってきて一同力を合わせて奮闘。
その結果、小牧支教会は、何とかこの難局を乗り切った。)

事情解決と共に (小牧支教会の) 気運も上昇し、
教祖40年祭(=大正15年執行) の打出しと立て合い、白熱的な布教を展開するに至った。

名京大教会の創設、名京大教会 愛知分教会 小牧支教会へ(大正12年)

大正12年、
山名大教会が分割されて 名京大教会(が)創設(された)。
(それに伴って) 小牧支教会は、名京部属教会となった。

呼称は、
名京大教会 愛知分教会 小牧支教会。

部内教会の爆発的増加(大正12年頃〜大正14年頃)

(教祖40年祭に向け、天理教教会本部より教勢倍加運動が提唱されたわけだが、
小牧支教会においても、その打ち出しに応えるべく奮闘。)

大正12年から大正14年12月末までに、
(小牧支教会として) 21ヵ所の部内教会(の) 新設を見た。

教会の移転建築(昭和3年〜昭和5年)

昭和3年秋、
陸軍大演習が小牧山を中心として濃尾平野一帯に行われ、
その関連工事により、教会の土地が半分に切断された。

そのため、移転建築の話が出され、
昭和5年4月に、
現在地の (愛知県) 小牧町西町1650番地に (教会を移転建築することで相談がまとまり) 工事を進めた。

(一同、一手一つとなって、工事は無事完成。)
同年(昭和5年) 12月30日、奉告祭を執行した。

名京大教会直属 小牧分教会へ改称・昇格(昭和9年)

昭和9年(1934) 5月25日、
(小牧支教会は) 愛知分教会より分離し、
名京大教会直属 小牧分教会 と改称・昇格した。

市村左武郎の 会長代務者 就任(昭和9年)

同年(昭和9年) 3月、
(市村末彦) 初代会長が、
分離昇格についての北海道巡教の途上で 病の身となった。

そのため、市村左武郎が、会長代務者に就任(した)。

市村左武郎2代会長の就任 〜 早過ぎる出直し(昭和14年〜昭和16年)

(昭和9年に会長代務者に就任していた 市村左武郎 会長代務者は) 
昭和12年9月、日華事変に応召し、翌(昭和)13年の暮に、病気を得て帰国(していた)。

(そして) 昭和14年3月3日、
市村左武郎は、小牧分教会2代会長に就任(した)。

(しかし、そのわずか2年後)
昭和16年1月20日、
(市村左武郎2代会長は) 惜しくも 42歳をもって出直した。

(市村左武郎)2代会長の出直しを機として、
(小牧分教会) 一同(は) 
改めて 奮起を誓い、布教活動に立ち上がった。

小牧大教会へ陞級(昭和16年)

昭和16年5月7日、
(小牧分教会は) 
名京(大教会)より分離し、大教会に陞級。
天理教 小牧大教会となった。

市村 郁3代会長の就任(昭和16年)

更に、
同年(昭和16年) 3月30日、
市村 郁 (初代会長・市村末彦夫人) が、3代会長に就任(した)。

市村末彦 初代会長の出直し(昭和17年)

翌(昭和)17年1月21日、
初代会長・市村末彦が出直した。
73歳であった。

市村 郁3代会長退任、市村武利4代会長の就任(昭和28年)

昭和16年から太平洋戦争となり(戦時中は) 教務も思うにまかせなかったが、終戦後(は)布教も軌道に乗り、
昭和28年3月27日、
(市村 郁)3代会長(が) 退職。

(そして) 孫の 市村武利が、4代会長に就任した (28歳)。

同年(昭和28年) 11月22日、
真柱を迎えて 創立60周年記念祭を盛大に挙行。
同時に (4代)会長就任奉告祭も執行した。

昭和30年代 〜 昭和40年代の動き

昭和34年から昭和38年頃にわたって付属建物の増改築をなし、
また、海外布教にも実があがり、教祖80年祭には ブラジルに教会が設立された。

昭和45年には、
神殿建築 及び 付属建物 移動増改築の計画が進められ、
10月27日付で (天理教教会)本部の許しを得た。

そして、同年(昭和45年) 11月1日 遷座祭を執り行い、
(昭和)47年 11月の教会創立80周年を目標として工事に着手した。

工事は順調に進んで完成し、
昭和47年11月22日に鎮座祭、
翌日(11月23日) 建築落成奉告祭 及び 創立80周年記念祭が執行された。



〔現住所〕〒485-0041  愛知県小牧市小牧5丁目437
〔電話〕 0568-72-4297

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,357〜359)

おわりに

小牧大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第102回目の今回は、
「小牧大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

小牧大教会AppleMapより①
Apple Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 小牧大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

小牧の道は、
明治二十三年、橋本伊平が愛知県へ布教に来てからである。

小牧町で製糸業を営む岩田小三郎が重病をたすけられた。
小三郎宅に神様を祀り、愛知の布教者が交代で来た。

二十五年、二十三歳の市村末彦が小牧出張所担任となる。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,92 )

同書同ページに、別枠で 市村末彦初代会長について書かれたコラムがありましたので、それも 自己覚え書きとして書写します。

病院の入り口で

市村末彦は 内転足という身上で、立って歩くことができなかった。

橋本伊平より「人をたすけて我が身たすかる」と教えられ、
病院の入り口に座って、扇に十柱の神名、八つのほこりの教理を書き、出入りの病人一人ひとりに話を取り次いだ。

不思議にも二十一日目に奇跡がみえ、二十一歳にして初めて下駄を履いて歩くことができた。
名古屋の広小路を踊らんばかりに感泣して歩いたという。

たすけられた感激を情熱的に語る話は多くの人を魅了した。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,92 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】102回目の当記事では『天理教事典』の中の「小牧大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

小牧大教会は 名京大教会から分かれた大教会ですね。

前回(天理教各教会の歴史探索(第101回)【益津大教会】)に続いて、
連続の「名京大教会からの分離大教会」学習になります (^-^)

名京大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

ただ、
『天理教教会所在地録』の直属教会系統表によれば 小牧大教会も益津大教会も 共に名京大教会から分離した大教会ということになっていますが、
今回の勉強を通して、
小牧大教会の場合は 益津大教会とは違って、
名京大教会から直接分かれたというよりも「愛知大教会から分かれた」と言った方が、
その成り立ちから考えると正確だ という感じがしました。

愛知大教会についても、以前勉強して 記事を投稿しました。

小牧大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教小牧大教会 より

小牧大教会の原点は、静岡から名古屋方面に布教に来ていた愛知大教会2代会長の橋本伊平先生が山田末吉先生の奥様の眼病をおたすけしたところにあったのですね。

奥様の眼病をたすけられた山田末彦先生が、そのご恩報じとして職場のあった愛知県小牧町で自分の妻がたすけられた話を伝えていく中で、小牧町で製糸業を営んでいた岩田小三郎先生に神様の話が伝わった。
で、当時、重病を患っておられた岩田小三郎先生は、山田末彦先生から天理教の教理を聞いて、不思議なたすけを戴かれた。
その岩田小三郎先生が、おたすけ頂いたことの感激から入信し自宅に神様をお祀りし、そこが「布教事務所」となった――
それが、小牧大教会の原点ということですね。

紆余曲折を経て、その事務所がその後「小牧出張所」となり、
岩田小三郎先生出直し後 担任者不在状態となったため、愛知支教会は 市村末彦先生を担任として指名。
そこから、市村末彦先生を中心として一同奮闘し、それが「小牧支教会」として形になったーー
今回の勉強によって、小牧大教会誕生の経緯はそのような流れだったということを知りました。

以上のような歴史を知ると、なおさらのこと、
小牧大教会は愛知大教会から分かれた、という説明の方がしっくりする気がします (^^♪

小牧大教会AppleMapより②
Apple Mapより

「小牧出張所」開設に至る歴史の中で 私が特異的だと感じたのは、
天理教教会本部のお許しよりも前に 地方庁の認可を受けた、という点でした。

これまでいろいろな天理教大教会の歴史を勉強しましたが、
ほとんどの教会が、本部のお許しを頂いたけれども なかなか地方庁からの認可がもらえず苦労する、というパターンだった気がします。

しかし、小牧大教会の場合は、「布教事務所」の段階で人が大勢集まるようになり 警察から目をつけられ、慌てて役所に申請された。
その結果、まず地方庁から認可を受けることが出来た。
そして、その後に、満を持して(?) 天理教教会本部のお許しを戴いた――
とのこと。

そのような段階を踏んで正式開設に至ったのが小牧出張所。
今回の勉強を通して、小牧大教会開設にあたっての許認可は、他の多くの教会とちょっと順番が異なっている、ということを知ることが出来ました。

だからどうした…という史実なのかもしれませんが、それぞれの教会ごとにいろんなパターンがあるんだなぁ、と改めて感慨深い思いに浸った次第であります。 (^^)

小牧大教会AppleMapより③
Apple Mapより

今回の勉強の中で私が特に印象に残ったのは、
市村末彦初代会長の、病院入り口での布教活動のお話でした。

『道〜天理教伝道史をあるく』には 次のように書いてありました。

市村末彦は 内転足という身上で、立って歩くことができなかった。

橋本伊平より「人をたすけて我が身たすかる」と教えられ、病院の入り口に座って、扇に十柱の神名、八つのほこりの教理を書き、出入りの病人一人ひとりに話を取り次いだ。
不思議にも二十一日目に奇跡がみえ、二十一歳にして初めて下駄を履いて歩くことができた。
名古屋の広小路を踊らんばかりに感泣して歩いたという。

たすけられた感激を情熱的に語る話は多くの人を魅了した。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,92 )

市村末彦先生は、橋本伊平先生から教えられた「人たすけて我が身たすかる」という教理の実践として、病院入り口に座って 出入りの病人一人ひとりに話を取り次いだ、とのこと。

市村末彦先生は 橋本伊平先生から「人をたすけようとする行為によって自らがたすかる」と教えて頂いた。
きっと 市村末彦先生は、橋本伊平先生から聴いた教理に深く感動し、その感激が、市村末彦先生を人だすけの「実践」へ駆り立てる大きな大きな原動力となったのに違いありません。

何とか 自分がたすかりたいと願ってきたが、自分がたすかりたいたすかりたい では本当のたすかりに至れないのだ、教理を通して 市村末彦先生は そう悟られたのでしょう。

人様をたすけるために 汗をかこう、市村末彦先生は そう決意されました。

人をたすけるために歩きたい。しかし、自分は足が悪く移動が困難だ。
ならば、困っている病んでいる人が集まっている場所へ行こう。
困っている人病んでいるが集まっているのはどこだ。病院だ。
そうだ、病院へ行こう。病院へ行って困っている人病んでいる人をたすけるための行動を起こそう――

もしかしたら、そのような感じで 市村末彦先生は病院入り口に座っての布教活動に取り組まれたのかもしれない…
私の頭の中にそんなストーリーが浮かんで、流れていきました。

それにしても「病院入り口に座っての布教活動」とは… (°д°;)

現代以上に はるかに天理教に対する感情が悪かったであろう時代に、
病院入り口という 想像つかない程 冷たい視線を浴びせられ続けるであろう場所に留まっての布教に取り組まれた市村末彦先生――
どれほど強い決意だったのでしょうか。

全教一斉にをいがけデー等で 提唱される 路傍講演や神名流しが大の苦手で、
出来れば避けて通りたい私などには、とても 想像のつかない世界であります。

これは、
橋本伊平先生の口から語られた 天理教の教理が、
市村末彦先生に「この教えは自分を捨て切って賭けるに値する真理だ」との確信を抱かせる程の力を持っていた、
ということなのだと思います。

『道〜天理教伝道史をあるく』には、
市村末彦先生が病院入り口での布教活動に取り組んで、不思議にも二十一日目に奇跡がみえ、二十一歳にして初めて下駄を履いて歩くことができた。
名古屋の広小路を踊らんばかりに感泣して歩いた。
と 書いてありました。

生まれながらにして内転足という身上で立って歩くことができなかった市村末彦先生が、生まれて初めて下駄を履くことの出来た喜びは 如何ほどのものだったでありましょう…
想像すると 胸が熱くなります。

きっと、「人たすけたら我が身たすかる」との教えは揺るぐことのない真理だとの確信を掴まれたのに違いない、と想像致します。

Googleストリートビューより

また、明治42年、市村ふさ初代会長夫人が危篤状態となった際、教会の納屋2棟を火災で消失してしまうという節が重なった…というあたりの史実も、興味深かったです。

それまで 飛躍的な発展を遂げていた小牧支教会は、そのあたりから教勢の停滞が見られるようになり、極度の経済的困窮状態に陥られた。
そして、
小牧大教会の歴史の中にも、これまでの教会歴史勉強の中で何度も見たことのある「教会の土地建物が債権者に差し押さえられる」という時代があったのだ、と知りました。

そのような苦難の歴史を経て、今の小牧大教会の隆盛がある、ということ。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになってしまいますけれども、以上のような教会の歴史を知った上で、今の「小牧大教会」の雄姿に触れると、その姿に、より一層の深み・重みが感じられてくる気がします。

小牧大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教小牧大教会 より

その他にも、
明治34年、自教会の神殿ふしんに取り掛かっていたところ、上級・山名大教会の移転建築の打ち出しがあったため、自教会ふしんを後回しにして上級のふしんに全力投球した、という話。

また、
明治42〜44年頃、極度の経済的困窮から脱するために北海道開墾事業に取り組み、事業としては成功しなかったけれど、その取り組みが内部の結束力を高め、それがその後の再起への足掛かりとなった、という話など、どれもこれも 知らない事ばかりでした。
(北海道開墾事業の話は、以前、湖東の北海道開拓事業について勉強したことがあったので 興味深かったです。)

これまで知らなかった多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

小牧大教会写真③
ホームメイトリサーチ旅探天理教小牧大教会 より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「小牧大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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