天理教 各教会の歴史探索(第108回)【山陰大教会】『天理教事典』より

「山陰大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号107番「南 大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号108番「山陰大教会」について勉強します。

  1. 山陰大教会(やまかげ だいきょうかい)
    1. 沢田重左衛門、侠客・平野楢蔵 変貌への衝撃 〜 入信(明治19年)
    2. 沢田重左衛門の熱烈布教活動(明治20年頃〜明治23年頃)
    3. 集談所の開設(明治23年)
    4. 驚異的教勢の拡大、仏教寺院との対決(明治23年頃)
    5. 山陰支教会の開設(明治24年)
    6. 沢田重左衛門 初代会長の出直し(明治24年)
    7. 沢田重左衛門初代会長の出直しを乗り越え、教会の移転・新築へ(明治24年)
    8. 教会の移転と田畑嘉七2代会長の就任(明治24年〜明治25年)
    9. 広がる山陰の道、平野楢蔵の涙(明治26年頃〜明治28年頃)
    10. 著しい教勢の衰退(明治29年〜明治33年頃)
    11. 田畑嘉七2代会長始め役員4名の裁判所召喚(明治33年)
    12. 増田甚七 郡山分教会2代会長、山陰支教会3代会長を兼務(明治34年)
    13. 続出する事情、苦難の時代(明治34年頃〜明治37年頃)
    14. 田畑嘉七の復帰、4代会長就任(明治37年)
    15. 乾 伊蔵による債務整理(明治37年頃〜明治39年頃)
    16. 田畑嘉七4代会長の辞任、今西長司5代会長の就任(明治39年)
    17. 山陰支教会復活の兆し、山陰分教会へ改称 〜 多額債務からの解放(明治42年〜大正5年)
    18. 相次ぐふしん 〜 教勢の回復(大正4年〜大正15年頃)
    19. 今西長司5代会長の辞任、今西国三郎6代会長の就任(昭和8年)
    20. 教会の移転(昭和11年頃〜昭和16年頃)
    21. 山陰大教会へ昇格、今西国三郎6代会長辞任・山田 一7代会長の就任(昭和16年)
    22. 抗えぬ国策、非情の立ち退き――舞鶴・引土の地へ(昭和17年)
    23. 困難乗り越え、教会移転完了「大教会陞級・7代会長就任・教会移転」奉告祭 〜 府知事の認可(昭和18年〜昭和19年)
    24. 太平洋戦争 終戦前後(昭和19年頃〜昭和20年頃)
    25. 終戦後 〜 教祖70年祭(昭和21年頃〜昭和31年頃)
    26. 山田 一7代会長辞任・今西国男8代会長の就任(昭和32年)
    27. 昭和30年代 〜 昭和40年代の動き
  2. おわりに
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山陰大教会(やまかげ だいきょうかい)

山陰大教会画像検索より①
ホームメイトリサーチ旅探天理教山陰大教会 より

沢田重左衛門、侠客・平野楢蔵 変貌への衝撃 〜 入信(明治19年)

明治19年(1886) 5月の頃、
京都(府) 白川村にて 農業を主とするかたわら 精米業をも営んでいた 沢田重左衛門は、
貸金催促のため、奈良県 郡山町 洞泉寺在住の 平野楢蔵を訪れた。

時に 平野楢蔵は、
旧正月の折、突然の発作で 約4時間程絶息していたのを、「三座の願いづとめ」でたすけられ、生まれ変わって、夫婦共々、寝食を忘れて たすけ一条に励んでいる時であった。

(京都府白川村から平野楢蔵のもとを訪れた 沢田)重左衛門は、(平野楢蔵のいる奈良県郡山町に) 数日滞在している間に、(かつて任侠の世界に生きていた平野楢蔵の変貌ぶりに大いに驚くと共に、その平野楢蔵の語る) 教理を聞いて、大いに悟るところがあった。
(そして) 忽然として信仰の道に入った。

沢田重左衛門の熱烈布教活動(明治20年頃〜明治23年頃)

平野楢蔵の手引きにより入信した (沢田)重左衛門は、
自宅に帰るなり、直ちに 集落にて布教を始めた。

(布教を始めた 沢田重左衛門は) まもなく 家業も他人に譲り、
明治21年の初夏(には)、
石工の案内で、若狭国音海村をめざし、若狭街道を東へ行き、(福井県) 音海村より高浜村、佐分利村一帯にて布教した。

(その結果) お救けによって入信する者(が) 相次ぎ (福井県大飯郡佐分利村にて三森講が結ばれた。 【※三森講=後の北陸大教会】)
(沢田重左衛門は、三森講の) 講長となってからも、(ますます)人救けに励んだ。

翌 明治22年4月、
(沢田)重左衛門は (京都府)白川村より若狭への帰途、
丹波国 何鹿郡奥上林村、ついで 山家村で布教した。

また、(明治22年) 夏から(は)、
若狭地方の信者は 熱心な信者に任して (沢田重左衛門自身は) 丹波の国を巡った。

(その後) 晩秋の頃より(は) 丹後に入り、
(京都府) 舞鶴町倉谷、吉原(村)などに足を留め、熱心な信者の案内で、公文名村・上安村・倉谷・四所村など説教して回った。

このようにして、(沢田重左衛門は あちらこちら広範囲を駆け回り)
翌(明治)23年 正月(の)大祭に帰和するまでに、80余戸の講社を結成するに至った。

集談所の開設(明治23年)

同年(明治23年) 2月下旬、
(京都府舞鶴方面の) 篤信者たちが おぢばの春季大祭を終えて来鶴した沢田重左衛門を迎え、相談の上、(京都府) 舞鶴町 字西(の) 勇海源助の 8畳と6畳の裏座敷を借受け、集談所を開設した。
(また、集談所の開設に)併せて、(そこを)沢田重左衛門の住所にあてた。

(その時点で) すでに周旋人として30名ほどの人々が 絶えず集談所に出入りして(いて)、各々(が) 集落にて布教を始め(ていた。)
(そして、あちこちで) 不思議な救けに浴するもの(が) 相次ぎ、世人の目を見張らせた。

驚異的教勢の拡大、仏教寺院との対決(明治23年頃)

(集談所の開設によって、京都舞鶴方面における天理教の勢いが、さらに拡大していくような状況が現出した。)
ここにおいて、仏教寺院(も 天理教の驚異的な拡大へ危機感を覚えるようになり、) 連合して、桂林寺(という寺)で 天理教攻撃の演説会を催すに及んだ(。

仏教寺院からの激しい反対攻撃を受けるようになった)ため、
日の浅い信者は動揺をきたし、僅かの間に (信徒が)16戸までに減る事態に至った。

これに対して、同年(明治23年) 6月12日、
(舞鶴の集談所側でも) 郡山分教会より応援の弁士を得て、天理教大演説会を劇場において開催し (天理教側でも) 気勢をあげた。

(そうした熱血的な活動によって)
(激しい) 社会(から)の迫害圧迫の中(でも)、同年(明治23年)末には、信者の数も 200を越えるまでになった。

山陰支教会の開設(明治24年)

(仏教寺院等からの反対攻撃への対抗演説会を開いたりして対抗措置をとっていた集談所一同であったが)
しかし、周囲の迫害攻撃は、益々激しくなるばかりであった。

そこで、上級 郡山分教会長・平野楢藏が、神意を伺った上で、
明治24年7月17日、教会設置を議するため来鶴。
翌日より 周旋人を集め 協議した。

(その結果) 一同(に) 異議(は)なく、
集談所 向隣の 3間に5間の平家建の建物をもって、(教会設立を) 出願することに決まった。

44名の信徒総代の捺印を終え、
明治24年8月6日、
京都府加佐郡舞鶴町字西51番戸に、
沢田重左衛門を初代会長に、郡山分教会所属の山陰支教会として 教会設置の許しを得た。
(明治24年) 9月5日付で 地方庁の認可も受けた。

沢田重左衛門 初代会長の出直し(明治24年)

しかるに、(沢田重左衛門初代会長は) おぢばよりの帰途、病を得て、
京都(府) 白川村の自宅で 病床に伏せるようになった。

(そして、教会)公認の喜びも束の間、(沢田重左衛門初代会長は)
(明治24年)10月9日、
60歳を一期として (なんと) 出直し(てしまっ)た。 

沢田重左衛門初代会長の出直しを乗り越え、教会の移転・新築へ(明治24年)

(思いもかけぬ沢田重左衛門 初代会長 出直しという大節を見せられ、茫然自失となった一同であったが、いつまでも打ちひしがれたままでは初代会長の霊も浮かばれないと気を取り直し、
そこから) 教会設置以来(の)、移転・新築の気運が 急速に高まった。

(山陰支教会一同は) 新たに敷地問題を協議し、神意を伺った。
その上で、安い土地よりも 集合の良い所の方が思召に添うものとして、
(京都府) 舞鶴町字松陰80番地の、276坪の地所を買収した。

教会の移転と田畑嘉七2代会長の就任(明治24年〜明治25年)

(そして) いよいよ教会新築に着手。

同年(明治24年) 12月中旬には、教堂 6間に9間 の上棟式を挙げ、
ついで 3間に6間 の会長室 兼 事務所も ほとんど完成に近づいたので、
移転の手続きとともに、
会長を山陰支教会 理事・田畑嘉七に変更を申出(て)、
明治25年 4月30日、(天理教教会本部より) その許しを受けた。

(明治25年) 5月15日、
(教会)移転と2代会長就任奉告祭を 盛大に執行した。

広がる山陰の道、平野楢蔵の涙(明治26年頃〜明治28年頃)

開筵式を一転機として、(山陰支教会の)教勢は 一時に奔流の如く流れて、舞鶴近在の布教は 長足に伸展した。

(明治)26年には 5ヵ所の部内教会が設置されたのをはじめとして、
役員周旋は さらに積極的に 遠く志を異郷に走らせ、夫々 山陰道を西下して行った。

同年(明治26年) から (明治)29年までの 4年間に、
府下 並びに 近府県はじめ、遠く山陰道の果てから福岡と 1府6県に亘って、
教勢は 加速度的に伸び、48ヵ所の部内教会を有するに至った。

他面、山陰支教会の整備にも意を用い、
(明治)26年11月中旬には、教会の拡張のために隣接地の買収。
(明治)27年の秋には、1間半に3間の教祖殿および16坪の客室の増築落成。
(明治)28年秋には、間口5間に奥行2間半の土蔵を建築し、普請は相次いだ。

客殿落成の時、平野(楢蔵・郡山初代)会長は、人々が退いてから、独り障子を開け、海辺の方を眺めていたが、突然 はらはらと落涙した。
(平野楢蔵 郡山会長は) 随行の者に
「俺が 涙流したので 皆 不思議に思てるやろ。しかし、4年前には、桂林寺の一件で皆 苦しんだ。それが 僅かの間に こうして立派な客座敷を造るまでになった事を思えば、思わず 涙がこぼれたのや」
と語った。

著しい教勢の衰退(明治29年〜明治33年頃)

(そのような具合で、山陰支教会開設当初の道は順調に拡大していたのだが) 
わずかの間に隆盛を極めた教勢も 束の間、
明治29年の (内務省) 秘密訓令と関連して 漸次 教勢の衰退(が見られるようになり、また それと同時に) 数々の苦難に直面する事態に立ち至った。

同年(明治29年) 下半期には、
上納金が 半額も部内から集らず、
一時の方策として 高利も厭わず 借入れて上納した。

また、会長役員をはじめ 家族までも ひぜんという皮膚病で悩むようになった。
(明治)30年 2月19日、
神意を伺い、十分精神を立替えるべく会議に会議を重ねた。

しかし、その病(=ひぜん)は 部内先々にまで及び、
加えて、(部内の)教堂や敷地を売却するというような事情が頻発し始め、
(山陰の)頽勢は、もはや容易に挽回できるものではないところにまで追い込まれた。

(頽勢著しい山陰支教会は) 上納だけは 両3年間 無理な借入をして切り抜けたものの (それは)多額の負債となって残り、ますます悲境のどん底に陥っていくばかりであった。

田畑嘉七2代会長始め役員4名の裁判所召喚(明治33年)

(明治)33年 旧12月14日、
借入金 担保のことから、
田畑(嘉七)会長始め役員4名、折しも 降りしきる牡丹雪の中、(京都府) 宮津区裁判所に召喚された。

予審は意外に長引き、極寒の中、(田畑嘉七会長始め 役員4名は) 鉄窓裡に 呻吟せねばならない身となった。

増田甚七 郡山分教会2代会長、山陰支教会3代会長を兼務(明治34年)

ことの顛末を郡山分教会に報じてあったので、
郡山分教会(2代会)長・増田甚七は、
(明治)34年6月16日(に) 山陰支教会3代会長兼務の許しを得(て、山陰支教会を守ることとなっ)た。

(田畑嘉七会長始め 役員4名が) 73日目に 予審免訴となって出所して帰るや、
田畑(嘉七)前会長と役員1名を残して、(山陰支教会) 全部の役員が、今一度 荒道から(やり直そう)と 長野・群馬の両県へ布教に出た。

続出する事情、苦難の時代(明治34年頃〜明治37年頃)

このような状況下では、部内教会の修理も行届かず、事情(が) 続出。
当局から 山口県下23ヵ所の整理を厳達されたが、(どう考えてもそれは) 困難なことが明らかであった。
そのため、(そこは) 郡山分教会の直轄とした上で整理を願うことに決し、(明治)35年8月7日、その手続きを終えた。

このようにして、(山陰支教会の) 部内教会は半減し、債権者は毎日後を断たず、
増田甚七名義に切り替えてあった (教会の)敷地・建物まで担保とすることを余儀なくされた。

田畑嘉七の復帰、4代会長就任(明治37年)

(明治)37年12月13日、
上級・郡山分教会の指示により、増田甚七は (郡山分教会2代会長と山陰支教会3代会長の) 兼務を解き、田畑嘉七が 再び4代会長に就任(した)。

乾 伊蔵による債務整理(明治37年頃〜明治39年頃)

(それと)同時に、郡山(分教会)より 役員・乾 伊蔵が (山陰支教会に)出向し、1ヵ年余り財政整理に尽くした。

その結果、20余名の債権者に、(債務) 5ヵ年無利子据え置きの上、後10ヵ年の年賦償還という緩やかな返済計画を承諾してもらうことが出来、(何とか八方塞がりの窮地を脱した。)
(ひとまず債務の)整理はついたものの、(それでも 残った負債は) 実に 1万4千円という高額にのぼった。

田畑嘉七4代会長の辞任、今西長司5代会長の就任(明治39年)

(その後) 教祖20年祭の旬を迎え、(山陰支教会の) 部内教会も 漸次活気を呈し、内外共に曙光が見え始めた。

しかし、諸般の情勢に照らし、郡山(分教会)からの特命によって、
田畑嘉七(4代会長)は、(明治)39年3月30日、辞任(の運びとなった。

そして)、同年(明治39年) 4月13日、
郡山分教会役員・今西長司が、山陰支教会5代会長に就任した。

山陰支教会復活の兆し、山陰分教会へ改称 〜 多額債務からの解放(明治42年〜大正5年)

このようにして (山陰支教会は 苦難の時代を何とか乗り越え、
その後、少しずつ息を吹き返し)、10年来聞くことを得なかった教会新設も出願されるようになった。

(そして、山陰支教会の) 教勢は 徐々に発展に向かい、
(明治)42年1月19日、山陰分教会と改称(した。)

また、大正5年4月13日には、(山陰支教会を長年苦しめてきた) 多額の債務が、古い借用証書の返還とともに解消され、債権者名義となっていた敷地や建物も 再び 分教会の所有へ戻ることとなった。

相次ぐふしん 〜 教勢の回復(大正4年〜大正15年頃)

大正4年2月、(山陰支教会は) 
正門を 旧場所より7間程前に出して改築。
なお、4間に9間の炊事場も引続き新築され、旧態を止めないまでに面目を一新した。
大正10年 教祖40年祭が提唱されるに及んで、同年(大正10年)末より 教祖殿改築の工を起こして、4月上旬に完成。
(大正10年) 4月10日、遷座祭を執行し、翌日(4月11日) には 創立30周年記念祭を執行。
また、(大正)13年12月には、2間半に9間の 役員住宅の建築も終えた。

教祖40年祭 (大正15年執行) には 2,200余名からの帰参者があり、
(大正15年) 4月18日執行の 山陰(支教会) においての年祭も、警察が整理係を派遣した程、盛況を極めた。

(山陰支教会は) 以前に数倍する約1,200坪の敷地に 320余坪の建築をなし、
(また) 部内教会 54カ所を擁するに至り、完全に教勢の回復を果たした。

今西長司5代会長の辞任、今西国三郎6代会長の就任(昭和8年)

昭和8年4月、今西長司(5代会長) が辞任し、
(昭和8年) 5月8日、
郡山大教会役員・今西国三郎が、6代会長に就任(した)。

教会の移転(昭和11年頃〜昭和16年頃)

(今西国三郎6代会長は) 
本部の要職にもある中、(教会の)内容充実に専念しつつ、
かねてより 現在地の敷地が狭隘であるのを感じ(ていて)、
将来の道を考慮し、(会長就任以来) 移転の協議を重ねていた。

(そのような状況において) 昭和11年 候補地を視察(する中)、5千坪程の適地が見つかったので、
(昭和11年) 8月28日、1万2千8百円で (その土地の) 買収契約をし証書を取交した。(=移転地を購入した)

このような流れで、(教会移転に向けて 新しい土地の) 整地に励む最中、
(昭和)14年3月、
舞鶴 築港土地区画により 都市計画方針が樹立。
(舞鶴)市の懇請もあり、早急に (教会)全部 仮移転を成すこととなった。

(そして、昭和)15年2月10日、
(京都府) 舞鶴市 倉谷小字上ノ山1番地に 改築移転すべく (天理教教会本部の) 許しを得た。

(山陰分教会一同は) 
この移転は (山陰)分教会 創立50周年に対応して 成人を促される神意と悟り、勇んで工事を急いだ。
(そして、昭和15年)10月19日、遷座祭を執行。

(昭和)16年の新春は、
(まだ教会施設 建築途上で ふしんが全て完成していたわけではなかったが) 新教会でつとめた。

山陰大教会へ昇格、今西国三郎6代会長辞任・山田 一7代会長の就任(昭和16年)

(昭和)16年4月、
まだ この(教会施設) 建築の途上(であったが)、
(上級) 郡山大教会より、
教規改正の結果、山陰分教会が大教会となる「分離陞級」の件が持ち出された。
(そして、山陰分教会は 郡山大教会より分離し、大教会へ陞級することが決定した。)

(それを受けて) 
今西(国三郎6代)会長 辞任の上(で)、(山陰)分教会 理事・山田 一を (次期)会長とする、ということになった。

昭和16年7月1日、
山田 一が、山陰分教会7代会長に就任(した)。

ついで、(昭和16年) 7月2日、
(山陰)大教会 陞級の許しを受け、本部直属となった。

時に、部内教会(は) 77ヵ所であった。

抗えぬ国策、非情の立ち退き――舞鶴・引土の地へ(昭和17年)

(山陰大教会が 郡山より)分離して間もない 同年(昭和16年)10月25日、
突然、その地 (=昭和15年に移転したばかりの山陰大教会の敷地) を 海軍用地として買収する件が、当局より提示された。

(山陰大教会は) 種々、海軍と交渉(したが、国家権力の前では如何なる主張も無力で、新天地移転後 1年も経たずして)、再び (教会) 移転の止むなきに至った。

(山陰大教会一同は、ここまで かなり進んでいた)工事を (泣く泣く) 中止し、現(在地の 京都府) 舞鶴市 字引土930番地に、2,389坪を購入。
設計変更の上、(昭和)17年4月6日、(天理教教会本部より) 移転の許しを受け、
(昭和17年) 4月16日、地鎮祭を執行した。

相次ぐふしんではあったが、(山陰大教会)部内は 一手一つ(となって) よくその任に耐え、戦時下の諸物資の不足、その他 困難を極める状況下で、
同年(昭和17年) 8月23日、仮遷座祭を執行。
(昭和17年) 11月24日(には) 上棟式が執り行われた。

困難乗り越え、教会移転完了「大教会陞級・7代会長就任・教会移転」奉告祭 〜 府知事の認可(昭和18年〜昭和19年)

その後、(多くの困難を乗り越え) 全ての移転が完了。

(昭和)18年11月1日に 遷座祭、
翌(11月)2日、
(大教会)陞級・(7代会長)就任・(教会)移転、(という三つの大きな節目の) 奉告祭を執行した。

また、教法第1号をもって教会法人となり、19年6月23日には 府知事の認可も得た。

太平洋戦争 終戦前後(昭和19年頃〜昭和20年頃)

(山陰大教会は) かくて 本部直属としての歴史が始まったが、日増しに 戦局は窮迫していった。

境内地は畑となり、教堂・信者室は 徴用工の宿泊所(に、そして)事務所は職業安定所となった。
召集・徴用・炭坑ひのきしん…と、(次々) 戦争に揉まれる内に、(昭和20年) 終戦を迎えた。

終戦後 〜 教祖70年祭(昭和21年頃〜昭和31年頃)

(戦後の 山陰大教会では) 
戦時の10年間 見なかった教会新設も 漸次 願い出るに至り、
(昭和)25年8月には、
客殿の増築、造庭、排水工事…と、(舞鶴市の引土に移転後、戦火が拡大したこともあって) 未整備のまま荒廃していた 境内地の完全整備に取り掛かった。

それとともに、来たる創立60周年の記念事業として、(天理教教会)本部所在地(おぢば)に、信者詰所の新設を計画。
(昭和)26年5月19日、盛大に執行された創立60周年記念祭の余徳をもって、詰所敷地として、天理市丹波市町西の田211番地の545坪を購入。
(昭和)27年6月には その地均らしに着工。7月29日には上棟式を挙行した。

かくて、1号館・2号館・食堂 の 3棟の 延430坪の詰所が 年内に完成したので、
(昭和)28年正月より開設。
(昭和)31年(の) 教祖70年祭には、帰参者数 3,500余名を数えた。

(昭和31年) 3月21日には、(山陰)大教会における 教祖70年祭を執行した。

山田 一7代会長辞任・今西国男8代会長の就任(昭和32年)

このような中、(山陰大教会は) 新たなる転機を迎えることとなった。

(郡山から) 分離後15年、
分離時の方針に従って、郡山大教会より、今西国男が、家族共々 山陰大教会会長として 正式に移り住んだ。

(そして、昭和)32年2月、山田 一(7代会長) は辞任。
(昭和32年) 同月(2月)26日、今西国男が8代会長代会長に就任した。

かくて、会長宅の増築もなし、
(昭和32年) 5月21日、(8代会長)就任奉告祭を執行した。

昭和30年代 〜 昭和40年代の動き

また、(昭和32年) 10月22日には、
青年会長を迎えて 青年会 山陰分会 第8回総会を開催した。

昭和36年10月3日、
創立70周年記念祭を執行し、先人の苦労のあとを偲んだ。

創立70周年後(は)、教祖80年祭に向かって年祭活動に専念。

昭和41年3月20日、(山陰)大教会 教祖80年祭を執行。

(昭和41年) 10月21日には、よのもと会 会長を迎えて、第1回 総会を開催した。

(昭和)43年には、神殿お守所 及び 神祭具置場の増改築を行い、当直当番を強化するなど、その他、内容充実に心掛けた。

創立80周年には、倉庫ガレージ・正門の増改築、及び、おぢば信者詰所の増改築を行った。

(昭和)46年11月3日、
創立80周年記念祭を盛大に執行。
帰参者は、2,692名を数えた。

出版物としては、
『おもかげ』(6代・7代会長略伝)、年表『やまかげ』を出版しているが、
定期刊行物として、毎月月報『やまかげ』を、昭和25年ガリ版刷の第1号から数えて、現在 (=『天理教事典』1977年版出版当時) 157号まで 発行している。


〔現住所〕〒624-0841  京都府舞鶴市字引土930番地
〔電話〕 0773-75-0514

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,843〜846)

おわりに

山陰大教会画像検索より②
Google画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第108回目の今回は、
「山陰大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

山陰大教会GoogleMapより
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも、山陰大教会に関連した記述がありましたので、自己覚え書きとして そのまま書写します。

明治十九年、京都白川村の 農業 兼 精米業を営む 沢田重左衛門 (山陰初代) は
借金催促のため、大和郡山の 平野楢蔵 (郡山初代) を訪ねた。
楢蔵夫婦が 寝食を忘れて不況に努める姿に魅せられた。

二十一年、若狭へ布教に出た。

大飯郡本郷村の 呉服行商・森本久平は、二十二年、重左衛門の説く教えに感銘し、共に 布教を始めた。

(森本)久平は 故郷の鳥取県気高郡中ノ郷村へ足を伸ばし、同郡 日置谷村早牛の 農業 兼 製薬業・山岡元吉、同村 養郷のいとこ・藤原米十郎を導いた。

(藤原)米十郎は 法華宗から お道に転宗、(森本)久平について 布教に励んだ。

二十七年に (藤原)米十郎を会長に 養郷に 日置支教会を設置。
青谷駅から 養郷への約二キロの道筋には、信者の列が続いて絶えなかったという。

(藤原)米十郎宅では狭隘となり、千二百坪の土地に 神殿、教祖殿を普請、近在から「日置御殿」と噂された。

折しも 秘密訓令が発せられるや、警察の取り締まりが厳しくなり、普請の莫大な負債は返済不能になった。
役員、信者は四散し、(藤原)米十郎は 耐えきれず 姿を隠した。

教会境内には 雑草が茂り、債権者が押しかけ、「邯鄲の夢」の故事に似て、元の水田に化してしまった。 
三十八年、京都舞鶴の山陰支教会より派遣された増茂市蔵は、日置を東陰と改称、東伯郡上灘村へ移転した。

借財返還に 実に二十年を要し、後年、部内 鈴山分教会長・穀本東蔵が七代会長に就任、基礎を固めた。 

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,96〜97 )

山陰大教会は、郡山大教会から分かれた大教会ですね。
郡山大教会については、当シリーズ初回に勉強して 記事を投稿しました。

山陰大教会Google検索より②
ホームメイトリサーチ旅探天理教山陰大教会 より

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】108回目の当記事では『天理教事典』の中の「山陰大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

山陰大教会初代会長の沢田重左衛門先生については、当シリーズ第79回で「北陸大教会」の記事を作成した際に 少し勉強しました。

そこでは、
沢田重左衛門先生は、河内地方の出身で、平野楢蔵 郡山大教会初代会長の 伯父(親戚)にあたるということ、
そして、金策のため郡山の平野楢蔵先生を訪ねた時、渡世人だった平野楢蔵先生が天理教に入信していて その変貌ぶりに大いに驚き、それと同時に天理教の偉大さも感じて、それで、即 天理教に入信したということ、
以上のことを学びました。

その 第79回 北陸大教会の勉強をした際 知ったのは、
沢田重左衛門先生は、
自身が居住していた京都府白川村へやってきた 石工の 五左衛門が提案した若狭布教に応じて、若狭国において熱烈布教に励んで 講社(三森講=後の北陸大教会)を結成――
そこが ある程度大きくなった後、そこを 岩崎源右衛門先生(北陸大教会初代会長)に委ねて、丹後・丹波方面の布教に赴かれた――
という史実でした。

すなわち、
沢田重左衛門先生が、若狭国で北陸大教会の礎を築いた後に赴いた 丹後地方、そこで生まれたのが「山陰大教会」――
そういうことだったのですね。

そう考えると、北陸大教会と山陰大教会は、その創立経緯において、兄弟教会と言えなくもない、というふうに感じました (^^)

その、若狭国から丹後・丹波方面における道のパイオニアである沢田重左衛門先生は、
若狭国で出来た講社は現地の有力な信徒に委ね、次なる布教地である丹後国で出来た集談所では教会設置へ向けて自ら先頭に立って活動された。

その結果、「山陰支教会」として 天理教教会本部のお許しを受け、また、地方庁の認可も 無事に受ける事ができた。
そして、さあ、これから山陰支教会の初代会長として 益々 布教活動を推進していこうといた矢先、なんと、沢田重左衛門先生は 60歳で出直ししてしまわれた! Σ(゚ロ゚;)

『天理教事典』によると、
山陰支教会の天理教教会本部お許しが、明治24年8月6日。
地方庁認可が、明治24年9月5日。
そして、沢田重左衛門 初代会長の出直しが、明治24年10月9日。
とありました。

山陰大教会の初代会長、沢田重左衛門先生は、教会名称のお許しを頂いてから わずか2ヶ月後に出直しされていたとは… (°д°)
知りませんでした。

山陰大教会Google検索より③
ホームメイトリサーチ旅探天理教山陰大教会 より

『天理教事典』「山陰大教会」解説文にはそのことに対する人々の反応について全く書かれていません。
なので 想像するしかないわけですが、
やっと教会を設立してこれから新しいスタートを切ろうという時に、その中心的存在を失ってしまったのです。関係者一同の皆様の衝撃・落胆は並大抵なものではなかっただろう、と容易に想像されます。

また、沢田重左衛門先生ご自身においても、
これまで布教の上に並々ならぬ苦労を重ね、それが教会として結実。さぁこれから新たなステージで頑張っていこう…という、前途に夢がふくらむような状況で、突然退場を余儀なくされたわけです。おそらく、さぞかし無念だったのではないだろうか、と想像致します。

そのような、スタート早々から大きな節を見せられた山陰支教会の皆様でしたが、
山陰支教会の皆様は、そのような大節にも心倒す事なく、気を取り直して、新たな土地を購入して教会の移転・新築を成し遂げられたのでした。

これまでいろいろな大教会の歴史を勉強する中で、
現存するほとんどの天理教の大教会は、
大きな節に出会った時、その節を前向きに受け止め歩み続ける事で、新たなステージへステップアップしたり大きく飛躍するという歴史を持っておられる、ということを学んできました。

今回の勉強の中で知った
「初代会長の教会創立直後の出直しという大節があったにも関わらず、そこから新たに教会移転・新築という前向きな活動を実践した」
という山陰大教会の史実は、
山陰支教会の皆様においても 他の教会同様に、
この節に打ちひしがれてしまうことなく、むしろこの節を前向きに受け止め その後の更なる飛躍に繋げたということを示している、と言っていいのではないかと感じました。

当シリーズを継続する中で、天理教大教会の多くが
「節から芽が出る」という教えを拠り所にして、壮絶な節を乗り越えてきた ということを学んできました。

これまで勉強してきた中で、全く節のない 順風満帆だけの天理教大教会は なかったように思います。
ほとんどの天理教大教会が、いくつもの 大きな節を乗り越える事で 後の隆盛を築かれていきました。

このような厳然たる事実を通して、信仰初級者の私は、
大きな節に出会った時、「成ってくるのが天の理」との御神言を心に刻み、その中にはより良き道へ導かんとする親心が込められていると信じて、その節を前向きに受けとめ歩み続けようとするということの尊さを、今更ながら、しみじみと感じました。

「節には親心=愛がこめられている。節に出会ってもくさる事なく、そこには親心=愛があることを信じて前向きに歩む事で、その先、より良き道に進むことが出来る」
(心底そのように思えるようになるまでには 相当の修行が必要だと思いますが)
たとえ 今は そのような考え方が出来なくとも、そのような物の見方・考え方がある、ということを知っているだけでも、身の回りで起きてくる様々な出来事への受け止め方が全く違ってくる、ということも 改めて感じました。

そして、それと同時に、
そのような考え方というか 思案の足場を提供してくれる 天理教の教えって 本当に尊いなぁ…
と 今更ながら 感じた次第であります。

感じるだけで、そこから先の実践が伴わないのが 残念な話ではありますが… (^^ゞ

山陰大教会画像検索より③
Google画像検索より

また、今回の『天理教事典』「山陰大教会」解説文書写学習の中で
「上級・郡山大教会の平野楢蔵初代会長の涙」
というエピソードは、私の中で 非常に印象に残りました。

明治28年に山陰支教会の客殿ふしんが完成した後、
平野楢蔵 郡山会長は、
独り 障子を開け海辺の方を眺めていた時、突然 はらはらと落涙されたとのこと。

平野楢蔵郡山会長は、随行の者に
「俺が涙流したので 皆 不思議に思てるやろ。しかし、4年前には、桂林寺の一件で皆 苦しんだ。それが 僅かの間に こうして立派な客座敷を造るまでになった事を思えば、思わず 涙がこぼれたのや」と語った。
そのように『天理教事典』には書かれてありました。

かつては 任侠の世界に生きて、その世界で幅を利かせていた平野楢蔵先生。
入信までの生き方から推察すると、おそらく、人前で涙を流すこと等 滅多になかったのではないかと思われますし、
あくまでイメージですが「男は涙を見せぬもの」的なタイプの性格であられたのではないか と思います。

その平野楢蔵先生が、新しく完成した客殿の障子を開けて窓の外を眺めながら、突然ハラハラと涙を流された――

その背景には、
それまで 山陰支教会が歩んできた苦難の道に対する深い思いもあったでしょうし、
また、かつて、切った張ったと人と争うことを生業としていた自らが、こうして人様の助かりを祈るような生き方へと180度方向転換できたお陰で このような結構な景色を見ることが出来ているということへのこみ上げる感謝の思い、というものもあったのではないか、と想像致します。

かつて侠客として名を馳せた平野楢蔵先生が窓の外を眺めながら、過ぎし日を振り返り一人涙を流される――
その光景を想像すると、後世に生きる私たちの胸にも熱いものがこみ上げてくるような気がします。

山陰大教会Google検索より④
ホームメイトリサーチ旅探天理教山陰大教会 より

その他にも、今回の勉強を通して初めて知った印象深い史実が数多くありますが、
あまり長くなっても読み手の方への負担なりますし(当ブログ記事を最後まで読む人はあまり居ないから気にしなくて良い、と言われそうですが… (^^;)
私の感想は 文字通りの「蛇足」なので、このあたりで切り上げたいと思います。

ただ、最後に、
私の中で印象深く心に残った史実を、改めてなぞらせてもらいます。自己覚え書きとして。

印象深く心に残った史実の一つが、
明治29年の内務省秘密訓令により著しい教勢の衰退が見られるようになり
上納金が半額も部内から集らなくなって高利貸しから借入れて上納したことにより、
山陰支教会は、その後、長年に渡って多額の負債に苦しんだ、という話です。

その借入金担保のことから、田畑嘉七2代会長始め役員4名が、裁判所に召喚された――
『天理教事典』には そのように書かれてありました。

その後、上級・郡山から乾伊蔵先生が出向してきて 債務整理に努め、
そこから 長年に渡って 一同力を合わせ コツコツ債務返済することで 何とか窮地を脱したとのことですが、
田畑嘉七2代会長始め役員先生方が 裁判所に召喚される程の困窮時代があった、という史実は 衝撃的でした。

また、その他に 印象深く心に残った史実として、
昭和16年、突然、教会敷地を海軍から接収され、移転して1年も経っていないのに再び移転のやむなきに到った、という話があります。

山陰分教会が、昭和15年に 舞鶴市上ノ山に移転し、昭和16年には 大教会へ陞級。
会長も 今西国三郎6代会長から 山田一7代会長に交代して、新天地での活動に邁進すべく 教会ふしんに励んでいたところ、
突然、教会敷地を海軍から接収され、移転後1年も経たずして 再び 移転のやむなきに到った――
『天理教事典』には そのように書かれてありました。

以上の話は、昭和16〜17年頃の 太平洋戦争開戦前後の 日本国の混乱が窺い知れるようで、興味深かったです。
国家が国民生活のあらゆる面を統制していた時代にあって、天理教の教会も国策に振り回される悲哀を味わっていたのだ、ということを 改めて知ることが出来たのでありました。

山陰大教会ストリートビューより①
Googleストリートビューより

その他のことも、どれもこれも知らない話ばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出してくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「山陰大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

山陰大教会Google検索より①
ホームメイトリサーチ旅探天理教山陰大教会 より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「山陰大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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