天理教 各教会の歴史探索(第89回)【津軽大教会】『天理教事典』より

「津軽大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号88番「愛豫大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号89番「津軽大教会」について勉強します。

  1. 津軽大教会(つがる だいきょうかい)
    1. 津軽大教会の発端(明治28年)
    2. 渋谷タカ、神 石之助の入信(明治28年)
    3. 津軽大教会の礎、葛西亦蔵の入信(明治28年)
    4. 葛西家について
    5. 葛西家におけるおたすけ活動の始まり(明治28年)
    6. 葛西亦蔵らによるおたすけ活動の大発展(明治28年頃)
    7. 葛西亦蔵のおぢばがえり 〜 天龍講 津軽地方講元に(明治28年〜明治29年)
    8. 内務省秘密訓令による国家権力からの弾圧激化、津支教会 布教師の引き揚げ(明治29年)
    9. 津支教会 布教師の引き揚げに伴う弘前地方の混乱(明治29年)
    10. 津軽出張所の開設(明治29年)
    11. 津軽出張所 指導者をめぐる混乱(明治29年頃)
    12. 葛西亦蔵の弘前布教 〜 津軽出張所の移転(明治29年頃〜明治30年頃)
    13. 激しい警察からの弾圧(明治30年頃)
    14. 警察の心を動かした ある夜の葛西さと夫人の教話(明治31年)
    15. 北角豊吉 初代会長の辞任、葛西亦蔵2代会長の就任(明治32年)
    16. 圧巻の神殿ふしん(明治33年)
    17. 津軽支教会へ改称(明治33年)
    18. のしかかる借金問題、葛西亦蔵2代会長の辞職(明治37年)
    19. 辻本兵蔵3代会長の就任 〜 葛西亦蔵4代会長として復職(明治37年〜明治40年)
    20. 葛西八十吉5代会長の就任、葛西亦蔵4代会長の出直し(明治43年)
    21. 葛西八十吉5代会長、借金問題との格闘(明治43年〜大正6年頃)
    22. 新規事業・北海道 開墾移住団立ち上げ、教会全焼のふし(大正6年)
    23. 津軽分教会へ昇格(大正13年)
    24. 津軽大教会へ昇格(昭和16年)
    25. 葛西八十吉5代会長の出直し、葛西福治6代会長の就任(昭和16年)
    26. 津軽の道の広がり(明治後期〜終戦頃)
    27. 大教会陞級 及び 6代会長就任 奉告祭(昭和17年)
    28. 神殿ふしん(昭和26年〜昭和33年)
    29. 葛西福治6代会長のおやさとふしん伏せ込み 〜 出直し(昭和38年〜昭和39年)
    30. 葛西六郎7代会長の就任(昭和39年)
    31. 葛西六郎7代会長の経歴
  2. おわりに
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津軽大教会(つがる だいきょうかい)

Googleストリートビューより

津軽大教会の発端(明治28年)

津軽大教会は、
明治28年(1895) 4月19日(陰暦3月25日)、
三重県にある津支教会とその部属の久居布教所より、遠国布教を志した 久保繁蔵 外 4名 (計5名) が、
東北線を北上し、更に、青森駅から南下して、当時、奥羽線の終点であった 弘前駅に下車し、
(弘前)市内 東長町を根拠として 布教を開始したことが 発端となっている。

渋谷タカ、神 石之助の入信(明治28年)

(はるばる伊勢地方から津軽地方へやってきた久保繁蔵 外 4名によって取り組まれたた遠国布教は、次々と不思議なたすけを現出させた。
そして それは、) 間もなく「どんな病気でも救かる」との噂に(なった。

噂と共に教えも広まっていき)、近くの (弘前市) 禰宜町に住む 渋谷タカに(も) 教えが伝わった。

(渋谷)タカは 心臓病で15年の間 苦しんでおり、その頃 重体となっていたが、
(天理教布教師のおたすけを受けて) 10日間で 鮮やかに癒った。

(渋谷)タカは (長年の病気を救けられて) 心魂に(深く)染み渡る感激に包まれた。

(おたすけを頂いた渋谷タカは)「人助けて我身助かる」と教えられた通り、布教者に協力して、にをいがけに奔走。
その中で、神 石之助を導いた。

この (神)石之助も(また)、(天理教布教師のおたすけを受けて、苦しんでいた) 肺病が 21日のお願いで見事に全快する、という御守護を頂いた(のであった)。

津軽大教会の礎、葛西亦蔵の入信(明治28年)

この (神)石之助の妻が、実家である (青森県) 南津軽郡 猿賀村 大字大袋で、夫の不思議なたすけを伝えた。
これが、(後に 津軽大教会の礎を築くことになる) 同村(猿賀村 大字 大袋) の 葛西亦蔵の耳に入った(のである)。

(その頃、大病を患っていた葛西亦蔵は、そのような 次々と不思議な救けが現れているとの噂を聞きつけて、天理教布教師の) おたすけを乞うた。
それで、久保繁蔵は、渋谷タカを同道し (葛西)亦蔵を訪問した。 

この日は、(遠国・伊勢から赴いた) 布教者が (青森県)弘前で布教を開始してから、丁度 1月目の 旧4月24日(陽暦5月18日) であった、と記されている。

その頃、(葛西)亦蔵は、眼病・心臟病・肺水腫 を 7年越しに患っていた。
そのために、長男ではあったが、家業は 次弟の 静一に任せて、(葛西亦蔵自身は) 半ば 廃人として分家していた。

そんな時、(葛西亦蔵は)この (伊勢地方からやってきた天理教布教師たちによる) 不思議なたすけの話(を耳にしたわけである。

廃人同様の生活を余儀なくされ、暗く閉ざされた毎日を送っていた葛西亦蔵は、遠路はるばる伊勢からやってきた天理教布教師たちによるおたすけ活動)に、(強く) 心を惹かれた。
(暗闇の中で絶望的な気持ちに包まれていた葛西亦蔵は、一筋の光を求めて この伊勢地方からやって来た天理教布教師たちに、自らのおたすけを願った。)

かくして (葛西亦蔵は、天理教布教師のおたすけを受けることとなった。

その結果、
全身に及ぶ 7年越しの患いで廃人同様だったにも関わらず、葛西亦蔵は) 
奇蹟的に (なんと) 10日余りで、不治と覚悟していた難病が すっきり(と)全快した(のだった)。

(奇蹟的なご守護を戴いた 葛西)亦蔵は (感謝と感激の思いでいっぱいになった。
そして)、この日より 生涯を たすけ一条に捧げる心定めをし、ただちに実行に入った。

時に、(葛西)亦蔵 37歳。
妻・さと との間に、八十吉・やゑ・貞蔵の、3人の子があった。

葛西家について

(葛西)亦蔵は、
安政6年(1859) 8月23日、
父・茂吉、母・うん の長男として生まれた。

葛西家の先祖は、葛西重忠と名乗り、仙台藩の家臣であった。
(様々な経緯があって) 藩籍を離れて 津軽地方へ移り、当時 賀田の城主・大浦為信に味方し、戦功があって 3百石を賜わった。

それから何代かの後、郡奉行になった人に失政があって辞職。
その後、郷士として (青森県南津軽郡の) 大袋村に移り住んでからも 300年は経っていた。

葛西家の当主は、代々 又右衛門を名乗り、苗字帯刀を許され 庄屋の役をつとめた。
明治になってからも、村用係や戸長などをした旧家で、通称・又右衛門家と呼ばれて、その地区に知られていた。

葛西家におけるおたすけ活動の始まり(明治28年)

(地域の名家である) そこ(葛西家) の長男が 7年も病床に臥していることは、近村で知らぬ人はなかった。
(であるが故に) それが 上方から来た神様によって救けられた、との評判は たちまち(の内に 近村に)喧伝され(ることとなった。)
それは (葛西家が地域の名士であったので) 極めて自然(の成り行き)であった。

(評判は口から口へと伝えられ) 
まもなく「拝めば救かる、撫でると救かる神様が大袋に現れた」という噂に(なって広まった。
そして) 医者の手余りとされた病人が、この亦蔵家を 続々と 訪ねてくるようになった。

葛西亦蔵らによるおたすけ活動の大発展(明治28年頃)

(葛西)亦蔵は、不治と覚悟していた病気を救けられた神恩(を 自らの体をもって体感したことによって、この神様にすがれば どんな病も) 救かる という(確信を抱くようになり) 自信に溢れて、寄って来た病者に対応した。

(そのような葛西亦蔵らのおたすけ活動によって、
そこから) ハンセン氏病、足の立たない者、子宮癌、完全な盲目といった難病が 次々とたすかっていった。

その評判は、やがて 津軽一帯に広がって、
毎日 数十人に余る難病者(が 葛西家を訪ねてくるようになった。
そのため、そ)のおたすけに、葛西家は 夜も昼もないという有様となった。

(それは) 閑古鳥の声のみ聞いていたような村が、突然、異変が起こったように賑わ(う程の盛況ぶりだ)った。

(葛西)亦蔵 (の周辺) は、一歩も外へ出なくとも 人が勝手に寄り集って来(るような状況になっ)たのである。

そして、
後年、津軽の 主な教会となった 奥羽・黒石・水元・岩木・大鰐 などの分教会は、
この時 たすけられた人々が元となっている。

葛西亦蔵のおぢばがえり 〜 天龍講 津軽地方講元に(明治28年〜明治29年)

(葛西)亦蔵は、
この年(明治28年) の10月、
初めて おぢばに参拝して、別席を運んだ。

次いで、翌 明治29年(1896) 4月、
13名の信者をつれて 2度目のおぢばがえりをして、おさづけの理を拝戴した。

そして、この時 (明治29年 4月)、
郡山初代会長・平野楢蔵より、「天龍講 津軽地方講元」の辞令を受けた。

内務省秘密訓令による国家権力からの弾圧激化、津支教会 布教師の引き揚げ(明治29年)

一方、弘前を根城とした (伊勢地方からやってきた) 5人の布教者は、
渋谷タカからの協力を得て、(弘前)市内 各所に信者を結集していた。

しかし この頃、天理教に対する社会の反対攻撃は (一段と) 強くなり、
加えて、明治29年(1896) 4月6日の、いわゆる內務省の秘密訓令によって、弘前警察署の弾圧も急に厳しくなった。

(そのため) 遂に、(伊勢地方から津軽という遠国に布教に来ていた) 5人の布教者は、(涙を飲んで) 次々に (津軽地方を) 引揚げる、という状態になった。

津支教会 布教師の引き揚げに伴う弘前地方の混乱(明治29年)

(津軽地方の布教伝道を牽引していた津支教会の久保繁蔵 外4名の布教師は、国家権力からの激しい弾圧によって、悲しくも引き揚げていってしまった。)
そこで、熱心な信者らが寄って (弘前地方の今後の信仰活動について) 相談を重ね、その結果、藤川隆助宅を借りて 移(ることとな)った。

(しかし、移転はした)ものの、(弘前地方には)中心人物がなく、事ある毎に (南津軽郡の) 大袋より 葛西亦蔵の応援を求め(るような状態だっ)た。

津軽出張所の開設(明治29年)

そのうちに、津支教会からの巡教員によって、特に熱心な信者に周旋方の辞令が渡された。
これを貰った人々は、たびたび寄って警察の厳しい取締りについて協議した。
その結果、教会設置(を)出願(すべし)と(いう話に)なった。(そして、出願した。)

(その結果)
当時、津軽に(は) 教師の資格者が居なかったので、
上級・久居出張所の役員・北角豊吉を担任名義として、
明治29年(1896) 7月11日、
天理教郡山分教会部内「津軽出張所」が、
教甲第1365号をもって (天理教教会)本部より 許しを得た。

場所は、(青森県) 弘前市大字和徳町29番屋敷である。

津軽出張所 指導者をめぐる混乱(明治29年頃)

かくして、
前年(明治28年) 4月(から 伊勢地方から遠国布教に赴いた) 5人の布教者によって蒔かれた種は、1年4ヵ月という期間を経て、(ついに) 教会設置という実を結んだ(のであった。
ただ、その当時の津軽出張所内には) 指導的人物がいなかった。

それには (南津軽郡大袋村で目覚ましいおたすけ活動を展開し盛況を呈していた 葛西)亦蔵が 最適任者であったが、
当時 城下町に育った弘前市内の町人は、伝統的に 農村の出を「在郷者」として軽視する傾向があった。
そうした傾向は 信者間にもあって、(弘前市において津軽出張所開設に尽力した初期メンバーは) 村者である (葛西)亦蔵を (津軽出張所に) 迎えることを拒んでいた。

(その一方)
(葛西)亦蔵(の方で)は、かねてから 布教の便宜上、将来の伝道を考え (城下町である) 弘前市内(への)進出を願っていた。
しかし、親類一同は これに強く反対した。この盛況を捨てて、何を好んで弾圧の烈しい (弘前)市内へ出るのか、というのがその理由であった。

しかし、(そのような親類一同の反対の中) あえて(葛西)亦蔵は、弘前市内進出を断行し、設置された (津軽)出張所へ入った。
そうしたところ、予期した通り、(津軽出張所に自宅を提供していた) 藤川(隆助) は 同居を拒んだ。

葛西亦蔵の弘前布教 〜 津軽出張所の移転(明治29年頃〜明治30年頃)

そこで、(葛西亦蔵の弘前市進出の思いに応えるべく) 渋谷タカらが奔走。

(弘前)市内 楮町の信者・中村幸吉に相談したところ、(中村)幸吉が、娘・イトの難病をたすけられたお礼として、(弘前市) 和徳村俵元に所有している 梨畑 2反2畝歩を 教会敷地に献納する(という)ことを申し出た。

そこで、(葛西亦蔵は、藤川隆助宅を借りて開設された津軽出張所へ入っての弘前布教を諦めて、
渋谷タカや 中村幸吉らの好意を受け) そこ (=中村幸吉から献納された地) に、2間に1間半の莚小屋を建て、りんご箱を神棚にして 捨身の単独布教を開始した。

ちなみに、この場所は、現在も 津軽大教会境内地の芯となっている。

(葛西亦蔵が 中村幸吉から献納された地を拠点として布教に励んだところ)、
亦蔵の住むところ あたかも 砂糖に蟻が這い寄るかの如く、信者やおたすけを乞う者が (次々と) 集まった。
そして、(葛西亦蔵が布教開始して) まもなく、4間に5間の教堂が建築され(るに至っ)た。

(葛西亦蔵の弘前布教が着々と成長する内に、かつて亦蔵の津軽出張所入りを拒んだ) 藤川(隆助) と (葛西亦蔵は) 和解した。

(そして) 明治30年(1897) 9月26日、
(青森県弘前市) 和徳村大字和徳字俵元7番地へ (津軽出張所) 移転の許しを受けて、
ようやく 信者の指導 統一をみるに至った。

激しい警察からの弾圧(明治30年頃)

(津軽出張所内部の体制は整ったのだが)
しかし、地方庁からは 容易に 認可がおりなかった。

(弘前)市内の寺や医師会は 挙って天理教の悪口を訴えていたし、その筋からは 邪教として弾圧を加えられた。
特に、(南津軽郡) 大袋の (葛西)亦蔵が (城下町である) 弘前へ出て来たというので、警察側は 目を光らせた。

こののち、(葛西)亦蔵は (警察へ) 拘引 または 留置されること 13回、日数にして 36日間に及んでいる。
なお その上、明治31年(1898) の夏の頃には、署長の命令で 100日の閉門を命ぜられた。(その時は) 警官が夜昼立番して布教者の外出、信者の出入を禁止する(という) 有様であった。

警察の心を動かした ある夜の葛西さと夫人の教話(明治31年)

この頃、(葛西)亦蔵と上級巡教員の宮村秀次郎が拘留された時、
刑事が (津軽出張所の) 教会の床下にもぐり込んで内偵すること 8日間にわたったことがあった。

ある夜、信者がこっそり訪れて、(葛西)さと夫人より 教理の仕込みを受けていた。
それを 床下で耳をすまして聞いていた刑事は、大いに感動して、次の日 署長に彼はこう言って報告した。
「天理教は悪い教えではない。女房でさえあんな良い話をする程だから、亭主の亦蔵は 偉い奴に違いない」と。

この報告から、にわかに警察側も取締りがゆるやかになり、拘置中の二人は 即刻 釈放された(のだった)。

このことがあってより まもなく、
教会設置の件が 明治31年(1898) 10月10日付で 地方庁から公認となった。

北角豊吉 初代会長の辞任、葛西亦蔵2代会長の就任(明治32年)

次いで 翌年(明治32年) 7月7日、
初代会長・北角豊吉が辞任し、2代会長に葛西亦蔵が就任した。

同日(7月7日)、奥羽・黒石の 2ヵ所の布教所設置が許されて、教勢は素晴らしく伸びた。
たすけられた人々の報恩の姿は、たすけ一条に心定める者が続出するという姿となって現れ、各地に講が結成された。

圧巻の神殿ふしん(明治33年)

こうした教勢の伸展をみて、明治33年、(津軽出張所は) 神殿建築(に)着工(すること)となった。

(葛西)亦蔵は (身体的には) 5尺に足らぬ小男であったが 肝っ玉は大きく、
どうせ建てるならでっかいものを…と(考え、そのように)計画した。

(明治33年) 4月の終わりに地均しを行い、毎日100人以上の職人で (ふしんに)精を出した。(そして) 約6ヵ月後の 9月30日(には) 竣工(する) というスピードぶりであった。

(完成した教会施設は) 
神殿・教祖殿・事務室・信者室・会長宅・客間・炊事場等、総建坪 283坪、
回りは 高さ6尺の石垣がめぐらされ、その他 役員宅 4棟が 建てられた。

当時、東京から東北地方にかけて(見渡しても) これほどの建物は(なかなか)ない(であろう)と評判されたという。

しかも、
この 鎮座奉告祭が (明治33年) 11月8日、9日に行われた時、
郡山の平野楢蔵会長を始め、久居・津・中和の会長役員、また 直轄教会長など 60人以上を、2等車1輛 借り切って迎え、両日の参拝者(は、なんと) 延 5,000人(にも及んだ。)

(祭典は そのような空前絶後の規模で執り行われ) 正服姿の祭官の行列を眺めた弘前市民は (心底) 驚いたという。

津軽支教会へ改称(明治33年)

明治33年11月21日付で、
津軽は 出張所より支教会に 引直しとなった。

(新たに) 部属に 大鰐・岩木の 2布教所が生まれ、
越えて (明治)34年 水元布教所が設置認可となった。

のしかかる借金問題、葛西亦蔵2代会長の辞職(明治37年)

しかし、このふしんに対して、
我も我も…と財力を尽くした人々は 78戸(あった)というが、(同時に) 借金もまた大きく残った。

(津軽支教会は) 華やかな落成奉告祭を頂点として、今度は急転直下、どん底へと落込み、これが10年以上に及んだ。

この間、(葛西)亦蔵は 借財の責を問われ、
明治37年12月8日、会長(職)を辞した。

辻本兵蔵3代会長の就任 〜 葛西亦蔵4代会長として復職(明治37年〜明治40年)

(葛西亦蔵の会長辞職を受けて)
中和の 辻本兵蔵が 3代会長に就任した。

(借金問題で大いに混乱し、葛西亦蔵2代会長の辞職にまで及んだ津軽支教会であったが、
様々な経緯の末) (葛西)亦蔵は、
明治40年12月4日、
4代会長として復職している。

葛西八十吉5代会長の就任、葛西亦蔵4代会長の出直し(明治43年)

(4代会長として無事復職した葛西亦蔵であったが)
明治43年春の頃より 病いがちとなった。

(そのため) 当時、東北・北海道の教務支庁長・板倉槌三郎の奨めもあり、
その年(明治43年)の 11月1日、
長男・八十吉に (津軽支教会) 後任会長を譲った。

(そして、それから) 23日目に、
(葛西亦蔵は) 享年52歳をもって その生涯を終えた。

葛西八十吉5代会長、借金問題との格闘(明治43年〜大正6年頃)

5代会長に就任した(葛西)八十吉は 29歳、
教会の大きな借金を遺産のように受継いで、その処理に苦心した。

当時、教会の建物はすでに抵当に入っており、債権者は毎日のように渦を巻いて押しかけていた。

そこで、あけびづる細工、葡萄園、はたおり等の事業で整理をもくろんだが、(それらは) いずれも失敗に終わった。

新規事業・北海道 開墾移住団立ち上げ、教会全焼のふし(大正6年)

大正6年(1917) 3月、(葛西八十吉5代会長は)
(借金問題の解決を図るため) 北海道北見国斜里の原野に開墾移住団体を組織した。

(開墾移住団は、葛西)八十吉会長 自ら(が) 団長となり、一気に借財の解消を期待して、役員・住込み人・部内の有志 53戸を合わせ(て結成。)
(大正6年) 5月、(北海道の) 現地に到着した。

(困窮に喘ぐ教会経営の一助となることを目指して、津軽支教会員一同、新たな気持ちで事業に取り組み、奮闘を始めて) まだ間もない (5月)18日。
(なんと) 弘前を大火が襲った。

(開墾移住団として北海道に赴いていた津軽支教会員一同の元に) 教会が全焼した、との報が届いた。
(津軽支教会の北海道開墾移住団) 一同(は) 
(新天地・北海道に到着し、さぁ、これから…と気持ちを奮い立たせて幾日も経たぬ頃に) そのような報に接し、ただただ茫然とするばかりだった。

(報せを受け、葛西八十吉5代会長は) 急いで (北海道から津軽へ)帰国した。

(そして) 焼野原に立った(葛西)八十吉会長は、
(父・葛西亦蔵を中心にして建築され、地域の人々を驚嘆させる程の威容を誇った神殿他教会施設が一夜の間に灰燼に帰した姿を目の当たりにして) 深く反省をした。

(葛西八十吉5代会長は、この大節を生き節とすべく、
今後ますます) たすけ一条と 部内の修理(に奔走すること)を 決意した。

津軽分教会へ昇格(大正13年)

それから 7年経った 大正13年までに、
部内教会は (青森)県内・樺太・北海道にわたり 23ヵ所となった。

同年(大正13年) 10月30日、
津軽(支教会)は 分教会に昇格した。

津軽大教会へ昇格(昭和16年)

更に 17年経って (部内教会は) 28ヵ所設立され、計 52ヵ所となった。

昭和16年(1941) 3月27日、
津軽分教会は、
89番目の 大教会に昇格した。

葛西八十吉5代会長の出直し、葛西福治6代会長の就任(昭和16年)

そして 同年(昭和16年) 5月22日、
(葛西)八十吉会長は 60歳で出直した。

(昭和16年)7月1日、
(葛西)八十吉の長女・ウメの婿・福治が、6代会長に就任した。

津軽の道の広がり(明治後期〜終戦頃)

津軽の伝道線が北海道に伸展したのは、
明治33年、部内教会である 黒石の 中辻与作が眼病をたすけられた報恩に、単身 札幌で布教したのに始まる。

(中辻)与作は、苦節10年、
明治43年2月2日、北星宣教所を設置し、3月31日 地方庁より認可となっている。
これは、津軽部内としては、当時 初の公認であった。

また、津軽は 樺太にも伸展した。

津軽部内・水元の出町りさの長女・タカ は、太田佐吉に嫁ぎ 鰊場の漁師として樺太・大泊に渡っていた。
出町りさ は、この娘夫婦を頼り、明治42年頃 樺太に渡って布教した。
これが、津軽の樺太伝道の始まりである。

(出町りさ の布教により) やがて 数人の信者ができ、水元へ布教師を派遣してくれ と伝えた。
この要請に応えて渡ったのが、菊地重太郎である。
菊地(重太郎)が 大泊についたのは 大正元年で、それから5年後に、4間半に6間の教堂を建築。
大正6年1月31日、南樺宣教所を設置した。

その後、黒石部内も進出し、出樺・中樺・樺西・水栄・北真岡など 6ヵ所の教会が (樺太に) 設置された。
(しかし、昭和20年の) 終戦によって(樺太からの撤退を余儀なくされ)、
現在は、北海道・青森県・新潟県などに 移転復興している。

大教会陞級 及び 6代会長就任 奉告祭(昭和17年)

さて、6代会長に就任した葛西福治は (就任時) 43歳(だった。)

昭和17年(1942) 5月14日、
大教会陞級と会長就任奉告祭を 2代真柱夫妻の臨席を得て執行した。
参拝者(は) 千人(にも及んだ) 。

神殿ふしん(昭和26年〜昭和33年)

この時、(葛西福治)6代会長は、消失後の仮建築に狭隘を痛感し、神殿建築を念願した。

その後、11ヵ所の教会が生まれ、終戦時の混乱もやや治まった 昭和26年(1951) 8月、いよいよ (新しい神殿の) 建築を打出した。
(そして) 翌 (昭和)27年の暮、早くも(神殿建築の) 基礎工事を完了。

(昭和)28年11月10日 上棟式となったが、(昭和)29年9月に至って、教祖70年祭終了まで 一時 ふしんを休止した。
(そして、教祖70年祭を無事つとめ終えた後) 昭和32年9月5日より再開し、同(昭和)33年に完成。
同(昭和33年) 12月1日、2日、真柱の臨席を得て、
参拝者4千人の中、落成鎮座奉告祭を 盛大に執行した。

神殿 及び 付属建物は その後 増築し、現在 総建坪 550坪となっている。

葛西福治6代会長のおやさとふしん伏せ込み 〜 出直し(昭和38年〜昭和39年)

また、(葛西)福治(6代)会長は、
昭和38年7月21日、
おやさとふしんへ 一つ一つ選んだ生石の砂利を、トラック2台で 弘前より天理まで運び、更に セメント1万袋 献納を年内に果たして話題となった。

これをみやげのように、
(葛西福治6代会長は)
翌年(昭和39年) 4月21日、66歳をもって出直した。

葛西六郎7代会長の就任(昭和39年)

(昭和39年) 6月26日、
嗣子・(葛西)六郎が 7代会長となった。

その就任奉告祭は (昭和39年) 10月13日、
中山善衛 (3代真柱) の臨席の許に執行した。

葛西六郎7代会長の経歴

(葛西)六郎会長は、
昭和32年、国学院大学第1文学部史学科を卒業後、しばらく郡山大教会で青年づとめ。
昭和37年5月より同39年(1964) 4月まで、本部ひのきしん青年をつとめた。

(その後) 統北分教会長・山本正義 2女・紘子と結婚。
昭和43年6月より、青森教区長になっている。

(『天理教事典』1977年版出版当時の) (津軽大教会) 所属教会の分布は、
青森県46・北海道16・新潟県1・ 岩手県1・奈良県1。

昭和44年3月「てんり保育園」を開設した。



〔現住所〕〒036-8004  青森県弘前市大町 3丁目6番地1 
〔電話〕0172-32-2018

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,523〜525)

おわりに

Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

89回目の今回は、
「津軽大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

Apple Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 津軽大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

「拝めばたすかる。撫でればたすかる。大袋に生き神さんが現れた」

――南津軽郡大袋の旧家・葛西家に “医者の手余り” の難病者が、遠方からも馬は車に乗って 次から次へとやってきた。
葛西家の長男・亦蔵が お目当てだった。

亦蔵は 廃人同様の七年越しの難病をたすけられ、たすけ心に燃えていた。
といって、学問のある人ではない。
扇に 十全の守護を書き込んでもらい、指先に神名を記して、読み上げるように 夢中で話した病人は 不思議とたすかった。

おさづけを頂いてからは、運んでくれる者は誰でもたすかる という確信をもって対した。
そして、病人と土間で共に寝起きしながら、その人の生活姿勢を変え、生かされている感謝のための、いわば 修行を繰り返していった。

病人に いんねん切り替えの道を説いた。
かといって、決して 押しつけたわけではない。
その重荷を引き受け、自ら しょい込んだのである。

人の苦悩に とことん耳を傾ける。
相手は 心の内奥まで すっきりする。
安心してもたれきれる。
亦蔵は 人の苦しみ悩む姿を 見たり聞いたりすると、人目 はばかることなく泣いたという。

そんな亦蔵に 会う人は 誰でも、離れがたい魅力を覚えたようである。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,31 )

奥羽北部 三県の道は 旅衆 (他国人) によってつけられた。

ハンセン病、結核、トラホームなど難病が 次々と治癒。
いんねんを聞き分けた大地主たちが 全財産をなげうって 道一条になった。
津軽は 二百戸、八戸は 四百戸が かまど返しした と言われる。

県の役人は 青森県をつぶす気かと、天理教者を 目の仇にした。
官憲は 教会の共同生活解散、教会不認可、取り消しで 信者の熱情を密封しようとした。
しかし 独立不羈、一徹さで乗り越えた。

この地の歩みには、極限の中をくぐり抜けた 不退転の力がある。 

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,121 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】89回目の当記事では『天理教事典』の中の「津軽大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことばかりでした。

津軽大教会は、『天理教教会所在地録』の本部系統表によると、中和大教会から分かれた大教会。実際には、津大教会から分かれた大教会。
津軽大教会は【郡山大教会ー中和大教会ー津大教会】という「天龍講」の流れを汲んだ大教会ですね。
それぞれの大教会について、これまでに勉強して記事を投稿してきました。

津軽大教会の最初の種を蒔いたのは、伊勢地方から遠国布教に出ていた久保繁蔵先生ほか「津 支教会」の先生方とのこと。

当シリーズ第68回「津 大教会」の勉強をした時、
久保繁蔵先生は、明治40年に 津 大教会の3代会長に就任したと学びました。

津軽大教会の発端となる「津 支教会」からの弘前布教は 明治28年から始められ、
内務省秘密訓令による激しい弾圧のため 涙を飲んで津軽を引き揚げたのが 明治29年とのことですから、
久保繁蔵先生は、津軽布教の後「津 支教会」に戻り、津 支教会の深刻な困窮時代を経た後 3代会長に就任された、というわけだったのですね。

それにしても、「津 支教会」の先生方は、伊勢の地から 遠路はるばる「津軽」まで布教に行かれている という史実。
それは、今日のような交通網は発達していない時代のことですから、とても軽い気持ちでは行動に移せない、まさしく命懸けの行為だと思われます。
当時のお道の先生方が どれ程 強い熱意を持っておられたか、ということが伺えます。

しかし、そのように命懸けで伊勢の地から布教に赴かれた先生方でしたが、
内務省秘密訓令等による激しい弾圧のため、津軽を引き揚げざるを得なくなった。

その後、津 支教会の先生方の蒔いた種が芽を出し、津軽の中心地である 弘前において 教会を設立することになったわけですが、
当時、津軽には 天理教教師の資格者がいなかったので、津 支教会部内・久居出張所の 北角豊吉先生を担任として申請して、そして ご本部のお許しを頂いたとのこと。
実態はわかりませんが、名義貸しみたいな感じだったのでしょうか。

興味深かったのは、その後の 実質的な会長が定まるまでの経緯でした。

信仰的には、南津軽郡 大袋村で目覚ましいおたすけ活動を展開し 盛況を呈していた 葛西亦蔵先生が 最適任者と思われた。
しかし、当時 弘前市内の人々は、伝統的に 農村出の人を在郷者として軽視する傾向があった。
そのため、弘前市において「津軽出張所」開設に尽力した初期メンバーは、村者である 葛西亦蔵先生の「津軽出張所」入りを拒んだ。
けれども 葛西亦蔵先生は、将来の伝道のことも考えて、既に 盛況を見せていた大袋村を去って、献納された 弘前市内の土地に小屋を建てて、あえて 弘前市で布教する道を選ばれた。
その結果、葛西亦蔵先生の元に 多くの人が集まるようになり、
結果的に、葛西亦蔵先生が「津軽支教会」の会長に就任することになった。

『天理教事典』「津軽大教会」解説文を読んで、葛西亦蔵先生が津軽支教会の会長に就任するまでの流れは 上記の如くであると理解しましたが、もしかしたら勘違いしている部分があるかもしれません。
もし 間違っていたら、ご容赦願います。

それにしても、
当初、城下町・弘前の人々の中に
「周辺地域の農村である大袋村の住人である葛西亦蔵先生が会長になることをあまり快く思わない人もいた」
という史実からは、当時の世相が感じられて 興味深かったです。

Chat GPT に次のように質問してみました。

明治28年頃の津軽地方では、城下町に育った弘前市内の町人は、伝統的に、南津軽郡など農村出の者を「在郷者」として軽視する傾向があった、という文章を見かけたのですが、本当ですか?

【Chat GPTの答え】

ご覧になった「城下町の弘前の町人が、農村部(南津軽郡など)の出を “在郷者” として軽視した」という話には、ある程度の歴史的背景があります。
ただし「一律にそうだった」と断言するのはやや単純化しすぎで、時代や文脈によるニュアンスも考慮する必要があります。

背景

  1. 弘前は城下町として形成された都市
     弘前は津軽藩の政治・軍事・文化の中心で、武家地と町人地を核とする典型的な城下町でした。町人は武士階級に従属しつつも、都市的な文化・商業活動を担う自負を持ちました。

  2. 「在郷(ざいごう)」という言葉
     在郷とは「農村部に住む人」を指す言葉で、近世から広く使われていました。城下町に住む町人や武士が「田舎者」とニュアンスを込めて使うことがあり、都市と農村の社会的距離を表現する用語でもありました。関西や江戸など他の地域でも「在郷者」をやや蔑視的に使う例が見られます。

  3. 津軽地方の文脈
     津軽藩政期から明治期にかけて、弘前の町人は商業や手工業に従事し、祭礼や芸能など都市文化を育みました。他方、周辺の農村(南津軽郡など)は米作を基盤とする農業地帯で、弘前への年貢米・物資供給地でもありました。
     この関係性の中で、都市側が「文化的に上位」という意識を持ち、農村出身者を「在郷者」と呼んで一段低く見る傾向があったのは事実と考えられます。

明治28年前後の状況

  • 明治22年に市制が敷かれ「弘前市」が成立し、城下町出身の町人層は都市アイデンティティを強めました。
  • 一方で農村出身者の多くは都市に出て労働や商売に従事し始め、都市と農村の接点は増加。
  • こうした中で「在郷者」という呼び方が依然として残り、町人社会の中に差別的・軽視的なニュアンスで用いられることがあった、と考えられます。

まとめ

  • 「在郷者」という言葉は、弘前を含む城下町社会で農村出身者をやや見下して呼ぶニュアンスがあった。
  • ただし、それは当時の都市と農村の一般的な関係性を反映したもので、弘前特有というより城下町文化全般に共通する現象だった。
  • 明治28年頃の弘前でも、町人層が農村出身者を軽視する意識が残っていた可能性は高いが、社会全体に一律に当てはまるとは言えない。

Chat GPTってすごいですね。
一瞬でこれだけの答えが返ってきました。

だいぶ話が脱線してしまいました (^^;)

葛西亦蔵先生は、以上のような地域性を乗り越えて、城下町弘前市の人々に認められ、皆から会長職に押し上げられたというわけです。
つまり、葛西亦蔵先生の信仰パワーは、当時のその地域の人々の文化・慣習を凌駕する程の力を持っていたということなのでありましょう。

葛西亦蔵先生が会長に就任する際に、このような背景があったとは知りませんでした。
勉強になりました (^^)

Googleストリートビューより

また、
警察の弾圧が激しくなる中で、教会の床下に潜入した警察官が 葛西さと夫人の教話を聞いて感銘を受け、一転して上司に天理教の素晴らしさを主張。
その後、弾圧が緩められ、教会が公認された、という話も興味深かったです。

それにしても、いくら警察の弾圧が激しいとはいえ、内偵捜査するために 教会の床下にまでもぐり込んでいたとは…  (°д°;)
今でいう【カルト教団】的に見られていたのでありましょう。
どれ程、危険視してるんだよ! という話ですよね。

しかし、その警察の内偵捜査員が、葛西さと夫人の教理話を聞いて、すっかり感動してしまったとのこと。

『天理教事典』「津軽大教会」解説文には、以下のように記述してありました。

内偵捜査の翌日、
その捜査員は署長に
「天理教は悪い教えではない。女房でさえあんな良い話をする程だから、亭主の亦蔵は 偉い奴に違いない」
と報告し、この報告から、にわかに警察側も取締りがゆるやかになり、拘置中の二人は 即刻 釈放。

このことがあってまもなく、教会設置の件が地方庁から公認となった。

まるでドラマか映画のような… (°д°) 

私は、そのあたりの歴史を『天理教事典』の記述のみで理解しております。
なので、内偵捜査員の報告と 取り締まりが緩和されたり地方庁から教会設置が公認されたりしたことの因果関係の確からしさが分かりません。
しかし それでも、『天理教事典』「津軽大教会」解説文を執筆された先生が、ここまではっきり書き切っておられるのですから、それなりの根拠があるのでしょう。

もしも『天理教事典』に書かれてあることが背景にあって弾圧が緩和されたり公認が受けられたのだとするなら、
私には、葛西さと奥様が「津軽大教会を迫害弾圧から救った女神!」に見えます。

ご夫婦揃って艱難苦労の道中に誠真実を伏せ込まれた理が、反対する者の心をも大きく動かしたのだと感じました。
感動しました。

Googleストリートビュー より

また、当シリーズ継続する中で、ほぼ毎回と言ってもいい程出会う、天理教大教会初期歴史における激しい「経済的困窮時代」というもの。
それに、今回の「津軽大教会」の書写学習でも 出会ったことは、印象深いです。

前回(88回)勉強した「愛豫大教会」でも、
大正初期に、借金が嵩んでどうにもならず 夜逃げ同然に移転した という歴史があることを学びました。

津軽大教会においても、
圧巻の神殿ふしんと華やかな奉告祭の後、莫大な借金が残り、以後、10年以上も甚だしい経済的困窮時代を味わうという歴史があった、
ということを、今回の書写学習で 知りました。

その中で 特に興味深かったのは、
借金問題解決のために、葛西八十吉5代会長が 北海道開墾事業を立ち上げた、というあたりの歴史でした。

そういえば、だいぶ以前、湖東大教会の勉強をした際に、
湖東大教会でも、経済的困窮から脱出するために、大正5年に 北海道十勝開墾事業を起こした、
と 学んだことを 思い出しました。

津軽支教会の 葛西八十吉5代会長が 北海道北見国斜里の開墾事業に取り組んだのが 大正6年とのことですから、
丁度、この時代は、国家的にも北海道の開墾事業を推奨していた時代なのかもしれない、
と 思ったりしました。

で、葛西八十吉5代会長が 北海道開墾という新規事業を立ち上げ、
新天地・北海道に到着し、さぁこれから…と気持ちを奮い立たせて幾日も経たぬ頃、
なんと、弘前の大火で教会が全焼してしまった‼︎

ここのくだりを読んだ時、私は「そんな…」と絶句してしまいました。

おそらく、葛西八十吉5代会長はじめ 津軽支教会の北海道開墾移住団の皆さんも、そう 思われたのではないでしょうか。

『天理教事典』には、
「急いで帰国し 焼野原に立った八十吉会長は ここで 深く反省し、本来の使命である たすけ一条と 部内の「修理」を決意するに至った。(P,525)
とサラリと書いてありましたが、
関係者の皆様が受けられた衝撃は 並大抵なものではなかったのではないか、と想像いたします。

天理教大教会の初期歴史における信仰活動と経済活動の兼ね合いに関して、少し前の 第85回「繁藤大教会」で勉強したことがあります。

その際、私は、
繁藤大教会の新規事業の失敗 という史実は
「経済事業の失敗という結果自体が神意を表すものであって、信仰活動と経済活動を両立させようという思案は神様の望むところではない」と悟るべきものなのかもしれない。
けれど、私は、信仰活動と経済活動を両立させようとする活動を、信仰的に未熟な取り組みだったとは思いたくない…
みたいなことを書きました。

で、今回、
津軽大教会の書写学習において、津軽大教会にも(純粋な経済活動とは違うかもしれないけれども)北海道開墾事業という、信仰活動とはちょっと毛色の違う事業に取り組もうとしたが うまくいかなかった という歴史がある、
ということを学んだわけです。

これは、普通に考えれば
「信仰活動と経済活動を両立させようという行動は 神様の望むところではない」
という悟りを より強く補強する事実だと言えそうです。

きっと、当時の 津軽大教会の皆様は、そのように受け止められ、そして そこから神一条の道を突き進まれた。
そして それが、今の 雄大な津軽大教会の姿につながっているのだ と思います。

ただ、彷徨うばかりの私は、これほどの史実を学んでも、
まだ、信仰活動と経済活動を両立させる道というものへの憧れ(?) みたいなものを捨てきれずにいる というのが正直なところなのです。

教会が、お金のことも同時にしっかり考えながら (経済的裏付けを持ちながら) 信仰活動を行うということは、決して 神意に反することではないんじゃないのか、という気持ちを捨てきれない…
というわけです (>_<)

…また、例によって、長々と下らないことを書き連ねてしまいました。
まぁ、結局のところ、信仰落第生の私にはよくわからないことだらけだ ということですね  (^^ゞ

わからないことをわかったフリしても仕方ありませんので、少しでもわかることが増えるように、これからも色々勉強していかねば、と改めて思ったことでした (^^)

今回もまた、本当に知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に、とても勉強になりました。
有難いことでした。

Googleストリートビュー より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「津軽大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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