天理教 各教会の歴史探索(第121回)【京城大教会】『天理教事典』より

「京城大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号120番「山國大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号121番「京城大教会」について勉強します。

  1. 京城大教会(けいじょう だいきょうかい)
    1. 大熊こま子の生家・長尾家を襲う苦難の日々(明治時代初期)
    2. 大熊こま子不治の肺病、不思議なご守護(明治21年)
    3. 大熊夫妻の本島帰島、佐藤栄佐との出会い ~ 大熊こま子 道一条の決意(明治31年頃)
    4. 大熊こま子、弟・片山好造を連れ 命懸けのおぢばがえり ~ 奇蹟的ご守護(明治35年)
    5. 大熊松次郎の回心、夫婦揃ってたすけ一条の道へ(明治35年)
    6. 本島布教所の開設(明治35年)
    7. 高まる反対攻撃(明治35年頃)
    8. 大熊夫婦、片山好造による韓国布教の幕開け(明治36年)
    9. 恩師・佐藤栄佐の渡韓、韓国布教の推進(明治37年頃)
    10. 丸天薬湯の開業 ~ 薬湯所を通した布教(明治37年)
    11. 京城布教所の開設(明治41年)
    12. 京城宣教所へ改称 ~ 奉告祭(明治42年)
    13. 京城の礎石・大熊こま子の出直し(明治42年)
    14. 大熊こま子への報恩の念に支えられた布教活動の広がり ~ 世界へ広がる京城の道(明治42年頃~大正元年頃)
    15. 京城支教会へ昇格(大正3年)
    16. 大熊こま子10年祭を期し、大量の別科生入学(大正7年)
    17. 相次ぐ大型ふしんへの伏せ込み ~ 莫大な負債との闘い(大正10年頃~昭和11年頃)
    18. 大熊松次郎 初代会長の出直し、大熊忠次郎2代会長の就任(昭和6年)
    19. 教祖50年祭・立教百年祭へ向かっての年祭活動(昭和6年頃~昭和9年頃)
    20. 京城分教会へ昇格(昭和12年)
    21. 京城大教会へ昇格(昭和15年)
    22. 終戦後引き揚げの大混乱(昭和20年頃)
    23. 内地引き揚げ後、苦難の再建場所探し ~ 復興ふしん(昭和20年~昭和21年)
    24. 終戦後の復興活動、苦難の引き揚げ・再出発(昭和20年~昭和26年頃)
    25. 神殿ふしん ~ 奉告祭(昭和26年~昭和28年)
    26. 大熊シヅエ3代会長の就任(昭和32年)
    27. 東中央分教会の分離・陞級(昭和33年)
    28. 大熊シヅエ3代会長の辞任、大熊正博4代会長の就任(昭和47年)
    29. 詰所ふしん ~ 世界たすけへ向かって更なる躍進の道(昭和50年~)
  2. おわりに
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京城大教会(けいじょう だいきょうかい)

京城大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

大熊こま子の生家・長尾家を襲う苦難の日々(明治時代初期)

京城大教会 初代会長夫人・大熊こま子は、
文久3年(1863) 11月、
瀬戸内海の小島、塩飽七島の元の島である (讃岐国) 本島村 甲生浦に生まれた。

生家・長尾家は 豊臣氏の時代までは 御船方を承っていたが、
その後、代々、大工職を家業とする旧家であった。
(長尾)こま子は、物心つくまでは、
兄・元三郎、弟・幸太郎、好造の 4人兄弟で、両親(の)揃った 温かい家庭に育った。

しかし、明治3年、(長尾)こま子(は) 9歲の時 母を失い、13歳の時(に) 灰小屋から失火して母屋を焼失。
更に、兄・元三郎が 急病のため 22歳でこの世を去り、父・竹次郎が事業に失敗 … 等、
次々と (長尾家に) 不幸が続き、昔日の面影なき 赤貧のどん底(の状態) に落ち(てしまった。
そして、ついには) その日の生活にも窮するようになった。

(そのような苦難の中も) 父・竹次郎は、残った3人の子供の将来を思い、後妻を娶らず、苦難の道を歩み続けた。

(そのため) こま子は、(亡くなった母に代わって) 父に仕え、弟達の世話、家事万端を 一切 引き受けねばならなかった。

(長尾家の) 3人の姉弟は、こうした人生の大節を越えて、(この後)  天理教のよふぼくとして引き寄せられていくのである。

大熊こま子不治の肺病、不思議なご守護(明治21年)

明治16年(1883)、(長尾)こま子(は) 22歳の時、
同村 (讃岐国本島村)・大熊権之丞の 3男・松次郎のもとに嫁いだ。

(長尾改め 大熊こま子は) 翌(明治)17年、夫の仕事の都合で 神戸に出(た。

そし)て、(塩飽諸島の) 本島を出て 5年目の 明治21年、
(大熊こま子) 27歳の時、(なんと) 不治の肺病となっ(てしまっ)た。

(不治の肺病に罹患した大熊こま子は、絶望的な心境に陥ったが)
こうした時、
安産の守護を得て熱心な信仰者となっていた叔母から、天理教の信仰を奨められた。

(大熊こま子は 何とかたすけて頂きたいと、藁をもすがる思いで 叔母からの勧めを受け入れ、おたすけを願った。
その結果) 三日三夜のお願いで、不思議な御守護をいただ(き、大いに感激したのだっ)た。

大熊夫妻の本島帰島、佐藤栄佐との出会い ~ 大熊こま子 道一条の決意(明治31年頃)

(不治の病をたすけられた大熊こま子であったが) その後 (すぐに信仰の道へ進んだわけではなく) 夫の仕事の都合で、北海道や九州 佐世保に、(それぞれ) 3年、5年と転住した。
(そして) 明治31年8月、夫婦共に (塩飽諸島の本島に) 帰島した。

当時、(本島には) 河原町大教会部属・越乃國分教会の教師・佐藤栄佐が、小間物行商人となって単独布教のため来島していた。
(大熊)こま子は、(塩飽諸島の本島で単独布教に励む佐藤栄佐を知り、
かつて) 神戸居住の際、(自らが) 病気を守護された事を思い浮かべ、同氏 (佐藤栄佐) より天理教の教理の数々を聞(くようになった。

大熊こま子は、佐藤栄佐から教理の話を聞き重ねるのに伴い、天理教の教えが心に深く沁み込んでいった。
生家・長尾家の打ち重なる不幸や身上を通して 自らのいんねんを含め深く悟るところがあり)
たすけ一条の道に邁進すべく、一大決心を定めた。

大熊こま子、弟・片山好造を連れ 命懸けのおぢばがえり ~ 奇蹟的ご守護(明治35年)

明治35年4月、
(大熊こま子の) 弟・片山好造 (本島初代会長) が事業に失敗。
その後、極度の 急性脳神経衰弱のため、医師も匙を投げる(程の) 重態となった。

こうした時、(大熊)こま子は、
(事ここに至っては、神様にお縋りするより他なしと腹を括った。)
(大熊こま子は) 命を掛けた真実の願いをかけ、(周囲の反対を押し切り) 病身の弟 (片山好造) を連れて おぢばへ帰り、別席を運ばせた。

(姉と弟による、命がけのおぢばがえりの「誠真実」は 天に届いた。
皆が再び生きて故郷の地を踏むことはないであろうと見離す程に瀕死の状態だった片山好造は、まさしく奇蹟と呼ぶ他ない) 不思議な御守護を得て、快癒したのだった。

大熊松次郎の回心、夫婦揃ってたすけ一条の道へ(明治35年)

(大熊)こま子は、おぢばより (香川県) 高松で仕事中の夫・松次郎のもとへ (手紙を書いた。
その手紙には)
弟・好造の病気を救けてもらうために無断でおぢばへ帰ったことを詫びた上で、
生涯を神の御用にささげる心定めをしたので、勝手ながら自分を亡くなった者と思って許してほしい、
と書いて送った。

(大熊)松次郎は、(それまで) 天理教の信仰に対し (絶対許さないという程の強い反対をすることはなく) 黙認の態度であったが、この手紙を手にして (何を勝手なことを… と) 非常に憤慨した。

(そのように、元来、天理教に対して好意的とは言えない大熊松次郎であった) が、
(しかし、様々な経緯を通して 種々、感じるところがあった。)
(大熊)松次郎は) やがて 心をとり直して (自らの歩みや一族の境遇を)思い返し、(最終的には、妻の) こま子に協力することを決意した。

(一旦、そのように心を決めた大熊松次郎は、そこから更に踏み込んで)
「たとえ 自分は口下手で教理は説けなくても、家内が 3人救けるところは この俺が陰の突張りをして 10人救かるようにしてやろう」という(程の)協力(体制をとることを決意するに至った。

そうした一大回心)は、やがて 本教海外布教の先鞭をつけ、後日の 京城大教会の根底ともなるべき (寄り合った)夫婦の心定めとなった(のだった)。

本島布教所の開設(明治35年)

(塩飽諸島の) 本島における 天理教の発展に伴い、
明治35年11月30日、
(天理教教会)本部より「本島布教所」の許しが与えられた。

高まる反対攻撃(明治35年頃)

(天理教教会本部から「本島布教所」の許しが与えられたものの)
(現地では) 僧侶(や)官憲の圧迫反対攻撃が (非常に) 盛んになった。

(反対者たちが) 村民を煽動して 県知事宛(に) 布教所設置反対の投書が夥しく投ぜられたことが主因となり、せっかく香川県庁に提出した「布教所設置願書」も 却下された。

(日に日に反対攻撃は激しくなり)そのため講社を離れる者が続出。
本島における布教伝道は、頓挫を来たした。

大熊夫婦、片山好造による韓国布教の幕開け(明治36年)

(本島布教所関係者が) この局面 打開のため 色々と協議していた最中(のこと。)

既に 建築業として (大韓帝国) 京城に進出していた親戚・大熊孝四郎 (と) 長尾幸太郎(弟) より、
「(大韓帝国) 京城に仕事があるから すぐ渡韓するように」と促す手紙が、旅費まで添えられた上で (本島へ) 届いた。
(それは) 片山(好造)、大熊(松次郎・こま子) 夫婦を 天理教から離れさせる意図をもって出された手紙であった。
(大熊孝四郎や長尾幸太郎は 天理教に強く反発しており、何とかして片山好造、大熊夫婦の信仰を辞めさせたいと考えていた。)

(そのような 大熊孝四郎や長尾幸太郎らの思いとは裏腹に)
手紙を受けた方 (=片山好造、大熊松次郎・こま子夫婦) は、
これは「韓国布教に出かけよ」との神意に外ならぬ と理解し、密かに喜んだ。
(本島での布教が激しい反対攻撃のために行き詰まっていた一同は、思い切って韓国布教に踏み出す決意を固めた。)

明治36年(1903) 4月、
片山好造・大熊松次郎・嗣子(の)忠次郎・弟子(の)宮武喜代次 …
以上(の) 一行4人は (大韓帝国の) 仁川に上陸。
(そこから) 京城へ(進み、そこで) 落ち着く事となった。

続いて、翌 5月、(大熊)こま子も渡韓。
(大韓帝国) 京城南山町(の) 大熊孝四郎宅の 2階に同居することとなり、ここに 神様が祀られた。

恩師・佐藤栄佐の渡韓、韓国布教の推進(明治37年頃)

(大熊夫婦、片山好造たちが韓国布教に踏み出した) 丁度 その年(明治36年) の9月頃から、日露の国交(=外交関係) が 険悪となった。
翌(明治)37年(1904) 2月5日、
仁川沖海戦をきっかけに、国力を賭しての日露戦争が始まった。

その後、(塩飽諸島の) 本島に残っていた 佐藤栄佐も渡韓。
(大熊夫婦や片山好造たちと共に力を合わせて) 熱心な (韓国)布教が展開された。

(大熊)松次郎は (息子の) 忠次郎と共に仕事に励み、こま子等の布教が 2倍・3倍の成果が出るよう 万全の協力態勢をとった。

こうした中で、
大熊孝四郎、長尾幸太郎、並びに 隣村・与島出身の 大久保荒吉の 3人は、
(そもそも、片山好造や大熊夫婦を) 渡鮮させた目的は、天理教から離れさせ、老後の生活安定のため財産を作らせてやりたいとの思いからであったにもかかわらず、
そうした配慮は全く水泡に帰したばかりか、むしろ外地において更に熱心に信仰に励む姿を目の当たりにするに至り、内心 おもしろくなかった。

特に、初代・大熊会長夫婦を兄姉の如く信頼し 親交の深かった 大久保(荒吉)は、再三再四、天理教を辞めるよう強談に及んだ。

(しかし) 熱心な信仰の持主 (大熊)こま子(の意思は、そのような熱意ある説得によっても 全く揺らぐことはなかった。)
逆に、(大久保荒吉の方が) 説得されて (その後) 天理教の話を熱心に聞くようになった(のだった)。

丸天薬湯の開業 ~ 薬湯所を通した布教(明治37年)

当時、(大韓帝国の) 京城には、医者も少なく完全な銭湯もなかった。
(そのため) 内地から次々と出稼ぎに渡韓してきた人々が、気候風土に慣れないこともあり、種々の病で苦しんでいた。

そこで、(大熊夫婦、片山好造らは) 薬湯(に浸かる場を提供すること) を思い立った。

(大韓帝国・京城の) 寿町2丁目43番地に風呂屋を建築し、2階に神様を祀って、
明治37年5月5日の 菖蒲湯(の日) から『丸天薬湯』を開業(した)。

(開業後、大熊)こま子は 自ら番台に坐り、病人(を目にすると) にをいがけをした。
(病人を見かけると) 2階の神殿に案内し、おたすけをして教理を取次いだ。

布教所として『薬湯』の副業が順調に進み、入信する者が次第に増加した。
それにつれて設備も完備し、純益は 全部 上級教会への「お供え」と、布教伝道の資金となった。

京城布教所の開設(明治41年)

明治41年(1908) 11月23日付をもって、
(天理教教会)本部より「京城布教所」の設置が許された。

京城宣教所へ改称 ~ 奉告祭(明治42年)

その後、天理教一派独立のため、
明治42年1月15日付
京城宣教所と改称。
朝鮮総督府の公認を得るに至った。

明治42年5月1日、
京城宣教所開筵式を盛大に執行(した)。

初代 朝鮮布教管理者として 明治42年4月(に)初めて朝鮮にきた松村吉太郎(と)随行の中山慶太郎両名の臨席を得、更に多くの来賓を迎え、(奉告祭の) 参拝者は 数百を数えた。

京城の礎石・大熊こま子の出直し(明治42年)

初代・京城宣教所長(の) 大熊松次郎は実直勤勉で 陰の功労者ではあったが、
実際上の信仰の中心は 夫人(の) こま子であったといえる。

しかし、(京城宣教所の) 中心者である (大熊)こま子は、
明治42年6月20日、
弟・長尾幸太郎 (後の本島支教会理事) の病気をおたすけするうちに、出直した。

(大熊こま子の出直しを知らされた 京城宣教所) 一同は、一時 悲嘆に暮れた。

大熊こま子への報恩の念に支えられた布教活動の広がり ~ 世界へ広がる京城の道(明治42年頃~大正元年頃)

生前、(大熊こま子の) 仕込みを受けた 大久保荒吉・大久保トヨ・田淵音松・高島嘉代治・田中鉄蔵・妹尾喜代治、それらの人々は、(大熊こま子出直しという大節を受けて)
亡き 信仰の理の親に喜んでもらおうと奮起し、白熱の信念に燃え、(より一層) 懸命につとめた。

本島初代・片山(好造) 会長も、京城の道を開き 姉の霊に報いようと心を定め、
(そこからしばらくの間) 本島(の方)は 留守役の人々に任せて、ほとんど「京城」を根拠として布教伝道に専念した。

明治43年(1910) 7月、田淵音松は 竜山町に京竜宣教所を設置。
更に、他の人々を各所に単独布教に出し、
片山(好造) 会長と 大久保(荒吉)理事は、共にその後を追って巡教を重ね、白熱の伝道を展開した。

大正元年(1912) 9月には、慶尚・太田・水原、以上の 3宣教所が、
翌年(大正2年) には、元山宣教所が 設置された。

(京城宣教所は) こうした(活発な布教活動が展開される)中で (次々と) 別科生を送り続け、よふぼくの養成につとめた。

大正2年春(には)、関東州 大連・満州 奉天と遼陽に布教師を派遣し、
翌(大正)3年 5月、「遼陽教会」が設置された。

この年(大正3年)、更に、ロシア国・浦塩へ、
大正4年には、中国 山東省・青島、済南 へと布教拠点を進め、
順次 教えは、朝鮮・満州・中国大陸・ロシアへと (日本を越え 世界へ) 伸展した。

京城支教会へ昇格(大正3年)

こうした中、
大正3年 5月9日付で
京城は 支教会に昇格を許された。

大熊こま子10年祭を期し、大量の別科生入学(大正7年)

大正7年(1918) 6月、
大熊こま子の10年祭を期して、
教校別科21期に、記念別科生として 本島・京城で 50名を送り出し、(天理)教校を始め 教内を驚かせた。

(そうした本島・京城の活動は) 寂しかった 教祖30年祭後の 沈滞した教内に、大きな反響を与えた。

相次ぐ大型ふしんへの伏せ込み ~ 莫大な負債との闘い(大正10年頃~昭和11年頃)

教祖40年祭には
(京城支教会でも、天理教教会)本部の打ち出し(た 教勢倍加運動)に応えて、
ぢばの御用、別科生・別席者の大募集、教会の新設等に力を傾注(した)。

更に、
大正10年の (上級) 越乃國分教会の神殿建築、引続き (最上級教会) 河原町大教会 詰所の移転建築、
大正13年(1924) 10月5日の、京城永楽御殿と言われた東拓総裁官邸(を) 買収しての 京城支教会 移転、
朝鮮布教管理所 並びに 満州伝道庁の神殿・客殿(の) 建築 … 等々
(大型ふしん) が次々と重なって、
遂に(は) 当時(で) 17万円の借財ができ(てしまっ)た。

(その)ため、(大熊松次郎) 初代会長は、一方ならぬ苦労をした。

その後、(大熊松次郎) 会長は 病床につく身となった。
しかし、このことによって、(京城)部内(の) 教信者一同は (より一層の奮起を促され)、
一団となって (道のご用の上に 及び 債務返済の上に) 懸命につとめた。

(その)結果、負債(問題)の解決もつき、
(京城支教会は) 陣容を改めて、(昭和11年執行予定の) 教祖50年祭活動へと躍進することとなった。

大熊松次郎 初代会長の出直し、大熊忠次郎2代会長の就任(昭和6年)

海外布教の先駆者と言われる 本島・京城の陰の功労者として一生を捧げた初代会長・大熊松次郎は、
昭和6年(1931) 7月20日、
享年70歳で 出直した。

(大熊松次郎 初代会長の出直しを受けて)
同年(昭和6年) 11月9日付(で)、
(大熊松次郎の) 嗣子・忠次郎が
青島教会長を辞任し、京城支教会(の)2代会長として就任(した)。

教祖50年祭・立教百年祭へ向かっての年祭活動(昭和6年頃~昭和9年頃)

教祖50年祭・立教百年祭に向かって (天理)教内が活気づく中で、
(最上級教会の) 河原町大教会・深谷徳郎会長より 上級・越乃國分教会(の) 分離昇格が打ち出された。

(そして) 昭和6年 5月18日、
上級・越乃國中教会が (河原町大教会から) 分離・昇格した。
(その後) 越乃國詰所の建築となった。

また、(教祖50)年祭の御用として、昭和普請に要する一切の石材を、本島(と)京城で献納することとなった。

昭和9年10月、
(京城支教会は) 昭和普請落成と共に、足掛け3年にわたって、これ(=石材献納) を完了(した。)
(石材献納にあたっては) 朝鲜・満州・中国・アメリカ… (等の海外)から 教信者が 献石ひのきしんに 大勢 参加して、にぎわう ぢばに 異彩を放った。

京城分教会へ昇格(昭和12年)

教祖50年祭・立教百年祭後、日本は 太平洋戦争に突入。
(日本)国内は 新体制革新の思潮が漲り、大変革が続けられ、(天理教においても、教会)制度が改革された。

昭和12年7月19日、
(京城支教会は) 分教会に昇格(した。)

京城大教会へ昇格(昭和15年)

つづいて 昭和15年1月23日、
本島と京城は、その最初のものとして 同時に 分離昇格。
京城(は) 大教会となった。

終戦後引き揚げの大混乱(昭和20年頃)

(太平洋戦争の) 戦禍は 益々拡大し、海外布教伝道の上に 非常な困難を来たした。

(そして、昭和20年、ついに太平洋戦争終戦。)
終戦後、朝鮮在住者は 日本引き揚げとなった。
そのため、(京城大)教会は、朝鮮・満州からの避難者の収容に当たり、大混雑を極めた。

(京城)市内は 無政府状態となり、(激しい)暴動が起こった。
民衆の態度も主客転倒し、(至る所で) 金銭その他の強要強奪が行われ (凄惨な状況を呈すようになっ)た。

その後、(京城は) 米軍が駐留することとなり、在留邦人は (内地への) 引き揚げを開始。
(しかし) 天理教は、日本軍国主義の指導に当たった神道イズムと誤認され、
殊に 戦時中(は、大いに)軍部に協力したということで、(天理教施設は) 米国 京城軍政府に接収された。
そして、(それらは) キリスト教長老派の韓国人伝道師に引き渡されることとなった。

昭和20年11月5日、京城大教会も (キリスト教)長老派の幹部に引き渡され、物品の持ち出しを禁じられた。
(それ以後は) 正門に歩哨を立て厳重に出入を監視される状況となった。

同年(昭和20年) 11月10日、
大熊(忠次郎) 会長以下 役員・住み込みの 青年 婦人一同は、
住みなれた思い出深い「京城」を後にして、(内地へ) 引き揚げることとなった。

(引き揚げの際には数え切れぬ程多くの困難に直面しながらも、何とかそれを乗り越えて)
(昭和20年) 11月17日、
(京城大教会一同は) 無事、ぢばに到着した。

内地引き揚げ後、苦難の再建場所探し ~ 復興ふしん(昭和20年~昭和21年)

(内地引き上げ後) いよいよ教会の復興再建にとりかかる事となったが、引揚者のため、食料事情に(は とりわけ) 困難を極めた。

(日本内地での復興再建に着手するにあたって、
まず) 三重県方面の開拓地を物色した。
しかし、適当な所がなく、
(次に) 考えを変えて、将来の海外布教進出の足場として 福岡(周辺が好ましいとの考えから、福岡) 方面に (土地を探すべく) 役員を派遣した。
しかし、教会に相応しい家屋は見つからず、途方に暮れていた。

(そのような八方ふさがりの状況だったが)
昭和21年(1946) 1月30日、
思いがけなく、京都市東山区松原通りに、敷地建物を得(ることができ)た。

(そして) 昭和21年11月29日(には)
真柱の臨席を得て、教会移転復興奉告祭を執行した。

終戦後の復興活動、苦難の引き揚げ・再出発(昭和20年~昭和26年頃)

(一方) 国内にあった(京城大教会の部内である) 東京の 東中央分教会 (及び) その他の教会も、
そのほとんどが 戦災に遭っており、(戦中・戦後は 並々ならぬ苦難の道中を 歩み続けた。)

その後、朝鮮・満州各地から 教会の責任者 並びに 教信徒も引き揚げて(きて)、
(戦争によって ほとんどの物が失われた京城大教会) 一同は、単独布教を以て 再出発の第一歩を踏み出した。

(そのような並々ならぬ困難な状況の中) 上級教会も部内の責任者も (皆が) 一体となって 部属教会の復興に全力を注いだ。
(その結果) 130ヵ所の教会が 順次 復興し(ていっ)た。

神殿ふしん ~ 奉告祭(昭和26年~昭和28年)

昭和26年9月、大教会神殿建築の議が起こった。

(時あたかも) 教祖70年祭を迎える旬でもあったので、役員一同 練り合いを重ね (その結果、大教会の神殿ふしんに取り掛かることを決意した。戦災から) 辛うじて復興した部内教会長もこれに賛同。

昭和26年12月26日付で (天理教教会)本部より 神殿 並に 付属建物建築の儀についての許しを得て、
その後、更に、模様替えの許しも得て、(ふしんに取り掛かった。

ふしんは順調に進み) 昭和28年4月15日、地鎮祭 執行。
同年(昭和28年) 11月、神殿をはじめとして 付属建物の竣工を見るに至り、
同月(11月)30日、
真柱・随行者の臨席を得て、盛大な神殿落成奉告祭を執行(した)。

大熊シヅエ3代会長の就任(昭和32年)

(京城大教会) 部内教会の活気づく中、(無事に) 教祖70年祭(昭和31年執行) が 終了(した)。

(教祖70年祭の翌年) 昭和32年1月27日、
大熊シヅエが、3代会長に就任(した)。

東中央分教会の分離・陞級(昭和33年)

昭和33年10月26日、
(大熊忠次郎)2代会長の遺訓により、
(京城)部属の 東中央分教会が、教祖70年祭後の初の大教会として、分離・陞級となった。

大熊シヅエ3代会長の辞任、大熊正博4代会長の就任(昭和47年)

昭和47年5月26日、
大熊シヅエ(3代会長) に代わって 大熊正博が4代会長に就任(した)。

詰所ふしん ~ 世界たすけへ向かって更なる躍進の道(昭和50年~)

(大熊正博4代会長就任後、京城大教会は)
教祖90年祭の打出しと共に 第51母屋 (京城詰所)・鉄筋コンクリート4階建(の建物) の普請に取りかかった。
(普請は順調に進み) 昭和50年10月24日、(無事) 完成し(た。

(そして、当時) 十分に ご用を果たせない(状態となっていた) 12ヵ所の教会の復興再建も成し遂げ、教祖90年祭を無事つとめた。
そして、(そこから 京城大教会一同は) 世界たすけに向かって、一手一つの活動を促進している。

〔現住所〕〒605-0857   京都府京都市東山区興善町140
〔電話〕 075-541-3358

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,308〜311)

おわりに

京城大教会Google検索より②
Google画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第121回目の今回は、
「京城大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

京城大教会ストリートビューより②
Googleストリートビュー より

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 京城大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして そのまま書写します。

越乃國の布教者・佐藤栄佐は、小間物行商をしながら、
明治二十九年、仲多度郡 本島村 (現・丸亀市) に来た。

栄佐は 高松に生まれ、敦賀で道の信仰を聞いた。
学識あり雄弁家で 美男子、もてはやされて失敗し、病を得た。
今日か明日かの命となった時、真の信仰にめざめた。

過去半生の逆の、髪は伸び放題、着物は汚れるにまかせ、みすぼらしい風采で 旅に出た。理屈は言わず 人と争わず、黙々と布教して歩いた。

大熊松次郎 (京城初代) の妻・こまは、神戸に在住中、胸を病み、近所の教会でたすけられた。
栄佐に遭遇し、栄佐のために家を借りて、集談所とした。

三十五年、長尾幸太郎らが韓国へ渡った。
兄を追い 渡韓直前、大工職を身につけた片山好造 (本島二代) は、姉・こまに頼まれて 集談所の 襖戸修理に行った。
その帰り道に倒れ、急性脳神経衰弱と診断された。

こまは 集談所へ走ったが、栄佐は不在。
渚に立つと、波間に声を絞って 祈願する人影を見た。
「私の命は もちろん、妻子の命も差し上げます。片山好造の一命をおたすけ下さい」。
それは栄佐だった。
好造は その話を聞いて、心底、人の真心に触れた。

別席を運んだ好造は、与島や広島へ渡り、僧侶やお大師信仰に こり固まる村人の反対の中を布教した。

そのころ、京城 (現・ソウル) の幸太郎から、渡韓しないかと手紙が届いた。
信仰をやめさせようとする意図だったが、こまと好造は、海外布教の好機とばかりに渡韓した。
丸天風呂を開業、こまは 番台に座って布教した。

好造は
「教祖は 世界一列澄ます と仰せになった。
天理教の人たちは 概して 日本内地の道のみに専念している」
と慨嘆し、教義の説き方は 世界に通ずるものでなければならぬ と主張、
ブン回し伝道を実践した。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,87)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】121回目の当記事では『天理教事典』の中の「京城大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

京城大教会は、越乃国大教会から分かれた大教会ですね。
越乃国大教会は 河原町大教会から分かれた大教会。
すなわち「斯道会」の流れを汲む大教会。

前回 (第120回) の「山國大教会」に続いて、今回も「斯道会」系列の大教会です (^^)

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

※上記の系統樹では「京城」は「本島」から分かれたようになっていますが、
『天理教教会所在地録』では、「京城」「本島」は共に「越乃國」から分かれたようになっています。
今回の『天理教事典』本文を読んでも、そちらの方が正確だと思います。

河原町大教会・越乃国大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

京城大教会Google検索より①
Google画像検索より

当記事では
『天理教事典』の中の「京城大教会」についての記述を書き写したわけですが、
「京城大教会」の初期歴史に関しては、当シリーズ第36回「本島大教会」にて、かなり勉強しました。

当シリーズ第36回「本島大教会」で勉強した際、
京城大教会の 大熊こま子 初代会長夫人と 本島大教会の 片山好造 初代会長は 姉と弟の肉親で、
本島大教会と 京城大教会は 一続きのような経緯で創設され、文字通りの「兄弟教会」であるということを知りました。

そのような、当シリーズ第36回「本島大教会」学習時の前提知識がありましたので、
今回の「京城大教会」書写学習では、混乱少なくすんなりと理解することができました。

今回、久しぶりに第36回「本島大教会」を読み返しましたが、
本島大教会と京城大教会は、その創立にあたっては、まさしく不可分と言いますか一体である、と改めて感じました。

また、今回「京城大教会」書写学習するにあたって
本島大教会直営サイト(HONJIMA.COM) の「片山好造 初代会長 入信のお話」を 久しぶりに読み返す機会を与えて頂いたお蔭で、改めて 深い感動を味わうことができました。

天理教本島大教会年譜表

リンクを貼り付けておけばいいことかもしれませんが、
感動を繰り返し味あわせて頂きたいので、
私自身の読み返し用に、原文をコピペさせて頂きます。
本島大教会サイト運営者様、ご了承下さい m(_ _)m

【片山好造 入信のお話】(明治35年)

明治35年、好造が韓国へ渡ろうと決心した裏には、事業に失敗を重ねて、四国にも本島にも居れなくなった事情があった。

「俺は韓国へ行って、働いて働いて、働き死にして来よう」
そう決心し 4月6日、好造は韓国へ渡ることになった。

出発前のある日、姉のこまが訪ねて来て、
「好造、お前すまんけど、韓国へ発つ前に、甲生浦の集談所の襖の戸を修繕してやってちょうだい」
と頼みに来た。

佐藤栄佐の集談所は甲生浦の徳玉神社の西側、こまの家の近くにあった。
この頃姉のこまは 佐藤栄佐の熱心な信者になっていたのだった。

好造が集談所へ行ってみると、佐藤栄佐が一人座っていた。
あいさつも簡単に、建具の修繕を済ませ、帰ろうとしたとき、栄佐が呼び止めた。

「片山さん、一寸お待ちなさい。あなたは今度 韓国へ行かれるそうですな。
韓国へ行くなら天理教の信仰に入っていきなさい」
「私は信仰は嫌いです。」
好造は なるべく栄佐の言葉に関わらないように、身体をかわした。

「しかしな、片山さん。
あなたは今、自分の力で何でもやり抜こうと考えておられる。
神の力というものがあることを知らない。
それでは つまずきますぞ」

好造は、何をこの騙り屋、自分の力を頼らんで 誰の力を頼めというのだ。
持ち前の負けず嫌いの気持ちが むらむらと湧き起こったが、乞食風情の天理教には なるべく関わらないように、さっさと集談所を出た。

このあと、好造の身体に突然の病が迫った。

好造は 村境の石橋の所まで帰ってくると、にわかに全身にぞっと寒気を覚え、目の前が真っ暗になって倒れてしまった。
医者が駆けつけて診てくれたが、なかなかの重態である。

そして 何日経っても少しも良くならない。
身動きも出来ない有様で、憐れ 病床に呻吟する身となった。

「あの布教師は、本当に私を救ってくれるのかも知れない…」
「佐藤先生を呼んで来て下さい」
好造は 佐藤栄佐に来てもらうように頼んだ。
それは 明治35年 4月16日のことだった。

片山好造から迎えの使いを受け取った佐藤栄佐は、いよいよ時の来たことを神様に感謝した。
お道の伝道も この日を境に変わる。
そして 自分の命を延ばして頂いた 約束の奉公ができる と思った。

集談所を出ると、栄佐は渚に着物を脱いで海に飛び込み、身を清め、それから山王山の峠を越えて 片山好造の家に向かった。
栄佐は 好造に初めておさづけを取り次ぎ、教理を説いた。

「それならば、これから毎月一日、神様の御用を勤めさせて頂きます」
と 好造は言った。
栄佐は何も言わなかった。

その時は 病気は少しは良くなったのだが、しばらくすると また悪くなった。
栄佐が呼ばれて、おさづけを取り次いだ。

好造は 今度は ひと月のうち三日間 と言った。
病気はその時はよくなったが、また悪くなった。
再び 栄佐が呼ばれた。

「先生、それでは ひと月のうち十日間は 神様の御用のため、十日間は事業のため、十日間は家族の生活費のために勤めさせて頂きます」
好造の気持ちとしては、これが精一杯だった。
黙って聞いていた栄佐は、この時 はっきり言った。

「片山さん、一日とか、三日とか、十日とか言わないで、全部が全部神様に捧げなさい。
神様の思惑はそこにあるのですよ。
全身全霊を捧げて神様に仕えるところに、あなたの生きる道があるのです」

これを聞いた好造は、痩せほうけた身体をむっくり布団の上に起こし、
「先生、それは余りにもひどい言葉じゃないですか。
天道 人を殺さず と言います。
それは神様の心ではないと思います。
神様にこの身体を捧げたら、誰が家族を養ってくれますか。
先生は 私を利用しようというのですか」
と、食ってかかるように怒った。

栄佐には、その気持ちは 分かりすぎるほど分かっていた。

この人の思うように、家族・親兄弟のために事業をやったら、この人は喜ぶであろう。
しかし、それではこの人の身が立たない。
自己中心の思案を根こそぎ取り払って、神様中心の心にしてやらねば、この人のたすかる道はないのだ。
しかし、好造の心中を考えると、人情として、好造が怒るのも無理がない と思うのだった。

「そうですか。あなたもよく考えてみて下さい」
栄佐は そう言い残して帰った。

好造の病気は その後、急に悪化し、急性脳神経衰弱に変じ、全身に激しい痙攣が起こり、高熱が下がらなくなった。
医者よ薬よ といろいろ手を尽くすのだが、少しもその効なく、次第に衰弱するばかりで、まったく危険な状態になった。

「たすかるのでしょうか」
心配のあまり医者に訊ねるのは 父の竹次郎だった。

医者は しばらくは無言であったが
「もうこうなっては、薬の反応もありません。
なすすべがありません」
と答えた。

好造のおたすけにかかってから、栄佐の深夜の水行が続けられた。
そして ある夜更け、栄佐は忽然と悟るのだった。

それは、一切の都合を捨てたとき、人間は神の思召を悟ることができる ということだ。
それからの栄佐は 迷わなくなった。

自分は 一切を棄てる。
自分の生命はもちろん、家族の生命を棄てる。
そして、片山好造にも 一切を棄てさせる。

栄佐は言った。
「片山さん、その身体 神様に捧げる決心がつきましたか」

好造は 他人の言葉に動かされる男ではない。
心の底から成程 と感ぜざる限り 動く男ではなかった。

「嫌です」
栄佐との問答は 生死の境にあって なおも続けられた。

その頃、好造危篤の知らせは、高松にいた姉のこまの所へも 飛んで来た。
好造の枕元に駆けつけると、昔に変わる姿を見つめては 涙が止まらなかった。
医者は匙を投げ、今の頼みは 神様だけだ。

こまは 佐藤栄佐にお願いした。
栄佐は
「本人の心が変わるまで 如何ともしがたい」
と言う。

好造は 栄佐の言葉には死んでも従わん と頑張り続けた。
こまは どうしてよいか分からなかった。

そのうちに花も散り、野も山も新緑に包まれた 五月の半ば頃になった。

好造の病状は 一進一退を繰り返す間に 次第に悪くなっていった。
こまは、日に何度も集談所へ駆けつけては 神様に祈った。

ある夜、父の竹次郎が こまに向かって言った。
「おこま、好造も 医者に見離されてこんな姿になっては 全快施す手段ももはやないだろうが、親としては それでもたすけてやりたい。
信仰でたすかる道があるなら、例え 屋敷に草が生えても構わんから たすけてやってくれ。
わしの生涯の願いじゃ」
と、こまに 涙ながらに頼むのだった。

5月19日の 夜12時頃、好造の病状は いよいよ絶望の状態に陥った。
佐藤栄佐が呼ばれた。
しかし 栄佐は
「心が定まらんうちは おさづけは取り次がん」
と言って帰った。

父の竹次郎は泣く。
その真ん中に立って、こまは 立っても座ってもおれなくなった。
こまが 栄佐が帰った後を追うように、甲生浦の集談所へ駆けつけた。
今は 頼むのは佐藤栄佐だけだった。

ところが 集談所に栄佐はいない。
「佐藤先生」
こまは 栄佐を探した。

すると 闇夜の海の中から 悲痛な声が聞こえてきた。

「私の命はもちろん、妻子の命も差し上げます。
何卒 片山好造の一命をおたすけ下さいませ」
それは 佐藤栄佐だった。

「佐藤先生、おねがいです。
どうぞ もう一遍 おさづけを取り次いでやって下さいませ」

こまは、栄佐を連れて片山好造の家へ帰り、そして 好造の枕元に座ると、破鐘のような大きい声で好造を怒鳴りつけた。

「好造、お前のような奴は死んでしまえ。
人の誠真実の分からぬような奴は人間じゃない。犬畜生です。
佐藤先生が お前をたすけんために 自分の命に代えて神様にお願いしておられるのが分からんか。
先生は、今も甲生浦へ行ってみれば、海に入って自分の一命はもちろん、家族の命も差し上げますから、片山好造の命をたすけてやって下さいと、神様にお願いしておられた。
お前には 人の誠真実が分からんか」

そう言って、こまは 顔を畳に伏しつけて、声を上げて泣いた。

その時、好造は 初めて栄佐の真実を知ったのだった。

「姉さん、済まんかった。わしが悪かった。
今日から神一条になります。
姉さんや、佐藤先生の言われることを、神様の声と思うて 絶対に従わせてもらいます」

それを聞いた栄佐は、まさに 一命を供えてのおさづけを取り次いだ。
そしてすぐ、海に入って水行を行い、さらにお願いづとめをつとめた。

それまで ほとんど正気を失うほどの痙攣がたびたびあった好造の症状は、その夜が明けるとともになくなり、初めて熱も下がった。

「おこまさん、好造さんは おたすけいただいた。
この道 どこまで伸びるか分からんで。」
と、栄佐はほっとした気持ちで こまに言うのだった。

自分が成程と思わない限り、他人の言葉に動く好造ではない。
しかし 自分が一旦 成程と思った以上、誰が何と言おうともやり抜くのが 好造の性格であった。

朝、好造は姉に向かって言った。
「姉さん、私をこれからおぢばに連れて行って下さい。
私は この際 おぢばに参拝して、新しい片山好造になってきたい。
また 今日までの懺悔もして来たい。
途中で万一のことがあっても 少しも怨みに思いません」

「好造、よく出来た。
これからは 共に 神様の御用勤めをさして頂こうで」

早速 栄佐と相談の上、三人で大和を目指して出発することにした。

しかし 苦痛は去ったといっても、長らく病褥に苦しんでいた彼の身体は、外の風に当たるのさえ 気遣われるような身上である。
たとえ 本人の希望でも、海山遠く隔てた大和へ旅立つことは誰も賛成しない。

この話を聞いた親族らは びっくりして駆けつけた。

父の竹次郎は、
「好造、お前はその身体で大和へ行くそうだが、そんな突飛なことは止めてくれ。
世間がどう思うか。
途中 万一のことがあったらどうするか」
と言った。

それを聞いてこまは、
「お父さん、あなたは今頃 何をおっしゃるか。
先に なんと申されましたか。
どうか たすかる道があるならたすけてやってくれと、涙を流して頼んだではありませんか。
好造がわずか一夜のうちに、こんなご守護を頂いた。
私も 大切な命をかけております。
何といわれても 連れて行きます」
と、彼女も 一旦決心したことは動かさなかった。

側で聞いていた物部の伯父が
「おこま、お前のいうことは、そりゃ迷信というもんじゃ。
神様は参拝したからたすける、参拝せんからたすけんというもんじゃない。
途中で死んだらどうする」
という。

その他 寄り集まった者は、
「おこまさんは鬼のような人だ。神様に呆けたらあんなもんかも知れん」
と言い合った。

しかしこまは屈しなかった。
「伯父さんの言葉ですが、もし好造の身体に変わったことがあったら、私も一緒に死んでお詫びいたします。
決して好造の亡骸だけを持って帰るようなことは致しません。
しかし 皆さんのいわれることに従うて、好造がこの家でなくなるようなことがあったら、皆さまはどうされますか。
好造は医者に見離された身体です。
それに 本人が行くと言うているではありませんか」
と、信ずる道に向かっては一歩も曲げなかった。
家族親族も その勢いに押されて、不承不承で見送るのだった。

片山家の直ぐ裏は塩田で、塩田の横に掘があり、潮が満ちると船が出入りできる。
好造の身体は 赤毛布に包まれ小船に乗せられた。
知り合いの船頭が櫓を漕いでくれた。

村人は 好造の姿を見て
「片山さんもついに天理教に呆けてしまいよった。
あれで生きて帰れたら炒り豆に花がさくで」
と言い合った。
栄佐とこまは すでに死を覚悟していた。

海上は 近頃になく穏やかで、夕日が瀬戸のしまなみを包み、海上は紅を流したように輝いていた。
下津井に船が着いたときは、日もとっぷり暮れていた。
ごみごみした裏道を抜けて、好造は笹屋旅館に連れられた。

船から上げられた好造は、さすがに疲労を感じ、旅館に着いた時は息も絶え絶えの状態だった。
暗いランプの下に好造は寝かされ、肩で息を続けていた。
かねて覚悟はしていたものの、こまは 夕飯がのどを通らなかった。

栄佐は「決して案じてはなりませんよ」と言い、片肌を脱いで自分の腹に結んでいた赤衣のお守りを外し、好造に与えた。
当時の人の信仰では、お守りを身体から離すということは、死の覚悟を意味していました。

「先生、それではあなたはどうなります」
と 好造が自分の身体の危険を忘れて訊ねた。

栄佐は静かに答えた。
「私の命は すでにあなたにあげたものです。
私はただ あなたに生き長らえてもらいたい。
この道を伸ばしてくれるのは あなたより外にありません」

そして栄佐は、おさづけを取り次いだ。
若い好造の血潮は 感激に燃えた。
この人のためには生命はいらぬ と思った。
おさづけが済むと、不思議に好造の身体は快くなっていった。

本島を発って 3日目の 5月22日、三人は まず 敦賀の 越乃國支教会へ参拝に行った。
その日は支教会の月次祭の日で、沢山の人が集まって賑やかだった。

参拝後、栄佐は 片山好造を 別席に運ばせる相談を 教会の役員にした。
当時の教会の決まりでは、まず入信して 3年6ヶ月間、信仰を続けて、一度以上おぢばに参拝してからでないと運べないことになっていた。

その時 栄佐は、
「三年六ヶ月経っても十年経っても、神様に総てを捧げきれぬようでは何もならん。
片山好造は 身上を神様に捧げています。」
と説得し、ついに 特別の取り扱いを頂けることになった。

つづいて 京都の河原町分教会に参拝し、別席を運ばせて頂くべく、おぢばに帰らせて頂いた。

好造は 初めて本部の神殿に額づいて、神一条の心定めが いよいよ堅固になるのを感じるのだった。

好造は このおぢばの神殿に座っていると、幼い頃亡くした母親の 懐かしい甘い乳房を吸って、安らかに抱かれているような気持ちになった。

御存命の教祖が
「好造さん、よう帰って来た」
と 愛撫してくれるように感ぜられた。

信心する者の敬虔な祈りの姿、暗い静かな夜、どこからともなく聞こえて来るみかぐらうたの声、夜も明けぬうちから参拝する者の姿、黙々と神を念じつつ掃除している人たちは、近づけば「おはようございます」とあいさつしてくれる。
好造は来て良かった と心の底から思った。

このような雰囲気の中に、好造は 別席を三席運んだ。
身体はずいぶん良くなり、みかぐらうたを稽古しながら、6月4日に 本島に帰った。

家族や村の者は、帰ってきた好造の元気な姿に 腰が抜けるほど驚くのだった。

天理教本島大教会本島大教会年譜内「片山好造入信のお話」より

以上は、本島大教会の 片山好造 初代会長の物語ですが、
同時に、京城大教会の 大熊こま 初代会長夫人の物語でもありますので、再掲させて頂いた次第です (^^)

京城大教会画像検索より②
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本島大教会・京城大教会は それほどに密接な関係のある教会だということを再確認したわけですが、
だとすると、なぜ、教会番号がこんなに離れているのか?ということが、今回、改めて気になりました。

【本島大教会】=教会番号36番
教会設立年月日:明治35年11月30日(『天理教教会所在地録』より)
本部直属になった日:昭和15年1月23日(『天理教事典』1977年版より)

【京城大教会】=教会番号121番
教会設立年月日:明治41年11月23日(『天理教教会所在地録』より)
本部直属になった日:昭和15年1月23日(『天理教事典』1977年版より)

設立年月日こそ、
本島大教会=明治35年、
京城大教会=明治41年
と 少し開きがありますが、
本部直属には、
昭和15年1月23日、
越乃國大教会から 同時に分離昇格してなっておられます。

『天理教事典』1977年版によると、本島大教会と京城大教会が本部直属になったのは同日と書いてありました。
教会番号というのは本部直属になった順番だと思っていたのですが、
「本島大教会」の教会番号は36番。
「京城大教会」の教会番号は121番。
――かなり離れている…

どういう基準で番号付けされているのだろう?
と ちょっと気になりました。

もしかしたら、教会番号が付けられたのは 京城大教会が終戦後内地へ引き揚げる前のことで、海外の教会という扱いだったから 教会番号が後回しになったのかな?
等と想像したりしましたが、実際のところは よくわかりません。

そんな枝葉末節にとらわれてどうする!
どうでも良いことだ、と言われれば、確かにその通りではありますが…
ちょっと不思議に思ったので書きました (^^)

京城大教会画像検索より①
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今回の書写学習で印象深かったのは、
戦前に海外で設立された教会ならでは…とも言える「終戦後の内地引き揚げに伴う大混乱」の史実でした。

『天理教事典』1977年版には、

(太平洋戦争の) 戦禍は 益々拡大し、海外布教伝道の上に 非常な困難を来たした。

(そして、昭和20年、ついに太平洋戦争終戦。)
終戦後、朝鮮在住者は 日本引き揚げとなった。
そのため、(京城大)教会は、朝鮮・満州からの避難者の収容に当たり、大混雑を極めた。

(京城)市内は 無政府状態となり、(激しい)暴動が起こった。
民衆の態度も主客転倒し、(至る所で) 金銭その他の強要強奪が行われ (凄惨な状況を呈すようになっ)た。

その後、(京城は) 米軍が駐留することとなり、在留邦人は (内地への) 引き揚げを開始。
(しかし) 天理教は、日本軍国主義の指導に当たった神道イズムと誤認され、
殊に 戦時中(は、大いに)軍部に協力したということで、(天理教施設は) 米国 京城軍政府に接収された。
そして、(それらは) キリスト教長老派の韓国人伝道師に引き渡されることとなった。

昭和20年11月5日、京城大教会も (キリスト教)長老派の幹部に引き渡され、物品の持ち出しを禁じられた。
(それ以後は) 正門に歩哨を立て厳重に出入を監視される状況となった。

以上のように、史実がサラッと書いてあるだけですが、
きっと、その当時の現地では、文字を追うだけではとても分からない凄惨な状況が繰り広げられたに違いない、「京城大教会」の皆様は本当に地獄のような道中を潜り抜けて引き揚げられたのに違いない…
と 想像致します。

京城大教会の皆様の 終戦前後の大混乱による苦難の道中のことを思うと、誠に 言葉もありません。

京城大教会画像検索より③
Google画像検索より

また、それと同時に印象深かったのが、
京城大教会が内地へ引き揚げた後、なかなか日本内地の定住する場所が見つからなかった、という史実でした。

京城大教会には「京」という漢字が含まれているので、つい最初から京都にある教会のようなイメージを持ってしまいそうになりますが、「京城」というのは韓国の地名で、そこから付けられた名称。日本内地の地名とは無関係。

韓国・ソウルで誕生した「京城大教会」は、
終戦によって内地へ引き揚げねばならなくなった。

私は、
引き揚げねばならなくなって、取り急ぎ 京都で教会再建したのだろう…
ぐらいに漠然と思っていたのですが、
引き揚げた後、三重や福岡など日本国内あちこち探し回ったけれども 適当な場所がなかなか見つからず苦労したのだ、
ということを 今回の書写学習によって、初めて知りました。

「京」という漢字が含まれた「京城大教会」ですが、
思いがけない経緯で京都市内に土地を見つけることが出来た、
と『天理教事典』には書いてありました。
最初から京都に狙いを定めて土地を探したわけではなかったのですね。

当シリーズを通して、全ての大教会が戦争にあたって並々ならぬ苦労の道中を通られたことを学んできましたが、
「京城大教会」の場合には、
外地から内地への引き揚げという、想像を絶するような苦難の道中を乗り越えてこられたということ、その欠片かけらを 今回の勉強によって知ることができました。

「京城大教会」の皆様の、戦中戦後の混乱に伴うご苦労を想像すると、胸が締め付けられる思いが致します。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも教会の歴史を知った上で、今の「京城大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

京城大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「京城大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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