天理教 各教会の歴史探索(第127回)【東中央大教会】『天理教事典』より

「東中央大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号126番「泉 大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番127号番「東中央大教会」について勉強します。

  1. 東中央大教会(ひがしちゅうおう だいきょうかい)
    1. 柏木庫治 初代会長の経歴
    2. 柏木庫治 初代会長と京城支教会のつながり(大正8年頃)
    3. 柏木庫治 初代会長の入信(大正11年)
    4. 柏木庫治初代会長の講社開設 ~ 東京での単独布教開始(大正12年)
    5. 集談所の開設(大正13年)
    6. 無名の集談所長から有名講師へ――異色の布教師・柏木庫治の台頭(大正15年頃〜昭和初期 )
    7. 教会移転、東中央宣教所へ昇格(昭和3年)
    8. 神殿増築、教会住込み人の誕生(昭和3年)
    9. ゴロツキ教会と呼ばれた日々、それでも広がる部内教会(昭和初期)
    10. 東中央支教会へ昇格(昭和10年)
    11. 破竹の勢い――教勢拡大・胎動する熱気(昭和10年代)
    12. 柏木庫治の東京教務支庁主事就任 ~ 教会敷地の拡張と神殿増改築(昭和12年~昭和13年)
    13. 東中央分教会へ昇格(昭和14年)
    14. 上級・京城分教会、大教会へ昇格(昭和15年)
    15.  4ヵ所の部内教会誕生(昭和17年)
    16. 東京大空襲と敗戦――激動の歳月(昭和20年)
    17. 戦後復興の第一歩、中河詰所建築資材の東京移送(昭和20年~昭和22年)
    18. 我が身を捨てた 上級・京城大教会移転地の献納(昭和20年)
    19. 旧大山巌公爵邸跡の買収、教会移転神殿ふしん(昭和22年~昭和23年)
    20. 柏木庫治の参議院議員選挙出馬→当選 ~ 国会議員生活(昭和22年~昭和31年頃)
    21. 柏木明子2代会長の就任(昭和28年)
    22. 柏木庫治、3代会長として復帰(昭和31年)
    23. 広がる東中央の道(昭和24年頃~昭和31年頃)
    24. 上級・大熊忠次郎 京城大教会長からの大教会陞級 指令 ~ 大教会昇格の実現(昭和31年~昭和33年)
    25. 空前の教勢拡大(昭和31年~昭和33年頃)
    26. 信者詰所開設の頃(昭和35年頃)
    27. 柏木大安4代会長の就任(昭和37年)
    28. 柏木庫治会長退任後の動き(昭和38年頃~昭和41年頃)
    29. 神殿ふしん(昭和41年~昭和43年)
    30. 神殿ふしん後の動き(昭和42年~昭和43年)
  2. おわりに
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東中央大教会(ひがしちゅうおう だいきょうかい)

東中央大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

東中央大教会は、
大正11年(1922)、
初代会長・柏木庫治の入信に始まる。

柏木庫治 初代会長の経歴

柏木庫治は、
明治21年(1888) 8月3日、
大分県中津藩25万石の旧藩士であった 柏木松米と妻・でん の間に 次男として生まれた。

生家の貧苦を見るに見かねて、進んで学業をなげうち、
弱冠19歳で 単身 韓国に渡り、若くして 京城で材木商として財を成した。

(柏木庫治に対しては)
独立するまでの苦労時代、25円の給料の内 50銭を1ヵ月の小遣とし 残る 24円50銭を国許に送金していた話、
妻・明子 (山口県厚狭郡王喜村の浄土真宗・常元寺14代住職 伯常明・マスの長女、明治21年12月22日生) との新居は、オンドル1間の家でマッチ箱の他には何の家具もなかった話… などが残っており、
(天理教入信前から、柏木庫治は) 一種の 立志伝中の人物であった。

柏木庫治 初代会長と京城支教会のつながり(大正8年頃)

(柏木庫治は) 奮闘努力の結果、
実業面では 多大の成功を収めた。

(仕事面では大成功を収めていた)が、(家庭面においては) 長女・輝子、長男・兵庫の 2人の子供は、どちらも 生後1年足らずで死亡。
(それにとどまらず) 3番目(の子供) が 流産(する) という 家庭の悲運に見舞われた。

(それと)前後して、大正8年(1919) 頃、
京城支教会 (現大教会、当時は その名の通り 朝鮮の京城にあった) 初代会長・大熊松次郎から 土地 400坪買収費寄付の要請があった。
(大熊松次郎からの寄付要請を受けて) 即納したのが、(柏木庫治と) 京城支教会との結縁の端緒となった。

次いで、銘木アララギの笏400枚ばかりを作って 京城支教会に納める心算が、誤って、朝鮮布教管理所 (=当時の朝鮮における天理教教会本部の代表機関) を経て 天理教教会本部に届けられ(る、という出来事があった。)

(そのようなハプニング的な出来事があって) 以来、
(柏木庫治は、朝鮮)布教管理所との接触も深まったが、
当時は、商売の勢いにまかせて、信仰をするという気持ち(を持つ程で)は なかった。

柏木庫治 初代会長の入信(大正11年)

ところが、
第4子として 大正7年(1918) に生まれた大安 (東中央大教会4代会長) が、5歳にして 医者も手放す重病に陥った。
(そのような時) 当時「京城支教会」在住であった 婦人布教師・上本志乃のにをいがけによって、(柏木庫治は子息・大安の) 病気が平癒(するという不思議なご守護を見せられたのだった)。

それが、(柏木庫治の) 入信の動機となった。

柏木庫治初代会長の講社開設 ~ 東京での単独布教開始(大正12年)

(瀕死の子供の命をたすけられた柏木庫治は) 直ちに (朝鮮) 京城(府) 桜井町に 講社を開いた。

その後、信仰が進むのに伴い、布教の決心を固め(た 柏木庫治は)、
店舗をたたんで、
大正12年(1923) 5月27日、上京。
東京市渋谷区 羽沢町で、単独布教を開始した。

集談所の開設(大正13年)

翌(大正)13年(1924)、
同地 (東京市渋谷区 羽沢町) に 集談所 (現在の布教所) を開設。
本格的な布教活動が始まった。

同年(大正13年) には、
正幹 (後の 東中央大教会理事長・東青山分教会長) が生まれた。

無名の集談所長から有名講師へ――異色の布教師・柏木庫治の台頭(大正15年頃〜昭和初期 )

大正15年(1926)、
東京の日本大学・文学部宗教科に「日本大学 天理教青年会」が発足。
同会 (日本大学 天理教青年会) の運動で、昭和2年(1927) から 同大学 (日本大学) に「天理教講座」が開講され、講師の一人として 柏木庫治も任命された。

(日本大学の天理教)講座は、年毎に活況を呈したが、
(柏木庫治は) 同会(日本大学 天理教青年会) が主催する講演会の第1回の折に講師として招かれたことが機縁となり、
昭和4年頃から 開設された「天理教講座 夏季大学」の講師にも名を連ねた。

当時の柏木(庫治)は、一介の集談所長として無名に近い存在であったが、異色の布教師として、一部から注目されていた。

同じ頃、柏木(庫治)は、東京教務支庁 (後に東京教区庁と改称) の 教の友社 同人としても活躍し、同社(教の友社) から 数冊の著作を上梓した。
以来、彼の著作 及び 講演活動は 長年にわたって続き、常岡一郎と共に (天理教) 教内を席巻した。
後に「柏木・常岡時代」と呼ばれたものである。

教会移転、東中央宣教所へ昇格(昭和3年)

昭和3年(1928)、
(東中央集談所は) 東京府豊多摩郡 千駄ヶ谷町穏田に移転。

(昭和3年) 11月19日、
宣教所 (現在の分教会) となった。

神殿増築、教会住込み人の誕生(昭和3年)

この年(昭和3年) には、
小規模ながらも 神殿の増築を行い、 2間間口の神床が誕生した。
早期に部内教会長となった者が教会員として住み込み始めたのも、この年(昭和3年) である。

同年(昭和3年) 、
末女・おさ子 (後の東中央部内・東善美分教会長) が誕生(した)。

ゴロツキ教会と呼ばれた日々、それでも広がる部内教会(昭和初期)

当時(昭和初期)、柏木(庫治)は、席の暖まる暇もなく布教に出歩き、
一方、妻の明子は、大勢の教会在住者を抱え、教会の切盛りに人知れぬ苦労を重ねた。

(当時の東中央宣教所は) 最低生活を送りながら、いろいろな住込み人が 常時 15人以上生活しているような状態であった。
在住者同士(が) 刃傷沙汰に及ぶこともしばしばあり、(この頃の東中央宣教所は) 近所の交番から ゴロツキ教会の汚名を付された時代であった。

(そのような中から)
昭和4年(1929)、川崎に、部内第1号の 砂子集談所 が開設され、
(昭和)5年(1930)、東京に、玉川集談所、千寿集談所が生まれた。

(昭和)6年(1931) には、某信徒の土地 80坪 家屋80坪 献納により、教職舎が増築された。
(昭和)7年(1932)、砂子集談所が 大東陽宣教所と改称(された)。

東中央支教会へ昇格(昭和10年)

(昭和)10年(1935) 4月27日、
東中央宣教所は、支教会に昇格した。

昇格を祝う奉告祭は、同年(昭和10年) 6月に執行された。

破竹の勢い――教勢拡大・胎動する熱気(昭和10年代)

(昭和10年、支教会へ昇格した) 東中央の勢いは (とどまることを知らない程であった。)

同年(昭和10年)、東玉川・東月島・実央、…と 東京に 3ヵ所の宣教所を誕生させ(た。)
更に、教祖50年祭に当たる昭和11年(1936) には、朝鮮 京城 吉野町に、南大門宣教所、
(昭和)12年(1937) には、東千寿・東曙、以上 2ヵ所の 宣教所を生んだ。

当時、小さいながらも (東中央支)教会の中には、熱気と真剣なお救け精神が横溢し、深夜の水行は絶えることがなかった。
東中央の後世に残る話の種は、多く(が) この時代に作られた(のだった) 。

柏木庫治の東京教務支庁主事就任 ~ 教会敷地の拡張と神殿増改築(昭和12年~昭和13年)

(昭和)12年1月11日、
柏木庫治は、布教活動の実績を買われ、
東京教区管内の長老格ともいうべき 東京教務支庁 主事 (定員11名) に任命された。

翌(昭和)13年(1938)、
(東中央支教会は)
隣接地300坪を買収して、一挙に 教会の敷地が 従来の 5倍近くに拡張された。
同時に、神殿を増改築し、約400坪の敷地内に 相当の体裁を整えた教会が 建築された。

以来、昭和20年(1945) 5月25日(に) 戦災で全焼するまで、
教会は そのままの姿を保った。

東中央分教会へ昇格(昭和14年)

昭和14年3月28日、
東中央支教会は、分教会に昇格した。

上級・京城分教会、大教会へ昇格(昭和15年)

昭和15年(1940)、
上級・京城分教会が 大教会に昇格した。

 4ヵ所の部内教会誕生(昭和17年)

(昭和)12年の 日華事変勃発から やがて 第2次世界大戰へと突入していく 日本の暗い世相の中で、
(昭和)17年(1942)、
東中央部内に、
東常明 (東京)・東市川 (千葉)・嘉三次 (東京)・東理 (満州国新京)、
以上 4ヵ所の部内教会が誕生した。
(昭和16年 認可された『新教規』に基づいて、教会制度は、大教会・分教会の 二階制に変革された。) 

東京大空襲と敗戦――激動の歳月(昭和20年)

こうして、昭和17年までに 合計 11ヵ所の部内教会が設立され、(東中央の) 教勢は 発展の一途をたどっ(てい)たが、
(太平洋戦争末期の東京大空襲~終戦という未曽有の大混乱によって、事態は一変した)

(昭和)20年5月25日の(東京大)空襲によって、東中央 及び 過半数の部内教会が全焼(した)。

(また) 同年(昭和20年) 8月15日の敗戦により、
(朝鮮に在った 上級の) 京城大教会 並びに 全京城部内が (本土に) 総引き揚げ(しなければならない) という非常事態を迎えた。

この時のエピソードとして、(次のような話が今も語り草として残っている。)
柏木庫治が天理市の教館で「東中央は焼けず」と題する講演を行い 、帰京してみると、(そこは) 見事な焼け野原となっていた。
(落胆する信者一同を前に、柏木庫治は) 「教会建物は焼けたが、神様から頂いた『東中央』という教会名称の理は末代焼けることはない」と言って信者一同を励ました、というものである。

(大空襲に伴う) 戦災後、(東中央分教会は) 一時、東玉川分教会に避難。
(昭和)20年 7月8日から、被災地に 仮神殿の建築にかかり、
翌(昭和)21年(1946) 1月に、延 約50坪の 平家建の教堂を建て、そこに移転した。

(昭和20年8月15日、ついに終戦。)
敗戦の苦痛は 日本全土を覆い尽くし、(東京)都民は 遅配欠配に喘いだ。
(この時) 東中央(分教会) も 10数名の教会在住者を抱え、(ただ日々を生き抜くことに必死であった。)
ある意味、この時代が (東中央にとって) 最も困難な時代であった(といえるだろう)。

戦後復興の第一歩、中河詰所建築資材の東京移送(昭和20年~昭和22年)

強風と厳寒の冬を耐え忍ぶという困難な道を通る内、
(東京大空襲により教会建物が全焼して丸裸となってしまった東中央分教会に、復興の第一歩がもたらされた。)
不要売却になっていた天理市の中河大教会詰所 建物を、東中央が買収して解体する運びとなった(のである)。

(終戦後の激しい混乱もあって) 最悪の輸送事情の中、
(東中央分教会は、中河詰所を解体してその建築資材を) 東京に運搬。
奇蹟的な親神の守護により、
(昭和)22年(1947) には、(無事、天理から東京までの建築資材) 輸送が 完了した。

この間、(昭和)21年に、福島に 東北中央分教会が新設された。

我が身を捨てた 上級・京城大教会移転地の献納(昭和20年)

(東中央自身が戦災からの復興に踏み出すのと同時に)
上級・京城大教会の (朝鮮から内地への) 総引き揚げ、及び、京城部内教会の帰還後の措置に対して、
東中央(分教会)は、(柏木庫治)会長を先頭に、粉骨砕身、努力した。

(敗戦によって、朝鮮にあった京城大教会は日本内地へ引き揚げなければならなくなったわけだが)
京城大教会の部内134ヵ所の中、(当時) 日本内地にあったのは、東中央分教会とその部内10余ヵ所だけというのが実情であった。
しかも、(日本内地にあった数少ない教会である) 東中央(分教会) 自体が、戦災で全焼の上、(その)部内教会も(また)戦災教会がほとんどであった。
(そのため、京城大教会日本内地引き揚げ後の移転先を確保するための支援は、ほとんどどこからも期待できない状態であった。)

(上級・京城大教会の) 移転問題は、(日本内地への) 引き揚げ直後から 資金面で(大いに)難航した。
(京城大教会の移転問題が暗礁に乗り上げていた) その時、
(昭和)20年(1945) 12月25日の最終会議で、柏木庫治(東中央初代会長) の爆弾宣言により衆議が一決(した。
柏木庫治の一大決心によって、京城)大教会は、無事、現在地に復興をみ(ることが可能になったのであっ)た。

(柏木庫治の) 爆弾宣言の内容(と)は(どのようなものかと言うと)
「移転候補地に上がっていた某邸を、東中央が買収して (京城)大教会へ献納する」
というものであった。

(それは)「東中央はどうなっても親教会を復興させたい」と願う柏木の真摯な親孝心の発露であった。
(柏木庫治)会長の言葉を受けた東中央部内もまた「親の声は神の声」と悟り、東奔西走。
(その結果) 期日までに、資金調達を実現させた。

旧大山巌公爵邸跡の買収、教会移転神殿ふしん(昭和22年~昭和23年)

これと立て合って、
東中央(分教会) は、(昭和)22年(1947) 2月9日、
現在地 (東京都渋谷区神宮前5丁目14番地2号) にある 敷地面積1,400余坪の 旧大山巌公爵邸跡を買収することに成功した。

同地(旧大山巌公爵邸跡) を買い取ることは、(東中央にとって) 宣教所時代からの念願であった。
(永年の念願が叶う姿を見せて頂き) 親教会に尽し込んだ真実が一粒万倍に報われたことは、東中央(一同)にとって、(何事も代えがたい) 大きな喜びであった。

翌年(昭和23年) 1月、
中河詰所解体材をもって神殿建築に着工(した)。

(このふしんは、終戦直後) 当時の厳しい建築統制、輸送の隘路、その他 諸般の事情を考えると、全く破天荒な計画であった。
しかし、(東中央の神殿ふしんは) 着々進行し、
(昭和)24年(1949) 11月19日には、(無事) 神殿落成 (復興) 奉告祭が挙行され(るに至っ)た。

建坪179坪という、当時としては 破格の大建築であったが、
ここに、東中央(分教会)は、規模面目を一新し、一大飛躍の基礎を築いた(のであった)。

柏木庫治の参議院議員選挙出馬→当選 ~ 国会議員生活(昭和22年~昭和31年頃)

(昭和)22年4月20日、
新憲法の下で 第1回 参議院議員選挙が行われたが、
柏木庫治は、天理教推薦の全国区候補者として堀越儀郎と並んで上位に当選。
以来、約9年に及ぶ議員生活を送った。

(昭和)27年(1952) 8月には、スイスで開催された列国議会同盟会議に参議院を代表して出席。
帰途 ロンドンで開かれた世界連邦の会議で 世界平和招来を熱望する演説を行って、米独代表の熱烈な共感と握手を得たこともあった。

柏木明子2代会長の就任(昭和28年)

(昭和)28年(1953)、
(柏木庫治が) 参議院議員に再当選のため、教会長を辞任(した)。

(それに伴い) 同年(昭和28年) 5月26日、
柏木明子が 2代会長に就任。
(昭和28年) 11月19日、就任奉告祭が行われた。

柏木庫治、3代会長として復帰(昭和31年)

(昭和)31年(1956) 6月27日、
参議院議員任期満了により、
柏木庫治が3代会長として復帰した。

広がる東中央の道(昭和24年頃~昭和31年頃)

神殿落成奉告祭の行われた(昭和)24年から 教祖70年祭(昭和31年)の前年(昭和30年)までに、
東中央では、12ヵ所の教会が 産声を上げた。
(その内訳は以下の通りである。)
東京に、東本陽・東成明・東明幸・東昌春・東輝明・東万世・東嘉与。
千葉に、東国分。
宮城に、東奥陸・東高香。
福岡に、東英彦。
滋賀に、東大美。
以上の教会が 新設された。

また、(昭和)30年には、
ハワイ・ホノルル市に、ハワイセントラル布教所が開設され、海外布教の口火を切った。

(昭和31年の教祖)70年祭を迎えるまでに、
東中央は、24ヵ所の部内教会を持つ 有数の分教会に成長した。

上級・大熊忠次郎 京城大教会長からの大教会陞級 指令 ~ 大教会昇格の実現(昭和31年~昭和33年)

教祖70年祭に当たる昭和31年(1956) 3月19日、
春季大祭当日に 京城大教会長・大熊忠次郎の巡教があり、
(そこで、大熊忠次郎 京城大教会長より) 2年後の 昭和33年11月19日の教会創立30周年記念日までに 大教会に陞級せよ、との声が下った。

大教会への陞級には 50ヵ所以上の部内教会が必要であることが、教規の定めるところであった。
(この時点で) 部内教会 24ヵ所という (東中央の) 現状を考えると、
大熊(忠次郎・京城大教)会長の言葉は、(東中央一同にとって) 青天の霹靂であった。

(このようなことがあって後)
(昭和)33年(1958) 元旦に、大熊(忠次郎・京城大教)会長が 出直し(た。
大熊忠次郎 京城大教会長の出直し)により、東中央 大教会陞級の提唱が (親会長の) 遺言となった。

(親会長の言葉を重く受けとめ) 東中央の布教活動は「大教会陞級」という一点に向かって勇往邁進。
(その結果) 東中央は、昭和33年10月26日に、
部内教会 56ヵ所をもって、大教会陞級が許され(るに至った。)

同年(昭和33年) 11月19日、
(大教会)陞級奉告祭 並びに 設立30周年記念式典が実現した。

空前の教勢拡大(昭和31年~昭和33年頃)

すなわち、
東中央にとっては、(大教会陞級を目指して奮闘した 昭和)31年から(昭和)33年にかけての3年間が、教勢の空前の伸張期であった。

(昭和)31年、
大分に、東竜王。富山に、東明富。
以上の2教会。

(昭和)32年、
東京に、東実成・東芳陽・東阿佐ヶ谷・東東芝・東雪ヶ谷 (後に東明次と改称)・東善美。
以上 6教会。
静岡に、東善浦。兵庫に、東豊徳。大阪に、東大和田。ハワイに、ハワイセントラル。
以上10教会が生まれており、

(昭和)33年には、
東京に、関東中央・東大橋・東御代・東一路・東智明・東明嘉。
以上 6教会が新設されたのを始め、
栃木に、東喜沢・東瑞穂。
以上 2ヵ所。
神奈川に、 東晴陽・東花川。(東花川は 後、東向上に改称)
同じく 2ヵ所。
千葉に、東昌大・東市央・東参当・東水明。
以上 4ヵ所。
佐賀に、東幸平。広島に、東実陽。大分に、東景勝。宮城に、東蒲生。愛知に、東愛知。島根に、東赤陽。
…という具合に、各地で続々と新設教会が名のりをあげ、
同年(昭和33年) に設立された教会は、総数12ヵ所に達した。

こうして、東中央は、(柏木庫治)初代会長在任中に「大教会陞級」という異例の快挙を遂げた。
しかも、(東中央は) 昭和年代の設立教会であり、(大教会陞級時) 初代会長夫婦が健在であったことは、特筆すべきことであろう。

信者詰所開設の頃(昭和35年頃)

(昭和)35年(1960)、
(信者)詰所を開設(した)。

翌年(昭和36年)、
東京に、東桜ヶ丘分教会が誕生した。

柏木大安4代会長の就任(昭和37年)

(昭和)37年(1962) 4月22日、
柏木大安が4代会長に就任した。

柏木庫治会長退任後の動き(昭和38年頃~昭和41年頃)

会長交代に伴って、柏木庫治は 本部常詰に登用(され)、
(昭和)38年(1963) 4月18日には、本部員に任命された。

(昭和)39年(1964) には、
(柏木庫治は) 国政に対する尽力が認められ、勲2等に叙せられた。

(昭和)40年(1965) 8月28日には、
新詰所 (第10母屋) 開設。
翌年(昭和41年) の教祖80年祭には、その機能性をフルに発揮した。

なお、(昭和)40年には、北海道に、東北美分教会が設立された。

神殿ふしん(昭和41年~昭和43年)

教勢の拡充につれて、神殿の狭隘が衆目の一致する所となり、
(昭和)41年(1966)、神殿普請が発表され、
同年(昭和41年)7月26日には、(天理教教会)本部の許しを得た。

従来の教会建物は、終戦直後の資材不足のためやむなく古木材を使用建築した昭和23年来のものであり、
耐久年数を超過している上に、神床方位が地場方向でないことが、普請の決定的な理由となった。

(昭和)42年(1967) 8月8日、地鎮祭。
(昭和)43年(1968) 4月11日、上棟式。
同年(昭和43年) 10月1日、神殿完成。
同(昭和43年) 11月17日、神殿落成奉告祭を執行した。

普請期間中、
東光春・東大八州、以上の2教会が、神奈川・埼玉に誕生(した)。

神殿ふしん後の動き(昭和42年~昭和43年)

(昭和)42年には、地方布教者の組織である「東進会」を結成し、マイクロバスを駆使しての地方巡回を開始するなど、地方布教活動に意が注がれた。

また、農学博士でもある 柏木大安(4代会長)は、
(昭和)42年、本部の依頼により アフリカ・コンゴに 農業調査のため出張した。

(昭和43年の) 神殿落成奉告祭 直後、
東京に、東青山分教会が 新設された。

〔現住所〕〒150-0001    東京都渋谷区 神宮前5丁目14−2
〔電話〕03-3400-2226

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,93〜96)

おわりに

東中央大教会Google画像検索より
Google画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第127回目の今回は、
「東中央大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

東中央大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも ほんの少しだけ東中央大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

東中央は、柏木庫治 (初代) が、
京城 (現ソウル) で 子供の死を機に道を聞き、材木商をやめて布教。
大正十二年 帰国後、渋谷区羽沢町で布教を始め、
豪胆・陽気な真実のたすけにより、一代で大教会をなした。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,117)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】127回目の当記事では『天理教事典』の中の「東中央大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

東中央大教会は、京城大教会から分かれた大教会ですね。
京城大教会は、越乃国大教会から分かれた大教会。
越乃国大教会は、河原町大教会から分かれた大教会。
すなわち「斯道会」の流れを汲む大教会。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」>斯道会に繋がる青年会> 斯道会「大教会系統樹」.jpg より

※上記の系統樹では「京城」は「本島」から分かれたようになっていますが、
『天理教教会所在地録』では、京城と本島は「越乃國」から分かれたようになっています。
『天理教事典』京城大教会の解説文を読んでも、
京城は、本島から分かれたというより本島と並行して生まれ育ったように書かれておりましたし、そちらの方が正確だと思います。 

河原町大教会・越乃国大教会・京城大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

東中央大教会Google画像検索より②
Google画像検索より

当記事では
『天理教事典』の中の「東中央大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回もまた、知らないことばかりでした。

私自身、「東中央大教会」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはり 柏木庫治先生のお名前です。
お名前だけは以前から知っていました。

全国を駆け巡っての講演活動。
『柏木庫治教話集』をはじめとする数々の著述。
さらには 参議院議員としての活躍――

しかし、恥ずかしながら、知っていたのは その華やかな部分だけで、その華やかさを支える土台の部分については よく知りませんでした。
このたびの書写学習を通じて、大雑把ながらも その歩みの一端を知ることができたことは、誠に有難いことでした。

柏木庫治先生といえば、華やかで目を引く活動ばかりが注目されがちです。私がそうでした。
しかし、その華やかな活動の土台には、
実業家として築いた名誉も財産もすべて投げ捨てて東京へ単独布教に出て、集談所を開設し、
常時 15人以上もの住込み人を抱えながら、近所の交番から「ゴロツキ教会」とまで呼ばれる中をおたすけ活動に励まれた――
という、地道で泥臭い、しかし 真剣な伏せ込みの歩みがあったということ。
その事実を知って、深い感動を覚えるのでありました。

華やかな活躍の土台には、地道な苦労の伏せ込みがあり、
柏木庫治先生は、それを 全く周りの人に感じさせることなく、明るく通り切られたのだと思うと、実に 感慨深いものがあります。

人は、苦労した話を「武勇伝」的に話しがちだと思うのですが、
聞き手や読み手に、苦労の道中の苦しみや暗さを 一切感じさせることなく、
並外れた苦労の道中についても カラっと楽しく話され、とにかく 受け取り手を明るい気持ちにさせるところに 柏木庫治先生の凄さがあるのだと、改めて 教えられたことでした。

東中央大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

また、東京大空襲の被災と、敗戦前後あたりの史実は、読んでいて 胸に迫るものがありました。

その時代は、
物質的に恵まれた現代社会の中に生きる私たちには、もはや想像すらつかないほど 壮絶な時代だったのだと思います。

教会建物が全焼し、丸裸になりながらも、
「教会の建物は焼けたが、神様から頂いた『東中央』という教会名称の理は 末代焼けない」
と言って 信者一同を励ました柏木先生の言葉。
その言葉は、きっと、当時、現場に居合わせた人々にとって、現代の私たちには想像もつかないほどの 重さと温かさを持って響いたに違いない、と感じます。

『天理教事典』には、この頃のことを指して「最も困難な時代であった」と 記していました。
そのような焦土と混乱の中から立ち上がり、そこから、やがて「大教会」へと発展していったのだと思うと、その偉業の重みは、より一層 強く胸に迫るものとして響いてきます。

東中央大教会GoogleMapより③
GoogleMapより

そして今回、特に 深い感動を覚えたのが、終戦後の 上級・京城大教会の内地引き揚げをめぐるエピソードでした。

敗戦によって朝鮮からの総引き揚げを余儀なくされた京城大教会が、内地での移転先探しに大変苦労されたという話は、当シリーズ第121回「京城大教会」の中でも出てきました。

そのような、上級・京城大教会が八方塞がりとなって行き詰まっていた時、
柏木庫治先生は、移転候補地となっていたある邸宅を、東中央が買収して京城大教会へ献納する――そのような大決心をされたのでした。

自らも戦災で焼け出され、教会再建の途上にあったであろうその時に、上級教会のために我が身を顧みず動いた、柏木庫治先生。
その信仰心の深さには、ただ心を打たれるばかりであります。

そして、このエピソードは、「まいたる種は皆はえる」という天の理をそのまま体現した話として、私の心に深く刻まれました。

東中央大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

その他にも、知らないことばかりでした。

東京大空襲によって 教会建物が全焼した後、
不要売却になっていた天理市の中河詰所建物を買収して解体し、
終戦後の激しい混乱の中、最悪の輸送事情をくぐり抜けながら、
奇蹟的な親神のご守護によって 天理から東京まで建築資材を無事に運び、教会施設を再建した、という話。

そして、
上級・京城大教会長・大熊忠次郎先生の「大教会へ陞級せよ」という遺言を受けて、
一同が 一丸となって奮闘し、ついに「大教会」への昇格を果たした、という話。

どれもこれも、今回 初めて知ることばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも教会の歴史を知った上で、今の「東中央大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

東中央大教会GoogleMapより④
GoogleMapより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「東中央大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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