Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号121番「京城大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号122番「東神田大教会」について勉強します。
- 東神田大教会(ひがしかんだ だいきょうかい)
- 森井熊吉 不思議なたすけ、森井宗吉の入信(明治23年)
- 森井兄弟、信仰の深まり(明治23年~明治29年頃)
- 森井宗吉に見せられた不思議な神の働き、道一条へ(明治29年)
- 東 安次郎にも見せられた神の働き、大阪布教へ(明治29年)
- 森井宗吉も大阪布教へ ~ 集談所の開設(明治32年)
- 森井宗吉の上級 岡出張所帰任 ~ 出口亀造が後任者へ(明治33年頃~明治40年頃)
- 東神田宣教所の開設(明治40年)
- 厳しい弾圧=東神田宣教所の認可取消し・出口亀造所長の教職取消し(明治40年)
- 嶋田由松2代所長の就任(明治40年)
- 東神田支教会へ昇格(明治42年)
- 嶋田由松2代所長の出直し、嶋田奈良江3代会長の就任(明治44年)
- 嶋田奈良江3代会長、苦難の道中
- 東神田分教会へ昇格(大正12年)
- 教会の移転新築ふしん ~ 行政府規制による移転不認可(大正14年~昭和3年)
- 湊町駅 拡張工事に伴う町内一帯立退きにより ようやく教会移転(第2次世界大戦中)
- 嶋田奈良江3代会長の出直し、嶋田利長4代会長の就任(昭和18年)
- 終戦後の復興 ~ 東神田大教会へ昇格・奉告祭(昭和20年~昭和23年・昭和24年)
- 嶋田利長4代会長の出直し、嶋田カジヱ5代会長の就任(昭和30年)
- 嶋田カジヱ5代会長時代
- 嶋田進治郎の代務者就任 ~ 6代会長就任(昭和36年~昭和37年)
- 嶋田進治郎6代会長就任後 ~ 教祖90年祭後(昭和37年頃~昭和52年頃)
- おわりに
東神田大教会(ひがしかんだ だいきょうかい)

森井熊吉 不思議なたすけ、森井宗吉の入信(明治23年)
(江戸時代末期、大和国山辺郡庄屋敷村にて産声を上げた天理教は )
明治10年代後半には、
奈良県高市郡明日香村 岡 (現在の 岡 大教会所在地) の方面にも、
敷島大教会の前身である「心勇講」などによって 教えが伝えられていた。明治23年(1890) 1月中頃、
同村(明日香村) 橘の 森井宗吉は、
前年(明治22年) の暮から 面庁を患っていた 弟の熊吉 (19歳) の容態が悪化し危篤となったので、
(その頃、明日香村で講社を結成して天理教の布教に励んでいた) 松村レイ (岡大教会 初代会長) の(もとを訪れ、弟・熊吉の) 救けを願った。(松村レイのおたすけを受けた森井熊吉は) 不思議な御守護により、(危篤状態を脱して) 一命をとりとめた。
(弟・熊吉の奇蹟的なご守護を目の当たりにした森井宗吉は、深い感動に包まれ)
この時から、熱心に信仰するようになった。
森井兄弟、信仰の深まり(明治23年~明治29年頃)
(不思議なたすけを戴いた森井)熊吉は、
同年(明治23年) 3月から、
城島 (後に敷島と改称) 分教会に住み込んで、教会のご用を勤めるようになった。(また) 明治29年10月14日の「岡 出張所」開設の時には、
(兄の 森井)宗吉は 信徒総代の一人となった。
森井宗吉に見せられた不思議な神の働き、道一条へ(明治29年)
その後、明治29年末、
(森井宗吉は) 姉婿の 東 安次郎と共同で、大阪の難波元町に 米屋を開業した。
(また) 翌年(明治29年) 正月には、(大阪府) 空堀町へ出て、単独で 乾物屋を始めた。しかし、老母を (奈良県高市郡明日香村の) 田舎に残しており、
(老母を一人にしておくわけにもいかず、森井宗吉は) 5ヵ月程で商売をやめて大和に帰った。
(そして、大和の明日香村へ帰ってからは) 布教の傍ら 農業をして生計を立てた。同年(明治29年) 9月、
(森井)宗吉が 芋掘りをしている時――
突然、立っていることもできず口もきけぬ、という有様になった。(一体何が起きたのか理解できぬ宗吉は) その時、(パニック状態となりつつ、無我夢中で、この先は) 天理教の布教一筋に生きることを誓った。
そうしたところ、鮮やかな御守護によってたすかった(のだった)。(こうした神様の不思議な働きを見せられた森井宗吉は、
これ) 以後、農業をやめ (道一条に専念し)た。
東 安次郎にも見せられた神の働き、大阪布教へ(明治29年)
(森井宗吉がこのような大きな神の御業を目の当たりにした) 翌(明治)31年(の) 陰曆7月(のこと)――
(今度は) 森井家を訪れていた 姉婿の 東 安次郎が、突然 中風になった。(相次ぐ人智を越えた御業に 東 安次郎は大いにおののき、神様に向かって 必死でたすかりを願った。
その結果、森井宗吉の奇蹟的なご守護に続いて、東 安次郎の上にも不思議な神の働きが現れ、不思議なご守護を戴いた。)
これを救けられた (東) 安次郎も (森井宗吉に続いて) 入信。
(この後) 大阪で、にをいがけ (布教) をするようになった。
森井宗吉も大阪布教へ ~ 集談所の開設(明治32年)
そこで、(森井)宗吉も大阪布教を志し、大阪の難波警察署の向かい側に家を借りた。
(そして) 明治32年1月6日、
集談所を開設(した)。(大阪で集談所を開設した 森井)宗吉は、布教のため、(生家である)大和と (集談所のある)大阪を 行き来するようになった。
このようにして、東神田大教会の歴史が始まったのだった。
森井宗吉の上級 岡出張所帰任 ~ 出口亀造が後任者へ(明治33年頃~明治40年頃)
翌(明治)33年頃、
(上級である) 岡 出張所の 移転新築がなされることになった。(岡 出張所の移転新築に打ち込むため、森井)宗吉は (奈良県高市郡明日香村の) 岡へ戻(ることにな)り、
(大阪・難波に開設した集談所の) 後任に(は) 出口亀造が就いた。(後任の 出口)亀造は、奈良県磯城郡桜井町高家の出身で、当時20歳くらいだった。
出口亀造の教歴
(出口)亀造は、
(明治30年頃、長崎県平戸へ布教に出ていた 森川ルイが、夫の病気のため (大和へ)帰ってきたので、
(森川ルイの後釜として、長崎県平戸へ) 布教に出た(のだった)。
しかし、(その頃は) 内務省秘密訓令の出た直後で (天理教に対する)弾圧が厳しく、
また、方言の壁も厚く、(出口)亀造も (奈良県高市郡明日香村の) 岡へ引きあげることとなった。その後、(その出口亀造が、森井)宗吉の後任として 大阪へ赴き布教に尽力することになった、というわけである。
東神田宣教所の開設(明治40年)
明治40年4月24日、
大阪市南区難波 東神田町856番地に家を建てて
「東神田宣教所」の設置となった。
(初代所長:出口亀造)
厳しい弾圧=東神田宣教所の認可取消し・出口亀造所長の教職取消し(明治40年)
(森井宗吉、出口亀造らの奮闘によって ようやく開設された東神田宣教所であったが)
当時は弾圧が厳しく、(大阪)府下でも、多くの教会が 認可を取消され(る ということが起き)ていた。明治40年6月17日、
(東神田宣教所においても) 鳴物を入れて おつとめをしたとの理由から、
(大阪府より) 地方庁認可は出さない と指令が下った。(それと)同時に、出口亀造の教職も 取り消されることになった。
嶋田由松2代所長の就任(明治40年)
これ (=出口亀造所長の教職取消+地方庁の宣教所不認可) では、(せっかく生まれた東神田の) 大阪の教線が全滅すると憂慮され、
増野正兵衛 及び 森井宗吉の勧めによって、岡 出張所 部内の 飛鳥川布教所から、嶋田由松が 派遣された。同年(明治40年) 7月13日、
(嶋田由松が)
東神田布教所2代所長として (天理教教会)本部の許しを得た。
さらに、
同年(明治40年) 9月23日に、
地方庁の認可を得て、(嶋田由松が 正式に 東神田布教所2代所長に) 就任した。
嶋田由松の経歴
嶋田由松は、
明治8年10月5日、
奈良県高市郡 鴨公村大字高殿に生まれた。
後に 同郡(高市郡) 飛鳥の福田家に養子となり、福田由松となった。(福田由松は) 近衛師団兵として勤めた後、大和高田で 煙草製造販売会社を経営。
その頃、城法の教会につながる布教師から天理教の教理を聞き、妻・奈良江とともに入信した。その後、嶋田家の兄・由太郎が家を出たため、
幼少の頃から親孝行だった 由松は、
妻・奈良江とともに (養子入りした福田家から、再び) 嶋田家に戻った。明治37年の日露戦争に (嶋田)由松(が) 従軍中、
妻・奈良江が、赤痢かコレラに類する病気にかかった。
(その際、妻の) 奈良江は、独断で、(嶋田)由松名義の全財産を「飛鳥川布教所」にお供えした(のだった)。(奈良江は、嶋田)由松の姉・福田リキの勧めで、森井宗吉が所長である飛鳥川布教所へ 参拝するようになっていた。
明治38年、(日露戦争から) 無事帰還した (嶋田)由松は、
(自身の不在中に妻が全財産を独断で飛鳥川布教所にお供えしたことを知ったが)
妻の行為を咎めることもなく、
(帰還後は) 共に 飛鳥川布教所に住み込んで、(天理教の) 布教に励んだ。(そのような経緯を経て、嶋田由松は 飛鳥川布教所に住み込み布教活動に専念していたわけだが、
明治40年、出口亀造・東神田初代所長の教職取消、地方庁の不認可という大節が発生。)
せっかく生まれた東神田布教所、大阪の教線が消滅する危機的状況となったのを受け、
(その後任として嶋田由松が選任され) 東神田布教所への派遣となったのだった。
東神田支教会へ昇格(明治42年)
明治42年4月6日、
東神田布教所は、支教会へ昇格(した)。当時の部内教会は、西鎮・東阪の 2ヵ所であった。
嶋田由松2代所長の出直し、嶋田奈良江3代会長の就任(明治44年)
(東神田支教会2代)会長・嶋田由松は、
(のどかな田園地帯である) 大和から派遣されてきたところから (教会所在地である大阪の) 役員信者との意志疎通の上に (並々ならぬ)苦労をしながら、布教に励んだ(のだった)。(そのようにして、道の御用の上に奮闘し続けた嶋田由松であった) が、
明治44年8月27日、
妻と4人の子を残して、37歳で出直した。(嶋田由松2代会長の出直しを受けて)
同年(明治44年) 10月6日、
妻・奈良江が3代会長に就任した。
嶋田奈良江3代会長、苦難の道中
(嶋田奈良江3代会長にとって)
10歳の長男を頭に 4人の子を抱えての教会生活は、(筆舌に尽くしがたい程) 大変な苦労(の毎日)だったが、
大正元年(1912) 、長男・利長の病中に山田伊八郎 敷島大教会長から受けた「励ましの手紙」を 信仰の羅針盤として、真剣に(教えの道を)歩んだ。
東神田分教会へ昇格(大正12年)
大正12年8月27日、
(東神田は) 支教会から分教会へ昇格した。当時、部内教会は 11ヵ所を数えていた。
教会の移転新築ふしん ~ 行政府規制による移転不認可(大正14年~昭和3年)
大正14年頃から 移転新築の議が起こった。
(正式に移転新築することとなり)
(大阪府) 中河内郡 枚岡町 大字豊浦に 2,300坪の土地を求めて、(普請に) 着工(した)。(工事は着々進行して)
昭和3年(1928) に、現神殿が (無事) 完成した。
(ところ)が (大阪)府の内規の変更により、
移転地の近くに (既に) 教会がある(ということが規制の対象となる) と指摘され、移転の認可が出なかった。
湊町駅 拡張工事に伴う町内一帯立退きにより ようやく教会移転(第2次世界大戦中)
(せっかく普請が完成しながらも大阪府の認可が出ない為、移転できずにいた東神田分教会であったが)
その後、第2次世界大戦中、
教会の近くの国鉄・湊町駅(の) 拡張工事のため 町内一帯(が) 立ち退きとなり、
(ようやく) 教会移転の運びとなった。
嶋田奈良江3代会長の出直し、嶋田利長4代会長の就任(昭和18年)
昭和18年 4月2日、
嶋田奈良江3代会長が 出直した。そのため、同年(昭和18年) 9月24日、
長男・利長が 4代会長に就任した。
嶋田利長の経歴
(嶋田)利長は、明治35年1月18日に出生。
大阪市南区難波第6小学校・天理中学・新潟高等学校・東京帝国大学法学部を卒業した。大正8年に おさづけの理を拝戴し、(東京帝国)大学在学中に結婚。
卒業後は、教会本部・敷島大教会でつとめた。その後、東神田大教会に帰り、母を助けて布教に従事した。
終戦後の復興 ~ 東神田大教会へ昇格・奉告祭(昭和20年~昭和23年・昭和24年)
昭和20年、日本が敗戦を迎えたとき、
東神田(分教会) の部内教会38ヵ所のうち、15ヵ所が 戦災引揚げ教会だった。教勢沈滞の中、大教会への陞級が提唱され、
(その声を受けて、東神田一同が奮起した結果)
新たに15ヵ所の教会が設立された。昭和23年2月25日、
東神田分教会は、
岡 大教会から分離して、大教会に陞級することを (天理教教会本部より) 許された。(大教会陞級後) 客間を新築し、
翌(昭和)24年5月5日、
2代真柱を迎えて 陞級奉告祭を執行した。
嶋田利長4代会長の出直し、嶋田カジヱ5代会長の就任(昭和30年)
昭和30年10月28日、
(嶋田利長) 4代会長が出直した。そのため、妻・カジヱが 5代会長に就任した。
嶋田カジヱ5代会長時代
嶋田カジヱ (明治36年生まれ) は、
7年間 その任 (東神田5代会長職) にあたり、
この間に 7ヵ所の教会が新設された。
嶋田進治郎の代務者就任 ~ 6代会長就任(昭和36年~昭和37年)
(嶋田カジヱ)5代会長の健康がすぐれぬところから、
昭和36年5月26日、
嶋田進治郎 (昭和8年生まれ) が代務者となった。翌(昭和)37年 7月26日、
(嶋田)進治郎が6代会長に就任した。
嶋田進治郎6代会長就任後 ~ 教祖90年祭後(昭和37年頃~昭和52年頃)
その後、(東神田大教会では)
現在 (=『天理教事典』1977年版出版当時) までに、10ヵ所の教会が新設された。現在 (=『天理教事典』1977年版出版当時)、
部内教会 80ヵ所の分布は、
大阪33ヵ所、
福岡31ヵ所、
奈良4ヵ所、
熊本4ヵ所、
埼玉・富山・滋賀・島根・香川・山口・大分 に 各1ヵ所ずつ
である。〔現住所〕〒579-8038 大阪市東大阪市箱殿町11ー3
(『天理教事典』1977年版 P,692〜693)
〔電話〕 072-988-0721
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第122回目の今回は、
「東神田大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

東神田大教会は、岡 大教会から分かれた大教会ですね。
岡 大教会は 敷島大教会から分かれた大教会。
すなわち、敷島の流れを汲む大教会。
敷島大教会・岡 大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

当記事では『天理教事典』の中の「東神田大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回もまた、知らないことばかりでした。
東神田大教会の元一日は、
古代日本の政治中心地で「日本史始まりの地」とも呼ばれる【奈良・明日香村】に「岡大教会」を開設する際に 信徒総代の一人に名を連ねた「森井宗吉」先生が、
神様の不思議な働きを見せられ、そこから一念発起して「大阪布教」に赴かれたところから始まるのですね。
そもそもの森井宗吉先生の入信は、
弟である森井熊吉先生が面疔という疾患が悪化して危篤状態になったところを、岡大教会の初代会長である「松村レイ」先生におたすけ頂いたことによるものだったとのこと。
「面疔」とは?
わからなかったので、AI(Gemini)に聞いてみました。
【質問】
面疔とはどんな疾患ですか?
明治時代、面疔が悪化して危篤状態になるということが、本当にあったのですか?
【Geminiの答え】
・面疔(めんちょう)とはどのような疾患か
面疔(めんちょう)とは、顔面にできる非常に強力な化膿性炎症の一種です。
現代の医学的分類では、毛包(毛穴)の奥深くに黄色ブドウ球菌などが感染して起こる「疔(ちょう)」が、特に顔面(鼻や口の周り)にできたものを指します。
・主な特徴と症状
《原因》: 主に黄色ブドウ球菌の感染です。
《症状》: 最初は小さく硬いしこりとして始まりますが、急激に赤く腫れ上がり、激しい痛みと熱感を伴います。
《危険性》: 顔面、特に「死の三角形」と呼ばれる鼻から口の両端を結ぶエリアは、静脈が脳内の静脈洞(血管の合流点)へと直接つながっています。
そのため、炎症が波及すると非常に危険です。
・明治時代、面疔で危篤になることはあったのか?
結論から申し上げますと、明治時代において面疔が悪化して危篤、あるいは死亡に至るケースは珍しいことではありませんでした。
現代では抗生物質(ペニシリンなど)によって容易に治療が可能ですが、それらが普及する前の時代、面疔は「命に関わる恐ろしい病気」として恐れられていました。
・なぜ命を落とすことがあったのか
抗生物質の不在: 細菌の増殖を抑える薬がなかったため、一度細菌が血液に入り込むと食い止める手段がほとんどありませんでした。
脳への感染(海綿静脈洞血栓症): 顔面の細菌が静脈を通って脳に達し、髄膜炎や脳炎を引き起こしました。
《敗血症》: 細菌が全身に回り、多臓器不全を引き起こす敗血症を発症することがありました。
《不適切な処置》: 「膿を出せば治る」と考え、不衛生な手や道具で無理に潰してしまうことで、かえって細菌を血管の奥深くへ押し込み、悪化させるケースが多々ありました。
・歴史的な事例
明治から昭和初期にかけて、著名人が面疔をきっかけに体調を崩したり、亡くなったりした記録は散見されます。
《豆知識》: 夏目漱石も面疔を患ったことがあり、その苦痛や恐怖を日記や書簡に記しています。
当時は「顔にできた小さなデキモノ」が、数日後には高熱を引き起こし、死の淵を彷徨わせるほどの脅威だったのです。
・現代における状況
現在では、清潔な衛生環境と効果的な抗生物質があるため、面疔で命を落とすことは極めて稀です。
しかし、顔の腫れがひどい場合や高熱を伴う場合は、現代でも速やかに皮膚科を受診すべき重要な疾患であることに変わりはありません。
単なる「できもの」ではなくて、当時は、まさに命にかかわる疾患だった‼
そのような疾患が悪化して危篤状態にまでなってしまった弟さんが、松村レイ岡大教会初代会長のおたすけによって見事に快復のご守護頂いた!
森井宗吉先生は、その感激からこの道に入られたのですね。

今回の勉強で興味深かったのは、
その、東神田大教会の最初の種をまいた森井宗吉先生は、入信後 信仰生活を送る中で、
更に深く信仰活動に突き進むことを求められる不思議な出来事を経験されていた、という史実でした。
それは、明治29年9月の畑仕事の最中の出来事でした。
弟さんの不思議なたすけを通して信仰の道に引き寄せられた森井宗吉先生は、
一度は姉婿の東安次郎先生と大阪で商売を始められたが、明日香村の実母の世話取りもあって商売は断念して、明日香村で農業をしながら布教をされていた。
そうしたところ、明治29年9月、畑仕事の最中に、突然、立っていることができず口もきけなくなってしまい、パニック状態となってしまった。
その時、必死で「今後は神一条の道に専念します」と誓ったところ、回復することが出来た――
『天理教事典』には、そのように書いてありました。
『天理教事典』のこの部分を読んで(全然シチュエーションは異なるのですが)
私の頭の中に「パウロの回心」のエピソードが、脈略もなく浮かんできたのでした。
パウロの回心とは、
キリスト教徒を迫害していたユダヤ人サウロが、ダマスコへの途上で復活したイエスと出会い、使徒パウロへと劇的な転換を遂げた新約聖書の出来事で、眩い光と声に打たれて一時的に失明し、盲目から視力を取り戻す際にキリストへの信仰に目覚めた(聖パウロ女子修道会 > 使徒聖パウロの回心 より)
というもの。
パウロは、キリスト教迫害者であったのが、自らの身体に見せられた不思議な力を通して神と出会い、熱心なキリスト伝道者へ180度転換したのに対し、
森井宗吉先生の場合は、それまでに天理教の信仰に目覚め、既に道を歩んでおられた、という点において、全く背景は異なります。
それでも、両者のエピソードは、
自分自身の身体が 突然何か大きな力に捉えられ、
「有無を言わさぬ状態で自身には把握しきれない人智を超えた『意思』を突きつけられた」
という構造において【相似形】だと、私の目には映りました。
もしも、目に見える現象世界がこの世のすべてであるかのような価値観に染まった現代の私たちが同様の体験をした場合には、それは、「脳」が創り出した妄想による、特異で一時的な身体症状として切り捨てられるかもしれません。
しかし、今よりもずっと目に見えない世界が身近で 今よりも実感を伴った時代においては、
それはきっと、紛れもない「リアル」なものとして受けとめられ、その先の生き様に影響を与えたのに違いないと思われます。
そういう意味において、
森井宗吉先生が畑仕事の最中に突然立っていることも口をきくことも出来なくなった時に「神一条の道」を決意する事によって救われたという不思議な体験と、
ダマスコへ向かう途上で一時的に失明し神の声を聴き、神に従うことを決意したことによって目から鱗が落ちて再び光を取り戻したというパウロの不思議な体験を 同一線上のエピソードとして思案するという行為は、まるっきりの見当外れだとも言えないのではないか、
と私には思えます (^^;)
当シリーズ第81回「岡 大教会」の勉強をした際に、
明治33年頃、岡大教会が悲願の移転建築を実施することとなった時、
それに必要な莫大な資金を捻出するために、森井宗吉先生は、西本久七先生らと共に全財産(!) を売り払って岡大教会に伏せ込まれたと知りました。
森井宗吉先生が畑仕事の最中に経験した不思議な出来事は 明治29年ですから、
森井宗吉先生の全財産伏せ込みという大決断は、その神秘体験の後ということになります。
そのような並々ならぬ決意、行動というものも、
以上のような神秘的な史実の積み重ねを押さえた上で改めて捉え直すと、
それ以前とはまた異なった味わいがあるように、私には感じられます (^^)

他に、今回の勉強では、
嶋田由松2代会長の苦労というものが、私には印象深かったです。
嶋田由松2代会長が日露戦争従軍中に 奈良江奥様が赤痢かコレラ様の感染症に罹患し、それをおたすけ頂くために、奈良江奥様は全財産をお供えされたとのこと。
嶋田由松2代会長は従軍中で、奥様の判断で全てを伏せ込まれた。
それで、嶋田由松2代会長が日露戦争終結後に帰宅してみると、嶋田家は無一文になっていて飛鳥川布教所で生活することになった――
『天理教事典』には、そのように書いてありました。
嶋田由松先生は、戦争から帰ってきたら家も土地も天理教の教会にお供えされていたと知って、どんな気持ちだったのか、聞いてみたい気がしました。
『天理教事典』によれば、嶋田由松先生は妻の行為を咎めることもなく、戦争から帰還した後は、夫婦共に 飛鳥川布教所に住み込んで布教に励んだとのこと。
東神田の初代会長である出口亀造先生が地方庁から教職取消し処分となって、その後どうするか検討された結果、その後任には 嶋田由松先生が選任されたという史実を見ると、
嶋田由松先生は、全財産を教会にお供えされたことに対して 強い不満を抱いて攻撃的になったり自暴自棄になったりすることなく、それを好意的に受け止め、そこから前向きに信仰生活を送られたのだと考えてよい、そのように思います。
その嶋田由松先生が、飛鳥川布教所に住み込んで布教活動に励んでいたところ、突然、大阪の東神田布教所の担任に指名され、大和の明日香村から大阪の教会の会長に就任することになられた。
ご自身が布教して生まれた教会というわけではなく、森井宗吉先生や東安次郎先生等の布教によって生まれた教会、すなわち、既に組織として形が出来ていた所へ、後から「会長」として入っていくというのは、かなり厳しいものがあったに違いない、と想像致します。
明治40年に会長に就任して、そのわずか4年後の明治44年に37歳の若さで出直されたという事実は、
――日露戦争従軍に伴う心身への過大な負荷を含め『天理教事典』には書かれていないその他の事情が当然多々あったこととは思いますが――
外部に居た者が後から責任者として組織へ入っていく心労が如何に大きいものであったかを物語っているように、私には感じられました。
しかし、嶋田由松2代会長出直し後は、奈良江奥様がその後を受け継ぎ、3代会長として教会を守り、
教会を支教会から分教会へと昇格させ、大阪府中河内郡枚岡町への教会移転をやり遂げ、
東神田の道は、厳しい弾圧を乗り越え 見事な発展を遂げられたのでした。
そして、その苦労の上に、今の壮大な「東神田大教会」の姿がある――
そう考えると、感慨深いです。
嶋田由松2代会長出直し後、10歳の長男を筆頭に幼子4人を抱えながら3代会長に就任された奈良江奥様が、筆舌に尽くしがたい苦難の道中において、山田伊八郎・敷島大教会長から賜った「励ましの手紙」を心の支えとし、信仰の羅針盤として教えの道を歩まれた——
『天理教事典』「東神田大教会」の解説文にあるその記述に、私は深い感動を覚えました。

その他、
昭和3年に、大阪府中河内郡枚岡町に新たな新神殿を建築し移転しようとしたところ、
大阪府の内規変更で、移転地の近くに教会があるので不認可となり、
第2次世界大戦中の湊町駅拡張工事に伴う町内一帯の立退きまで移転が叶わなかった、
(=湊町駅拡張工事に伴う町内一帯の立退きによって、やっと教会移転が出来た)
という話。
これも、全く知りませんでした。
昭和3年に神殿ふしんが完了したのに、近くに教会があるから移転を認めません、と言われた東神田の皆様ショックはどれほどのものであったことでしょう。
『天理教事典』には、第2次世界大戦中にやっと移転できたと書いてありました。
第2次世界大戦は昭和14年~昭和20年までですが、日本の場合は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃以降が直接の戦闘状態ですから、東神田大教会の移転も、昭和16年以降だと思われます。
すなわち、昭和3年に神殿ふしんが完成して、それから13年以上後にやっと移転できたということですね。
私は『天理教事典』1977年版の記述のみを資料として想像しているので、実状はまた違った感じなのかもしれませんが、いずれにしても、宗教行政の様々な規制や戦争によって、教会が大きく振り回され、苦難の道中を歩み続けた、ということは間違いなさそうです。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、そのような様々な教会の苦労の歴史を知った上で、今の「東神田大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「東神田大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。





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