Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号33番「城法大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号34番「生野大教会」について勉強します。
- 生野大教会(いくの だいきょうかい)
- 初代会長 田川寅吉と その父(明治3年~明治15年)
- 田川寅吉初代会長の入信(明治17年~19年)
- 講社の結成(明治19年)
- 田川寅吉初代会長の 初おぢばがえり(明治19年)
- 生野の道の広がり(明治20年~明治23年)
- 田川寅吉会長の徴兵~「生野支教会」設立(明治23年頃~明治25年)
- 田川寅吉会長の軍隊退営と神殿普請(明治25年~明治28年)
- 教祖殿等の建築 及び 田川寅吉会長の結婚(明治29年頃~明治25年)
- 安堵事件~整理員としての田川寅吉会長(明治30年~明治37年頃)
- 生野支教会売却による北分教会の負債返済計画に対するお手入れ(明治37年頃)
- 田川寅吉会長の軍隊早期退営~北分教会の復興支援(明治38年~明治42年頃)
- 支教会から生野分教会への昇格~上級・北分教会への伏せ込み(明治42年~明治45年頃)
- 茨木事件前後(明治44年頃~大正8年頃)
- 本部直属・生野教会の誕生(明治30年~明治37年頃)
- 教祖40年祭活動(大正12年頃~大正15年頃)
- 教祖50年祭活動、田川虎雄2代会長就任の頃(昭和5年頃~昭和11年頃)
- 大教会への昇格前後(昭和14年頃~昭和19年頃)
- 姫路への移転、移転建築の頃(昭和21年頃~昭和27年頃)
- 田川勇3代会長就任~教祖80年祭の頃(昭和32年頃~昭和41年頃)
- 生野大教会創立80周年の頃(昭和46年頃~昭和47年)
- おわりに
生野大教会(いくの だいきょうかい)
初代会長 田川寅吉と その父(明治3年~明治15年)
初代会長 田川寅吉は、
明治3年(1870) 10月9日、
兵庫県 朝来郡 梁瀬村内 野間村 田ノ口で、
田川徳右衛門、同(田川) いち の長男として 誕生した。家は 代々農業、
父・徳右衛門は、明治2年 母 いち の婿養子として迎えられたが、
元来 病弱で、憂鬱症を病み 48歳で出直した。父(田川徳右衛門) の病中、(田川)寅吉は、
信心の深かった祖父・(田川)徳三郎に連れられて 神社仏閣に参拝し、
父(田川徳右衛門) の全快を祈った事も度々であった。祖父(田川徳三郎) 亡き後も
13歳の時、既に 黒住教 を信仰し、
或る時は、能勢の「妙見山」に立籠る…等、
父(田川徳右衛門) の病をたすけてもらいたさに
悲壮な決心でつくした。しかし その甲斐もなく、
明治19年 1月、
15歳にして、父の死に出会った。
(田川寅吉は) 茫然自失、
一家の将来を思うと 不安は益々つのり、
堪えられぬ苦悩が 湧くばかりであった。
田川寅吉初代会長の入信(明治17年~19年)
明治17年(1884)頃、
大阪北区 堀川で 湯葉製造業をしていた 衣川弥兵衛が、
腰痛のふしぎなたすけを受けたことから 天理教に入信。(衣川弥兵衛は)
天地組(北大教会の前身) の世話係をしていたが、
かねてより、故郷・田ノロにも 教えを伝えたく思っていた。その矢先、(衣川弥兵衛は)
天地組組長・茨木基敬より、
但馬方面へ出張を命じられた。(衣川)弥兵衛は 大いに喜び、
明治19年 旧3月上旬、
田ノ口の親戚・衣川宇兵衛方に寄寓し、
村人に 神の用を帯びて来たことを告げ、教えを説いた。「大和国に 天理王命という生神様が現われ、どんな大病人でも 心次第で 皆救けて下さる」
と 天理教の教えを説いた。衣川弥兵衛の一座の講話は
父の死後、身心の悩みで心の糧を求めていた (田川)寅吉の心魂をゆさぶった。
(田川寅吉は)
神様の話を聞けば聞く程、心は開け、悩みは晴れ、
かつて信仰した多くの神仏の中にも この道以外に選ぶ道はない
と 教理に感激して、
一筋に この道を通る決心をした。
講社の結成(明治19年)
(衣川)弥兵衛もまた、
若き求道者を見出した喜びに
(田川)寅吉を 我が子のように教え導いた。こうして (明治19年) 5月5日、
田川寅吉は 率先して講社結成を談じ合い、
村内全戸の人々にも 加入をすすめた。(そして)
一同の推挙により、
田川寅吉を 講元、
衣川武右衛門を 副講元とし、
(明治19年) 5月15日、
初めての講社勤めを 田川寅吉宅にて勤めた。これが 現在の 生野大教会の 元一日である。
田川寅吉初代会長の 初おぢばがえり(明治19年)
(田川)寅吉は 感激に燃え、
昼は 農事に励み、
夜は 数キロを奔走して布教し、
早くも 各地で講を結ぶところが出来るようになった。明治19年(1886) 旧8月16日、
田川寅吉は、副講元を始め 信者8名と共に
おぢば へ向かった。丹波路を経て、(明治19年 旧8月)18日、大阪の衣川弥兵衛を訪ね、
天地組本社へ案内され、丹波屋に宿をとった。
すると、その夜半、(田川)寅吉は、激しいあげ下しに苦悶した。当時、コレラが流行っており、
一行の心配と驚きは一通りでなかったが、
必死に てをどり を勤めての お願いの甲斐あって
(病状は) 快方に向かった。(田川寅吉は)
一日養生して (明治19年 旧8月)20日 未明、大阪を発ち、竜田を経て、
ようやく 20日夜、
三島の中山重吉宅に 草鞋の紐を解いた。その夜、お屋敷より
辻忠作、山本利三郎が宿に来て、一同に 神様のお話を取次ぎ、
辻忠作は 衰弱し切っている田川寅吉に
赤衣を羽織って おさづけ を取次いだ。(その結果、田川寅吉は)
翌朝には、すっかり御守護を頂いた。(ご守護を頂いた田川)寅吉は、
一行と共に (衣川)弥兵衛の導きで 門長屋をくぐり、
おぢば にひざまづいて おつとめをつとめ、
御休息所へ案内され、教祖にお目通り頂いた。その時、教祖より 一同に「よう はるばるかえって下された」とのお言葉をいただき、
(田川)寅吉は 言い知れぬ感激を覚え
生涯を道に捧げる決意を定めた。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』 191.よう、はるばる
但馬国田ノ口村の田川寅吉は、
明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。
時に十七才であった。
これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。
明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、 おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。
が、その夜、田川は宿舎で、激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。
時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。
一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。
かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。
そこで、二日未明出発。
病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。
中山重吉宅に宿泊した。
その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。
翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。
教祖は、赤衣を召して端座して居られた。
一同に対し、
「よう、はるばる帰って下された。」
と、勿体ないお言葉を下された。
感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、
一生懸命たすけ一条の道に努め励んだのである。
生野の道の広がり(明治20年~明治23年)
翌 明治20年(1887)、
教祖が現身をかくされたという報せを
旧暦 2月に聞いた。
(田川寅吉は 深い悲しみを抱えて)
18名の信徒と共に 第2回目の おぢばがえりをした。当時、天理教に対する取締り圧迫は厳重を極めていたが、
東京より おぢば へ教会本部が移された 明治21年の 7月と10月、
喜びの節々に おぢばがえり をした。そして、旧暦 11月5日には、
数え年19 歳にして おさづけの理を拝戴。
いよいよ意気は燃え立ち、白熱的布教が 展開された。その頃より、田ノ口の講社づとめは、
天地組本社の応援も得て、
毎日 3~ 400人の参拝者が詰めかける程であった。
おつとめの手も揃い、不思議なたすけが相次ぎ、
いかなる病気もたすかった。しかし、それと共に
但馬地方においても
神官、僧侶、医師、無理解な世人の非難、攻撃、嘲笑の声が高まり、
講社づとめの中止を命ぜられたりもしたが、
信者の固い結束により その困難をのり越え、
かえって 道は八方へ広がった。当時は、布教の自由を得ることが急務であったので、
田川(寅吉)宅に集会所を設ける旨を 警察に届け出、
天理教教規を添えて設置理由を述べ、
毎月4回、神楽 並びに 説教を行う旨を届けた。また、その頃 教勢は
但馬地方はもとより
丹波、丹後、播磨、美作へと延び、
参拝人多く 手狭のため、田川(寅吉)宅を 増築した。明治23年(1890) 8月には、
天地組「7番講」を「9番分講」と改称し、
7ヵ所の支講を結集、
信徒数も およそ700戸に及び、
当時 天地組中、第1位であった。
田川寅吉会長の徴兵~「生野支教会」設立(明治23年頃~明治25年)
こうして、教勢は 発展の一途を辿ったが、
田川(寅吉)講長は 徴兵適齢に達し、
後髪を引かれる思いの中にも 後顧の憂いのないように、
副講長:衣川武右衛門、世話係:城本秀雄
の二人に 講中一般の世話を依嘱し、
3年間 大阪の連隊に入営することとなった。中心を失うことにより (天地組「9番分講」の) 教勢も 沈滞気味となったが、
田川(寅吉)講長は、
入営中にも 朝夕 おぢば遙拝を欠かさず、
おぢば や 天地組本社へ 足繁く参拝し、
天理教の発展に 心を注ぎ、
その誠意よく 人を動かし、
支講 結集も 十指に及んだ。教会本部が認可されるや、各地で 教会設立の動きが活発となり、
天地組 本社も、
明治24年 8月 神道天理教会 北分教会となった。それとともに「9番分講」でも 教会設立の気運が起こり、
入営中の (田川寅吉)講長の帰郷を待たず、
当時 教勢分布の中心であった「生野」を選び、
世話係:城本秀雄を 臨時代務者として
明治25年(1892) 8月30日、
兵庫県 朝来郡 生野町内 口銀谷町1丁目第169番屋敷において
神道天理教会 北分教会「生野支教会所」設立の許しをうけた。
田川寅吉会長の軍隊退営と神殿普請(明治25年~明治28年)
そして、更に
同町(生野町) 1丁目488番地に
地所買入れの許しを得た。しかし 中心である議長不在のため、
教会新築の会議を開いても話はまとまらず、
遂に 会議は流れるばかりとなって、
本部、(上級の) 北分教会への義務も 滞る有様となった。しかし、田川寅吉の (軍隊)満期退営により、
ようやく明るさを取り戻し、
明治27年 8月30日、
城本秀雄 会長代務者の委任解除と共に
田川寅吉が 会長に就任した。そして、神殿建築の許しを受けるに及んで、
部内教会は 普請に勇み立った。(田川寅吉)会長としても
この普請に 先祖伝来の田地山林を残らず伏込もうと
母 いちと話し合ったが、
信仰の浅い母は 生家の姿形に未練があり、
信仰一条に徹することが出来なかった。そこで、仕方なく 次弟 (田川)幸太郎に 戸主を譲り、
自分は 分家をして 事理を明確にして、普請に身を徹した。後年、生家が類焼し、
たまたま 北 大教会に詰めていた(田川寅吉)会長に 電報でその報が届いた時、
(田川寅吉会長は)
悪い「いんねん」が切れたと大喜びした
という逸話が残っている。さて、普請も
(明治27年) 旧10月7日に 上棟式を執行、
喜びを迎えたのも束の間、
日清戦争従軍のため、
神殿壁付最中の普請を後に
母に別れを告げる暇もなく出発した。役員は よく留守を守り、
普請も殆ど完成するまでに至り、
明治28年 日清戦争の終わりと共に、(田川寅吉)会長は 無事帰国した。言葉の通じぬ戦地で
中国人の病人の おたすけ に塀を乗り越えて家の中に入り、
紙に天理王命と大書し 三日三夜で 鮮やかに おたすけを頂く逸話を残したのも、この時である。
教祖殿等の建築 及び 田川寅吉会長の結婚(明治29年頃~明治25年)
翌年(明治29年) 教祖10年祭には
110余名の信者と共に参拝。年祭の旬に当たって、教会隣接地 60坪を買収、
教祖殿、神饌場の新築を行い、
明治29年 4月22、23、24の3日間に亘って、
賑々しく 鎮座開筵式を執行した。かくて
会長の(軍隊)入営といった事態により一時沈滞していた教勢も 再び盛り返し、
部内教会にても、次々と 鎮座 開講式が執行された。支教会としての 内容、外観共 ようやく整って来たので、
それまで独身を通してきた 田川(寅吉)会長は、
永尾楢次郎・芳枝の仲介により、
明治31年 旧6月、おぢばで 平沢とみ と結婚した。
安堵事件~整理員としての田川寅吉会長(明治30年~明治37年頃)
ところが 一方、
明治30年(1897) 6月 安堵事件が起こり、
北分教会 理事:上田善兵衛も その主唱者の一人であったため、
北 分教会 部内にも 30余名の免職者を出す不祥事となった。その整理員として 田川寅吉が選ばれ、
東京、北海道方面の事件調査整理に出張、
以後 (明治)37年迄、
栗太支教会、岡山支教会、兵庫県下の 北 部内教会
等の整理に 東奔西走した。この安堵事件により
北分教会は、部内教会が混迷し、教勢振わず、負債がかさみ、
遂に 差し押さえを受ける という窮迫状態となった。
生野支教会売却による北分教会の負債返済計画に対するお手入れ(明治37年頃)
一方、日露戦争が勃発し、
田川(寅吉)会長は 再び召集となった。こうした中、(田川寅吉は)
姫路の連隊に入営中、
(姫路)市内 野里に 教会連絡所を設け、役員と協議を重ね、
北 分教会の 借財を引き受け、
「生野支教会」の地所建物一切を売却し 負債返済に当てる(という)決議をした。
茨木(基敬) 北分教会長は、この決心を喜び、
生野(支教会)へ出張して、教会財産売却の方法を協議していたところ、
突然 激しい腹痛に苦しみ出した。茨木(基敬 北分教会) 会長は、これを
「生野支教会所」売却を 中止せよ
との神意である と悟り、
一同で お詫びのお願いをしたところ 全快した。このことを契機として、
生野は 部内教会が一丸となって、
北(分教会) の 負債整理に 本腰を入れる様になったのである。
田川寅吉会長の軍隊早期退営~北分教会の復興支援(明治38年~明治42年頃)
田川(寅吉)会長は、
教祖20年祭までに 北分教会の難局を打開しようと、
明治38年(1905) 12月、
「3ヵ月後には恩給を受けられる身ではないか」との同輩の言葉も振り切って
除隊を許され、
営門より 直ちに迎えに来た夫人と共に、おぢば へ帰参した。これにより、入営中の部内教会の整理に
また 布教に 奔走したが、
特に、安堵事件以来 混迷していた「北(分教会)」部内教会の復興と負債整理に、
心血を注いだ。北分教会では、
会議を重ねた結果、
曽根崎新地は 大阪の目抜きの所で 風紀もよくないので、
移転によって 負債を整理することに決定し、
大阪府 東成郡 生野村国分に敷地を得、
明治40年 1月、移転建築の許可を得た。にもかかわらず、(明治)42年 7月、
一部に、移転せず 教会を劇場に貸そう という策動が起こったりしたが、
初代真柱の配慮により、
田川寅吉は 茨木(基敬 北分教会)会長に強く進言し、
これを 未然に防いだ。
(そして) 同年(明治42年) 7月30日の(大阪市)北区の大火災を
正に 紙一重の差でまぬがれ、
無事 神殿解体材木の移動が出来、
移転建築工事を 順調に推し進めた。
支教会から生野分教会への昇格~上級・北分教会への伏せ込み(明治42年~明治45年頃)
この年、明治42年(1909) 1月20日には、
天理教一派独立により、北分教会は大教会に、
(明治42年 1月)25日、生野は 分教会に昇格した。さらに 明治43年には
生野より 北 大教会の教祖殿を献納する等、
本部の普請に、北(大教会)の普請に、
生野部内教会を挙げて、徹底して つとめ切り 奉仕した。(そして) 明治45年 5月、
移転建築 落成奉告祭を迎えることが出来た。
茨木事件前後(明治44年頃~大正8年頃)
しかし 一方
明治44年 秋頃から、
北大教会長・茨木基敬は、腸出血で病床に臥す日が続き、
大正元年には 病状が進み、強度の神経痛を伴い、
初代真柱をはじめ 教友等が見舞い、おさづけ を取次いだが、
病気に託して 神憑りである と吹聴しはじめ、
怪異な模様があった。田川寅吉は、
この状態が続く様では 安堵事件の轍を踏むことになりかねないと、
北(大教会) の 役員会議で 胸中を吐露した。
教祖30年祭に向かって、ぢば につくし、
茨木(基敬)会長を救うため、反省の道を促した。しかし、(それは) かえって 茨木家の反感を買い、
自然、他の役員からも 疎遠されることとなった。大正2年 3月、
北 大教会長は (茨木基敬の息子である) 茨木基忠に変更された。
しかし、(状況は) 依然 是正されず、
ますます迷う者が増え、諫言も効はなかった。田川寅吉は、ついに
大阪支庁主事 ならびに (北)大教会役員を辞職する決心までしたが、
(大阪)支庁長・増野正兵衛より
(それは) 思いとどまるよう諭された。こうして 北 大教会は
異様な雰囲気のまま 教祖30年祭を迎え、
大正7年(1918) 1月17日には、
(ついに) 茨木父子が 懲戒免職となった。その後、
本部員・山中彦七が(北大教会3代)会長に任命されると共に、
(北)大教会は 元伊勢町へ仮移転された。田川寅吉は、
生野(分教会) の部内教会をかえりみる暇もなく、
夫婦で(北大教会へ) 常詰し、
山中(彦七 北大教会3代)会長と共に 復興につとめた結果、
(北大教会)役員、部内教会長も 漸次復帰し、
この年(大正7年)の11月には 平静に戻った。田川(寅吉)会長は
常に 誠心誠意、北(大教会) の面目一新のためにつとめたので、
大正8年、本部員・松村吉太郎より 北 大教会長の後任者に推されたが、
これは辞退した。
本部直属・生野教会の誕生(明治30年~明治37年頃)
この一連の出来事以降、
(生野の) 分離の話が出されるようになり、
(田川寅吉は)
それを目指して 生野 部内教会の内容充実に意を注いだ。その実もあがったので、
(生野の北分教会からの分離独立を) 山中(彦七 北大教会3代)大教会長に 内願。
評議の上、(生野の) 分離手続きを運び、
大正9年(1920) 9月30日には、
本部直属となることの許しを得た。こうして 生野の部内教会は 大いに勇み
改称奉告祭を目指して活動し、
大正10年(1921) 4月13日、
直属改称 奉告祭を執行。大正11年 9月28日、(本部直属) 教会に 昇格した。
教祖40年祭活動(大正12年頃~大正15年頃)
(その後)
丹波市町 田部3番地に 信徒詰所を建築し
教祖40年祭活動に入った。謄写印刷による『部内教報』が創刊されたのも、この頃である。(後『ひとす志』と改名)
こうして、教祖40年祭(大正15年) には、
倍加運動の結果、
分離当時34ヵ所だった (部内)教会は86ヵ所を数え(るまでになり)、
生野からの帰参者は、2,550名に達した。また 樺太、台湾へと布教が延びたのも、この時である。
教祖50年祭活動、田川虎雄2代会長就任の頃(昭和5年頃~昭和11年頃)
昭和5年 9月26日、教祖50年祭、立教100年祭が公示され、
(昭和5年) 10月、初代会長の還暦を祝して『いくのの道』(教会史)を出版。昭和7年 11月1日、田川寅吉は 会長を辞し、
本部青年に登用されていた 田川虎雄が 後任会長となった。
おぢば において、神殿、教祖殿の普請が着々と進む中で
生野も 詰所の増改築を進め、
教祖50年祭(昭和11年) には 生野より 3,888名が帰参した。
大教会への昇格前後(昭和14年頃~昭和19年頃)
昭和14年 4月、田川寅吉は 本部員に登用され
昭和16年 5月5日には、
(生野)大教会昇格奉告祭を 2代真柱の臨席のもとで 盛大に執行、
翌(昭和)17年 10月には 創立50周年記念祭をつとめた。(田川寅吉初代会長は)
昭和19年 7月初旬より 病状がすぐれず、
同年(昭和19年) 7月31日 75歳で出直した。
姫路への移転、移転建築の頃(昭和21年頃~昭和27年頃)
教祖60年祭がつとめられた昭和21年6月、
姫路市より 国鉄・姫路駅 拡張のため、
姫路市豊沢の大教会移転予定地の提供を申し入れられ、これを受諾した。(しかし)
姫路への移転は (田川寅吉)初代会長の念願であったことから、
昭和24年 6月に 姫路市下寺町46番地を買収し、
同年(昭和24年) 7月 移転建築の許可を得て、
戦後資材の乏しい中での 移転建築が始まったのである。翌年(昭和25年) 12月10日、移転建築 落成奉告祭を盛大に執行した。
当時、(生野)部内は 100ヵ所になっていたが、
その喜びの中、初代会長夫人・田川とみが 昭和26年5月 出直した。さらに その翌年(昭和27年) 創立60周年記念祭を執行し、
教祖70年祭に向かって邁進した。この頃より 2代目、3代目の信仰者が次々と育ち 活躍するようになり、
昭和27年 4月創刊の『道順会報』は 青年会の手で編集印刷され、
今日の『生野月報』の基礎を作った。
田川勇3代会長就任~教祖80年祭の頃(昭和32年頃~昭和41年頃)
生野の道の躍動する中、
昭和32年(1957) 1月27日、
2代会長・田川虎雄は 会長を辞任し、
田川勇が 3代会長の許しを得た。
その当時、
大教会の移転建築と詰所大改築工事に加え、
創立60周年記念、教祖70年祭と重荷が重なり、
(田川勇)3代会長は
就任早々 負債解決のため苦労したが、昭和36年 教祖80年祭が打ち出された その翌年(昭和37年)、
たすけ委員長(3代真柱)を迎え
(田川寅吉)初代会長 20年祭 挙行、
別席団参や後継者決起大会への大挙参加…
と だんだん盛り上がりを見せ、教祖80年祭(昭和41年) には
生野(大教会)より 8,200余名が 帰参した。
生野大教会創立80周年の頃(昭和46年頃~昭和47年)
昭和46年 5月 創立80周年を有意義に迎えるため、
まず 鉄筋コンクリート造 3階建の教職舎(道順館)を竣工、
次いで 客殿の建築を行った。更に 翌年(昭和47年) 8月30日、
天地組 7番講 発祥の地である田ノ口に
(田川寅吉)初代会長の筆跡による「元一日」の碑を建立。教祖90年祭の打出しの中、
(昭和47年) 11月18日 創立80周年記念祭を
(3代)真柱夫妻の列席のもとに 盛大につとめ得たのである。〔現住所〕〒670-0935 兵庫県姫路市北条口 5丁目72
〔電話〕079-223-3671(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,37〜40)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
34回目の今回は、
「生野大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】34回目の当記事では
『天理教事典』の中の「生野大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
生野大教会は、北 大教会から分かれた大教会ですね。
北 大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
当記事では
『天理教事典』の中の「生野大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
お恥ずかしい話ですが、私は、
生野大教会に、
何となく “大阪で生まれた大教会なのだろう” というイメージを持っておりました。
勝手に、大阪市「生野区」と関連付けておりました… (^^ゞ
しかし、大阪の生野区ではなくて、
兵庫県 朝来郡の「生野町」で誕生したところから
「生野支教会」と名乗ることとなったわけなのですね。
明治中期に 但馬の国で結成されて、
田川寅吉 初代会長の思いもあり、昭和24年に 播磨の国である 姫路に移転、
そして、現在に至る――
という歴史だった ということ。
お恥ずかしながら、今回の勉強で初めて知りました (#^^#)
それはともかく、
今回もまた、本当に 全く知らないことだらけでした。
今回の勉強を通して、
生野大教会の 田川寅吉 初代会長は、
その信仰道中の 実に多くの期間を、
上級「北 大教会」の節に 深く深く関わられたのだ
ということを知りました。
明治30年の【安堵事件】にて 上級・北 分教会部内で 30余名もの多量の免職者を出した後、
その整理員に選出され、その混乱収拾に奔走。
驚くべきは、
安堵事件による教勢の停滞で負債がかさみ、北 分教会が差し押さえを受ける
という窮迫状態に至った際には、
北分教会の借財を「生野支教会」の 地所建物一切を売却し 負債返済に当てる
という決断にまで至られていた
ということ。
現代的価値観に染まった私などは、こうした記述を読むと、
正直な話、
現代との あまりの価値観の相違に 目が眩む思いが致します。
田川寅吉先生は、なんと、
上級の借財返済のため、自分の財産すべてを売却して それに充てよう となされた!
おやさまが「貧に落ち切れ」との御神言のままに財産を施し尽くされた
その「ひながた」の実践、という思いであられたのでしょうか。
この貴い信仰実践は、もちろん
田川寅吉先生の 稀有な 個人的資質に基づいたものであることは言うまでもありませんが、
それに加えて、
こうした「我が身どうなっても」という
周りから見ると信じられない程 激しい実践を後押しするだけのパワーを
当時のお道が秘めていたことを示す史実の一つ
と 考えていいのかもしれませんね。
更に 私が驚いたのは、
茨木基敬 北分教会長が この田川寅吉先生の決心を喜び、
生野支教会へ出張して 教会財産売却の方法を協議していたところ、
突然 激しい腹痛に苦しみ出したという史実。
茨木基敬 北分教会長は、
これを
“「生野支教会所」売却を中止せよ” との神意である と悟り、
その計画を白紙に戻し、一同で お詫びのお願いをしたところ
腹痛は全快した――
『天理教事典』には そのように書かれてありました。
こうした史実に対する受けとめ方は、
人 様々だと思います。
親の苦難を救うため「自分のすべてを捧げる」という行為、
それは、当時のお道の価値観として とてつもなく尊い行為だと受けとめられていたけれど、
実は、それは 神意に添うものではなかったのだ――
という悟りを導き出される方もおられるかもしれません。
いやいや、これは【安堵事件】という事件の「個別性」に基づくもので、決して一般化は出来ない、
この事件によっても、
親の苦難を救うために「自分のすべてを捧げる」という行為の尊さが揺るぐことはない――
と 思案される方もおられるかもしれません。
逃げるようですが、正直、私には分かりません。
いずれにしても、
田川寅吉先生の、親の困難を何とか解決しよう と奔走された苦難の歩みは、
たすけて頂いたことのご恩に報いたいという「誠真実」から湧き上がっていることは間違いなく、
その「誠真実」は “この上なく かけがえのない尊いものだ” ということだけは間違いない、
そのように 私は思います。
田川寅吉先生の、上級・北 大教会への伏せ込みはそれにとどまりません。
明治30年の「安堵事件」を何とか乗り越え、明治42年には支教会から分教会に昇格し、
順調に教勢も拡大していたところ、
明治44年頃から、上級の茨木基敬 北 大教会長に 神がかりが見られるようになった。
後に 教内で【茨木事件】と呼ばれる大節が 北 大教会で発生。
様々な混乱を巻き起こし、
ついに 大正7年 1月17日、茨木父子が懲戒免職に。
田川寅吉先生は、このような上級教会の大ぶしの中、
夫婦で北大教会へ常詰し、ご本部から派遣された山中彦七先生と共に
誠心誠意 復興につとめられた。
苦難のやり取りを経て、上級・北大教会の混乱は治まり、また 新たな歩みを始められたわけですが、
田川寅吉先生の このような誠真実の姿を見て、
松村吉太郎 本部員は、北 大教会の後任会長に推薦する程だった――
この話は、田川寅吉先生が辞退されて実現しなかったようですが、
こうした史実は、
田川寅吉先生が我が身を捨てて上級へ尽くす「誠真実」の姿、
それは、
ご本部の首脳である松村吉太郎先生を含め
教内の皆の心を打つものだったということを表しているのではないか、
私は そう感じました。
田川寅吉初代会長がそこまでして 尽くし運んだ理が
今の「生野大教会」の隆盛を支える 大きな台となっているのでありましょう。
決して揺るぐことのない、大きな大きな台だと思います。
その他のことも含め、
今回もまた、知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「生野大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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