天理教 各教会の歴史探索(第123回)【北洋大教会】『天理教事典』より

「北洋大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号122番「東神田大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号123番「北洋大教会」について勉強します。

  1. 北洋大教会(ほくよう だいきょうかい)
    1. 近藤徳蔵(北洋初代会長)と 義弟・近藤嘉七(名古屋初代会長)
    2. 斯道会 第894号講 集談所の開設(明治27年)
    3. 近藤徳蔵ら北洋初期中心人物の初おぢばがえり、教導職試補 就任(明治27年)
    4. 北洋の道の広がり(明治20年代後半)
    5. 参拝者の増加 ~ 教会の移転(明治27年~明治28年)
    6. 教勢の拡大 ~ 反対運動の激化(明治28年頃)
    7. 北洋出張所の開設(明治28年)
    8. 相次ぐ部内出張所の開設(明治29年頃~明治33年頃)
    9. 北洋支教会へ昇格(明治36年)
    10. 更なる部内布教所の開設(明治39年頃)
    11. 北洋分教会へ改称(明治42年)
    12. 益々の教勢拡大(明治45年頃~大正6年頃)
    13.  経済的困窮の深刻化 ~ 北洋部内教会の大整理(明治末期~大正11年)
    14. 近藤徳蔵 初代会長の辞任 〜 出直し(大正11年〜昭和2年)
    15. 近藤新八2代会長の就任 〜 教祖40年祭に750名の大型団参(大正12年〜大正15年)
    16. 教祖50年祭へ向け、更なる教勢拡大の歩み(昭和5年~昭和6年頃)
    17. 近藤新八2代会長の出直し、近藤ミキの3代会長就任(昭和8年)
    18. 近藤ミキ3代会長時代(昭和8年~昭和21年)
    19. 近藤栄太郎の4代会長就任(昭和21年)
    20. 北洋大教会へ陞級(昭和23年)
    21. 近藤栄太郎4代会長の出直し ~ 鶴巻 至の5代会長就任(昭和23年~昭和24年)
    22. 詰所ふしん(昭和27年~昭和29年)
    23. 鶴巻 至5代会長の辞任、近藤義雄の6代会長就任(昭和33年)
    24. 数々のふしん、教勢の拡大(昭和中期)
  2. おわりに
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北洋大教会(ほくよう だいきょうかい)

北洋大教会ストリートビューより①.jpg
Googleストリートビュー より

近藤徳蔵(北洋初代会長)と 義弟・近藤嘉七(名古屋初代会長)

北洋(大教会) 初代会長・近藤徳蔵は、
安政2年(1855) 5月10日、
新潟県西蒲原郡 中野興屋村大字笠木の 農家・近藤栄吉の次男として生まれた。

(近藤徳蔵は) 成人して大工になり、
その後、新潟市古町通13番町の髪結業・近藤もよの養女・とか と結婚し、婿養子となった。
(その後、近藤徳蔵は、大工として弟子も使いながら、安定的な地位を築いた。) 

明治25年5月頃、
その新潟の (近藤)徳蔵宅を、
妻・とか の弟・近藤嘉七 (名古屋大教会 初代会長) が、名古屋より訪ねてきた。

(名古屋から遠路はるばる新潟までやってきた近藤嘉七は) 天理教布教のため、
(近藤徳蔵に向かって天理教の) 教理を (熱心に)説いた。

(近藤)嘉七は かつて 大工・(近藤)徳蔵の弟子であったが、
明治22年より 名古屋に出て 大工をしていた。

しかし、明治24年5月、妻の病気から入信し、
名古屋市七面町に「集談所」を設け 布教に専心していた(のだった)。

斯道会 第894号講 集談所の開設(明治27年)

(近藤)徳蔵にとって (近藤)嘉七は 縁の深い人 (=妻の弟) でもあり、
また、丁度(その時)、妻・とか の 高熱を伴う原因不明の病気をたすけられ(るという姿を見せられたりもし)た。
そのようなことから、(近藤徳蔵は 天理教に) 入信(した)。

(そして) 明治27年2月、
(近藤徳蔵は) 同市(新潟市) 本町通13番町 関口小路に、
斯道会第894号講の「集談所」を開設して 布教する決心をしたのだった。

近藤徳蔵ら北洋初期中心人物の初おぢばがえり、教導職試補 就任(明治27年)

(斯道会第894号講) 集談所を開設して間もなく、
(近藤徳蔵は) 谷 甚四郎・山崎太七と共に、初めて (天理教教会)本部 (おぢば) へ参拝。

その後しばらく、名古屋の (近藤)嘉七宅に滞在して 教理の仕込みを受け、
同年(明治27年) 4月25日、(近藤)徳蔵・谷(甚四郎) の二人は、教導職試補となったのである。

北洋の道の広がり(明治20年代後半)

新潟に帰った (近藤徳蔵・谷 甚四郎の) 二人に加えて、
集まった信者は 燃えるが如き信仰に奮起し、布教に奔走した。
かくて、(新潟)市内はもとより、対岸の沼垂を始め 県内各地から 山形県方面へも伝播するに至った。

同年(明治27年) 3月、
馬場トネの布教によって、
星野熊蔵・石井友吉・平石平三郎・野崎三吉・小山治作・加藤記四郎・高橋平太郎・北上末蔵・宗村栄吉・上田ヨキ
等が入信した。

次に、
石井友吉・星野熊蔵・加藤記四郎らは、
(新潟県) 東蒲原郡砂取方面に行き、3日3晩で、32戸ある村の 3戸を除く 全戸を入信させたという。

星野熊蔵・平石平三郎らは、
(新潟県) 水原町 安田村方面に布教した。
水原では、1日に 5~60人もの人々が、おたすけを受けに集まったという。

平石(平三郎) は、
また (新潟県) 栃尾方面にも布教して 多くの信者を得たが、教導職を受けていないために警察の迫害を受け、(新潟県) 魚沼方面で布教することとなった。

星野熊蔵は、
(新潟県) 南蒲原郡山王方面にも 布教した。

一方、
新井郷・土地亀・葛塚方面へ教線がついていった中で、
本間喜四郎・原吉五郎・和田源太郎・島垣啓次郎・星野六松・鶴巻吉三郎・藤田長次郎・佐藤清作 …
等の人々が入信した。

(新潟県を越えて) 山形県への布教は、
当時、(近藤)徳蔵の養母・もよ の弟・与七が (山形県) 米沢で 鍛冶職をしているのを頼って、もよ が 布教に行ったのが始まりである。
その後、(近藤)徳蔵も、半年程 (米沢に) 滞在して布教したという。

参拝者の増加 ~ 教会の移転(明治27年~明治28年)

こうして、明治27年暮頃より信仰する人々が各方面に続出、布教線は拡大されていった。
しかし、(信者が増え参拝者が増加するのと) 同時に、(新潟市の) 関口小路の集談所も、狭隘となってきた。

そのため、明治28年6月15日、
同市(新潟市) 西港町通一の町第2691番地の、元・新潟米穀取引所の敷地 及び 建物を買収し、移転することとなった。

教勢の拡大 ~ 反対運動の激化(明治28年頃)

こうした中にも 教勢は更に伸び、
新発田・中条・岩船など 下越地方にも伝わり、
また、中越・魚沼など (新潟)県内各地に伸展していった。

(そのように北洋の教勢は どんどん拡大していった)のであるが、
必ずしも 各地で快く受け入れられたわけではなかった。

明治28年6月、
(新潟県) 水原町において、医師・僧侶・地主らが一体となって 天理教撲滅運動を起こし、大講演会を開いた。

こうした反対運動に対して、(天理教の)信者(の方)は、近藤徳蔵・石井友吉・鶴巻吉三郎らの人々を招いて、講演会を催したのである。

ここへ、次々と反対者がおしかけ大混乱となったが、
この事件は、多方面へ大きな波紋を投げかけた。

北洋出張所の開設(明治28年)

名古屋をほとんど留守にして (新潟方面で) 北洋の布教を援助していた近藤嘉七であったが、
明治28年10月27日、
(名古屋市において結成された) 河原町分教会 湖東支教会「名古屋出張所」の許しを (天理教教会本部より) 得た。

これに続いて、明治28年10月23日、
(新潟市において結成された) 河原町分教会 湖東支教会「北洋出張所」設置の許しも得るに至った。

相次ぐ部内出張所の開設(明治29年頃~明治33年頃)

また、明治 29年12月7日付をもって、
中条・栃尾・村上・東置賜・高畑・北蒲原・水原・西置賜・置賜・永居・新発田・小国・中蒲原・岩船、
以上の 14ヵ所の出張所設置の許しを (天理教教会本部より) 得た。

また、明治31年11月11日、
新潟県知事より認可を得た (北洋)部内は、
一層 布教の上に勇み立ち、教線は次第に伸びていった。

明治31年12月12日付で
北南・南蒲原・松川・南越・左沢・天童・最上・東越・尾花沢・寒河江・村山・坂下、
以上の 12ヵ所の出張所設置の許しを (天理教教会本部より) 得た。

続く 明治33年11月20日・21日には、
北塩・今町・北中津川・中浜・越谷・見附・若会・荘内・由利、
以上の 10ヵ所の出張所設置の許しを (天理教教会本部より) 得たのだった。

北洋支教会へ昇格(明治36年)

こうした教勢の伸展に伴い、
明治36年2月、
支教会に昇格しては(どうか) との (上級) 湖東(分教会) からの言葉を受け、
明治36年3月1日、
(天理教教会本部より) その許しを得るに至った。
(=北洋出張所から支教会へ昇格)

更なる部内布教所の開設(明治39年頃)

支教会へ昇格を許された (北洋)部内は、一段と成人の実を挙げ、
その後、明治39年には、
北国・浦佐・越郷・宮野・真坂・高清水 …
以上の 6ヵ所の 布教所設置をみた。

北洋分教会へ改称(明治42年)

明治41年11月27日、天理教は一派独立。
これに伴って 天理教の教規規程が定められ 新制度が実施され、
明治42年2月8日、北洋(支教会)も、分教会と改称した。

また、同年(明治42年) 3月27日、お目標めどう(を) 拝戴し、
同年(明治42年) 4月6日(には)、(天理教教会本部より) おつとめの際に 記章・紋服着用 並びに 鳴物 9点を使用することについての許しをも得た。

益々の教勢拡大(明治45年頃~大正6年頃)

その後、明治45年から大正6年(1917) にかけ、
藻岩・三条・稲荷岡・根室・浦臼・南江、
以上の 6ヵ所の宣教所が設置された。

 経済的困窮の深刻化 ~ 北洋部内教会の大整理(明治末期~大正11年)

こうして 北洋(分教会)は、当初より 旭日昇天の勢いで伸びてきた(わけだ)が、
(その一方で) 支教会昇格の頃 (=明治36年頃) より、
(だんだんと) 経済的に 困難が生じ始めていた。

部内教会に巡教を重ねても実績が上がらず、
(北洋分教会の経済的困窮は、抜き差しならぬ状況にまで追い詰められた。)

(そして) ついには、大正11年1月、
従来(は) 北洋の部内教会であった各教会の「大整理」が行われ(るに至った。)

(それまで 北洋分教会部内は 48ヵ所あったが、大整理によって)
湖東大教会 所属として 17ヵ所の支教会・宣教所、
また、名古屋分教会所属として 18ヵ所の支教会・宣教所が、
(それぞれ) 北洋から分離されることとなった。

そして、(大整理の結果) 北洋分教会(の) 所属は、
北蒲原支教会・由利支教会・岩船支教会・中蒲原支教会・水原宣教所・荘内宣教所・稲荷岡宣教所・北塩宣教所・北中宣教所・中浜宣教所・藻岩宣教所・坂下宣教所・北南宣教所、
以上の 13ヵ所(のみ) となった。

この大整理の後、
北洋(分教会)は、名古屋分教会所属から 湖東大教会直轄となった。

近藤徳蔵 初代会長の辞任 〜 出直し(大正11年〜昭和2年)

(北洋部内教会の大整理が行われた後の) 大正11年11月20日、
初代会長・近藤徳蔵は、
その職を養嗣子・新八に譲り、湖東大教会 准役員となった。

(近藤徳蔵 初代会長は、
会長辞任後は) 詰所において別科生の仕込みに尽くした。

その後、(近藤)徳蔵 (初代会長) は、
大正13年7月、湖東大教会役員に就任し、
昭和2年(1927) 9月6日、72歳で出直した。

近藤新八2代会長の就任 〜 教祖40年祭に750名の大型団参(大正12年〜大正15年)

(北洋)部内教会の大整理があった折、
(天理)教内は 、(大正15年に執行される) 教祖40年祭を目指して、教勢倍加運動に勇んでいた。

大正12年4月30日、
近藤新八 (明治5年5月8日生) が、
2代会長に就任の許しを (天理教教会本部より) 得た。

(近藤新八2代会長は、教祖40年祭に向かって)
部内一同(と共に) 教勢の倍加(という天理教教会本部からの打ち出し)に (足並みを揃え)、一手一つの心で、日夜布教に奔走した。

その結果、
(大正15年の) 教祖40年祭までに、新たに、
北八幡・磐湖・沼垂・下越・大毎・亀田・矢島町・本条・仁賀保・東滝沢・亀田町・岩城・余目・飯盛山・本大崎・鼓岡・加茂町、
以上の 17ヵ所の宣教所が 設置された。

こうして、勇んだ (北洋) 部内教会は、教祖40年祭に 750名の (大規模) 団参を実現した。
(北洋大)教会の正門 及び 石塀は、この記念に建造されたものである。

教祖50年祭へ向け、更なる教勢拡大の歩み(昭和5年~昭和6年頃)

昭和5年10月、(天理教教会)本部より、
来たるべき教祖50年祭 (昭和11年執行) 並びに 立教百年祭 (昭和12年執行) の打出しがあり、神殿 及び 教祖殿建築が発表された。

人類更生が叫ばれたこの旬に、(北洋分教会では)
昭和6年2月(に) 500名の別席団参を組織するなど(して 年祭活動に全力で取り組み)、教勢を 徐々に挽回していった。

近藤新八2代会長の出直し、近藤ミキの3代会長就任(昭和8年)

この(ような北洋一同が一丸となって教勢回復に励む)中、
昭和8年1月20日、
(近藤新八)2代会長は、62歳をもって出直した。

(近藤新八)2代会長の出直により、
昭和8年4月28日、
同夫人・近藤ミキ (明治12年1月2日生) が3会長就任の許しを得た。

近藤ミキ3代会長時代(昭和8年~昭和21年)

(近藤ミキ)3代会長は、専心して教会の勤めと上級への運びに尽力し、部内教会にその範を示すことに努めた。

その中から、
昭和9年より昭和15年にかけて、
向中・稲生・利居・北築地・西目・南日・枝・八ヶ谷・高田城・金塚・鴻沼・弥彦岡・新日和山・大上・羽前、
以上の 14ヵ所の宣教所の設置をみた。

(近藤ミキ)3代会長は、
昭和21年1月28日、68歳で 出直した。

近藤栄太郎の4代会長就任(昭和21年)

(近藤ミキ)3代会長の出直しを受けて、
昭和21年4月23日、
(近藤ミキ)3代会長の孫に当たる 近藤栄太郎 (大正11年2月6日生) が、4代会長に就任した。

北洋大教会へ陞級(昭和23年)

同年(昭和21年) 夏、(北洋分教会は)
(上級の) 湖東大教会より、北洋の一層の成人を促す上から「大教会に陞級を」との言葉を受けた。

当時(の北洋分教会は)、
同年(昭和21年) 2月17日に設置された行安分教会を含めて 部内(教会数) 45ヵ所で、(教規の上で大教会へ陞級するのに必要な教会数に届いていなかったが、北洋)一同(は) この声に勇み立った。

(大教会陞級を勧める親の声に応えるべく全力を注ぎ)
(昭和)21年より23年にかけて、
佐々木・利秋・沢根・越後安田・新日ノ出、
以上 5ヵ所の分教会の新設を果たした。

(そして) 昭和23年2月28日、
(見事に) 大教会陞級の許しを (天理教教会本部より) 得た。

同年(昭和23年) 11月10日、
(大教会) 陞級奉告祭が 盛大に執行された。

近藤栄太郎4代会長の出直し ~ 鶴巻 至の5代会長就任(昭和23年~昭和24年)

(盛大に大教会陞級奉告祭をつとめ終えた) 翌(月の) 12月1日、
以前より病に臥していた (近藤栄太郎)4代会長が、
27歳を一期として出直した。

(近藤栄太郎4代会長の出直しを受けて)
昭和24年6月26日、
北蒲原分教会長であった 鶴巻 至 (明治24年3月16日生) が、5代会長に就任した。

詰所ふしん(昭和27年~昭和29年)

(北洋が) 大教会(へ) 陞級(したの)に伴って、詰所建築の運びとなった。
(詰所建築にあたっては、上級の) 湖東大教会より、同(湖東)詰所(の) 敷地を分譲してもらった。

昭和27年5月26日、奈良県山辺郡二階堂字指柳409番地に詰所新設の許しを (天理教教会本部より) 得て、
昭和29年秋、(無事に 詰所)普譜は すべて完了した。

また、詰所普請と相前後して、
洋月・磐梯山・ 雄物川・陽栄・水泉、
以上の 5ヵ所の教会が新設された。

鶴巻 至5代会長の辞任、近藤義雄の6代会長就任(昭和33年)

昭和33年11月26日、鶴巻 至(5代会長) が会長を辞し、
同日 (昭和33年11月26日)、
近藤義雄 (大正13年12月22日生) が6代会長に就任した。

鶴巻 至 (5代会長) は、
昭和40年1月26日、73歳で出直した。

数々のふしん、教勢の拡大(昭和中期)

(近藤義雄6代会長就任後)
昭和39年3月、大教会の事務所・信者室の増築、
(昭和)41年11月、神殿 修築、
(昭和)43年2月会長宅 増築、
(昭和)46年4月、教職舎 完成、
昭和46年、詰所会長宅 完成…
と(いう具合に) 次々と 普譜がなされた。

また、おぢばや (北洋)大教会における 大教会主催の講習会などが重ねられ (成人を促す取り組みが積極的に行われ)た。
そして、
北浜伸・北芝・洋光・南北洋・北船洋・洋明・北岩原・洋旭 …
等、次々に 新しい教会が設立された。

〔現住所〕〒950-0923 新潟県新潟市中央区姥ヶ山2丁目13ー16 
〔電話〕 025-286-1658

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,759〜761)

おわりに

北洋大教会ストリートビューより③.jpg
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第回123目の今回は、
「北洋大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

北洋大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 北洋大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとしてそのまま書写します。

北洋は、大工棟梁・近藤徳蔵が明治二十六年に入信してからである。

妻・とか が高熱にうなされた時、もと徳蔵の弟子で 名古屋から布教に来ていた近藤嘉七 (名古屋初代) にたすけられ、道の理を聞き分けた。
翌年、新潟市の関口小路に集談所を開設した。

星野熊蔵らの働きによって東蒲原郡では、三日三晩のうちに三十二戸ある村の三戸を除く全戸を入信させた。
水原では一日に五、六十人の身上者が集まったという。
岡方村の 鶴巻三郎は、徳蔵から世の立て替えという話を聞き、即刻 入信した。

秘密訓令後、教費金も集まらず、借財がかさんだ。
湖東では 打開策として、北洋部内教会の大整理をした。
北洋四十八ヵ所を、湖東・名古屋・北洋で分轄、
北洋を 名古屋部属から離し、湖東直轄とした。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,106〜107)
北洋大教会GoogleMapより②
GoogleMapより

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】123回目の当記事では『天理教事典』の中の「北洋大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

『天理教教会所在地録』の教会系統図によると、北洋大教会は、湖東大教会から分かれた大教会となっています。

上図の如く、北洋大教会は『天理教教会所在地録』の教会系統図では 湖東大教会から分かれたようになっていますが、
今回の勉強でわかったのは、もともとは名古屋大教会の部内で、名古屋大教会と深い関係のある教会だ、ということでした。

名古屋大教会は 湖東大教会から分かれた大教会で、
湖東大教会は 河原町大教会から分かれた大教会。
すなわち、北洋大教会は「斯道会」の流れを汲む大教会ということですね。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

河原町大教会・湖東大教会・名古屋大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

北洋大教会ストリートビューより④.jpg
Googleストリートビュー より

今回の勉強の中で、私にとって特に印象深かったのは、
北洋はもともとは名古屋の部内で、
もともと名古屋の部内だった北洋が 湖東の直轄へと組織改編が行われた、
というあたりの経緯でした。

『天理教事典』1977年版によると、
明治36年に出張所から支教会へ昇格して以降 少しずつ経済的な困難が生じ始め、
それが徐々に拡大し、ついには抜き差しならない程にまで至り、
大正11年1月に 北洋部内の「大整理」が行われた、とのこと。

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) には、内務省秘密訓令によって教費金が集まらなくなり 借財がかさんだ、と書いてありました。

それで、それまで48ヵ所あった北洋分教会の部内教会を、湖東・名古屋・北洋で 3分割(!) して振り分け、その後に北洋は名古屋部内から湖東直轄に変更となった、とのこと。

『天理教事典』1977年版によれば、
北洋 48ヵ所 → 湖東・名古屋・北洋、3ヵ所へ振り分け配分は以下の通り。
・湖東大教会へ 17ヵ所(35%)
・名古屋分教会へ 18か所(38%)
・北洋分教会へ 13ヵ所(27%)

すなわち、北洋分教会は、
「大正の教会大整理」によって、部内教会数がそれまでの3割以下になった、
ということなのですね。

7割以上の部内教会が上級預かりみたいな形になって、自らの部内教会は、それまでの3割以下になった‼ (゚ロ゚;)

かつて、そんなものすごい組織改編が行われた歴史があったとは…
知りませんでした。

『道〜天理教伝道史をあるく』に、内務省秘密訓令によって教費金が集まらなくなり借財がかさんだと書いてありましたが、これは、内務省秘密訓令というものが如何に苛烈なものであったかということを示してもいる、と言ってよいのかもしれません。

それにしても、今のガチガチな組織形態(に見える) 天理教しか知らない者にとって、かつて これほど ドラスチックな組織改編が行われていた という歴史は、ちょっと衝撃的です。

このような史実に触れると、
天理教末端教会の維持継続が不安視される「現代」においても、
大正時代に 北洋分教会を中心に行われた教会の「大整理」の如く、
「令和の教会大整理」みたいな【組織改編】ということについて検討されてもよいのでは?…等と、つい思ったりしました。(^^ゞ

北洋大教会GoogleMapより⑤jpg.jpg
GoogleMapより

また、以上の史実は、
現在は 湖東部内・名古屋部内の教会だけれども、もともとは 北洋の部内だったという教会が 35ヵ所もある ということを示してもいるわけで…

それらの教会は(改編当時に大いに混乱したとは思いますが)どこの部内であるかという事とは関係なく、今も 天理教信仰の拠点としてそれぞれ活躍しておられるわけです。

今回の書写学習を通してそうした歴史・経緯を知って、
私の頭の中に「どこが上級でどこの部内であるかといった今の組織上の形態というものについては、もっと柔軟にユルく考えてもいいのではないかなぁ…」という考えが、沸々と 湧いてくるのでありました。

…細かい事情も知らず、分もわきまず、ちょっと書きすぎたようです。
このあたりで止めておきましょう (^^;) 

北洋大教会GoogleMapより③
GoogleMapより

今回は 「北洋大教会」について勉強したわけですが、勉強してみて、
「名古屋―北洋」の関係は、
前々回(121回)「京城大教会」を勉強した際に知った「本島―京城」の関係に似ているなぁと感じました。

前々回(121回)「京城大教会」書写学習の際に、
京城大教会の大熊こま子初代会長夫人と本島大教会の片山好造初代会長は、姉と弟の肉親で、
本島大教会の創設と京城大教会の創設は一続きのような経緯で、文字通りの「兄弟教会」である、ということを学びました。

で、今回の「北洋大教会」の場合。
北洋大教会の 近藤徳蔵 初代会長と 名古屋大教会の 近藤嘉七 初代会長は、義理の兄弟という親戚関係で、
名古屋大教会の創設と北洋大教会の創設は、(本島と京城ほどの深い関連性ではないものの) 共通の人物が大きく関与しているという点で「兄弟教会」的だとも言える、ということを知ったわけです。

名古屋大教会と北洋大教会の 教会設立年月日は、以下の通りです。

【名古屋大教会】=教会番号97番
教会設立年月日:明治28年10月17日(『天理教教会所在地録』より)
本部直属になった日:昭和16年3月31日 (『天理教事典』1977年版より)

【北洋大教会】=教会番号123番
教会設立年月日:明治28年10月23日(『天理教教会所在地録』より)
本部直属になった日:昭和23年11月10日 (『天理教事典』1977年版より)

本部直属、大教会になったのは、
【名古屋大教会】=昭和16年
【北洋大教会】=昭和23年
と 7年の開きがありますが、
設立年月日は、
【名古屋大教会】=明治28年10月17日
【北洋大教会】=明治28年10月23日
と ほぼ同時期。

ほぼ同時期に創設されたという点、及び、近藤嘉七先生がどちらの創立にも深く関わっているという点で、両者は「兄弟」のような 深い関係のある教会だと言って差し支えない と思われます。

「血縁者による 遠隔地 同時布教 → 別個 教会創設」というパターン。
「本島―京城」は 間違いなくそうですし、
今回の勉強によって「名古屋―北洋」も 似たような関係性だと知りました。
私が「名古屋―北洋」が「本島―京城」の関係に似ていると感じた所以ゆえんであります。

だから何?という情報だと言われれば 確かにその通りではありますが、
この【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】も 回数を重ねるにつれて、それまで 全くバラバラにしか見えていなかった それぞれの大教会同士のつながりについての知識が だんだんと増えてきました。
それにより、それぞれの大教会が独立して存在しているのではなく、互いに 様々な影響を与え合いながら歩んできた歴史が見えてきて、とても 興味深く感じています。

北洋大教会GoogleMapより④jpg.jpg
GoogleMapより

その他にも、
明治27年に近藤徳蔵先生を初代所長として 新潟に「集談所」を開設して 日もまだ浅い頃、
医師・僧侶・地主らが一体となって 天理教撲滅運動を起こし 大講演会を開いたのに対抗して、天理教側でも 講演会を催し、ここへ 次々と反対者がおしかけ大混乱となり、この事件が 多方面へ大きな波紋を投げかけた、という話。

また、
大正11年の北洋部内教会の大整理の後、新たに就任した近藤新八2代会長を中心に北洋一同が力を合わせて教祖40年祭活動に打ち込み、教祖40年祭には750名もの大規模団参を実現した、という話。

あるいは、
昭和23年に大教会へ昇格した翌月に 近藤栄太郎4代会長が 27歳の若さで出直す という大きな節に遭遇しながらも、部内の鶴巻至・北蒲原分教会長が5代会長に就任し、終戦後の混乱を乗り越え、昭和27年から詰所ふしんに取り掛かり 昭和29年には無事詰所ふしんを完成させた、という話。

どれもこれも、
全く知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも教会の歴史を知った上で、今の「北洋大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

北洋大教会ストリートビューより②.jpg
Googleストリートビューより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「北洋大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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