Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
天理教の教祖百四十年祭に向けて、
今一度、基本教理を見つめ直す機会を持ちたいとの思いから始めた
「八つのほこり」自己学習シリーズ。
今回は 8回目。
残りわずか。終盤戦です !(^^)!
この「八つのほこり」学習シリーズは、
『基本教理を身につけよう』という本の後半に書かれた
上田嘉太郎先生による「八つのほこり」解説を書き写して、
お道(天理教)の基本教理である「八つのほこり」についての学びを
多少なりとも深めることを目指しています。
「八つのほこり」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。
この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。
すなわち、このシリーズは
「八つのほこり」という天理教の教えの基本、
それを 多少なりとも腹におさめることを目指し、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた
「八つのほこり」解説を書き写し、それをじっくり味わう
という【自己学習】の足跡であります。
前回は「八つのほこり」の中の
【はらだち】という心遣い
の解説部分を書写しました。
今回は、
【よく】というほこりの解説部分を書写します。
上田嘉太郎先生「八つのほこり」解説 No,8
八つのほこり
上田嘉太郎先生の解説文を書写する前に、
まずは、「八つのほこり」全文を 掲げておきます。
- 一に をしい とは、
心の働き、身の働きを惜しみ、
租税や納め物を出し惜しみ、
世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、
借りたる物を返すを惜しみ、
嫌なことは人にさせて 自分は楽をしたいという心。
すべて 天理に適わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いは
ほこりであります。 - 二に ほしい とは、
心も尽くさず、身も働かずして 金銭を欲しがり、
分を忘れて 良きものを着たがり、良きものを食べたがり、
また、何によらず、
あるが上にも欲しがる心は ほこり。
何事も たんのうの心を治めるのが 肝心であります。 - 三に にくい とは、
自分のためを思うて言うてくれる人を、
かえって悪く思うて その人を憎み、
また、嫁姑など 身内同士の憎み合い、
さらには 人の陰口を言うて 譏り、笑い、
その場で出来た罪を憎まず、
人を憎むなどは ほこりであります。 - 四に かわい とは、
わが身さえよければ 人はどうでもよい、
わが子の愛に引かされ、
食べ物、着物の好き嫌いを言わし、
仕込むべきことも仕込まず、
悪しきことも意見せずして、
気ままにさせておくのは よろしくありません。
また、わが身を思うて 人を悪く言うのも ほこりであります。
わが身 わが子が 可愛いければ、
人の身、人の子も 可愛いがらねばなりません。 - 五に うらみ とは、
わが顔つぶれたとて 人を恨み、
わが望みを妨げたとて 人を恨み、
誰がどう言うたとて 人を恨み、意趣にもち、
銘々 知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして
人を恨むのは ほこりであります。
みかぐらうたに
「なんぎするのも こゝろから わがみうらみで あるほどに」
とありますから、
人を恨まず 自分の身を恨むがよろしい。 - 六に はらだち とは、
腹の立つのは 気ままからであります。
心が澄まぬからであります。
人が悪いことを言うたとて 腹を立て、
誰がどうしたとて 腹を立て、
おのが理を立て、
人の理が入らんから 腹が立つのであります。
これからは 腹を立てず、
理を立てるようにするがよろしい。
短気、癇癪は わが身の徳を落とし、
わが身の命を損なうことがあります。 - 七に よく とは、
人より多く身につけたい、
何が何でも 取れるだけ取りたい、
また、
一獲千金や 不当な儲けを得よう とする心。
人の目を盗んで 数量をごまかし、
人を欺して 利をかすめ、人の物を盗み、取り込み、
何によらず 人の物をただ わが身につけるのは 強欲。
また 色情に溺れるのは 色欲であります。 - 八に こうまん とは、
力も無いのに 自惚れ、高ぶり、
富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、
己れは偉い、己れは賢いと思うて人を侮り、
人の欠点を探す、
また、知らぬことを知りた顔して通す、
これが こうまんのほこりであります。
「八つのほこり」~【よく】上田嘉太郎先生 解説
それでは、
以下、上田嘉太郎先生の解説文を 書写していきます。
「よく」とは
よく とは、
人より多く 身につけたい、
何が何でも 取れるだけ取りたい、
また、
一攫千金や 不当な儲けを得よう という心。人の目を盗んで数量をごまかし、
人を欺して 利をかすめ、
人の物を盗み、取り込み、
何によらず 人の物を ただわが身につけるのは 強欲。また、色情に溺れるのは 色欲であります。
「よく」のほこりの特徴
「よく」と「ほしい」との違いを強調するためでしょうか、
ちょっと どぎつい内容が 並んでいます。まさに 貪欲、強欲です。
両者の基本的な相違は、
ほしい が 感情的なものであるのに対し、
よく は より意志的だ
ということでしょうか。
人より多く 身につけたい
よく の説き分けの前半部分は『信者の栞』を参考にしたものです。
貧しい境遇にあれば、
せめて人並みになりたい と切実に願うことでしょう。しかし、人並みと見える人が、
その状態に満足する、喜ぶ
ということは 案外 少ないのではないでしょうか。周囲と見比べて、
ひがんでみたり、優越感を持ったり
と なかなか穏やかならざるものがあるようです。もっとも、
持てる人は持てる人で 一層競い合う向きがあるようですから
とどまることはありません。結局、どこまでも 人より多く身につけたい
という欲求から解放されることはありません。
まさに、欲にきりない泥水です。ところで、そもそも 人並みとは 何でしょう。
人並み以上、以下などと、
よほど隔たりのあるようなことを言っていますが、
火、水、風をはじめ、
身の内のぬくみ、水気、息一筋の御守護を頂いて、
人として生かされ、生きていることの有り難さに比べれば、
取るに足りない相違に過ぎません。風雨をしのぐ住居と、飢えないだけの食べ物がありさえすれば、
あとは 幸、不幸は
多分に 銘々の心の問題だと思います。まずは、
親神様の絶大なる御守護、お恵みを喜び、
感謝することが肝心です。ただし、
飽食日本に暮らすお互いは なおさら、
世界には 多くの飢餓線上に喘ぐ人々のあることを
忘れてはなりません。
取れるだけ取りたい
何かを分けようという時、
少しでも多く、いい物を取りたい
と思いがちなものです。しかし、立場を変えて見れば、
実に厚かましい、
あさましい心根と映ります。遺産の配分などでは、
まかり間違うと 骨肉の争いとなります。また、
品物を買いたたく、
あるいは 弱味につけ込んで高く売りつける といったことも、
相手のことを思わない、
たとえ 違法でないにせよ、
天理には適わない行為 と言わざるを得ません。賭け事や投機的な取引なども 間違いの元です。
とどのつまり 身を滅ぼすのが常であります。たとえ あぶく銭を手にしても、
身につくものではありません。
浪費の味を覚え、地道に働く気持ちを失うだけです。結局、自身だけでなく、
周囲にも 大きな迷惑をかけることになります。不正をしてまで儲けよう というのは論外ですが、
ぬれ手に泡の 浮利、暴利を目論むのは
大欲であります。
人の目を盗んで 数量をごまかし
これは別席のお話では
「枡目、秤目、尺目をかすめ」
となっているのですが、
ちょっと言いまわしが古くて 若い人には分かりにくいということもあって
「数量をごまかし」
としました。ある部内の教会長の話ですが、
その教会の初代は婦人で、初めは米屋さんをしていたそうです。
米屋に嫁いだその奥さん(初代会長)は 熱心なお道の信仰者でした。ところが、
その店では 米を枡で計り売りする時に、枡の端に 親指を入れて計る。
そうすると その分だけ減るわけです。そして 軽くサッとすくって棒でパッとならす。
いつもこれをやっていると、
毎日のことですから、ずいぶん 量的に差が出てきます。その奥さんは信仰もあり、正直者ですから、
指を突っ込むようなことはせず、
それどころか 揺すって、
それこそ 枡にいっぱい入れて 売っておられたそうです。こんな嫁もろたら 商売やっていけん、
ということで米屋をやめた、
という話を聞かせてくれました。これなどは「数量をごまかし」の、
それこそ枡目をごまかす話です。
そういうことを、
さして悪いと思わず 当たり前として通ってきたわけです。また、
基準となるものをごまかす、という意味では、
品質や材料を偽ったり、検査の目をくぐり抜けたり、
あるいは 手心を加えたりというのも、
この類でしょう。
人を欺して 利をかすめ
(「人を欺して 利をかすめ」という言葉を)
そのまま解釈すれば、
詐欺 ということでしょう。自社の利益のために、
非加熱製剤を安全と称して販売した製薬会社などは論外ですが、
似た話は あちこちにありそうです。知らず知らずのうちに積みがちな 日常的なほこりという点からすれば、
何か 人に説明をする時、
自分に不利な材料を隠したり、
加減をして話すという傾向はないでしょうか。また、
有利に話を進めるために、
都合のいい事柄だけを話したり、誇張したり
ということも ありがちなことです。
人のものを 盗み、取り込み
人の物を盗み、取り込み となると、
こんなことは悪いに決まっている、
言われずとも分かっている、
というようなものです。盗むなんてとんでもない、自分には関係ない
と思いがちですが、
例えば 自転車泥棒。それほど罪の意識がない。
無断拝借、乗り捨て御免。私自身や家族も 何度か被害に遭っていますから、
恐らく みなさん方も経験があるでしょう。盗ったほうは軽い気持ちでも、
盗られたほうは 口惜しいやら情けないやら、
何日も 探し回った覚えがあります。ほかにも、
傘や公共の場の 備品類などを ちょっと失敬 となると、
身近で 見聞きすることも あるのではないでしょうか。決して 他人事ではありません。
取り込むとは、
預かり物や託された物を 返さずに 自分の物にする。
これも 意図的にやれば 立派な犯罪、着服、横領です。そこまでゆかずとも、
借りた物を返さないのは、
やはり 取り込みになるでしょう。お金なら トラブルになりかねません。
本など ちょっとした物の場合は、
ついウッカリ 借りっぱなし
ということが 珍しくないのでは と思います。借りた方は忘れてしまっても 貸した方は覚えているものです。
いらだち、不信をつのらせ、
信用を失うことにもなります。
人の物を ただ わが身につける
なにかのアンケートにありましたが、
お金を拾った時に、
警察へ届け出るという人の割合が少ないのに
びっくりしたことがあります。
半分もいかなかったように思います。警察に届けないで そのままネコババする。
これはまさに「人の物を ただ わが身につける」行為です。「人の物を ただわが身につける」のは、
形あるものばかりとは限りません。人のお世話になった、親切を受けた、
そのことに対する感謝を忘れては、
ただ わが身につけるほこりになりましょう。感謝の念と 恩返しを 忘れてはなりません。
もっと広く考えれば、
この身上をお借りしている御恩、
十全なる御守護に生かされている御恩を思わず、
わが物、当然のこととして 勝手気ままな通り方をしている姿こそ、
ほこりの本元かもしれません。
色情に溺れるのは 色欲であります
(色情に溺れるのは 色欲であります)
とあります。別席のお話では
「女に迷い、男に狂い、色に耽るは色欲」
と、ちょっと あからさまな表現になっています。
これも 大きなほこりであります。私どもが 教会で夕づとめ後に奉唱しますのに、
子供も唱えることですし、
少し穏やかに というので
「色情に溺れるのは色欲であります」
とさせてもらいました。ある先輩の先生は、
「日本の将来を思うと、性の乱れが 実に恐ろしい」
とおっしゃっていましたが、
その広がり、低年齢化は、
社会の基盤である 家族の要、夫婦の絆を危うくするものです。
また、夫婦の絆の弱まりの反映でもありましょう。身分や地位のある人であっても、
また、一般庶民であっても、積みやすく、
しかも、抜け出しにくい ほこりであります。表現を和らげてはおりますけれども、
(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,162~168)
その中身には 重いものがある、
と 承知しなければなりません。
「八つのほこり」【よく】上田先生解説の 自己覚書き
【よく】
「よく」と「ほしい」のほこりの基本的な相違
- ほしい … 感情的なもの
- よく …より意志的のもの
人より多く 身につけたい
- 貧しい境遇にあれば、
せめて人並みになりたい と切実に願うもの。
しかし、人並みと見える人が、
その状態に満足する、喜ぶということは 案外 少ない。 - そもそも 人並みとは 何か。
人並み以上、以下などと、よほど隔たりのあるようなことを言っているが、
絶大な御守護を頂いて人として生かされ、生きていることの有り難さに比べれば、
取るに足りない相違に過ぎない。 - 風雨をしのぐ住居と、飢えないだけの食べ物がありさえすれば、
あとは 幸、不幸は 多分に 銘々の心の問題だと言えるのではないか。 - まずは、親神様の絶大なる御守護、お恵みを喜び、感謝することが肝心。
- 飽食日本に暮らすお互いならば、なおのこと、
世界には 多くの飢餓線上に喘ぐ人々のあることを 忘れてはならない。
取れるだけ取りたい
- 人は、何かを分けようという時、
少しでも多く、いい物を取りたい と思いがち。 - しかし、それは、立場を変えて見れば、
実に厚かましい、あさましい心根と映る。 - 賭け事や投機的な取引なども 間違いの元。
身を滅ぼすのが常。 - たとえ あぶく銭を手にしても、
身につくものではない。 - ぬれ手に泡の浮利、暴利を目論むのは
「大欲」=おおきな よく の心のほこりである。
人の目を盗んで 数量をごまかし
- 熱心なお道の信仰を持ち米屋に嫁いだある教会の初代会長(女性)が
正直に米を販売して、嫁ぎ先の商家にうとまれた話があるが、
人の目を盗んで数量をごまかす行為が悪いと思われることもなく、
ごく普通の商慣習として通ってきたというところに、
ほこりにまみれた人間社会の悲しい現実の姿が見て取れる。 - 基準となるものをごまかす という意味では、
品質や材料を偽ったり検査の目をくぐり抜けたり、
あるいは 手心を加えたり、
といった様々な偽装事件も、
この類であると言える。
人を欺して 利をかすめ
- 「人を欺して 利をかすめ」とは、詐欺ということだが、
詐欺と言えるほどの大きなものでなくとも、
知らぬうちに積みがちな 【日常的なほこり】
というミクロの視点に立って思案する時、
何かを人に説明をする際、
自分に不利な材料を隠したり加減をして話す、
あるいは、
有利に話を進めるために都合のいい事柄だけを話したり誇張したりする、
ということも、
よく の心のほこりの 一つの形態
と 悟ることができる。
人のものを 盗み、取り込み
- 人の物を盗み、取り込むような行為は悪いに決まっている、
盗むなんてとんでもない、自分には関係ない と思いがちだが、
ついウッカリ、
預かり物や託された物を 返さずに自分の物にする
そのような取り込みを行ってしまっている場合もある。 - 知らぬ間にそのようなほこりの心を重ねているかもしれない、
という意識は失わないようにしたい。
人の物を ただ わが身につける
- お金を拾った時に警察に届けないで そのままネコババするのは、
まさに「人の物を ただ わが身につける」行為。 - ただ、「人の物を ただわが身につける」のは、
形あるものばかりとは限らない。
人のお世話になった、親切を受けた、
そのことに対する感謝を忘れることも、
「人の物を ただわが身につける」行為の一つだと言える。 - 人のお世話になった、親切を受けたことへの
「感謝の念と恩返し」ということを忘れないようにしたい。 - もっと広く考えれば、
この身上をお借りしている御恩、
十全なる御守護に生かされている御恩を思わず、
わが物、当然のこととして勝手気ままな通り方をしている姿こそが、
ほこりの本元なのかもしれない。
色情に溺れるのは 色欲であります
- 「色情に溺れるのは 色欲」
性の乱れの広がり、低年齢化は、
社会の基盤である 家族の要、夫婦の絆を危うくするもの。
またそれは、夫婦の絆の弱まりの反映でもあると言える。 - 身分や地位のある人であっても 一般庶民であっても、
色情=「色欲」のほこりは、
積みやすく、しかも、抜け出しにくい、
大きな よく のほこり。
その中身には重いものがあることを肝に銘じたい。
おわりに
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】8回目の今回は、
「八つのほこり」の中の
【よく】という ほこりの心遣いについての解説文、
それを 書き写しました。
上田先生の本文の中にもありますが、
「八つのほこり」の中には、
よく のほこりと類似した項目として、
ほしい というほこりも教えて頂いています。
見方によっては、
をしい のほこりだって、
ある意味「欲」の心から生まれる と言えるような気もします。
上田先生は、よく と ほしい のほこりの違いとして、
“ ほしい が 感情的なものであるのに対し、
よく は より意志的だということでしょうか ”
と 説明して下さっています。
その分類に便乗するならば、
をしい のほこりも意志的なものの中に入る
と言えるように思います。
不勉強な者が記述するのは気が引けますけれども、
仏教では、人間のすべての苦しみは「欲」の心から生まれる…
と教えられている と聞きます。
そのような 仏教的な考え方を敷衍するならば、
もしかしたら、
――よく のほこりというのは「八つのほこり」の中の基盤的なほこり――
という位置付けなのかもしれない…
などという 妄想が湧いてきたりします。
…お道(天理教)の中では、平面的に並べて 呪文の如く唱えられがちな「八つのほこり」ですが、
掘り下げて研究していくと、
その中に、何らかの「構造」が潜んでいることを見つけ出すことができるのかもしれませんね。
それはそれで、非常に興味深いテーマです。
しかし、
そのような、ある意味 哲学的な思想体系の話になってくると、
残念ながら、
それは、私の能力を超えた話になります (;_;)
それに、
おやさまが、立教初期、
周辺の素朴な村人たちに「八つのほこり」を説いて聞かせた際も、
きっと そこまで深い理屈は求められていなかった と思うのです。
たとえ 平面的理解であろうと、
こういう心は 陽気ぐらし世界実現の障害となるから 遣わないでね…
的な、
実用的側面を重要視した ご説話だったに違いない、
と 私は思います。
ですので、
【八つのほこりの構造】といった、
哲学的、学術的な 難しいお話は
そういった分野に明るい 専門の先生にお任せして、
私のような 無学な者は、
おやさまから教えて頂いた「八つのほこり」の教えを、
ただ素朴に、
自身の心遣いの振り返りに活用し、
少しでも 成人の道につなげる努力に励むことの方にエネルギーを集中したいもの…
そんなふうに考えたりしています。
…また、例によって、理屈っぽく 堅苦しい話になってしまいました…(汗)
堅苦しさが 多少なりとも 和らぐことを期待して、
最後に、
今回の記事作成にあたって「欲」という言葉で あれこれ ネット検索する中で見つけた、
ちょっと 味わい深い名言を、
覚え書き的に 記しておきます (*^_^*)
『欲深き 人の心と 降る雪は
積もるにつれて 道を失う』
(高橋泥舟)~江戸末期の幕臣
ということで、今回は、
【「八つのほこり」自己学習シリーズ】
「八つのほこり」の中の よく のほこり 解説文を、
書写学習 致しました。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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