【いざなぎ・いざなみのみこと】「十全の御守護」学習No,9

いざなぎ・いざなみのみこと上田嘉太郎著 『基本教理を身につけよう』 書写 No,9 十全の御守護

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

お道(天理教)に引き寄せられた者として、
基本的教理である「十全の御守護」というものを、もうちょっときちんと勉強しておかないと…
との思いから始めた、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」自己学習シリーズ。

このシリーズは、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた「十全のご守護」解説を書写することで
「十全の御守護」の教えをいささかなりとも腹におさめたい、
という意図のもとに取り組んでいる
【自己学習】の足跡であります。

上田嘉太郎著『基本教理を身につけよう』表紙

「十全の御守護」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。

この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。

令和5年11月4日から開始して約2ヶ月。
今回、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」二柱の解説書き写しで9回目になるのですが、
ついに完結です!!

そして今回は、2023年=天理教立教186年 最後のブログ記事となります。

令和5年、今年は、
コロナ禍が明けて、コロナ禍によって停止していた時計が再び動き始めた、
いわゆる「新しい時代」のスタートラインともいえる一年だったように思います。

そのような歴史の境目とも呼べるような重みのある年、
その締めくくりになりますから、
上田嘉太郎先生の解説文をしっかりと書き写し、お道 基本教理の学びを念押し的に深めて、
「十全の御守護」学習シリーズを完了したいと思います。

前回は「をふとのべのみこと」でした。

シリーズ最終回の今回は、
「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」
御守護について解説する部分の書写になります。

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上田嘉太郎先生「十全のご守護」解説 No,9

いざなぎのみこと・いざなみのみこと

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いざなぎのみこと & いざなみのみこと 御守護の理

いざなぎのみこと
…男雛形、種の理。

いざなみのみこと
…女雛形、苗代の理。

元初まりにおける夫婦の雛形

いざなぎのみこといざなみのみこと は、
元初まりにおける 夫婦の雛形であります。

かぐらづとめの 第二節であり、
また、朝夕のおつとめにも唱えさせて頂きます「ちよとはなし」のお歌に、
このよの ぢいとてんとを かたどりて
ふうふを こしらへ きたるでな
これハ このよの はじめだし
とあります。

これは、「たすけたまへ」とお縋りする人間に、
をやが お聞かせ下さる たすけの理話の核心であります。

お道の教えでは、
夫婦ということを 非常に大切な原理、原則として 重ね重ね お教え頂いていますが、
それはまず 根本教理である 元の理のお話に 見ることができます。

親神様は、
人間たちが 陽気ぐらしをするのを見て 共に楽しもうと思召されて 人間世界をおつくり下さいましたが、
その最初になさったのは 夫婦の雛形をこしらえることであります。
それを、「これハ このよのはじめだし」と 仰せになっています。

おふでさきに、
いまゝでも 今が このよのはじまりと
ゆうてあれども なんの事やら

(七 35)
とありますが、
これは、
今が 陽気ぐらしの世への 立て替えの始まり、出発点だ
ということです。

また、
このつとめ これが このよのはぢまりや
これさい かのた 事であるなら

(十五 29)
と ありまして、

この世の元初まりと 立教の元一日とが
理において 一つのものであることを明かし、
泥海の中から人間世界をおはじめになった その理を戴く かぐらづとめによって、
元初まりの親神様のお働きを 今に頂き、
泥海のような世の中、人の心を 陽気ぐらしへと立て替える
と仰せになっているのであります。

この 元初まりのお話は 単なる人間創造にまつわる昔話ではなく、
今日の 私たち生きている人間に 欠かすことのできない
大切な理の話でもあります。

その核心部分を、
ぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな
と、夫婦というものは、天地抱き合わせの理を かたどったものであり、
さらに、
これハこのよのはじめだし
と、この 夫婦の一手一つの働きが 世の始まり出しであり、
また 家の治まり、世の治まり、陽気ぐらしへの道の基である、
と 仰せられているのであります。

みかぐらうたには、
ふうふ そろうて ひのきしん
これが だいゝち ものだねや

(十一下り目 二ツ)
という お歌もあります。

また、おふでさきの第一号は、
相当部分が 秀司先生の 結婚問題を台にした お歌であります。

そして、
せんしよの いんねんよせて しうごふする
これハ まつだい しかと をさまる

(一 74)
と 結ばれています。

かぐらづとめの 十人の人衆の内、
いざなぎのみこといざなみのみこと
くにとこたちのみことをもたりのみこと
そして、
くにさづちのみこと月よみのみこと
の三組、六人が 男女の対になり、
互いに向かい合って 勤めておられます。

これは 理の上から申しますと、
くにとこたちのみことをもたりのみこと は、父親と母親。
いざなぎのみこといざなみのみこと は、夫と妻。
月よみのみことくにさづちのみこと は、男と女であります。

このように、
補い合う 男女のあり方を
男―女、夫―妻、父親―母親
という具合に、
幾重にも お教え下さっています。

お道では とりわけ 夫婦の理合いの重さをお教え頂きますが、
この おつとめのありようそのものが まさにそうだ
とつくづく思うのであります。

上段改修、東西礼拝場竣工

私が、かぐらのおつとめを 初めて 間近に拝ませて頂いたのは、
昭和五十九年の十月二十五日、
東西礼拝場が竣工し、神殿上段の改修がなった その日のおつとめでありました。

私は 御簾みすを巻き上げる掛でしたが、
御簾を上げると 目の前に 真座がそれまでより 一段と広くなって開け、
そして、お面をつけた かぐらづとめの人衆の方々を、
こんなにも はっきりと拝ませて頂けるものか
と思うほどに目の当たりにすることができたのであります。

ちょうど 西の少し北寄りの位置でありましたので、
いざなぎのみこといざなみのみこと
のお役のおつとめの様子が、
よく拝見できました。

第一節の「てんりわうのみこと」のところで、
いざなぎのみこと のお役の方が 両手をかぶせるようにされて、
いざなみのみこと のお役の方は それを受ける形をされるのでありますが、
その おつとめの姿が 実に 和やかなのです。

まさに 親の膝元で戯れているような感じで
印象深かったことを思い出します。

実際に 自分の目で おつとめの様子を拝ませて頂いて、
それまで、
おつとめというのは さぞかし厳粛なものだろうな、
と想像していたのですが、
むしろ 非常に和やかなものであることに 打たれました。
親の膝元で子供が戯れている、
まさに 神人和楽の世界であります。

お道では このように、
夫婦のあり方を 大切な原理、原則として お教え頂いているのでありますが、
そうしたことは 今日の社会において、
ますます 重みを増してきているように 思います。

私も それこそ 学生時分には、
何故 お道では こんなに くどくどと 夫婦のことを言うのだろう、
と感じたりしたものですが、
しかし、これは
それほどに大切だ ということでありましょう。

ものだね(物種)

十一下り目には、
ふうふ そろうて ひのきしん
これが だいゝち ものだねや 
 (二ツ)

よくを わすれて ひのきしん
これが だいゝち こえとなる
  (四ツ)

とあります。

欲を忘れてひのきしんは 一番の肥やしだ
とおっしゃいます。

しかし、いくら肥やしをやっても
種を蒔かなければ、
芽も出ないし、花も咲かなければ、実もならないわけですから、
まず、
「夫婦揃うてひのきしん」
と、夫婦が心を合わせ、力を合わせて ひのきしんをする、
神様の御用をつとめることが 肝心です。
これが 一番の物種になるのであります。

物種というのは どういう種か と申しますと、
これは 入り用な物が、入り用な時に、入り用なだけ お与え頂ける種だ
と聞かせて頂きます。

我々は うっかりすると、
そんな ケチなことは言わずに、欲しい物が欲しい時に欲しいだけあればなお良かろうに、
などと思ったりしがちですが、
しかし、それは、かえって 道を誤ったり、争いの者とになったりしかねないのでありまして、
物種に、
欲を忘れて ひのきしんの肥をおくところに
最高の御守護を頂戴できる、
と お教え頂くのであります。 

夫婦の治まりが元

今日の世相、日本ばかりでなく 世界的に見ましても、
夫婦の絆が弱まっている と言えます。

例えば アメリカでは、
結婚した夫婦の半数以上が離婚する というデータがあります。

日本でも だんだん増えてきているようです。

必ずしも 離婚が悪い というのではありません。
夫婦には それぞれの やむにやまれぬ理由があって 別れるのでありましょうけれども、
子供の立場から言えば、
こんな悲しいことは ないだろうと思います。

また、さまざまな家庭問題、さらには 社会問題の上にも、
夫婦の絆の弱まりが 少なからず影を落としているように思います。

子供が学校へ行かなかったり、暴れたり、
こうしたことは 何も 親たちだけの責任ではありませんけれども、
やはり 夫婦の間がしっくりいっていないことが 背景にある場合が 少なくないようです。

逆に、円満な家庭であれば、
学校が荒れている、嫌なことがあった という時にも、
家庭でいやされ、励まされて 気を取り直す
ということにもなりましょう。

おふでさきには、
このよふの ぢいと天とハ ぢつのをや
それよりでけた にんけんである

(十 54)
と仰せられ、

また、おつとめの第二節では、
このよの ぢいとてんとを かたどりて 
ふうふをこしらへ きたるでな
と 仰せになっています。

子供は いわば、天地の間に育まれたものでありますからして、
もしも、夫婦、即ち天地の間に
しょっちゅう 大風が吹いたり、
雷や地震に見舞われたり ということになれば、
その間に生まれた子供も 穏やかならぬ心地がするでしょうし、
また、スクスク育つことも できにくいのが
理の当然 と申せましょう。

種、苗代

「種」という時には、
蒔かれるもの、
そこから芽が出、花が咲き、実がなる、その元
というイメージがあります。

また、一方では
「種」は 実りの結果でもあります。

受精して 実がなる。
雌雄 二つの個体が 受精によって 一つの新しい生命を 創り出します。

そこには、
それぞれの個体が受け継いできた形質や 生育の軌跡が 凝縮されて 結果します。
それが 次代の 生命を宿す種、出発点となるのであります。

「苗代」とは 種籾を蒔く場所です。

日本では じか蒔きというようなことはあまりせず、
苗代を作って そこに籾を蒔き、
適当な大きさまで育ててから 田んぼに移し植えます。

これは
外敵や環境の変化に弱い 発芽期、幼苗期を 特に保護育成するため、
管理しやすい苗代 というものを作るのです。
そして 苗が 十分に成長したあかつきに、
田植え という形で 移植をします。

こうしたことを考え合わせますと、
「種」は まず原因であり、出発点であるのに対して、
「苗代」は 環境、特に 幼時の環境に相当する
と申せましょう。

命が宿り、育まれる環境の持つ 大きな役割、
これを「苗代」と 表現されているのではないでしょうか。

お道では、
「十五歳までは、親々の心通りに 御守護下さる」
と、お聞かせ頂きます。
十五歳からは、銘々の心通りに 御守護下さいます。

そういう点から思案しましても、
子供の頃の 親の心遣い、丹精の責任は 誠に重大である
と申さねばなりません。

これが不十分である、間違っている ということになれば、
人生の出発点において ハンディを背負うことになってしまいます。

因縁果

お道でも、「いんねん」ということを申します。

辞書で 因縁という語をひきますと、まず 仏教用語として、
「直接的原因(因)と間接的条件(縁)との組み合わせによって、さまざまの結果(果)を生起すること」
と出てまいります。

「いんねん」とは、
元々の意味では、
ある結果に対する 直接的原因と間接的条件
ということになります。

いわば、「因縁果」と一つのセットになっているのであります。

種に対して、
いろいろな環境条件、肥料であるとか、世話だとか、
あるいは天候、これは もっとも基本的なものですが、
それらが総合的に作用して、
即ち、種が 親神様の御守護の下に、
修理・丹精といった 人手を経て 稔りに到る。

まさに 因縁果であります。

この「種」「苗代」の理 という表現で、
因縁果とも言うべき 法則性の存在についても
お教え頂いているように思います。

ただし、先にもふれましたように、
“果” を雌雄による生殖の結果としますと、
それは単一の “因” の帰結ではなく、
対等の他者(性を異にする)とのペアリングによってもたらされる
ことに 留意しなければなりません。

この雌雄による生殖こそが
種の多様性、生物進化の 出発点です。

そうしたことから、
約十億年前と言われる 有性生殖の始まりを 元初まりとみる
解釈もあります。

別席のお話の説き分けでは、

いざなぎのみこと様は、人間をお創め下されし時、男雛形、種の理。
いざなみのみこと様は、人間をお創め下されし時、女雛形、苗代の理。

とありまして、
「人間をお創め下されし時」
という語が 付け加わっています。

すべての生物の遺伝情報が 同じ記号で書き込まれている、
即ち、
一つの起源から始まった という驚くべき事実に照らして言えば、
元初まりの男女の雛形による
一回限りのお働きの意義
には 計り知れないものがあります。

そうした 最近の生物学の成果とも整合する解釈が可能なところに、
元の理の話の 懐の深さが窺えます。

朝顔の例

私の父は 朝顔が好きで 毎年 朝顔の種を蒔きました。

かなり いい加減な作り方でしたが、
花の時期には、朝づとめから帰ってくると、
「今日は朝顔が幾つ咲いた」
と 数えて喜んでいました。

しかし、
園芸店で種を買って蒔いた年には 見事な花が咲いても、
次の年、その獲れた種を蒔いてみると サッパリなのです。

見事な花というものは、
何代も改良を重ねて 作り上げた賜物だと思いますが、
それも 一代の丹精が行き届かないと、
たちまち 平凡な朝顔になってしまう
というわけです。

これなどは、
種は いかに良くても 結果は 環境と丹精次第だ、
ということが よく分かる例だ と思います。
また、そこには 交配の問題も 含まれましょう。

まさに 日々の丹精が無かったら、
元々は どんなに良い種であっても続かない
ということを教えられている と思います。

「種」というのは、
人間の場合で考えてみますと、
形の上では、遺伝として受け継いだもの
と考えると分かり易いと思います。
これに 無形の徳として 受け継いだものがあります。

「種」の良し悪しは、
何によらず 結果を大きく左右するものですが、
親々から受け継いだものは 自分では どうにも変えられません。

しかし、
我々が持って生まれたものに
自分たちの不断の努力、丹精を重ねていくことによって、
より良い稔り、次の代への より良い種を残していくことは できます。

この「苗代」という言葉から、
そうした 環境、また、平常の丹精、
特に、一人立ちできるまでに子供を育てる という上から言えば、
十五歳までの 子供の環境を整える、守り育てていく
親の務めの大切さを お教えて頂いているように思います。

私たちは「たすける」「たすかる」などと 始終 口にしていますが、
「たすかる」とは 一体どういうことなのでしょう。

例えば、
医者もさじを投げた というような 重篤な病気が 神様のおかげでたすかった
というような場合には、
無論 当人は 御守護の有り難さを痛感し、
日々 御礼申し上げて通るに違いない と思います。

しかし、考えてみれば、
いかに 奇跡的に御守護を頂いた と言っても、
要は 元の身体に戻った ということです。

不思議なおたすけのおかげで 空を飛べるようになったりした
というわけではありません。

しからば、
痛い目や 苦しい目に遭うこともなく、
その 元々の健康な身体を使わせて貰っている者は、
毎日を “たすかっている、有り難い” と、
もっと 喜んで通っても いい筈です。

しかし、ほとんどの人は、
それが当たり前だ
と思っているのではないでしょうか。

そこで 私が思い到ったことは、
結局、「たすかる」とは、
「毎日頂いている親神様の御守護の有り難さ、偉大さが分かり、毎日を喜んで、感謝しつつ生きていること」
だということです。

その 御守護の有り難さ、偉大さを、
より具体的に、一層 深く味わわせて頂きたい、
また 一人でも多くの人に感じて頂きたい
との思いを込めて 筆を執りました。

(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,99~112)

「いざなぎ・いざなみのみこと」上田先生解説の自己覚書き

children future

「いざなぎ・いざなみのみこと」

  • いざなぎのみこと
     男雛形、種の理。 
  • いざなみのみこと
     女雛形、苗代の理。

  • 元初まりにおける夫婦の雛形 】

    ★いざなぎのみこと いざなみのみこと ……元初まりにおける 夫婦の雛形

    ★(お道の教え)→ 【夫婦】= 非常に大切な原理、原則
    根本教理である「元の理」のお話にも 見ることができる

    ★《かぐらづとめ》
    〔いざなぎのみこと ー いざなみのみこと〕
    〔くにとこたちのみこと ー をもたりのみこと〕
    〔くにさづちのみこと ー 月よみのみこと〕
    以上、三組(六人) 男女の対+ 向かい合い 勤められる

    ★〔くにとこたちのみこと ー をもたりのみこと〕 ⇒〔父親と母親〕
    〔いざなぎのみこと ー いざなみのみこと〕 ⇒〔夫と妻〕
    〔月よみのみこと ー くにさづちのみこと〕 ⇒〔男と女〕
    ……補い合う男女のあり方( 男―女、夫―妻、父親―母親)
    幾重にも お教え下さっている

    ★お道=( 夫婦の理合いの重さ)
    → おつとめのあり様そのものが まさにそう

  • 上段改修、東西礼拝場竣工

    ★いざなぎのみこと ー いざなみのみこと ……(おつとめの様子)
    ➡第一節「てんりわうのみこと」のところで
    いざなぎのみこと のお役の方が 両手をかぶせるようにされて
    いざなみのみこと のお役の方は それを受ける形をされる

    ……親の膝元で戯れているような感 & 非常に和やかなもの
    = 神人和楽の世界を表現

    ★お道で強調する夫婦のあり方
    ➡ 今日の社会においてますます 重みを増してきている 

  • ものだね(物種)

    ★ふうふ そろうて ひのきしん
    これが だいゝち ものだねや
    (みかぐらうた 十一下り目二ツ)

    よくを わすれて ひのきしん
    これが だいゝち こえとなる
    (みかぐらうた 十一下り目四ツ)

    「欲を忘れてひのきしん」→〔肥やし〕(十一下り四ツ)だが、
    しかし、いくら肥やしをやっても 、
    「種を蒔かなければ」芽も出ないし、花も咲かなければ、実もならない

    まず「夫婦揃うてひのきしん」→〔ものだね〕(十一下り二ツ)
    夫婦が心を合わせ、力を合わせて ひのきしんをする、神様の御用をつとめ、
    「物種を蒔く」ことが必要

    ★【物種】……入り用な物が 入り用な時に 入り用なだけ お与え頂ける種
    ➡欲を忘れて ひのきしんの肥をおくところに、最高の御守護を頂戴できる 

  • 夫婦の治まりが元

    ★現代、世界的にも 夫婦の絆が弱まっている
    →さまざまな家庭問題、社会問題の上にも、
    夫婦の絆の弱まりが 少なからず影を落としている

    ★このよふの ぢいと天とハ ぢつのをや
    それよりでけた にんけんである
    (おふでさき 十号54)

    このよの ぢいとてんとを かたどりて
    ふうふをこしらへ きたるでな
    (おつとめ 第二節)

    →(子供)=天地の間に育まれたもの
    ……夫婦=天地の間に 頻回に大風が吹いたり 雷や地震に見舞われたりすれば、
    その間に生まれた子供も 穏やかならぬ心地がするであろうし、
    また、スクスク育つことが出来にくくなるのは、理の当然

  • 種、苗代

    ★「種」…蒔かれるもの、そこから芽が出、花が咲き、実がなる、その【元】
    一方では「種」は 実りの結果でもある。次代の 生命を宿す種、出発点
    「苗代」…種籾を蒔く【場所】
    ➡「種」=原因+出発点

    ★「苗代」= 環境(特に 幼時の環境)

    お道の教え=「十五歳までは、親々の心通りに 御守護下さる」
    →子供の頃の 親の心遣い、丹精の責任は 誠に重大

  • 因縁果

    ★「因縁」(仏教用語)
    ……「直接的原因(因)と間接的条件(縁)との組み合わせによってさまざまの結果(果)を生起すること」

    「いんねん」=元々の意味……ある結果に対する 直接的原因と間接的条件 ということ
    ➡「因縁果」と一つのセットになっている

    「種」「苗代」の理 という表現で、
    「因縁果」とも言うべき 法則性の存在についても お教え頂いている

    ただし、“果” は、単一の “因” の帰結ではなく
    対等の他者(性を異にする)とのペアリングによってもたらされることに留意すべき

    雌雄による生殖 = 種の多様性、生物進化の出発点

    ★〔別席のお話の説き分け〕
     いざなぎのみこと = 人間をお創め下されし時、男雛形、種の理
     いざなみのみこと = 人間をお創め下されし時、女雛形、苗代の理
    →「人間をお創め下されし時」という語が 付け加わっている

    ……すべての生物の遺伝情報が 同じ記号で書き込まれている
    = 一つの起源から始まった という驚くべき事実
    ➡元初まりの 男女の雛形による 一回限りのお働きの意義
    = 計り知れないものがある

  • 朝顔の例

    ★朝顔の種、園芸店で種を買って蒔いた年には 見事な花が咲いても
    次の年、その獲れた種を蒔いてみると サッパリだったりする

    ……見事な花というのは、何代も改良を重ねて 作り上げた賜物だが、
    それも 一代の丹精が行き届かないと、たちまち 平凡な朝顔になってしまう

    ➡種は いかに良くても、結果は 環境と丹精次第
    日々の丹精が無かったら、元々は どんなに良い種であっても続かない

    ★「種」=人間で考えてみると、形の上では、
    遺伝として受け継いだもの と考えると分かり易い

    「種」の良し悪し=親々から受け継いだもの→ 自分では変えられない
    しかし、
    我々が持って生まれたものに 自分たちの不断の努力、丹精を重ねていくことによって
    より良い稔り、次の代への より良い種を残していくことはできる

    ★「苗代」という言葉
    ➡十五歳までの 子供の環境を整える、守り育てていく親の務めの大切さを お教えて頂いている
    と悟ることが出来る

    ★《「たすかる」とは ?》
    いかに 奇跡的に御守護を頂いた と言っても、要は 元の身体に戻った だけ
    不思議なおたすけのおかげで 空を飛べるようになったりした というわけではない

    →痛い目や 苦しい目に遭うこともなく、その 元々の健康な身体を使わせて貰っている者
    =毎日を “たすかっている、有り難い” と、もっと 喜んで通れるはず

    しかし、ほとんどの人、それが当たり前だ と思っており、そのことの尊さを意識することがない

    ➡結局、「たすかる」とは、
    「毎日頂いている親神様の御守護の有り難さ、偉大さが分かり、毎日を喜んで、感謝しつつ生きていること」
    だと言えるのではないか

おわりに

flower field at sunset

「十全の御守護」学習シリーズ最終回(9回目)の今回は、
いざなぎ・いざなみのみこと 御守護の解説部分を 書写しました。

お道(天理教)では、事にふれ折につけて「十全の御守護」を唱えます。

私も、これまで、そのような機会が与えられた際には、
一同に混じって唱和してきましたが、
正直なところ、何かの『呪文』のような感覚で、
そこに籠められた意味合いについてまで思いを致すことは、
ほとんどなかったように思います。
お恥ずかしながら…(汗)

しかし、今回、
上田嘉太郎先生の著作の解説文を一通り書き写したことで、
以前よりは、
「十全の御守護」というものについて思案する【足掛かり】を築けたと思っています。

上田嘉太郎先生の結びの文章が心に深く刺さります。

私たちは「たすける」「たすかる」などと 始終 口にしていますが、
「たすかる」とは 一体どういうことなのでしょう。

例えば、
医者もさじを投げた というような 重篤な病気が 神様のおかげでたすかった というような場合には、
無論 当人は 御守護の有り難さを痛感し、
日々 御礼申し上げて通るに違いない と思います。

しかし、考えてみれば、
いかに 奇跡的に御守護を頂いた と言っても、
要は 元の身体に戻った ということです。
不思議なおたすけのおかげで 空を飛べるようになったりした
というわけではありません。

しからば、
痛い目や 苦しい目に遭うこともなく、
その 元々の健康な身体を使わせて貰っている者は、
毎日を “たすかっている、有り難い” と、
もっと 喜んで通っても いい筈です。

しかし、ほとんどの人は、
それが当たり前だ
と思っているのではないでしょうか。

そこで 私が思い到ったことは、
結局、「たすかる」とは、
「毎日頂いている親神様の御守護の有り難さ、偉大さが分かり、毎日を喜んで、感謝しつつ生きていること」
だということです。

その 御守護の有り難さ、偉大さを、
より具体的に、一層 深く味わわせて頂きたい、
また 一人でも多くの人に感じて頂きたい
との思いを込めて 筆を執りました。

(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,111~112)

病気が治る、事情がおさまる、
といった御利益を頂いて 初めて親神様の御守護を感じるのではなくて、
平々凡々な毎日の中にこそ 尊い親神様の御守護が満ち満ちている
ということを感じられるようになる。

それこそが、
この道に引き寄せられた私たちの目指すべき境地であり、
また「たすかった姿」である、
と示して頂きました。

上田嘉太郎先生がお示し下ったところの、真の「たすかった姿」
=「毎日頂いている親神様の御守護の有り難さ、偉大さが分かり、毎日を喜んで、感謝しつつ生きる」

そのような高い境地に少しでも近付けるように、
今回の「十全の御守護」自己学習を足掛かりにして、
今後も、
親神様の御守護を自分なりに掘り下げる取り組みを忘れないようにしたい、
そのように思っています。

dog looking up at the sky

「十全の御守護」学習シリーズが終わりました。

この企画は、
上田嘉太郎先生の解説文をただ書き写すだけのシリーズで、
お道(天理教)に慣れ親しんだ方々にとっては、
おそらく初歩の初歩の教理内容だったと思います。

今回の学習シリーズも、当ブログいつも通り、
外部からのニーズはほとんどない【完全自己満足】記事群でしたが、
私にとっては、
お道(天理教)の基礎を学ぶ上で、非常にタメになる機会となりました。

ブログ主は、とても満足しています \(^o^)/

毎回、このような記事を
わざわざ「公開」する必要があるのか、
自己学習ならクローズドの場所に置いておけばいいじゃないか、
と、逡巡しつつ投稿しております (^^ゞ

しかし、
何と言っても、当ブログはあくまで【自己学習ノート】であり、
このたびの企画も、
私自身に、
“誰かが見るかもしれない”
という緊張感を与えて、私の「怠け心」にブレーキをかける、
という点を大いに期待した企てなのだから…

私の良心の呵責を和らげるために、
最後に“コッソリ” そのような言い訳を置かせて頂きます(笑)

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

【くにとこたちのみこと】「十全の御守護」学習No,1
「十全の御守護」学習シリーズとして『基本教理を身につけよう』という本に書かれた上田嘉太郎先生「十全のご守護」解説を書写しました。 その初回である今回は「くにとこたちのみこと」の御守護についてです。

【をもたりのみこと】「十全の御守護」学習No,2
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 2回目の今回は「をもたりのみこと」の御守護についてです。

【くにさづちのみこと】「十全の御守護」学習No,3
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 3回目の今回は「くにさづちのみこと」の御守護についてです。

【月よみのみこと】「十全の御守護」学習No,4
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 4回目の今回は「月よみのみこと」の御守護についてです。

【くもよみのみこと】「十全の御守護」学習No,5
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 5回目の今回は「くもよみのみこと」の御守護についてです。

【かしこねのみこと】「十全の御守護」学習No,6
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 6回目の今回は「かしこねのみこと」の御守護についてです。

【たいしよく天のみこと】「十全の御守護」学習No,7
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 7回目の今回は「たいしよく天のみこと」の御守護についてです。

【をふとのべのみこと】「十全の御守護」学習No,8
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の「十全のご守護」解説を書写する「十全の御守護」学習シリーズ。 8回目の今回は「たいしよく天のみこと」の御守護についてです。

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