Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号19番「名京大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号20番「中和大教会」について勉強します。
- 中和大教会(ちゅうわ だいきょうかい)
- 入信前の植田平一郎初代会長(江戸時代末期~明治14年頃)
- 治心講池田組の設立(明治19年~明治21年頃)
- 中和支教会の設立(明治21年頃~明治24年頃)
- 中和分教会の分離独立(明治28年頃~明治34年頃)
- 植田平一郎初代会長の出直(明治35年)
- 植田楢松2代会長の苦悩(明治35年頃~明治37年頃)
- 植田楢松2代会長の復帰(明治39年頃~明治43年頃)
- 中和大教会への昇格(大正初期~大正15年頃)
- 植田楢松2代会長の出直(昭和2年頃~昭和4年頃)
- 植田英蔵3代会長就任、移転建築(昭和4年頃~昭和6年頃)
- 新詰所建設、そして3代会長の功績について(昭和10年頃~昭和30年頃)
- 植田平一4代会長(昭和26年頃~昭和50年頃)
- おわりに
中和大教会(ちゅうわ だいきょうかい)
入信前の植田平一郎初代会長(江戸時代末期~明治14年頃)
初代会長となる植田平一郎は
弘化3年(1846) 5月25日
大和国池田村に
父 万田平次郎、母 コトの長男として 出生した。(万田)平一郎は
若い時からまじめな働き手で、
明治元年(1868) 23歳の時
同村の親戚 植田家に入婿した。妻をきぬといい
明治4年には 長男 楢松が出生している。きぬは 3男 一史出産後の肥立が悪く、
明治11年 旧8月、8歳を頭に3人の子供を残して 出直した。植田家も万田家も 村では旧家で、
平一郎の祖父 植田忠右衛門は
村の庄屋を勤めたほどであった。しかし 明治の初め頃には下り坂になっていた。
(植田)平一郎は
維新の変動期を 織屋から醤油の製造、白米商、ガラスびん製造などと
幾度も家業を変える苦労の中、
妻を亡くすという苦労が加わった。後妻をもらうと世間にありがちな一家に風波が立っては、
との思いから 独りで通したが、
家実の両親のすすめで、
弟 弥七の未亡人 いのを 明治14年冬 妻に迎えた。
治心講池田組の設立(明治19年~明治21年頃)
かくて 家の中も 何かときまりがつき、
子供も成人して間に合うようになり、
家業も追々と繁昌して 上り坂に向かおうとした時、明治19年 旧9月初め、(植田)平一郎は、
たまたま 右拇指にひょうそを患い 大いに苦問している際、
当時 郡山に住居していた実母 万田コトより信仰をすすめられ、
数日にして 不思議なたすけを受けた。そこで 早速
実母(万田コト)と共に 郡山洞泉寺の講元へ参拝、
折から滞在中の板倉槌三郎から 種々話を聞き
郡山に留まること一週間、その間「おぢば」へも参拝して
(植田)平一郎の信仰は確固たるものとなり、
帰村後は 家事を放棄して 早速布教に奔走した。このことは すぐさま村内に伝わり、
たすけを乞いに来る者 日一日と増し、
その年の暮には 参拝者2〜30名となったので、
おぢばへ帰参し 初代真柱にその由を伝えると
「ただ たすけ放しではいかん、講を結ばねばならぬ」
との言葉で
「治心講池田組」という講名を受けた。最初 おぢばへ出した講社は 植田平一郎 他13軒であった。
その後 おちばから橋本清、前川菊太郎が来訪、
「まだ講社の数も少ないから 一時 天竜講と共に布教するがよかろう、講社も千軒出来たら 治心講の講名を元通りにするから」
との話で、
それより天竜講に付随して布教することになった。(植田)平一郎の白熱した信仰と布教によって
救けは相次いで 現れ 教線は次第に伸びたが、
一方 家計はいよいよどん底へと進んでいった。(植田)平一郎は
明治20年(1887) 12月21日
4男 留造の病気から「おさづけの理」を拝戴、
明治21年 4月28日には 教導職試補に任ぜられた。
中和支教会の設立(明治21年頃~明治24年頃)
仏教側との激しい軋轢抗争は 各地で頻発し、
官憲の圧迫世間の反対嘲笑の中に 教勢は伸展し、
明治21年 郡山分教会 創設以後は
教勢も益々充実してきた。明治24年2月 中和支教会設置までの伸展状況は、
地域は 池田村を中心に南北約6里、東西約3里の間にわたり、
奈良県外へは 明治20年末 安田治三郎が伊勢に布教し、
更に 久保音吉が 明治23年頃 九州へ伝道を始めている。当時 おぢばから
橋本清、前川菊太郎、板倉槌三郎が 度々来訪し、
郡山からは 主に福地庄松が来ては、
信者達の奮起を促した。福地より (植田)平一郎に
「信者もこの位増えたのやから もう ここらで教会を設けたらどうや」
との相談があり
愈々 明治24年(1891) 2月27日付を以て
池田村の植田家屋敷において
郡山分教会中和支教会設置の願書を提出し、
翌28日 教30号を以って 許された。そして
従来の 4間半に7間の本家だけでは狭いので
新たに4間半四方の神床と8畳2間の座敷を建築し、
同年(明治24年) 7月7日(旧6月1日)に 開筵式を挙行した。
中和分教会の分離独立(明治28年頃~明治34年頃)
かくて教線は
大和地方はもちろん、三重県、大阪府、九州方面に進展するに及んで
交通便利な高田町に移転すべき議が起こり、
明治28年正月より 地均し工事に着手、
6間に11間の 神殿初め付属建物を完成、(明治28年) 11月2日に 落成奉告祭を盛大に執行した。
移転新築落成は 単に有形の教会のみでなく
中部、関東、東北にまで 教えがのびることとなった。明治29年 内務省秘密訓令の圧迫は
かえって布教師の勇気を鼓舞することとなり、
その年(明治29年)の内には 19ヵ所の教会設置があった。明治31年 島ヶ原分教会が郡山より分離したことから、
その後 郡山 平野会長より 中和分離の指示が出て、
「おさしづ」を仰ぎ、許しを受けて、
中和は 分教会に昇格すると共に
郡山より分離して 本部直属となった。中和の前身「治心講池田組」の講名を受けるに際し、
「治心講も千戸以上の講社が出来たら分離さすから 当分の間天竜講と共にやれ」
と言われたことが ここに実現したわけである。翌 明治34年
教祖殿、客殿 その他 付属建物の新築を完了、
(明治34年) 10月23日 本席、24日 初代真柱を迎え、
近府県はもちろん、遠くは青森、九州や、茨城、千葉、神奈川、長野、岡山の各府県から多数の参拝者があって
未曽有の奉告祭が執行された。中和支教会設置以後 分離に至る間に設置された部内教会は 45ヵ所を数えた。
植田平一郎初代会長の出直(明治35年)
教勢も発展し、
ようやく当初の苦難を忘れようとしたためであろうか、
分教会昇格 かつ 分離の奉告祭を一転機として
中和が難局に遭遇、
再び 谷底を歩むようになった。津軽出張所をはじめ 多くの部内教会も 段々と疲弊し、
初代会長 植田平一郎は
この難局を打開しようと 種々 心を砕き、
各所へ巡教に次ぐ巡教を重ね、
ついに病気となって
明治35年10月2日、
57歳を限りとして 惜しくも出直した。(植田平一郎初代会長は)
入信以来15年の歳月 幾多の苦難と戦いながら、
その細心にして信心に堅く、常に教理を遵奉、
大いなる慈悲心は よく教信者に敬慕された。
植田楢松2代会長の苦悩(明治35年頃~明治37年頃)
(植田平一郎) 初代会長の出直にともない、
その長男 植田楢松が
明治35年10月11日 2代会長に就任した。(植田楢松)2代会長は、
明治19年 (植田平一郎) 初代会長入信の時は、齢 僅かに16歳、
その身をもって
(植田平一郎)初代会長が 一意専心 布教に従事できるよう仕向けた功績は大きい。妻を娶ってより 郡山分教会へ青年としてつとめ、
郡山詰所ふしん後に、
高田町に移転した中和支教会に帰り、
(植田平一郎)初代会長をたすけて 布教に、部内教会の「修理」につとめた。(植田平一郎)初代の出直は 中和の大きな痛手となり、
引続く 長男の出直、妹たちの出直など、
(植田楢松)2代会長の胸中 筆舌に尽くし難い中、
衰微した教勢は 明治37年頃には極限に達し、
分教会内の専従の役員にも離散する者さえ現われ、
全く窮乏の淵に沈んだ。中和は 先の教会ふしんの借財も払いきれず、かさむ一方となり、
財政の困難の結果、
内外の圧迫より 窮余の一策として
(植田楢松)2代会長は
一時 会長を辞任して、
郡山前会長 平野楢蔵に 後任を願うこととなった。明治37年 9月30日
「いかなる事もどういう事も、危ない怖わい。
先という道は鮮やかという道である。
暫くの処/\、十分の保護してやってくれ。
いかなる事、精神皆々の心に許し置こう」
との「おさしづ」を受け、
かくて 平野会長は
中和の教勢財政上の責任を持つことになった。
植田楢松2代会長の復帰(明治39年頃~明治43年頃)
明治39年の教祖20年祭には
漸く 挽回に向かった。翌 明治40年 6月17日、
もと天竜講の講元であり 当時 中和の責任を持っていた平野(楢蔵)会長が、
本席出直の後を追うように 出直した。平野(楢蔵)会長の出直は、
中和にとって 甚大な打撃であった。しかし これまでに信仰上の仕込みを受け、
幾多の難関も通り抜けてきていたので、
(植田平一郎)初代会長の出直時のように 甚だしくはなかった。明治41年 天理教一派独立と共に
中和も 明治42年 2月21日 天理教中和教会と改称、
同年(明治42年) 12月2日
初代真柱はじめ 本部員を迎えて 奉告祭を挙行。その時 初代真柱より担任者の決定を促され、
翌年(明治43年) 願書を提出して 9月11日付で許され、
ここに 名実共に植田楢松は 会長の任についた。
中和大教会への昇格(大正初期~大正15年頃)
教祖30年祭には
本部神殿ふしんの上に
特に中和として 基礎工事用の砂を 大和葛城川より採取して献納。30年祭に 信者宿泊用として、
大正2年(1913) 3月島ヶ原教会詰所が他に移転した跡の敷地建物を 郡山大教会より譲り受けて
これを増改築した。
この間 中和は 財政窮迫の極にあり
30年祭を限りとして財政問題を解決したいとの念願は達せられず、
以後数年は またまた種々の債務に対し、
(植田楢松)会長の苦労は続く。教会の母としてよく(植田楢松)2代会長を助けて心を砕いた くに夫人が、
大正9年 9月5日に出直した。その翌年(大正10年) 7月7日(旧6月1日)に 開筵式を挙行した。
教祖40年祭の打出しがあり、
教勢倍加運動の勢いに乗って、
中和は 遅ればせながら教勢の発展を見、
詰所の増築をし、
一方 大教会昇格の願書を提出し 大正13年 6月29日付許しを受け、
教祖40年祭に向かって 力の限り尽くした。(中和)分教会と改称 本部直属となって(明治34年)から、
教祖40年祭(大正15年) までの間に設置された部内教会は 129ヵ所を数え、
明治33年までに設置された45ヵ所を合わすと、
総計174ヵ所となった。その分布は
北陸、山陰、四国地方を除く 全国各府県に及んだ。
植田楢松2代会長の出直(昭和2年頃~昭和4年頃)
教祖40年祭後、
大教会 移転建築の議が持ち上がり、
昭和2年(1927) 5月より準備にかかり、
高田町の北隣 磐園村大字神楽 (現、大和高田市 大字神楽7番地) に土地を求めて 工を進めた。工事途中にして
2代会長 植田楢松は、
昭和4年 5月3日 出直した。
植田英蔵3代会長就任、移転建築(昭和4年頃~昭和6年頃)
3代会長に 植田英蔵 (明治27年10月8日出生、2代会長の3男である) が
同年 (昭和4年) 6月2日就任した。3代会長就任と同時に (植田)英蔵の双肩にかかったのは
大教会 移転建築の完成であった。昭和3年 1月 整地工事を起こしてより
満3年と4ヵ月を費して
炊事場、事務所、教祖殿、神殿、客殿、会長宅、役員宅 その他 付属建物を
敷地 6,000坪、総建坪 1,100余坪、
職人延工数 23,835工、ひのしん延人数 55,200人に及んだ工事も完成して、昭和6年 4月23日、鎮座祭、
翌24日 2代真柱始め本部員、県当局、その他 教内外の来賓百数十名を迎え、
盛大な落成奉告祭を執行した。
新詰所建設、そして3代会長の功績について(昭和10年頃~昭和30年頃)
教祖50年祭に当たっては
本部屋敷拡張の上から 中和詰所の敷地を本部へ献納、
よって 現詰所(川原城町350) の敷地を購入、
1年の突貫工事をなし 詰所建築を落成、
50年祭に間に合わせた。教祖50年祭が終わって
大教会のふしん以来の負債は 相当の額に達していた。こうした中に 二つの大ふしんを完成したのが、
中和として、
明治33年の分離昇格を第1の頂上とすれば、
第2の頂上であった。教祖50年祭には
遠くブラジルに2カ所、関東州に1ヵ所の教会を設置、
海外伝道の端緒となった。昭和14年 3月26日、
津分教会が 中教会に昇格と共に
津軽分教会を残して本部直属となり、更に 昭和16年 3月27日
津軽分教会も 大教会に昇格 本部直属となった。50年祭後 二つの大教会を分離した中和は
一時 教会数も 100ヵ所を下回った。(植田英蔵)3代会長は
昭和11年 4月から本部青年、
翌 (昭和)12年 4月には准員に登用され、
熊本教務支庁長を最初に、
折からの戦時中の本部の諸役を果たし
昭和25年 4月には 本部員に登用され、
教祖70年祭には
特に 準備委員(おやさと委員長)として おぢば敷地の整備に 重要な役目を果した。また (植田英蔵) 3代会長は 文筆にもたけ、
主な著作をあげると『教会事情』(天理教布教部発行、昭和23年)、
『おやしき変遷史図』(天理教教義及史料集成部発行、昭和26年)、
『お言葉集』(道友社発行、昭和27年)、
『お授けの理」(道友社発行、昭和31年)
などがある。
植田平一4代会長(昭和26年頃~昭和50年頃)
昭和26年には
創立60周年記念祭を盛大につとめ、
翌 (昭和)27年 4月、教祖70年祭打出しがあり、
(植田英蔵) 3代会長は 本部の用に専念すべく、
後任 を植田平一に譲ることとなった。4代会長 植田平一は
大正9年 8月9日生まれである。昭和27年10月28日付で 4代会長に就任、
教祖70年祭を目標に「一手一つ」に部内教会共々つとめた。この頃 (植田平一)4代会長は、
青年会本部委員として活躍した。教祖80年祭の打出しより
(植田平一)4代会長は 一段と多忙を極め、
中和部内教会巡回、本部の用と
席の暖まる暇もないほどであった。創立70周年、更に 80周年記念祭には
綜合事務所を建築して それぞれ盛大に執行、
教祖90年祭には 一段と部内の成人をみせて頂いた。なお 中和部内 浮孔分教会が
「よのもと保育園」を経営している。〔出版物〕
『道すがら』(大正10年刊)
『移転建築の概要』(昭和6年刊)
『中和大教会史資料集』(1~2巻、昭和46年~昭和47年刊)
『大教会報』(月刊)〔現住所〕〒635-0025 奈良県大和高田市神楽1丁目4‐57
〔電話〕0745‐22‐5195(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,516~518)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
20回目の今回は、
「中和大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】20回目の当記事では
『天理教事典』の中の「中和大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回もまた、知らないことばかりでした。
中和大教会は、郡山大教会から分かれた大教会ですね。
郡山大教会は、当シリーズ初回で勉強しました。
今回勉強して興味深かったのは、
『中和』の原点と、
植田平一郎初代会長と天竜講との最初の関わりの部分でした。
植田平一郎初代会長が右拇指のひょうそをたすけられて入信し、
布教に励み次々とおたすけが上がった。
その旨を初代真柱に伝えると
「たすけ放しではいかん、講を結ばねばならぬ」
とのお言葉と共に「治心講池田組」という講名を頂いた――
これが『中和』の原点だったというわけですね。
興味深いのは、
その後におちばから橋本清、前川菊太郎両先生が来訪して
「まだ講社の数も少ないから 一時 天竜講と共に布教するがよかろう、講社も千軒出来たら 治心講の講名を元通りにするから」
との話で、
それより 天竜講に付随して布教することになった、
という流れです。
『中和』は、
天竜講(郡山大教会)の中で誕生したのではなくて、
別の場所で芽を出した種が、
ご本部の意向もあって
天竜講という大きな畑に移植して育てられた、
その後 ある程度成長したということで、
そこから独立して自分の畑を持つようになった――
そういう流れだったのですね。
知りませんでした。
教会制度 創設初期は、
教会系統というものもはっきりしていなくて、
きっと 教会の所属というものも
非常に緩やかだったのでありましょう。
個人的には、
そういう「ゆるい」組織形態の方が好きです。
『天理教事典』には表面的な事実しか書かれていないので
分からないことが多いのですが、
明治34年に中和支教会が郡山分教会から分離した後、
教勢も発展し、ようやく当初の苦難を忘れようとしたためであろうか、分教会昇格 かつ 分離の奉告祭を一転機として 中和が難局に遭遇、再び 谷底を歩むようになった。
という記述が気になりました。
一体、何があったんだ?
その後に続けて
初代会長 植田平一郎は この難局を打開しようと 種々 心を砕き、各所へ巡教に次ぐ巡教を重ね、ついに病気となって 明治35年10月2日、57歳を限りとして 惜しくも出直した。
と、それは
初代会長の出直しにつながる程の難局だった
と書かれてありますから、
余程の「難局」だったのでありましょう。
そして、それにより、
植田平一郎初代のご子息・植田楢松先生が2代会長となられた。
この『天理教事典』の記述だけではよく分かりませんが、
今回の『中和大教会』の勉強の中で、
植田楢松2代会長の去就に関する流れというものが、気になりました。
自分の頭を整理する目的で、
植田楢松2代会長の経歴に関わる記述を箇条書きにしてみます。
- 明治19年(16歳)
父・植田平一郎 入信。 - 結婚後、郡山分教会で青年づとめ。
郡山詰所ふしん後に、高田町に移転した中和支教会にへ帰る。 - 明治35年10月2日(32歳)
父・植田平一郎初代会長が57歳で出直。 - 明治35年10月11日(32歳)
2代会長に就任。 - 長男の出直、妹たちの出直などの節が続いた。
- 明治37年頃(34歳頃)
『中和』教勢の衰微が極限に達した。
=分教会内の専従役員に離散する者あり窮乏の淵に沈んだ。 - 明治37年(34歳)
先の教会ふしんの借財も払いきれぬほど 財政困難となり、
植田楢松2代会長は、会長辞任表明。
郡山前会長・平野楢蔵に後任を願った。 - 明治37年 9月30日(34歳)
平野楢蔵 郡山前会長が 中和の教勢財政上の責任を持つことになった。 - 明治40年 6月17日(37歳)
平野楢蔵会長が出直した。 - 明治42年 2月21日(39歳)
天理教一派独立と共に 天理教中和教会と改称。 - 明治42年 12月2日 (39歳)
奉告祭を挙行。
その時、初代真柱より担任者の決定を促された。 - 明治43年 9月11日(40歳)
植田楢松、会長に復帰。 - 昭和2年 5月(57歳)
大教会 移転建築にとりかかり、高田町の北隣 磐園村大字神楽(現、大和高田市 大字神楽7番地)に土地を求めて工事を進めた。 - 昭和4年 5月3日(59歳)
移転建築途中において、出直。
箇条書きにすることで、
私の中で、植田楢松2代会長の苦悩の歴史を
ストーリーとして捉えることが出来ました。
植田楢松2代会長は、
父・植田平一郎初代会長の突然の出直しにより、
32歳の若さで会長に就任されたのですね。
しかし、諸事情が重なって、
会長を辞任し、郡山前会長 平野楢蔵に 後任をお願いした。
しかし、その平野楢蔵郡山前会長が、
その3年後には 出直してしまった。
私が目を引いたのは、
その2年後に天理教一派独立に伴い『中和』が天理教中和教会となることの奉告祭が執行された、
その際、初代真柱より担任者の決定を促された、
という記述でした。
エ?
では、奉告祭は
担任者不在で執行したということ?
明治40年に平野楢蔵先生がお出直しされて、
明治42年に奉告祭が執行されたわけですから、
この記述からは、
その間2年間は 担任者不在だった、
というふうに読めます。
中和大教会ほどの立派な大教会でも、
その初期には 2年近くも担任者空席の時代があった、
ということなのでしょうか。
今の立派な中和大教会しか知らない者にとっては、
実に意外な史実です。
で、中和教会改称奉告祭の際に
初代真柱より早く担任者を定めよ、
と促された。
それを受けて(きっと様々なドラマを経て)、
一度は辞職を表明していた植田楢松先生が、
会長職に返り咲くこととなった。
『天理教事典』の中では淡々とした記述に過ぎませんが、
時系列に並べて それをなぞってみると、
その裏に、
おそらくとてつもなく深い人間模様が潜んでいるであろうことが、
容易に想像されます。
『天理教事典』の記述から、
以上のようなストーリーを私は読み取ったわけですけれども、
以上のストーリーというのは、
『天理教事典』の記述だけを根拠とした私の受け留めでありまして、
実は、私は『天理教事典』以外の資料を一切当たっておりません (^^ゞ
たった一つの資料から
勝手な流れを創り出した私の妄想である可能性もあるわけで… (-_-;)
もしかしたら、とんでもない勘違いをしている所があるかもしれない、
と不安な気持ちもあります。
しかし、毎回述べさせて頂いておりますが、
当ブログは、単純に自己学習目的のものであり、
何らかの主義主張を行うことを意図したものではありませんので、
読者の皆様には その点ご了承いただければ幸いです…。
たまたまこの記事に遭遇した関係者の方の中で、
もしも不愉快な思いをされた方がありましたなら、
どうか ご容赦願います。
また機会があれば『中和大教会史』等のきちんとした資料に当たってみたい…
そのように思っております。
今回の「おわりに」では、
特に 植田楢松2代会長の歴史を重点的に取り上げました。
というのも、
今回の『天理教事典』の記述の中で、
植田楢松2代会長の経歴が、最も私の中の共感を呼ぶものであったからです。
植田楢松先生は、
父親が信仰熱心で、
その子供として父親亡き後、
その後を継ぐことを期待された。
それで、若くして父親の後を継ぎ教会を引き継いだが、
節が重なり、会長職の辞職を願い出るに至った。
おさしづにて会長職辞職のお許しが出て、平野楢蔵先生に後事を託した。
しかし、その平野先生が3年後には出直してしまった。
その後、初代真柱様より
「空席となったままの担任者を早く定めよ」と促された。
様々な葛藤を乗り越えて(…この部分は想像です(^^ゞ)
再び、会長職に復帰する肚を決めた――
自ら飛び込んだわけでなく、
親譲りで、
いまだに足元定まらずフラフラしている落第信仰生の自分にとって、
植田楢松先生の人生に、非常にシンパシーを感じるのであります。
植田楢松先生の御霊、あるいはその関係者の方々からは、
お前と一緒にするな、と怒られそうですが… (-_-;)
植田楢松先生が会長職を辞職したいと願い出た際の『おさしづ』を、
後学のために コピペしておきます。
明治三十七年 九月三十日
中和分教会
従来 植田楢松 分教会長たりし処
都合にて辞職に付、
後担任 平野楢蔵に変更願
さあ/\ 尋ねる事情/\、
さあ 尋ねる事情 前々事情 又 前々事情、
だん/\ 事情、
さあ/\ 皆々 事情尋ね出る事情は 容易やあろまい/\。
さあ/\ 前々事情一つ、
又一時 事情を以て こうという理 尋ねる。
尋ねるには、皆 それ/\ 寄り合うた中の理、
どうせいこうせい、これがよかろう あれがよかろう、
精神 皆々の心の精神、心精神、
皆々 心の精神 又々事情、
さあ 変わる人という、容易やあろうまい/\。
一つ事情精 神一つ事情、
何かの処という、皆々の心という。
何であろう/\、何であろうが よう聞き分け。
いかなる事も どういう事も、危ない怖わい。
先という道は 鮮やかという道である。
暫くの処/\、十分の保護してやってくれ。
いかなる事、精神 皆々の心に 許し置こう/\。
本当に、どんな組織にも、
長い歴史の間には いろいろなことがありますね…
今回も、非常に勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「中和大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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