天理教 各教会の歴史探索(第115回)【神崎大教会】『天理教事典』より

「神崎大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号114番「古市大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号115番「神崎大教会」について勉強します。

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神崎大教会(かんざき だいきょうかい)

ホームメイトリサーチ旅探天理教神崎大教会 より

藤原吉蔵の入信、喜多村 真明講の結成(明治16年)

明治16年(1883) 、
兵庫県加東郡 喜多村(の)、
藤原勘兵衛の次男・藤原吉蔵 (後の初代会長) が 成年に達した頃(のこと)、
兄夫妻の 長男・八太郎 (後の2代会長) が、生まれて間もなく、鵝口瘡(を患った。

藤原吉蔵は、その甥である 八太郎)の患いから、
当時 大和の 生神様の流れを受け 信仰している(ということで評判になっていた)「三木真明講」を訪ね(た。

藤原吉蔵は、三木真明講を訪ねると、そこで) 教話(を聴き、その上で 八太郎の) 身上おたすけの願 をして貰った。
(そうしたところ) 不思議な御守護を 頂いたのであった。

(不思議な御守護の姿を見せられた 藤原吉蔵は) そのあざやかさに胸うたれ、次第に 信仰を固め(た。
そして、そこから ついには) 布教に専念するまでに至った。

(藤原吉蔵は) 後に「喜多村 真明講」を結成した。

神崎の道の広がり(明治21年頃~明治22年頃)

明治21年(1888)、
(藤原吉蔵の) かかる熱心な布教により、
年月を経ると共に 教えの流れは、(兵庫県加西郡) 黒川・古阪・北条へと伸び、やがて神崎郡へ(と) 伸び(ていった。

そして)「喜多村 真明講」の流れを受けた 相江宗兵衛により (兵庫県神西郡) 鶴居村・宮木佐助の孫の 皮膚病がたすけられた事から、鶴居・寺前 (方面) へも (教えが) 広まっていった。

(兵庫県神東郡) 吉冨の 藤原米蔵も、父・源蔵の病気から入信。
一帯に教えは広まり、神崎郡の道は、1~2年の間に、
(兵庫県神西郡) 鶴居・(兵庫県神崎郡) 寺前・(兵庫県神東郡) 吉冨… へと 電光石火の勢いで伝わっていった。

吉冨 真明講の結成(明治22年)

明治22年(1889)、
藤原米蔵を講元として「吉冨 真明講」が結成された。

翌年(明治23年)、 (道はますます伸び広がり)
更に、(兵庫県) 粟賀・大畑・杉・高潮田・宮野・南小田・上小田・宍粟郡染河内・下三方・西谷へ、
更に、(兵庫県) 神西・神東両郡 北部を席捲し、西は 宍粟郡へと伸びた。

教会設立運動 ~ 神崎支教会の開設(明治24年~明治25年)

明治24年(1891)、
折から(の) 各地に(おける) 教会設立の機運高まり(を受けて、吉冨 真明講でも 教会設立の動きが出てきた。
そして) 藤原米蔵・宮本三次郎・宮本栄太郎… 等が 発起人となり、近在各講社の賛同を得て、喜多村 真明講長・藤原吉蔵を尋ね、会長の就任を 懇願することとなった。

(関係者一同) 話し合いを重ねて、漸くにして (教会)設立の運びとなった。

明治24年(1891) 10月、
設立場所を (兵庫県) 神崎郡大山村吉富に決定。
名称を「神崎支教会」とした。

翌年(明治25年) 4月21日、
(兵庫県) 加東・加西・神西・神東・多可 の 各講社合わせて 203名の連署を得、
三木支教会長・兵神分教会長 の添書を得て、(天理教)教会本部に 神崎支教会 設立願を提出。

明治25年4月24日、
おさしづ をもって、(兵庫県) 吉冨村1606番地に 教会設立と 神殿 及 事務所の建築の許しを得た。

神殿建築 ~ 盛大な開筵式(明治25年)

同年(明治25年) 9月、
敷坪207坪に 6間に9間の神殿を上棟。

同年(明治25年) 12月23・24日、
兵神分教会長代理・増野正兵衛の臨席のもと、
天理教 兵神分教会 神崎支教会 の鎮座祭と 開筵式を 盛大に執行した。

当日は、教堂の新しき白壁が 押し合う人の着物の紺で 色青くなったといい、
また 山間農村にもかかわらず、道路は 隣村に至るまで 車馬通行止めの願いが警察に出されたという。

教勢拡大(明治26年~明治27年)

明治26年(1893)、
遠く 広島布教から山口県に、また (兵庫県) 宍粟郡から 山陰へ、多くの講社の結成を見るに至った。

かく広がる 神崎の教勢は、各地に 次々と (新たな)布教所の設置(という現象)として現れた。

明治27年 1ヵ所、(明治)28年 1ヵ所、(明治)29年(には) 2布教所・1出張所、
(以上)が設置された。

この年(明治29年)、
(藤原吉蔵)会長・宮本栄太郎・藤原米蔵…等の家族が 教会に 次々と住み込んだ。

天理教青年会 神崎分会の前身「青年同志会」の創設(明治36年頃)

明治36年(1903)、
藤原八太郎 (後の2代会長) は、「青年同志会」を作り、
教理研究や みかぐらうた練習等をして 青年の信仰を培い、天理教青年会・神崎分会 設立の基礎を作った。

教祖20年祭前後の動き(明治39年頃~明治41年頃)

明治39年(1906)、
教祖20年祭に(は) 百数十名(もの人々が)「おぢば団参」を行った。

明治41年12月、教祖殿(の) 建築を行った。

神崎分教会へ改称(明治42年)

翌(明治)42年、
天理教独立により、
天理教 神崎支教会は、(明治42年) 2月10日、分教会と改称。

(それと共に) 部内教会も、それぞれ昇格改称した。

藤原八太郎2代会長の就任(大正9年)

大正9年 10月9日、
藤原八太郎が、2代会長に就任(した)。

教祖40年祭活動、教勢の大躍進(大正10年頃~大正15年頃)

翌(大正)10年、
(天理教教会本部より) 教祖40年祭(が) 提唱されるや、
(藤原八太郎)2代会長は、(神崎の) 教勢も 次第に上昇の気運にて、役員とはかり、前回(の) 教祖30年祭時の沈滞を挽回すべく、年祭活動をつとめ切る(という)ことを 決議した。

(神崎分教会一同は、教祖40年祭に向けて 渾身の年祭活動を) 実行。

その結果、(神崎の教勢は) 躍進的に発展を遂げ、
大正11年 1ヵ所、12年 2ヵ所、13年 5ヵ所、14年 12ヵ所…
以上の (新設教会の) 設立を見て、
(神崎の部内教会は) 従来(の) 14ヵ所から、一躍 34ヵ所となった。

藤原吉蔵 初代会長の出直し、藤原八太郎2代会長の出直し

(藤原吉蔵) 初代会長は、
(上級) 兵神大教会 移転(の上)に 委員として (全身全霊こめて) つとめ切り、一応 これを企画して出直し(た。

そして、藤原八太郎)2代会長も、
その後を継いで 神殿建築のすべてを完了し、出直した。

藤原しな3代会長の就任(昭和3年)

昭和3年10月7日、
藤原しな が、3代会長に就任した。

教祖50年祭活動、教勢拡大(昭和9年頃~昭和11年頃)

(教祖50年祭前の 神崎部内) 教会(の)設立は、
昭和9年 3ヵ所、(昭和)10年 1ヵ所、(昭和)12年 2ヵ所…
(以上) 6教会を新設した。

それと共に、(神崎分教会一同、教祖50)年祭(の) 御用の上に (全力で)つとめ、
(教祖50年祭が執行された) 昭和11年(1936) には、
神崎部内より 一度に 50人を越す 別科生を出し、教勢が (大きく)伸展した。

神崎大教会へ昇格・藤原道夫4代会長の就任(昭和18年)

また、(神崎分教会は)
昭和16年から17年にかけて 教会増設を計り、6教会を新たに新設した。
(そして) ここに 部属教会数 48ヵ所を数えるに至った。

かくて、兵神大教会長の親心を受け (神崎分教会は 大教会へ陞級することとなった。)

昭和18年(1943) 4月5日、
(天理教教会本部より) 大教会陞級の許しを受け、
天理教神崎大教会として 本部直属教会となった。

(また) この昇格と同時に、
同年(昭和18年) 3月27日、
藤原道夫が 4代会長に就任した。

信者詰所の開設(昭和24年)

昭和24年(1949)、
奈良県丹波市町に 詰所を建築し、
参拝信者の修行所として、真柱の臨席を得て (信者詰所を) 開設した。

昭和20年代の教会設立数

昭和21年より (昭和)30年にかけて、
5ヵ所の (新たな) 教会設立をみた。

創立60周年記念祭(昭和27年)

昭和27年(1952)、
明治25年に 神崎支教会が創立されてより幾星霜を重ね、ここに 60周年を迎えるに至ったことを受けて、
(神崎大教会は) 盛大に その(創立60周年)記念祭を執行した。
教信者(の)参拝数(は) 2千有余を数えた。

徳之島の日本返還 ~ 徳之島へ教会設立(昭和30年)

天理教徳之島分教会
Googleストリートビューより

昭和28年、
旧鹿児島県大島郡 徳之島が、
アメリカ軍より日本政府へと返還され、自由に往来出来るようになった。

(徳之島では) 10年程前から、西田嶋英という布教師が、地道に 熱心な布教を続けていた。

徳之島が 日本復帰し、大勢の信者が おぢばへ次々と帰参。
別席、修養科… と 更に信仰を深めていった。

(そして) 昭和30年には、徳之島に教会を設立するまでに至った。

昭和33年~昭和36年の教会設立数

昭和33年から36年にかけて、
(新たな) 2ヵ所の教会が 設立された。

新たな神殿ふしん(昭和37年~昭和40年)

昭和37年(1962)、
神殿が、明治25年建築のもので 古くもなり (また) 手狭ともなったので、新神殿の建築に着工。
(工事は) 3年で 完成(した)。

昭和40年11月15日、
真柱臨席のもとに、その (神殿)落成奉告祭を執行した。

昭和42~43年の教会設立数

昭和42年から43年にかけて、
神戸と姫路に (新たな) 教会 2ヵ所(が) 設立(された)。

また、同年(昭和43年)には、別席千名団参を実施した。

〔現住所〕〒679-2434  兵庫県神崎郡神河町吉富1606
〔電話〕 0790-32-0020

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,220〜222)

おわりに

Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第115回目の今回は、
「神崎大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

神崎大教会GoogleMap①
Google Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも、神崎大教会に関する記述が ほんの少しだけありましたので、自己覚え書きとして書写します。

三木真明講は 三木に発して 加古川本流をさかのぼり、
藤原吉次郎は 兄の子の鵝口瘡がこうそうより入信した 藤原吉蔵と共に 布教に専念、
二十五年、神崎郡 吉富に設置した 神崎支教会の担任に 吉蔵が、
加西郡北条の加西支教会の担任に 吉次郎が推され、
二つの教会は 発展していく。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,82)

神崎大教会は、兵神大教会から分かれた大教会ですね。
兵神大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

神崎大教会Googleストリートビューより②
Googleストリートビューより

今回「神崎大教会」について勉強するにあたって、
「あれ?神崎大教会って 以前 勉強したことなかったっけ?」
と思って、当シリーズを遡って 検索してみました。

そこで、出てきたのが「神川大教会」

当シリーズ第43回で「神川大教会」について勉強していました。

「神崎大教会」と「神川大教会」を混同したのですね (^^ゞ

もう1年以上も前の記事ということで、お恥ずかしながら内容をすっかり忘れており、
第43回「神川大教会」を改めて、読み返してみました。

読み返すことで 記憶が蘇ってきました (^^)

「神川大教会」は【中河大教会】から分かれた大教会でしたね。

神川初代の多鹿清長先生は、一度 棺桶に入れられたのを 天理教の布教師のおさづけにより生きかえられて(‼︎) その後「北分教会」所属の 広岡藤吉先生から教えを聞いて 入信された。
しかし、その後、広岡先生と意見を異にして 袂を分かたれ、河内国の 吉井捨吉先生の「真理講」に入られた。
そして、そこを拠点として布教に励まれ「富田出張所」を設置。
その「富田出張所」が発展して「神川大教会」になった。
吉井捨吉先生の「真理講」が【中河大教会】の一部だったということで「神川大教会」も【中河大教会】部内となった――

第43回「神川大教会」を読み返して、そのような史実を 再確認しました。

神崎大教会Googleストリートビューより③
Googleストリートビュー より

一方、今回勉強した「神崎大教会」は、
藤原吉蔵初代会長が 兄の子(甥)の鵝口瘡を「三木真明講」の人々によっておたすけ頂いたことによって入信し、そこを元一日とする教会ということで、兵神大教会の部内となられた とのこと。

『天理教事典』「神川大教会」解説文のよると、
「神川大教会」の前身である富田出張所が設立された場所は、兵庫県加西郡 富田村之内畑。(=現在の兵庫県加西市)
富田出張所から神川支教会へ昇格する際に移転した場所は、
兵庫県神東郡 川辺村西川辺(=現在の兵庫県神崎郡 市川町西川辺)

そして、今回勉強した『天理教事典』「神崎大教会」解説文によると、
「神崎大教会」が設立された場所は、
兵庫県神崎郡 大山村吉富。(=現在の兵庫県神崎郡 神河町吉富)

兵庫県大教会位置図
Google Mapより

GoogleMapで確認してみると、非常に近いことが分かります。

近距離で誕生して、名称もよく似ている。
一見、兄弟教会のようにも見えます。

しかし、今回勉強して、全く異なる経緯で成立したということがわかりました。

神崎大教会Googleストリートビューより④
Googleストリートビュー より
元一日 講上級設立年月日大教会昇格日
神川大教会真理講中河明治26年2月26日昭和15年2月3日
神崎大教会三木真明講兵神明治25年4月24日昭和18年4月5日

「神川大教会」と「神崎大教会」に限らず、非常に近い場所に大教会が存在しているというのは、その他の地域でも多く見られて 珍しいことではないのでしょうが、
「神川大教会」と「神崎大教会」の場合は、近所であると同時に、名前もよく似ているので、部外者には混同しやすい… (~_~;)

それで 私も 間違えました (^^ゞ

しかし――
これだけ近いのですから、当時は 今のような教区・支部活動がなかったとはいえ、それぞれの教会に所属する人々の間で 何らかの交流はあったのではないか、と思うのですが、どうなのでしょうか…
「おぅ、あんたは 多鹿先生のとこへお参りしてんのか、ワシは 藤原先生のとこへ参らせてもろてんねん」みたいな感じで。

もしも 仮に そのような交流があったとして (あったかどうか わかりませんが (^^;)… )
「神川支教会」に所属する人々は おぢばにつながるにあたって【中河大教会】を経由し、
「神崎支教会」に所属する人々は【兵神大教会】を経由する ということに対して、
当時の人々は どのような思いを抱かれたのか、ちょっと気になります。

これまでの当シリーズ学習の中で、
現存する天理教教会の系列というのは、教会草創期の ちょっとした人間関係によって出来上がったものが多々あり、その初期においては 現代ほどに重要視されたものではなかった、ということを学んできました。

そういった史実からしても(あくまで 私の想像ではありますが)
教会草創期に「神川大教会」にご縁を頂いた人も「神崎大教会」にご縁を頂いた人も、
自分の参り場所が【どこの系列であるか】ということが 意識に上ってくることなど、ほとんどなかったのではないか、と思います。

そう考えると、
当時の先生方が、「系列」を非常に重要視している 今の天理教教会の在り方を見ると
「何を そんな所にこだわってんねん」と驚かれるかもしれないなぁ… などと 思ったりしました。

…思いつくまま書き進める内に、だんだん 内容が 体制批判的な方向に進んでしまいました (~_~;) 

以上は、決して 批判的な文脈で綴ったわけではなくて、あくまでも、信仰落第生が 勉強する際に心に浮かんだ 単純で表面的な一つの感想を、深い考えなく 軽い気持ちで 書いたものに過ぎません。

いつも書いております通り、
当ブログは 何らかの主義主張を行おうとするものではなく、
単純に 自己学習発表の場として運営しておりますので、その点 ご留意 頂ければ幸いです。

個人的知識不足により「神川大教会」と「神崎大教会」を混同したことから、まとまりない事柄をダラダラと書き連ねてしまいました。

だから何?という情報であることは 重々 承知しておりますが、
今回の勉強にあたって、真っ先に 大きなインパクトを受けた点でしたので、あえて書かせてもらった次第です (^^)

神崎大教会写真③
ホームメイトリサーチ旅探天理教神崎大教会 より

その他にも、
「神崎支教会」開設にあたっての鎮座祭・開筵式においては、教堂の新しい白壁が 押し合う人の着物の紺で色青くなり、また 山間農村にもかかわらず、当日の道路は 隣村に至るまで 車馬通行止めの願いが警察に出された程の盛況であった、という話。

また、
神崎大教会部内の 西田嶋英先生が、戦前から「徳之島」へ布教に出られ、戦中戦後 アメリカ占領という大混乱の中も 信仰を守り通され、徳之島の日本復帰後には 大勢の方が おぢばがえりして、昭和30年には「徳之島」に教会を設立された、という話。

どれもこれも、知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「神崎大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

神崎大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教神崎大教会 より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「神崎大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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