Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号112番「東海大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号113番「大鳥大教会」について勉強します。
- 大鳥大教会(おおとり だいきょうかい)
- 抽冬鶴松初代会長の入信
- 抽冬鶴松の「神徳講」第2番講元 就任(明治13年)
- 神徳講 第2番講の高安分教会入り、「光道講」第3号へ改称(明治22年)
- 抽冬夫妻が歩んだ教祖ひながたの道(明治23年頃〜明治25年頃)
- 大鳥支教会の開設(明治25年)
- 教会移転(明治26年)
- 抽冬鶴松 初代会長の 上級・高安分教会への伏せ込みに伴う混乱 ~ 収束と成長(明治26年頃~明治30年代)
- 教会敷地の献納、新天地への教会移転
- 相次ぐ部内教会の設立(明治30年代~明治40年代)
- 抽冬鶴松 初代会長の辞任、抽冬増太郎2代会長の就任(大正4年)
- 抽冬増太郎2代会長の活躍、教勢の拡大(大正4年頃~大正8年頃)
- 大鳥分教会へ昇格(大正8年)
- 教勢の拡大(大正8年頃~大正)
- 教祖40年祭活動、信者詰所ふしん(大正11年頃~大正15年頃)
- 抽冬鶴松 初代会長、抽冬努、2代会長夫人、連続出直しの節(昭和3年~昭和5年)
- 節を乗り越えての飛躍発展 (昭和初期~昭和12年頃)
- 大鳥大教会へ昇格(昭和17年)
- 終戦前後(昭和20年頃)
- 教会移転の動き、新天地の取得(昭和22年)
- 抽冬増太郎2代会長の大阪教務支長就任、教区活動と移転工事の同時進行(昭和23年頃〜昭和25年頃)
- ジェーン台風による移転延期の節を乗り越えての復興ふしんの完成(昭和25年)
- 信者詰所の変遷(昭和26年〜昭和28年頃)
- 抽冬うた初代会長夫人の出直し(昭和29年)
- 抽冬道信の3代会長就任(昭和36年)
- 抽冬増太郎2代会長の出直し(昭和37年)
- 新たな神殿ふしん(昭和41年頃〜昭和47年頃)
- おわりに
大鳥大教会(おおとり だいきょうかい)

抽冬鶴松初代会長の入信
初代会長・抽冬鶴松は、
(元治元年(1864) 12月23日)
大阪府大鳥郡 上神谷村字富蔵 (現・堺市富蔵町) にて
抽冬楠治郎の長男として生まれた。(抽冬鶴松は) 幼少の頃より虚弱で、持病の胃病に悩まされ、
16歳の頃、病重く危篤状態になった。
その時に、
親戚の者の口次ぎで、南河内郡飛鳥村 (現・羽曳野市) の浅野喜市 (古市大教会初代会長) を紹介されて、初めて おぢば に参拝した。(おぢばがえりした抽冬鶴松は) 豆腐屋旅館に泊まり、中山重吉の取次ぎで教祖にお目通りを許された。
その時 教祖は、
「可哀そうに」と仰せられ、教祖が肌身につけておられた真紅の肌襦絆をお脱ぎになって、(抽冬鶴松に) 頭から 被せて下さった。(教祖が肌身につけておられた肌襦絆を頭から被せて頂いた抽冬鶴松は) 教祖の肌着の温みを身に感じると同時に、
(そこから) 薄紙を剥ぐ様に快方に向かい、1週間の滞在で すっかり病気は癒った。その時の赤衣は、大教会の宝物として大切に保存されている。
抽冬鶴松の「神徳講」第2番講元 就任(明治13年)
難病を救けられ、喜びに燃える(抽冬)鶴松は、
身命を神に捧げて 生涯を世界だすけに専念する事を誓い、日夜 寝食を忘れて布教に東奔西走した。明治13年(1880) 2月、
(柚冬鶴松の熱心な布教によって) 信者数世帯も (かなり)出来(てき)たということで、
(抽冬鶴松は) (天理教教会)本部から「神徳講」第2番 の講元を命ぜられた。しかし、教勢の伸展と共に、それをねたむ僧侶等を始めとする 反対者の迫害が激しく(なって いつの間にか) 四面楚歌(の状況となってしまい、抽冬鶴松は そのこと)を歎いていた。
神徳講 第2番講の高安分教会入り、「光道講」第3号へ改称(明治22年)
明治22年の春、
のちの高安大教会 初代会長・松村吉太郎と、(天理教教会)本部より 平野楢蔵が来訪。
高安分教会(を) 設置することになったので その部内となるように、と話があった。丁度、(抽冬鶴松は) 外部の圧力に孤軍奮闘の折とて、
(松村吉太郎と平野楢蔵からの申し出は) 百万の味方を得た心地で(あった。)
(抽冬鶴松は) 直ちに来訪の趣意を受け、
(神徳講第2番講を) 名も「光道講」第3号と改称し、高安分教会に所属する事となった。
抽冬夫妻が歩んだ教祖ひながたの道(明治23年頃〜明治25年頃)
しかし、その頃より 経済上の窮乏が加速度的に増し、
(抽冬鶴松が) 家督を相続した明治23年頃には、かさむ負債に堪えられなくなった。神様へのかねてからの約束もあって、
(抽冬鶴松は) 田畑山林等 全財産を清算納消する事となった。
(全財産を清算納消するに当たって) 親戚縁者、特に 妻・うたの里方の猛烈な反対に逢った事は 言うまでもない。しかし、その様な事情は、(抽冬)鶴松夫妻の信仰信念を 益々 強固ならしめ、
(抽冬夫妻は、その後も) 教祖ひながたの道を 欣然と踏み行った。
大鳥支教会の開設(明治25年)
(抽冬夫妻による熱烈な布教の)結果、布教の実が次々に上がり、
明治25年(1892) 1月21日、
晴れて高安分教会「大鳥支教会」設置の許しを (天理教教会)本部より頂いた。
教会移転(明治26年)
(大鳥支教会は)
信者の急激な増加に伴い、教会敷地、神殿建物が狭くなったので、
役員協議の上 (教会移転を天理教教会本部へ) 願い出た結果、
(大阪府大鳥郡) 同村(上神谷村) 大字釜室(かまむろ) 664番地 (現・堺市) へ移転する許しを得た。
明治26年(1893) 1月 (のこと)である。当時の建物(は) 神殿28坪、教職舎16坪、事務所6坪(であった)。
抽冬鶴松 初代会長の 上級・高安分教会への伏せ込みに伴う混乱 ~ 収束と成長(明治26年頃~明治30年代)
明治26年(1893) 1月、(抽冬鶴松は) 高安分教会の役員として 会計係を命ぜられ、それと共に (高安の) 修理人ともなった。
(その頃には 大鳥支)教会の基盤も固まってきていたこともあり、(大鳥支)教会の運営の大半を役員に委ね、
四国・九州・東京等へ出張、不振教会の整理等にあた(るようにな)った。(その後) 明治32年(1899) 5月31日の おさしづ により、
抽冬一家は、挙げて (高安)分教会に住み込む事になり、親教会のつとめに専念する事となった。しかし、留守をまかせた (大鳥支)教会内の役員の間に 人間的な争いが生じ(るようになった。)
また、経済的にも行き詰まる所となり、教勢が 急に沈滞し始めた。(大鳥支教会は) 種々の事情が入り混じって、何時 解散せねばならないかも知れぬ(程 重苦しい) 状態となっ(てしまっ)た。
(苦難の時代を迎えた大鳥支教会であったが) しかし、これも 過渡期の節であった。
(この時の混乱は) 役員間の心の練り合いの好機ともなって、(その後の) お互いの反省により、かえって良い結果を生む事につながっていった。
教会敷地の献納、新天地への教会移転
当時、(大鳥支)教会の敷地は借地で、年毎の借地料の支払いに事欠き、多額の滞納にごうを煮やした地主から買取るよう迫られた。
(そのような状況に追い込まれて、抽冬鶴松) 会長始め 役員一同(が) 苦慮している時、
親神の御守護と言うべきか、或る信者から、敷地の献納の申し出があった。(その申し出によって、大鳥支教会は)
(これまでの) 信者の参拝にも不便 かつ 狭隘等(の) 種々問題のあった土地から離れて、新地 しかも 広いところに移転をすることとなり、喜び勇んで (教会)移転の事業にあたった。
相次ぐ部内教会の設立(明治30年代~明治40年代)
併せて、熱烈な布教活動により、
(大鳥支教会の) 教線は、地元・泉州一円は勿論(のこと)、遠く(離れた) 東京方面にも及び、
明治41年(1908) 11月(には)、東京に 辨天町宣教所の設立を見た。
部内教会の最初の設立である。次いで、翌(明治)42年3月、
地元・泉州地区に、三林・泉深・大美・鳳・泉池・泉内、
また、大阪市内に、宰相山宣教所が 設立された。
抽冬鶴松 初代会長の辞任、抽冬増太郎2代会長の就任(大正4年)
この様に、大鳥(支教会) としての基礎は 着々と築かれていったのであるが、
(その一方、抽冬鶴松 初代) 会長の健康がすぐれず、教会の激務に堪えられなくなっ(ていっ)た。そこで、(抽冬鶴松 初代会長は)
大正4年 (1915)、後継者である長男に (教会の) 担任を譲り、自らは 高安(大教会)の教務に専念する事となった。
抽冬増太郎2代会長の経歴
2代会長・抽冬増太郎は、
明治19年(1886) 9月10日、
(抽冬鶴松) 初代会長の長男として生まれた。幼時、高安分教会で養育され、
明治36年(1903) 3月、天理教校を卒業。
同年(明治36年) 7月、教導職試補拝命。
同(明治)38年12月、おさづけの理 を拝戴。
(その後) 高安会長の命により、東京方面・静岡県焼津方面に 単独布教に出かけた。(単独布教の上に) 多大の足跡を残して 大鳥(支教会) に帰り、
(大鳥に帰ってからは) 明治42年(1909) 3月設立の 三林宣教所 の設置に骨を折り、自ら その初代所長に就任した。
抽冬増太郎2代会長就任の背景
当時の大鳥(支教会) は、教勢の伸展に反し 多額の負債を抱え(ていた。
また)、経済上 極度の疲弊に加えて、(抽冬鶴松 初代)会長の身上(も)すぐれぬため、
高安大教会長の考えにより、
(前述の如く) 大正4年(1915) 3月、
窮乏にあえぐ大鳥に起死回生の御守護を頂くべく、
三林宣教所長の職を、役員・大中駒太郎に譲り、
同年(大正4年) 大鳥支教会 (2代会)長に就任した(というわけである)。
抽冬増太郎2代会長の活躍、教勢の拡大(大正4年頃~大正8年頃)
(抽冬増太郎2代会長は) 就任早々、
借金に苦しみながらも、新進気鋭の溌剌とした信仰により、
部内教会の修理、また、(大正5年執行の) 教祖30年祭(に向かう年祭)活動の只中(における) 高安大教会の御用…等、次々と 肩にのしかかる御用を 勇んで勤め切った。(抽冬増太郎2代会長は)
この間、教友から借金王と呼ばれる程(の)「借金の常習者」の如く見られながらも、(大鳥支教会の) 教勢の伸展は止まる事なく、
大正4、5、6、7年 と年を逐って、部内教会、泉神・石神・大浪華・大郷 … 等の設置を見た。(また) 大正8年(1919) 1月25日(には)、
青年会大鳥分会を設け、青年会活動の本格的始動を起こした。
大鳥分教会へ昇格(大正8年)
部内教会の増設等 盛上がる意欲は、幾多の苦難を突破し (大鳥支教会内部でも) 分教会昇格の機運が高まりつつあった。
そのような中、(松村吉三郎) 高安大教会 初代会長の勧めによって、(分教会へ昇格) 出願の運びとなった。
(そして) 同年(大正8年) 2月28日、めでたく分教会昇格の許しを得た。
教勢の拡大(大正8年頃~大正)
(大鳥は、分教会に昇格した) 勢に乗じて、
部属、岸ノ里・高泉・大畑・大玉津・八洲 (その後 泉宝と改称)、
以上の 宣教所設置を見た。また、道の土台として欠かす事の出来ない婦人達の活動を組織立てて活発にするため、婦人会大鳥委員部が設けられたのも、その頃である。
教祖40年祭活動、信者詰所ふしん(大正11年頃~大正15年頃)
(大鳥分教会は)
大正11年、(天理教教会本部より) 教祖40年祭 (=大正15年執行) が提唱(されるの)と共に、部内一手一つとなって年祭活動に奔走。
(また) 併せて、参拝信者のため、大鳥専用詰所の建築を申付けられたので、早速 着手した。
しかし (この頃の大鳥分教会は、丁度) 年祭の御奉公に 漸く 疲れの出た時期(であった)だけに、財政に行き詰まってしまった。(それで、松村吉三郎) 高安初代会長に 多大の心労をかけながら、所謂「8号館宿舎」を、 (何とか) 竣工(することが出来たのだった)。
(大鳥分教会) 部内一同(は)、感激の裡に、(大正15年) 教祖40年祭を迎えた。
抽冬鶴松 初代会長、抽冬努、2代会長夫人、連続出直しの節(昭和3年~昭和5年)
(感激裡に教祖40年祭をつとめ終えた大鳥分教会であったが)
しかし、年祭後の心の緩みに対する 親神のお仕込みか、
昭和3年(1928) 6月11日、
初代会長・抽冬鶴松が出直した。それに続いて、(なんと 抽冬増太郎2代会長の) 長男・努 が出直し、
そして、昭和5年(1930) 2月15日、2代会長夫人 が出直すという(という大きな節が連続して起きた。)(大鳥分教会は、
昭和3年から昭和5年にかけて) 2年に3人の葬儀を出すという (とてつもなく大きな) 悲しみ(に包まれた。
それ)と共に、財政の深刻な窮乏(状態) に陥ってしまい、
昭和初期の 大鳥(分教会) の歩みは、筆舌に表わせぬ 苦難の連続であった。
節を乗り越えての飛躍発展 (昭和初期~昭和12年頃)
(筆舌に表わせぬ 苦難の連続に見舞われた大鳥分教会であった)が、
踏めど刈れども絶えぬ (大鳥一同の) 雑草の様な根強い信仰は 幼少の頃より培われた賜であり、
それが 教祖50年祭 (昭和11年執行)・立教百年祭 (昭和12年執行)を迎える旬を契機として、一大飛躍発展を遂げる 大きな踏み台となった。
大鳥大教会へ昇格(昭和17年)
果たせるかな、大難局を乗り越え大洋に出た折、
昭和17年(1942) 春、
(松村吉三郎) 高安初代会長より、この機に分離陞級せよ との内示があり、
親心に感激しながら その準備に取り掛りかかった。(そして) 同年(昭和17年) 5月28日、
(天理教教会)本部の許しを得て、晴れて「大鳥大教会」に 分離陞級した。
終戦前後(昭和20年頃)
他面、(日本)国は 挙げて 太平洋戦争遂行の時であった。
(そのような) 国策に順じて (天理教における) 布教活動も、十分にできない状態が続いた。(そのような苦しい状況が続いたが、昭和20年) 多大の犠牲を残した戦火も漸く治まって、終戦を迎えた。
国全体が疲れ切った飢餓状態の中から、(大鳥大教会は) まず立ち上がり、
教勢の復興はもとより、復元のおぢばの意を体して 部内一手一つとなって、
新生日本のため、天理教の使命を充分に果たすべく (新たに) 出発した。
教会移転の動き、新天地の取得(昭和22年)
その内、(終戦前後の混乱が) ようやく落ち着きの兆を見せ始めた頃、
(大鳥大教会の中から) 現在地は僻地で 各方面から帰参する部内信者の交通の便が悪いから もっと便利の良い所へ移転してはどうか、という声が高まった。(その後) 機も熟して、昭和22年(1947)
現在地 (堺市百舌鳥西之町1丁25番地) を求める事ができて、(大鳥大教会は) 移転の準備に着手した。
抽冬増太郎2代会長の大阪教務支長就任、教区活動と移転工事の同時進行(昭和23年頃〜昭和25年頃)
この (移転)大事業の最中の 昭和23年(1948) 4月、
(2代)会長・抽冬増太郎は、
大阪教区管内全教会から推され、大阪教務支庁長に就任した。(大鳥大教会の) 教会移転工事 本格化の一方、
当時、大阪教区では、教内外の要望に応え 社会事業としての大阪助産所の建設に掛かっていた折とて、教務(は) 益々 輻輳し、多忙を極めた。(そのような多忙な中でも、抽冬増太郎2代会長はどちらかに偏ることなく) 双方の普請に 全精力を傾注した。
ジェーン台風による移転延期の節を乗り越えての復興ふしんの完成(昭和25年)
(抽冬増太郎2代会長) 丹精の甲斐あって、(大鳥大教会の) 移転工事は順調に捗り、
かねての許し通り、
(大鳥大教会は)
昭和25年(1950) 9月30日 遷座祭、10月3日 鎮座祭、翌10月4日 奉告祭、
(以上)の(予定で) 準備を進めていた。ところが、
その年(昭和25年) 9月3日(に) ジェーン台風が 近畿地方を襲い、新築間もない神殿を始め付属建物に 大きな被害をもたらし(してしまっ)た。(そのため) 到底 1ヵ月の後に祭典をつとめられるような状態ではなくなった。
それで、止むを得ず、日取変更を願い出て、(大鳥大教会は) この間、鋭意復興につとめた。(その後、無事に復興ふしんも完成。)
改めて、(天理教教会本部の) 許しを得て、
同年(昭和25年)、慌ただしい中にも 年の瀬迫る師走の一日、真柱の臨席のもとに、
12月3日 鎮座祭、12月4日 奉告祭、
慶びの祭典を盛大に執行した。
信者詰所の変遷(昭和26年〜昭和28年頃)
続いて、翌 昭和26年10月26日、
親里に 信者詰所 開設の許しを得て、天理市田部17番地の 商家を購入。
取敢えず 仮詰所を開設した。尚、昭和28年3月、
新築仮詰所の一部を改造して 本格的詰所として使用する事になり、
一意 教祖70年祭活動に専念する事となった。
抽冬うた初代会長夫人の出直し(昭和29年)
その(ような)折も折、
昭和29年3月5日、
大鳥の 草分けの時代より (抽冬鶴松) 初代(会長) と共に 幾重の苦難の中(も)、
文字通り 良き伴侶となり通ってきた (抽冬増太郎2代)会長 母堂 (=抽冬鶴松初代会長夫人) うた が、
94歳の高齢を以て 出直した。
抽冬道信の3代会長就任(昭和36年)
(この頃には)
(大鳥)大教会 後継者・道信も 漸く会長の適齢に達し、大教会長たるにふさわしい信仰、また、親たるの風格も備わっ(てき)た。(そして) 若さを求める道の時流に沿って、(また) 大きな期待と輿望を担って、
昭和36年(1961) 4月26日、
(抽冬道信が) 3代会長に就任した。
抽冬増太郎2代会長の出直し(昭和37年)
(抽冬道信) 新会長を戴き、
躍進の仕切りとして 教祖80年祭活動へ(向かって、大鳥大教会) 部内 挙って一丸となっていた 昭和37年(1962) 11月5日、
突然、晴天の霹靂のように、
2代会長・(抽冬)増太郎が、
幾多の功績を残し その生涯を閉じた。
新たな神殿ふしん(昭和41年頃〜昭和47年頃)
(昭和41年) 教祖の80年祭を 恙なくつとめ了えた 大鳥(大教会)は、
新しい指標として、(抽冬増太郎)2代会長(の) 5年祭を契機に、
(2代会長の)10年祭を目標として、神殿普請を打ち出した。まず、昭和42年(1967) 12月26日、
教職舎 (大鳥会館と呼称) の建築の許しを得て、
翌年(昭和43年) 2月22日 起工式を挙行。それ以前からの境内地の整地も併せて進められ、
同年(昭和43年) 6月16日 上棟式、同年(昭和43年) 11月17日 竣工式を挙げた。一方、主体事業である神殿工事は、
昭和44年4月15日 起工式、(そして) 3年の歳月をかけて (昭和)47年4月22日竣工。仁徳天皇陵に程近く、日本古代文化にゆかり多い 百舌鳥(もず) の地に、
銅板葺建築 総面積 1,841.862㎡に及ぶ神殿が その姿を現わした。かくして、年の瀬の押し迫る同年(昭和47年) 12月20日、
真柱の臨席を受けて、鎮座祭、
翌(12月)21日、部内教会長・よふぼく信者等の慶祝の気満ち溢れる中で、神殿落成奉告祭、同時に 創立80周年記念祭が 執行された。尚、翌(12月)22日には、
新しい霊舎の前に 神殿ふしんの完工を報告する意味を含めて、
(抽冬増太郎)2代会長10年祭、併せて 先輩諸霊の慰霊祭を執り行った。〔現住所〕〒591-8033 大阪府堺市北区百舌鳥西之町1丁目25番地
〔電話〕 072-252-3137(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,110〜112)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第113回目の今回は、
「大鳥大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】113回目の当記事では『天理教事典』の中の「大鳥大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。
大鳥大教会は、高安大教会から分かれた大教会ですね。
高安大教会については、だいぶ以前に勉強して 記事を投稿しました。
以前の当シリーズ学習の 第105回から第107回で、
高安大教会から分かれた大教会として
【教会番号105〜107】 → (105番) 都 ー (106番) 西成 ー (107番) 南、
という「高安大教会」から分離した「教会番号 連続3兄弟」について、それぞれ記事を投稿しました。
で、今回書写学習した「大鳥大教会」(教会番号113番) も、高安大教会から分かれた大教会なわけですが、
今回の書写学習によって、
次回学習予定の「古市大教会」(教会番号114番)も 高安大教会から分かれた大教会であることを知りました。
なので、
【教会番号105〜107】 (都-西成ー南) の 高安大教会分離「教会番号 連続3兄弟」の如く、
「大鳥大教会」と「古市大教会」は、
【教会番号113〜114】 → (113番) 大鳥 ー (114番) 古市、
高安大教会分離「教会番号 連続2兄弟」だと言えそうです。 (^^)
ということで、高安から連続分離しているところからして、
その成立にあたっても、大鳥大教会と古市大教会は、きっと 何らかの関係性があるのだろうなぁと思いながら『天理教事典』解説文を読みました。
しかし、その関係性の部分についての記述はなく、どうも よく分かりませんでした。
そこで、先回りして「古市大教会」解説文も読んでみました。
そちらの方には その関係性について 多少書いてありましたが、前提知識が乏しいこともあって 今一つよく分からず モヤモヤしていたところ、
『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中に、ごくごくわずかですが、大鳥大教会と 古市大教会の関連性に関する記述を 見つけました。
道の伝播は 行商の人々による場合が 多い。
羽曳野飛鳥村の 吉田武八は、古市村の 土屋常太郎と協定し、大和木綿の買い付けに行った。
明治十年ごろ、 常太郎は 神様の話を聞いた。
武八が 腸チフスにかかった時、常太郎から聞いていた 庄屋敷へ詣った。武八より 古市、大鳥 両大教会の種が 落とされる。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,73)
これを読んで、次回 書写学習する予定の 古市大教会 解説文と重ね合わせることで、
私は、大鳥大教会と 古市大教会の 元一日に関わる史実を、以下のような流れだと 理解しました。
大和木綿の行商をしていた 吉田武八という方が、腸チフスに罹患した。
吉田武八先生は、それまでに 同業者の 土屋常太郎という人から 庄屋敷村に不思議な神様が現れたという話を聞いていたので、それを思い出して 庄屋敷村へ参拝し おたすけを願った。
そうしたところ、鮮やかなご守護を頂いた。
それで、吉田武八先生は ご守護いただいた喜びから布教に励み、
その中から、後の 古市大教会 初代会長である 浅野喜市先生にも 教えが伝わった。
後に 大鳥大教会の初代会長となる 柚冬鶴松先生は、ずっと胃病に悩まされていて、16歳の頃に、ついに 危篤状態となってしまった。
その際、親戚の人の取り次ぎで、柚冬鶴松先生は、浅野喜市先生を紹介された。
そして、柚冬鶴松先生は、浅野喜市先生から教理を聞き おぢばがえりを勧められ、それを受けて 初めておぢばがえりした。
おぢばがえりした 柚冬鶴松先生は、教祖に 直にお目通りし その後に 身上のご守護も頂いて、その感激から 信仰の道に進んでいかれた。
その後、柚冬鶴松先生・浅野喜市先生、それぞれの場所で布教に励み、講社を設立。
それが、高安として講社を統合することになった際に どちらの講社も それに参加することになって、その結果、天理教内において、高安部内の兄弟教会と位置づけられることになった。
そして、そこから お互いに 着々と教勢を拡大した結果、それぞれ独立して 本部直属の大教会に成長し、今日に至っている。
そのような流れだったのだと 私は理解しました。
上記内容を、単純に、人物に絞って 天理教の教理に出会った順に並べると、
土屋常太郎先生 ー 吉田武八先生 ー 浅野喜市先生(古市初代) ー 柚冬鶴松先生(大鳥初代)
となるかと思います。
以上のような流れを知ると、
教会番号は、(113番) 大鳥大教会 ー (114番) 古市大教会 となっていますが、
時系列に並べると、
単純な信仰の古さだけで言うと、古市大教会の 浅野喜市 初代会長の方が 大鳥大教会の 柚冬鶴松 初代会長よりも先に この道の信仰に出会っていた、ということになりますね。
だからどう、というわけではありませんが。
いずれにしても、今回の勉強で、
高安大教会分離「教会番号 連続2兄弟」の 大鳥大教会と 古市大教会は、その元一日に深い関係性がある と知ることが出来ました。
勉強になりました。

今回の書写学習で、まず 強く印象に残ったのは、
明治23年頃の、抽冬鶴松 初代会長夫妻の苦労話の部分でした。
『天理教事典』「大鳥大教会」解説文には、こんな内容が書かれていました。
「家督相続の頃には 莫大な負債に堪えられない程となり、田畑山林等 全財産を 清算納消するに当たっては、親戚縁者、特に妻・うたの 里方の猛烈な反対に逢った。
しかし そのような事情は、抽冬鶴松夫妻の 信仰信念を 益々強固ならしめ、教祖ひながたの道を 欣然と踏み行った」と。
この部分を読んで、素朴に こう思いました。
これほどの逆境の中でも 心倒すことなく歩む力を、抽冬初代会長夫妻に与えた その根源は、一体 何だったのだろうか…
今生において 天理教にご縁を頂き、折に触れて天理教についてのお話を聞かされる中で、
天理教 創設初期に引き寄せられた 初代信仰者の時代には、
この 抽冬初代会長夫妻のように、周囲の とてつもない反対攻撃にも負けず、自身の全財産を施し尽くして 道の上に生涯を捧げた 先人たちが数多くいる、
という話を たびたび 聞かされてきました。
しかし、物質的に恵まれた社会に生きる現代人にとって、
そのような世界は 実際には 想像のつかない世界であり、どこまでいっても 想像の世界を超えることのない実感が伴わないもの、
というのが 率直な 私の感想です。
このような話に触れるたびに いつも 私が思うのは、
先人先生たちをして そこまで成らしめた所以は 何だったのだろうか、ということです。
どんな困難の中も 信仰一筋に突き進まれた先人先生方は、
稀有な存在として ほんの一時的に この世に生じたわけではなくて、
ある時期には 日本国内において 強烈な存在感を示し、日本人全体に 大きな影響を与える程の力を持っておられました。
そして 今生、天理教にご縁を頂いた私たちは、その末裔であります。
末裔として、先人先生方を 周囲の反対攻撃にも負けずに突き進ませた その根源というものに思いを馳せ、多少なりとも それを感じることができるよう 努めていきたいもの…
そんなことを 思ったりしたのでありました。

次に 強く印象に残ったのは、
昭和3年~5年にかけての「会長家族の 連続出直し」という大きな「節」の部分です。
教祖40年祭の後、昭和3年6月11日に 抽冬鶴松 初代会長が 出直し。
それに続いて 抽冬増太郎2代会長の長男・努先生が 出直し、
そして 昭和5年2月15日には 2代会長夫人が出直された とのこと。
昭和3年から昭和5年にかけて、わずか 2年の間に 3人の葬儀を出されたわけです。
『天理教事典』「大鳥大教会」解説文には、
「それと共に、財政の深刻な窮乏状態に陥ってしまい、昭和初期の 大鳥(分教会)の歩みは 筆舌に表わせぬ 苦難の連続であった」
と 書かれていました。
これまでの 当シリーズ学習を通して、
天理教の教会にとって 著しい経済的窮乏状態というのは ほぼ不可欠 とも言ってよい過程であることを 学んできました。
今回の学習で、「大鳥大教会」も ご多分に漏れず 深刻な財政窮乏状態に陥られたことを知りましたが、
大鳥大教会におかれては、それに加えて「会長家族が相次いで出直す」という大きな「節」が重なっておられた とのこと。
経済的困窮だけでも 苦しみは並大抵ではないと思われますが、
その上に、親愛なる家族との 別れの悲しみが加わった 初期 大鳥大教会関係者の皆様の ご苦労を思うと、胸が締め付けられる思いがします。
しかし、大鳥大教会の皆様は、
そのような苦しみや悲しみを乗り越えて、教祖50年祭・立教百年祭という 大きな旬に臨み、一大飛躍発展を遂げられたとのこと。
「節から芽が出る」という教理を体現する史実として、実に味わい深いものがあると感じます。(^^)

そして、もう一つ 印象に残ったのが、
昭和25年に、ジェーン台風による移転延期の「節」を乗り越えて 復興ふしんを成し遂げられた史実です。
大鳥大教会は、昭和25年秋に 教会移転の段取りを進め、
9月30日の 遷座祭、10月3日の 鎮座祭、翌4日の奉告祭、と予定も整い 順調に進んでいた。
そうしたところ、なんと 移転のわずか1ヶ月前、9月3日に ジェーン台風が 近畿地方を直撃。
新築間もない神殿をはじめ付属建物に 大きな被害をもたらしてしまった‼
1ヶ月前と言えば、もう ほぼ完成していた頃であったに違いありません。
そこで被災された関係者の皆様の落胆は、並大抵のことではなかったのではないでしょうか。
『天理教事典』「大鳥大教会」解説文には、そのあたりの経緯について 史実のみが 淡々と書き並べられているだけで、
当時の皆様が それをどう受け止められたのかについては 想像するしかありません。
しかし、きっと 関係者の皆様は、そこに籠められた神意というものについて、深く深く 思案されたに違いないと思います。
そして、予定を延期して 復興ふしんに鋭意取り組み、年の瀬迫る12月3日に 鎮座祭、翌4日に 奉告祭を、真柱の臨席のもと 盛大に執行されました。
部外者の勝手な想像になりますが、
大鳥大教会の皆様にとって、そのふしんは、とんとん拍子で順調に完成していたならば決して感じることのなかった苦労と、その分の 大きな大きな歓びが詰まっていたのではないか、と想像致します。

今回の『天理教事典』「大鳥大教会」解説文 書写学習も、また 知らないことだらけでしたが、どれもこれも 深く考えさせられることばかりでした。
これまで知らなかった多くのことを知ることができて、本当に 勉強になりました。
有難いことでした。
当シリーズ記事の締めくくりに いつも出てくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「大鳥大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、
その姿の中に、より一層の深みと重みが 感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「大鳥大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。







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