天理教 各教会の歴史探索(第116回)【甲府大教会】『天理教事典』より

「甲府大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号115番「神崎大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号116番「甲府大教会」について勉強します。

  1. 甲府大教会(こうふ だいきょうかい)
    1. 初代会長・興津源助の経歴
    2. 興津源助、天理教との出会い(明治19年)
    3. 興津家に米泥棒、打ち続く不運な出来事(明治22年)
    4. 興津源助 初代会長の入信(明治22年)
    5. 興津源助、益津支教会の常詰に(明治22年)
    6. 興津源助、甲府布教の始まり(明治24年)
    7. 急拡大する甲府の道(明治24年頃)
    8. 上級・益津支教会への報告 ~ 更なる道の広がり(明治25年頃)
    9. 布教事務所の開設 ~ 急激信徒増加のため相次ぐ移転(明治25年)
    10. 更なる甲府の道の拡大(明治25年頃~明治26年頃)
    11. 難産の末、甲府支教会の開設(明治26年)
    12. 教勢拡大・参拝者の増大 ~ 教堂の新築(明治26年頃~明治28年)
    13. 官憲からの圧迫・妨害の激化 ~ 教勢の停滞(明治28年頃)
    14. 深刻な内部対立 ~ おさしづを受けての解決(明治28年頃~明治29年)
    15. 膨れ上がる負債・内務省秘密訓令による圧迫干渉の激化、苦難の時代(明治30~40年代)
    16. 興津太郎吉2代会長の経歴
    17. 興津太郎吉2代会長の就任(大正5年)
    18. 興津源助 初代会長の出直し(大正6年)
    19. 教祖40年祭活動の始動 ~ 創立30周年記念祭(大正10年~大正11年頃)
    20. 山名大教会の分割、甲府は名京へ(大正12年)
    21. 教祖40年祭後 ~ 教祖50年祭・立教百年祭活動(大正15年頃~昭和12年頃)
    22. 興津太郎吉2代会長の出直し(昭和11年)
    23. 困難を乗り越えて興津源一郎3代会長就任(昭和14年)
      1. 興津源一郎3代会長の経歴
    24. 甲府大教会へ昇格(昭和18年)
    25. 甲府空襲による教会施設全焼のふし ~ 戦後復興(昭和20年~昭和24年)
    26. 教祖60年祭 ~ 甲府大教会創立60周年記念祭(昭和21年~昭和28年)
    27. 興津源一郎3代会長の辞任、興津元義4代会長の就任(昭和47年~昭和48年)
  2. おわりに
      1. 山梨布教 〜 甲府支教会の設置(明治24年〜明治26年)
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甲府大教会(こうふ だいきょうかい)

甲府大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビュー より

初代会長・興津源助の経歴

甲府大教会初代会長・興津源助は、
天保8年(1837) 2月20日、
静岡県志田郡豊田村字保福島、興津源六の長男に生まれた。

(興津家は) 代々農業で、田の外に 茶園と蜜柑畑を経営していた。
(興津源助は) 小柄な体軀にもかかわらず、明治維新の大きく激動していく世代を生き抜く 不撓不屈の信念を持っていた。

しかし――
因縁の然らしむるところか、(興津源助の) 家運は展けず、
父を失ってから、老母の厳格さに 2度の結婚が破談となった。
3度目に迎えた妻は 勤労の意欲乏しく、1升の酒が無いと その日が暮らせぬ(程の) 浪費家だった。

老母の不満がつのる一方であったが、明治元年、長男が生まれる寸前に他界して、どうにか治まった。
次々と生まれてくる子供の養育、製茶の改良、蜜柑栽培の改良…これこそが (興津源助の) 生甲斐とばかりに精励したのだが、家運は繁栄の道につながらなかった。

興津源助、天理教との出会い(明治19年)

明治19年(1886)、
山名初代会長・諸井国三郎の おたすけ により 小栗市十 (益津大教会2代会長) がたすけられた、という不思議な救済の話が、この地 (静岡県志田郡豊田村周辺) に (天理教) 信仰の波紋を広げ(た。

波紋は力強い広がりを見せ) 世間の悪罵嘲笑の中にも、着々と (山名の) 教線が拡大していった。
そして、近村の此処彼処で、講社祭が 月々行われるようになった。

その頃の講社祭は、夜に行われていた。
興津源助は、講社祭が執り行われる(という)話を耳にすると、1里2里をいとわず 訪ねて行った。

しかし、(当初は、訪ねて行っても) 講社祭に加わる事はせず、屋外に頬かむりして(身を潜め)、おつとめの後の「教話」に聞き入った。
そこで語られる話(というの)は、決まって 開教のいわれと 身上・貸物借物の理、不思議な救けの実話や 世界たすけの遠大なる神意…(などの話)であった。
(興津源助は、そうした教話を) 聞く度に、教えの尊さ・有難さに心を揺さぶられていった。

興津家に米泥棒、打ち続く不運な出来事(明治22年)

明治22年(1889) 早春のある夜、
(興津源助は) 作男が倉から米を盗み出すのを見た。

これは不吉(なこと)であった。
(当時) それを主人が見るのは「家運の傾く兆である」と云い伝えられていた(からである)。
しかも、(それは) その夜が 2回目(のこと)であった。

(そして) その事があって 間もない頃、3男と4男とが 赤痢に罹った。
医師を呼んだが、既に手遅れだと言われた。

(言い伝えの如く 興津家を不運な出来事が襲い、興津源助は 家運の傾く兆候に 恐れおののいた。
しかし――
これは、興津源助が) 御教えにつながる旬であった。

興津源助 初代会長の入信(明治22年)

(家運の傾く兆候に 恐れおののいた興津源助は、
それまで教話を聴いてその尊さを感じつつも ある一定の距離を保っていた信仰の道へ、大きく踏み込んで突き進む決意を固めた。

興津源助は、この節を機に 迷いを振り払い、これ以降は) 信仰の道に突き進んでいった。
(その結果、興津家は) 鮮やかに救われたのだった。

興津源助、益津支教会の常詰に(明治22年)

(興津源助は) 入信と同時に、(興津家の) 家事一切は 長男・太郎吉にまかせて、ひたすら益津支教会のために尽くし(始め)た。

同年(明治22年) 12月28日付で、神道管長より教導職試補を拝命(し) 益津支教会(の) 常詰員(に)、
(そして) 翌(明治)23年9月(には)、庶務に任命された。

興津源助、甲府布教の始まり(明治24年)

明治24年(1891) 秋、
当時、山梨県南巨摩郡 下山村に 益津(支教会) の信徒が 既に 5戸 存在していた。
(そこから) 誰か 布教師を派遣してほしいとの依頼状が、小栗周蔵 (益津支教)会長の許へ 届いた。
(そこで) 小栗(周蔵 益津支教会長) は、布教師として 興津源助を派遣することとした。

興津(源助)は 出発に先立ち、(まず) 静岡集談所へ行き、甲府の地理に明るい 萩原幾造に 道中案内を書いて貰った。

その時、(静岡)集談所長の 影山清七が言うのには、
「甲府市境町に 親戚の 山本政八が住んでいるが、咽喉カタルで悩んでおり、甲府へ来てお願いをしてくれと(いう)書面がきている」
とのことであった。

興津(源助)は、これは 神様の手引である と大いに喜び、
その書面を頂いて 神様に供えて祈願をこめ、静岡(集談所) の信者の 塩崎弥十郎が 甲府の伯父の所へ行くというので、一緒に出かけた。

(興津源助と塩崎弥十郎の) 2人は、静岡を出発して (静岡市) 興津まで汽車に乗り、それから 20里の道を 富士川に添うて登り、途中 1泊。
(山梨県南巨摩郡) 鰍沢で (興津源助は) 塩崎(弥十郎)と別れ、甲府へ到着。
(山梨県甲府市) 境町(の) 山本(政八)宅で 草鞋を脱いだ。

時に、明治24年12月6日、
興津(源助) 54歳の時であった。

急拡大する甲府の道(明治24年頃)

山本(政八)方では、興津(源助) の到着早々 お話を聞き (感銘を受けて、山本政八) 入信(の運びとなった)。

(そして) 翌(明治24年12月) 7日(には)、
(山梨県) 桜町一丁目で雑貨商を営んでいた 丸茂留吉の妻・きぬの が子宮病で悩んでいたのだが、山本(政八)の手引により、そこに 匂いがかかり、たった1度の おさづけで 御守護(を)頂いた。
丸茂夫婦は非常に喜び「御恩報じに (我が家を) 先生のお宿にしたい」と申し出たので、(興津源助は 最初の赴任地の) 山本(政八)宅を10日程で(出て) 丸茂の家に移った。

この(時、不思議なご守護を頂いた 丸茂)きぬの は、(山梨県) 北巨摩郡 熱見村字小池・中村美之の長女であった。

当時、中村家は 家運かたむき、郷里を離れて 甲府市深町に寓居していた。
(中村)美之は 耳下に腫物が出来て悩み、長男・通恵はリウマチスで3年も足が立たず、生涯不治と悲観していた。
(そのような中) 丸茂(夫妻) から手引を受け、(興津源助のおさづけを受けた。そうしたところ、3年間も足が立たず苦しんでいた中村通恵が、なんと) 僅か10日間で足が立(つという奇蹟的な御守護を頂いた。) 慢性リウマチスをすっかり御守護を頂いたのである。
(また、中村)美之の (耳下の) 腫物も 全快した。

(中村)父子は、(すっかり感激し) 丸茂宅へ (御礼の) 参拝に出かけた。
(当時、中村)通恵は17歳であったが、(たすけられたご恩を心に刻み) 生涯「ひとだすけ」の心を定めた。
(そして、それを) 直ちに実行に移し、(そこから) 熱心に にをいがけを始めた(のだった)。

(その他にも)
(山梨県甲府市) 竪近習町の 西山米十郎の次男・定治は肺炎と胃腸病を救けられ、
同町 (山梨県甲府市竪近習町):竹内藤五郎の妻の そこひ・石川長兵衛の妹の るいれき、
(山梨県甲府市) 境町:土屋藤次郎妻・たき 等も不思議な御守護を頂いて入信。
更に、
(山梨県甲府市) 愛宕町:三輪善次郎、若松町:岡本半次郎、桜町:野沢平次郎 …などが 相次いで入信(した)。

上級・益津支教会への報告 ~ 更なる道の広がり(明治25年頃)

興津(源助)は、翌(明治)25年(1892) 1月3日、
以上(の) 第1期ともいうべき10戸分の信徒加入書を持って、年始(挨拶の)かたがた ひとまず益津(支教会) へ帰った。

(益津支教会へ帰った興津源助が 10戸分の信徒加入書をもって告げた) この報告は、小栗(周蔵) 会長始め一同(に) 非常に喜ばれ、前途を祝福された。
(興津源助は) 益津(支教会) 滞在10日程で 再び甲府へ戻り (改めて布教に励んだ。

その結果) 更に、
(山梨県甲府市) 三日町:丸茂伝次郎、太田町:清水勝次郎、三吉町:中山為吉、
(山梨県中巨摩郡) 敷島村:辻岩次郎・神原角太郎 …
等が 第2期ともいうべき入信者となり、次第に 発展の緒についたのであった。

布教事務所の開設 ~ 急激信徒増加のため相次ぐ移転(明治25年)

興津(源助)が 益津(支教会) より (甲府へ) 帰ると、丸茂留吉方へ主な信者が(集まり)会合(を行った。

その会合において) 丸茂(留吉)、中村(美之)、西山(米十郎)、三輪(善次郎)、岡本(半次郎)、野沢(平次郎) …等(が) 協議(した)結果、
(山梨県甲府市) 連雀町「幸手屋」の 2階を借り、旧3月節句に、事務所開きを行う(という)ことになった。

この日(の会議に)は、益津(支教会) より 渡辺(要一郎)・釜蓋(与右衛門) の両名も列席し、話を取次いだ。

(布教事務所開設後、一同が更に布教に励んだところ) 信徒の増加が急で、たちまち (事務所の) 狭隘を感じるに至った。
そのため、(明治25年) 4月(に)、更に手広い借家へ(移ろう)と(いうことで)
(山梨県甲府市) 若松町の 岡本半次郎の持家(に) 移転した。

ところが、(それでも) すぐに狭くなり、
(明治25年) 7月(には)、(山梨県甲府市) 桜町1丁目54番地(の)、間口6間・奥行4間の長屋を借り受け、
玄関 及び 受付、炊事場 等を増築の上、移転したのだった。

かくして、(明治25年の) わずか 1ヵ年の間に、教えは 甲府市を中心として山梨県一円に広まり、
講社の数も、明治26年1月現在で 557戸を数えるに至った。

更なる甲府の道の拡大(明治25年頃~明治26年頃)

(山梨県) 北巨摩郡は、南アルプスと八ヶ岳に囲まれた山地であるが、
ここにも (明治)25年1月頃から 2月にかけて 入信者が出来、(明治)25年春までに 数十戸を数えるに至った。

また、甲府より東の方へも道は伝わり、
(山梨県) 東山梨郡下は 万力村を中心に広がり、前後して (山梨県) 東八代郡 米倉村・富士見村… 等にも伝わっていった。

かくて、興津(源助) 一人では 到底 手が回り兼ねるに至ったので、(興津源助は) 益津支教会へ 助手の派遣方を出願し(た。
その結果) 塚本文蔵・釜蓋与右衛門・渡辺要一郎・鈴木金太郎 …等が こもごも来甲して、興津(源助)を助けて 布教に努力した。

(その)ために、(教えは) 甲府近郷は 勿論、(山梨)県下全般に亘って伸び、
明治26年1月(には)、
(山梨県) 北巨摩郡甲村下黒沢に事務所を、同じ頃 山梨郡春日居村小松へ (新たな) 事務所を設けるに至った。

難産の末、甲府支教会の開設(明治26年)

明治26年春、
山名分教会春季大祭に登参した興津(源助) は、(山名)分教会長・諸井国三郎から (甲府でも) 支教会を設置するように (という)話を受けた。
(それで、興津源助は、山名分教会からの)帰途、益津(支教会)に寄って、その旨を話した。

(ところ)が、益津(支教会)の思惑(は、諸井国三郎山名分教会長の思惑)とは異なっており、(この件は一旦保留となった。
種々、相談交渉が行われた結果)
最終的に、諸井(国三郎山名分教)会長の意志に従う運びとなり、(支教会設立の)願書が (天理教教会本部に)提出され(た。
そして) 明治26年(1893) 3月29日、許しを得たのであった。
(=甲府支教会の開設)

と同時に、山名分教会と益津支教会との話し合いにより、この後、甲府(支教会)は 山名直属となった。

教勢拡大・参拝者の増大 ~ 教堂の新築(明治26年頃~明治28年)

教会設置と共に、伸び行く甲府の教線は、
その頃(には)、県境を越えて(拡大していった。)
長野県下は、上諏訪町・信州川上村・松本町・長野権堂町 …等を中心に伸び広がり、
進んで 新潟県は、十日町を中心として 発展していく(ような) 情勢であった。

日増しに伸びる(甲府の) 教勢に、従来の町家の改造では収容し切れなくなってきた。
(そのため) 教堂新築の議が起こり、(相談まとまり本部に願い出て) 明治27年11月、許しを得た。

(教堂新築)工事は (明治)28年春に始まり、竣工は 同年(明治28年) 秋、開庭式は 同年(明治28年) 12月21日(に執行された)。

同 宅地 総坪数は 562坪6合5勺、建物総坪数は 205坪8合1勺 (神殿内は85坪)、外に 2階が 26坪2合5勺 (だった)。

官憲からの圧迫・妨害の激化 ~ 教勢の停滞(明治28年頃)

明治28年(1895) 12月21日の開筵式は、無事に終わった。

(そして) 翌 (12月)22日 秋季大祭の際(のこと。)
祭典前より警官4名が張り込んでいた。
(張り込んでいた警官は) 祭典中、祭主玉串行事にかかるや、大喝。
「署長の命令だ、興津会長は 即刻 本署へ出頭せよ」と。

一同(は) 打ち驚き、祭典終了まで猶予を願ったが 聞き入れられず、 (興津源助会長は) 祭服のまま (警察署に) 連行された。

署長(いわく)「お前ばかり立派な装束をつけて お祭してはいけない」との事。
(そこで、興津源助会長が)「それなら 他の教師と同様の服ならよろしうございますか」と尋ねたところ、
「それなれば 許す」(との回答であった。)
ということにて、(興津源助会長は、祭服を) 浄衣に改め、式典を終了したという。

(そのようにして、その場は 何とか切り抜けたものの)
これ以降、教会あるいは信徒に対し、(警察より) 種々(の) 干渉や妨害が加わり始めた。
祭日には 必ず 巡査が 2~3名 門前に立ち 一人一人信徒に訊問したため、一時は参拝者で賑わった甲府支教会も、たちまち火の消えた(ような)状態となり、悪評は重なる一方(であった。)
(また) それに(加えて) 建築費が入らなくなり、工費の半額以上が負債として残り、(甲府支教会は開設早々にして) 苦難のどん底に陥った。

深刻な内部対立 ~ おさしづを受けての解決(明治28年頃~明治29年)

外部からの干渉や圧迫と、(また) 建築による借財事情に苦しみ、
(苦境にあえぐ甲府支教会において、次第に) 内部にも 色々な事情が湧いてきた。

(甲府支教会の中に) 会長排斥の問題を取り上げる一派が生まれたのだった。
(その者たちが会長辞任を求める)理由(というの)は、
「(興津源助)会長は、(もう)60歳に近く(高齢であり)、この苦境を切り抜ける実力に乏しい。この沈滞の中から教勢を回復させるのは (興津源助会長では) 不可能だ」というものであった。

また 一方には、
「この苦境の時に、会長(を)変更(する)など(ということをしては) 社会的に教会の信用を落とし 信徒を惑わしめるのみだ。だから、絶対 今のまま (興津源助)会長を立て(て通)るべきだ」と主張する一派があった。

(両派閥の対立が深刻化し、内部で問題を解決することが困難となったため)
山名分教会より役員が出張して説得を行った。
しかし、(それでも) 治まらず、(対立が表面化して) 約1ヵ年(が経過)。
遂に、(上級・山名分教会の) 諸井(国三郎)会長は (おぢばがえりし、この問題について) 本席に おさしづ を(仰いだ。
そして) 明治29年12月、(本席よりおさしづを頂いた) 諸井(国三郎)山名会長は、甲府(支教会)へ出向いた。

(甲府へ着いた) 諸井(国三郎 山名)会長は、(早速) 役員一同を集めた。
そして「会長の変更は決してならん、神意である。会長に不足の者は去れ」と大喝した。
この一声により、(甲府支教会内における) さしもの混乱も、一瞬にして 解決を見たのであった。

こうした大事情、大試練の中でも、(周囲の混乱に振り回されることなく、しっかりと) 布教伝道に精励する者はあって、(この)当時(に) 前後して、支教会 2ヵ所、布教所 10ヵ所、出張所 3ヵ所が、(新たに) 設置された。
そして、明治29年の教祖10年祭を迎えた。

膨れ上がる負債・内務省秘密訓令による圧迫干渉の激化、苦難の時代(明治30~40年代)

(大きな事情を乗り越え、一同はますます布教伝道に精励。甲府支教会の) 教勢の復興は 次第に実を挙げ始めた。

しかし、(そのような教勢拡大とは裏腹に) 建築の負債は 減ずるどころか、教会の日々の会計にも困難をきたすようになっていった。
(負債問題) 解決の目標はつかず (一同が先行きに不安を覚える) この(ような)中、(それに加えて、上級) 山名分教会の 登参事務所の建設(も 始まった。)

(こうして、甲府支教会は) (上級) 山名分教会の建築(ふしんへの伏せ込み)と (自らの建築ふしんの借金返済という 二重の働きを求められる状況となり)、(甲府部内は、およそ)10年(も)の間、ほとんど休む暇なく、一切を挙げてつとめた(のであった。
しかし (そこまでしても)、借財整理に及ぶことが出来なかった。

(同時に、この頃は) 借財の重圧に加えて、政府の秘密訓令による圧迫干渉、社会からの迫害と攻撃(激化)のため (あらゆる面で) 困難を極めた時代で(も)あった。

こうした苦境を乗り越える一策として、(甲府)部内より 海外渡航者が続出した。

興津太郎吉2代会長の経歴

興津太郎吉は、
明治元年6月1日、(興津源助) 初代会長の長男に生まれた。

25歳の春、益津初代会長・小栗周蔵の末女・てる (22歳) を妻に迎え、3男3女を挙げた。

明治34年5月、
全家族(が) 甲府支教会に住込むのと同時に、(興津太郎吉は) 修業のため、東京に出た。
(東京に出た興津太郎吉は、明治)44年まで 10ヵ年の間 単独布教(を行い) 講社 約百戸を開設し、後の 名甲宣教所の基礎を作った。

興津太郎吉2代会長の就任(大正5年)

大正5年 (1916) 10月25日、
(天理教教会)本部より許しを得(て)、
(興津太郎吉が)
前会長の(興津)源助に代って2代会長に就任した。

興津源助 初代会長の出直し(大正6年)

(興津源助) 初代会長は、大正5年秋(に) (会長)職を (長男の興津太郎吉に) 譲った後、80歳にして (上級の) 山名(大教会)に勤めた。

(そして) 翌(大正)6年 8月上旬より、甲府部内の巡教を思い立ち、部内各所を巡教。
北越支教会に至ったところで発病し、(興津源助 初代会長は) いと安らかに、眠るが如く 出直した。
齢 81歳(だった)。

教祖40年祭活動の始動 ~ 創立30周年記念祭(大正10年~大正11年頃)

大正10年(1921) 10月10日、
(天理教教会)本部より、(大正15年執行予定の) 教祖40年祭に対する『諭達』が発表された。

折しも、
甲府分教会においても、(翌年の)大正11年は 開設30周年に当たるということで、
(興津太郎吉)2代会長は (教祖)40年祭に対する気運昂揚を図るため、記念祭を執行することを打ち出した。
この時の事業の一つとして『教会沿革史』編纂が挙げられる。

かくて、甲府(創立)30周年記念祭が 盛大に行われた。

つづいて、大正11年3月、
ぢば で「第1回教義講習会」が 開催された。

(そこにおいて) (教祖)40年祭の意義と、年祭に対する全教徒の覚悟について強調されるや、教内に非常な興奮が捲き起こり、
(それは) 教勢倍加の声となって (そこから) 熱狂的な布教が開始された。

山名大教会の分割、甲府は名京へ(大正12年)

(教内が教祖40年祭活動に沸き立っていた) この頃、
山名は、教統継承問題で紛糾していた。

(最終的に、山名は、天理教教会)本部の方針に基づき、分割(されること)となり、
(その)当時、甲府(分教会)は (部内) 36ヵ所を有していた(のだが、)
新しく設立される大教会(の方)に 所属することとなった。

大正12年11月23日、
山名(大教会)から分離して、(新たに)「名京大教会」が設立された。
(甲府分教会は、名京大教会の部内教会となった。)

甲府の道は、この頃を転機として、(苦難の時代を乗り越え、再び) 飛躍し始めた。
(この頃の 甲府分教会の教勢は) 設立教会 56ヵ所、別科入学者 256名となっていtた。

教祖40年祭後 ~ 教祖50年祭・立教百年祭活動(大正15年頃~昭和12年頃)

大正15年(1926) 2月、
(教祖40)年祭後の修理について諭達が発せられ、事情教会の整理は長く続いた。

昭和5年(1930) 10月、
(天理教教会)本部から教祖50年祭・立教百年祭の打出しがあり「人類更生運動」が展開された。

特に教内を勇ましめたものは、南礼拝殿、教祖殿の建築であった。
(教内の)人々は 立ち上がった。

(甲府分教会にも 天理教全体の隆盛の波は押し寄せた。)
思いがけない御用材の木曽檜や 山梨県特産の直径5寸1分の 稀有の水晶献玉の御守護があったのも、
また一方、名京信徒詰所の建築に一同精魂を打ち込んだのも、この時である。

興津太郎吉2代会長の出直し(昭和11年)

昭和3年春より 名京大教会の常務となった 興津(太郎吉)2代会長は、
詰所落成と共に 詰所主任となり、昭和10年まで 専心 詰所内外の勤めに精励した。

しかるに、その頃より 身上勝れなくなり、
昭和11年1月3日、甲府分教会に於て (皆から惜しまれつつ) 出直した。
享年69歳(であった)。

困難を乗り越えて興津源一郎3代会長就任(昭和14年)

(興津太郎吉)2代会長(の) 出直によって、興津源一郎が3代会長として推挙された。

(興津源一郎3代会長就任に向けて段取りを進めていたところ、興津源一郎の3代会長就任を阻む大きな問題が立ち現れた。)

当時、会長任命(の) 手続に当たっては、教会建物を天理教維持財団に 寄付登記せねばならぬことになっていた。
しかるに、甲府分教会は、土地建物共、建築以来の借財のため 2重の担保に入っており、(教会建物を天理教維持財団に 寄付登記できなかったのである。
そのため、興津源一郎が3代会長に就任するためには) これを まず解除する必要があった。
(そこで、甲府分教会では) 財団期成会を起こし、総力で当たることになった。

しかし、(思うように事は運ばず、なんと) 昭和13年2月には、(甲府分教会は) 競売の手続を受ける(まで)に至っ(てしまっ)た。

こうした迫り切った事情の中、(事態打開のため、上級の) 名京大教会より (天理教教会)本部に対して、(教会建物を天理教維持財団に 寄付登記できない)理由を具し(た)願書を(提出。)
(何とか願書を) 受理して頂(くことがで)き、(紆余曲折を経て)
昭和14年(1939) 7月9日、
(ようやく、興津源一郎が)3代会長の任命を受け(ることが出来)たのであった。

興津源一郎3代会長の経歴

3代会長・興津源一郎は、
明治34年11月28日、
(興津太郎吉)2代会長の長男として生まれた。

幼少の頃は、父の単独布教の中に過ごし、
勉学の関係により 甲府へ帰されたが、事情と困窮のために中学は中退(した)。

大正11年、教校別科 卒業。
大正12年春より 名京大教会において青年勤め。
昭和4年、(興津太郎吉)2代会長が 名京(の) 常詰となるや、甲府分教会長代理として 勤めた。

甲府大教会へ昇格(昭和18年)

革新による教会制度改革の第一歩として (天理教教会)本部から打ち出されたのは、
信徒5千戸以上を有する教会は、分離して大教会に陞級する、という方針であった。

ここに於て、甲府(分教会で)も 時旬の理に添うこととなって、分離に対する気運が勃然として起こった。

(天理教教会)本部、名京(大教会) に対する 「理立て」ばかりでなく、(懸案だった) 永年の負債も(ようやく)償却され、
昭和18年(1943) 4月20日、
(甲府は) 大教会へ 分離陞級した。

同年(昭和18年) 12月15日、
2代真柱を迎えて 盛大に (大教会陞級)奉告祭を執行した。

甲府空襲による教会施設全焼のふし ~ 戦後復興(昭和20年~昭和24年)

(太平洋戦争の戦火が拡大し) 昭和20年7月7日の空襲で、甲府市全域と近在迄も(が) 1夜にして灰燼に帰した。
甲府大教会も、(空襲を受けて) 神殿 並びに 付属屋等 すべて焼失してしまった。

(甲府)大教会も、(教会施設一切の喪失に伴い) 一時、部内教会への仮移転(を余儀なくされ)たが、
昭和22年、神殿及び付属屋の建築 許しを頂き (復興ふしんに取り組んだ。)

(昭和)24年12月、(無事に 神殿及び付属屋) 竣工。
同月(12月)5日、真柱の臨席を得て 同夜 遷座祭。翌(12月)6日、落成奉告祭が 盛大に執行された。

教祖60年祭 ~ 甲府大教会創立60周年記念祭(昭和21年~昭和28年)

教祖60年祭は、終戦直後の昭和21年に 特別の活動もなく行われた。
従って、(教祖)70年祭は 大々的に打ち出されるであろう、というのが教内全般の予想であった。

そうなると 信徒詰所も今のままでは不十分であると詰所新設の要に迫られ、(奈良県天理市) 守目堂の現地 775坪を購入。
昭和26年12月(に)許しを受け、早速着工。
(昭和)27年4月16日、真柱臨席の下に、(詰所)開設披露を行なった。

昭和27年4月18日(の) 教祖御誕生祭 当日、
真柱より、教祖70年祭の発表があり、続いて 第14回教義講習会が開催された。

一方、甲府(大教会)は 創立60周年を迎え、
昭和28年(1953) 11月19日、
2代真柱を迎え、創立60周年記念祭が 荘厳に執行された。

興津源一郎3代会長の辞任、興津元義4代会長の就任(昭和47年~昭和48年)

3代会長・興津源一郎は、
昭和14年7月より 約34年にわたり、病弱の身でありながら、時には (昭和43年6月~) 山梨教区長の要職も兼務しながら、会長職をつとめてきた。

(その中で、甲府にも世代交代の波が押し寄せ) 興津元義に会長職を譲るべく、役員一同(が) 協議。
その結果、全員の賛同を得て、昭和47年(1972) 11月、(天理教教会本部に)出願。許しを得た。

明けて (昭和)48年正月、いよいよ 教祖90年祭が 諭達2号を以って提唱となり、
(昭和)48年3月(には)、
真柱夫妻臨席の下、創立80周年記念祭と4代会長就任奉告祭が、いとも盛大に挙行された。

〔現住所〕〒400-0032  山梨県甲府市中央2丁目8番15号
〔電話〕 055-233-1313

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,329〜332)

おわりに

甲府大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第116回目の今回は、
「甲府大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

甲府大教会GoogleMap①
Google Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中に、甲府大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとしてそのまま書写します。

甲府

甲府大教会の元は小栗周蔵(益津初代)の命を受けた静岡の興津源助によって開かれた。

明治二十四年、 源助は出発前、静岡集談所へ立ち寄ると、所長・影山清七が、甲府市の親戚・山本政八が咽喉カタルで困っているので頼むと申し出た。

甲府でまず政八のおたすけ。
彼の手引きで雑貨商・丸茂留吉の妻の子宮病をもたすけた。
深町の中村美之は耳の下の腫れ物が治り、長男通恵は三年も立たなかった足が十日ほどで立った。
こうして県下全域に道が広がった。

が、二十八年、思いがけぬ出来事が起こった。
祭典途中に警官四人が踏み込み、源助を連行したのである。
「おまえばかり立派な装束を着てお祭りするな」と、理由にならぬ理由である。
人々に精神的衝撃を与え、一時沈滞したが、源助のもとで再生の道を歩んだ。

甲府で入信した中村通恵は、故郷・北巨摩へ帰って布教した。
二十五年、義兄・永関慶次郎の継母・りう が、七年間も腐骨病を病んでいたのを手引きし、北巨摩全域に道が伸びた。
甲村 (現・高根町上黒沢) に北巨摩出張所を設置。
慶次郎が二代会長に就いた時、相前後して長男、母が出直し、自分はつなぐよりほかに道はないと前進に前進を続けた。

東山梨の道は二十五年、益津役員・塚本文蔵から河合武兵衛や斎間治作に伝わった道である。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,107)

ネット検索する中で、
天理大学附属天理図書館天理教文献室の早田一郎先生による「甲信越の天理教」というファイルを見つけ、その中にも甲府大教会に関する記述がありました。
かなり長い文章ですが、リンクを貼っただけだとなかなかそこまで飛んで行きませんので、
それについても、私自身の覚え書きとして書写します。

山梨、長野、新潟の3県を総称して甲信越という。
3県は南北に連なっているとはいえ、経済、文化などにおいて関係が深い訳ではない。
なぜ甲信越という呼称があるのだろう。

甲信越は関東地方の西に接する県であり、経済的には東京を中心にした関東甲信越地方の一部であり、その中部地方側を甲信越と見るのが一般的だ。
したがって関東・東京があっての甲信越である。

しかし、天理教伝道においては 静岡から甲(州)、信(州)、越(後) へと伸展した伝道線があり、本教伝道に関する限り「甲信越」という言葉に意味が見いだせる。

山名系の信仰は、明治20年代に静岡県内に広まった。
その中、益津支教会(現大教会) は、山梨県甲府へ興津源助という布教師を派遣した。
これが甲府大教会の始まりであり、山梨県の北部へ、また長野県、新潟県へと伝道線が伸びるきっかけともなった。
明治24年暮れから26年頃のことである。

興津源助の甲府布教は、山本政八、丸茂留吉・きぬ夫婦のおたすけをきっかけに親類、知人へ広まり、甲府のほか東山梨郡、北巨摩郡に信仰者ができ、明治26年に甲府大教会(当時支教会)、同27年に北巨摩分教会(当時出張所) が設立される。

明治26年、長野県上諏訪の岡本彦太郎は病を得、横浜の医者にかかろうと甲府に立ち寄った際、親類から匂いをかけられ入信した。
岡本は理髪業を職としており、諏訪の同業者に匂いをかけ、さらに松本や長野市の同業者へも道をつけた。
こうした職業を介した布教は、伝道の形として注目すべきである。

岡本の布教に甲府の三枝栄太郎や山本磯吉らの尽力があって、諏訪分教会 (明治26、当時支教会)、松本分教会 (明治27、当時支教会)、信州長野分教会 (明治30、当時長野出張所) が設立される。

甲府でごく初期に信仰に入った中村通恵 (男性) は、最も熱心に布教した人で、県内北巨摩や県外布教に精を出した。
「故郷ニテ 布教スル位デハ 悪因縁ハ 果セヌト 新道布教ヲ 決心シ」(日記)、
明治26年、数え19歳の時、新潟県十日町を布教地と定めた。
その後、義兄である 永関慶次郎らが 北巨摩から布教応援に訪れ、明治28年 北越分教会 (当時布教所) の設立となった。

なお、福田国義も 北巨摩分教会の県外布教の声に応じ 明治35年に新潟市へ布教に出、明治44年に 北新分教会 (当時宣教所) を設立した。

以上、静岡県 山名から 甲信越へ伝わった話である。

(早田一郎「天理教伝道史の諸相(20)~甲信越の天理教」より)
甲府大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビューより

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】116回目の当記事では『天理教事典』の中の「甲府大教会」についての記述を書き写して勉強したわけですが、
今回は、少し前の第111回で勉強した「仙䑓大教会」の【続編】のように、私には感じられました。

『天理教教会所在地録』によると、
甲府大教会は、名京大教会から分かれた大教会となっています。

しかし、以前、勉強した「仙䑓大教会」同様、
組織の系統表としてはそうだが、実際には、甲府大教会は益津大教会から分かれた大教会とも言える、ということを今回の勉強で改めて再確認しました。

甲府大教会は、名京大教会から分かれた大教会。
そして、名京大教会は、山名大教会から分かれた大教会。
ということで、甲府大教会は「山名」の流れを汲んだ大教会ですね。

山名大教会、名京大教会、益津大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

甲府大教会GoogleMap②
Google Mapより

山名の流れを汲む大教会の歴史は 名京の分離等の複雑な経緯があったりして部外者にはわかりにくいところがありますが、
今回の「甲府大教会」解説文書写学習では、
以前の、第101回「益津大教会」、また第111回「仙䑓大教会」について勉強していたので、事実関係把握の混乱が少なかったです。

リンクを貼ればいいことですが、
第101回「益津大教会」記事の中の「甲府大教会」に関わる部分について、私自身の読み返し用に、以下にコピペします。

山梨布教 〜 甲府支教会の設置(明治24年〜明治26年)

明治24年(1891)秋、
山梨県南巨摩郡下山村の 益津の信者から 小栗周蔵のところへ、布教師を派遣してくれるよう願ってきた。

(請願を受けた) 益津は、(小栗)周蔵の末女・てる の嫁入先の父親、興津源助を派遣して (山梨での) 布教を開始した。

その後、
塚本文蔵 (益津・八王子分教会 初代会長) 
塚本勝次郎 (益津・安倍川分教会 初代) 
加藤歲次郎 (仙臺大教会3代会長) 
鈴木半五郎、
加藤栄吉…
等が応援して、
その教域は、東山梨、北巨摩、東八代の諸郡から長野県諏訪郡地方にも及び、
更に 
益津から、釜蓋与右衛門、渡辺弥作、平松惣八、松本平太郎 等も加わって、
布教線は目覚ましく伸びた。

ここに、支教会設置の機が熟したが、
前に設置の 静岡支教会と同じく 県庁所在地となるため、
山名としては直轄とする意向であったので、あつれきが生じ 出願の運びに至らず、徒に日時を重ねるばかりであった。

しかし、この儘では解決の道がないので、
協議の結果、分離することとなり、
明治26年(1893) 3月28日、
会長・興津源助を以て 甲府支教会設置の許しを得た。

さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第101回)【益津大教会】より)

「おわりに」冒頭に続いて引用の連続となってしまいました。(~_~;)

引用文コピペしながら
「あれもこれも引用せずに一つにまとめた方が良い、こんなダラダラ引用ばかりの長文だとほとんどの人が途中で離脱してしまう…」 と感じたのですが、
いざ一つに統合しようとすると、あれもこれも残しておきたい… と感じて 削るのが勿体無いと思ってしまいました。

ということで、
誰にも最後まで読んでもらえないこと覚悟の上で、集めたものをそのまま並べております…(^^;)

甲府大教会GoogleMap③
Google Mapより

さて、
当シリーズ第111回「仙䑓大教会」について勉強した時にも感じた事ですが
「山名ー名京ー益津」の流れを汲む大教会の関係性は、部外者にはなかなかわかりにくいものがあります。

山名と名京が分かれたのは、
諸井清麿先生と諸井慶五郎先生のどちらが諸井国三郎初代会長の正統な後継者かという問題についての見解の相違に基づくものでしたので、部外者にも、ある意味わかりやすい。

けれども、益津大教会から 仙䑓大教会や 甲府大教会が分かれるところの経緯は、
私が参考にしているのは1977年版の古い『天理教事典』のみで そこには大雑把にしか書かれていないということもあって、イマイチ わかりにくかったです。

仙䑓大教会の場合は、
いろいろありつつも、山名と名京が分裂するまでは 益津分教会の部内だった。
山名と名京が分割される際に益津から分かれて山名大教会の直属になった。
一方、今回勉強した「甲府大教会」の場合は、
布教事務所から教会設立に進むに当たって 山名と益津で思惑が異なり、相談の結果、甲府支教会を開設する時点で、益津から分かれて 山名の直属になった。

1977年版『天理教事典』を読んで、私は 以上のように解釈しました。
違っていたら申し訳ありません  m(_ _)m

当記事は、1977年版の古い『天理教事典』に書かれた短い文章のみに基づいてあれこれ考えていますので、
もしかしたら、全く見当はずれの 頓珍漢な受け止め方をしている可能性もあります。

しかし、いずれにしても、
人と人が多く集まると起きがちな、非常に 人間臭い混乱があった ということは 間違いなさそうです。

これまでの当シリーズの中で何度も目にしてきた
――同じ信仰にご縁を頂いた人々の集まりであっても、人がたくさん集まれば集まるほど 『その中の人々の考え方の相違によって摩擦も大きくなる』という史実――
それが「山名ー名京ー益津」という 教会系統の流れの中にもあった、と 私には 感じられました。

しかし――
その後の 各教会の歴史は、
「山名ー名京ー益津」を含めた 教会系統の流れの皆様は、そうした「摩擦」によって バラバラになったりすること等なく、より団結して 大きく発展しておられる、という事実を示しています。

私は、これには様々な要因があると思いますが、
その中の一つとして、
そのような「摩擦」が生じても、それを親心から与えられた「節」と受け止め、
新たな芽が出る起点として『ポジティブ』に受け止める「節から芽が出る」という お道の教えによるところが大きいのではないか、と 思ったりしました。

数々の「節」を乗り越えた先人先生方のご苦労によって 今の天理教教会の結構さがあるということを忘れないようにしなければ… と 改めて思ったのでありました。

甲府大教会GoogleMap④
Google Mapより

今回の書写学習で 特に 印象に残ったのは、
明治29年頃の 会長辞任を求めて教会内部が深刻な対立状態に陥った という史実でした。

明治29年頃、
甲府支教会は、外部からの干渉や圧迫と借財事情に苦しみ、
興津源助会長は高齢であり 苦境を切り抜ける実力に乏しいから会長を交代すべきだ という声が高まり、教会内部で対立が深刻化した とのこと。

そのような対立を受けて、
諸井国三郎 山名会長が おさしづを仰ぎ、
その結果、「会長の変更は決してならん、神意である。会長に不足の者は去れ」と 役員一同に大喝を入れた。
この一声により、甲府支教会内における混乱は 一瞬にして解決を見た――
『天理教事典』には そのように書いてありました。

参考までに、その際の「おさしづ」を書写しておきます。

明治29年12月6日

山名部内 甲府支教会長 事情に付、当分 山名分教会長 兼任致し度く願

さあ/\ 尋ねる事情/\、どちら聞いても 事情と思う。
成らん事せえと これも 成ろまい。
又一つ 思わずする事 分かろまい。
どうも 明瞭ない と言う。
成らん心があろまい。
事情 大変 縺れてある/\。

そこで こういう理に なりて来るのも、よう聞き分けて、
互い/\ 道の中の理に 聞かして伝えて、是非に是非一つというは 道と言う。

影形無い という処から聞き分けたら、又一つ どんな理でも 治まらんでもない。
この 一つの理 聞き分けにゃならん。

押して、山名分教会長 出張の願

さあ/\ そら 一度の処 十分の諭、是非に是非 というは、こら どうもならん。
ならん理でも、こう と言うて、めん/\から こう と言うは 又 集まる理。
よく聞き分けるなら 又一つ 理もあろ。

これだけ 一寸 諭し置こう。

一つの史実を誇張して一般化することは慎むべきだとは思いますが、
私は、この史実が示す教訓は なかなか重いものがあるのではないか、と感じました。

当シリーズ第8回「敷島大教会」の勉強をした際、
山田伊八郎先生が 教会内部の人間関係によって会長に就任するまで 紆余曲折があった事を学びましたが、
甲府支教会内における 興津源助会長の「辞任運動」も それと似たような構造を持っているように 思われます。

人間世界の価値観と天理の世界は異なるという、信仰の基本を忘れないようにしなければ…と 改めて思わされたのでありました。

甲府大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教甲府大教会 より

その他にも、
甲府支教会「開筵式」翌日の 秋季大祭において、祭典途中に 警官4人が踏み込んで、
「おまえばかり 立派な装束を着て おまつりするな」
と、理由にならぬ理由で 興津源助 初代会長を連行した、という話。

また、
昭和20年7月7日の「甲府空襲」で、甲府大教会は、神殿 並びに 付属屋等 すべて焼失してしまうという悲劇に見舞われたが、一同 力を合わせて ふしんに取り組み、昭和24年に 見事に復興工事を完成した、という話。

どれもこれも、知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に、とても勉強になりました。
有難いことでした。

当シリーズ記事の締めくくりに いつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「甲府大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが 感じられてくる気がします。

甲府大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教甲府大教会 より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「甲府大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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