Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号25番「麹町大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号26番「日光大教会」について勉強します。
日光大教会(にっこう だいきょうかい)
日光大教会の創始者 速水久治良
日光大教会は、
明治25年(1892)12月19日、
神道直轄天理教会 河原町分教会 日光支教会として設置されたのであるが、
それは
創始者 速水久治良の信仰に始まる。速水久治郎は、
弘化元年(1844 )9月16日、
滋賀県 愛知郡 豊椋村 大字大清水字石仏、
速水久左衛門の長男として生まれた。父の(速水)久左衛門は
近江商人として、
栃木県下都賀郡間々田の宿に、近江屋という店を出し、
手広く 雑貨荒物商を営んでいた。そして その近江屋を根拠として、
関東の物産を関西に送り、
近江の産物である蚊帳、帷子などを 関東に運んで商い、
仲々の盛運に恵まれていた。(速水)久治良も
16歳頃から、間々田の父の許で、商売の手助けをしていた。長じて25歳の時、
国元の(滋賀県) 豊椋村の実家に帰り、
同村(豊椋村)大字北清水、
藤関伝八の長女 以登を娶った。しかし なかなか子供に恵まれず、
死産 あるいは夭折して育たなかったため、
妻の実家より生まれたばかりの女児 の恵を貰い、
長女として育てた。
(の恵は 後に3代会長になる)
速水久治良の入信(明治17年~明治22年)
明治17年(1884) 4月、妻 以登が
次女 和恵を生んでから、眼を患いはじめ、
医者、薬と八方手を尽したが 快方に向わず、
(明治)20年3月、長男 多計司が生まれてからは、益々悪化して
殆ど 失明も同様になってしまった。その上、(速水)久治良が
関東で仕入れた蒟蒻粉を 船で関西へ運ぶ途中、
その船が 駿河灘で大暴風雨に遭い、一夜の間に海底に沈んでしまってから、
商売が思わしくなくなり、
(速水)久治良一家に、暗い日が続くようになった。明治22年(1889)6月、
以登の妹 リウ(谷川平右衛門の妻) が、
天理教の信仰に入ることを勧めに来た。(速水)久治良は 関東に出張して留守中のことではあったが、
リウの熱心な勧めにほだされて、
以登と 娘 の恵の二人が入信することになった。(明治22年) 6月18日のことである。
その月(6月)28日、
同村(豊椋村) 高田彦兵衛宅へ、天理教の布教師が来るから、
そこへ参拝しなさいとの リウの言葉だったので、
の恵が 母に代って 彦兵衛宅の神様へお参りした。その日は 講社勤めだったらしく、
中野(現大教会) の 小梶源蔵の顔も見えていた。(明治22年) 8月中旬、 (速水)久治良が関東から帰って来た。
以登が、
(速水久治良が) 留守中ではあったが、谷川の妹(リウ)から勧められて 天理教を信仰することになった経緯を伝え、
久治良にも 是非 信仰するようにすすめた。の恵も 傍らから
一家揃って信仰すれば、眼病の治癒も早い
と、高田彦兵衛の言われた通りに伝えた。(速水)久治郎は 敢えて反対もしないかわり、信仰するとも言わなかった。
それから1ヵ月後、
(明治22年) 9月15日の晩、久治良の奥歯が痛みだした。男泣きに泣いた
と後年語っているから 余程痛かったのであろう。の恵は 米1升を重箱に詰めて 高田彦兵衛宅へ走った。
「奥歯が 痛むのは、女房子供のいうことを何んでも噛みつぶす理」
と (高田)彦兵衛に言われた通りを、
の恵は そのまま久治良に伝えた。(速水)久治良は 成程とうなずいた。
それから間もなく 歯の痛みが止まった。
その事実が (速水)久治良の入信の動機となり、
それから1年、
高田彦兵衛の後について、腰弁当で近郷近在の布教に専念した。
日光支教会の設置(明治23年~明治25年)
明治23年(1890) 11月初旬、
(速水)久治良は 布教のため一家を挙げて、栃木県日光町へ移った。当初「速水湯」という風呂屋の営業をしながら、
2階に神様を祀り、風呂の方は家族にまかせ、
(速水)久治良は 布教に東奔西走した。翌年 (明治24年) 5月には 11名の信者が出来て、
斯道会 第284号をもって 講が結ばれた。その信者たちに「てをどり」を教えるのが の恵の役であった。
江州、清水の (高田)彦兵衛宅で、熱心に習ったてをどりが、
日光へ来て みごとに実を結んだ。当時の 日光という土地は、
勝道上人 開山 という歴史をもち、
東照宮、天台宗輪王寺、二荒山神社、
所謂 この 2社1寺によって日光の町が繁栄して来た
という 宗教的な地域であった。そういう中へ、
天理教という 異質のものが入って来たので、
その反対攻撃はもの凄く、
(速水)久治良と その一家の苦難は 想像以上であった。しかし、
反対がはげしければはげしい程、
(速水)久治良の布教意欲は燃え上がり、
昼夜を分かたぬ布教が、花と咲き 実を結び、
枯野に火を放つ勢いで 伸び広がった。風呂屋の営業も止め、
明治25年12月、
(速水)久治良は まだ教導職に補命されていなかったので、
河原町分教会役員 深谷悦次郎を 担任教師(会長)として、
日光支教会が設置された。
磯部岩吉と速水久治良(明治23年頃~明治24年頃)
それより半年前、 (明治24年) 4月20日、
(速水) の恵は、磯部岩吉 (後に2代会長)と結婚した。(磯部)岩吉は、
滋賀県神崎郡建部村大字上中、磯部久兵衛の2男。磯部久兵衛と速水久治良は 懇親の間柄で、
(磯部)岩吉は 7歳の時から 速水家に来ていた。だから、の恵とは 兄妹のように育ったのである。
当時 速水家に後嗣がなかったので、
(速水)久治良は 岩吉に望みをかけ、
教育にも 熱心に力を入れていた。明治23年の春、
実父の(磯部)久兵衛から、
宇都宮に出している大津屋(酒店)が 人手が不足で困 っているから、
岩吉に行ってもらいたい との懇請があり、
岩吉 20歳の春、
(速水)久治良の承諾を得て 宇都宮で働くことになった。その当時、
日光にも 大津屋の出店があり、
その方には 岩吉の実兄 (磯部)善一郎が働いていた。その年(明治23年) の9月 岩吉は 日光の大津屋へ転じた。
兄と一緒に働くことになったのである。岩吉が日光へ移って間もなく、
すなわち明治23年11月、
(速水)久治良が 家族を引き連れて 日光へ布教に来た。日光を布教の根拠地と定めたのには、
岩吉がすでに日光にいた
という事実を 無視出来ないだろう。岩吉も 養父(速水)久治良の信仰を受け継ぎ、
主に(栃木)県南 間々田の地に、
田中幸次郎らと共に 熱心に布教を展開した。
(これが都賀大教会の草分けとなる)
速水久治良の出直・速水岩吉2代会長就任(明治27年頃~明治29年)
明治27年 5月、
教会は
日光町御幸町167番地の敷地建物を買収して 移転した。ところが、
(明治27年) 8月22日午前9時、
去る16日より病床に臥していた(速水)久治良が
突然出直した。51歳の若さである。
教会設置、敷地建物の買収移転、
これからという時に 中心の大黒柱が倒れたので、
家族はもちろん 信者は 途方にくれてしまった。しかし 岩吉は、
今ここで 自分が心を倒しては、
北関東一帯に伸び始めた教線に異状を来たすであろうと、
毅然として 起たざるを得ない立場にあった。大きな難局に直面した中にも、役員信者が勇み立ち、
明治28年 5月、
神殿及び付属建物を建築して (速水)久治良の霊を慰めようとの議が起こり、(明治28年) 12月4日 本部の許しを得て建築にかかり、
翌年(明治29年) 神殿50坪 付属建物40坪が 竣工した。その年(明治29年) 9月5日、
会長 深谷悦次郎 辞任、
(速水)岩吉が その後を引継ぎ、
名実共に (日光)支教会長となった。教祖10年祭が執行された明治29年中に設置された部内教会は
都賀(現大教会)、江川、中根(現大教会)、古河(都賀)、栃木、富張(中根)、絹河(都賀)、上都賀、落合、本郷(都賀)
の10ヵ所を数えた。
日光支教会から分教会へ(明治35年頃~明治42年)
明治35年(1902) 2月、
隣屋敷を買収し、付属建物の増築をなした。客室15坪、会長室26坪、
2階に 教祖殿21坪、事務所 階上階下40坪、炊事場5坪で、
当時としては 堂々たるものである。ところが、
この年(明治35年) 8月より降り出した雨が 1ヵ月も続き、
9月28日に 俄然 大暴風雨となり、
人家、農作物の被害は想像を絶するものであり、
部内教会2ヵ所の神殿が倒壊、大小の被害は 教会信者に及び、
北関東一帯に教勢を張った日光の教線に大きな影響を与え、
布教活動に極度の行詰まりを呈して来た。その後 冷害凶作相続き、
地方の窮乏も甚だしかったが、
特に 教会の負債はかさむ一方で、
動きのとれない 苦境の底へ陥ち込んで行った。しかし、そんな状態の中でも
徐々ではあるが 教線は伸びて、
明治42年(1909) 1月、天理教一派独立により、
上級 甲賀が大教会になり、日光も 分教会と改称。従って 部内の
都賀、上都賀、中根、江川、栃木、那美岐
も 分教会に、
その他支教会、宣教所と改称した教会が 90ヵ所にのぼった。教祖30年祭の執行された大正5年(1916)までに設置された教会は 34ヵ所。
大正15年(1926)に執行された教祖40年祭までに設置されたもの 159ヵ所を数えた。
日光分教会から大教会へ・そして速水岩吉2代会長の出直(明治35年頃~昭和9年)
教祖40年祭直後の 大正15年 2月、
上級 甲賀大教会の移転建築の発表があり、
(速水)岩吉は 建築委員を命ぜられ、
以後5ヵ年間 精魂を傾けて その普請に尽力した。昭和7年 11月16日、
多年の懸案であった 日光の分離昇格が実現した。分教会より日光中教会と改称、
翌(昭和)8年 10月11日 大教会に昇格。昭和9年 5月3日 昇格奉告祭執行と、
目まぐるしい躍進を続ける そのさ中、すなわち 昭和9年 3月13日、
会長 (速水)岩吉が
享年64歳をもって 出直した。初代 (速水)久治良の出直後、その遺志を継ぎ、
明治29年 (日光)支教会長に就任以来、
分教会、中教会、大教会…と
(速水)岩吉 40年の歩みは
そのまま 日光の発展史といえる。(速水)岩吉は、
長男 久を 大正11年に、
また 長女 きぬ を昭和4年に失い、
子供運に恵まれなかった。しかし
次女 松枝に 昭和7年 2月、
奈良県高市郡高市村大字岡、岡分教会(現大教会) の
森井宗吉6男 宗六(後の4代会長) を迎え、
その年(昭和7年) 12月に 愛孫の顔を見ていた。
速水の恵3代会長時代(昭和9年~昭和15年)
かなしみの中に、
(速水)の恵は 後任会長に推され
昭和9年 4月16日、3代会長に就任した。その翌年(昭和10年) 7月29日夜、隣家より出火、
明治28年に建築された神殿、同(明治)35年に増築された教祖殿、客室、会長室などは
一瞬にして灰燼に帰してしまった。応急措置として、
神殿、客室、会長室、事務所、炊事場の仮建築にかかり 2ヵ月で竣工、
(昭和10年) 10月17日に 鎮座祭を執行した。昭和15年(1940) 3月25日、都賀が 分離して大教会に昇格。
続いて(昭和15年) 7月25日、那美岐が 分離昇格した。
同年(昭和15年) 10月28日、 (速水)の恵会長は
婦人の身で しかも老齢に達したので、大教会長を辞任、
同日(昭和15年10月28日) をもって
養嗣子 (速水)宗六が4代会長に任命された。
速水宗六4代会長時代(昭和15年~昭和47年)
翌(昭和)16年 3月31日、中根が 大教会に昇格して分離した。
初代 (速水)久治良が 日光支教会 設置以来 50年にして 所属教会322ヵ所、
3大教会を分離して なお146ヵ所を残していた。昭和16年、
太平洋戦争のはじまった年の7月14日
会長の (速水)宗六が応召したので、
前年辞任した (速水)の恵が (昭和16年) 10月24日 会長代務者となった。それより2年後の 昭和18年 10月、
(速水宗六)会長が召集解除となって帰還するまで、
老齢にもかかわらず (速水の恵は) 会長の激務によく勤めた。昭和19年4月26日、(速水)宗六は 栃木教区長に任命された。
その頃 戦局は いよいよ多端、空襲は 益々激しくなった。
(日光)大教会の建物は、昭和10年の火災により仮建築のままで、
いずれ 本建築にかかる予定であったが、
戦争のため焼土と化したその当時は、
とうてい 建築など出来なかった。しかし 土地も建物も狭く、
不便この上なし といった状態だったので、
移転建築の議が起こり、
日光市 御幸町523番地の土地 約6,000坪を買収して 移転地と定め、
昭和25年 5月18日 地鎮祭を執行した。この土地は起伏の多いところから 宅地造成を行い、
2代真柱は 現地に立って 神殿の位置方位を定めた。昭和27年 3月、
神殿179坪5合、付属建物約250坪の工を起こし、
昭和29年10月末に 竣工した。同年(昭和29年) 11月7日 2代真柱によって鎮座祭、翌8日奉告祭を執行した。
昭和45年
信者宿泊所が狭隘となり、
かつ 日光市の区画整理により、
炊事場、食堂、風呂場の建っている土地を 市に提供することになったので、
炊事場、食堂、宿泊所を一つにまとめて建てることになり、
鉄筋コンクリート3階建406坪の工事にかかった。宗六の長男 (速水)巌が 普請委員長となり、
翌年(昭和46年) 8月 竣工した。昭和47年 2月、(速水宗六)会長が病臥し、
3月に至って 会長辞任を決意、
4月26日 (速水)巌が 5代会長に就任した。
速水巖5代会長就任(昭和47年)
同年(昭和47年) 8月18日、
月次祭を変更して、創立80周年記念祭、会長就任奉告祭を執行した。この時参拝者は4,000人を数えた。
その後、
部内教会、よふぼく、信者が一丸となって
陽気ぐらし世界の一日も早い実現を目指して たすけ一条に励んでいる。〔出版物〕
『日光の道』大教会史 (昭和16年刊)
『二代会長 速水岩吉・三代会長 速水の恵 略伝」(昭和39年刊)〔現住所〕〒321-1404 栃木県日光市御幸町523 番地
〔電話〕0288-54-0355(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,662〜664)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
26回目の今回は、
「日光大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】26回目の当記事では
『天理教事典』の中の「日光大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
日光大教会は、
「江州商人の進取性」を基盤とする拡大パワーに満ちあふれた
【斯道会】の流れを汲む甲賀大教会から分かれた大教会ですね。
甲賀大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「日光大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)
【日光大教会の歴史】
- 弘化元年(1844 )9月16日、速水久治郎が、
滋賀県 愛知郡 豊椋村 大字大清水字石仏にて、
速水久左衛門の長男として誕生した。 - 速水久治郎の父・速水久左衛門は、近江商人として、
栃木県下都賀郡間々田の宿に近江屋という店を出し、手広く雑貨荒物商を営んでいた。
速水久治良も、16歳頃から、栃木県間々田の父の許で商売の手助けをしていた。 - 速水久治良25歳の時、国元の(滋賀県) 豊椋村の実家に帰り、
藤関伝八の長女・以登と結婚した。 - 速水久治郎夫妻はなかなか子供に恵まれず、死産あるいは夭折して育たなかったため、
妻の実家より 生まれたばかりの女児 の恵を貰い、長女として育てた。 - 速水久治良と懇親の磯部久兵衛の次男・磯部岩吉が、
7歳頃(明治10年頃)から速水家に来て、
の恵と 兄妹のようにして育った。 - 明治17年(1884) 4月、妻 以登が 次女の和恵を生んでから眼疾患を患い、
明治20年3月、長男の多計司が生まれてからは、益々悪化して
殆ど失明も同様になってしまった。
その頃、速水久治良自身も、
関東で仕入れた蒟蒻粉を船で運送中に大暴風雨に遭って沈めてしまうという大節に遭い 商売が振るわなくなり、一家に暗い日が続くようになった。 - 明治22年6月、速水久治良が関東出張で留守中に、妻・以登の妹リウが天理教の信仰に入ることを勧めに来た。
リウの熱心な勧めにほだされて、以登と娘 の恵が入信した。 - 明治22年8月中旬、速水久治良が関東から帰って来ると、妻・以登より 天理教を信仰することを決意した旨を伝えられた。
以登は、久治良にも 是非信仰するよう勧めた。
久治良は、敢えて反対しなかったものの、自分が信仰するとは言わなかった。 - それから1ヵ月後の明治22年9月15日晩、速水久治良の奥歯が激しく痛み出し、男泣きに泣いた。
長女・の恵は 高田彦兵衛宅へ走り、おたすけを願った。
高田彦兵衛から「奥歯が 痛むのは、女房子供のいうことを何んでも噛みつぶす理」とのおさとしを受け、の恵がそれをそのまま久治良に伝えたところ、速水久治良の胸に深く突き刺さった。
それから間もなく歯の痛みが止まったこともあり、速水久治良は この道を歩むことを決意した。 - 速水久治良は、それから1年、高田彦兵衛の後について、腰弁当で近郷近在の布教に専念した。
- 明治23年春、20歳の 磯部岩吉は、
実父・久兵衛から、宇都宮に出している大津屋(酒店)が人手が不足で困っているから行ってもらいたいとの懇請があり、
養父 (速水)久治良の承諾を得て 宇都宮で働くことになった。 - 明治23年9月、日光に 岩吉の実兄 (磯部)善一郎が働いていた大津屋の出店があり、
岩吉も 日光の大津屋へ転じる事となった。
磯部岩吉は、日光の地で兄と一緒に働き始めた。 - 明治23年11月初旬、磯部岩吉が日光へ移って間もなく、
速水久治良は 布教のため一家を挙げて、栃木県日光町へ移った。 - 明治23年に日光へ移転した速水久治良は、
当初「速水湯」という風呂屋の営業をしながら(風呂の方は家族にまかせ)、2階に神様を祀り、布教に東奔西走した。
磯部岩吉も、養父 (速水)久治良の信仰を受けて、栃木県南の間々田の地に、田中幸次郎らと共に熱心に布教を展開するようになった。 - 明治24年 4月20日、速水の恵、磯部岩吉と結婚。
- 明治24年 5月には 11名の信者が出来、斯道会 第284号をもって講が結ばれた。
- 当時の日光は、東照宮等がある宗教的な地域であり、天理教という異質なものへの反対攻撃は凄まじく、 速水久治良とその一家の苦難は想像以上であった。
しかし、速水久治良の布教意欲は燃え盛り、昼夜を分かたぬ布教が展開され、
日光の道は 枯野に火を放つ勢いで伸び広がった。 - 明治25年12月19日、教勢増大につき、神道直轄天理教会 河原町分教会 日光支教会が設置された。
風呂屋の営業も止めた。
速水久治良は まだ教導職に補命されていなかったので、河原町分教会役員 深谷悦次郎が担任教師(会長)となった。 - 明治27年 5月、日光支教会は 日光町御幸町167番地の敷地建物を買収して 移転した。
- 明治27年 8月22日午前9時、去る16日より 病床に臥していた速水久治良が、51歳の若さで 突然出直した。
- 明治28年 5月、日光支教会の道これから という時に教会大黒柱の速水久治良が倒れ 一同途方に暮れていたところ、
速水岩吉が、今ここで自分が心を倒しては北関東一帯に伸び始めた教線に異状を来たすであろう、と 毅然として起ち上がった。
役員信者 勇み立ち、神殿建築して速水久治良の霊を慰めよう との議が起こった。 - 明治28年 12月4日 本部の許しを得て 神殿建築にかかり、
翌年(明治29年) 神殿50坪 付属建物40坪が 竣工した。 - 明治29年 9月5日、河原町分教会から派遣されていた 深谷悦次郎支教会長が辞任し、速水岩吉がその後を引継いだ。
速水岩吉が、名実共に 日光支教会長となった。 - 明治35年 2月、隣屋敷を買収し、付属建物の増築を行った。
- 明治35年 8月から1ヵ月も続いた長雨が 9月28日には大暴風雨となり、大災害となった。
部内教会2ヵ所の神殿が倒壊、大小の被害は教会信者に及んだ。
北関東一帯に教勢を張った日光の教線に大きな影響を与え、布教活動に極度の行詰まりを呈すようになった。
その後 冷害凶作が相続き、地方の窮乏甚だしく、教会においても負債がかさむ一方で、動きのとれない苦境の底へ落ち込んでいった。 - 速水岩吉を中心に日光信者一同心を合わせ、そのような困窮状態を乗り越えて、徐々にではあるが 教線は伸びていった。
明治42年 1月、天理教一派独立により、上級 甲賀が大教会になり、日光支教会は日光分教会へと改称した。 - 大正15年 2月、上級・甲賀大教会の移転建築の発表あり。
速水岩吉は 建築委員を命ぜられ、以後5ヵ年間 精魂を傾けて その普請に尽力した。 - 昭和7年 2月、速水岩吉は、大正11年に長男・久、昭和4年に長女・きぬを失っていた事もあり、
次女の松枝に 岡分教会(現大教会) の 森井宗吉6男 宗六(後の4代会長) を迎えた。 - 昭和7年 11月16日、日光分教会、甲賀大教会より分離昇格、日光中教会と改称。
- 昭和8年 10月11日 日光中教会から大教会に昇格。
- 昭和9年 3月13日、速水岩吉2代会長が 享年64歳をもって出直した。
- 昭和9年 4月16日、速水の恵3代会長 就任。
- 昭和10年 7月29日夜、隣家より出火。
神殿、教祖殿、客室、会長室など一瞬にして灰燼に帰した。
応急措置として、神殿、客室、会長室、事務所、炊事場の仮建築にかかり 2ヵ月で竣工した。(昭和10年 10月17日 鎮座祭) - 昭和15年 10月28日、速水の恵3代会長 辞任。
速水宗六4代会長 就任。 - 昭和16年 7月14日、速水宗六4代会長 兵役招集。
昭和16年 10月24日、速水の恵 会長代務者 就任。 - 昭和18年10月、速水宗六4代会長 召集解除。会長復帰。
- 昭和25年 5月18日、昭和10年の火災以後 教会建物は仮建築のままだったこともあり、
日光市御幸町523番地の土地 約6,000坪を買収し 移転地と定め、地鎮祭を執行した。 - 昭和27年 3月、神殿179坪5合、付属建物約250坪の工を起こし、
昭和29年10月末に 竣工。
昭和29年 11月7日 2代真柱によって鎮座祭、翌 8日 奉告祭を執行。 - 昭和45年、信者宿泊所が狭隘となり、かつ 日光市の区画整理により、炊事場、食堂、風呂場の建っている土地を 市に提供することになった。
それを受けて、炊事場、食堂、宿泊所を一つにまとめて建てることとなり、鉄筋コンクリート3階建406坪の工事にかかった。
宗六の長男・速水巌が 普請委員長となり、翌年(昭和46年) 8月 竣工した。 - 昭和47年 2月、速水宗六4代会長が病臥し、3月会長辞任を決意。
昭和47年 4月26日 速水巌5代会長 就任。 - 昭和47年 8月18日、創立80周年記念祭、会長就任奉告祭 執行。
…そんな感じでしょうか。
もっとコンパクトにまとめられたらいいのですが、
私の要約力が弱いこともあり、ダラダラと長い箇条書きになってしまいました。(^^ゞ
これでは、ただ単純に『天理教事典』の本文を箇条書きに分けただけじゃないか…(汗)
ただ、箇条書きにするという作業を通して、
私自身の頭の中では
日光大教会の歴史の大きな流れを何となく把握することが出来ました。
個人的には大変喜んでおります。(^^;)
とにかく、毎回、異常にダラダラと長い、
という点に対しては…
一応、自覚はあります “(-“”-)”
ですが、
ここは、どこまでいっても「自己満足ブログ」だから――
ということで、
自分に言い訳を許している次第でございます…(#^^#)
日光大教会の創始者である速水久治良先生は、
明治25年当時、教導職に補命されていなかったので、
日光大教会の事実上の創始者でありながらも、
「日光支教会」設立時には、とりあえず 上級の役員先生が 担任教師(会長)となり、
ご自身には肩書がなかったのですね。
そこから敷地建物を買収し、
さあ、これからいよいよ本格的に教会建設を進めていこう、いずれは教導職も取得して…
と希望に満ちた未来に向かって歩み始めた矢先、
明治27年に 突然 出直してしまわれた‼
「日光支教会」につながる皆様の困惑は いかほどだったでしょうか。
そうした混乱状況の中、
7歳頃から速水家で共に生活し、
後に 速水久治良先生の娘婿となられた 速水岩吉先生が立ちあがられた。
速水久治良先生がつけられた「日光の道」を敢然と受け継ぎ、
明治29年には「日光支教会」の2代会長に就任された。
『天理教事典』「日光支教会」解説文の中には以下のように記述されていました。
初代 (速水)久治良の出直後、(速水岩吉は)その遺志を継ぎ、
明治29年 (日光)支教会長に就任以来、分教会、中教会、大教会…と
(速水)岩吉 40年の歩みは そのまま日光の発展史といえる。
『天理教事典』の中には次のようにも書かれてありました。
(速水久治良が) 日光を布教の根拠地と定めたのには、
岩吉がすでに日光にいた という事実を無視出来ないだろう。
日光大教会の創始者である速水久治良先生が、
生れ育った滋賀県の豊椋村から、
明治23年の11月に 栃木県の日光町へ布教に出ることを決意した要因は、
父親が出していた近江屋という店が 栃木県の間々田にあったことも影響しているでしょうが、
それ以上に、
7歳から共に生活した 岩吉の近くに行きたい、
という思いが強くあったのでありましょう。
日光布教に出た翌年!(=明治24年)
速水久治良先生の長女である 速水の恵先生と 岩吉先生が結婚された、
という史実は それを裏付けるもの
と言えるのではないでしょうか。
お道では、縁談の話を、
嫁に行くのではなく元々の家に帰るのだ、
と教えられますが、
速水久治良先生と岩吉先生の関係も、それに近いような…
今生では血縁のない間柄として生まれたけれど、
魂の上では 紛れもない親子だった――
史実を追いかけ眺めれば眺めるほど、そんな感慨が強くなります。
今回勉強する中で、私は、
今だけ見ていたのでは分からない世界、
前生・今生…とつながっている「魂の世界」というものを、
速水久治良先生と岩吉先生の関係から
ひしひしと感じさせられたのでありました。
――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「日光大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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