天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より

東大教会天理教各教会歴史探索第7回 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年3月後半から
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】として、
『天理教事典』(1977年初版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写しています。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

当シリーズの意図は、
自分に関りがない天理教各教会の歴史についてはほとんど知らない
という 自分自身の残念な現状を踏まえ、
天理教 教祖百四十年祭へ向かう今の旬に、
それを改善することを目指して、
これまで自分とはご縁がなかった天理教の各教会の歴史というものを
多少なりとも知る、
というところにあります。

そのための教材として、
たまたま自教会にあった『天理教事典』(1977年初版)を活用しています。

何分 古い教材であるため、当然、記述内容も かなり(!) 古いです。

また、とりあえず、無条件に「原文」を書写していますので、
もしかして、たまたまこの記事を目にした、関係者の方々にとっては、
この記述内容はちょっと違うよ (~_~;)
という部分があるかもしれません。
(というか、きっと かなりあるだろう と思います)

ですが、
当ブログは、自己学習の目的で運営しているもので、
記事作成にあたっては、
何らかの主義主張(!) を行う意図はありません (^_-)

すなわち、当シリーズ 全ての記事は、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年初版)の記述内容を
淡々と書き写したものに過ぎない
というわけです。

よって、
記事の記述内容の真偽というか 正確性というところまでは
全く検証できていない(していない)
ということをお断りしておきたい と思います。

本文に出てくる史実に関係される方の中には、
もしかしたら、記述内容にご不満を感じられる方があるかもしれませんが、
どうか、大らかな心で受けとめて頂きますよう
お願い申し上げる次第です。<m(__)m>

前回は、
教会番号6番「撫養大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号 7番「東 大教会」について勉強したいと思います。

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東 大教会 (あずま だいきょうかい)

天理教東大教会ストリートビュースクショ①
Googleストリートビューより

明治13年〜明治18年頃

東 大教会の道は、
初代会長 上原佐助の入信に始まる。

明治13年(1880) 31歳の時、
巷に伝わる天理教の教説を耳にし、
明治14年に 初めて「おぢば」へ参拝し、
教祖の暖かい親心と、不思議な親神のお働きを目のあたりにし、
確固不動の信仰をもつようになった。

その後、事ある毎に 大阪からおぢばに通い、求道の日々を送るうち、
教祖から「赤衣」(あかき)を授けられ、
「東京長崎の道」という 尊いお言葉を頂いた。

上原佐助は ここに関東布教を志し、
強い決意のもとに 商売を整理し、家をたたんで「赤衣」を奉じ、
店の小僧をしていた 椿卯之助 ただ一人を連れ、
明治18年(1885) 7月24日 神戸から 海路 東京へ向かった。

佐助は、まず 下谷金杉下町、通称「ざるや横町」に居を定め、布教を始めたが、
その年の 暮頃までには、
後の大教会役員 山本信之助、
京橋分教会 初代会長 柴田吉之助、
浅草大教会 2代会長 宮内初太郎、
谿郷分教会 初代会長 松本善次郎
等の人々が入信し、
常に 20~30人の人が 寄り集うようになった。

かくて 家が手狭になるにつれて、
金杉上町、通称「石川長屋」から 竜泉寺、通称「大音寺前」に移り、
4間に2間の建物を増築したが、
これは「死に間」と嫌われた世間の迷信を打破し、
親神の御教を 広く伝えるためのものであった。

当時の布教は 秋田県本庄にまで及んだ。

明治20年〜明治24年頃

明治20年(1887) 陰曆正月26日、
教祖が 現身をお隠しなされたことは、
陰暦 2月2日 おぢば発の手紙で知った。

佐助は その返信の中で、
この悲報に一時は驚き 落胆もしたが、
教祖の日頃の御教え通り、
「おつとめ・おたすけ・つくし・はこび」
の 固い決意を述べている。

この直後 数名の者を連れて おぢば帰りをし、
帰京後 直ちに 信者を結集して「東京真明講社」を設立し、
東京8講社の基礎を固めた。

明治21年(1888) 1月、教祖1年祭に
佐助は、東京真明組の講元として 信者を連れて おぢばに帰ったが、
「1年祭の事件」に遇い、
協議の結果 いよいよ 東京で 天理教会の公認を受けることとなり、
急ぎ 帰京して 講を挙げて 全力を注ぐことになった。

明治21年 4月10日、
東京市 下谷区北稲荷町42番地 (現在の東大教会所在地)
天理教会所が 初めて認可され、
同24日 初代真柱が祭主となって
仮開莚式が盛大に執行された。
当日の参拝者は 3,000余名と伝えられている。

同年 8月 教会本部が おぢばに移転、
そのあとに「天理教会本部 出張所」が置かれたが、
更に「おさしづ」を仰ぎ、
翌22年(1889) 12月21日、東分教会所に 引直された。

教祖5年祭を無事終えた 明治24年(1891) 4月1日、
東分教会へ 本席がお入り込み下され、
同5日
さあ/\ この所/\、この所 清水一条、もう 水という 清水の水を授けよう
さぁ/\ 水を授けて置くで
との おさしづにより、
教会の土地処に「清水(せいすい) のさづけ」を頂いた。

同14日には
又一つ 出越した処、地所という、水と言えば清水、代々更われど、重々の理に 授けてあるのやで
さあ/\ 渡す処、今一時の処は 一人の理に 日々運んでくれ。生涯の理に授けてあるのやで
との 一連のおさしづにより、
「さづけの理」は あきらかとなった。

この「清水のさづけ」によって、珍らしい 「おたすけ」が相次ぎ、
教えは 関東はもとより 東北、四国にまで及んだ。 

明治27年頃〜明治35年頃

明治27年(1894)、
先の教会本部の公認にあたり、
土地建物を献納した 中台勘蔵を教会長とする
日本橋支教会は
2月17日のおさしづにより
日本橋分教会に 分離昇格した。

明治29年(1896)、
内務省から 秘密訓令が出され、
天理教に対する弾圧が烈しくなり、各新聞が一勢に 反対攻撃の記事を掲げたが、
このような中にあっても、
初代会長は いささかも動揺する事なく、教祖殿のふしんにかかり、
一方、教内外から講師を招いて 講習会を開き、
また 数多くの公共事業に参加する等、懸命につとめた。

明治35年(1902) 11月、
初代会長は おさしづにより、一家を挙げて おぢばへ引移った。

この事と前後して 詰所の建築が決まり、三島471番地を買収、
同34年5月 詰所本館の新築棟上げが行われ、秋には完成をみた。

明治41年頃〜大正時代

明治41年(1908) 11月27日、
天理教の一派独立を機として、
同年12月30日 東 大教会に 昇格した。

おぢばに在って10年、
建築中の詰所に起居し、 本部員としてのつとめに精進する 初代会長は、
絶えず 東の上に心を馳せ、部内教信者の丹精に努めたが、
明治45年 3月11日
63歳で その生涯をとじた。

明治45年(1912) 5月1日、
理事の 椿卯之助が 会長事務取扱の許しを得て、
折柄 おぢばで進んでいた 旧神殿の普譜と、
同年 6月10日の 初代会長 百日祭を目指し、
天理教最初の試みである 団体臨時列車による おぢば帰りを行った。
この時の参加者は 1,200名を数える。

東の道の進展にともない、
明治22年建築の教堂は 狭さが目立つようになり、
大正5年 (1916) から 数十回にわたって 大教会建築の設計図を引き、
関東草分けの道に相応しい 建築計画を練った。

このような中で 大正9年 10月25日、
2代会長として 上原義彦が 就任し、
東部内教会は 挙って 新たな前進を期した。 

大正12年(1923)  9月1日の関東大震災には、
大教会を始め 多くの部内教会が焼失した。

しかし 教祖40年祭に向かい
「大教会の復興は、ぢばへのつとめと 部内教会の復興から」
との2代会長の思いから、
大教会は バラック建築にして、
罹災教会 23ヵ所の復興を手始めに 部内教会を糾合、
年祭の一大運動たる教勢倍加に全力をあげ、
一躍 教会数 430ヵ所の教勢となった。

大正15年 8月、
本部の命で 海外巡教中の2代会長は、
病気を機として 東の海外布教を決心し、
当時 韓国大邸で、韓国人の布教をしていた 清水豊吉夫妻を中心に、
内鮮同慶会を設立し、
布教のかたわら 学校を開いて
韓国婦人の教化と職業教育を施した。

昭和初期〜昭和20年頃

昭和2年(1927)の春、
2代会長は 大教会の復興建築について、
「我が 東大教会は
明治21年 天理教会本部が 初めて公認をうけた 由緒ある教会にして、
本教が 公然と社会に打って出た 道の源流である。
関東における大教会にして 帝都の中央に位置する天理教の 代表的建築物としたい。」
と その抱負を説いた。

昭和2年 8月18日 2代会長の就任まで会長事務取扱であった 椿卯之助が 出直した。

昭和2年(1927) 12月21日、遷座祭、
昭和4年 最終的建築設計図も完成、
12月24日 本部より建築の許しを得、
昭和5年 7月11日起工式、
12月11日には 上棟式が挙行された。

昭和6年(1931) 10月9日
2代真柱によって 鎮座祭が執り行なわれ、
翌10日 落成奉告祭が盛大につとめられた。

参拝者宿泊所の一つとして 下谷公会堂 (現台東区役所) 等を借り、
当日支給の弁当は 23,000個という盛況であった。

この時、
韓国からも 種々の困難の中を 27名の韓国人が参拝した。

この復興建築と並んで蒔かれた 海外布教の種は、
昭和7年(1932) 10月 内鮮同慶会と、
同6年初めに 単身台湾に渡り 布教をした 五百部安次郎が、
同9年12月に それぞれ教会を設立し、
更に 同8年 大連布教事務所の開設、
また 上海在住の 大塚野布の中国大陸布教
の姿となって 芽生えた。

本部において、
昭和8年(1933) に 教祖殿、翌9年 10月に神殿・南礼拝殿が落成し、
その2度にわたる奉告祭に、
東も 全国から、また韓国、中国からも大挙しておぢばに参拝し、
詰所は 増築も間に合わず、
天幕張りの 急造の宿舎で 参拝者を受け入れた。

昭和11年(1936) 教祖50年祭には、
詰所も 更に 増改築をしたが、
なお 三島公会堂を借りて宿舎とし 盛況裡に年祭期間をつとめた。

立教百年祭を目前に控えた 昭和12年 4月10日、
大教会で 2代真柱により
天理教 設立50年記念祭が盛大につとめられ、
同年11月28日の 立教百年祭には、
日華事変のさ中ではあったが、
各地から 多くの人々が おぢばに参拝した。

こうした動きの中で、
同年12月3日
初代会長夫人 上原つねが 73歳で出直した。

昭和15年(1940) 1月、
諭達 第8号で 教会制度の改革が発表され、
牛込、深川、浅草の各分教会が 分離昇格する事となり、
東大教会で 4月10日、
3大教会 昇格の 奉告祭が執行された。

この時までの部内教会数は 433ヵ所であったが、
これで 64カ所となった。

昭和12年(1937) 7月勃発した日華事変に続き、
同16年12月に突入した太平洋戦争は、
教団にも 大きな制約となって 影響した。

戦火の進むにつれて、
東京をはじめ、各地が空襲に遇い、多くの部内教会が戦災をうけ、
同20年 1月には 大教会も被爆したが、
火災に至らず、損害も軽微であった。

終戦後〜昭和20年代

終戦の翌年、
昭和21年(1946) 1月26日から 2月18日まで、
おぢばで 教祖60年祭が 執行された。

この祭典期間中の 2月1日、
2代会長夫人 上原るいが出直した。 

昭和27年(1952) 4月 教祖70年祭が発表され、
これにともない 東詰所も 移転をすることになり、
同29年 12月までに 豊井町55番地への移転が 殆んど完了した。

昭和29年 6月、
同15年以来 中止になっていた 大教会連絡報「このみち」が
「東 大教会報」の名称で発刊され、
文書活動の一端として
今日まで毎月、おちばの動き、大教会の連絡 或いは 部内教会の情報を流し、
254号(昭和52年3月) に及んでいる。

同29年(1954) 7月、
本部より発表された 第1回 こどもおぢば帰りが行われ、
毎年 大勢の子供が参拝して 今日に及んでいる。

昭和30年代以降〜昭和50年代

昭和32年には
教祖80年祭に向かう 第一歩として
15ヵ所の部内教会が 新設された。 

同年(昭和32年)4月26日、
3代会長に 上原義輝が就任、
新しい 東の道が 踏み出された。

戦災教会あり、海外よりの引揚教会もあり、
決して 充分な姿ではなかったが 新設の15カ所の教会を擁し、
まさに 2代から3代に移るに相応しい 成人の道であった。

同(昭和32年)10月20日 大教会に
2代真柱代理として、真柱後継者 中山善衛(現真柱 ※編者註=『天理教事典』1977年版出版当時 )の臨席を得て、
3代会長 就任奉告祭が盛大に執行され、
翌33年 2月、1,200名の慶祝記念団体が おぢばに参拝した。

昭和34年(1959) 1月 東 大教会史 編纂委員会が発足、
翌35年2月には 東 大教会 設立70周年記念の おぢば帰り団参が行なわれた。

昭和37年 (1962) 1月、
活動要項の一つとして「講」 の結成促進が発表され、
以後 今日まで 百数十の講が結成された。

同年(昭和37年)2月27日、
おぢばで 初代会長50年祭が執行され、
全国各地から 1,000余名の教信者がおぢばに参拝し、
折から進められていた「おやさとやかた」西棟の「ひのきしん」に参加。

また 3月11日 大教会で行なわれた 50年祭には
分離大教会からも 多数の参拝者があり、
遠く韓国からも 追悼詞が寄せられた。

昭和38年(1963) 1月20日
「東大教会史第1卷」が刊行され 部内教会に配布された。 

昭和40年8月1日、
地番変更により 北稲荷町40番地は 東上野5丁目3番14号と改まり、
部内教会の地番にも 変更が多く、
教祖80年祭の記念事業の一環として、
同年(昭和40年)10月『大教会名称録』を刊行した。 

昭和41年(1966) 
おぢばでは 教祖80年祭がつとめられ、
大教会では 部内30有余の団体参拝者を 詰所に受け入れるため、
1年以上も前から その準備に万全を期し、
期間中 5,000余名の参拝者を 受け入れた。

翌 昭和42年 3月19日、
大教会に 1,000名の会員が参集、
「よのもと会 東会」の結成総会が 盛大に開催され、
「よふぼく」の決意と誓いを 新たにした。

同年(昭和42年)11月、
2代真柱の出直しを機に 海外布教の推進が図られ、
韓国、台湾との往来も追々密となり、
昭和43年には
東南アジア、ハワイへ 青年会員が布教研修に派遣された。

昭和43年(1968) 3月、
大教会 設立80周年記念事業として、
信者用付属建物の起工式が執行され 9月に完成した。

同年(昭和43年)3月31日、少年会東団 結成総会、
5月16日 東支部では 婦人会長を迎え 総会を行い、
9月1日には 青年会女子青年合同の 若木大会が開かれた。

10月20日、3代真柱の臨席のもとに、
大教会 設立80年記念 よのもと会総会が開催され、
教会は 参会者の人波に埋まった。

昭和45年(1970) 11月から12月にかけ、
部内教会長を対象に、
教理を治め 自覚を新たにする目的で、
「教会長研修会」を 11会場で催し、
翌 46年には「教会長夫人研修会」を開催、
教祖90年祭に向かう 心づくりの第一歩をしるし、
同48年 7月から 再度「教会長研修会」を行い、
教会長の決意を促した。

昭和47年 12月20日、
老朽化した会長宅を新築し、従来の付属屋の中に 客間を改築した。
旧会長宅の跡地には 駐車場が設けられた。

教祖90年祭に向かう途上の 昭和46年6月3日、
戦中、戦後の苦難の中を通って来た韓国大邸に、テグ教会が新設され、
昭和49年 2月26日、
吾妻長崎分教会が 長崎に新設され、
初代会長が 教祖から頂いたお言葉が 生かされる旬を見た。

〔現住所〕〒110-0015 東京都 台東区 東上野 5丁目3番14号
〔電話〕03-3841-4814

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,20~23 )

おわりに

天理教東大教会ストリートビュースクショ②
Googleストリートビューより

天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

7回目の 今回は、
「東 大教会」の歴史をなぞりました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【初版=1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています。

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】7回目の今回は、
『天理教事典』の中の
「東 大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、
今回も、また 知らないことばかりでした。

おやさまが現身をお隠しになられた後、
東京でようやく天理教会の公認を受けることが出来たという話は、
私も知っていたのですが、
天理教として「初めて」認可を受けた教会所が【おぢば】に移転した
その跡地が
「東 分教会所」となり、
それが 現在の「東 大教会」につながっている
と いうわけなのですね。

全く知りませんでした。

本文中に出てきた、
上原義彦 2代会長が 関東大震災からの復興にあたって
部内に向けて 高らかに発した 以下の号令――

「我が 東大教会は
明治21年 天理教会本部が 初めて公認をうけた 由緒ある教会にして、
本教が 公然と社会に打って出た道の源流である。
関東における大教会にして 帝都の中央に位置する天理教の 代表的建築物としたい。」

「東 大教会」誕生に到る経緯を学んだ上で、その号令に触れると、
迫力に満ちた 上原義彦先生の掛け声の意味合いが、よく理解できる思いが致します。

国家権力からの迫害を受けていた「天理教」。
その迫害を避けるために、
明治21年、東京で「初めて」公認を受けることが出来た。

その、初めて公認を受けた教会の流れを引き継いでいるのが、
今の「東大教会」。

とするならば、

さまよい人
さまよい人

「東 大教会」は
天理教の教会番号1番に値する!

詳しい背景事情を よく知らない私は、
単純に そんなふうに 思ってしまったのでした。

しかし、教会番号については、
ただ単に【名称】が認可された順番に過ぎないのでしょうし、
まぁそれに、
教会番号が何番目かなどということなど、どうでも良いことだと言われればその通りですし…

いずれにしても、
「東 大教会」は、
天理教 教会本部 誕生の上で 非常に重要な役割を果たした教会であり、
東京におけるお道の嚆矢となった存在である
ということは間違いない‼

そのことを、今回の書写学習によって よく理解することができました。

GoogleMapより

ちなみに、
今回の記事作成にあたって、ネット検索する中で、
「東大教会」の歴史について分かり易くまとめて下さっている記事を見つけましたので、
紹介させて頂きます。
(喜び勇んでブログ管理人『ねがい』さん、お借りします。ご了承下さい <m(__)m>
喜び勇んでブログ天理教教会辞典 東大教会 あづまだいきょうかい 👇

今回の私の記事より、よほど分かり易いです(笑)

今回もまた、
今まで知らなかった 多くのことを知ることが出来て、
とても 勉強になりました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで 今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返る ということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「東 大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

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